完結【日月の歌語りⅢ】 蒼穹と八重波

あかつき雨垂

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 一三七一年  ダイラ 王城
 
 ハロルド王の崩御から一年も経たぬうちに、グレイアム王があとを追った。原因不明の病で床につき、二日後には息を引き取った。王妃アドリエンヌと、二歳になったばかりの息子リカルドを遺して。
 第二王子のトマスは、ハロルドが死んだ直後に起こった北部の叛乱を鎮圧するためにアルバに赴き、戦死していた。かつて刺客の手を逃れて生き延びた命も、あっけなく散ってしまった。だから、次に王位を継ぐのは、ハロルドの三番目の息子ユージーンだ。しかし、彼は恐慌に陥り、自室に籠もって戴冠を頑なに拒否している。
 王宮は静まりかえり、寒々としている。
 かつてこの場所は、教会との決別を図ったハロルドの意志を継ぐものと、教会の権力復活を目論む勢力とが競い合う場だった。剣も、鎧も、喊声かんせいもないが、確かに戦場だった。今となっては、王の謁見室の前の広間で意気軒昂に意見を交わす廷臣たちの姿もない。
 まるで……古戦場か何かになってしまったようだった。
 東方大陸とダイラにいる全ての王には、陽神教会の保護という責務がある。王は教会によって──神によって、王としての正当性を認められる。だから、王が陽神信仰を擁護するのは当然の使命でもある。
 にもかかわらず、ハロルド王は晩年、陽神教会への失望を隠さぬようになっていた。
 初めてきざしたのは、おそらく十年前──エメライン王妃の死がきっかけだったのではないだろうかと、ゲラードは思う。神に失望したのか、魔術師の言葉に耳を傾けすぎたのか、他に理由があったのかはわからない。それからというもの、王はなにかにつけ教会をないがしろにする法律を打ち立て、その度に国内の神官から猛反発を受けた。
 それでも、市壁内部での魔法使用禁止を王律に盛り込み、〈クラン〉を冷遇し、異端審問官の武力組織〈燈火警団ランタン〉を発足させ、ナドカの迫害に力を入れているうちは、教王庁カルタニアもそれほど強く口を出しては来なかったのだ。
 けれど、一三六七年と、続く六八年は、実に大きな転換点だった。
 この二年間で、王はエイルをナドカの王に委ね、〈燈火警団〉を解散させ、死んだ大聖官の後任を任命することを拒否した。大聖官の存在は、陽神教会の本拠地であるカルタニアとダイラを繋ぐ最後の鎖だった。そして極めつけが、神官の処刑と陽神教会の所領没収である。
 これによって、ダイラの運命は決した。
 教王エドモン一世が発布したのは、ハロルド二世の破門を布告する教書だった。ダイラは東方大陸すべての国を敵に回したのだ。
 あとを継いだグレイアムは、父親の犯したを償おうとした。陽神教会離れを押し進めたオールモンドを宰相の座から追放し、教会の復権に力を注いだ。だが、道半ばで病魔に倒れた。
 グレイアムの死が仕組まれたものであったかどうかは、はっきりしていない。たとえ口に出されることはなくても、誰もがこう考えていた。教会が勢力を盛り返すと不利益を被る者は山ほど居る。そのうちの何者かがグレイアムを手にかけたのだと。だからこそ、幼い頃から熱心に信仰を守ってきたユージーンは、戴冠を拒否して逃げ回っているのだ。
 かつてないほど不安定な王座を支えるべく、議会は力を増した。いま、この国で最も力を持つのは、議会の要請で宰相に返り咲いたオールモンドだ。彼と、彼が取り仕切る議会がなければ、ダイラはとっくに瓦解していたに違いない。
 一つの悲劇の中の、全てが凶事とは言えないのがこの世界の複雑さだ。
 実際、王が何人死んでも、民の生活にはほとんど変化がない。それどころか、王冠の乗った頭が首を縦横どちらに振るかに左右されなくなった議会は、それまで以上に迅速に、合理的に、新たな条例を生み出していった。職人組合の保護。新規事業者の支援施策。外海の防衛の強化。貧民への救済措置……実に様々な分野に及ぶ。それが貴族だけを利するものではないところに、簒奪者や策略家などとも呼ばれるオールモンドという男の、真の価値が潜んでいるのではないかと、ゲラードは思った。今や国内の中流階級──商業の中核を担う階層のものたちはかつてない発言力を得て、国を発展させ、潤す大きな原動力となっている。
