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キャトフォードは、王都の北に迫り出した巨大な半島の先端にある村だ。鬱蒼とした森と、船を停泊させる余地もないほど切り立った崖に挟まれているせいで、陸の孤島に等しい。南の沖にあるアビタリー島に海上防衛の要所を譲ってしまって以来、ここは王族の避暑地の一つとなった。疑わしいが、罰するには今ひとつ確信が持てない者を、ほとぼりが冷めるまで監禁しておくための場所だ。悪名高き白茨砦よりは処刑台から遠いが、命を落とす者の数では決して引けを取らない。北から吹き付ける潮風に常に晒される劣悪な環境に身を置かれると、大抵の者は体調を崩すか、精神を病んでしまう。
ゲラードは、他の王族の中にある軟弱さと自分は無縁だと思っていた。だが、それは思い違いだったとすぐに痛感することになった。
剥き出しの石壁は冷たく、海に面して穿たれた小さな窓からは、細かな飛沫をはらんだ、身を切るような潮風が吹き込んでくる。寝台は木の板にわずかな藺草を振りかけただけのもので、百年前から湿ったままの火鉢には固まった灰が硬くこびりつき、ちっとも温まらない。この牢獄で寝起きをするようになって七日で、ゲラードは熱を出した。
ボーフォート公に仕えるルマソンという男が監獄の責任者だ。彼は監獄を居心地良い空間にすることには無頓着だったものの、高熱を訴えるとすぐに村医者を遣わせてくれた。だが医者は、効果の怪しい煎じ薬と、同じくらい信憑性のない瀉血を施して、さっさと退散してしまった。
訪れる者はなく、海鳥の声さえも遠い。
けれど、ここは孤独とは無縁の場所だった。
「やあ……また来てくれたのか」
ゲラードは、滲む視界の向こう側で蠢く何者かに声をかけた。その影は色や姿形を変えながら、窺うように──あるいは案ずるように、ゲラードの寝台を覗き込んでいる。
不思議だ。あり得ない。これは幻覚だ、と考える余裕があったのは、最初のうちだけだった。
初めのうちは、頼りない灯明が壁に投げかける、朧気な影かと思った。それが、見つめているうちに、まるで意思を持つかのように動き始めたのだ。壁に張り付いていた影に、ゲラードが注意を向ければ向けるほど、それは自由に形を変え、動き回る力を得るようだった。『影』が壁面から飛び出し、そこら中を飛び回るようになるまで、そう長い時間はかからなかった。
それは、獣じみたなにかの形を取ることもあれば、いくつもの輪を身に帯びた球体の形になることもある。虹色の蛇のようにも、色鮮やかな模様を持つ鳥のようにもなる。紅玉色に孔雀色、目の覚めるような番紅花色など、様々な色合いの渦や点線が体の上を自由に這い回り、一秒たりとも同じ姿でいることがない。
いままで、監獄と孤独とは切り離せないものなのだと思っていたのに。
ゲラードは、友達に向かって力なく手を振った。
「何のもてなしもできなくて……すまない」
話しかけると、友はその外見に目覚ましい変化を表す。まるで驚いているようだ。それが面白くて、ゲラードは朦朧としながらも、語りかける言葉を探すのだった。
「死期が近づいた者のところに来る妖精……君はそういう者なのかな」
友が、液体のように自由な体をくねらせて、疑問を呈する。
「それとも、冥界へ導く使いかな」
医者が匙を投げるのも無理はないと思う。幻覚を見るほどの高熱には、死以外のものは太刀打ちできないだろう。それでも、三日前よりは症状が軽くなったような気がする。その証拠……なのかどうかはわからないけれど、友が訪れる間隔が、徐々に開いてきた。
「悪いが、まだ君の……世話にはならないよ」
友は反論するように身体を捻り、赤い色でチカチカと瞬く。面白いことに、ゲラードには友の気持ちが理解できる気がした。
その時、監獄の階段を上ってくる足音がした。
友の姿が掻き消え……ほぼ同時に、鉄格子の向こうに見知った顔が現れる。
これは幻覚か? それとも、本物の──
「兄上……?」
ユージーン。面会を拒否し続けた兄が、ここに来てようやく話をする気になってくれたらしい。村医者の他には護衛一人を伴っているだけだ。それを信頼と考えて良いものだろうか。
兄は鉄格子の外から、ゲラードを見つめた。
「熱を出したと聞いたが」
「ええ……少し、持ち直しました」
兄は傍らの村医者に尋ねた。
「感染るのか?」
医者は、緊張から小刻みに震えながら言った。
「いいえ。しかしながら、あまりお近くにおいでにならない方がよろしいかと存じます」
「わかった」ユージーンは言い、牢番に鉄格子の鍵を開けさせた。
「しばらくふたりにするように。用があれば呼ぶ。階段の下に控えていろ」
ユージーンは監獄に入ってくると、囚人用の椅子を引きずり、寝台に半身を起こしたゲラードに向き合った。
いつの頃からだったろうか、ゲラードを見る兄たちの目が変わりはじめたのは。つい昨日まで家族に向ける優しい眼差しがあったはずのところに、ある日を境に、別の感情が居座っていた。まるで、遠ざけておくべきものを見るような。あるいは、家族の汚点を見るような。
いまのユージーンも、そんな目でゲラードを見ていた。
それを非難することが、ゲラードにできるはずもなかった。
「さて。お前が兄を殺し、俺をも殺そうとしていると聞いた」一呼吸置いて、ユージーンが尋ねた。「真実か」
ゲラードは笑ったら良いのか、怒ったらいいのか、それとも兄の正気を疑えば良いのか、一瞬だけ迷ってから冷静に返事をした。
「僕がそんなことをして何の意味がありますか? いったい誰が──」
「質問しているのは俺だ」ユージーンは言った。「はいかいいえで答えろ」
「いいえ。兄上たちに危害を加えようなどとは想像したこともありません」ゲラードはがさつく喉で言った。「それがいかに無意味なことか、よくご存じのはずです」
ユージーンはあくまでも冷静に、じっとゲラードを見つめた。
「お前は庶子だ」
その通りだ。だが、面と向かって言われると、少し堪える。自分の出自を恥じている──というのもそうだが、それ以上に、母を糾弾されている気がして。
ハロルド王の五人の子供の中で、ゲラードただ一人が、王の血を継いでいない。にもかかわらず、事実は公表されず、ゲラードも正式なハロルドの子として育てられた。
そうしなければ──妻の不義をなかったことにしなければ、ハロルドはエメラインを処刑しなくてはならなくなる。そんな決定を下すには、王は王妃を愛しすぎていた。
