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急に吹きはじめた風が、アクシング号を少しの間船から遠ざけてくれた。マリシュナ号に追いつくために全ての帆を展開していたせいで、突風に追いやられ、アクシング号だけがさらに南へ流されたのだ。
「今度はこっちが風上だ」
覗き込んでいた望遠鏡を下げて、フーヴァルが言った。
だが、再び追いつかれるのは時間の問題だし、そうなったときに打つ手は、もうほとんど残されていない。
そのくらいは、ゲラードにもわかった。
「今のうちに、やれることをすませておけ。レイリーはまだ使い物になるか?」
「ああ。あれだけのことがあったあとにしては、めずらしくしゃんとしている」アーナヴが言った。「進路は?」
「コルパス・イサスに逃げ込めばこっちの勝ちだ。そこで立て直す」
「了解」
アーナヴが舵柄のところへ向かうと、フーヴァルがゲラードの方を見た。彼はゲラードの腕を掴むと、有無を言わさず引き寄せた。
見とがめられないように隠していたつもりだったのだが、あっさり見抜かれてしまったらしい。
「両手を開け」
ゲラードは素直に、血だらけになった両手を開いた。
先ほどの砲撃で投げ出された時、船の横腹を滑り落ちながら無我夢中で索にしがみついた。自分の体重にヘインズの重さが加わり、両手で索を掴んだまま、かなりの距離を滑り落ちてしまったのだ。そのせいで爪は剥がれ、手のひらの皮もひどくめくれてしまった。
フーヴァルは小さく舌打ちした。
「せっかくのきれいなお手々が台無しじゃねえか」
「君にそう言われるのが嫌でやったのかも」
ゲラードが言うと、彼は小さな笑みを浮かべた。
「思った以上の馬鹿だな」
そして、フーヴァルがゲラードを見た。
初めて彼の瞳を見たとき、その碧は、本物の船乗りにしかたどり着くことができない海の色なのではないかと思った。荒々しく、謎に満ちていて、何者にも侵されない強さを湛えている。そして──気高さとは何であるかを、問う必要さえないほどの気高さを。
その目に、一瞬で惹かれた。
大抵のとき、そこには世間への冷笑や、ままならぬ人生に藻掻く者への──傲慢とも言えるほどの──哀れみがある。だがときたま、彼が身に帯びた鎧や剣を忘れるときには、ただただ深い碧を、その瞳の中に見ることができる。例えば、今この瞬間のように。
「君にそんな目で見つめられる時だけ、僕は自分で自分を誇りに思える気がするよ」
すると、フーヴァルは驚いた顔で二度ほど瞬きをして、目を逸らした。
「何言ってやがる、馬鹿が」
彼が手を放すと、手のひらの上に痛みが戻ってきた。
「君にそう呼ばれるのが好きになってきた」
ゲラードが言うと、フーヴァルはハッと笑った。
「ドクのとこに行って見てもらってこい。今夜は死ぬほど痛むぞ」
「わかった」
この間に、乗組員たちが総出で船の応急処置をした。ヘインズや他の掌帆手が何人か船医の部屋に運び込まれ、船体に開いた穴は補修用の木材と魔方陣で塞がれた。
怪我は命に関わるものではないので、ドクのところへは行かず、とりあえず真水で血を洗い流すだけにした。当然もの凄く痛んだけれど、診療室は先ほどの砲撃で傷ついた人で溢れているはずだ。こんな軽傷で、彼らの治療を邪魔したくはなかった。
とは言え索を手繰る作業もできないので、ゲラードは代わりに見張りに立たせてもらうことにした。
アクシング号は、マリシュナ号の前方で船首を転回していた。こちらの船を回り込んで、再び風上から近づこうとしているのだろう。あとどのくらいの時間が残されているのかはわからないが、ただ何かを待つ時間の緊張感は、じりじりと心を苛んだ。
「船長は何を待っているんだろう」
ゲラードが呟くと、同じく見張りをしていた掌帆手のジェンキンズが聞きつけた。
「極の海がどういう場所か、知らんのか?」
ゲラードは曖昧に頷いた。
