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 鐘は響くよ 緑の海に
 リンゴン リンゴンと
 遙かな故郷に 愛しいひとを遺して 
 死んだのは誰かと イルカが問えば
 大勢死んだと 鴎が答える
 リンゴン リンゴンと
 消え果てぬ 鐘の響きよ
 
 鐘は響くよ 緑の海に
 リンゴン リンゴンと
 遠い港で 一度うたきりの
 あの娘っこは 達者だろうか
 あの子はいつまで 俺を待とうか
 リンゴン リンゴンと
 消え果てぬ 鐘の響きよ
 
 鐘は響くよ 緑の海に
 リンゴン リンゴンと
 海に沈んだ 船に船乗り
 二度と郷里を 見ることはない
 ただ 歌と 鐘のだけが
 リンゴン リンゴンと
 のひとの胸に 還りつくだろう





      1
 
 一三七一年 ダイラ キャトフォード沖
 
 海を漂うむくろに触れるまじ。
 はシドナ、水底の奥方のものなれば──。
 
 船乗りの間でよく口にされる警句だ。もっとも多くの船乗りは、こんな仰々しい物言いはしない。「水死体にゃ触るな。呪いをもらうぞ」と言いさえすれば、どいつもこいつも迷信深い船乗りには、ちゃんと伝わる。
 だから、キャトフォード沖の断崖沿いを航行中に、見張りが偶然見つけた水死体を報告してきたときにも、マリシュナ号の船長フーヴァル・ゴーラムは、当然そのまま通り過ぎろと言うべきだった。
 そうしなかったのは、船尾楼甲板プープデッキから見下ろす海上に浮かぶ水死体の背中に、見覚えがあるような気がしたからだ。
 夜明けの光を受けて燦めく波間に揺れる背中。緩やかな波形を描く、長い金の髪。
 あの後ろ姿には、間違いなく見覚えがある。嫌というほど。
 フーヴァルは、首にかけた革紐を引きちぎり、提げていた古い金貨を左手に握った。それを空中に放り、右手で捕まえて、左手の甲にピシャリとたたきつける。
 船員たちは固唾を呑んで見守っていた。船長の正気を疑っていたのかもしれない。コイン投げトスだと? これはいったい何のだ? ただ全員で短い祈祷と弔鐘を捧げてさっさと通り過ぎる他に、どんな選択肢が? と。
 フーヴァルは、コインに覆い被さっていた右手をあげた。
 裏だ。
 コインには逆らわないと決めていたから、フーヴァルは有無を言わさず小舟ボートを出させた。呪いなど俺がすべて引き受けるとばかりに船首に立つフーヴァルの後ろで、船員はおっかなびっくり舟を漕いだ。
「止めろ」
 漕ぎ手たちがパドルをあげる。
 フーヴァルは舳先に足をかけ、波間を覗き込んだ。呪いを恐れる部下たちのほとんどは目を背けていたが、好奇心に駆られた何人かは、船長の気まぐれをしっかりと観察していた。
 フーヴァルは部下の一人から櫂を取り上げると、船首で小突ける程の距離に浮かんだ死体を突いて、仰向けにした。
 途端に、何人かが小さく息を呑む。
「船長、このお人は……」
 フーヴァルは頷いた。「引き上げろ。物音を立てずに、そっとな」
 奥方シドナの注意を引かないように、とフーヴァルは言い、目の前に迫るキャトフォードの断崖を見上げた。海鳥たちの住み処となっている切り立った崖の上、いまゆっくりと曙光に溶けようとしている朝靄の奥に、そびえ立つ影が見えた。
 水死体が引き上げられ、小舟が大きく揺れる。船員の一人がすぐさま首筋の脈を確か、あっと声をあげた。
「船長! まだ息が──」
 押し殺した叫びにかぶさるように、の胸がせり上がり、大量の水を吐いた。
 意識は朦朧としているようだ。打ち上げられた鯉のように息を喘がせながらも、彼は体を震わせながら呻き、まだ溺れているかのように藻掻きはじめた。声にならない呻きはすぐさま恐怖の叫びに変わり、波音をかき消すほど大きな悲鳴が、断崖に反響した。
 このままでは、崖の上にまで声が届いてしまいかねない。
「押さえつけろ!」
 皆が慌てて口を押さえようとするが、鰻よろしく暴れるせいで手がつけられない。
 ほんの一瞬のうちにフーヴァルは意を決してパドルを握りしめ、ダイラ王国第四王子、ゲラード・オブ・クラレントの頭をぶん殴った。
 再びぐったりと意識を失った王子を見下ろして、フーヴァルは言った。
「手のかかる王子様だぜ。まったく」
 そうして、部下たちに母船への帰還を命じた。




