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船を修理し、新しい船乗りを迎え入れたところで、そろそろ本題に移らなくてはならない。
次の行き先を決める話し合いをするときには、航海士、掌帆長、船医、その他特別な技能を持つ者を食堂に集めて夕食を取ることになっている。ここにきて、フーヴァルはいつもの面々にゲラードを加えた。本当ならヘインズもそこに含まれるのだが、彼女は他人と食事をとるのを好まないので、無理強いはしない。
「いまのところ、有力な情報はない」
幽霊船団〈嵐の民〉は、何者かに操作されているというのが、フーヴァルが立てた仮説だった。シルリク王をダシに使って連中をおびき寄せ、人を襲わせている者がいるのだ。
「幽霊どもは金や船には手をつけない。魂さえ手に入りゃ満足だからな」フーヴァルが言った。
「いままでの被害者の数を見れば、いまごろは死体を満載した船が大蒼洋中を漂流していてもおかしくない」掌帆長のルーが、猪肉を棍棒のように振りつつ言う。
マクレガンが頷いた。「でも、そうはなっていない」
フーヴァルは、拳でテーブルを叩いた。「つまり、どこかの誰かが宝と船を横取りしてやがるってことだ」
「この五年かそこらで、百艘ちかい船がやられてる」アーナヴは言った。「艤装をいじって売り払うにしても、かなりの数を捌いていることになる」
奪った船の船名や装飾を変え、別の船に仕立ててから横流しするのは海賊にとっては旨味のある商売だ。船一隻つくるのには膨大な金と時間がかかる。何しろ、船材に適した形の木を育てるところからはじめなくてはならない。たとえオンボロ船でも、少しでも安く手に入るなら、元が何であれ気にしない買い手は大勢いる。
「最初のうちは一年に二艘かそこらだった。それがこの二、三年で何十倍にもなってるもんな」
「手広く商売してやがる」フーヴァルは言った。
「自由に使える港か島を持っているでしょうね」バウワーが言った。「交易による船の出入りがそれほど激しくなく、周りに大きな都市がないような場所に」
一同が、それもそうだと頷いた。
そんな中、ゲラードがおもむろに口を開いた。
「僕は、黒幕はナドカの歴史に詳しい者だと思う」どこか上の空で、思い付いたままを話しているようだ。「と言うよりも、ほとんど内通者と言ってもいいほど事情に通じた誰か」
それから、全員の目が自分に注がれていることに気付いて、気後れしたかのように付け足した。「もちろん、僕の推測に過ぎないけれど……」
「続けてくれ」
フーヴァルが促すと、ゲラードはおもむろに話しはじめた。
「シルリク王の姿を呼び出せば、〈嵐の民〉がやってくる──これは、シルリク王と売国奴ビョルンの物語を知らなければ思い付かない戦術だ」
彼はテーブルに置いた指を、まるで自分にしか見えない走り書きをするように動かしつつ、話を続けた。
「さっき、そこにある海図を見て不思議に思った。緑海の瘴気が晴れたのは五年前の春だ」
ゲラードは、食堂の壁に掲げていた海図を見た。大蒼洋中に記された×印と、日付。「あの目撃情報の中で、最も古いものは?」
バウワーが読み上げた。「一三六六年の樫の月の十八日だ」
ゲラードはわずかに唇を噛み、視線を手元に落として考え込んだ。
「城にいた頃、海上防衛に関する報告書をいくつか読んだ」考えを整理するように、指先でテーブルをコツコツと叩く。「その中では、シルリクと〈嵐の民〉の一番古い目撃情報は、一三六五年の冬、庭常月の七日だった。被害に遭ったのはマルディラの商船、カタリナ号」
アーナヴはハッと目を見開いた。
「一三六五年の冬は……エイル復活の半年前か」
クヴァルドとヴェルギルが、エダルトの行方を追ってダイラ中を渡り歩いていた頃だ。
皆が、愕然とした表情をしていた。
ゲラードは頷いた。
「その時期に、ヴェルギルがシルリクであることを知っていた者は、ほんの一握りだったんじゃないだろうか」
ならばどうやって、その黒幕は、シルリクそっくりの幻影を呼び出すことができたのか?