 幼い頃、妹のエレノアが言っていた言葉を思い出す。
 なぜ国には王が必要なの? と。
 他ならぬ王の娘からそんな質問を投げつけられて、ゲラードとエレノアの教師を務めていたワーウィック博士は面食らっていた。あのとき、博士はなんと答えたのだったか。いずれにせよ、エレノアは微塵も納得していなかった。不思議で仕方ないという妹のあどけない顔を思い浮かべると、つい頬が緩む。
 いまエレノアは王城ではなく、少し離れた場所にあるブレッチェリー宮殿にいる。彼女が信頼した護衛官に守られているとはいえ、刺客の魔の手を完全に逃れることができるとは思えない。だが王城に留まるよりはましかもしれない。少なくとも、生まれ育った家が墓場のような状態になっているのを目にせずにすむ。
 ゲラードは王城を離れなかった。王から宮殿を与えられた妹とは違って、他に行くあてがないのも理由の一つだが、それだけではなかった。ゲラードは、この城に潜んでいる刺客を暴きたかったのだ。
 ユージーンまでが敵の手にかかれば、王冠はエレノアか、グレイアムの息子リカルドのものになる。
 女が王位を継ぐことに難色を示す者が多いから、エレノアの存在はなかったことにされてしまうかもしれない。芝居が好きな、夢見がちの少女は誰にとっての脅威にもならない。駒にはなるかもしれないが。現に、エレノアを外国の王族に嫁がせる計画や、外国から婿を取ってこの国の王座に据える計画が山のように積み上がっている。その背後には、それぞれの婿と利害関係を同一にする者たちの画策がある。
 リカルドは、母親のアドリエンヌと共にベイルズのクレアモント宮殿に移った。王位継承権を主張できるのは、三歳の誕生日を無事に迎えてからだ。いま、リカルドは二歳。あと一年もすれば、彼に王位を継がせるべく、誰かが後ろ盾を買って出るだろう。だが今はまだ、王子は無力な赤子で、アドリエンヌも異国で孤立する未亡人だ。
 ゲラードは王位を継がない。議論にさえならないだろう。宮廷内では公然の秘密である『ある理由』が、彼を王位争いから遠ざけ、守っている。無闇に命を狙われることもないから、いろいろと嗅ぎ回るにはうってつけだ。
 ゲラードはユージーンの部屋の前にやって来た。当然ながら扉は閉ざされ、ふたりの衛士えじが立っている。
「兄上のご様子は?」
「麗しくあらせられます、殿下」
「ゲラードが会いに来たと伝えてくれ」
「後ほどお伝えいたします、殿下」
 このやりとりが、ここのところの日課だ。
 ユージーンを刺客から守るために、何よりもまず彼から話を聞きたいと思うのに、それが許されない。ユージーンはグレイアムと仲が良かった。グレイアムよりはおとなしいものの、政治談義に関わるのが好きで、細かいことにも良く気付く。兄の死の間際、何か異変を目にしているとしたらユージーンだ。
 結局、石像のように動かない衛兵を動かすのを諦めて、ゲラードはその場をあとにした。いっそのこと、屋根から綱を垂らして窓から押し入ればどうかと考える。あるいは、魔法の力を借りて、暖炉の煙突から中に入り込むのは? 煤だらけになるだろうが、ユージーンの驚いた顔は、きっと見物だろう。
 馬鹿馬鹿しい。
 幼い頃、自分は魔法使いだと想像しながら、王宮の中をうろつくのが好きだった。逆さになって豪華な装飾の施された天井を歩いたり、シャンデリアにぶら下がったり、蟻のように小さくなって父上の部屋に忍び込んだり、魚になって噴水を泳いだり。
 そんなものはただの夢だと認め、無為な空想を一つずつピンで壁に縫い止めて、二度とは顧みないようになる。そして、自分の家に充満する謀略に目を光らせるようになるのが、大人になるということだ。
 この状況を、フーヴァルならどう見るだろう。昨今の王宮の混沌ぶりは、間違いなくエイルにも伝わっているはずだ。
 面倒くさい状況など捨て置いて、「とんずらこいちまえばいい」とでも言うだろうか。冗談でもそう言ってくれたら、少しは気が楽になる。そんな風に言葉を交わす望みは、もうないだろうけれど。
 自室に戻って、扉を閉める。兄とは違い、ゲラードの部屋の扉には護衛もつかないから、かえって気が楽だ。部屋には従士が一人いて、外出から戻ったゲラードを控えめに労ってくれた。
