処刑人と人魚

あかつき雨垂

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処刑人と人魚

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 マレク・アクスマンは、夜の海を恐ろしいと思ったことはなかった。
 揺らめく黒い水面にも、大気を揺るがす海鳴りにも、海という計り知れない未知の領域にも、恐怖を感じたことはない。ただ、そこには地上では望むべくもない静寂があるのだろうと思うくらいで。

 港に打ち寄せる小波が内緒話のように囁くのを聴きながら、マレクは待っていた。開け放った酒場の戸の前で、帽子を手にして。(実際には、戸口に寄りかかり、手を組んでむっつりと立っていたのだが)そうして誰からも異論が上がらなければ、ようやく店に立ち入ることを許される。これが、処刑人アクスマンが酒にありつくために必要な手順だった。
 頭の中の砂時計が、さらさらと音を立てる。酒場の喧噪は耳を聾するほどだった。港に面したこの店は、今朝がた港に入ってきた船の水夫たちであふれかえっている。珍妙な異国の風習、船乗りの下世話な歌、世にも奇妙な積み荷、遠洋で出会った怪異、こことは別の港で抱いた女──話題は尽きない。こうして石のように静かに待ってさえいれば、自分のことなど気にも留めない。
 だから、酒を飲むなら船が港に着いた夜が狙い目なのだ。
 ──そろそろ時間だ。
 顔を上げて見やると、酒場の主人は渋々といった顔で頷いた。
 マレクは、まともな客ならだれも近寄らない、店の隅の一角に腰を下ろした。椅子などと言う上等のものは無く、小さな木箱と、魚臭い樽が置かれているだけの場所だ。それでも、運が悪い日にはここにたどり着くことさえ出来ない。主人は渋面のまま、素焼きのマグに注がれたエールと、ほとんど残りかすしか入っていないにしんのシチューを持ってくると、傾いた樽の上に置き、また足早にカウンターの中へ戻っていった。
 ひとり、自嘲の笑みを浮かべる。
 ──せいぜいゆっくり味わってやるさ。
 ぬるいエールを少しずつ口に運びながら、マレクは店の中を眺めた。
 よく日に焼けた水夫達の横顔は、久々におかに上がった人間に特有の活気に満ちている。
 今朝入ってきた商船の名にも、船長の名にも聞き覚えはなかった。遠く地中海の積み荷を運んできたと聞いているが、この街に立ち寄るのは初めてだろう。入港と同時に船長が受け取っているはずの通達は、領主であるマクギリヴレイが定めた法外な停泊料の請求書だ。この船、あるいはこの船の持ち主に、払う用意があればいいが。でなければ、一週間後には余分な仕事が増えることになる。
 ふと、何かに視線を引っ張られたような気がした。
 顔を向けると、そこにいたのは見覚えのない男だった。よく日に焼けた他の水夫達とは違う。昏く冷たい薄青の瞳に、陶器のような白い肌。南に航海した人間の肌ではない。北方からの船が入港したとは聞いていないが──。
 眼を逸らし、エールの入ったカップの縁を人差し指で三度叩く。ゆっくりと、符丁を分からせるように。そのあとは、二度とあの男の方を見なかった。
 冷め切ったシチューの最後の一口を飲み込むころには、水夫達の何人かが店を出ていた。さっき目が合った男の姿も消えている。マレクは、今日はそれほどの運には恵まれなかったか、と密かにため息をついた。
 店をあとにすると、目の前に広がる海原に冴えた満月が浮かんでいた。棚引く雲をケープのように身に纏い、遠い波間に月影の道を敷いている。まるで、「こちらへおいで」
 と誘うように。
 目を背けて、家路を辿り始める。
 マレクの家は街の外れにあった。『絞首台岬』と呼ばれる断崖へと続く唯一の道の入り口を見張るように立つ小屋だ。彼の一族は、代々その家に住むことを定められていた。
 港の乱痴気騒ぎが聞こえないところまでさしかかったときだった。不意に何かに腕を掴まれて、マレクは声も出ないほど驚いた。往来でそんなことをする人間は、国中探したっているはずがないからだ。
「な……」
 その男は、背後に浮かぶ月の影を纏って輝いていた。
 白い膚、青い目、額にかかる暗い色の髪。さっき、酒場で誘いをかけたあの男だ。
 マレクは抵抗をやめた。
「気が変わったのか?」
 男は答えずに、マレクの頬にそっと触れた。マレクはその手を払って、周囲に目配せをした。
「宿は?」
 男は首を振った。
「口がきけないのか」
 男はもう一度首を振った。
 マレクはため息をついた。自分の家に他人を招き入れるのは、最悪とは言わないまでも、いい手ではない。だが、世間知らずの船乗りが相手だ。どうせこいつも港を出れば、二度とここには戻らないのだろう。
「ついてこい」
 背を向けて歩き出す。男は無言のまま、マレクのあとをついてきた。

