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控えめな、だが明らかに隠しきれていない好奇の視線はすぐに消えたものの、二日酔いはそうはいかなかった。頭を動かす度に頭蓋骨の中に反響する鈍痛と、皮膚の下に綿が挟まったような不快感は、その日の仕事──脚荷を砂浜に並べて洗う作業──が終わったあとにも残り続けた。
作業中にジェンキンズがいみじくも言った『まるで水死体のような顔』という言葉が本当なら、皆がゲラードをそっとしておいてくれたのにも納得がいく。ただ、ゲラードをこんな状態にしたのが船長の無体な抱き方のせいなのか、それとも酒のせいなのかは人によって意見が分かれているようだ。あえて真実を提供するつもりもないけれど。
ゲラードは眼球を突き刺すような日光を避け──フーヴァルと顔を合わすのが気まずかったせいもあって──砂浜のすぐ傍にある洞窟へと避難した。
洞窟はひんやりと湿っていた。最奥にある泉のあたりは、さらに涼しく過ごしやすい。手が届かないほど高い洞窟の天上には穴があいていて、そこから滝が降り注いでいた。鬱蒼と生い茂る羊歯や木の葉に覆われて空は見えないものの、滝の水と木漏れ日とが混ざり合って水面にこぼれ落ち、洞窟の壁面に光の波紋を投げかけていた。とても素朴でありながら、同時に静謐な雰囲気に包まれたところだ。
この場所は、どんな筆でも描ききれない。
驚くほど冷たい泉の水を飲み、岩陰に腰を下ろす。日はまだ高く、頭上の穴からは盛んに鳴き交わす野鳥の声が聞こえてきた。
湿った岩肌に頭をもたせかける。だが目を閉じても、頭の中はちっとも休まらなかった。
気晴らし、と彼は言った。
そう、気晴らし。否定してみたところで、意味はない。あれは確かに気晴らしとしか言い表すことができないものだった。
だから……終わるときもあっけなかったのだ。
婚約が決まったと彼に告げたのは、三年前の初夏のことだ。
いつものように、彼は城の厨房に忍び込み、我が物顔でワインを呷っていた。フーヴァルはどういうわけか、王都いち厳重に警備されているはずの王城の厨房に、すっかり受け入れられていた。おそらく料理長との間に何らかの密約があったのだろうが、詳しく尋ねはしなかった。そうでなくても、彼は厨房で働くほぼ全員に気に入られていた。だから彼がワインを手にしているときには、すぐ傍にチーズやパンがあるのは日常茶飯事で、時には果物や、ちょっとした料理まで並んでいることもあった。
表から入ったところで拒否される身分ではないのに、彼はいつでも、そうして裏口から城に忍び込んだ。
厨房は、城の北棟にある。北棟は、使用人や調理人、厩番などの出入りは頻繁だけれど、服を汚したくない身分のものは滅多に近づかない。物置として使われている埃っぽい部屋がいくつもあり、中には、先々代の王が使っていた寝台がしまい込まれている部屋もある。逢い引きにはうってつけだ。
申し訳程度に埃を払った豪華な寝台と、使用人用の蝋燭が照らし出すわずかな空間だけが、ゲラードが、自分というものの存在意義を考えずに息ができる場所だった。
あの日、ゲラードは怯えていた。婚約が決まったことを話したら、彼はどう反応するだろう、と。
憤るだろうか。それとも……悲しむそぶりを見せるところは想像できないから、やっぱり、彼は怒るだろう。