      2
 
 三年前──一三六八年 ダイラ コムラド宮殿
 
 仮面舞踏会は、王族が好む数多くの茶番の中で最たるものだ。
 ちゃちな仮面一つで素性を隠す遊びは、感覚の鈍い人間同士ならそこそこ楽しむ余地もあるのかもしれないが、ナドカにとっては何の意味もない。それをわかった上で気付かぬ振りをする遊戯なのだとクヴァルドは言うが、なおさらくだらないと、フーヴァルは思う。
 コムラド宮殿の中庭は、この日のために豪華に飾り付けられていた。会場を取り囲んで立ち並ぶ柱や、庭のあちこちに設えられた東屋には秋の花々と色とりどりのランタンが吊されている。巨大な食卓には溢れんばかりにご馳走が載り、上等の酒が惜しげもなく振る舞われている。楽隊は休む間もなく朗らかな音楽を演奏し、客たちは大理石の石畳の上で笑いさざめきながら踊っていた。宴の準備を指揮したのはアドリエンヌだという。この宮殿の以前の持ち主──つい数ヶ月前に竜の雷に打たれて死んだばかりの大聖官セオン・ブライアの面影を払拭するために、彼女は相当に努力したことだろう。
 この宴は、ハロルドの次に王位を継ぐグレイアム王子と、アドリエンヌ王女との結婚を祝う宴だ。いや、正確には、繰り返し催される宴のうちの一つ。
 夏に起こった大惨事の記憶を追いやろうとするかのように、デンズウィックでは執拗と言ってもいいくらいに宴が続いていた。
 思い思いの仮面をかぶって宴に紛れ込んだダイラの枢密院顧問官たちは、ハロルド王の病状が快方に向かっていることを、訪れた客たちに信じ込ませようと躍起になっていた。来年の春に計画されている巡幸の話や、新たな宮殿の建築計画を引き合いに出しては、もっともらしい笑顔を浮かべている。極めつけは、次の妃を迎える予定だとかいう話まであった。そうした杜撰な嘘が、王がこの一ヶ月、自室の寝台から起き上がることすらままならないという噂が真実であると、何よりも明白に裏付けている。
 七十年生きればたいしたものだと言われる人間の身でありながら、ハロルドは六十八の歳まで王位を守り抜いている。
「まだまだこの程度で死なれちゃ困るって?」
 ぼそりと呟くと、クヴァルドが仮面の奥から鋭い眼差しを返してきた。
「ここで滅多なことを言うな」目以外を覆い隠す仮面の下で、こっそりと付け加える。「この国では、王の死をだけで反逆罪だ」
 ダイラでは、反逆罪への刑罰は斬首だ。それも、運が良ければ。王の虫の居所が悪いと、事切れる前にありとあらゆる苦痛を味わわされることになる。港から王城に至るまでの道の至る所に生首や身体の一部が飾られていたから、この国の──というか、あの王の──趣味の悪さには、嫌でも気付かずにはいられない。ハロルドは、その四十年近い在位に多くの人間を処刑した。耄碌もうろくしても若い頃の習慣はなかなか忘れないというが、どうやら本当らしい。
「彼らが真実を口にできない理由がわかっただろう」
 フーヴァルは口角をきゅっと下げて、皮肉めいた表情を浮かべた。
「俺たちは運がいいよな。何せうちの王は殺しても死なない」真面目な表情を取り繕う。「国王よ永くあれロング・リヴ・ザ・キング
「ハ、ハ」面白みの欠片も感じさせない声で、クヴァルドが笑った。「せめて、俺をエイルに送り返すまでは斬首されないように努力してくれ」
「心得た。閣下」
 古い王の死と、新しい王の台頭。その二つに注がれる期待が緊張感となって、人であふれかえる宴会場を漂っている。どんな馬鹿げた嘘を吹き込まれようと、これを無視するのは難しい。
 クヴァルドが、人混みの向こう側にいる男に目をめた。病床のハロルドに代わって国事を動かす宰相が、フェリジアの賓客と談笑している。
 追いやられたのか、あるいは自ら目立たない場所を選んだのか、オールモンドは灯りが十分に届かない大広間の隅にいた。派手な取り巻きも、お追従を並べにくる者もいないが、それでも、その気になればこの宴を支配できると言わんばかりの自信を漂わせている。
「ダライル・オールモンド。今となっては、奴こそが伏魔殿ふくまでんぬしだな」
「王からの信任の厚さに違わない有能な男だという噂だ」クヴァルドは当たり障りのない返事をした。
「『有能さ』ってのは『容赦のなさ』を言い換えた言葉だってよ」
