完結【日月の歌語りⅢ】 蒼穹と八重波

あかつき雨垂

文字の大きさ
上 下
6 / 31

10

しおりを挟む
      10
 
 フーヴァルがゲラードに割り当てた役割はポンプ係だった。船底に溜まって悪臭を放つ、ビルジと呼ばれる汚水を船外へ排出するためのポンプだ。もちろん、一日中かかる仕事ではない。汚水の処理を任されても音を上げないとみるや、誰もがゲラードを捕まえて細かな雑用を押しつけていった。調理師に製綱師、掌帆手──この船のほぼ全員が、彼を頼った。
 そして、彼がバウワーの下で見習い水夫となって三日目には、船に張り巡らされたほとんどすべての索と設備の名前と役割を覚えていた。
 船員たちが揶揄からかい混じりに「よおガル、これは何だ?」と指さして尋ねれば、
主檣上部帆メイントップスル揚げ索ハリヤード主檣上部帆メイントップスルの上げ下げに使う動索」
「上部甲板捲上機キャプスタン。レバーをとりつけて人力で回転させ、荷の積み降ろしに使う」と、すらすらと答えを出す。
前檣フォアスル転桁索ブレースはどれだ」と聞けば、迷いなく正しい索を指さす。
巻き結びクローブ・ヒッチをしてみろ」と言って索と棒を手渡せば、数秒でほぼ完璧な結び目をつくってみせる。
 ゲラードは馬鹿ではない。それは認めなければならない。
 とは言え、フーヴァルが「主檣メインマスト檣楼トップに上がってみろ」とけしかけたときには、そう簡単にはいかなかった。
 ゲラードはおっかなびっくり段索ラットラインを登った。途中まではまだ良かったのだが、途中でうっかり下を見てしまった。足を滑らせて落ちれば容赦なく死ぬ高さだ。案の定、吐きそうな顔をしている。
「頑張れ!」
「もう少しだ! 下を見るなよ!」
「日が暮れちまうぞぉ」
 船乗りたちは甲板からやんやとはやし立てながら、無事たどり着けるかどうかで賭けをしている。
 船は外洋にあって、風は強く、一つの波は大きい。太陽はまだ西の地平線の上にあるが、あと数分もすれば光が弱まり、薄闇が覆い被さってくるだろう。大きく横揺れローリングする船の上で、縄梯子を頼りに檣楼トップに登るのは──齢三日の船乗りには大層な試練だ。
 段索ラットライン檣楼トップの真下で一度収束している。そこから足場に登るためには、逆傾斜の段索──檣楼下横静索フトックシュラウドを使う必要がある。足を滑らせれば、急な傾斜の段索に手だけでぶらさがることになる。不幸にもそうなった新人船乗りがあげる悲鳴は、退屈を持て余した熟練船乗りオールド・タールにとって何よりも耳に楽しい音楽だった。
「ラバースホールに頭を突っ込む方に十レー賭ける」と誰かが言い出し、すぐさま別の者がその賭けに乗った。
 檣楼トップの足場には索具リギンを通すための穴が開いている。人一人が通れるほどの隙間はないのだが、不慣れなものは、どうにかしてその穴から上に登ろうとする。不器用者の穴ラバースホールと呼ばれるのはそのせいだ。
 ゲラードはすこしの間その穴を見つめたあと、意を決して逆傾斜の段索ラットラインに手を掛けた。甲板からは悲喜こもごもの歓声が上がる。
 そして、登攀開始から三十分かけてようやく、ゲラードが檣楼トップにたどり着いた。勝ち誇ったように片手を突き上げる彼に、皆やれやれと──だがまんざらつまらない見世物でもなかったという顔で──笑い、掛け金のやりとりをしてから、それぞれの持ち場に戻っていった。
 フーヴァルはゲラードの登った跡を辿り、ものの数秒で檣楼トップに乗り込んだ。
「そうやって、僕を間抜けに見せようという魂胆か」
「ああ。うってつけだろ」
「悔しいけど、反論はできないな」
 ゲラードは言ったが、横顔は達成感に輝いていた。自分を取り囲む海の広漠さ、その光景に夢中になっている。
 気持ちはわかる。長いこと海上で暮らしてきたフーヴァルでさえ、ここから眺める景色に感嘆しない時はない。
 まるで、ゲラードの挑戦を見届けて満足したかのように、いまちょうど太陽が水平線に身を浸したところだった。
 燃えるような斜陽の色彩が西の空に滲み、ゆっくりと、だが確実に、夜の色合いと融け合ってゆく。波間に散らばる黄金の輝きも、眠るように消えてゆく。この瞬間は、太陽から世界にもたらされる、その日最後の祝福だ。
 夜の間、船乗りはあえて風を追わない。だから、ここからは静の時間、休息の時間だ。もう間もなく甲板上のランタンに灯りがともされ、どこからともなく楽の音が聞こえはじめるだろう。そして誰もが、海原に浮かぶ木の葉のような船の中で、互いの存在が自分にとっての錨となっていることを実感する。
 フーヴァルはこの時間が気に入っていた。
 毎日、日が沈む度に黄昏たそがれている余裕があるわけではない。けれど──もし、運がよければ──こうして心静かに大洋を眺め、日中の慌ただしさに追いやられていた、海そのものに対する敬虔な気持ちを新たにすることができる。
 不思議なことに、ゲラードは初めから海──ひいては自然に対する敬虔さを備えているような気がした。いまだって、彼は至極穏やかな表情で、水平線に散らばる太陽の欠片を見つめている。
「いままでの航海とはずいぶん勝手が違うが、まだへこたれてないか?」
「ちっとも」ゲラードは言った。
 彼を船に乗せて七日になる。王子様の甘やかされた肌は波と潮風の洗礼を受けて荒れ、日に焼けて痛々しいほど赤くなっている。それでも、彼は泣き言一つ漏らさなかった。そうしなければ、自分の居場所を失うと考えているようだ。
 フーヴァルの目には、彼はこの生活そのものに、あえて打ち込んでいるように見えた。現実を忘れるためか、それとも、忘れることができないゆえに他のもので覆い隠しているのか。
「素質はあるみたいだな」
 フーヴァルの言葉に、ゲラードの顔がぱっと明るくなった。
「本当に?」
 それから、また遠くを見るような表情に戻った。あと二日ほどでこの船旅が終わることを思い出したのだろう。小大陸とも呼ばれるダイラの島ダラニアから大蒼洋を経たマリシュナ号は、明後日には、東方大陸の西南端にあるナルバニアに到着する。この小さな半島国は、ダイラの古くからの同盟国だった。
「本当は……このままずっと、この船で旅をしたい」
 叶わぬ夢だとわかりきった声で、ゲラードがぽつりと溢した。
 そういう弱さを見ると、いつも怒りが沸き起こってくる。フーヴァルは、それをどうしても、抑えることができなかった。
「この船に、は乗せられない」フーヴァルは言った。「負け犬を乗せる余裕はねえぜ」
 ゲラードは、傷ついたそぶりさえ見せなかった。彼はただこう言った。
「ああ」そして、静かに微笑んだ。「ああ、わかっている」
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