「この世界の果てで……魔物が多い海域だということくらいしか」
長きに亘って、極の海の存在そのものが教会によって秘匿されてきた。語るべき話が少ないのは、この海から帰還する船乗りが少なかったせいもある。船の周囲では、獲物を逃して苛立つ海狼の背びれがいくつも覗いては、また波間に消えていた。
「そうさ。だが、ここいらに棲むのはおっそろしい化け物だけじゃねえ。このあたりはな……」声をひそめた。「人魚の縄張りなんだ」
ゲラードは目を丸くした。「本当に?」
おうよ、とジェンキンズは言った。
「オルノアの話は知ってるだろ?」
ゲラードは頷いた。オルノアは神話ほど古い時代に栄えた国で、天変地異によって海の底に沈んでしまったという伝説がある。
「それがこのあたりにあると?」
おうよ、と彼は言った。
「なんでも、金銀財宝で溢れてるって話だ。そんで、人魚はその宝を守ってる」ジェンキンズは言った。「だから、このあたりでさっきみたいなドンパチをしでかしゃ、必ず連中が怒って何かを仕掛けてくる」
「なるほど」
ゲラードにも、それでようやく納得がいった。フーヴァルは人魚の加勢を待っているのか。
「いままでに、人魚を見たことが?」
アクシング号と水平線とを油断なく見張りながらも、ゲラードはつい尋ねていた。こういう話に目を輝かせずにいるのは難しい。
「声だけはな。そりゃあ厄介なモンだ。運が悪けりゃ気が触れちまうことだってある。だから、連中の声が聞こえたら耳を塞いで、近くにいる仲間の目を覗き込む。そこに赤い色が見えたら、幻惑されかかってるってことだ。だからよ、そうなったら……」
「そうなったら?」
ジェンキンズは肩をすくめた。「ぶん殴って気を失わせる」
なるほど。実に効果的だ。
「覚えておく」
ゲラードが言うと、ジェンキンズはハハハと笑った。
「この海域をずうっといくとよ、そこはあの世だって話だ。だからここは、言ってみりゃこの世とあの世の隙間なのよ。この世の常識ってもんが通用しねえ。妖精とか魔物とかってのは、そういう場所が好きなんだ」
ゲラードは息を呑んだ。
そうだ。僕はいま、あの極の海にいるんじゃないか。
現実の展開が早すぎて、幼い頃に何度も夢見た冒険に追いつき──追い越そうとしていることにさえ気付いていなかった。
「この海域をさらに南下しようとすると、流れがきついわ蜃気楼が出るわで、到底海の果てにはたどり着けねえ」ジェンキンズは一呼吸置いて、生徒の顔を見る教師のように、ゲラードの顔をじっと見つめた。「わかるか? これ以上先は、俺たちにゃ許されない領域ってことだ」
「なんだ爺さん、いい聞き手を見つけたな」
通りすがりに若い掌帆手が冷やかしていったが、ゲラードは真剣な面持ちで頷いた。
「よくわかった。教えてくれてありがとう」
「なに、いいってことよ。他の連中にもお前さんくらい可愛げがありゃあな!」
ゲラードは改めて、周囲に広がる海を見渡した。
黒々とした波の色は、巨大な潮流の持つ底知れない力を感じさせる。この海の底になにが潜んでいるのかを考えるのは、昂揚すると共に、怖ろしくもあった。
この海は何かを秘め……そして、守っている。そんな風に感じたのは、ジェンキンズの昔話のせいだろう。
そうこうしているうちに、アクシング号の船影が、再びこちらに迫ってきた。
今度は、誰も狼狽しなかった。この先に待ち受けているのが何であれ、それを受け入れる覚悟ができているのだ。
日照りと、それを照り返す波の輝きの中から、アクシング号が近づく。
「間もなく、射程範囲内! 射程内まであと十……九……」ジェンキンズが声を張り上げる。
船首像の表情までくっきりと見通せるほどの近さになったとき、不思議な音を聞いたような気がして、ゲラードは頭を巡らせた。
なんだろう。
「この……声?」
それは、今まで聞いたこともないような音色だった。
「五……四……」
同じ音に気付いた、他の船乗りたちが顔を見合わせる。そして、誰かが叫んだ。