 あるときオールモンドは、とある言葉を王の耳に囁いた──国庫が空ならば、聖堂をいくつか取り潰して、その土地を売ってしまえばよろしいのです、と。
 それは、空の国庫をどう満たすか悩んでいた王にとっては魔法の言葉だった。ハロルドは去年までに三人の神官を反逆罪で処刑し、彼らの──ひいては陽神教会の領地である聖堂や修道院を取り上げた。数万人の信徒を抱える大教区の教司相手にも、これっぽっちも容赦しなかった。
 長きに亘って私腹を肥やしていた神官たちの中から罪人を選び出すのは、芋畑から芋を掘り起こすのと同じくらい容易かったに違いない。だが、たとえダイラ人の神官であろうと、彼らが所属するのはカルタニアに本拠地をおく陽神教会だ。この沙汰は実質、教王への宣戦布告だった。ここ数年の教王との関係悪化の裏には、オールモンドがいたともっぱらの噂だ。
「宰相は宴の人気者ってわけじゃないらしい」フーヴァルが言った。
「無理もない。今夜の主賓にとっては邪魔者でしかない」
 オールモンドは廷臣というよりは役人のような雰囲気の男で、地味な服装からは、連日開催される豪勢な宴に含むところがあるという抗議の意思さえ窺えそうだ。
 出自は謎に包まれている。歳は四十代。大陸の戦で戦った兵士だとか、人間でありながらヴァスタリアの宮廷魔術師の弟子だったとか、真偽の怪しい噂ばかりがついてまわる。
 仮面の奥には、油断ならない眼差しがあった。この祝いの席で、彼の周りだけは通夜か議会の最中さなかのような雰囲気が漂っている。王子をどれだけ苛つかせることができるか試すのを趣味としているのかもしれない。
 グレイアムと宰相との確執は、よく知られている。
 王位を継承したあかつきには一日でも早く権力を掌握したい第一王子にとって、この宰相はさぞ目障りなはずだ。ほんの数年前にどこからともなく現れては瞬く間に頭角を現し、自分と王の間に割り込んだのだから、当然だ。筋金入りの陽神教徒であるアドリエンヌ王女も、神官に手を掛けたオールモンドのことを蛇蝎だかつの如く嫌っている。
「口うるさい愛妾が死んだと思ったら、これだ」
 口うるさい愛妾──魔術師のマルヴィナ・ムーンヴェイルは、王に仕えて爵位を手に入れておきながら、その裏でナドカの叛乱を煽った稀代の策士だった。人間からは、やれ女狐だの悪女だのと呼ばれるが、エイルに暮らすナドカは、望むと望まざるとに関わらず、彼女に恩義がある。彼女が行動を起こさなければ、エイルは今も呪いの瘴気に閉ざされたままだったのだから。
「お次は、どこの馬の骨とも知れん男が王に取り入っちまうんだ。王子が腹を立てるのも無理ないぜ」
「口に気をつけろ」
 クヴァルドがそう言ったまさにその時、宰相がこちらに目を留めた。隣に立つ貴婦人の耳に何事かをささやきかけつつ、視線でクヴァルドを招いている。
「おっと。声がでかすぎたか」フーヴァルは人ごとのように言った。
 隣のクヴァルドは、海に飛び込む前にするように、深く息を吸い込んだ。
「仕事をしてこなければ」
 彼は言い、魑魅魍魎の巣窟へと向かっていった。
「それじゃ、俺の仕事は終わりだな」
 フーヴァルの主な仕事は、クヴァルドをダイラの王都デンズウィックまで運ぶことだけだ。新たに任命された海軍卿としての挨拶も滞りなく済ませたことだし、これ以上こんな場所に用はない。船長を置き去りにしてサウゼイで羽目を外している仲間に追いつくためにも、さっさと退散してしまいたい。下手にぐずぐずして、気まずい再会を果たすなんてことになるのはどうしても避けたかった。
 鵞鳥がちょうの群れを思い浮かべながら、かさばる服を着た騒々しい人混みをかき分ける。フーヴァルの正体に気付いたらしい連中が「ほら、あの海賊あがりの」だとか「ナドカと人のあいの子だ」とか、好き勝手なことを喋っている。
 目立たないようにここを出ていくのは無理そうだと思った時、後ろから腕を掴まれた。
「フーヴァル」
 クソ。畜生。クソッタレ。
 ふり返らなくても、そいつが誰か、わかってしまう自分に腹が立つ。
「少し話がしたい」彼が言った。「いいかい?」
 乱暴に腕を振り払ってから、フーヴァルは小さく辞儀をした。
 控えめながら趣味がいい装束も、微かに香る香水も全て、意識の外に追いやられる。仮面の奥の、その蒼い目を見てしまったら。
 フーヴァルは顔を伏せ、低い声で憎々しげに言った。
「何なりと、殿下」
 