 家に入り、暖炉の泥炭ピートをつついて火を呼び覚ますと、独特の香りと共に火の粉が舞い上がった。
 下穿きを脱ぎ、ゆったりとしたシャツだけの姿になる。背後に誰かの気配を感じるという、ただそれだけのことで、腿の中程までを覆い隠すシャツの裾の内側に期待がとぐろを巻く。
 最後に誰かと寝たのは、やはり、別の船が入港した夜だった。あれは三ヶ月ほど前のこと。期待というよりは、飢餓感に近い。
 マレクは振り向き、寝台の上に腰掛けた男の膝を、膝で割った。男はマレクを見上げながら、ふくらはぎに触れ、膝の裏の薄い肌を撫で、腿を擦り上げて、手のひらで腰骨を包み込んだ。その手つきには、欲望以外の何かがある気がした。値踏みしているか、あるいは……鑑賞してでもいるような。
 をする相手とは、キスをしないと決めていた。そのはずなのに、ふっくらとしたこの男の唇の感触に思いを馳せている自分がいることに気づいて、内心で罰の悪さを感じた。
 そんなことを知るよしもない男の手が、マレクの腿の内側の敏感な皮膚に触れた。五本の指をざわざわと動かす。何かを検分するような、じれったい手つき。
「お気に召したか?」
 ニヤリと笑って尋ねると、冷たい目の男の顔に小さな微笑が浮かんだ。
「そうでもない」
 聞き慣れない話し方。やはり、地元の人間ではない。低く、わずかにかすれたその声だけで、準備が整うのに十分な威力があった。ついさっきまで、余計な会話で時間を無駄にする手合いでなければいい。互いに欲求不満を解消することができれば、それでいいと思っていたのに。
 男の手がシャツをたくし上げ、既に勃ちあがりかけているものを暴いた。彼は人差し指の背でそれを持ち上げ、マレクの顔を見上げながら、ゆっくりと口に含んだ。
「あ……クソ」
 柔らかい舌はひんやりと冷たく、それが不思議と気持ちよかった。やはり、どこか探るような舌使いでゆっくりと形をなぞる。どうやら、これがこの男のやり方らしい。
 マレクは男の髪を撫でた。濡れた毛皮のような、ダークブラウンの髪。こういう髪をした者につきまとう噂話を知っていた。
「セルキーの話を……思い出すな」
 海に住む妖精シーの一種であるセルキーは、普段はアザラシの姿をしている。ところが、ひとたびその毛皮を脱ぐと、中から絶世の美男美女が現われるという。彼らは伴侶を求めて地上に繰り出しては、見初めた相手を水底の家に連れて行ってしまうと言われている。
 だが、信憑性はいかほどのものか。不名誉な駆け落ちをした娘を持つ家は、たいていセルキーに罪をおっかぶせるものだ。
「何のことだ?」
 男は目線を上に上げた。
「お前だよ。ほんとうはアザラシなんだろ」
 男はまた小さく笑って、温まった口内からマレクのものを引き抜いた。
「いいや」
 彼は言った。
「だが、惜しい」
 ──惜しいって、なんだそりゃ。
 苦笑しつつ、寝台に横になった男のものを咥える。潮っぽいにおいがするのは気のせいではないだろう。海の男はみな、そんなにおいがする。
 うっすらと汗をかいた体毛の薄い肌は、暖炉の火明かりに照らされて輝いていた。口の中で大きくなってゆくものの重さを愉しみながら、手を這わせる。嵐の海で索具をく手、暴れる船の甲板に踏みとどまる脚に、自由を手にしたものの強さを見る。自分には決して手の届かないもの。それが、この瞬間だけ手に入る。
 口の中で丹念に育て上げたものを、最後に舌先でなぞる。かなり大きい。北の男と寝るときには、大きさには期待しないほうがよいという経験則があるのだが、この男には当てはまらないらしい。受け入れる瞬間のことを思って、下腹が疼く。見上げると、薄青の瞳がわずかに翳っていた。
 眉を上げて問いかけるまでもなく、脚を開いてみせるまでもなく、男の手が伸びてマレクを押し倒した。濡れた先端が尻の窪みを辿る。伺うように押しつけられたものを、熱望をもって受け入れた。
「う……ん……」
 三ヶ月ぶりにその場所を暴かれて、身体が悲鳴を上げそうになる。だが、唇を噛んで殺した。
 強ばりを掻い潜り、それが這入はいってくる。
 名前も知らない人間と繋がる、得も言われぬ開放感、征服感、罪悪感、そして不快感が、形の定まらない混沌となって、腹の底から喉元にこみ上げる。
「ああ……!」
 マレクのような人間は、指先一つで、誰かの人生を破滅させることが出来る。その指で、その手のひらで、わずかに湿った見知らぬ男の背中を抱いた。手のひらを滑らせ、ずっしりとした尻を掴み、豊かな腿を引き寄せて、もっと深くへと誘った。
 のしかかる男の表情には、尚もこちらを探っているような雰囲気があった。実際にこうしてまぐわっていなかったなら、男色者を処刑するために送り込まれた審問官であることを疑ったかも知れないが……。
「ん、あ!」
 ぐっと腰を押しつけられて、堪えるつもりだった声が漏れてしまう。根元まで収まったものが、隙間無く体内に押し込まれているのが分かる。肉の壁でもって、筋や血管の位置まで把握できそうなほどだ。正直に言えば、少し苦しい。
「何を待ってる? さっさと動け」
 マレクは言った。
「お前は、苦しそうだ」
 そう、男が答えた。
「無理をさせているか?」
 ──勘弁してくれ。
 マレクは顔を覆った。
「いちいち顔色をうかがうな」
 男が小さく息を漏らすのを耳にした……かもしれない。だが、次の瞬間に開始された抽挿によって、聞こえるものや見えるものに気を払う余裕はなくなってしまった。
「あ……あ……!」
 時間をかけて引き抜かれるものが体内を愛撫し、再び、内部を擦り上げながら収まってゆく。試すような動きを三、四度繰り返したところで、男は遠慮をやめた。
 大海の波を思わせる力強さで、重い腰が打ち付けられる。濡れそぼつ結合部が音を立てる。待ちわびていたものを貪る身体は、触感や痛みや圧迫感を脇に押しやり、ただ一つの感覚だけを感じるためのものに変わった。ただ一つ、この男に与えられる『快感』だけを。
「う、ん……あぁ……っ!」
 促されるままに体勢を変え、無我夢中で腰を振った。自分が上になっているのか、下になっているのか、そんな認識さえ曖昧になる。
 白い手が伸びてきて、マレクのものを握った。腹の上で揺れているものは限界まで張り詰め、男の臍の周りに濡れた痕跡を描いている。
「は、あ……触、るな」
 息を喘がせながら、その手を払おうとする。まだ達してしまいたくはない。それなのに、男は手を離そうとはしなかった。こちらの表情の変化を一瞬たりとも見逃さないとでもいうようなあの目で、じっと見つめてくるばかりだった。
「やめ──待てって……!」
 先走りに濡れた手で、根元から先端までを執拗に扱かれる。同時に、男のものが、自分の身体で受け入れることが出来る限界のところまで這入り込んで、その先を懇願するように、何度も奥に触れていた。
 抵抗することに、意味は無いのかも知れない。元はといえば、自分で誘いをかけ、自分で招き入れた客だ。
「ああ……クソ……」
 諦念を読み取ったのか、男は身を起こしてマレクを組み敷き、覆い被さった。
 背骨が震えるほど強く腰を打ち付けられて、気が遠のきそうになる。
「あ……あ──!」
 なにか縋り付くものをと、無我夢中で男の背中を引っ掻いた。微かな凹凸──傷だ。背中に傷? 鞭打たれた痕? 断片的な思考が、新たな問いを産んだ。
 ──ひとを鞭打つのが俺の仕事だと知ったら、こいつは俺を殺そうとするだろうか。
 冷たい目を憎悪でたぎらせて、短剣で腹を突く男。その手が自分の血に染まる。
 その思いつきに、全身が戦慄おののいた。おわりを迎えるために、震える身体が収縮する。
「あ……い、く……」
「ああ……」
 耳元にかかる吐息がざらつき、男もまた上り詰めようとしているのが分かった。
「あ、いく、クソ……ッ」
 喉の奥でかみしめたような、小さな声を聞いた気がする。その直後、身体の中から男が居なくなったと思ったら、マレクの上で自分のものを数度扱いた。
 どちらが先に達したのかはわからない。腹にぶちまけたものの温度は同じだった。荒い呼吸に上下する腹の、臍の上で精液が混ざり合い、それから、脇腹をつうと伝い落ちていった。
 満月の光が小さな窓から差し込んでいたのを覚えている。男の目が相変わらず、観察するように自分を見ていたことも。だが、それ以上何かをするにはあまりにも疲れ果ててしまっていた。
「なあ、セルキー」
 マレクは言った。
「朝になる前に、船に帰れよ」
 これが、寝た相手に言うお決まりの言葉。蝶を絡め取る蜘蛛の巣にも、粘着力を持たない糸がある。この言葉は、まさにその糸だった。
「それで、二度とこの港には戻ってくるな」
 男がなんと答えたのかは覚えていない。いつの間に眠りに落ちたのかも、全く覚えていなかった。朝の光に目を覚ます頃、暖炉は冷え切っていて、男の姿はどこにもなかった。
 
