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フーヴァルがゲラードに割り当てた役割はポンプ係だった。船底に溜まって悪臭を放つ、淦と呼ばれる汚水を船外へ排出するためのポンプだ。もちろん、一日中かかる仕事ではない。汚水の処理を任されても音を上げないとみるや、誰もがゲラードを捕まえて細かな雑用を押しつけていった。調理師に製綱師、掌帆手──この船のほぼ全員が、彼を頼った。
そして、彼がバウワーの下で見習い水夫となって三日目には、船に張り巡らされたほとんどすべての索と設備の名前と役割を覚えていた。
船員たちが揶揄い混じりに「よおガル、これは何だ?」と指さして尋ねれば、
「主檣上部帆揚げ索。主檣上部帆の上げ下げに使う動索」
「上部甲板捲上機。レバーをとりつけて人力で回転させ、荷の積み降ろしに使う」と、すらすらと答えを出す。
「前檣転桁索はどれだ」と聞けば、迷いなく正しい索を指さす。
「巻き結びをしてみろ」と言って索と棒を手渡せば、数秒でほぼ完璧な結び目をつくってみせる。
ゲラードは馬鹿ではない。それは認めなければならない。
とは言え、フーヴァルが「主檣の檣楼に上がってみろ」とけしかけたときには、そう簡単にはいかなかった。
ゲラードはおっかなびっくり段索を登った。途中まではまだ良かったのだが、途中でうっかり下を見てしまった。足を滑らせて落ちれば容赦なく死ぬ高さだ。案の定、吐きそうな顔をしている。
「頑張れ!」
「もう少しだ! 下を見るなよ!」
「日が暮れちまうぞぉ」
船乗りたちは甲板からやんやとはやし立てながら、無事たどり着けるかどうかで賭けをしている。
船は外洋にあって、風は強く、一つの波は大きい。太陽はまだ西の地平線の上にあるが、あと数分もすれば光が弱まり、薄闇が覆い被さってくるだろう。大きく横揺れする船の上で、縄梯子を頼りに檣楼に登るのは──齢三日の船乗りには大層な試練だ。
段索は檣楼の真下で一度収束している。そこから足場に登るためには、逆傾斜の段索──檣楼下横静索を使う必要がある。足を滑らせれば、急な傾斜の段索に手だけでぶらさがることになる。不幸にもそうなった新人船乗りがあげる悲鳴は、退屈を持て余した熟練船乗りにとって何よりも耳に楽しい音楽だった。
「ラバースホールに頭を突っ込む方に十レー賭ける」と誰かが言い出し、すぐさま別の者がその賭けに乗った。
檣楼の足場には索具を通すための穴が開いている。人一人が通れるほどの隙間はないのだが、不慣れなものは、どうにかしてその穴から上に登ろうとする。不器用者の穴と呼ばれるのはそのせいだ。
ゲラードはすこしの間その穴を見つめたあと、意を決して逆傾斜の段索に手を掛けた。甲板からは悲喜こもごもの歓声が上がる。
そして、登攀開始から三十分かけてようやく、ゲラードが檣楼にたどり着いた。勝ち誇ったように片手を突き上げる彼に、皆やれやれと──だがまんざらつまらない見世物でもなかったという顔で──笑い、掛け金のやりとりをしてから、それぞれの持ち場に戻っていった。
フーヴァルはゲラードの登った跡を辿り、ものの数秒で檣楼に乗り込んだ。
「そうやって、僕を間抜けに見せようという魂胆か」
「ああ。うってつけだろ」
「悔しいけど、反論はできないな」
ゲラードは言ったが、横顔は達成感に輝いていた。自分を取り囲む海の広漠さ、その光景に夢中になっている。
気持ちはわかる。長いこと海上で暮らしてきたフーヴァルでさえ、ここから眺める景色に感嘆しない時はない。
まるで、ゲラードの挑戦を見届けて満足したかのように、いまちょうど太陽が水平線に身を浸したところだった。
燃えるような斜陽の色彩が西の空に滲み、ゆっくりと、だが確実に、夜の色合いと融け合ってゆく。波間に散らばる黄金の輝きも、眠るように消えてゆく。この瞬間は、太陽から世界にもたらされる、その日最後の祝福だ。
夜の間、船乗りはあえて風を追わない。だから、ここからは静の時間、休息の時間だ。もう間もなく甲板上のランタンに灯りがともされ、どこからともなく楽の音が聞こえはじめるだろう。そして誰もが、海原に浮かぶ木の葉のような船の中で、互いの存在が自分にとっての錨となっていることを実感する。