 東屋を照らすランタンをいくつか吹き消してから、ゲラードはフーヴァルに席を勧めた。
「座ってくれないか」
「よろしければ、このままで」フーヴァルはよそよそしい声で、それを固辞した。
「よろしくない」ゲラードは言った。「目立ってしまう。僕がここにいると気付かれたくないんだ」
 フーヴァルが仕方なく腰を下ろすと、ゲラードは仮面を外した。
「僕と顔を合わせたくないのは理解しているつもりだ」彼は言った。
 一つだけ残されたランタンの火灯りが、ゲラードの顔を闇の中に浮かび上がらせていた。
 首の後ろで束ねられた、緩く波打つ金の髪。その髪を指に絡ませて、いくつの色を見出せるか試してみたことがあった。普段は優男らしい曲線を描く眉は、何かを決心したときの彼を驚くほど強く印象づける。そう、ちょうど今のように。母方の血が色濃く出た、すっと通った鼻筋。その下の豊かな唇もまた、内なる決意に強ばっている。
 それから、この目だ。蒼穹を思わせる、底なしの眼差し。
 僕と顔を合わせたくないのは理解している? そうは思えない。
 顔を突き合わせる度に、挑発したいのか、誘惑したいのか、殴りたいのか、逃げ出したいのかわからなくなる。出会った最初の瞬間から、今までずっとそうだった。
「さっさと済ませちまいましょう、殿下」
 他人行儀に呼ぶと、ゲラードの顎がまた少し強ばった。
「どうしても君と話がしたかった。ビアトリス嬢のことで」
 ほらな。やっぱり。ろくでもねえ話に違いないと思った。
 その気持ちが顔に出ていたのだろう。ゲラードはもったいぶらずに続けた。
「彼女の処刑が決まった。来月、白茨砦ホワイト・ソーンで執り行われる」
 ゲラードは、自分にも責任の一端があるとでも言いたげな悔恨の表情を浮かべた。
 ビアトリス・ホーウッドとゲラードの婚約は、王族が興じる盤上遊戯の一環として取り決められた。王港長官であるホーウッドを宮廷に迎え入れ、船舶を所有する諸侯に及ぼす力を強固にしようという狙いだったらしい。だが、ビアトリスが陽神教会絡みの陰謀に関与していたことで、計画と婚約の両方が立ち消えとなった。
 たとえ名目上のものだったとしても、婚約はゲラードとフーヴァルの間に打ち込まれた巨大な楔となった。たとえ名目上のものだったとしても、それは修復しがたい亀裂を生じさせた。たとえ名目上のものだったとしても、ゲラードは妻となった女を精一杯愛そうとしたはずだ。彼は、そういう男なのだ。
 だからこそ、終わりにした。それこそ、断頭台で首を落とすようにすっぱりと。楽しい遊びが一つ、時間切れを迎えただけ。あのあと婚約が解消されたことは人づてに聞いたが、連絡などしなかった。いつかは終わると、初めから決定づけられていた関係が終わっただけだ。
「処刑が決まったからどうしたってん……です」フーヴァルは舌を噛みながら言った。「邪魔者が死ぬからよりを戻そうって話じゃなさそうだ」
『邪魔者』という言葉に、ゲラードは咎めるような目を向けてきた。が、すぐにそれを脇に追いやる。
「彼女は誰も殺していない。妹を陥れようとしたが、未遂に終わった」
「だから?」
 それを口にする前に、ゲラードは小さく息を吐いた。
「だから……どうにか逃がしてやれないだろうか。サムウェル君たちを脱出させたときのように、君の船に乗せて……エイルが無理なら、他の国にでも?」
 フーヴァルはあんぐりと口を開けた。
 それを、俺に頼もうってのか。他でもない、この俺に。
 この──
「クソ馬鹿野郎」思わず、声に出して言った。
 だが、ゲラードは少しも動じない。
「監獄で、初めて彼女と話をした。彼女が望んでいたのは、自分の家をもり立てることだけだったんだ。心から後悔していた。いまは心を入れ替えて、妹の助けになりたいと願っている」