 
「最後に言いたいことは?」
 という質問に答えられないまま死んでゆく人間は多い。日が沈んだ後によくよく考え直してみれば怨み言のひとつやふたつ出てくるのだろうが、哀れなるかな、その頃には誰も彼も死んでしまっている。
 『断頭台岬』と呼ばれるこの断崖で、断頭に値する重罪人の処刑が行われたのはずいぶん前のことだ。マレクが覚えている限り、去年は八十人以上の処刑をしたが、罪を犯した奴らに関して言えば、ほとんどがケチな泥棒だった。盗みなら、ほとんどが絞首刑で済まされる。斬首は人殺しや強姦のための処刑方法だ。去年の八十人の中に、罪を犯したわけではない人間がどれくらい混ざっていたのか、マレクには知る由もない。この領地では、人の罪科を定めるのは刑吏の仕事ではない。マクギリヴレイの城で執り行われる『裁き』が罪を決めるのだ。マレクは罪人を受け取り、鞭をあてたり、縄を引いたり、斧を振りおろしたりするだけだ。そして、埋葬することが許されない罪人の死体を崖っぷちから放り投げて片付ける。気楽な仕事だ。
 かつて刑吏が誇り高き王の左手だったころもあったという。だが、そんなものはおとぎ話でも語られないほど昔の話だ。
 首に縄をかけられた男は、相変わらず何も言わなかった。悔いているのか、それとも、我が身に降りかかった不運を嘆く余り頭が回らないのか。こんなことならマクギリヴレイに賄賂を贈っておくべきだったと思っているのかもしれない。
「言いたいことはないか」
 もう一度だけ、マレクは尋ねた。やはり返事はない。この男に判決を言い渡した男──エドワード・マクギリヴレイは、処刑台と、集まった人々の群れの両方を眺めることが出来る位置に座っていた。ちらりと表情をうかがうと、彼はわずかに頷いた。
「悔い改めた者に、神のご加護があらんことを」
 小さな声でつぶやいて、処刑台の落とし戸を開いた。
 この街に住むもう一人の刑吏、ウィリアム・アクスマンは叔父だ。刑吏に生まれた者は別の生業を選ぶことを許されないから、必然、近隣には同族が増える。ウィリアムは刑吏の仕事をしながら、娼館の経営も行っている。賤民と呼ばれる身分の者に許された職業は多くはないとは言え、港町の娼館は実入りの良い商売だ。六十歳に届こうという歳の割には若く見える。たとえ病気をしなかったとしても、刑吏の人生は短い傾向がある。自害する者や報復によって死ぬ者が後を絶たないからだ。そんな中、六十の歳まで生き延びた叔父は、『慎重であれ』という家訓の体現者であるかのようだった。
 死体の処理をするときには、ウィリアムが肩をもち、マレクが脚をもつのが習いだ。二人で死体を持ち上げて、振り子のように勢いをつける。
「一……二の、三」
 掛け声で手を放せば、そこから先の仕事は海がやってくれる。
「あの背びれだ」
 死体が浮かんでいるはずの海面を眺めて、ウィリアムがマレクに言った。
「背びれ?」
 娼館の主人をしてはいても、引っ込み思案な叔父はめったに誰かと話をしない。ウィリアムには、自分の頭の中だけで架空の会話を交わしてから、実際の会話を始めるという妙な癖があった。長いこと一緒に仕事をしてきたので、叔父の癖には慣れっこになっている。マレクは視線をたどって、断崖の下を漂ってゆく死体を見──そのすぐ側に現れた、傷だらけの黒い背びれを見た。
鯨かマクマラ?」
 マレクは言った。
いいやネイシャチカーナだ」
 シャチ。このあたりで見かけるのは珍しい。北の方から来た船乗りから話を聞いてはいたが、実際に目にするのは初めてだ。そいつは黒い背中から潮を噴き、死体に寄り添うようにゆったりと泳いでいた。水面から丸々とした顔を突き出したときには、愛らしいと感じた。だが、大きな口にびっしり生えた鋭い牙で死体の頭を咥えたのを見ると、マレクの背筋はすっと冷たくなった。
「良い兆しじゃないな」
 同じものを見て、ウィリアムは重々しく言った。
「シャチが居着くってのは」
「アザラシをいたぶって遊ぶんだとよ」
 マレクはフンと笑った。
「この岬にピッタリの、血なまぐさい奴が来たな」
「群れからはぐれたか」
 ウィリアムが言った。
「さあな」
 やれやれと首を振る叔父の傍らで、マレクはシャチを見つめ続けた。
 水面に血の赤を滲ませてゆく海の獣。その心に、孤独がよぎることはあるのだろうか。
 やがて、背びれに六筋の傷を持つこの逆叉さかまたは『シア』という名で呼ばれるようになる。
 
 
 刑吏、皮剥ぎ、汚物清掃人、娼館の主人──そういった生業につく人間は、この世界では『賤民』に分類される。賤しい民。目を背けたい存在というわけだ。自由市民に認められる権利のほとんどは、賤民には与えられない。身内を別にすれば、棺の担ぎ手さえ居ない。聖別された土地に埋葬して貰うこともかなわない。
 物心ついて以来、マレクが最高の笑い話だと思っている法がある。それは、賤民に触れた者は、それだけで家族全員が同じ賤民の地位に落とされるというものだ。何年か前に、東の方で刑吏の娘がある男と恋に落ちた。娘は身分を隠して男と逢い引きしていたが、ある日正体を知られてしまった。男は発狂した末に自害したという。
 本当に、最高の笑い話だ。
 船乗りを狙って誘いをかけるのは、そんな理由があった。一度きりの関係で遠くへ去ってゆく相手なら、こちらの身分を明かす必要も、あちらが気にする必要も無い。
 そのはずだった。
 夜半に小屋のドアをノックされたとき、寝たふりを決め込もうと思えばそうすることもできた。
 刑吏は──拷問の後の回復を助けるという職務の性格上──人の体に多少詳しい。マクギリヴレイが『裁判』を取り仕切る前には、容疑者を痛めつけて真実を絞り出させるのは刑吏の仕事だった。ウィリアムはその時代を知っているし、例に漏れず人体を癒す術に明るい。薬を作って売ったり、医者の仕事をすることもある。ただし、助けを求める者が闇に紛れることができる夜の間だけに限られるが。
 一方、マレクに医術の心得はなかった。人間の本音と建て前に嫌気がさし、敢えて学ばないようにしていたのかと尋ねられれば、否定するつもりもない。だが、刑吏と見れば誰でも同じだと思っている街の住人は、ウィリアムではなくマレクのところにも薬を求めてやってくることがあった。
 叔父に貰った痛み止めを分けてやることくらいならできなくも無いが、今夜は他人に親切を施す気分ではない。マレクはドアの向こうに声をかけた。
「薬が欲しいなら〈笑う鴎〉亭に行け」
 〈笑う鴎〉亭は、街外れでウィリアムが経営している店だ。
「薬が欲しいわけではない」
 返ってきた声に、マレクは寝台の上で飛び起きた。そして、深く考えずに戸に手をかけ、押し開いた。
「お前……」
 そこに立っていたのは、前に一度、この家のベッドで抱き合った、あの男。
 戸外の思いがけない明るさに、ちらりと空を見る。今夜もまた、満月だった。
「二度と来るなって、言ったろ」
「『わかった』とは言っていない」
 男は言い、マレクを見下ろした。
「入っても?」
 鼓動が三つうつ間、マレクは男を睨みつけていたが、やがて瞳をそらして数歩後ずさった。
「あとで後悔しても、知らないからな」
 そのようにして、逢瀬は続いた。
 月に一度、満月が輝く夜だけ、彼はマレクの家の戸を叩き、マレクはそれを受け入れた。夜明け前に家を出て行き、次の満月までは何の音沙汰もない。それでも、三ヶ月に一度、誰かと寝ることが出来れば上々だったはずの身には贅沢すぎた。
 夜が近づくごとにそわそわしたり、指折り数えたりするなんてまっぴら御免だと思っていたのに、気がつけば夜空に浮かぶ月の満ち欠けを気にするようになっていた。血管の隅々まで漲る期待で身体を熱くしながら、ノックの音を待ちわびる。
 ひとたび迎え入れれれば、会話などそっちのけで、温もりを貪るように交わる。次の夜明けの冷たさを少しでも遠ざけるように、沢山の痕跡を残すよう強請ねだる。出て行くところを見ずに済むよう、行為の後は眠りに逃げ込み、朝の光が閉じた瞼を擽っても、明らかな不在を目にしなくて済むよう、寝台のへこみに手を当てたまま寝そべっていた。
 そして、ある疑問がマレクの頭に繰り返し浮かんだ。
 出で立ち、言葉、どれをとっても地元の人間ではないのに、月に一度は必ず訪れるこの男は、どこの誰なのか? 一隻も船の入港がない日に会ったこともあったから、船乗りではない。近くの村に住んでいる? それとも、もっと大きな街からやって来ているのか? 素性を明かさないのはお互い様だが、最初にあったあの夜から、もう五ヶ月近く経とうとしている。刑吏は目立たない職業ではない。何しろ家に招いているのだ、こちらの正体については、もう知っているはずではないか? 
 自分のことを刑吏だと知った上で抱き続ける理由を不思議に思う気持ちと、相手の正体を疑問に思う気持ちとが混ざり合って、腹の底にうねっている。知らないことがあるのは気分が悪い。あの男のことを、もっと知りたい。そうすれば……月に一度、それよりもっと頻繁に会えるようにはならないだろうか。そんなことを、考えずにはおれなかった。
 つまり、マレク・アクスマンは、名前も知らない男に、骨の髄まで焦がれていたのだ。
 