フーヴァルはこの時間が気に入っていた。
毎日、日が沈む度に黄昏れている余裕があるわけではない。けれど──もし、運がよければ──こうして心静かに大洋を眺め、日中の慌ただしさに追いやられていた、海そのものに対する敬虔な気持ちを新たにすることができる。
不思議なことに、ゲラードは初めから海──ひいては自然に対する敬虔さを備えているような気がした。いまだって、彼は至極穏やかな表情で、水平線に散らばる太陽の欠片を見つめている。
「いままでの航海とはずいぶん勝手が違うが、まだへこたれてないか?」
「ちっとも」ゲラードは言った。
彼を船に乗せて七日になる。王子様の甘やかされた肌は波と潮風の洗礼を受けて荒れ、日に焼けて痛々しいほど赤くなっている。それでも、彼は泣き言一つ漏らさなかった。そうしなければ、自分の居場所を失うと考えているようだ。
フーヴァルの目には、彼はこの生活そのものに、あえて打ち込んでいるように見えた。現実を忘れるためか、それとも、忘れることができないゆえに他のもので覆い隠しているのか。
「素質はあるみたいだな」
フーヴァルの言葉に、ゲラードの顔がぱっと明るくなった。
「本当に?」
それから、また遠くを見るような表情に戻った。あと二日ほどでこの船旅が終わることを思い出したのだろう。小大陸とも呼ばれるダイラの島から大蒼洋を経たマリシュナ号は、明後日には、東方大陸の西南端にあるナルバニアに到着する。この小さな半島国は、ダイラの古くからの同盟国だった。
「本当は……このままずっと、この船で旅をしたい」
叶わぬ夢だとわかりきった声で、ゲラードがぽつりと溢した。
そういう弱さを見ると、いつも怒りが沸き起こってくる。フーヴァルは、それをどうしても、抑えることができなかった。
「この船に、全員は乗せられない」フーヴァルは言った。「負け犬を乗せる余裕はねえぜ」
ゲラードは、傷ついたそぶりさえ見せなかった。彼はただこう言った。
「ああ」そして、静かに微笑んだ。「ああ、わかっている」
フーヴァルがゲラードに割り当てた役割はポンプ係だった。船底に溜まって悪臭を放つ、淦と呼ばれる汚水を船外へ排出するためのポンプだ。もちろん、一日中かかる仕事ではない。汚水の処理を任されても音を上げないとみるや、誰もがゲラードを捕まえて細かな雑用を押しつけていった。調理師に製綱師、掌帆手──この船のほぼ全員が、彼を頼った。
そして、彼がバウワーの下で見習い水夫となって三日目には、船に張り巡らされたほとんどすべての索と設備の名前と役割を覚えていた。
船員たちが揶揄い混じりに「よおガル、これは何だ?」と指さして尋ねれば、
「主檣上部帆揚げ索。主檣上部帆の上げ下げに使う動索」
「上部甲板捲上機。レバーをとりつけて人力で回転させ、荷の積み降ろしに使う」と、すらすらと答えを出す。
「前檣転桁索はどれだ」と聞けば、迷いなく正しい索を指さす。
「巻き結びをしてみろ」と言って索と棒を手渡せば、数秒でほぼ完璧な結び目をつくってみせる。
ゲラードは馬鹿ではない。それは認めなければならない。
とは言え、フーヴァルが「主檣の檣楼に上がってみろ」とけしかけたときには、そう簡単にはいかなかった。
ゲラードはおっかなびっくり段索を登った。途中まではまだ良かったのだが、途中でうっかり下を見てしまった。足を滑らせて落ちれば容赦なく死ぬ高さだ。案の定、吐きそうな顔をしている。
「頑張れ!」
「もう少しだ! 下を見るなよ!」
「日が暮れちまうぞぉ」
船乗りたちは甲板からやんやとはやし立てながら、無事たどり着けるかどうかで賭けをしている。
船は外洋にあって、風は強く、一つの波は大きい。太陽はまだ西の地平線の上にあるが、あと数分もすれば光が弱まり、薄闇が覆い被さってくるだろう。大きく横揺れする船の上で、縄梯子を頼りに檣楼に登るのは──齢三日の船乗りには大層な試練だ。
段索は檣楼の真下で一度収束している。そこから足場に登るためには、逆傾斜の段索──檣楼下横静索を使う必要がある。足を滑らせれば、急な傾斜の段索に手だけでぶらさがることになる。不幸にもそうなった新人船乗りがあげる悲鳴は、退屈を持て余した熟練船乗りにとって何よりも耳に楽しい音楽だった。