この秘密を知らぬものは宮廷内にはほとんどいない。失言一つで首が飛ぶことになると理解しているから口に出す者はないけれど、第四王子と他の兄妹との待遇の差を見れば、真実は一目瞭然だった。
「それでも建前上では、お前も王の息子だ」
「王位を望んだことなど──」ゲラードは勢い込んで言い、激しい咳に身体を折り曲げた。そして、絶え絶えになった息で続けた。「王位を望んだことなど、ありません。それくらいは弁えている!」
「では、俺が王になれば良いと思うのか?」
その質問に虚を突かれて、ゲラードは一瞬口ごもった。
ユージーンが良い王になるだろうか。刺客の影に怯えて、頑なに戴冠を拒否し、部屋に引きこもっていたユージーンが、民を導くことができるだろうか。
頭より先に、心が答えを出す。だが、それが顔に出る前に、ゲラードは頷いた。
「兄上が王にならなければ、この国は乱れます」
ユージーンはしばらくじっとゲラードを見つめていた。
それから、ぽつりと呟いた。
「なぜ、母上はお前を愛したのだろうな。お前一人を」
その時──その、ほんの一瞬、見慣れた兄の姿がわずかに揺らいだような気がした。水面に映った月を見ようとして、思いがけず水底の魚を見つけたかのように、視界が揺らめき、何かが、意識を過る。
「あなたは──ほんとうに、兄上ですか……?」
すると、兄は眉をつり上げ、立ち上がった。
「まだ熱があるようだ」ユージーンは冷ややかに吐き捨てた。「もう少しまともにものを考えられるようになってから、また質問をしよう。今度は刑吏を伴って来る」
看守を呼び、扉が開くと、兄はふり返らずに牢獄をあとにした。
どうやら、このままでは拷問は免れないらしい。
熱で朦朧とした頭でも、それは理解できる。そして、自分が痛みに耐えて真実を死守できるほど強い人間ではないということも。
拷問とは錬金術のようなものだ。熱や薬品を使って、物質そのものを変化させてしまう。そればかりか、本来はそこにない物を生じさせることだってできる。相手の望む答えを口にしさえすれば、耐えがたい痛みから解放されるのだとしたら、おそらく、ゲラードは屈してしまうだろう。そしてすべての罪をかぶって、処刑台に上ることになる。
「こんなことなら、とんずらこける時にそうしておけばよかったのかもしれない」
フーヴァル、君の言う通りに。
熱と栄養失調でひび割れた唇で呟いても、彼には届かない。
ビアトリス・ホーウッドとの婚約が決まったとき──曲がりなりにも王族である以上、いずれは誰かと結婚しなければならないとわかっていたはずなのに──自分の世界から光が消えたと思った。昨日まで自由に空を飛んでいたのに、いきなり鎖に繋がれ、頭巾をかぶせられた鷹になったような気分だった。
本当は、自由だった時なんてありはしないのだけれど。
フーヴァルは一度、たった一度だけ、一緒に逃げるかと聞いてくれた。
その誘いを断ったことを、後悔はしていない。
誰よりも自分自身が、責任から逃げるのを許せなかった。フーヴァルだって、その程度の男に興味はないはずだ。
それでも……。
それでも、死ぬ前にもう一度、彼に会いたかった。
兄の訪問からまた熱が上がった。横になっているのに、頭がぐるぐると回転しているようだ。目を動かすだけで鳴り響くような頭痛がする。拷問にかけられるまで生きてはいないかもしれない。それならそれでいい……そう思って目を閉じた。
どのくらい眠っただろう。浅い眠りと覚醒を何度も繰り返しながら、脈絡のない、けれど不快な夢を切れ切れに見ていた。だから頭の中で声がしたときにも、それが夢の続きであると信じて疑わなかった。
「殿下」
聞き覚えのない女性の声だ。夢にしては、やけに……質感がある。目を開けると、もう一度声がした。
「殿下」
幻聴だ。ゲラードの死を賭けた、病と精神衰弱と拷問とが繰り広げる競争が、いよいよもって混迷を極めてきたらしい。
「殿下、どうかお目覚めを」
反射的に、声のした方へ眼球を動かすと、割れるような頭痛に襲われる。ゲラードは呻きながら、おぼつかない手で目を覆った。
「ああ、殿下……おいたわしや」
幻聴、ではない。
ゲラードは、目を覆っていた手をゆっくりと持ち上げて、監獄を見回した。すると、来訪者がそこにいた。窓の狭い隙間にすっぽりとおさまる大きさの梟。黒々とした夜の海を背に、なおいっそう漆黒の梟だ。
人語を話す黒い梟がこの世に存在するのか、考えるまでもない。おかしな梟の存在が示すものは一つしかない。
「魔女……か?」
すると梟は、南瓜色の大きな目をしばたいた。
「さすがはゲラード殿下。我々のことにお詳しくていらっしゃる」
魔女の世辞には警戒すべしという有名なことわざがある。ゲラードはゆっくりと身を起こし、少しでも弱々しく見えないように、痛む関節を無視して背筋を伸ばした。
「君は誰だ? ここへはどのような用向きで来た?」
「わたしが何者かは重要ではございません。警告をしに参ったのでございます」
「警告?」
「間もなく、この部屋に刺客がやってきます。あなたを亡き者にするために」
靄のかかったようだった頭が、にわかに冴える。
「僕を──いったい誰が?」放っておいても、じきに死ぬのに。
心の中で考えたことを読んだように、梟は言った。
「いいえ、あなたはこんなことでは死にません」ほんの少しだけ目を細めると、笑顔を浮かべたように見える。「刺客の素性は、まだわかりません。しかしながら、このままではお命が危のうございます」
すると、背を向けていた鉄格子の方から、カチャリという音がした。振り返ってみると、扉の外に詰めていたはずの看守がいない。そして、固く閉ざされていたはずの鉄の扉が、誘うようにゆっくりと開いた。
「すべての鍵は開かれました」梟は言った。「しかしながら、看守がいないのは、わたしのせいではありません──何者かが、中から刺客を招いたからです。もう一刻の猶予もございませんよ」
「しかし──」生唾を飲み込む。「僕が逃げたら、残ったものに危害が及ぶのではないだろうか。グレイアムを殺した下手人は野放しだ。ユージーンやエレノアも……」
「残る方々のためにも、今はお逃げなさい」梟はきっぱりと言った。「あなたには生きていて頂かなくてはならないのです」
その口調に背中を押されたような気がして、ゲラードは立ち上がった。萎えた膝ががくんと折れて情けなくよろめいたものの、関節の痛みと頭痛はいくらか弱まっている。生死のかかった緊張感が高熱を追いやってくれたようだ。
だが、どこに向かえば?