「耳を塞げ!!」
「三……!」
指示が聞こえなかったらしいジェンキンズの耳を、駆けつけた別の船員が引っ張る。事態に気付いたジェンキンズはハッとして、呆然と立っているゲラードの手を掴むと、耳に押し当てるよう指示した。ゲラードがその通りにすると、彼は口の形だけでこう言った。
「人魚だ」
船乗りたちは甲板にしゃがみこみ、耳を塞いだまま互いの目を見つめている。そこに赤い色が現れたら、幻惑の虜になりかけている証拠だ。ゲラードのことはジェンキンズが見てくれていた。
ありがたい。痛む手を庇っているせいで、ゲラードにはどうしても耳を覆い尽くすことができなかったのだ。もし自分の目が赤くなったら、しっかりとぶん殴ってもらえるはずだ。
そんなことを考えている間にも、不思議な音色は聞こえ続けた。
まるで、波間を滑る鴎のように軽やかな声。その一筋の音色が、潮騒や船の軋みをすべて押しやって響いてくる。
この言語を、人が理解するのは不可能だろう。その声には、常人の耳では捉えきれない震えや抑揚、何かを叩いたり引っ掻いたりするみたいな──コココ、ギギギというような──不思議な音が混ざり合っていた。やがてその旋律に、いくつもの別の声が覆い被さる。無数の声は縒り糸のようにあわさり、うねり、高まって、妙なる楽の音を作り上げていた。
何を意味するのかはわからない。だが、これが『歌』であることはわかる。
さらに言うならば、『何かを求める歌』であることが。
人魚の歌は天に昇るように高まって、それから消えた。
どうやら幻惑させられずに済んだらしい、とホッと胸を撫で下ろしたとき、目を丸くしてこちらを見つめているジェンキンズに気付いた。
「お前さん……その目……」
「僕の目に何か──?」
次の瞬間、地響きかと思うほど怖ろしい音がした。船員たちは耳を塞いでいた手を放し、我先にと舷側に向かう。
皆の視線の先にあったのは、アクシング号──その船尾付近の海面に、山のようなものが隆起しつつあった。
「あれは……!?」
「うわ、来たぞ!」
誰かが、畏怖を込めて呟いた。
「来たって、何が?」どうやら、わかっていないのはゲラードだけらしい。
「見てりゃわかる」ジェンキンズが言った。「ほら!」
山と見えたものは、盛り上がった海面からゆっくりと姿を現した。それは、幾度となく耳にし、また読んだ物語から思い描いていたのとはかけ離れた──いや、それを遙かに超える姿だった。
海竜。この海という領域の真の支配者。
ゲラードは思わず、声に出して呟いていた。
「あんな……ものが……」
鴨の羽の青、孔雀石の翠、曙の黄色、葡萄酒色、それから、名前もわからぬ色が混ざり合う形容しがたい色彩の鱗の中に、魚を思わせる大きな目玉が、まるで燃えているかのようにギラギラと輝いていた。口から突き出た牙はねじ曲がり、ところどころフジツボが付着している。頭部の両脇に拡げられた雄黄色の鰭は、アクシング号の主檣帆より二回りも大きい。さっきあんなに立派に見えたアクシング号が、いまではいかにも頼りなげな小舟のように見えた。
海竜が口を開けると、轟くような音がした。海風がその巨大な口に吹き込み、鰓の隙間を拡げて通っていくところまではっきりと見える。腐臭のような、なんとも生臭い匂いがここまで漂ってきて、何人かは吐き気を堪えるように手に口を当てた。
皆が息を呑む中、海竜は海面に背を伸ばした。海水は滝のように体表を流れ落ち、アクシング号の甲板に降り注ぐ。海竜はうねりながら、主檣よりも遙かに高く伸び上がった。
一瞬、時が止まった。
それから、海竜はゆっくりと横倒しになった。もはや逃げる術もなく海に浮かぶアクシング号を、その巨体の下敷きにして。
怖ろしい音がした。
船影が見えなくなるほど高々とあがった波飛沫は、いつまでもおさまらなかった。丘ほどもある波がこちらに押し寄せ、マリシュナ号は何度も、大きく揺れた。