 
 六度目の満月の夜、その日は眠らなかった。衣服を身につける背中に向かって、マレクはついに尋ねた。
「どこに帰ってる?」
 男はわずかに振り向いたものの、すぐに答えようとはしなかった。瞬きを一度、それから、ようやく答えた。
「遠いところだ」
「ラカヴィル? それとも、グレンヴァーのほうか?」
 男は、ほんの少し困ったような、微かな笑みを浮かべた。
「遠いところだ」
 あからさまな拒否。
 屈辱が腹の中で燃え上がる。
 刑吏に身元を知られて、押しかけられたら困るとでも思っているのだろう。それはそうだ。確かに道理だ。それでも、屈辱だった。
「尋ねて行くわけじゃない。例え頼まれたってごめんだ」
「そういうわけでは──」
 男は何か言おうとしたが、それ以上聞きたいとは思わなかった。マレクは何かをかきむしりたい気持ちを堪えて、言った。
「行けよ」
 声が掠れる。あまりに惨めで、自分の首を絞めたいと思った。
「早いとこ帰って、お前の不貞を知らない女房のベッドに潜り込めばいい」
 男が手を伸ばし、マレクの肩を掴んだ。その力の強さに、思わず息を呑む。
「わたしはひとりだ」
 薄青の瞳が、闇を吸い込んで翳っていた。その目を見つめ返しながら、マレクは言った。
「そうかよ」
 だから、俺のところに来たのか? 俺が自分と同類のように見えたから? 
 それなら、どうして何も明かさない? 
「いいから、さっさと消えろ」
 男はそっと、マレクから手を離した。そして言った。
「わかった」
「今度こそ、二度とここには来るなよ」
 彼は後ずさった。
 視界の隅で、男が上着を羽織る。彼は戸を開けて外に出る前に、ほんの一瞬でもためらったろうか。わからない。マレクはただひたすらに、男の瞳があった虚空を睨み付けていた。引き裂かれるような胸の痛みを抱えたまま。
 
 散々迷った挙げ句に家を出たのは──追いすがろうとしたからではない。謝りたかったわけでもない。すくなくとも、家を出たときにはそう思った。町外れへと続く道の向こうに男の影を捕らえても駆け寄らずに同じ歩調で後をつけたのは、追いついたときになんと言えばいいのか考えていたからだ。誰かに執着するのは初めてだった。こんなに情けない、無防備な気持ちになるのも。
 煌々と輝く月が、決して軽快とは言えない男の足取りを照らし出していた。彼は街を出て、田舎道に入っていった。それは岬に通じる道で、たとえ昼日中の明るい時分であろうと、ひとりで歩くのには到底向かない道だ。いわんや、その道の先に人間の住処に適した場所があるはずもない。
『斬首台岬』に小舟を停泊させているか、あるいはあのあたりの洞窟にでも住んでいるのか……そんな可能性しか思い浮かばない。背中の傷が罪人の証だと言うなら、人目を避けて暮らす逃亡者だという話もあり得る。マレクの逡巡は、いつのまにか抗いがたい好奇心に取って代わっていた。
 その間にも、男は岬を下る道を、慣れた足取りで歩いて行く。マレクは見失わないように、その少し後を慎重に尾行した。やがて、波のしぶきが頬にかかるところまでくると、男は着ていた服をゆっくりと脱ぎ始めた。露わになった肌は月明かりを宿して、微かに発光しているように見えた。
 そして、背中には大きな傷。六つの。
 まさか──いや、そんなことがあり得るはずはない。
 すべての衣服を脱ぎ去ってしまうと、彼は岩陰から何かを取り上げた。それは何とも不思議な布だった。月影を編んだらあんな色合いになるのかも知れない──その、計り知れない色に輝く布を、男は腰にまきつけた。
 すると、どうだろう。男の腰からつま先が光に包まれたかと思うと、みるみるうちに、皮膚の質感と形が変化して行くではないか。長い脚は一つに合わさり、つやつやと輝く白と黒の尾びれに変わっていった。
 両脚をうしなった男は、蛇がとぐろを巻くように優雅な身のこなしで岩場に寝そべった。彼は波打ち際を見つめて小さくため息をつくと、身をくねらせて波間に身を躍らせた。やがて白い波頭の間から突き出たのは、傷ついた背びれ。六つの傷。
 マレクは呼吸も忘れて、その光景に見入った。身動きさえとれなかった。
 確かに、あいつはセルキーではなかった。『惜しい』などとうそぶくはずだ。
 シアは人魚だったのだ。
 海に浮かぶ罪人の頸に食い込む歯列、互いの舌を甘噛みする戯れ。水面に広がる赤い色と、腹の薄い皮膚をそっと擦った歯の感触。記憶が濁流となって押し寄せる。
 奴は人間を食らっていた。俺が海に放り投げた人間を。人の血を味わった舌が、俺に口づけをしたのだ。
 マレクは──自分でもどうやってそんなことが出来たのか思い出せないのだが──震える脚でどうにかして家にたどり着いた。そして、寝乱れたままの寝台を見て、部屋に満ちる行為の残り香を嗅いだ瞬間、抗えず嘔吐した。
 
 
 その日の仕事は本当に散々だった。
 まず、処刑の内容が斬首だった。これは滅多にないことだ。
 ジョーディ・ホールは名の知れた強盗で、街道を通る人間を襲っては金品や命を巻き上げ、その残虐非道ぶりは、バラッドになって酒場で歌われるほど有名だった。
 そんな男を捕らえることが出来て、マクギリヴレイは鼻高々だった。自ら(の臣下)の手柄を声高に吹聴してまわり、大々的な処刑を行うことに決めた。
 見物人の数は否応なく膨れ上がった。どこからともなく行商が現れて広場にテントの軒を連ね、説教師が『それ見たことか』とのたまうためにやってくる。血なまぐさい祭りの様相だ。
 人の頸を一度で断つことの難しさを、マレクは知っている。だから、気が散る原因になりそうなものが増えるのは勘弁して欲しかった。
 次の不運は、ジョーディに若い女房がいたこと。手に縄がかかっていないことを見るに、この女は夫の犯罪行為には関与していないのだろうが、これが第二の災難だった。寄る辺無い孤独な人間なら、斧を振り下ろす手にも冷静さを保っておくことが出来る。だが、この若奥様は、どうやら下手人のことを心底大事に想っているらしい。バンシーのように泣き叫ぶ声を聞きながら、誰かを処刑するのはいい気分ではない。
 いい訳がましいと思われても構わない。要は、とてもではないが仕事に集中できる心の持ちようではいられなかったのだ。そのせいで、男の首が地面に落ちるまでに、三度も斧を振り下ろす羽目になった。唯一の救いは、男が一度目で息絶えたことだけだ。恐怖と嫌悪に満ちた群衆のざわめきが、羽虫のように群れて纏わり付く。
「ジョーディ!」
 そして、絹を裂くような女の悲鳴。何度も、何度も。どれが本当の声で、どれが耳鳴りなのかわからないほど、彼女は何度も、夫の名を呼んだ。ようやく衛兵が彼女を引っ立てるころには、血を求めてやってきた見物客たちでさえ、蒼白な顔をしていた。
 首から噴き出した血が革の装束の隙間から伝い、呼吸するたびに胃が捻れるような匂いがする。ウィリアムでさえ、哀れむような眼差しでマレクを見ていた。
 極めつけは、後片付けだ。
 聖別された教会の土地への埋葬が許されない死体は海に葬られる。
 海にはヤツがいる。
 ヤツがいるのだ。
 あの夜以来、何度も夢に見た。まるで、夢を通じて自分の中に這入り込んでいるのでは無いかと思うくらいに、それは鮮明で、生々しかった。つややかに濡れた異形の半身がどんな温度をしているのかわかるほど。
 死体を食う存在が、ただのケダモノで居続けてくれたら良かった。生きるために肉を食うという必要性以上のもの──禁忌だとか、嫌悪感だとか──を考える頭があるはずだなどとは、知りたくなかった。
 思い出すたびに蘇ってくる、あの男の舌の舌触り。長く尾を引く、小さなうめき声。罪人の骨を食み、肉を引き千切って飲み下すときにも、あいつはあんな声をあげるのだろうか? 
 おぞましい。許しがたい。それに…………ずるい。
「マレク」
「え?」
 ウィリアムに呼ばれて、物思いから覚めた。
 叔父は心配そうな顔で、マレクを見ていた。
「かたづけてしまおう、アイ?」
「ああ、そうだなアイ
 マレクは言った。
「わかった」
 奥方は処刑の瞬間に気を失い、教会に運び込まれたと聞いている。皆のためにもその方がいい。今から起こることを目の当たりにしたら、きっと今度は失神では済まないだろう。
 むごたらしい切断面からは、まだじくじくと血が流れ出ていた。
「ビル」
 マレクが言った。
「今日は、俺ひとりでやる」
 ウィリアムの表情が益々曇った。完全に脱力した身体というものは、生きているときよりも重くなるものだ。大の男が持ち上げるのも一苦労だろう。だが、叔父の心配は、それよりももっと深いところに向けられているに違いない。
 だが、彼はそうした懸念を口にはしなかった。口数少ない叔父らしく「そうか」
 と言っただけで、あとは思慮深い眼差しだけに語らせていた。
 大丈夫か? と。
 正直、俺にもわからない。
 こんなことをするのは、罪悪感ゆえか? 自分が(じつにひどいやり方で)寡婦にしてしまったあの女性に対して、なにか後ろめたい想いを抱いているせいだろうか。
 違う。この男は罪人だった。俺は自分の仕事をしたまでだ。
 それなら、ヤツの姿を叔父に見せないようにするため? そうでもない。叔父の目には、何の変哲も無いシャチにしか映らないはずだ。
 わからないのは……この男の身体を、手ずからやつに委ねなければならないという、言いようのない欲望の理由だ。
 檻から逃れようと死に物狂いになる小鳥のように、心臓が肋骨の中で暴れていた。男の身体を肩に担ぎ、崖下をのぞき込む。
 波の狭間に、あの見慣れた背びれはなかった。
 安堵と落胆の混ざったものが内臓を焼く感覚を押しやりながら、死体を放る。重いものが水に落ちた音を聞けば、背中に覆い被さる重さが、多少は軽くなるのが常だった。しかし、今日は重さよりも、タールのようにへばりついた無力感のほうが堪えた。
 水面を切り裂く黒いものが現れないかどうか、三つ呼吸する分だけ待ってみる。
 ひとつ。ヤツが現れたらどうするつもりなのか自分でもわからない。
 もうひとつ。何故待つのだろう。心の底から会いたくないのに。
 三つ目の呼吸を待たずに背を向けようとした。その時に、視界の端で動いたものがあった。何かを考える前に、マレクの視線は吸い寄せられた。抗うことはできなかった。できるはずもない。
 白波が赤く染まる水面から、あの目がマレクを見ていた。晴天を凍らせたような瞳。何里離れていても、あの目に捕らえられたときには、そうとわかる。
 ヤツは──少なくとも、ヤツの半身は──人の姿をしていた。目が合っても、狼狽える風もない。
 知っているのだ。あとをつけたことも。知っていて、あの夜、奴はわざと、俺にあれを見せたのだ。
 ヤツは水面に漂う男の身体にゆっくりと手を這わせた。マレクを見つめたまま。
 はじめに感じたのは恐怖だった。人食いのけだものの執着を目の当たりにしたから。次いで感じたのは、怒りだった。燃え上がるような怒り。
 あるいは、嫉妬か。
 それ以上、心が深みに踏み込む前に眼を逸らし、踵を返して歩き出した。今すぐにあの海から遠ざかりたかった。
 恐ろしい。血が滾り、身体が疼くほどに、恐ろしくてたまらない。
 