運良く刺客の魔の手を逃れ、見張りの目をかいくぐることができたとしても、ゲラードの脱出はすぐに気付かれるだろう。馬も、旅支度もない。おまけに弱り切っているのだから、数刻も歩かぬうちに追いつかれてしまう。
馬を盗むか? そんな大それたことが、僕にできるのか?
「海に向かえば、活路が開けましょう」梟が言った。「急いで!」
何かが爆ぜるようなポンという音と共に、梟は黒煙となって消えた。
それ以上は、くよくよと考えなかった。
もつれそうになる脚を動かして、開いたままの扉を潜る。まるで夢の中の出来事のようにあっけなく、ゲラードは牢を抜け出た。だが、順調なのはそこまでだった。階段の下から、物音がする。迷いのない、静かな足取り。刺客がここまで来てしまったのだと、すぐにわかった。
このまま階下に降りれば、窓もない階段で真正面から出くわして一巻の終わりだ。
ゲラードはきびすを返し、階段を上へと駆け上がった。
さっき一瞬だけ取り戻した本調子を瞬く間に使い果たし、螺旋階段を三周もする頃には、また意識が朦朧としてきた。すぐ後ろに迫っている足音が、恐怖からくる幻聴なのか、それとも本物なのかも判断がつかない。壁についた手は痩せさらばえて、まるで冷たい骨のようなのに、体中を焦がすような熱に苛まれていた。息が苦しい。肺が焼け、炭のように硬く、黒くなってしまったのではないかと思う。ここで諦めて、冷たい刀身に身を投げてしまったらどんなにか楽だろう。
けれど──。
あなたには生きていて頂かなくてはならない。
その言葉が、差し伸べられた手のように──あるいは鞭のように、ゲラードの脚を前に進ませた。
いつの間にか、友が再び姿を現していた。
まるで宙を泳ぐ魚のような姿で、ゲラードを導いてゆく。胸の中で破裂しそうなほど脈打っているゲラードの心臓を真似ているのか、色彩を激しく点滅させている。
上へ上へと登った先に、何の勝算があるわけでもない。それでも、道は一つしかない。正しい場所へと続く道ではなかったとしても、なんとかしようと抗うしかないのだ。
いままでずっと、そうやって生きてきたのかと思うと、この期に及んで、なぜだか笑みが零れそうになった。
永遠に続くかと思われた螺旋階段が終わり、鋸壁に囲まれた屋上に出た。ここは、かつては見張り塔として使われていたのだろう。縁に駆け寄って壁の狭間から下を覗いてみると、塔がほとんど海に迫り出して建っているのがわかる。
海に向かえば活路が開ける──?
ここから飛び降りるなんて、正気の沙汰じゃ無い。それでも、やるしかないのか?
夜の闇の中では、海面までどのくらいあるのか──そこに岩礁や岩棚があるのかどうかもわからない。飛び降りた先が、硬い岩だったら?
闇の底に吸い込まれるように、目眩がした。そのまま、頭から落ちてしまうかと思ったとき、誰かに髪の毛を掴まれ、思いきり後ろに引っ張られた。
「どうやって抜け出した!」
刺客の声がくぐもっている。顔を見ると、彼は仮面をかぶっていた。滑らかな金属が形作る超然とした表情──なぜだか神を思わせる。まるで闇そのものが立ち現れたかのような黒尽くめの装束の中で、鈍い金色の仮面だけが、宙に浮かんでいるようだった。
体格はゲラードとそう変わらない。だが、弱り果てた自分に勝ち目はないだろう。
「放せ!」逃れようと、髪の毛を掴む手を引っ掻いてみる。
身を捩り、むやみやたらに蹴りつけてみても、刺客は微動だにしない。
刺客の背後で、友は奇妙な茸のような形に伸び上がりながら、興味深そうにこちらを眺めている。
「おとなしくしろ」
男の声は低い。訛りはない。これでは何の手がかりにもならない。
刺客はゲラードの髪を掴んだまま、鋸壁の小壁に押しつけた。そして、腰に帯びた鞘から細く鋭い短剣を抜いた。それで心臓をひと突きして殺すのだろう。病死や事故死に見せかけるつもりはないのだ。なりふり構わず、一刻も早く僕に死んで欲しいということだ。
それほどまでに恨まれるようなことをしたのだろうか。それほどまでに、僕が生きていることが誰かにとっての邪魔だったのか。
ゲラードは抵抗をやめた。抵抗するだけの力が、もう残っていなかった。
「誰の……差し金なんだ……!」
男は答えなかった。
その時、小さな蝶の形をした友が、男の鼻の頭にとまった。
一度、二度、ゆっくりと羽ばたく。
すると──ほんの一瞬、刺客が、わずかに肩の力を抜いた。まるで……いきなり呆けてしまったかのように。
何かを考える前に、身体が動いた。
刺客の手の中にある短剣を握る。虚を突かれた刺客が再び手に力を込める前に、思いきり手前に引く。柄と刀身の境目を掴んだせいで手に痛みが走ったけれど、そんなことはどうでもよかった。刺客がよろめき、ゲラードに倒れ込みそうになる。髪の毛を掴んだ手が、ぐいと下に引かれる。不自然な向きに曲げられた首が軋み、ブチブチと音を立てて髪が千切れる。ゲラードはもぎ取った短剣で、自分と刺客とを繋ぐ枷となってしまった金の髪を断ち切ると、空中を泳ぐ友のあとを追って鋸壁の狭間によじ登った。
「待て──!」
ゲラードは振り向かなかった。一瞬も躊躇わずに、虚空に身を躍らせた。
宙に浮いた身体より先に、内臓が下に落ち込むような、なんとも言えない感覚に襲われる。やがて、思い出したかのように落下が始まった。
自分を包み込む潮騒と、噎び泣くような風の音。上下逆さまになった世界。爪先の上の方で、刺客が悪態をついていた。
海面まであとどのくらいだろうかと考えたとき、衝撃と共に、意識が暗闇に溶けた。
6
気を失った──というか、フーヴァルが殴って気を失わせたゲラードを客用船室に運び込む。
「シドナのお怒りを買わなきゃいいですがね」
ずぶ濡れのゲラードを抱えたまま、そう溢したのは掌帆手のオーウィンだ。腕っ節の強いデーモンで、大の男一人くらいなら易々と運べる。
先に命じておいた通り、部屋の火鉢にはすでに炭が入っている。温もった部屋に入った途端、ゲラードの身体から潮の香りが濃く立ち上った。
「どちらに寝かせて差し上げましょ」
ゲラードの身体からは、ぽたぽたと海水が滴っていた。このまま寝棚に寝かせては寝具が駄目になる。
「まあ……床に転がしとけ、とりあえずな」