 兄が死んでから、こちらの機嫌を取ろうとしてきた者は何人かいたが、逆に彼らを遠ざける、いいきっかけになった。有事にかこつけてすり寄るような人間は信用できない。だからゲラードは以前と変わらず、王宮内での孤立を維持している。親愛なる母エメラインが与えてくれた、贈り物としての──呪いとしての孤独を。
 
 書き物机について、どのくらい考え事をしていただろうか。
 珍しく、従士がゲラードを呼びに来た。
「ゲラード殿下。ボーフォート公がお見えです」
「ボーフォート?」
 ボーフォート公エリジャ・ダクロンは、ハロルドの兄エリクの息子──つまり、ゲラードの従兄にあたる。デンズウィックの北に迫り出した巨大な半島を領地とする、有力な貴族だ。
 何事かと訝しみつつ従士の顔を見ると、彼の顔にはありありと恐怖が浮かんでいた。
 ようやく、胸騒ぎがしはじめる。
「通してくれ」
 ゲラードが言うが早いか、半ば押し入るようにして、ボーフォート公が部屋に入ってきた。武装した従卒が三人、後ろに並んでいた。
 従兄は無駄な前置きを省いた。
「殿下。あなたにはグレイアム陛下の暗殺に加担した容疑がかけられています。ユージーン殿下の命により、あなたをキャトフォードの監獄へお連れします」




      4
 
 潮風が、あたりに立ちこめる血のにおいを押し流してゆく。
 フェリジアの旗を掲げた商船ギャランテ号は、海賊相手によく粘った方だ。だが、マリシュナ号を駆る〈浪吼団カルホウニ〉のフーヴァルに目をつけられてしまったのが運の尽きだった。
「ほら、さっさと歩け!」
 フーヴァルの部下たちが、ギャランテ号の船員を一カ所に集めていく。まだ立つ気力のある者は拘束し、残りは船首側の甲板上に転がされた。
「下手に抵抗しなきゃ、被害はもっと少なかったのにな、え? 船長さんよ」
 フーヴァルはギャランテ号の船長と並んで、敗者にとっては悪夢にも等しいその光景を、上機嫌で眺めていた。
 大抵の船は、マリシュナ号の海賊旗──鮫を咥えた髑髏印──が目に入った瞬間に戦意を失う。一人でも厄介なナドカを三十人以上、それも、戦闘力に秀でた連中ばかりを満載した船に、人間が太刀打ちできないのは当然だ。
 大蒼洋だいそうよう最強の海賊とその船の名は、大時化おおしけや雷に抱くのと同じ畏怖をもって人々の口にのぼる。マリシュナ号が港を出るや、近隣諸国の港に警報が伝わるというのは誇張でも何でもない。かつては、一度の航海で国家予算の四分の一に匹敵する富を得たこともあるほどだ。
「貴様は海賊稼業から足を洗ったと……」
「海賊? 人聞きの悪いことを言うな。これはりゃくせんだぜ」
 私掠船とは、国王の認可の元に他国の船を拿捕し、積み荷や捕虜を奪うための船だ。ぶんどったお宝のうち、何割かを国庫に納めれば大概のことは許される。早い話が、王の名前が入った免状持ちの海賊である。どこの国にも私掠船は存在する。その中で一番厄介なのがマリシュナ号だというだけの話だ。
「私掠船。ああ、そうだろうとも」皮肉を込めた口調とは裏腹に、緊張で乾いた舌をもつれさせながら言った。「なあ、頼む。見逃してくれ。この物資がなければ、わたしの祖国がさらなる飢えに苦しむ」
「祖国だと?」
 マリシュナ号の一等航海士、アーナヴが咎めるように言った。片眼鏡モノクルをかけた長身のアルマラ人というだけで、かなりの威圧感があるはずだ。加えて口数の少ない彼は、発する言葉に最大限の威力を載せることができる。短い単語に、これほど濃厚な非難を込められる男はそうはいない。
 船長は、気安げに隣に立つフーヴァルと、目の前に立つ浅黒い肌の男とを見比べて、与しやすいのはどちらかを見極めようとしている。鮫と鰐のどちらがマシか選ぶようなものだ。
「祖国は大事だ。見上げた心意気だな」フーヴァルはにっこりと笑った。「それはそうと、この船はすでに一度海賊に襲われてるらしいな。いつだ?」
 船長の鼻の下に、うっすらと汗が浮かぶ。「一ヶ月……ほど前だ。何とか逃げ切って──」
 アーナヴは、ゆっくりと首を横に振った。見事な細工の施された片眼鏡モノクルは日の光をうけ、まるで警告を発するように明滅めいめつした。