「ラバースホールに頭を突っ込む方に十レー賭ける」と誰かが言い出し、すぐさま別の者がその賭けに乗った。
檣楼の足場には索具を通すための穴が開いている。人一人が通れるほどの隙間はないのだが、不慣れなものは、どうにかしてその穴から上に登ろうとする。不器用者の穴と呼ばれるのはそのせいだ。
ゲラードはすこしの間その穴を見つめたあと、意を決して逆傾斜の段索に手を掛けた。甲板からは悲喜こもごもの歓声が上がる。
そして、登攀開始から三十分かけてようやく、ゲラードが檣楼にたどり着いた。勝ち誇ったように片手を突き上げる彼に、皆やれやれと──だがまんざらつまらない見世物でもなかったという顔で──笑い、掛け金のやりとりをしてから、それぞれの持ち場に戻っていった。
フーヴァルはゲラードの登った跡を辿り、ものの数秒で檣楼に乗り込んだ。
「そうやって、僕を間抜けに見せようという魂胆か」
「ああ。うってつけだろ」
「悔しいけど、反論はできないな」
ゲラードは言ったが、横顔は達成感に輝いていた。自分を取り囲む海の広漠さ、その光景に夢中になっている。
気持ちはわかる。長いこと海上で暮らしてきたフーヴァルでさえ、ここから眺める景色に感嘆しない時はない。
まるで、ゲラードの挑戦を見届けて満足したかのように、いまちょうど太陽が水平線に身を浸したところだった。
燃えるような斜陽の色彩が西の空に滲み、ゆっくりと、だが確実に、夜の色合いと融け合ってゆく。波間に散らばる黄金の輝きも、眠るように消えてゆく。この瞬間は、太陽から世界にもたらされる、その日最後の祝福だ。
夜の間、船乗りはあえて風を追わない。だから、ここからは静の時間、休息の時間だ。もう間もなく甲板上のランタンに灯りがともされ、どこからともなく楽の音が聞こえはじめるだろう。そして誰もが、海原に浮かぶ木の葉のような船の中で、互いの存在が自分にとっての錨となっていることを実感する。
フーヴァルはこの時間が気に入っていた。
毎日、日が沈む度に黄昏れている余裕があるわけではない。けれど──もし、運がよければ──こうして心静かに大洋を眺め、日中の慌ただしさに追いやられていた、海そのものに対する敬虔な気持ちを新たにすることができる。
不思議なことに、ゲラードは初めから海──ひいては自然に対する敬虔さを備えているような気がした。いまだって、彼は至極穏やかな表情で、水平線に散らばる太陽の欠片を見つめている。
「いままでの航海とはずいぶん勝手が違うが、まだへこたれてないか?」
「ちっとも」ゲラードは言った。
彼を船に乗せて七日になる。王子様の甘やかされた肌は波と潮風の洗礼を受けて荒れ、日に焼けて痛々しいほど赤くなっている。それでも、彼は泣き言一つ漏らさなかった。そうしなければ、自分の居場所を失うと考えているようだ。
フーヴァルの目には、彼はこの生活そのものに、あえて打ち込んでいるように見えた。現実を忘れるためか、それとも、忘れることができないゆえに他のもので覆い隠しているのか。
「素質はあるみたいだな」
フーヴァルの言葉に、ゲラードの顔がぱっと明るくなった。
「本当に?」
それから、また遠くを見るような表情に戻った。あと二日ほどでこの船旅が終わることを思い出したのだろう。小大陸とも呼ばれるダイラの島から大蒼洋を経たマリシュナ号は、明後日には、東方大陸の西南端にあるナルバニアに到着する。この小さな半島国は、ダイラの古くからの同盟国だった。
「本当は……このままずっと、この船で旅をしたい」
叶わぬ夢だとわかりきった声で、ゲラードがぽつりと溢した。
そういう弱さを見ると、いつも怒りが沸き起こってくる。フーヴァルは、それをどうしても、抑えることができなかった。
「この船に、全員は乗せられない」フーヴァルは言った。「負け犬を乗せる余裕はねえぜ」
ゲラードは、傷ついたそぶりさえ見せなかった。彼はただこう言った。
「ああ」そして、静かに微笑んだ。「ああ、わかっている」
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