彼の怒りを目の当たりにするのは苦しい。だが彼はそうすることで、ゲラード自身が表現することができない無念まで燃やしてくれる。今回もそうなるはずだと思っていた。だが、フーヴァルの反応は予想とは違っていた。
「へえ。じゃあ、お楽しみもこれで終わりだな」
それだけだった。
その瞬間に身を焼いた羞恥の熱と言ったら。
この時間を特別な何かだと思っていたのは自分だけ。相手を特別な存在だと思っていたのも自分だけだった。
だが、当然のことではないか。よくよく考えるまでもない。これは賭けで手に入れた関係なのだ。フーヴァルにとっては……負債でしかない。それから解放されるのだから、わざわざ惜しむはずもない。
「ああ、そういうことになる」
ゲラードは傷心を隠した。痛みを手放すことにかけては……それだけは、人より多少上手くやれる自信があった。
「その相手ってのは、美人か?」
なんでそんなことを聞く? と言い返しそうになったが、堪えた。
「会ったことはないが、噂は耳にするよ」
フーヴァルは冷やかすように口笛を吹いた。「うまくやったな」
もはや心は何も感じなくなっていた。空虚な愛想笑いをして、「そうだな」と答える。
「以前のように頻繁にはエイルに行くことができなくなるだろう。結婚、したら」その言葉は、まるで喉を塞ぐ巨大な塊のようだ。「王港の整備と海軍の強化に携わることになりそうだ」
「そいつは残念」フーヴァルは言った。「クソみてえに退屈な仕事だな」
「ああ」ゲラードは苦笑した。「港に縛られるのは、辛いだろう」
するとフーヴァルはゲラードに身を寄せ、ほんのわずかに首をかしげて、顔を覗き込んできた。
「とんずらこいちまうって手もあるんだぜ。俺と」
彼の手がそっと伸びてきて、顎に触れる。海の苦難を知り尽くした硬い指先が、顎の線を辿った。
「お前が望むなら、攫ってやるよ。海賊らしくな」
その言葉に、どれだけ縋りたかったか。だが、ゲラードは笑い飛ばした。
「それで、身代金をせしめてから追い出すんだろう?」
笑い飛ばすしかなかった。弱々しく情けを乞う者を、彼が愛するはずがない。それを理解できる程度には、彼のことを知っていた。
フーヴァルはほんの一瞬だけゲラードの顔に視線を留めていたけれど、すぐに肩を震わせて笑い出した。
「王子様にしとくにゃもったいないぜ、ほんと」
それが、ふたりの終わりだった。
あのあと、最後の訪問のつもりでエイルへ行く船で顔を合わせたときには、ふたりはもう友人同士でさえなかった。互いが抱えたわだかまりが盾のように立ちはだかって、本心を隠し、面と向かって言葉を交わすことさえ難しくしていた。
その年の冬に仮面舞踏会で再会し、クソ馬鹿野郎と面罵されたのを最後に、三年が経った。
彼はゲラードにとって、初めてできた気の置けない友人であり……恋人でもあった。フーヴァルは、自分を取り囲む状況を笑い飛ばして、ゲラードには決して口にできない悪態で貶してくれる。王の周りの世界しか知らなかったゲラードに、新たな視点、新たな可能性を示してくれる存在だった。一度、誰かに心をさらけ出してしまったあとの孤独は堪えた。ゆっくりと溺れてゆくようなあの三年間を生きるのは……辛かった。本当に辛かった。
だからといって、気晴らしなどという誘い文句に乗ってしまった自分の軽率さが罪にならないわけではない。
俺たちの関係なんて、最初から気晴らしみたいなもんだっただろ、と彼は言った。
でも、もし彼が間違っていたら?
もしこれが、気晴らし以上の関係だったら、僕らの間にはなにがある?