「こいつは」フーヴァルは、皿の上の猪肉にナイフを突き立てた。「面白いことになってきやがったな」
海を漂流するゴミが行き着く場所として、最も有名なのがイサス・ボテラ──通称『瓶の島』だ。その昔、この島を見つけた船乗りが、浜辺に打ち寄せられた無数の酒瓶を見て名付けたと言われているが、たぶん嘘っぱちだろう。
それでも、イサス・ボテラが『瓶の島』の面目を損なうことはなかった。この小さな島では毎日、ダイラ中をあわせたよりも沢山の酒瓶が空になる。
イサス・ボテラは、一言で言えば無法地帯だ。極の海の近海を縄張りとする海賊や、亡命者、金のためなら何でもこなす無法者どもの掃きだめであり、同時に、金さえあれば何でも手に入る夢の島でもある。情報についてもまた然り。
〈嵐の民〉を操っている者がいて、そいつが船や船荷を余所へ流しているのだとしたら、そういう噂はまず間違いなくここにも届いているはずだ。
イサス・ボテラはどこの国にも属していないが、元締めは存在する。島の者から親父と呼ばれるイグナシオ・パドロンがそれだ。彼の住まいは、島に上陸する前から見分けることができる。港を見下ろす高台の一番目立つ場所に建つ、島で唯一の純白の建物だからだ。彼はそこに、三人の妻と十五人の子供と一緒に住んでいて、深く見知った者以外には屋敷の門を潜らせない。その邸宅の中は、オルノアの伝説に関わるものの博物館の様相だという。親父もまた、あの海底王国の伝説に取り憑かれた夢追い人の一人なのだ。
オチエンは彼と旧知の仲だったが、フーヴァルはあえて親交を深めようとは思っていない。ただ、あちらにしてみればなき朋友の秘蔵っ子という認識のようだ。フーヴァルの船が、ここの港から停泊料を請求されたことはなかった。
錨を降ろし、港に降り立つと、懐かしい喧噪に包まれた。何千人という酒飲みががなり立てる声、発情期の猫みたいな歌声、怒声、金切り声、酒瓶や皿が割れる音。サウゼイもそれなりに下品な街ではあるが、イサス・ボテラの奔放さに比べたら貴婦人に等しい。
荷の積み下ろし場から通りを一本隔てたところには春を売る者たちがずらりと並んでいた。彼らは船から降りた乗組員を見るやいなや、ドレスの裾を持ち上げたり、股間のものを撫で回したりして秋波を送ってきた。
「これぞ、イサス・ボテラ!」と、誰かが感慨深げに呟いた。
動き出すのは明日からと通達しておいた。乱痴気騒ぎに興味のない数人を守錨当直員として船に残し、あとは全員が街に繰り出す。港につく度、それまでの働き分の給金を渡す決まりだ。すでに何人かがお目当ての相手を捕まえて、いざ有り金使い果たさんと暗がりに消えていた。
傍らのゲラードは、思った通り目を白黒させている。
フーヴァルは言った。「ま、社会勉強だと思って楽しむんだな」
楽しめるかどうかはさておき、ゲラードは魅せられたようにあちこちを見回していた。
決めてあるのはいざというときの集合の合図だけだから、皆思い思いの場所で夜を過ごす。だが、頭に『カモです』という看板をおっ立てたようなゲラードを一人で置いておくわけにはいかない。
「おい、俺から離れるなよ」
「その方が良さそうだ」ゲラードは弱々しく微笑んだ。「こういうところに来ると、羽を伸ばせる?」
「いいや」フーヴァルは頬を掻いた。「ろくでなしだらけだから、気が休まらねえ。それに……」
言うつもりがなかったことを言いそうになる。誤魔化す前に、ゲラードが耳ざとく聞きつけた。
「それに?」
フーヴァルは肩をすくめた。
「ガキの頃を思い出す。それだけだ」
「君にも子供の頃があったのかと思うと、不思議な気分になるね」ゲラードはクスリと笑った。
「酒を奢ってくれるなら、話してやってもいいけどな」
ゲラードの目が、きらりと光る。