オーウィンは「へい」と言って、ゲラードをそっと床に降ろした。その横顔には、拭いきれない不安が浮かんでいる。
「心配するな。シドナが欲しがるのは海で死んだ人間の魂だ。こいつにゃ用無しだよ」フーヴァルはきっぱりと言った。「あとは俺がやるから、お前はドクを呼んでこい。ドクが素面じゃなかったら、ドーソンだけでいい」
「了解、船長」
フーヴァルはため息をついて、ゲラードを見下ろした。さっき一度息を吹き返したとは言え、船医が来るまで濡れ鼠のまま放っておけば、また死に近づいてシドナの注意を引いてしまうかもしれない。
〈水底のシドナ〉がどういった存在なのか、はっきりとはわかっていない。ある者は妖精だと言い、ある者は限りなく神に近いデーモンだという。魔女だという者もいる。いずれにしろ、死者の魂を集めるという伝承は同じだ。彼女の領内で死体を盗めば、災厄がどこまでも船を追いかけてくると恐れられている。
せっせと集めた魂で彼女が何をしているのかは知らないが、そこにゲラードの魂を加えてやるつもりはなかった。
フーヴァルは腰に帯びた短剣を抜いて、ゲラードにかがみ込んだ。濡れた服を脱がせるのは一苦労だ。いっそ切り裂いて捨ててしまう方が早い。
妙に薄汚れたシャツと脚衣を破ってみて、フーヴァルは驚いた。骨と皮……とまではいかないが、最後に見た時に比べれば、ずいぶん痩せてしまっている。あばらの浮いた胴に、筋張った手足。どう見ても健康体ではない。
「しばらく会わねえうちに、何があった……?」
その時、船室の扉をノックする音がした。返事をしないうちに戸が開いて、船医のフィッツウォーターが、助手のドーソンを連れて入ってきた。
彼は、床に裸で横たわるゲラードと、その上にかがみ込むフーヴァルを見比べた。
「ご無沙汰なのはわかるが、船長」赤ら顔の医師は重々しく言った。「時と場合は選んだほうがいいぞ」
ゲラードを拾って二日後、ドクがフーヴァルのいる船長室にやってきた。ドゥーガル・フィッツウォーター、通称医師は旧アルバ領出身の元罪人で、どうしようもない飲んだくれだが腕はいい。彼の見立てによれば、ゲラードが生きていたのは奇跡だという。
「まず、彼は病に冒されている。高熱、悪寒、関節痛……粟粒熱のような症状だが、発症したのは七日も前だそうだから、別の何かだろうな。いまは熱も下がって、落ち着いてる。このまま行けば、数日中には元気になるはずだ」彼は小さなフラスコの中身で舌を湿らせてから続けた。「こんな状態で、真冬の海を何時間も漂っていたんだから……本来なら、死んでいなきゃおかしいんだ──ただの人間ならな」
「どういうことだ? あいつは間違いなく人間だ。なんたって──」
王族なんだから、とは、口に出さなくても伝わる。ゲラードは幾度となくこの船に乗っているから、船員はほとんど、彼のことを知っている。
ボサボサの白髪頭を掻いて、ドクは言った。
「おそらく、何者かが彼を助けたんだろう」
もってまわった言い回しにもかかわらず、その場の空気が即座に変わった。
「何者か……」
溺れた人間とナドカにまつわる伝承の中で、一番有名なものといえば、一つしかない。
人魚だ。
奴らは一人の人間を気に入ると、飽くなき執着をもってどこまでもついてまわる。もしゲラードが連中に気に入られたのなら、面倒なことになるかもしれない。
「けっ」フーヴァルは吐き捨てるように笑った。「ま、悪運がいい奴なのは間違いねえな」
「まあ、いま考えてもどうにもならん。大事なのは、死んでないってこと。それよりも、だ」ドクが書き物机に顔を寄せると、酒の匂いがした。「この状況はまずい」
「ああ」フーヴァルは頷いた。
エイルの私掠船に、ダイラの王子が乗っている。しかもどうやら、きな臭い王族ばかりがぶち込まれる、あのキャトフォードを脱走してきたようだ。経緯はわからないし、脱走は九分九厘失敗していたが、それでもやってのけた。
「これは下手をすると、戦争に発展しかねんぞ」
フーヴァルは同意の印に低く唸った。
ゲラードがあそこに捕らえられていた理由が何であれ、王位相続がらみのゴタゴタに関係しているのは、ここ最近の情勢を見るに明らかだ。もしも──そんなことはまずあり得ないと思うが──ゲラードが何かの陰謀に関わっていたせいで監獄送りになったのだとしたら、今のこの状況は、国を揺るがす犯罪者の逃亡を、エイルが幇助しているのと同じだ。これが明るみに出れば、グレイアムの戴冠以降どうにも微妙な状況に追い込まれているエイルとダイラの関係が、一気に悪化することだって考えられる。
「まあ……バレなきゃいいんだろ、要は」フーヴァルはのろのろと言った。「やつだって、キャトフォードに逆戻りはしたくないはずだ。適当なところで降ろすまで、ただの船乗りとして扱えばいい。亡命の手助けくらいはしてやるさ」
「彼を手放すのか」
「他に方法があるか?」フーヴァルは鋭く、ドクを睨んだ。
「いいや、ないな」
ドクは言った。それから、肉付きのいい腿をパシンと叩いて立ち上がった。
「じゃ、話は終わりだ」
「海上の見張りを強化するように伝達しておく。それに、新入りのこともな」フーヴァルは言い、開いたままの航海日誌に今のやりとりを走り書きした。「あんたからエディに、奴のためのブロスを用意するよう頼んでくれ。死にかけでも、それくらいなら飲めるんだろ?」
「ああ。問題ないだろう。患者のことは任せてくれ」
日誌を書き終わっても、ドクがまだそこに立ったままこちらを見ているのに気付いて、フーヴァルは眉を顰めた。
「なんだ?」
「じきに船の中を歩き回れるようになるだろうが……あまり無理させるなよ。病み上がりだからな」
「何の話だ、じじい」
凄むフーヴァルを尻目に、「イッヒッヒ」と笑いながら、医師は船室を出ていった。
キャトフォードは、王都の北に迫り出した巨大な半島の先端にある村だ。鬱蒼とした森と、船を停泊させる余地もないほど切り立った崖に挟まれているせいで、陸の孤島に等しい。南の沖にあるアビタリー島に海上防衛の要所を譲ってしまって以来、ここは王族の避暑地の一つとなった。疑わしいが、罰するには今ひとつ確信が持てない者を、ほとぼりが冷めるまで監禁しておくための場所だ。悪名高き白茨砦よりは処刑台から遠いが、命を落とす者の数では決して引けを取らない。北から吹き付ける潮風に常に晒される劣悪な環境に身を置かれると、大抵の者は体調を崩すか、精神を病んでしまう。