「いやいやいや、船長殿」フーヴァルは言い、船長の肩に手を回した。「俺が聞いた話と違う。俺が聞いたのは、襲われたのはほんの七日前って話だ。その海賊どもは、古い船に積んでた宝の一切合切をギャランテに積み替えたらしい。南方大陸のお宝に、香辛料、それに大量の銀も。このご時世、銀はいいカネになるよなあ、え?」
 汗から発せられる恐怖の匂いが濃くなる。
「何のことだか……船名を間違えているんじゃないのか」
「俺たちは、耳が早いんだよ」回した腕に力を込めると、船長は打ち上げられた蛸のような声を上げた。「商船なんか餌食にするのは、並の海賊がやることだ。そうだろ? 俺が並の海賊に見えるか? おっと、失礼──に」
「い、いいや。しかし──」
「なあ! 〈鉄の海蛇団〉のプラット船長殿!」調べをつけていた名前を呼ぶと、肩がびくりと震えた。「いい加減、茶番は仕舞いにしようや」
 ニヤリと笑ったフーヴァルの口元を見て、プラット船長はギョッと目を見開いた。ほんの一瞬前まで普通に見えたフーヴァルの歯が、鮫のような牙の列に変わっているのを見たせいだろう。
 これをやると、大抵の人間はクソを漏らすほどビビる。船長はクソは漏らさなかったが、長すぎる舌をようやく口の中に仕舞しまった。
「観念したか? よし。じゃ、積み荷を見せてもらうぜ」
 そうして、フーヴァルとアーナヴはギャランテ号の船艙ホールドに向かった。
「〈浪吼団カルホウニ〉は奪った者から奪うって、聞いたことあんだろ? ない? じゃ、二度と忘れんな」
 フーヴァルの獲物は、海賊船と私掠船、そして奴隷貿易船だ。これが、蒼き刃フーヴァル・ゴーラムという通称を名乗る彼が、海賊どもから〈鮫喰さめぐらい〉とあだ名される理由でもある。
 
 ハロルド王が死ぬ間際にフェリジアと結んだ協定には、ダイラ側の大幅な軍縮を約束する項目が含まれていた。フェリジアは金輪際ダイラへ攻め入らないという約束と引き換えに締結されたものだ。結局、そのせいで戦場を失った兵士は傭兵になり、水兵は海賊になった。
 数年前からの不作、飢饉ときて、食いっぱぐれた連中がやけを起こすのも無理はない。問題は、やけを起こした連中が海に溢れすぎたことだ。今や北海から緑海、大蒼洋までの海域には、海賊やら私掠船やらがうじゃうじゃいて、護衛なしにはどんな船も無事に海を渡りきれないほどだ。物価は高騰し、昨今の食糧不足にさらなる追い打ちをかけ、生き延びようと必死になる者はどんどん増えていく。
 そういう連中の首根っこを後ろから捕まえて、彼らが奪ったものをまた奪うのが〈浪吼団カルホウニ〉のやり方だ。マリシュナ号以上に船足が速く、丈夫で、有能な船員を抱えた船が現れない限り、この海はフーヴァルにとっての漁場に過ぎない……はずだった。
 フーヴァルは、船長室の書き物机についていた。両脚器デバイダーや平行定規は隅に追いやられ、無数の×印が書き込まれた海図が、机の中央に拡げてある。フーヴァルは、それを眺めてため息をついた。
 そのとき、新たに船に積み込んだ物資の目録を持って、アーナヴが船長室にやってきた。目録に目を通し終わるよりも先に、アーナヴが言う。
「期待したほどじゃなかった」
 この寡黙なアルマラ人との付き合いも長い。
「香辛料と、小麦、あとは銀塊がどっさりだ。上々じゃねえか」
「真に価値があるものは無かったが、それを抜きにしても、割に合わない」
 普通の海賊が喜ぶような獲物も、彼にしてみればガラクタ同然の価値しか持たない。彼が欲しているのは芸術品だ。彼のお眼鏡に適う品物となると、出会う確率は更に少なくなる。
「船長に小言を食らわせるのがお前の役割だもんな」
 そう言いながらも、彼の言い分がもっともであることを認めていた。確かに期待したほどじゃない。ここ数年、ダイラと東方大陸間を行き来する船が激減しているせいだ。
 原因の一つが、ヴェルギルだ。というか、その幽霊と言うべきか。
 三年ほど前から、船乗りの間である噂がしきりに囁かれるようになった。慎みにはおよそ縁がない船乗りが、わざわざ声をひそめるほど、その噂は不吉だった。
 曰く──緑海から大蒼洋の海域で、波間に立つ男の姿を見ることがある。大昔の王のような格好で、額には冠帯ミンドを巻いている。その男こそ、緑海が瘴気に包まれる原因をつくった、エイルのシルリク王だ。