その時、マリシュナ号から最後の一人──オーウィンが降りた。積み荷の状態と、あとに残るものの報告を受けてから、早く出かけたくてそわそわしているのを隠しきれていないオーウィンの尻を蹴飛ばして、夜の街に送り出してやる。
「俺たちも飯にありつくか」
するとゲラードは、ああ、とかもちろんとか言うようなことをぼんやりと呟いた。その目は、たったいますぐ隣の船から降ろされたばかりの巨大な像に釘付けになっている。
その像の象徴するものは男根、あるいは勃起、またはそれに付随する諸々の何かなのだろう。いちおう帆布で包んではあったが、短い足の付け根からそそり立つモノは身長の半分以上のデカさを誇っている。布で包んであるにはあるが、あまりに巨大なせいで、輪郭をまったく隠しきれていない。通りすがりの何人かが、像を指さして馬鹿みたいに笑っていた。
「あれは……何に使うものだろう?」
ゲラードの青い目が好奇心に冴えている。
「さあな。おおかたどっかの遺跡から盗掘してきたんだろ。ああいう珍しいもんを欲しがる連中はいくらでも金を出すからな」
「盗掘?」途端に、彼の表情は曇った。「ああ、通りで……」
今度はフーヴァルが好奇心に駆られる番だった。「どおりでって、何がだ?」
ゲラードは言葉を探しながら息を吸い込んだが、結局、曖昧なため息をついて言った。
「なんだか、生気がないように見えたから」
「生気がない、ねえ……」
フーヴァルは、荷車に乗せられ、男四人がかりで運ばれてゆく像を見た。彼の男根は、文字通り石のように硬く崛起している。
「気落ちしているというか……」ゲラードは自分の説明が伝わっていないどころか、まったく逆のことを強調していることに気付いて、わずかに頬を赤らめた。「いや、気にしないでくれ」
だが、フーヴァルには何かが引っかかった。
「ものの状態をただ見る以上に深く見るってのは──どうも魔女じみてるな」
フーヴァルはゲラードの顎を掴んで、顔を自分に向けさせた。
「な、なんともないよ。平気だ」
ゲラードはドギマギしながら、顔を背けようとする。そのせいでよく見えなかったが、銀色の欠片のようなものが、瞳の奥に消えていくのを見たような気がした。
何だ、今のは?
「僕はもう二十七だ。魔力が目覚めるには遅すぎるだろう」
確かにそうだ。だが、彼につきまとった妖精の取り替え子という噂が、どうにも気に掛かる。しかし、それ以上考える前に、ゲラードは顔を背けて街の方へと歩き出してしまった。
「おい! 一人じゃ危ないぞ!」
「大丈夫だ!」
振り返りもせずに、足早に行ってしまう。その背中に、フーヴァルは叫んだ。
「俺の名前で、〈燃える雄鶏〉亭に部屋を取っとけ!」
「了解、船長!」
投げやりな返事ではあったが、とりあえず、最後に落ち合う場所は押さえることができた。
さすがに、この島に上陸してほんの数刻で面倒に巻き込まれるようなことはないだろうと自分に言い聞かせながら、慌ててあとを追わないように自制心をかき集める。
「いくら何でも、過保護すぎるんじゃない」
振り向くと、オグウェノ・ドーソンがいた。フーヴァルに呆れたような目を向けている。
「お前は船に残るはずだろ」
「買い物だけ済ませておきたくてさ」そう言って、手にした篭を示す。「夜のうちに薬種屋が死んでたなんてことになったら困る。ここは入れ替わりが激しいから」
「ああ……確かにな」
フーヴァルはあたりを見回した。
港に積み上げられた船荷に寄りかかってたむろしている男たちに目をとめる。無遠慮に注がれる胡乱な視線。フーヴァルが気付くのを待っていたようなそぶりだ。彼らの手には、ここのところ各地の港でよく見かけるようになった、手とランタンの刺青があった。〈燈火の手〉──〈燈火警団〉の残党や、連中に共感した有象無象が名乗っている、反人外組織の印章だ。そのうちの一人──髪をきれいにそり上げた男が、フーヴァルに視線を据えたまま、地面に唾を吐いた。