「何も」ゲラードは呟いた。「何もない」
王子と海賊。そうでなくても、二つの国に隔たれたふたりだ。捨て去ることができないほど大きなものを抱えたまま、それぞれの岸で立ち尽くすだけの。
「僕らの間には……何もない」
鳥の声や木々のざわめきに満たされた洞窟の中で、自分の声はいかにもか弱く、ちっぽけだった。
†
島に停泊して十日で、ようやく船の修理が完了した。
真新しいマストに取り付けられた、真新しい帆。フジツボを掻き落とし、赤子の肌のように滑らかになった船底と、塗りたてのつやめくタール。穴のあいた船体も甲板も元通りになった。あとは、明日の満ち潮を待つだけだ。
ゲラードは、あの気晴らし以来、なにか考え込んでいるようだった。フーヴァルを避け、酒を避けて、今まで以上に懸命に、船員としての仕事に精を出していた。それをとやかく言うつもりはない。
ゲラードは持ち前の屈託のなさで、あっという間にほぼ全ての船員に気に入られた。意外だったのは、アーナヴから『彼を船に残せないか』と打診されたことだ。
船長室で次の行き先を決める話し合いをはじめる前に、彼がそう言ったのだ。
「もちろん、彼がそれを望めば、だが」
アーナヴの人を見る目は厳しい。能力だけでなく、人格にも厳格な基準を設けている。冷静沈着であること、衝動的な行動を起こさないことというのは、その基準のかなりの割合を占める。彼の美意識を完全に理解することはできないが、それでも、ゲラードのような者をこれほど気に入るのは意外だった。
アーナヴはフーヴァルの顔を見ると、手にしていた紙束を机の上に拡げた。てっきり海図だと思っていたが、違った。それは絵だった。しかも、実に見事な。
砂浜から見た入り江の地形、焚き火に向かう調理師、アクシング号、海面から伸び上がる海竜。素描だが、どれも生き生きとした姿で、記憶をそのまま映したかと思うほど精緻だ。
アーナヴは言った。「宮廷画家に学んだそうだ。あのキュンネケに、だぞ!」
フーヴァルは、盟友がこんなに目を輝かせているのを久々に見た。
「キュンネケって誰だ?」
アーナヴは苛立たしげに呻いた。「わからないならいい。どうせ、説明しても理解できないだろう」
聞き捨てならないが、その通りだから反論はせずにおいた。
「フーヴァル。ゲラードの才能があれば、俺の浮球儀はもっと完璧になるんだ」
航海士にとっての浮球儀は、我が子のようなものだ。できうる限りの情熱をかけて、それを九海で一番の浮球儀にしようと心を砕く。だから、宮廷画家顔負けの腕をもった画家を手に入れる機会があれば、それを逃がさぬようにするのは当然だった。ましてやアーナヴはデーモンだ。デーモンは死んでも、己のこだわりをないがしろにしない。
「話はするが……あいつが同意するかはわからないぞ」
念を押したが、アーナヴは聞いちゃいなかった。ゲラードの素描をひったくるようにまとめ上げ、さっさと部屋を出ていってしまった。
ゲラードの意向を聞くために部屋を出ると、彼は砂浜にいた。ゲラードの画才を聞きつけた船員たちが彼の周りを取り囲み、ああでもない、こうでもないと注文をつけながら、砂の上に木の棒で、『理想のお相手』像を描かせようとしているらしい。
「おっぱいは小ぶりがいいな。真桑瓜みたいに丸いやつ」
「腰はきゅっと細くて、ケツはパーンとデカくしてくれ!」
「髪は波打つ金色で……」
「食っちまうような目つきでよぉ」
「それに、臍まで届くくらいでっかいイチモツな!」
掌帆長のルーが横やりを入れたので、他のものたちが不満の声を上げた。中には『それもアリだな』と思っていそうな顔もあったが。
ゲラードは笑いながら、「時間をもらえれば、それぞれ順番に描くよ」と言ってなだめていた。船員たちは目を見交わすと、順番を決めるための賭けをするべく、賽子を取り出して砂浜の上に円になって座り込んだ。
注文客の波がひいたおかげで、ゲラードがようやくフーヴァルに気付いた。
「ああ、船長」
フーヴァルは、砂上の作品をじっと見つめた。
芸術に関してフーヴァルが知っていることと言えば、それが純金でできていればいい金になるということくらいだった。だが、そんな素人の目から見ても、彼の絵は見事だった。
実在しない者の姿を、これほど生き生きと描くことができるとは。まるで今にも砂の中から立ち上がり、歩き出しそうだ。
「見事なもんだ。こんな特技があったなんてな」
ゲラードはハッとして、悪戯を見つかった子供のようにあたふたと砂の上の裸婦像を消した。