 ああ あからしや あからしや
 われ此処ここなほだされて
 彼の人を追いけもせず……
 
 哀切のこもる不思議な声に、鼓膜を叩くような奇妙な音。潮騒に混じる不思議な旋律を耳にした気がして、マレクはさらに歩調を速めた。すべてを振り切りたい。おかしなものに心を悩ませるようになる前の自分に戻りたい──そんな願いを、一足ごとに込めた。もはや叶わぬと知りながら。
 あと五夜で満ちるはずの肥えた月が、海の上からマレクを見下ろしていた。
 
 
 ぴったりと閉じたはずの両脚の間に、濡れたものが滑り込む。懇願するように優しく、何度も、腿の内側の薄い皮膚を撫でる。を熱く張り詰めさせているものがなんなのか、マレクは知っている。
「あなたの中に──」
 低く掠れた声が言う。
「──わたしをれて」
 耳元で囁く声に、抵抗が解け、身体が緩む。
 奥深くまで、受け容れたい。求められたい。捧げてしまいたい。そうできたら、どんなにいいか。だが、自分の身体に巻き付けた腕をほどくことが出来ない。手を緩めれば、腹の中に抱えた汚泥が溢れてしまうことを知っていた。
「駄目だ……」
 汚泥が熱を持ち、腹の中で暴れ始める。それは胃を遡り、喉を這い上がり、舌の付け根を焦がして、今にもあふれ出ようとしていた。
 優しい指が顎に触れ、口づけを促そうとする。抗わなければと思う。唇をひき結んで拒むと、うっすらと開いた豊かな唇の奥に並んだ鋭い歯列が見えた。温かい舌が唇をなぞる。そして、すべての牙が頬に食い込み──

 飛び起きたのは、痛みを感じたからではない。
 人の気配を感じた。すぐ側に。寝台の横に。
 ほんの一瞬、彼が来たのかと思った。マレクの拒絶を無視して、もう一度やってきたのではないかと──だが、そうではなかった。
 見知らぬ人影は言った。
「声を出さないで」
 月明かりに目が慣れると、女の姿が見えてきた。
 女は髪を結っていなかった。そのせいで、濡れた海藻のような黒髪はぼさぼさに乱れ、顔に纏わり付いていた。落ちくぼんだ眼窩の中の、血走った目が自分を見ている。昼間に処刑した男の妻が、そこにいた。手に握られた短刀が、満月の光に輝いていた。
「ジョーディーはどこ?」
 起き抜けに与えられた衝撃に麻痺していた頭が、ようやく物事を考えられるようになった。そうだ。彼女はジョーディーの──夫の処刑のときに気を失った、彼の妻だ。
 そのせいで、夫の死体が辿った末路を知らない。
「それを知って、どうする」
 女の目がすっと細められた。
 この場で『海に棄てた』と言えば、女は短刀でマレクの喉を掻き切るだろう。
「いいから答えて。この家の外には仲間がいる。抵抗しても無駄よ」
 抵抗。抵抗することも出来る。なにせ、あちらは痩せ細った女で、こちらは大の男だ。外にいる仲間とやらが駆けつける前に、この女を始末して、残りを相手にすることも不可能ではない。
 だが、自分でもわからない理由から、そうしようという気にはなれなかった。
 だから、マレクは言った。
「いいだろう。案内する」
 果たして、家の外には本当に仲間がいた。呪われた刑吏には近寄りたくないのだろう、短剣のつかに手をかけた二人の男たちがマレクを睨み付けていた。ジョーディ・ホールの罪状は強盗と殺人だった。マクギリヴレイが下した判決が妥当だったことをこんな形で知ることになるのは皮肉だと思いながら、岬への道を先導して歩いた。