歩きはじめたオグウェノの後ろについていくと、オグウェノは振り返り、フーヴァルをじろりと見た。
「俺は一人で平気だよ」
「ついでだから付き合ってやる」フーヴァルは言った。「荷物持ちがいるだろ?」
すると、彼は肩をすくめて「それもそうか」と言った。
石畳が敷かれた通りに入ると、潮の香りは、食欲をそそる食べ物の匂いにとって代わられた。開け放たれた酒場の窓や、軒先から漂う美味そうなにおいが、漁り火よろしく船乗りたちを引き寄せる。港から陸へと無秩序に建設されていった酒場や宿屋、その他数多くの商店は、突貫工事のすえに出来上がった歪な壁同士、危うい均衡を保ちつつ寄り添っている。どの窓からも明かりと賑やかな声が溢れ──半分はわめき声だが──船乗りたちが寄る辺ない海原で味わった心細さを、ほんのひと時忘れさせてくれる。
イサス・ボテラよりさらに南には極の海が広がっている。極の海は人間の侵入を滅多に許さないが、それゆえに密輸船の航路としては最適だ。極の海のすれすれを航行する危険を冒せば、誰に見咎められることもなく一財産築けることだってある。
そうして大陸の東からもたらされた珍味や宝は、このあたりの島々に多く集まる。貴族たちが喉から手が出るほど欲しがっている香辛料や果物は一度ここで取り引きされ、すでに高価な値がついているところに、さらに法外な値段を上乗せされて北に運ばれる。
フーヴァルは、露天商が籠に山積みにしている、茶色の皮の果物を三つ買った。星林檎は北では宝石よりも高い値段で売買されるが、ここではせいぜい普通の林檎の十倍出せば手に入る。オグウェノは果実ではなく、乾燥させた葉や樹皮の方に用があるらしいが。
そんな調子でいくつか買い物を済ませた頃、オグウェノが言った。
「いつになったらエイルに戻る?」
「帰りたいか?」
オグウェノは肩をすくめた。「そりゃあ、そうさ。今じゃあそこが家だし」
そういう言葉を、彼の口から聞けるのは嬉しかった。
「その家を守るために、もうしばらく辛抱してくれ」
「わかってる」オグウェノは言った。
「あの国こそ、オチエンの夢だ」
ナドカと人間が同じように生きていける場所──それは、オチエンが彼の船の上で実現していたことだった。どちらかが一方に服従を強いることも、命令することもない。人間は人間にできることを、ナドカはナドカにできることをする。
エイルは、まだ頼りない船だ。そこら中から浸水するし、帆も弱々しい。いつ沈んでもおかしくない。
「邪魔をする奴は、何としても俺が片付ける」
「わかってるって」オグウェノは微笑んだ。「だから、あんたについてきたんだ」
フーヴァルはニヤリと笑って、師の息子の肩を抱いた。
「お前がいなかったら、エイルもマリシュナもお先真っ暗だ」
オグウェノはハハハと笑った。
港に向かう道を戻り、桟橋まで来たところで、彼が言った。
「あの新入りのこと、本当に好きなんだね」
不意打ちを食らわされて、フーヴァルは危うく前につんのめりそうになった。
「何を──」
オグウェノはフーヴァルの顔を一瞥し、見ちゃいられないと言うように首を振った。
「わかるよ、だって今まであんたが連れ込んだ相手とは全然違う手合いだ」それから、思い出したように付け加える。「いや、失恋してから連れ込んでた相手、か。忘れようとしてるのが見え見えでさ……」
「うるせえな!」
フーヴァルは唸って、オグウェノの首根っこを掴んだ。それから、身を捩って逃げようとする彼を、船に向かって押し出した。
「ガキはさっさと寝ちまえ!」
彼は振り向いて笑った。「俺のことをガキだと思ってるのは、あんただけだよ」
船を修理し、新しい船乗りを迎え入れたところで、そろそろ本題に移らなくてはならない。