ゲラードは、他の王族の中にある軟弱さと自分は無縁だと思っていた。だが、それは思い違いだったとすぐに痛感することになった。
剥き出しの石壁は冷たく、海に面して穿たれた小さな窓からは、細かな飛沫をはらんだ、身を切るような潮風が吹き込んでくる。寝台は木の板にわずかな藺草を振りかけただけのもので、百年前から湿ったままの火鉢には固まった灰が硬くこびりつき、ちっとも温まらない。この牢獄で寝起きをするようになって七日で、ゲラードは熱を出した。
ボーフォート公に仕えるルマソンという男が監獄の責任者だ。彼は監獄を居心地良い空間にすることには無頓着だったものの、高熱を訴えるとすぐに村医者を遣わせてくれた。だが医者は、効果の怪しい煎じ薬と、同じくらい信憑性のない瀉血を施して、さっさと退散してしまった。
訪れる者はなく、海鳥の声さえも遠い。
けれど、ここは孤独とは無縁の場所だった。
「やあ……また来てくれたのか」
ゲラードは、滲む視界の向こう側で蠢く何者かに声をかけた。その影は色や姿形を変えながら、窺うように──あるいは案ずるように、ゲラードの寝台を覗き込んでいる。
不思議だ。あり得ない。これは幻覚だ、と考える余裕があったのは、最初のうちだけだった。
初めのうちは、頼りない灯明が壁に投げかける、朧気な影かと思った。それが、見つめているうちに、まるで意思を持つかのように動き始めたのだ。壁に張り付いていた影に、ゲラードが注意を向ければ向けるほど、それは自由に形を変え、動き回る力を得るようだった。『影』が壁面から飛び出し、そこら中を飛び回るようになるまで、そう長い時間はかからなかった。
それは、獣じみたなにかの形を取ることもあれば、いくつもの輪を身に帯びた球体の形になることもある。虹色の蛇のようにも、色鮮やかな模様を持つ鳥のようにもなる。紅玉色に孔雀色、目の覚めるような番紅花色など、様々な色合いの渦や点線が体の上を自由に這い回り、一秒たりとも同じ姿でいることがない。
いままで、監獄と孤独とは切り離せないものなのだと思っていたのに。
ゲラードは、友達に向かって力なく手を振った。
「何のもてなしもできなくて……すまない」
話しかけると、友はその外見に目覚ましい変化を表す。まるで驚いているようだ。それが面白くて、ゲラードは朦朧としながらも、語りかける言葉を探すのだった。
「死期が近づいた者のところに来る妖精……君はそういう者なのかな」
友が、液体のように自由な体をくねらせて、疑問を呈する。
「それとも、冥界へ導く使いかな」
医者が匙を投げるのも無理はないと思う。幻覚を見るほどの高熱には、死以外のものは太刀打ちできないだろう。それでも、三日前よりは症状が軽くなったような気がする。その証拠……なのかどうかはわからないけれど、友が訪れる間隔が、徐々に開いてきた。
「悪いが、まだ君の……世話にはならないよ」
友は反論するように身体を捻り、赤い色でチカチカと瞬く。面白いことに、ゲラードには友の気持ちが理解できる気がした。
その時、監獄の階段を上ってくる足音がした。
友の姿が掻き消え……ほぼ同時に、鉄格子の向こうに見知った顔が現れる。
これは幻覚か? それとも、本物の──
「兄上……?」
ユージーン。面会を拒否し続けた兄が、ここに来てようやく話をする気になってくれたらしい。村医者の他には護衛一人を伴っているだけだ。それを信頼と考えて良いものだろうか。
兄は鉄格子の外から、ゲラードを見つめた。
「熱を出したと聞いたが」
「ええ……少し、持ち直しました」
兄は傍らの村医者に尋ねた。
「感染るのか?」
医者は、緊張から小刻みに震えながら言った。
「いいえ。しかしながら、あまりお近くにおいでにならない方がよろしいかと存じます」
「わかった」ユージーンは言い、牢番に鉄格子の鍵を開けさせた。
「しばらくふたりにするように。用があれば呼ぶ。階段の下に控えていろ」
ユージーンは監獄に入ってくると、囚人用の椅子を引きずり、寝台に半身を起こしたゲラードに向き合った。
いつの頃からだったろうか、ゲラードを見る兄たちの目が変わりはじめたのは。つい昨日まで家族に向ける優しい眼差しがあったはずのところに、ある日を境に、別の感情が居座っていた。まるで、遠ざけておくべきものを見るような。あるいは、家族の汚点を見るような。
いまのユージーンも、そんな目でゲラードを見ていた。
それを非難することが、ゲラードにできるはずもなかった。
「さて。お前が兄を殺し、俺をも殺そうとしていると聞いた」一呼吸置いて、ユージーンが尋ねた。「真実か」
ゲラードは笑ったら良いのか、怒ったらいいのか、それとも兄の正気を疑えば良いのか、一瞬だけ迷ってから冷静に返事をした。
「僕がそんなことをして何の意味がありますか? いったい誰が──」
「質問しているのは俺だ」ユージーンは言った。「はいかいいえで答えろ」
「いいえ。兄上たちに危害を加えようなどとは想像したこともありません」ゲラードはがさつく喉で言った。「それがいかに無意味なことか、よくご存じのはずです」
ユージーンはあくまでも冷静に、じっとゲラードを見つめた。
「お前は庶子だ」
その通りだ。だが、面と向かって言われると、少し堪える。自分の出自を恥じている──というのもそうだが、それ以上に、母を糾弾されている気がして。
ハロルド王の五人の子供の中で、ゲラードただ一人が、王の血を継いでいない。にもかかわらず、事実は公表されず、ゲラードも正式なハロルドの子として育てられた。
そうしなければ──妻の不義をなかったことにしなければ、ハロルドはエメラインを処刑しなくてはならなくなる。そんな決定を下すには、王は王妃を愛しすぎていた。
この秘密を知らぬものは宮廷内にはほとんどいない。失言一つで首が飛ぶことになると理解しているから口に出す者はないけれど、第四王子と他の兄妹との待遇の差を見れば、真実は一目瞭然だった。
「それでも建前上では、お前も王の息子だ」