長い、長い時間がかかったような気がした。そして、荒ぶる波がようやく落ち着いた頃──アクシング号があった場所には、船の残骸しか残っていなかった。
悲鳴がここまで聞こえたわけではない。けれど、断末魔の叫びが、ゲラードの耳にこびりついたように思えた。
マリシュナ号の船上で、歓声を上げる者は誰ひとりとしていなかった。
海竜の姿を生きて他者に伝える者は少ない。その理由が、今わかった。
あのあと、ジェンキンズがこっそり耳打ちしてくれた。
「お前さんの目、ドクに診てもらった方がいい」と。
どういうことか尋ねると、とにかく見てもらえの一点張りだ。だが、理由もわからないのにドクの手を患わせるのは避けたい。しつこく食い下がると、彼はようやく教えてくれた。
「お前さんの目に、銀色の欠片みたいなもんが見えたんだよ。ナドカでもないのに、あれはどうも尋常じゃねえぞ」
目が銀色になるという話は、ゲラードも聞いたことがなかった。
もしかしたら、ジェンキンズの勘違いだったかもしれない。というより、そうであって欲しいという気持ちが大きかったので、ゲラードはそのことを胸にしまって、そのまま──半分は意図的に──忘れてしまった。
フーヴァルはアクシング号の犠牲者を顧みず、船をコルパス・イサスへ向けて出発させた。
「まだ息が残っているものがいるかもしれない」
ゲラードが言うと、彼はこちらを馬鹿にしたいときに浮かべる表情を浮かべた。
「あの海竜を見てねえのか? 海狼の群れは?」
「もちろん見た。だけど──」
「連中は、この海域で大砲をバカスカぶっ放して、勝手に自滅したんだ。俺が助けてやる義理はねえよ」
「だが、救える命があるかも──」
フーヴァルは最後まで言わせなかった。ゲラードのシャツの襟を掴んで、皆から影になっている後部甲板の壁に、背中を押しつけた。
太陽を背にした彼の顔に、濃い影が落ちる。その口元から覗く歯列は、まるで鮫のように鋭い。彼がこんな風に──ナドカの性質を露わにするところを見るのは初めてだった。
「連中が死ぬのは、弱いからだ」フーヴァルは言った。「弱いのは馬鹿だからだ。馬鹿なのは、賢くなるのを諦めたからだ。いいか? 船に乗る前に少しでも調べりゃ、この海域で騒ぎを起こすのがどれだけ愚かなことかわかったはずだ。だが、連中はそれをしなかった。自業自得だ」
「そうかもしれないが……」
「馬鹿に手を差し伸べても、また別の何かに助けてもらうために生き存えるだけだ。そのくせ、助けてもらえねえと見るや文句だけはデカい声で並べ立てやがる。自分がいかに惨めな存在かってのを、恥ずかしげもなく晒しながらな」
ゲラードは思った。自分はいま、フーヴァルの中にある行動原理──彼を突き動かす怒りの一端に触れているのだと。今までにも何度か、彼の怒りを感じたことはあった。だが、これは限りなく……彼の根源に近いところにある。
だが、その怒りをなだめるために、自分を曲げることもできない。
「君の言うことも……正しいんだろう。ある意味では」ゲラードはゆっくりと言った。「でもそれだけでは、どこにもたどり着けない」
フーヴァルは鼻を鳴らした。笑おうとしたのだろうけれど、自分で思っているほど上手く装えてはいない。
「なら、何があればたどり着けるんだ、ゲラード?」
ゲラードが答えずにいると、彼はもう一度──今度はさっきよりも上手に──ゲラードをせせら笑った。
「お前にもわかってないから、国から逃げ出して、妹からも命を狙われて、死人同然の身分になってるんじゃねえのか、なあ?」
怒りに満ちた眼差しを見つめて、ゲラードは思う。
ああ、アクシング号の乗組員を救う道はないのだ、と。
彼らの命を諦めながら、ゲラードは、フーヴァルの言葉から逃げなかった。
「その通りだ」
フーヴァルはしばらくの間ゲラードの目を見つめていた。それから顔を逸らして、背を向けた。
「さっさとドクのところに行け」唸るように、彼は言った。「次に同じことを言わせたら、海に放り投げるぞ」