次の行き先を決める話し合いをするときには、航海士、掌帆長、船医、その他特別な技能を持つ者を食堂に集めて夕食を取ることになっている。ここにきて、フーヴァルはいつもの面々にゲラードを加えた。本当ならヘインズもそこに含まれるのだが、彼女は他人と食事をとるのを好まないので、無理強いはしない。
「いまのところ、有力な情報はない」
幽霊船団〈嵐の民〉は、何者かに操作されているというのが、フーヴァルが立てた仮説だった。シルリク王をダシに使って連中をおびき寄せ、人を襲わせている者がいるのだ。
「幽霊どもは金や船には手をつけない。魂さえ手に入りゃ満足だからな」フーヴァルが言った。
「いままでの被害者の数を見れば、いまごろは死体を満載した船が大蒼洋中を漂流していてもおかしくない」掌帆長のルーが、猪肉を棍棒のように振りつつ言う。
マクレガンが頷いた。「でも、そうはなっていない」
フーヴァルは、拳でテーブルを叩いた。「つまり、どこかの誰かが宝と船を横取りしてやがるってことだ」
「この五年かそこらで、百艘ちかい船がやられてる」アーナヴは言った。「艤装をいじって売り払うにしても、かなりの数を捌いていることになる」
奪った船の船名や装飾を変え、別の船に仕立ててから横流しするのは海賊にとっては旨味のある商売だ。船一隻つくるのには膨大な金と時間がかかる。何しろ、船材に適した形の木を育てるところからはじめなくてはならない。たとえオンボロ船でも、少しでも安く手に入るなら、元が何であれ気にしない買い手は大勢いる。
「最初のうちは一年に二艘かそこらだった。それがこの二、三年で何十倍にもなってるもんな」
「手広く商売してやがる」フーヴァルは言った。
「自由に使える港か島を持っているでしょうね」バウワーが言った。「交易による船の出入りがそれほど激しくなく、周りに大きな都市がないような場所に」
一同が、それもそうだと頷いた。
そんな中、ゲラードがおもむろに口を開いた。
「僕は、黒幕はナドカの歴史に詳しい者だと思う」どこか上の空で、思い付いたままを話しているようだ。「と言うよりも、ほとんど内通者と言ってもいいほど事情に通じた誰か」
それから、全員の目が自分に注がれていることに気付いて、気後れしたかのように付け足した。「もちろん、僕の推測に過ぎないけれど……」
「続けてくれ」
フーヴァルが促すと、ゲラードはおもむろに話しはじめた。
「シルリク王の姿を呼び出せば、〈嵐の民〉がやってくる──これは、シルリク王と売国奴ビョルンの物語を知らなければ思い付かない戦術だ」
彼はテーブルに置いた指を、まるで自分にしか見えない走り書きをするように動かしつつ、話を続けた。
「さっき、そこにある海図を見て不思議に思った。緑海の瘴気が晴れたのは五年前の春だ」
ゲラードは、食堂の壁に掲げていた海図を見た。大蒼洋中に記された×印と、日付。「あの目撃情報の中で、最も古いものは?」
バウワーが読み上げた。「一三六六年の樫の月の十八日だ」
ゲラードはわずかに唇を噛み、視線を手元に落として考え込んだ。
「城にいた頃、海上防衛に関する報告書をいくつか読んだ」考えを整理するように、指先でテーブルをコツコツと叩く。「その中では、シルリクと〈嵐の民〉の一番古い目撃情報は、一三六五年の冬、庭常月の七日だった。被害に遭ったのはマルディラの商船、カタリナ号」
アーナヴはハッと目を見開いた。
「一三六五年の冬は……エイル復活の半年前か」
クヴァルドとヴェルギルが、エダルトの行方を追ってダイラ中を渡り歩いていた頃だ。
皆が、愕然とした表情をしていた。
ゲラードは頷いた。
「その時期に、ヴェルギルがシルリクであることを知っていた者は、ほんの一握りだったんじゃないだろうか」
ならばどうやって、その黒幕は、シルリクそっくりの幻影を呼び出すことができたのか?