「そうかな。それはどうも」
そしてゲラードは、他の船員が船長に対してするように従順に立ち上がった。そうすることで、あまりにも親密な夜の記憶をなかったことにしようとしているのだろう。
「僕に何か?」
「アーナヴに泣きつかれちまった」
フーヴァルが言うと、ゲラードは申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「またなにか迷惑を──」
「いや、そうじゃない」この男をやきもきさせるのは楽しいが、確信を持てないで居るのはこちらも同じだったから、さっさと本題に移った。
「なあ。このままずっと、この船で旅をしたいって言ったな」
ゲラードは訝るように眉を顰めた。
「ああ、言った」
「もしまだその気があるなら、航海士の助手として船に乗れ。アーナヴが、お前の絵の腕を欲しがってる」右手の親指を立て、次に人差し指を立てる。「ヘインズにも頼まれた。あとはジェンキンズ、バウワー、エディ……」
列挙していくうちに、右手の指がすべて立ち、また一本ずつ握られていく。
「入れ替わり立ち替わり、俺の部屋に顔を出して、お前のことを褒めちぎってくんだ。鬱陶しいったらなかったぜ」フーヴァルは笑った。「で、どうする?」
ゲラードはぽかんと口を開けて、しばしの間固まっていた。それから瞬きをして、息を吸い込み、言った。
「ありがとう」その目には、うっすらと涙が滲んでいた。「とても光栄だ」
「この話を受けたら、お前は正式に俺の部下ってことになる」フーヴァルは念を押した。「それでいいんだな? よく考えろよ」
ゲラードの笑顔が薄れ、また、あの諦めが彼の顔に翳りを生む。
「ダイラにはもう、僕の居場所はない。これからは、ただのガルとして生きていかなければ」瞬きを一つすると、寂しげな諦念は、新たな決意の表情に変わった。「生きていく術を学ぶなら、君の下で──みんなと共に学びたいんだ、船長」
彼がこの船に抱く愛着が並々ならぬものなのはわかっていたつもりだったが、それでも──自分の船と乗組員とを、心から望まれたことへの誇りで、少しだけ胸が熱くなった。
フーヴァルは頷いた。
「わかった」そして、右手を差し出した。
ゲラードは迷わずその手を取り、強く握った。
「マリシュナ号にようこそ……ただのガル」
控えめな、だが明らかに隠しきれていない好奇の視線はすぐに消えたものの、二日酔いはそうはいかなかった。頭を動かす度に頭蓋骨の中に反響する鈍痛と、皮膚の下に綿が挟まったような不快感は、その日の仕事──脚荷を砂浜に並べて洗う作業──が終わったあとにも残り続けた。
作業中にジェンキンズがいみじくも言った『まるで水死体のような顔』という言葉が本当なら、皆がゲラードをそっとしておいてくれたのにも納得がいく。ただ、ゲラードをこんな状態にしたのが船長の無体な抱き方のせいなのか、それとも酒のせいなのかは人によって意見が分かれているようだ。あえて真実を提供するつもりもないけれど。
ゲラードは眼球を突き刺すような日光を避け──フーヴァルと顔を合わすのが気まずかったせいもあって──砂浜のすぐ傍にある洞窟へと避難した。
洞窟はひんやりと湿っていた。最奥にある泉のあたりは、さらに涼しく過ごしやすい。手が届かないほど高い洞窟の天上には穴があいていて、そこから滝が降り注いでいた。鬱蒼と生い茂る羊歯や木の葉に覆われて空は見えないものの、滝の水と木漏れ日とが混ざり合って水面にこぼれ落ち、洞窟の壁面に光の波紋を投げかけていた。とても素朴でありながら、同時に静謐な雰囲気に包まれたところだ。
この場所は、どんな筆でも描ききれない。
驚くほど冷たい泉の水を飲み、岩陰に腰を下ろす。日はまだ高く、頭上の穴からは盛んに鳴き交わす野鳥の声が聞こえてきた。
湿った岩肌に頭をもたせかける。だが目を閉じても、頭の中はちっとも休まらなかった。
気晴らし、と彼は言った。
そう、気晴らし。否定してみたところで、意味はない。あれは確かに気晴らしとしか言い表すことができないものだった。
だから……終わるときもあっけなかったのだ。
婚約が決まったと彼に告げたのは、三年前の初夏のことだ。
いつものように、彼は城の厨房に忍び込み、我が物顔でワインを呷っていた。フーヴァルはどういうわけか、王都いち厳重に警備されているはずの王城の厨房に、すっかり受け入れられていた。おそらく料理長との間に何らかの密約があったのだろうが、詳しく尋ねはしなかった。そうでなくても、彼は厨房で働くほぼ全員に気に入られていた。だから彼がワインを手にしているときには、すぐ傍にチーズやパンがあるのは日常茶飯事で、時には果物や、ちょっとした料理まで並んでいることもあった。