 海は凪いでいて、潮騒も穏やかだった。女王のように天蓋に君臨する満月と、眩しいほどの星々。風景を愉しむ余裕がある自分自身に内心で呆れる。だが、何故か……何とはなしに、いつか自分が迎える最期は、こんな風に訪れるだろうと思っていたから、恐怖はなかった。
 岬に近づくにつれて岩盤質の地表が露わになる。マレクの背中──肝臓の後ろに切っ先を突きつけた女が言った。
「こんなところに埋葬したのか?」
 ジョーディ・ホールは名の知れた強盗だったが、拠点はもっと東の内陸だった。だから、奴の仲間も知らなかったのだろう。この岬はもちろん、街全体を見たところで、人を埋めるほど深い穴を掘ることが出来る場所はほとんど無い。どこを掘っても、五分後には岩盤の地層にぶつかる。この街では『墓』は限られたものたちだけの特権なのだ。
 そんなものが、罪人に与えられるわけがない。
「ジョーディ・ホールはここにいる」
 マレクは岬の縁に立ち、海を指さした。
「何だと?」
 女が言った。
「あんたの旦那の死体は、今頃──」
 シャチの腹の中、とは言いたくなかった。こんな時まで、幼稚な嫉妬に振り回される。
「今頃、海の底だ」
 この言葉に気色ばんだのは、女房ではなく、遠巻きに見守っていた男達の方だった。狩人と奥方、鷹と猟犬が出てくる古いバラッドにちなみ、マレクは頭の中でそれぞれに『鷹』と『猟犬』と名付けていた。
「海?」
 が言う。
「ジョーの死体を海に棄てたって言ったのか、お前」
「聞こえなかったなら、もう一度言ってやろうか?」
 マレクは言った。
「それじゃ、地図はどうなる」
 もうひとり──こっちは──が言った。
「地図?」
 下手人の荷物は検められ、冥銭として与えられた硬貨以外には、何も持つことを許されない。地図を持っていたという話は聞いていなかった。
「奴は、宝の隠し場所を入れ墨してた」
 猟犬が言った。
「地図なんてどうでもいい!」
 女がぴしゃりと言うと、男達の目が険悪な色を帯びた。
「どうでもいいだと?」
「ヤツが海の底に沈んじまったなら、こんな茶番に付き合うのは時間の無駄だ」
 鷹の方が言った。
「これ以上、首切り人なんかとかかずりあいたかねえ。さっさと終わりにしようぜ」
 彼はいい、矢をつがえた弓を引き絞った。
「待て」
 女が言った。
「わたしがやる」
「猟犬は狩りに、鷹は鷹狩りに」
 マレクは、古い戯れ歌を口にした。
「主人の死を悼むべき者、みなことごとく消えにけり、だな」
「黙れ!」
 女の短剣の切っ先が、喉仏につきつけられた。
 満月の光を宿して、女の瞳が一層炯々と輝いていた。眼差しはナイフのように鋭く、炎のように熱い。あの男を──マレクからすれば、極悪非道の罪人ということしか知らないあの男を、この女だけは心から愛していたのだろう。
 こんな感情に殺されるなら、それも悪くはないのかと思う。
 少なくとも、誰にも顧みられないまま朽ちてゆくわけではない。年老いた叔父に棺の担ぎ手を探させることもない。生まれのせいで疎まれただけの名も無い刑吏として死ぬより、殺したいほど憎まれた刑吏として死ぬ方が、いくらかましだ。
 この世になにがしかの傷を残して逝ける。
 それに、死に場所を選ぶことも出来た。
 ──上出来だ。
「やれよ」
 マレクが言うと、女はわずかに驚きの色を浮かべた。マレクは肩をすくめた。
「やればいいだろう、ほら」
 喉元のナイフに指をかけて、切っ先の位置をそっと下におろす。女の手は震えていない。これはいい兆候だ。
「ここだ」
 腹の上で、手を止める。
 心臓では駄目だ。貫かれた瞬間に死んでしまう。それでは、死に場所を選んだ意味が無い。
「ベラ、さっさとしろ」
 猟犬が言った。
「これ以上もたつくなら、お前から殺してやる」
 脅しに揺らぐ女の瞳。
 対照的に、マレクの心は凪いでいた。今夜の海のように。
「俺は後悔していない」
 マレクはまっすぐに、女を見返した。
「お前の亭主は、人を殺して金を奪うクソ野郎だ。後悔はしてない」
 女の目が、うっすらと輝きを帯び始める。
「でも、今夜勝ったのはあんただ」
 そう、マレクは言った。
「やれ」
 遠くで、弦が軋みをあげるのが聞こえる。
「ベラ、二度は言わねえぞ」
 鷹の声は冷たく、揺るがなかった。
 女の睫毛を、涙が濡らしていた。その滴が頬を伝えば、彼女は決心を遂げる事ができないだろう。
 マレクは女の手を掴み、ぐっと引き寄せた。冷たいものが皮膚を、肉を突き破るのがわかった。
 女──ベラの見開かれた目に、驚きが浮かぶ。
 気の利いたことを言ってやりたいが、いい言葉が思いつかない。
「いいか」
 痛みは、後からやってきた。
 ──ああ、ちくしょう。
「二度と……この港には戻ってくるなよ」
 そして、世界が回転しはじめた。崖から転落しているのだと気づく前に、海面が彼を受け止めた。
 
 夏の夜の海はあたたかかった。愛撫のようなさざ波が身体を揺らすたび、海水に灼かれた傷が痛み、命が流れ出てゆくのがわかる。頭上に広がる満天の星空だけを見つめて、マレクは待った。
 早く来い。早く。手足の指先の感覚がなくなってきた。すべての感覚が溶けて消えてしまう前に、早く。
 波の音が微かに乱れたのを聞いた気がする。温かい手が、腹に触れた気がする。最後にもう一度だけ見たいと思っていた顔を見た気がする。
「愚かな」
 と、彼は言った。
 困惑と怒り。そんな表情を、その顔に見たのは初めてだった。手を伸ばすと、白い頬の上に赤い血の手形がついた。幻じゃない。彼がいる。ここに。
「俺のことを……喰いに来たのか?」
 その瞬間を思って、陶酔に微笑みそうになる。
「いっそ、そうしてしまえたら」
 シアはため息をついた。
 マレクは言った。
「なら……骨まで残すな」
「あなたは、わたしを悩ませすぎる」
 シアは言った。
「あなたを食えば、腹痛で死ぬまで苦しむだろう」
 声をあげて笑おうと思った。安堵と達成感に包まれて──それから、こうしてまた言葉を交わせたことで感じた喜びの中で。
「ざまあみろ……」
 だが、腹から息を吐き出す前に、マレクの意識は暗闇に沈んでいた。
 