「こいつは」フーヴァルは、皿の上の猪肉にナイフを突き立てた。「面白いことになってきやがったな」
海を漂流するゴミが行き着く場所として、最も有名なのがイサス・ボテラ──通称『瓶の島』だ。その昔、この島を見つけた船乗りが、浜辺に打ち寄せられた無数の酒瓶を見て名付けたと言われているが、たぶん嘘っぱちだろう。
それでも、イサス・ボテラが『瓶の島』の面目を損なうことはなかった。この小さな島では毎日、ダイラ中をあわせたよりも沢山の酒瓶が空になる。
イサス・ボテラは、一言で言えば無法地帯だ。極の海の近海を縄張りとする海賊や、亡命者、金のためなら何でもこなす無法者どもの掃きだめであり、同時に、金さえあれば何でも手に入る夢の島でもある。情報についてもまた然り。
〈嵐の民〉を操っている者がいて、そいつが船や船荷を余所へ流しているのだとしたら、そういう噂はまず間違いなくここにも届いているはずだ。
イサス・ボテラはどこの国にも属していないが、元締めは存在する。島の者から親父と呼ばれるイグナシオ・パドロンがそれだ。彼の住まいは、島に上陸する前から見分けることができる。港を見下ろす高台の一番目立つ場所に建つ、島で唯一の純白の建物だからだ。彼はそこに、三人の妻と十五人の子供と一緒に住んでいて、深く見知った者以外には屋敷の門を潜らせない。その邸宅の中は、オルノアの伝説に関わるものの博物館の様相だという。親父もまた、あの海底王国の伝説に取り憑かれた夢追い人の一人なのだ。
オチエンは彼と旧知の仲だったが、フーヴァルはあえて親交を深めようとは思っていない。ただ、あちらにしてみればなき朋友の秘蔵っ子という認識のようだ。フーヴァルの船が、ここの港から停泊料を請求されたことはなかった。
錨を降ろし、港に降り立つと、懐かしい喧噪に包まれた。何千人という酒飲みががなり立てる声、発情期の猫みたいな歌声、怒声、金切り声、酒瓶や皿が割れる音。サウゼイもそれなりに下品な街ではあるが、イサス・ボテラの奔放さに比べたら貴婦人に等しい。
荷の積み下ろし場から通りを一本隔てたところには春を売る者たちがずらりと並んでいた。彼らは船から降りた乗組員を見るやいなや、ドレスの裾を持ち上げたり、股間のものを撫で回したりして秋波を送ってきた。
「これぞ、イサス・ボテラ!」と、誰かが感慨深げに呟いた。
動き出すのは明日からと通達しておいた。乱痴気騒ぎに興味のない数人を守錨当直員として船に残し、あとは全員が街に繰り出す。港につく度、それまでの働き分の給金を渡す決まりだ。すでに何人かがお目当ての相手を捕まえて、いざ有り金使い果たさんと暗がりに消えていた。
傍らのゲラードは、思った通り目を白黒させている。
フーヴァルは言った。「ま、社会勉強だと思って楽しむんだな」
楽しめるかどうかはさておき、ゲラードは魅せられたようにあちこちを見回していた。
決めてあるのはいざというときの集合の合図だけだから、皆思い思いの場所で夜を過ごす。だが、頭に『カモです』という看板をおっ立てたようなゲラードを一人で置いておくわけにはいかない。
「おい、俺から離れるなよ」
「その方が良さそうだ」ゲラードは弱々しく微笑んだ。「こういうところに来ると、羽を伸ばせる?」
「いいや」フーヴァルは頬を掻いた。「ろくでなしだらけだから、気が休まらねえ。それに……」
言うつもりがなかったことを言いそうになる。誤魔化す前に、ゲラードが耳ざとく聞きつけた。
「それに?」
フーヴァルは肩をすくめた。
「ガキの頃を思い出す。それだけだ」
「君にも子供の頃があったのかと思うと、不思議な気分になるね」ゲラードはクスリと笑った。
「酒を奢ってくれるなら、話してやってもいいけどな」
ゲラードの目が、きらりと光る。