「王位を望んだことなど──」ゲラードは勢い込んで言い、激しい咳に身体を折り曲げた。そして、絶え絶えになった息で続けた。「王位を望んだことなど、ありません。それくらいは弁えている!」
「では、俺が王になれば良いと思うのか?」
その質問に虚を突かれて、ゲラードは一瞬口ごもった。
ユージーンが良い王になるだろうか。刺客の影に怯えて、頑なに戴冠を拒否し、部屋に引きこもっていたユージーンが、民を導くことができるだろうか。
頭より先に、心が答えを出す。だが、それが顔に出る前に、ゲラードは頷いた。
「兄上が王にならなければ、この国は乱れます」
ユージーンはしばらくじっとゲラードを見つめていた。
それから、ぽつりと呟いた。
「なぜ、母上はお前を愛したのだろうな。お前一人を」
その時──その、ほんの一瞬、見慣れた兄の姿がわずかに揺らいだような気がした。水面に映った月を見ようとして、思いがけず水底の魚を見つけたかのように、視界が揺らめき、何かが、意識を過る。
「あなたは──ほんとうに、兄上ですか……?」
すると、兄は眉をつり上げ、立ち上がった。
「まだ熱があるようだ」ユージーンは冷ややかに吐き捨てた。「もう少しまともにものを考えられるようになってから、また質問をしよう。今度は刑吏を伴って来る」
看守を呼び、扉が開くと、兄はふり返らずに牢獄をあとにした。
どうやら、このままでは拷問は免れないらしい。
熱で朦朧とした頭でも、それは理解できる。そして、自分が痛みに耐えて真実を死守できるほど強い人間ではないということも。
拷問とは錬金術のようなものだ。熱や薬品を使って、物質そのものを変化させてしまう。そればかりか、本来はそこにない物を生じさせることだってできる。相手の望む答えを口にしさえすれば、耐えがたい痛みから解放されるのだとしたら、おそらく、ゲラードは屈してしまうだろう。そしてすべての罪をかぶって、処刑台に上ることになる。
「こんなことなら、とんずらこける時にそうしておけばよかったのかもしれない」
フーヴァル、君の言う通りに。
熱と栄養失調でひび割れた唇で呟いても、彼には届かない。
ビアトリス・ホーウッドとの婚約が決まったとき──曲がりなりにも王族である以上、いずれは誰かと結婚しなければならないとわかっていたはずなのに──自分の世界から光が消えたと思った。昨日まで自由に空を飛んでいたのに、いきなり鎖に繋がれ、頭巾をかぶせられた鷹になったような気分だった。
本当は、自由だった時なんてありはしないのだけれど。
フーヴァルは一度、たった一度だけ、一緒に逃げるかと聞いてくれた。
その誘いを断ったことを、後悔はしていない。
誰よりも自分自身が、責任から逃げるのを許せなかった。フーヴァルだって、その程度の男に興味はないはずだ。
それでも……。
それでも、死ぬ前にもう一度、彼に会いたかった。
兄の訪問からまた熱が上がった。横になっているのに、頭がぐるぐると回転しているようだ。目を動かすだけで鳴り響くような頭痛がする。拷問にかけられるまで生きてはいないかもしれない。それならそれでいい……そう思って目を閉じた。
どのくらい眠っただろう。浅い眠りと覚醒を何度も繰り返しながら、脈絡のない、けれど不快な夢を切れ切れに見ていた。だから頭の中で声がしたときにも、それが夢の続きであると信じて疑わなかった。
「殿下」
聞き覚えのない女性の声だ。夢にしては、やけに……質感がある。目を開けると、もう一度声がした。
「殿下」
幻聴だ。ゲラードの死を賭けた、病と精神衰弱と拷問とが繰り広げる競争が、いよいよもって混迷を極めてきたらしい。
「殿下、どうかお目覚めを」
反射的に、声のした方へ眼球を動かすと、割れるような頭痛に襲われる。ゲラードは呻きながら、おぼつかない手で目を覆った。
「ああ、殿下……おいたわしや」
幻聴、ではない。
ゲラードは、目を覆っていた手をゆっくりと持ち上げて、監獄を見回した。すると、来訪者がそこにいた。窓の狭い隙間にすっぽりとおさまる大きさの梟。黒々とした夜の海を背に、なおいっそう漆黒の梟だ。
人語を話す黒い梟がこの世に存在するのか、考えるまでもない。おかしな梟の存在が示すものは一つしかない。
「魔女……か?」
すると梟は、南瓜色の大きな目をしばたいた。
「さすがはゲラード殿下。我々のことにお詳しくていらっしゃる」
魔女の世辞には警戒すべしという有名なことわざがある。ゲラードはゆっくりと身を起こし、少しでも弱々しく見えないように、痛む関節を無視して背筋を伸ばした。
「君は誰だ? ここへはどのような用向きで来た?」
「わたしが何者かは重要ではございません。警告をしに参ったのでございます」
「警告?」
「間もなく、この部屋に刺客がやってきます。あなたを亡き者にするために」
靄のかかったようだった頭が、にわかに冴える。
「僕を──いったい誰が?」放っておいても、じきに死ぬのに。
心の中で考えたことを読んだように、梟は言った。
「いいえ、あなたはこんなことでは死にません」ほんの少しだけ目を細めると、笑顔を浮かべたように見える。「刺客の素性は、まだわかりません。しかしながら、このままではお命が危のうございます」
すると、背を向けていた鉄格子の方から、カチャリという音がした。振り返ってみると、扉の外に詰めていたはずの看守がいない。そして、固く閉ざされていたはずの鉄の扉が、誘うようにゆっくりと開いた。
「すべての鍵は開かれました」梟は言った。「しかしながら、看守がいないのは、わたしのせいではありません──何者かが、中から刺客を招いたからです。もう一刻の猶予もございませんよ」
「しかし──」生唾を飲み込む。「僕が逃げたら、残ったものに危害が及ぶのではないだろうか。グレイアムを殺した下手人は野放しだ。ユージーンやエレノアも……」
「残る方々のためにも、今はお逃げなさい」梟はきっぱりと言った。「あなたには生きていて頂かなくてはならないのです」
その口調に背中を押されたような気がして、ゲラードは立ち上がった。萎えた膝ががくんと折れて情けなくよろめいたものの、関節の痛みと頭痛はいくらか弱まっている。生死のかかった緊張感が高熱を追いやってくれたようだ。
だが、どこに向かえば?