表から入ったところで拒否される身分ではないのに、彼はいつでも、そうして裏口から城に忍び込んだ。
厨房は、城の北棟にある。北棟は、使用人や調理人、厩番などの出入りは頻繁だけれど、服を汚したくない身分のものは滅多に近づかない。物置として使われている埃っぽい部屋がいくつもあり、中には、先々代の王が使っていた寝台がしまい込まれている部屋もある。逢い引きにはうってつけだ。
申し訳程度に埃を払った豪華な寝台と、使用人用の蝋燭が照らし出すわずかな空間だけが、ゲラードが、自分というものの存在意義を考えずに息ができる場所だった。
あの日、ゲラードは怯えていた。婚約が決まったことを話したら、彼はどう反応するだろう、と。
憤るだろうか。それとも……悲しむそぶりを見せるところは想像できないから、やっぱり、彼は怒るだろう。
彼の怒りを目の当たりにするのは苦しい。だが彼はそうすることで、ゲラード自身が表現することができない無念まで燃やしてくれる。今回もそうなるはずだと思っていた。だが、フーヴァルの反応は予想とは違っていた。
「へえ。じゃあ、お楽しみもこれで終わりだな」
それだけだった。
その瞬間に身を焼いた羞恥の熱と言ったら。
この時間を特別な何かだと思っていたのは自分だけ。相手を特別な存在だと思っていたのも自分だけだった。
だが、当然のことではないか。よくよく考えるまでもない。これは賭けで手に入れた関係なのだ。フーヴァルにとっては……負債でしかない。それから解放されるのだから、わざわざ惜しむはずもない。
「ああ、そういうことになる」
ゲラードは傷心を隠した。痛みを手放すことにかけては……それだけは、人より多少上手くやれる自信があった。
「その相手ってのは、美人か?」
なんでそんなことを聞く? と言い返しそうになったが、堪えた。
「会ったことはないが、噂は耳にするよ」
フーヴァルは冷やかすように口笛を吹いた。「うまくやったな」
もはや心は何も感じなくなっていた。空虚な愛想笑いをして、「そうだな」と答える。
「以前のように頻繁にはエイルに行くことができなくなるだろう。結婚、したら」その言葉は、まるで喉を塞ぐ巨大な塊のようだ。「王港の整備と海軍の強化に携わることになりそうだ」
「そいつは残念」フーヴァルは言った。「クソみてえに退屈な仕事だな」
「ああ」ゲラードは苦笑した。「港に縛られるのは、辛いだろう」
するとフーヴァルはゲラードに身を寄せ、ほんのわずかに首をかしげて、顔を覗き込んできた。
「とんずらこいちまうって手もあるんだぜ。俺と」
彼の手がそっと伸びてきて、顎に触れる。海の苦難を知り尽くした硬い指先が、顎の線を辿った。
「お前が望むなら、攫ってやるよ。海賊らしくな」
その言葉に、どれだけ縋りたかったか。だが、ゲラードは笑い飛ばした。
「それで、身代金をせしめてから追い出すんだろう?」
笑い飛ばすしかなかった。弱々しく情けを乞う者を、彼が愛するはずがない。それを理解できる程度には、彼のことを知っていた。
フーヴァルはほんの一瞬だけゲラードの顔に視線を留めていたけれど、すぐに肩を震わせて笑い出した。
「王子様にしとくにゃもったいないぜ、ほんと」
それが、ふたりの終わりだった。
あのあと、最後の訪問のつもりでエイルへ行く船で顔を合わせたときには、ふたりはもう友人同士でさえなかった。互いが抱えたわだかまりが盾のように立ちはだかって、本心を隠し、面と向かって言葉を交わすことさえ難しくしていた。
その年の冬に仮面舞踏会で再会し、クソ馬鹿野郎と面罵されたのを最後に、三年が経った。
彼はゲラードにとって、初めてできた気の置けない友人であり……恋人でもあった。フーヴァルは、自分を取り囲む状況を笑い飛ばして、ゲラードには決して口にできない悪態で貶してくれる。王の周りの世界しか知らなかったゲラードに、新たな視点、新たな可能性を示してくれる存在だった。一度、誰かに心をさらけ出してしまったあとの孤独は堪えた。ゆっくりと溺れてゆくようなあの三年間を生きるのは……辛かった。本当に辛かった。
だからといって、気晴らしなどという誘い文句に乗ってしまった自分の軽率さが罪にならないわけではない。
俺たちの関係なんて、最初から気晴らしみたいなもんだっただろ、と彼は言った。
でも、もし彼が間違っていたら?