急に吹きはじめた風が、アクシング号を少しの間船から遠ざけてくれた。マリシュナ号に追いつくために全ての帆を展開していたせいで、突風に追いやられ、アクシング号だけがさらに南へ流されたのだ。
「今度はこっちが風上だ」
覗き込んでいた望遠鏡を下げて、フーヴァルが言った。
だが、再び追いつかれるのは時間の問題だし、そうなったときに打つ手は、もうほとんど残されていない。
そのくらいは、ゲラードにもわかった。
「今のうちに、やれることをすませておけ。レイリーはまだ使い物になるか?」
「ああ。あれだけのことがあったあとにしては、めずらしくしゃんとしている」アーナヴが言った。「進路は?」
「コルパス・イサスに逃げ込めばこっちの勝ちだ。そこで立て直す」
「了解」
アーナヴが舵柄のところへ向かうと、フーヴァルがゲラードの方を見た。彼はゲラードの腕を掴むと、有無を言わさず引き寄せた。
見とがめられないように隠していたつもりだったのだが、あっさり見抜かれてしまったらしい。
「両手を開け」
ゲラードは素直に、血だらけになった両手を開いた。
先ほどの砲撃で投げ出された時、船の横腹を滑り落ちながら無我夢中で索にしがみついた。自分の体重にヘインズの重さが加わり、両手で索を掴んだまま、かなりの距離を滑り落ちてしまったのだ。そのせいで爪は剥がれ、手のひらの皮もひどくめくれてしまった。
フーヴァルは小さく舌打ちした。
「せっかくのきれいなお手々が台無しじゃねえか」
「君にそう言われるのが嫌でやったのかも」
ゲラードが言うと、彼は小さな笑みを浮かべた。
「思った以上の馬鹿だな」
そして、フーヴァルがゲラードを見た。
初めて彼の瞳を見たとき、その碧は、本物の船乗りにしかたどり着くことができない海の色なのではないかと思った。荒々しく、謎に満ちていて、何者にも侵されない強さを湛えている。そして──気高さとは何であるかを、問う必要さえないほどの気高さを。
その目に、一瞬で惹かれた。
大抵のとき、そこには世間への冷笑や、ままならぬ人生に藻掻く者への──傲慢とも言えるほどの──哀れみがある。だがときたま、彼が身に帯びた鎧や剣を忘れるときには、ただただ深い碧を、その瞳の中に見ることができる。例えば、今この瞬間のように。
「君にそんな目で見つめられる時だけ、僕は自分で自分を誇りに思える気がするよ」
すると、フーヴァルは驚いた顔で二度ほど瞬きをして、目を逸らした。
「何言ってやがる、馬鹿が」
彼が手を放すと、手のひらの上に痛みが戻ってきた。
「君にそう呼ばれるのが好きになってきた」
ゲラードが言うと、フーヴァルはハッと笑った。
「ドクのとこに行って見てもらってこい。今夜は死ぬほど痛むぞ」
「わかった」
この間に、乗組員たちが総出で船の応急処置をした。ヘインズや他の掌帆手が何人か船医の部屋に運び込まれ、船体に開いた穴は補修用の木材と魔方陣で塞がれた。
怪我は命に関わるものではないので、ドクのところへは行かず、とりあえず真水で血を洗い流すだけにした。当然もの凄く痛んだけれど、診療室は先ほどの砲撃で傷ついた人で溢れているはずだ。こんな軽傷で、彼らの治療を邪魔したくはなかった。
とは言え索を手繰る作業もできないので、ゲラードは代わりに見張りに立たせてもらうことにした。
アクシング号は、マリシュナ号の前方で船首を転回していた。こちらの船を回り込んで、再び風上から近づこうとしているのだろう。あとどのくらいの時間が残されているのかはわからないが、ただ何かを待つ時間の緊張感は、じりじりと心を苛んだ。
「船長は何を待っているんだろう」
ゲラードが呟くと、同じく見張りをしていた掌帆手のジェンキンズが聞きつけた。
「極の海がどういう場所か、知らんのか?」
ゲラードは曖昧に頷いた。
「この世界の果てで……魔物が多い海域だということくらいしか」