運良く刺客の魔の手を逃れ、見張りの目をかいくぐることができたとしても、ゲラードの脱出はすぐに気付かれるだろう。馬も、旅支度もない。おまけに弱り切っているのだから、数刻も歩かぬうちに追いつかれてしまう。
馬を盗むか? そんな大それたことが、僕にできるのか?
「海に向かえば、活路が開けましょう」梟が言った。「急いで!」
何かが爆ぜるようなポンという音と共に、梟は黒煙となって消えた。
それ以上は、くよくよと考えなかった。
もつれそうになる脚を動かして、開いたままの扉を潜る。まるで夢の中の出来事のようにあっけなく、ゲラードは牢を抜け出た。だが、順調なのはそこまでだった。階段の下から、物音がする。迷いのない、静かな足取り。刺客がここまで来てしまったのだと、すぐにわかった。
このまま階下に降りれば、窓もない階段で真正面から出くわして一巻の終わりだ。
ゲラードはきびすを返し、階段を上へと駆け上がった。
さっき一瞬だけ取り戻した本調子を瞬く間に使い果たし、螺旋階段を三周もする頃には、また意識が朦朧としてきた。すぐ後ろに迫っている足音が、恐怖からくる幻聴なのか、それとも本物なのかも判断がつかない。壁についた手は痩せさらばえて、まるで冷たい骨のようなのに、体中を焦がすような熱に苛まれていた。息が苦しい。肺が焼け、炭のように硬く、黒くなってしまったのではないかと思う。ここで諦めて、冷たい刀身に身を投げてしまったらどんなにか楽だろう。
けれど──。
あなたには生きていて頂かなくてはならない。
その言葉が、差し伸べられた手のように──あるいは鞭のように、ゲラードの脚を前に進ませた。
いつの間にか、友が再び姿を現していた。
まるで宙を泳ぐ魚のような姿で、ゲラードを導いてゆく。胸の中で破裂しそうなほど脈打っているゲラードの心臓を真似ているのか、色彩を激しく点滅させている。
上へ上へと登った先に、何の勝算があるわけでもない。それでも、道は一つしかない。正しい場所へと続く道ではなかったとしても、なんとかしようと抗うしかないのだ。
いままでずっと、そうやって生きてきたのかと思うと、この期に及んで、なぜだか笑みが零れそうになった。
永遠に続くかと思われた螺旋階段が終わり、鋸壁に囲まれた屋上に出た。ここは、かつては見張り塔として使われていたのだろう。縁に駆け寄って壁の狭間から下を覗いてみると、塔がほとんど海に迫り出して建っているのがわかる。
海に向かえば活路が開ける──?
ここから飛び降りるなんて、正気の沙汰じゃ無い。それでも、やるしかないのか?
夜の闇の中では、海面までどのくらいあるのか──そこに岩礁や岩棚があるのかどうかもわからない。飛び降りた先が、硬い岩だったら?
闇の底に吸い込まれるように、目眩がした。そのまま、頭から落ちてしまうかと思ったとき、誰かに髪の毛を掴まれ、思いきり後ろに引っ張られた。
「どうやって抜け出した!」
刺客の声がくぐもっている。顔を見ると、彼は仮面をかぶっていた。滑らかな金属が形作る超然とした表情──なぜだか神を思わせる。まるで闇そのものが立ち現れたかのような黒尽くめの装束の中で、鈍い金色の仮面だけが、宙に浮かんでいるようだった。
体格はゲラードとそう変わらない。だが、弱り果てた自分に勝ち目はないだろう。
「放せ!」逃れようと、髪の毛を掴む手を引っ掻いてみる。
身を捩り、むやみやたらに蹴りつけてみても、刺客は微動だにしない。
刺客の背後で、友は奇妙な茸のような形に伸び上がりながら、興味深そうにこちらを眺めている。
「おとなしくしろ」
男の声は低い。訛りはない。これでは何の手がかりにもならない。
刺客はゲラードの髪を掴んだまま、鋸壁の小壁に押しつけた。そして、腰に帯びた鞘から細く鋭い短剣を抜いた。それで心臓をひと突きして殺すのだろう。病死や事故死に見せかけるつもりはないのだ。なりふり構わず、一刻も早く僕に死んで欲しいということだ。
それほどまでに恨まれるようなことをしたのだろうか。それほどまでに、僕が生きていることが誰かにとっての邪魔だったのか。
ゲラードは抵抗をやめた。抵抗するだけの力が、もう残っていなかった。
「誰の……差し金なんだ……!」
男は答えなかった。
その時、小さな蝶の形をした友が、男の鼻の頭にとまった。
一度、二度、ゆっくりと羽ばたく。
すると──ほんの一瞬、刺客が、わずかに肩の力を抜いた。まるで……いきなり呆けてしまったかのように。
何かを考える前に、身体が動いた。
刺客の手の中にある短剣を握る。虚を突かれた刺客が再び手に力を込める前に、思いきり手前に引く。柄と刀身の境目を掴んだせいで手に痛みが走ったけれど、そんなことはどうでもよかった。刺客がよろめき、ゲラードに倒れ込みそうになる。髪の毛を掴んだ手が、ぐいと下に引かれる。不自然な向きに曲げられた首が軋み、ブチブチと音を立てて髪が千切れる。ゲラードはもぎ取った短剣で、自分と刺客とを繋ぐ枷となってしまった金の髪を断ち切ると、空中を泳ぐ友のあとを追って鋸壁の狭間によじ登った。
「待て──!」
ゲラードは振り向かなかった。一瞬も躊躇わずに、虚空に身を躍らせた。
宙に浮いた身体より先に、内臓が下に落ち込むような、なんとも言えない感覚に襲われる。やがて、思い出したかのように落下が始まった。
自分を包み込む潮騒と、噎び泣くような風の音。上下逆さまになった世界。爪先の上の方で、刺客が悪態をついていた。
海面まであとどのくらいだろうかと考えたとき、衝撃と共に、意識が暗闇に溶けた。
6
気を失った──というか、フーヴァルが殴って気を失わせたゲラードを客用船室に運び込む。
「シドナのお怒りを買わなきゃいいですがね」
ずぶ濡れのゲラードを抱えたまま、そう溢したのは掌帆手のオーウィンだ。腕っ節の強いデーモンで、大の男一人くらいなら易々と運べる。
先に命じておいた通り、部屋の火鉢にはすでに炭が入っている。温もった部屋に入った途端、ゲラードの身体から潮の香りが濃く立ち上った。
「どちらに寝かせて差し上げましょ」