もしこれが、気晴らし以上の関係だったら、僕らの間にはなにがある?
「何も」ゲラードは呟いた。「何もない」
王子と海賊。そうでなくても、二つの国に隔たれたふたりだ。捨て去ることができないほど大きなものを抱えたまま、それぞれの岸で立ち尽くすだけの。
「僕らの間には……何もない」
鳥の声や木々のざわめきに満たされた洞窟の中で、自分の声はいかにもか弱く、ちっぽけだった。
†
島に停泊して十日で、ようやく船の修理が完了した。
真新しいマストに取り付けられた、真新しい帆。フジツボを掻き落とし、赤子の肌のように滑らかになった船底と、塗りたてのつやめくタール。穴のあいた船体も甲板も元通りになった。あとは、明日の満ち潮を待つだけだ。
ゲラードは、あの気晴らし以来、なにか考え込んでいるようだった。フーヴァルを避け、酒を避けて、今まで以上に懸命に、船員としての仕事に精を出していた。それをとやかく言うつもりはない。
ゲラードは持ち前の屈託のなさで、あっという間にほぼ全ての船員に気に入られた。意外だったのは、アーナヴから『彼を船に残せないか』と打診されたことだ。
船長室で次の行き先を決める話し合いをはじめる前に、彼がそう言ったのだ。
「もちろん、彼がそれを望めば、だが」
アーナヴの人を見る目は厳しい。能力だけでなく、人格にも厳格な基準を設けている。冷静沈着であること、衝動的な行動を起こさないことというのは、その基準のかなりの割合を占める。彼の美意識を完全に理解することはできないが、それでも、ゲラードのような者をこれほど気に入るのは意外だった。
アーナヴはフーヴァルの顔を見ると、手にしていた紙束を机の上に拡げた。てっきり海図だと思っていたが、違った。それは絵だった。しかも、実に見事な。
砂浜から見た入り江の地形、焚き火に向かう調理師、アクシング号、海面から伸び上がる海竜。素描だが、どれも生き生きとした姿で、記憶をそのまま映したかと思うほど精緻だ。
アーナヴは言った。「宮廷画家に学んだそうだ。あのキュンネケに、だぞ!」
フーヴァルは、盟友がこんなに目を輝かせているのを久々に見た。
「キュンネケって誰だ?」
アーナヴは苛立たしげに呻いた。「わからないならいい。どうせ、説明しても理解できないだろう」
聞き捨てならないが、その通りだから反論はせずにおいた。
「フーヴァル。ゲラードの才能があれば、俺の浮球儀はもっと完璧になるんだ」
航海士にとっての浮球儀は、我が子のようなものだ。できうる限りの情熱をかけて、それを九海で一番の浮球儀にしようと心を砕く。だから、宮廷画家顔負けの腕をもった画家を手に入れる機会があれば、それを逃がさぬようにするのは当然だった。ましてやアーナヴはデーモンだ。デーモンは死んでも、己のこだわりをないがしろにしない。
「話はするが……あいつが同意するかはわからないぞ」
念を押したが、アーナヴは聞いちゃいなかった。ゲラードの素描をひったくるようにまとめ上げ、さっさと部屋を出ていってしまった。
ゲラードの意向を聞くために部屋を出ると、彼は砂浜にいた。ゲラードの画才を聞きつけた船員たちが彼の周りを取り囲み、ああでもない、こうでもないと注文をつけながら、砂の上に木の棒で、『理想のお相手』像を描かせようとしているらしい。
「おっぱいは小ぶりがいいな。真桑瓜みたいに丸いやつ」
「腰はきゅっと細くて、ケツはパーンとデカくしてくれ!」
「髪は波打つ金色で……」
「食っちまうような目つきでよぉ」