長きに亘って、極の海の存在そのものが教会によって秘匿されてきた。語るべき話が少ないのは、この海から帰還する船乗りが少なかったせいもある。船の周囲では、獲物を逃して苛立つ海狼の背びれがいくつも覗いては、また波間に消えていた。
「そうさ。だが、ここいらに棲むのはおっそろしい化け物だけじゃねえ。このあたりはな……」声をひそめた。「人魚の縄張りなんだ」
ゲラードは目を丸くした。「本当に?」
おうよ、とジェンキンズは言った。
「オルノアの話は知ってるだろ?」
ゲラードは頷いた。オルノアは神話ほど古い時代に栄えた国で、天変地異によって海の底に沈んでしまったという伝説がある。
「それがこのあたりにあると?」
おうよ、と彼は言った。
「なんでも、金銀財宝で溢れてるって話だ。そんで、人魚はその宝を守ってる」ジェンキンズは言った。「だから、このあたりでさっきみたいなドンパチをしでかしゃ、必ず連中が怒って何かを仕掛けてくる」
「なるほど」
ゲラードにも、それでようやく納得がいった。フーヴァルは人魚の加勢を待っているのか。
「いままでに、人魚を見たことが?」
アクシング号と水平線とを油断なく見張りながらも、ゲラードはつい尋ねていた。こういう話に目を輝かせずにいるのは難しい。
「声だけはな。そりゃあ厄介なモンだ。運が悪けりゃ気が触れちまうことだってある。だから、連中の声が聞こえたら耳を塞いで、近くにいる仲間の目を覗き込む。そこに赤い色が見えたら、幻惑されかかってるってことだ。だからよ、そうなったら……」
「そうなったら?」
ジェンキンズは肩をすくめた。「ぶん殴って気を失わせる」
なるほど。実に効果的だ。
「覚えておく」
ゲラードが言うと、ジェンキンズはハハハと笑った。
「この海域をずうっといくとよ、そこはあの世だって話だ。だからここは、言ってみりゃこの世とあの世の隙間なのよ。この世の常識ってもんが通用しねえ。妖精とか魔物とかってのは、そういう場所が好きなんだ」
ゲラードは息を呑んだ。
そうだ。僕はいま、あの極の海にいるんじゃないか。
現実の展開が早すぎて、幼い頃に何度も夢見た冒険に追いつき──追い越そうとしていることにさえ気付いていなかった。
「この海域をさらに南下しようとすると、流れがきついわ蜃気楼が出るわで、到底海の果てにはたどり着けねえ」ジェンキンズは一呼吸置いて、生徒の顔を見る教師のように、ゲラードの顔をじっと見つめた。「わかるか? これ以上先は、俺たちにゃ許されない領域ってことだ」
「なんだ爺さん、いい聞き手を見つけたな」
通りすがりに若い掌帆手が冷やかしていったが、ゲラードは真剣な面持ちで頷いた。
「よくわかった。教えてくれてありがとう」
「なに、いいってことよ。他の連中にもお前さんくらい可愛げがありゃあな!」
ゲラードは改めて、周囲に広がる海を見渡した。
黒々とした波の色は、巨大な潮流の持つ底知れない力を感じさせる。この海の底になにが潜んでいるのかを考えるのは、昂揚すると共に、怖ろしくもあった。
この海は何かを秘め……そして、守っている。そんな風に感じたのは、ジェンキンズの昔話のせいだろう。
そうこうしているうちに、アクシング号の船影が、再びこちらに迫ってきた。
今度は、誰も狼狽しなかった。この先に待ち受けているのが何であれ、それを受け入れる覚悟ができているのだ。
日照りと、それを照り返す波の輝きの中から、アクシング号が近づく。
「間もなく、射程範囲内! 射程内まであと十……九……」ジェンキンズが声を張り上げる。
船首像の表情までくっきりと見通せるほどの近さになったとき、不思議な音を聞いたような気がして、ゲラードは頭を巡らせた。
なんだろう。
「この……声?」
それは、今まで聞いたこともないような音色だった。
「五……四……」
同じ音に気付いた、他の船乗りたちが顔を見合わせる。そして、誰かが叫んだ。
「耳を塞げ!!」
「三……!」