 
 夢の中で、何か力のあるものがねじ込まれるのを感じた。傷口から這入り込んだその力が、血の中に溶け出してゆくのを感じた。歌おうとしても到底できそうもない不思議な旋律が、何千もの声によって歌われるのを聞いた。理解できない言語なのに、何故だか、それが再生と祝福、そして喪失についての歌だと言うことがわかった。
 全身を包む温かい波に揺蕩たゆたいながら、ふと、感覚を失っていたはずの指先を擦り合わせてみる。すると、ぼんやりとしたの夢の中に鮮烈で強烈な──触感によって与えられる刺激が火花を散らした。そうして、現実がマレクを夢の世界から引き剥がした。
 目を開ける。
 頭上には、相変わらず星空が広がっていた。
 痛む背骨をかばいながらそっと身を起こして、辺りを見回す。そこは、陸地から少し離れた場所にある岩礁だった。海面にほんのわずかばかり露出した岩肌は、波に洗われて滑らかだ。表面には毛のような藻がびっしりと生えていて、手触りはぬめぬめとした毛皮のよう。その天然の寝台の上に、マレクは寝そべっていた。
 振り返ると、陸地が見えた。街の明かりは見えても、人影は見えないほどの距離。あの女がどうなったのか、ここから見ることは出来ないだろう、と考えたところで、自分の腹のことを思い出した。記憶が正しければ、そこには穴が開いていたはずだ。
 濡れたシャツにも、下穿きにも、血の赤が染みこんでいる。だが、自分の身体のどこにも、傷跡はなかった。指先でこわごわ触れてみるが、痛みも感じない。
「どうなってんだ──」
「あなたは自分で自分の腹に短剣を突き刺し、海に落ちた」
 叱責するような声に振り向くと、シアが海面に顔を出していた。
「おまえ……」
「わたしは、あなたの助命を乞うために魔女のところへ行き、そして──助かった。あなたは三日、間眠り続けた」
「魔女?」
 目眩がしそうになって、一度目を閉じる。
「わたしが仕えている者だ。海の魔女」
 シアは言い、岩棚の周りをゆっくりと泳いだ。
「海で死んだものの身体を──その魂を、彼女の元にとどける。それが私の仕事だ」
 マレクはぽかんと口を開けてシアを見た。
「何だ?」
「届ける? 俺はてっきり──」
「わたしが死体を喰っていると思ったんだろう」
 シアは小さく笑った。
「あなたは、『俺のことを喰いに来たのか』と尋ねたな。何の冗談かと思ったが」
「だって、死体を咥えて──」
「シャチの姿で、腕だけ生やして丁重に運ぶべきだったか?」
 辛辣な声で尋ねられて、マレクは言葉を失った。その様子を見て、シアは小さくため息をついた。
「あなたはあまりに沢山の人間の魂を海に流した」
 謝罪を求められているのだろうか。ちらりと彼の方を見ると、陸地を見つめるシアの横顔には、微かな笑みが浮かんでいた。
「どんな人間なのかと思った。生きるに価しないものならば、いっそ始末してしまおうと。だから、会いに行った」
 小さく首を振る。
「それが運の尽きだ。人間などに興味を持つから、こんな面倒に巻き込まれるのだと……わかっていたはずなのに」
「なんで……俺を助けた?」
 マレクは言った。
 シアはギィ、と、憤慨したような音を出した。
「礼も言えないのか、人間は?」
 鋭い牙を覗かせて、空気に噛みつく。
「魔女は、あなたを助けることにいい顔をしなかった。わたしは人間に変化する力を彼女に捧げた──あなたの命と引き換えに、だ。何故そうまでして助けようと思ったのか、自分で自分に問うているところだ。理由など知るものか」
 シアが激昂──あるいは、それに近い感情を露わにするのは初めてだった。
「悪い」
 マレクは素直に謝った。
「そんなことになるとは──」
「そうだろうとも」
 シアは言い、岩棚に手をかけた。
「人間の考えは、あまりに短絡的すぎる」
 それから、尾びれで思い切り水を掻くと、滑らかな身のこなしで、マレクの前に身を横たえた。
 月の光を吸い込んだかのように青白く透き通る肌の上を、水滴が伝い落ちてゆく。逞しい陰影を備えた人間の半身は、なだらかな腰の曲線のあたりから逆叉の半身へと変化していた。滑らかな白と黒の身体。つややかで張りのある膚。腹から尾びれにかけての稜線。
 継ぎ目のない二つの造形の境界線──臍のあたりで混ざり合う二つの肌の感触を知りたくて、思わず手を伸ばしそうになる。だが、そうする代わりに、爪が食い込むほど強く拳を握った。
 はじめてこの姿をみた夜には、まるで悪夢の化身のようだと思った。だが、今は……。
「きれいだ」
 そう言うと、シアはわずかに眉を上げた。
「人間は、腹を刺されると嗜好が変わるらしい」
 マレクは降参の印に両手を上げた。
「わかった。もう何も言わない」
 シアはマレクを観察しながら、ゆっくりと尾びれをはためかせた。
「私には妹がいた」
 それを汚点と思っているような口ぶりだった。
「人間に関わったばかりに、人魚であることを棄てて陸に上がった。わたしは人間には惑わされない。絶対に」
 今度はマレクの方が眉を上げる番だった。
「俺がお前を惑わす?」
 思わず、小さな笑みを零す。
「逆だろ」
 その言葉を口にしてもよかったのかどうか、考えるには手遅れだった。口から出て行ってしまった本心が消えない煙のように空中にこごり、二人の間を漂っている。
「あなたが、わたしに惑わされた?」
 低く豊かな声でシアが言い、喉とは別の場所から、何かを探るようなコココ、という音を鳴らした。
 薄い微笑みの隙間から、いくつもの牙が覗いている。彼はマレクを見つめたままにじり寄った。
「昔から、人魚とつがう人間は居た。大抵は、人魚に海を棄てさせ、おかに住まわせる」
 シアの指先が、マレクの裸足の足の甲に触れる。
「あなたはわたしの見立てより、ずっと変わった人間らしい。だが──」
 それから膝を押し開き、両脚の間に滑り込む。腿を撫で上げ、はだけたシャツから覗く腹に手を置いた。
 息がかかる距離。濡れて額にかかる髪。氷のような瞳──蒼い炎を閉じ込めた氷のような、その瞳。
 本能が口づけを望む一瞬前に、シアは顔を逸らし、マレクの耳元に囁いた。
わたしを受け容れられるか?」
 ぬるりとしたものを、腹に感じた。
 熱く、生々しく、腫れぼったいなにかが、マレクの腹の上で微かに脈打っている。
 それが何なのか思い至った瞬間に、心臓が爆発しそうな勢いで鼓動を打ち始めた。息が上がる。恐ろしい。でも、触れなければ死んでしまうと思った。
 人差し指で触れる。
「ん……」
 シアの声が、鼓膜を震わせた。
 薬指──それから手のひらで、それを握り、そっとさする。背筋が震えるほど大きい。
「んん……そうか……悲鳴を上げたりはしないらしい」
 耳朶をなぞるようなシアの声に、わずかに吐息が混じる。
「上出来だ……人間」
 シアの牙が耳輪じりんに食い込む。そうして逃れられないようにしてから、彼は脅かすように腰を揺らした。腹の上のものが胸元まで届く。そのことを恐ろしく感じるべきだと思うのに、感じるのは身体の疼きばかりだった。濡れた下穿きのなかで、自分自身にも火が灯る。
 両の手で包み込み、先端から根元へとなで下ろしながら、腰を押しつけた。瞼の裏に快感が滲み、視界がぼやける。触れ合ったシアの肩が、小さく震えた。
「あなたの中に」
 低く掠れた声が言う。
「わたしをれて」
「ああ……」
 マレクは、今度は躊躇わなかった。
 濡れて張り付く服を脱ぎ捨て、海水に身を浸す。
 夜の海は暗く、底知れない。そんな空間に一糸まとわぬ身を曝すのは、とても無防備な気がする。水の中では自分のつま先さえ見通せないことに気づいて、マレクは微かに身震いをした。
「恐ろしい?」
 シアが尋ねる。
「いや」
 マレクは答えた。
 微かな不安を見抜かれただろうか。シアの手が腰を抱き、引き寄せられるままに臍を重ね合わせた。人ならざる半身に脚が触れる。水を纏った肌はなめらかで冷たかった。
「お前の名前は?」
「人間には発音できない」
 ムッとして、いいから教えてみろと言い張っては見たものの、彼の名前は、やはり人間の舌には難しかった。軋むような叩くような、なんとも不可思議な音だった。
「『シア』でいい」
 彼は言い、マレクの腰を抱いた手を、そっと下へと撫で下ろした。
「マレク、呼んでくれ。あなたに呼んで欲しい」
「シア」
 口にしてから気づいた。彼をその名で呼ぶのは、これが始めてだ。
「シア……」
 口づけが降りてきて、差し込まれた舌が、ため息交じりの声を味わった。
「もっと呼んで」
 長い指がその場所を暴くと、ぬるい海水が這入り込んできた。慣れない感覚に息を呑む。
「あ……シア……!」
「もっと」
 彼はそう言いながら、マレクの舌を絡め取り、挿入した指で体内をゆっくりとかき回した。拡げられた身体が期待に震え、押し込められていた欲望が血管のなかで暴れていた。
「シア……シア……ああ……」
「ああ」
 しみじみと、シアが言った。