 だが、王の幽霊は単なる前兆でしかない。本当に怖ろしいのは、シルリク王の幽霊に引き寄せられるかのようにやってくる、ある船団の方だ。
 〈嵐の民ドイン・ステョルム〉と、その船団は呼ばれている。船団を率いるのは、千年前にシルリク王を裏切った売国奴ペットゥリビョルンそのひと──というか、その歩くむくろだ。ビョルンは、父神ユルンの加護を受けたシルリク王から盗みを働いたおかげで、手ひどく呪われた。生ける屍となった彼は、以来ずっと解放を求めて海を漂っているのだ。
 ビョルンが率いるのは、竜頭船ロングシップに満載された青白い幽霊の群れだ。航海中、奴らに取り囲まれたら一巻の終わりだ。船乗りはたちまちのうちに魂を抜かれる。そして魂は竜頭船に乗せられ、ビョルンの元で永遠の苦役くえきを強いられることになる。
 これまで、〈嵐の民〉は単なる噂──あるいは、酔いどれ水夫が見た幻だと言われていた。それが今や、連中は気まぐれなイルカの群れのように気安く姿を現し、命を奪う腐臭を漂わせながら、哀れな犠牲者の魂を片っ端から徴兵してゆく。
 唯一の例外は、船の索具リギンに触れたことのない者だけだ。
 たとえ命が助かっても、船を動かす者が全員死んでしまったら、腐りはじめた死体と一緒に為す術なく海上を漂流するしかない。とは言え、生き延びる可能性は皆無ではない。いままでにも運良く生き残った生還者がいたからこそ、この体験が人々に知られることとなったわけだ。シルリク王の目撃と、それに続く〈嵐の民〉の出現の話が広まってしまったのも、こうした幸運な生還者たちが居たからだ。
 おかげで、フーヴァルたちがこうして火消しに駆けずり回る事になった。
 フーヴァルは、滅多につかないため息をついた。
「なんとかしなきゃな」
「ああ」
 そのために、せっかく手に入れた海軍卿の肩書きをイルヴァに押しつけ、いつ終わるとも知れない航海に出たのだ。
 ろくな信用もない『ナドカの楽土』の評判を、これ以上危険にさらすわけにはいかない。エイル枢密院の連中は及び腰だったが、この幽霊騒ぎがどれほどの大事に繋がるか、フーヴァルにはよくわかっていた。一刻も早く〈嵐の民ドイン・ステョルム〉が現れた原因を突き止め、この異常事態を収束させなければ、単なる幽霊騒ぎではすまなくなる。逆に、この噂の根っこを引っこ抜く事ができたなら、エイルの評判はぐっとあがる。
 そんなこんなで、国を出て一ヶ月。他の海賊から食料や金品を奪って生活の足しにしながら航海を続けているが、いまだに手がかりはない。
「ギャランテ号と船員は?」アーナヴが尋ねた。
「ボーマンに任せりゃいい。あいつなら上手くやる……仲間を四人選ばせろ」
 拿捕した船と捕虜には身代金をつけて交換するのが世の習いだ。あの船長には懸賞金がかかっているだろうから、いい臨時収入になるだろう。ボーマンは見かけの厳ついデーモンなのだが、腕っ節が弱い割に口喧嘩だけはめっぽう強い。捕虜を威圧するのにも、交渉で金額をつり上げるのにもうってつけの人材だ。
「どこに向かわせる?」
「ダンホールン。終わったらエイルに戻れと言っとけ」
「わかった。で、俺たちはどこに向かう?」
 フーヴァルは無精髭の生えた顎をボリボリと掻きながら、海図を眺めた。「良い風が吹いてる。このまま南下して、ダイラ沿岸を流すか」
 アーナヴは意外そうな顔をした。ダイラに近づくと言い出すなんて珍しいと思っているのだろう。
「キャトフォード沖にも、目撃情報があったからな」
 書き物机の上の海図に記された、無数の×印のうちの一つを指先で突く。
 それは、アーナヴも承知のはずだ。その情報がもたらされたのは、航海に出てすぐの頃だったということも。
「なぜ今さらキャトフォードなんだ」
「勘だ」フーヴァルは、自信たっぷりに言った。「ここに何かある」
 船長の勘や気まぐれを迷いなく信頼できるほど、アーナヴはフーヴァルという男を知っている。彼は疑問を差し挟むことなく、頷いた。
「それなら、一度ビレーに寄港して積み荷を捌くか? 整備も必要だ」
「決まりだな」
 船長室を出ていきかけたアーナヴがふり返った。
「積み荷にあった銀塊は、どうする」
 フーヴァルは口の端を歪めて言った。「海の底にでも捨てちまえ」
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