「そりゃあそうだ。死なずに済むならなんだって喋る。お前──あんたは、見るからにつけいりやすそうな顔をしてるしな」フーヴァルは東屋の円卓に身を乗り出し、脅すように指を突きつけた。「そのおめでたい頭の中に、哀れみがたっぷり詰まってそうな顔だ。あの女はそれを見抜いて、利用しようとしてるだけです」
「そうであったとしても」ゲラードは言った。「助けられるなら、力になりたい」
 フーヴァルは呆れた顔を隠そうともせず、ゲラードから遠ざかるように長椅子に背をもたせかけた。
「そういうのは、殿下。他人を巻き込んでまで背負い込むようなもんじゃない。あんた一人でなんとかできないなら、それは力不足ってことだ。諦めるんですね」
 ゲラードはまだ何か言いたそうにしていた。フーヴァルはチッと舌を鳴らして続けた。
「何もあの女にくしで断ってるんじゃない」まあ、死んでくれればせいせいすると思う程度には嫌いだが。「あんたの親父が今にもくたば……えーと──」
「くたばろうとしているときに?」ゲラードが助け船を出す。
「そう。そのときに、面倒ごとは起こせない。俺はもうただの海賊じゃないし、あんた専属の船頭でもない。何せ、海軍卿に任命されちまった」
 この俺がだぜ、と両手を拡げてみせる。
「そうだね」ゲラードは小さく微笑んだ。「君には与えられて当然の肩書きだ。おめでとう」
 皮肉の欠片もない言葉に居心地の悪さを感じつつ、どうも、と頷いて言葉を継ぐ。
「気持ちはわかる。相手がナドカだろうが、人間だろうが、関わった奴の幸せを願わずにはいられない、その病気のこともわかってる」
 病気では──と言いかけたゲラードを遮る。
「でもな、無理だ。てめえのしたことの責任はてめえで取るってのが俺の信条だし、この世界はそうやって回るべきだ。最後まで逃げおおせられねえなら──捕まって後悔するくらいなら、そもそも悪事に手を出すべきじゃない」
 ゲラードの顔に、諦めが滲む。だがどういうわけか、その諦念が彼を弱く見せることはなかった。
「そう……なんだろうね」
「ああ。あんたにできることなんかない。そもそも、俺たちには何の責任もないことなんだからな」
 ゲラードはそっと、ため息をついた。
「初めからわかっていたのかも」彼は小さな声で言った。「君にそう言われるのを、心のどこかで期待していたのかもしれない」
 恥ずべきことだというように、彼は首を振った。
「こんな話を持ちかけて、すまなかった」
「ああ、まったくだ」
 そして、ふたりの目が合った。
 いつも不思議に思う。この男が、一国の王子ともあろう者が、貧民街スラム育ちであいの子で、海賊上がりのフーヴァルに、いったい何を見出しているのか、と。
 初めて会った頃の仔犬のような無邪気さと、ナドカと見るや顔を輝かせて寄ってくる無遠慮さは、いつの間にか消えていた。自分のような半端者に人ならざる者への憧れを見出しているわけでも、奇貨きかくべしとばかりに愛着を抱いているわけでもなさそうだ。
 これは、王子が海賊に向ける眼差しではない。
 彼の瞳はいま、夜の闇を映して暗く翳っている。それを見つめていると、ふたりで共有している秘密のことを考えてしまいそうになる。いま彼の頭の中にあるのは、俺を抱いているときの記憶か。それとも抱かれているときの記憶か。
 この期に及んで、まだ捨てきれていないのは、互いによくわかっていた。けれど同じくらい確かに、いつか必ず終わらせなければならないのもわかっていた。最初から、ずっと。
 わかっていたはずだ。
 フーヴァルが目を逸らすよりほんのわずかに早く、ゲラードが言った。
「久しぶりに、話せて良かった」
「こちらこそ、殿下」
「皆によろしくと」
「ええ、伝えます」
 言葉少なに別れを告げて、フーヴァルは最後にきちんと辞儀をしてから、その場をあとにした。
 夜はまだ長い。だが、サウゼイで羽目を外す気には、もうなれなかった。
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