その時、マリシュナ号から最後の一人──オーウィンが降りた。積み荷の状態と、あとに残るものの報告を受けてから、早く出かけたくてそわそわしているのを隠しきれていないオーウィンの尻を蹴飛ばして、夜の街に送り出してやる。
「俺たちも飯にありつくか」
するとゲラードは、ああ、とかもちろんとか言うようなことをぼんやりと呟いた。その目は、たったいますぐ隣の船から降ろされたばかりの巨大な像に釘付けになっている。
その像の象徴するものは男根、あるいは勃起、またはそれに付随する諸々の何かなのだろう。いちおう帆布で包んではあったが、短い足の付け根からそそり立つモノは身長の半分以上のデカさを誇っている。布で包んであるにはあるが、あまりに巨大なせいで、輪郭をまったく隠しきれていない。通りすがりの何人かが、像を指さして馬鹿みたいに笑っていた。
「あれは……何に使うものだろう?」
ゲラードの青い目が好奇心に冴えている。
「さあな。おおかたどっかの遺跡から盗掘してきたんだろ。ああいう珍しいもんを欲しがる連中はいくらでも金を出すからな」
「盗掘?」途端に、彼の表情は曇った。「ああ、通りで……」
今度はフーヴァルが好奇心に駆られる番だった。「どおりでって、何がだ?」
ゲラードは言葉を探しながら息を吸い込んだが、結局、曖昧なため息をついて言った。
「なんだか、生気がないように見えたから」
「生気がない、ねえ……」
フーヴァルは、荷車に乗せられ、男四人がかりで運ばれてゆく像を見た。彼の男根は、文字通り石のように硬く崛起している。
「気落ちしているというか……」ゲラードは自分の説明が伝わっていないどころか、まったく逆のことを強調していることに気付いて、わずかに頬を赤らめた。「いや、気にしないでくれ」
だが、フーヴァルには何かが引っかかった。
「ものの状態をただ見る以上に深く見るってのは──どうも魔女じみてるな」
フーヴァルはゲラードの顎を掴んで、顔を自分に向けさせた。
「な、なんともないよ。平気だ」
ゲラードはドギマギしながら、顔を背けようとする。そのせいでよく見えなかったが、銀色の欠片のようなものが、瞳の奥に消えていくのを見たような気がした。
何だ、今のは?
「僕はもう二十七だ。魔力が目覚めるには遅すぎるだろう」
確かにそうだ。だが、彼につきまとった妖精の取り替え子という噂が、どうにも気に掛かる。しかし、それ以上考える前に、ゲラードは顔を背けて街の方へと歩き出してしまった。
「おい! 一人じゃ危ないぞ!」
「大丈夫だ!」
振り返りもせずに、足早に行ってしまう。その背中に、フーヴァルは叫んだ。
「俺の名前で、〈燃える雄鶏〉亭に部屋を取っとけ!」
「了解、船長!」
投げやりな返事ではあったが、とりあえず、最後に落ち合う場所は押さえることができた。
さすがに、この島に上陸してほんの数刻で面倒に巻き込まれるようなことはないだろうと自分に言い聞かせながら、慌ててあとを追わないように自制心をかき集める。
「いくら何でも、過保護すぎるんじゃない」
振り向くと、オグウェノ・ドーソンがいた。フーヴァルに呆れたような目を向けている。
「お前は船に残るはずだろ」
「買い物だけ済ませておきたくてさ」そう言って、手にした篭を示す。「夜のうちに薬種屋が死んでたなんてことになったら困る。ここは入れ替わりが激しいから」
「ああ……確かにな」
フーヴァルはあたりを見回した。
港に積み上げられた船荷に寄りかかってたむろしている男たちに目をとめる。無遠慮に注がれる胡乱な視線。フーヴァルが気付くのを待っていたようなそぶりだ。彼らの手には、ここのところ各地の港でよく見かけるようになった、手とランタンの刺青があった。〈燈火の手〉──〈燈火警団〉の残党や、連中に共感した有象無象が名乗っている、反人外組織の印章だ。そのうちの一人──髪をきれいにそり上げた男が、フーヴァルに視線を据えたまま、地面に唾を吐いた。