指示が聞こえなかったらしいジェンキンズの耳を、駆けつけた別の船員が引っ張る。事態に気付いたジェンキンズはハッとして、呆然と立っているゲラードの手を掴むと、耳に押し当てるよう指示した。ゲラードがその通りにすると、彼は口の形だけでこう言った。
「人魚だ」
船乗りたちは甲板にしゃがみこみ、耳を塞いだまま互いの目を見つめている。そこに赤い色が現れたら、幻惑の虜になりかけている証拠だ。ゲラードのことはジェンキンズが見てくれていた。
ありがたい。痛む手を庇っているせいで、ゲラードにはどうしても耳を覆い尽くすことができなかったのだ。もし自分の目が赤くなったら、しっかりとぶん殴ってもらえるはずだ。
そんなことを考えている間にも、不思議な音色は聞こえ続けた。
まるで、波間を滑る鴎のように軽やかな声。その一筋の音色が、潮騒や船の軋みをすべて押しやって響いてくる。
この言語を、人が理解するのは不可能だろう。その声には、常人の耳では捉えきれない震えや抑揚、何かを叩いたり引っ掻いたりするみたいな──コココ、ギギギというような──不思議な音が混ざり合っていた。やがてその旋律に、いくつもの別の声が覆い被さる。無数の声は縒り糸のようにあわさり、うねり、高まって、妙なる楽の音を作り上げていた。
何を意味するのかはわからない。だが、これが『歌』であることはわかる。
さらに言うならば、『何かを求める歌』であることが。
人魚の歌は天に昇るように高まって、それから消えた。
どうやら幻惑させられずに済んだらしい、とホッと胸を撫で下ろしたとき、目を丸くしてこちらを見つめているジェンキンズに気付いた。
「お前さん……その目……」
「僕の目に何か──?」
次の瞬間、地響きかと思うほど怖ろしい音がした。船員たちは耳を塞いでいた手を放し、我先にと舷側に向かう。
皆の視線の先にあったのは、アクシング号──その船尾付近の海面に、山のようなものが隆起しつつあった。
「あれは……!?」
「うわ、来たぞ!」
誰かが、畏怖を込めて呟いた。
「来たって、何が?」どうやら、わかっていないのはゲラードだけらしい。
「見てりゃわかる」ジェンキンズが言った。「ほら!」
山と見えたものは、盛り上がった海面からゆっくりと姿を現した。それは、幾度となく耳にし、また読んだ物語から思い描いていたのとはかけ離れた──いや、それを遙かに超える姿だった。
海竜。この海という領域の真の支配者。
ゲラードは思わず、声に出して呟いていた。
「あんな……ものが……」
鴨の羽の青、孔雀石の翠、曙の黄色、葡萄酒色、それから、名前もわからぬ色が混ざり合う形容しがたい色彩の鱗の中に、魚を思わせる大きな目玉が、まるで燃えているかのようにギラギラと輝いていた。口から突き出た牙はねじ曲がり、ところどころフジツボが付着している。頭部の両脇に拡げられた雄黄色の鰭は、アクシング号の主檣帆より二回りも大きい。さっきあんなに立派に見えたアクシング号が、いまではいかにも頼りなげな小舟のように見えた。
海竜が口を開けると、轟くような音がした。海風がその巨大な口に吹き込み、鰓の隙間を拡げて通っていくところまではっきりと見える。腐臭のような、なんとも生臭い匂いがここまで漂ってきて、何人かは吐き気を堪えるように手に口を当てた。
皆が息を呑む中、海竜は海面に背を伸ばした。海水は滝のように体表を流れ落ち、アクシング号の甲板に降り注ぐ。海竜はうねりながら、主檣よりも遙かに高く伸び上がった。
一瞬、時が止まった。
それから、海竜はゆっくりと横倒しになった。もはや逃げる術もなく海に浮かぶアクシング号を、その巨体の下敷きにして。
怖ろしい音がした。
船影が見えなくなるほど高々とあがった波飛沫は、いつまでもおさまらなかった。丘ほどもある波がこちらに押し寄せ、マリシュナ号は何度も、大きく揺れた。
長い、長い時間がかかったような気がした。そして、荒ぶる波がようやく落ち着いた頃──アクシング号があった場所には、船の残骸しか残っていなかった。