「それに、臍まで届くくらいでっかいイチモツな!」
掌帆長のルーが横やりを入れたので、他のものたちが不満の声を上げた。中には『それもアリだな』と思っていそうな顔もあったが。
ゲラードは笑いながら、「時間をもらえれば、それぞれ順番に描くよ」と言ってなだめていた。船員たちは目を見交わすと、順番を決めるための賭けをするべく、賽子を取り出して砂浜の上に円になって座り込んだ。
注文客の波がひいたおかげで、ゲラードがようやくフーヴァルに気付いた。
「ああ、船長」
フーヴァルは、砂上の作品をじっと見つめた。
芸術に関してフーヴァルが知っていることと言えば、それが純金でできていればいい金になるということくらいだった。だが、そんな素人の目から見ても、彼の絵は見事だった。
実在しない者の姿を、これほど生き生きと描くことができるとは。まるで今にも砂の中から立ち上がり、歩き出しそうだ。
「見事なもんだ。こんな特技があったなんてな」
ゲラードはハッとして、悪戯を見つかった子供のようにあたふたと砂の上の裸婦像を消した。
「そうかな。それはどうも」
そしてゲラードは、他の船員が船長に対してするように従順に立ち上がった。そうすることで、あまりにも親密な夜の記憶をなかったことにしようとしているのだろう。
「僕に何か?」
「アーナヴに泣きつかれちまった」
フーヴァルが言うと、ゲラードは申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「またなにか迷惑を──」
「いや、そうじゃない」この男をやきもきさせるのは楽しいが、確信を持てないで居るのはこちらも同じだったから、さっさと本題に移った。
「なあ。このままずっと、この船で旅をしたいって言ったな」
ゲラードは訝るように眉を顰めた。
「ああ、言った」
「もしまだその気があるなら、航海士の助手として船に乗れ。アーナヴが、お前の絵の腕を欲しがってる」右手の親指を立て、次に人差し指を立てる。「ヘインズにも頼まれた。あとはジェンキンズ、バウワー、エディ……」
列挙していくうちに、右手の指がすべて立ち、また一本ずつ握られていく。
「入れ替わり立ち替わり、俺の部屋に顔を出して、お前のことを褒めちぎってくんだ。鬱陶しいったらなかったぜ」フーヴァルは笑った。「で、どうする?」
ゲラードはぽかんと口を開けて、しばしの間固まっていた。それから瞬きをして、息を吸い込み、言った。
「ありがとう」その目には、うっすらと涙が滲んでいた。「とても光栄だ」
「この話を受けたら、お前は正式に俺の部下ってことになる」フーヴァルは念を押した。「それでいいんだな? よく考えろよ」
ゲラードの笑顔が薄れ、また、あの諦めが彼の顔に翳りを生む。
「ダイラにはもう、僕の居場所はない。これからは、ただのガルとして生きていかなければ」瞬きを一つすると、寂しげな諦念は、新たな決意の表情に変わった。「生きていく術を学ぶなら、君の下で──みんなと共に学びたいんだ、船長」
彼がこの船に抱く愛着が並々ならぬものなのはわかっていたつもりだったが、それでも──自分の船と乗組員とを、心から望まれたことへの誇りで、少しだけ胸が熱くなった。
フーヴァルは頷いた。
「わかった」そして、右手を差し出した。
ゲラードは迷わずその手を取り、強く握った。
「マリシュナ号にようこそ……ただのガル」
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