ゲラードの身体からは、ぽたぽたと海水が滴っていた。このまま寝棚に寝かせては寝具が駄目になる。
「まあ……床に転がしとけ、とりあえずな」
オーウィンは「へい」と言って、ゲラードをそっと床に降ろした。その横顔には、拭いきれない不安が浮かんでいる。
「心配するな。シドナが欲しがるのは海で死んだ人間の魂だ。こいつにゃ用無しだよ」フーヴァルはきっぱりと言った。「あとは俺がやるから、お前はドクを呼んでこい。ドクが素面じゃなかったら、ドーソンだけでいい」
「了解、船長」
フーヴァルはため息をついて、ゲラードを見下ろした。さっき一度息を吹き返したとは言え、船医が来るまで濡れ鼠のまま放っておけば、また死に近づいてシドナの注意を引いてしまうかもしれない。
〈水底のシドナ〉がどういった存在なのか、はっきりとはわかっていない。ある者は妖精だと言い、ある者は限りなく神に近いデーモンだという。魔女だという者もいる。いずれにしろ、死者の魂を集めるという伝承は同じだ。彼女の領内で死体を盗めば、災厄がどこまでも船を追いかけてくると恐れられている。
せっせと集めた魂で彼女が何をしているのかは知らないが、そこにゲラードの魂を加えてやるつもりはなかった。
フーヴァルは腰に帯びた短剣を抜いて、ゲラードにかがみ込んだ。濡れた服を脱がせるのは一苦労だ。いっそ切り裂いて捨ててしまう方が早い。
妙に薄汚れたシャツと脚衣を破ってみて、フーヴァルは驚いた。骨と皮……とまではいかないが、最後に見た時に比べれば、ずいぶん痩せてしまっている。あばらの浮いた胴に、筋張った手足。どう見ても健康体ではない。
「しばらく会わねえうちに、何があった……?」
その時、船室の扉をノックする音がした。返事をしないうちに戸が開いて、船医のフィッツウォーターが、助手のドーソンを連れて入ってきた。
彼は、床に裸で横たわるゲラードと、その上にかがみ込むフーヴァルを見比べた。
「ご無沙汰なのはわかるが、船長」赤ら顔の医師は重々しく言った。「時と場合は選んだほうがいいぞ」
ゲラードを拾って二日後、ドクがフーヴァルのいる船長室にやってきた。ドゥーガル・フィッツウォーター、通称医師は旧アルバ領出身の元罪人で、どうしようもない飲んだくれだが腕はいい。彼の見立てによれば、ゲラードが生きていたのは奇跡だという。
「まず、彼は病に冒されている。高熱、悪寒、関節痛……粟粒熱のような症状だが、発症したのは七日も前だそうだから、別の何かだろうな。いまは熱も下がって、落ち着いてる。このまま行けば、数日中には元気になるはずだ」彼は小さなフラスコの中身で舌を湿らせてから続けた。「こんな状態で、真冬の海を何時間も漂っていたんだから……本来なら、死んでいなきゃおかしいんだ──ただの人間ならな」
「どういうことだ? あいつは間違いなく人間だ。なんたって──」
王族なんだから、とは、口に出さなくても伝わる。ゲラードは幾度となくこの船に乗っているから、船員はほとんど、彼のことを知っている。
ボサボサの白髪頭を掻いて、ドクは言った。
「おそらく、何者かが彼を助けたんだろう」
もってまわった言い回しにもかかわらず、その場の空気が即座に変わった。
「何者か……」
溺れた人間とナドカにまつわる伝承の中で、一番有名なものといえば、一つしかない。
人魚だ。
奴らは一人の人間を気に入ると、飽くなき執着をもってどこまでもついてまわる。もしゲラードが連中に気に入られたのなら、面倒なことになるかもしれない。
「けっ」フーヴァルは吐き捨てるように笑った。「ま、悪運がいい奴なのは間違いねえな」
「まあ、いま考えてもどうにもならん。大事なのは、死んでないってこと。それよりも、だ」ドクが書き物机に顔を寄せると、酒の匂いがした。「この状況はまずい」
「ああ」フーヴァルは頷いた。
エイルの私掠船に、ダイラの王子が乗っている。しかもどうやら、きな臭い王族ばかりがぶち込まれる、あのキャトフォードを脱走してきたようだ。経緯はわからないし、脱走は九分九厘失敗していたが、それでもやってのけた。
「これは下手をすると、戦争に発展しかねんぞ」
フーヴァルは同意の印に低く唸った。
ゲラードがあそこに捕らえられていた理由が何であれ、王位相続がらみのゴタゴタに関係しているのは、ここ最近の情勢を見るに明らかだ。もしも──そんなことはまずあり得ないと思うが──ゲラードが何かの陰謀に関わっていたせいで監獄送りになったのだとしたら、今のこの状況は、国を揺るがす犯罪者の逃亡を、エイルが幇助しているのと同じだ。これが明るみに出れば、グレイアムの戴冠以降どうにも微妙な状況に追い込まれているエイルとダイラの関係が、一気に悪化することだって考えられる。
「まあ……バレなきゃいいんだろ、要は」フーヴァルはのろのろと言った。「やつだって、キャトフォードに逆戻りはしたくないはずだ。適当なところで降ろすまで、ただの船乗りとして扱えばいい。亡命の手助けくらいはしてやるさ」
「彼を手放すのか」
「他に方法があるか?」フーヴァルは鋭く、ドクを睨んだ。
「いいや、ないな」
ドクは言った。それから、肉付きのいい腿をパシンと叩いて立ち上がった。
「じゃ、話は終わりだ」
「海上の見張りを強化するように伝達しておく。それに、新入りのこともな」フーヴァルは言い、開いたままの航海日誌に今のやりとりを走り書きした。「あんたからエディに、奴のためのブロスを用意するよう頼んでくれ。死にかけでも、それくらいなら飲めるんだろ?」
「ああ。問題ないだろう。患者のことは任せてくれ」
日誌を書き終わっても、ドクがまだそこに立ったままこちらを見ているのに気付いて、フーヴァルは眉を顰めた。
「なんだ?」
「じきに船の中を歩き回れるようになるだろうが……あまり無理させるなよ。病み上がりだからな」
「何の話だ、じじい」
凄むフーヴァルを尻目に、「イッヒッヒ」と笑いながら、医師は船室を出ていった。
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