獣人将軍のヒモ

kouta
BL
巻き込まれて異世界移転した高校生が異世界でお金持ちの獣人に飼われて幸せになるお話 ※ムーンライトノベルにも投稿しています

記憶喪失になった嫌われ悪女は心を入れ替える事にした 

結城芙由奈@コミカライズ発売中
ファンタジー
池で溺れて死にかけた私は意識を取り戻した時、全ての記憶を失っていた。それと同時に自分が周囲の人々から陰で悪女と呼ばれ、嫌われている事を知る。どうせ記憶喪失になったなら今から心を入れ替えて生きていこう。そして私はさらに衝撃の事実を知る事になる―。

君に望むは僕の弔辞

爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。 全9話 匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意 表紙はあいえだ様!! 小説家になろうにも投稿

侯爵令息セドリックの憂鬱な日

めちゅう
BL
 第二王子の婚約者候補侯爵令息セドリック・グランツはある日王子の婚約者が決定した事を聞いてしまう。しかし先に王子からお呼びがかかったのはもう一人の候補だった。候補落ちを確信し泣き腫らした次の日は憂鬱な気分で幕を開ける——— ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 初投稿で拙い文章ですが楽しんでいただけますと幸いです。

キサラギムツキ
BL
長い間アプローチし続け恋人同士になれたのはよかったが…………… 攻め視点から最後受け視点。 残酷な描写があります。気になる方はお気をつけください。

【完結・BL】胃袋と掴まれただけでなく、心も身体も掴まれそうなんだが!?【弁当屋×サラリーマン】

彩華
BL
 俺の名前は水野圭。年は25。 自慢じゃないが、年齢=彼女いない歴。まだ魔法使いになるまでには、余裕がある年。人並の人生を歩んでいるが、これといった楽しみが無い。ただ食べることは好きなので、せめて夕食くらいは……と美味しい弁当を買ったりしているつもりだが!(結局弁当なのかというのは、お愛嬌ということで) だがそんなある日。いつものスーパーで弁当を買えなかった俺はワンチャンいつもと違う店に寄ってみたが……────。 凄い! 美味そうな弁当が並んでいる!  凄い! 店員もイケメン! と、実は穴場? な店を見つけたわけで。 (今度からこの店で弁当を買おう) 浮かれていた俺は、夕飯は美味い弁当を食べれてハッピ~! な日々。店員さんにも顔を覚えられ、名前を聞かれ……? 「胃袋掴みたいなぁ」 その一言が、どんな意味があったなんて、俺は知る由もなかった。 ****** そんな感じの健全なBLを緩く、短く出来ればいいなと思っています お気軽にコメント頂けると嬉しいです ■表紙お借りしました

なんども濡れ衣で責められるので、いい加減諦めて崖から身を投げてみた

下菊みこと
恋愛
悪役令嬢の最後の抵抗は吉と出るか凶と出るか。 ご都合主義のハッピーエンドのSSです。 でも周りは全くハッピーじゃないです。 小説家になろう様でも投稿しています。

【短編】乙女ゲームの攻略対象者に転生した俺の、意外な結末。

桜月夜
BL
 前世で妹がハマってた乙女ゲームに転生したイリウスは、自分が前世の記憶を思い出したことを幼馴染みで専属騎士のディールに打ち明けた。そこから、なぜか婚約者に対する恋愛感情の有無を聞かれ……。  思い付いた話を一気に書いたので、不自然な箇所があるかもしれませんが、広い心でお読みください。

処理中です...