悲鳴がここまで聞こえたわけではない。けれど、断末魔の叫びが、ゲラードの耳にこびりついたように思えた。
マリシュナ号の船上で、歓声を上げる者は誰ひとりとしていなかった。
海竜の姿を生きて他者に伝える者は少ない。その理由が、今わかった。
あのあと、ジェンキンズがこっそり耳打ちしてくれた。
「お前さんの目、ドクに診てもらった方がいい」と。
どういうことか尋ねると、とにかく見てもらえの一点張りだ。だが、理由もわからないのにドクの手を患わせるのは避けたい。しつこく食い下がると、彼はようやく教えてくれた。
「お前さんの目に、銀色の欠片みたいなもんが見えたんだよ。ナドカでもないのに、あれはどうも尋常じゃねえぞ」
目が銀色になるという話は、ゲラードも聞いたことがなかった。
もしかしたら、ジェンキンズの勘違いだったかもしれない。というより、そうであって欲しいという気持ちが大きかったので、ゲラードはそのことを胸にしまって、そのまま──半分は意図的に──忘れてしまった。
フーヴァルはアクシング号の犠牲者を顧みず、船をコルパス・イサスへ向けて出発させた。
「まだ息が残っているものがいるかもしれない」
ゲラードが言うと、彼はこちらを馬鹿にしたいときに浮かべる表情を浮かべた。
「あの海竜を見てねえのか? 海狼の群れは?」
「もちろん見た。だけど──」
「連中は、この海域で大砲をバカスカぶっ放して、勝手に自滅したんだ。俺が助けてやる義理はねえよ」
「だが、救える命があるかも──」
フーヴァルは最後まで言わせなかった。ゲラードのシャツの襟を掴んで、皆から影になっている後部甲板の壁に、背中を押しつけた。
太陽を背にした彼の顔に、濃い影が落ちる。その口元から覗く歯列は、まるで鮫のように鋭い。彼がこんな風に──ナドカの性質を露わにするところを見るのは初めてだった。
「連中が死ぬのは、弱いからだ」フーヴァルは言った。「弱いのは馬鹿だからだ。馬鹿なのは、賢くなるのを諦めたからだ。いいか? 船に乗る前に少しでも調べりゃ、この海域で騒ぎを起こすのがどれだけ愚かなことかわかったはずだ。だが、連中はそれをしなかった。自業自得だ」
「そうかもしれないが……」
「馬鹿に手を差し伸べても、また別の何かに助けてもらうために生き存えるだけだ。そのくせ、助けてもらえねえと見るや文句だけはデカい声で並べ立てやがる。自分がいかに惨めな存在かってのを、恥ずかしげもなく晒しながらな」
ゲラードは思った。自分はいま、フーヴァルの中にある行動原理──彼を突き動かす怒りの一端に触れているのだと。今までにも何度か、彼の怒りを感じたことはあった。だが、これは限りなく……彼の根源に近いところにある。
だが、その怒りをなだめるために、自分を曲げることもできない。
「君の言うことも……正しいんだろう。ある意味では」ゲラードはゆっくりと言った。「でもそれだけでは、どこにもたどり着けない」
フーヴァルは鼻を鳴らした。笑おうとしたのだろうけれど、自分で思っているほど上手く装えてはいない。
「なら、何があればたどり着けるんだ、ゲラード?」
ゲラードが答えずにいると、彼はもう一度──今度はさっきよりも上手に──ゲラードをせせら笑った。
「お前にもわかってないから、国から逃げ出して、妹からも命を狙われて、死人同然の身分になってるんじゃねえのか、なあ?」
怒りに満ちた眼差しを見つめて、ゲラードは思う。
ああ、アクシング号の乗組員を救う道はないのだ、と。
彼らの命を諦めながら、ゲラードは、フーヴァルの言葉から逃げなかった。
「その通りだ」
フーヴァルはしばらくの間ゲラードの目を見つめていた。それから顔を逸らして、背を向けた。
「さっさとドクのところに行け」唸るように、彼は言った。「次に同じことを言わせたら、海に放り投げるぞ」
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