歩きはじめたオグウェノの後ろについていくと、オグウェノは振り返り、フーヴァルをじろりと見た。
「俺は一人で平気だよ」
「ついでだから付き合ってやる」フーヴァルは言った。「荷物持ちがいるだろ?」
すると、彼は肩をすくめて「それもそうか」と言った。
石畳が敷かれた通りに入ると、潮の香りは、食欲をそそる食べ物の匂いにとって代わられた。開け放たれた酒場の窓や、軒先から漂う美味そうなにおいが、漁り火よろしく船乗りたちを引き寄せる。港から陸へと無秩序に建設されていった酒場や宿屋、その他数多くの商店は、突貫工事のすえに出来上がった歪な壁同士、危うい均衡を保ちつつ寄り添っている。どの窓からも明かりと賑やかな声が溢れ──半分はわめき声だが──船乗りたちが寄る辺ない海原で味わった心細さを、ほんのひと時忘れさせてくれる。
イサス・ボテラよりさらに南には極の海が広がっている。極の海は人間の侵入を滅多に許さないが、それゆえに密輸船の航路としては最適だ。極の海のすれすれを航行する危険を冒せば、誰に見咎められることもなく一財産築けることだってある。
そうして大陸の東からもたらされた珍味や宝は、このあたりの島々に多く集まる。貴族たちが喉から手が出るほど欲しがっている香辛料や果物は一度ここで取り引きされ、すでに高価な値がついているところに、さらに法外な値段を上乗せされて北に運ばれる。
フーヴァルは、露天商が籠に山積みにしている、茶色の皮の果物を三つ買った。星林檎は北では宝石よりも高い値段で売買されるが、ここではせいぜい普通の林檎の十倍出せば手に入る。オグウェノは果実ではなく、乾燥させた葉や樹皮の方に用があるらしいが。
そんな調子でいくつか買い物を済ませた頃、オグウェノが言った。
「いつになったらエイルに戻る?」
「帰りたいか?」
オグウェノは肩をすくめた。「そりゃあ、そうさ。今じゃあそこが家だし」
そういう言葉を、彼の口から聞けるのは嬉しかった。
「その家を守るために、もうしばらく辛抱してくれ」
「わかってる」オグウェノは言った。
「あの国こそ、オチエンの夢だ」
ナドカと人間が同じように生きていける場所──それは、オチエンが彼の船の上で実現していたことだった。どちらかが一方に服従を強いることも、命令することもない。人間は人間にできることを、ナドカはナドカにできることをする。
エイルは、まだ頼りない船だ。そこら中から浸水するし、帆も弱々しい。いつ沈んでもおかしくない。
「邪魔をする奴は、何としても俺が片付ける」
「わかってるって」オグウェノは微笑んだ。「だから、あんたについてきたんだ」
フーヴァルはニヤリと笑って、師の息子の肩を抱いた。
「お前がいなかったら、エイルもマリシュナもお先真っ暗だ」
オグウェノはハハハと笑った。
港に向かう道を戻り、桟橋まで来たところで、彼が言った。
「あの新入りのこと、本当に好きなんだね」
不意打ちを食らわされて、フーヴァルは危うく前につんのめりそうになった。
「何を──」
オグウェノはフーヴァルの顔を一瞥し、見ちゃいられないと言うように首を振った。
「わかるよ、だって今まであんたが連れ込んだ相手とは全然違う手合いだ」それから、思い出したように付け加える。「いや、失恋してから連れ込んでた相手、か。忘れようとしてるのが見え見えでさ……」
「うるせえな!」
フーヴァルは唸って、オグウェノの首根っこを掴んだ。それから、身を捩って逃げようとする彼を、船に向かって押し出した。
「ガキはさっさと寝ちまえ!」
彼は振り向いて笑った。「俺のことをガキだと思ってるのは、あんただけだよ」
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