「マレク……」
 上等の蜂蜜酒のように甘く、とろりとした口づけが、マレクの息を奪う。それは今までに交わしたキスの中でも、もっとも赤裸々なものだった。掻き立てるようでいて、貪るようでいて、何かを与えるような。きっと、そのうちの一つとして偽りでは無いのだ。掻き立て、貪り、与えたい──それが、今の二人の間にある、本当の想いだった。
「あなたがほしい」
 口づけの間にねじ込むように、シアが言った。
「ああ……」
 うめき声ともつかない声で答える。
「あなたを、わたしのものにしたい」
 さっきよりも硬い声。
「わたしだけのものに」
 マレクは、陶酔に滲みかけた意識をシアの言葉に集中させて、彼を見た。
 彼は言った。
「あなたがあの女のために死のうとしたとき」
 シアが言い、マレクの首筋を牙と舌とで擽った。
「生まれて初めて『怒り』を覚えた」
「あ……」
 力が抜けて、しがみつくのがやっとという状態のマレクを引き寄せて、シアがゆっくりと身を倒した。マレクの上に腹ばいになるようにして、ゆっくりと海面を漂う。
「ああ、いっそあなたを喰らい尽くせたら」
 シアは甘噛みで、首筋や鎖骨、そして胸元を、次々と愛撫していった。
「血の一滴まで残さず、わたしのものにできるのに」
 その声に籠もる、あまりにも真摯な願望に震える。それに気づいたのだろう、シアはマレクの腹の柔らかい場所を歯列で擦り、臍の奥の皮膚を突き破ろうとするかのように、舌で穿った。
「ノ、イ……!」
 ギギ、と、彼が立てる音が腹を震わせる。何かを探っているらしい。
「あなたの血が歌っている」
 彼はうっとりと言った。
「へえ」
 マレクは小さく笑った。
「なんて歌だ……?」
 シアは答えず、マレクを抱きしめ、身体を横様よこざまに回転させた。波を背にして仰向けに泳ぎながら、マレクを腹に跨らせる。泳ぐ尾ひれの動きが、マレクを上下に揺さぶった。ゆっくりと、焦らすように。
「全身の血が『欲しい』と歌っている」
 シアは微笑んだ。
「叶えよう。人魚は歌に弱いから」
 促され、シアの身体に覆い被さる。両の手が尻を包み込み、受け容れるための場所を優しく暴いた。もしも本当に自分の血が歌っているというのなら、今この瞬間、そうとう大音声でわめいているに違いないと、マレクは思った。
「あ」
 柔らかいものが、その場所に触れる。
 穏やかな波をかき混ぜて漕ぐ尾ひれの動きにあわせるように、少しずつ、ゆっくりと、それが身体の中に滑り込んでくる。
「あ……あ……」
「ん……」
 微かに震えるシアの声。人智を超えた存在が、この身体で確かに感じている。そんな声を聞くと、背骨が萎えそうになる。
「は……あ、あ……クソ」
「苦しそうだ」
 男が答えた。
「無理をさせているか?」
 その言葉に、マレクは力なく笑った。
「なにか、おかしいことをいったか」
 マレクは笑い混じりのため息をついた。
「最初の夜にも同じことを聞いたの、覚えてないのか?」
 シアは言った。
「覚えているが……」
「苦しくない」
 マレクは、シアに口づけた。
「苦しくないから──」
「『さっさと動け』?」
 シアは小さく笑った。
「わかった」
 シアの尾ひれが大きく動いた。そのせいで、マレクの身体の中にわずかに残っていた隙間が消えた。
「ア……っ!」
 ねじ込まれた先端が奥を突く。未曾有の感覚に驚いた身体は、それ以上の侵入を拒もうとするかのように無意識に締め付ける。だがそのせいで、人間のものとは違うシアの屹立の形を、ありありと思い知ることになった。
「うあ、あ!」
 波の飛沫を浴びながら、大きく、それでいて優しい動きに揺さぶられる。どこもかしこもあたたかく濡れていて、海水のうねりに愛撫されているような感覚すら覚える。
 大きなものが押し込まれ、引き抜かれるたびに、快感を伴って戦慄が膚の上を駆け巡る。苦しい、気持ちいい。その境界線が曖昧になる。呼吸がおぼつかなくなり、意識がゆっくりと溶け始めているのがわかった。
「あ、シア、駄目だ……」
 シアはその言葉を無視して、マレクの後頭部を掴んで引き寄せた。マレクは、処刑任が与える慈悲のような深い口づけに、縋るように舌を絡めた。
「ん! ん……!」
 脳裏で白いものが弾け、身体と精神のつなぎ目が、ほんの一瞬だけほどかれる。
 堰が切れ、自分の身体の中から、温かいバラストが流れ出てゆくのを感じた。波に洗われ、漂ってゆく。そして、肉体は重さを失う。重ね合わせた胸に、二つの激しい鼓動が鳴り響く。
 だが、まだ終わりにはできない。終わりになどしたくない。
「マレク──」
「もっと」
 マレクは言い、シアの唇を噛んだ。
「もっとだ」
 シアの腹に背を預け、仰向けに寝そべる。頭上には、壮絶とさえ言えそうなほどの星空が広がっていた。
 解れた場所に、再びシアを迎え入れる。まだ達していない彼の屹立は、貪欲に最奥まで潜り込んできた。
「は……んん……っ」
「ああ……マレク……」
 後ろからマレクを抱くシアの感じきった吐息が、マレクの耳を擽る。彼は抽挿しながら濡れたマレクの身体に手を這わせ、胸や、腹や、腿──全身を、賞賛を込めてでもいるような恭しい手つきで、ゆっくりと撫でさすった。
「マレク……あなたの中は……燃えているようだ」
 体内にあるものを掴もうとするかのように、シアの手が腹をまさぐった。そうして腹をおさえつけたまま、シアは再び、抽挿の速度を上げた。
「あっ、あ、シア……シア……!」
「思わず、我を失いそうになる……」
 陶然としているのを隠そうともしないシアの声に、またしても耳を蕩かされてしまう。
 波の上に露わになる身体を夜風が愛撫すると、敏感になった乳首が痛むほどに屹立した。その疼きを宥めたくて、胸に手を這わせ、慰めた。
 シアの手が再び熱く張り詰めたマレクのものを握り、抽挿にあわせて扱く。
「あっ、いい──シア、それ、やめるな……!」
 気持ちよさだけを追求する生き物になってしまったかのように、腰が勝手に動くのを止められない。自分の身体が立てている濡れた音を、身体が直接聴いている。この身を易々と揺さぶる大きな体躯に為す術なく揺さぶられ、ねじ込まれ、擦りあげられる。シアの荒い呼吸が耳から入り込み、ものを考えるためにあるはずの場所を、役に立たないものに変えた。それは溢れる快感を受け止めきれずに、甘い蜜の中に崩れ落ちてゆこうとしていた。
「ん、あ、シア……」
「マレク……」
 強請ねだるような甘噛みが、首筋をかじる。
「いいから、シア、このまま……!」
「……っ!」
 首筋に、牙が食い込む。痛みが爆発し、脳を突き抜けた。
 呼吸すらままならない絶頂の中、意識は手に負えない快感の中に霧散した。眼前に広がる星空よりももっと遠く──身体など意味を成さない次元に至ったかと思う一方で、身体の中心に流れ込んでくる熱を、ありありと感じた。それは脈打つものに塞がれた穴の中を隅々まで浸し、満たして、ついには溢れ出た。
 同じ速さの二つの鼓動が、呼応し合うように、互いの身体の虚ろに響いていた。
「あ……は……」
 伝い落ちる水滴にさえ感じてしまうほど敏感になった肌を、シアの手が優しく愛撫する。
「マレク」
 シアは言った。
「マレク……」
 その声に切実な何かを感じて、腰を抱く手に、手を重ねた。
「シア?」
「あなたが人間として生き、人間として死ぬことを望むなら、わたしには、それを止めることはできない。これが……」
 小さな間。
「これで、永遠の別れだ」
 マレクは答えなかった。その後に来る問いかけを、すでに知っているような気がした。
「けれど……もしも、ずっと一緒にいられるとしたら、あなたはなんと答える?」
 マレクは、シアの腹の上でゆっくりと寝返りを打った。
「つまり?」
「つまり……」
 この人魚が言葉に詰まるところを見るのは、初めてだった。
「わたしと同じものになるか、と尋ねたら?」
 マレクは、シアの目をのぞき込んだ。そのくせ、見ていたものはシアの目ではなかった。脳裏に思い浮かべていたのは、生まれてから今までの生活だった。
 陸には大地があり、仕事があり、縁者がいる。ここでこいつと別れれば、また、入港する船の中に紛れ込む似たもの同士を探して、誘って……そうしていつか、俺もウィリアムのように娼館の主人になるか──運が良ければ──また別の誰かに人生の幕引きを委ねることになる。
 ──それにひきかえ、海には何がある? 
 物心ついたときから、海の側で暮らしてきた。だが、海について知っていることなど何もない。漁師でも船乗りでもないマレクには、全き未知の世界──夜の海と同じだ。
 だが、マレクは夜の海を恐ろしいと思ったことはなかった。
 瞬きを一つ。そうして、あらためてシアの目を見る。
「泳ぎ方は、お前が教えてくれるんだろうな」
 シアもまた、瞬きを一つした。
「もちろん」
 彼は言った。
 それから彼は、星の囁きのように微かで美しいあの微笑を浮かべて、もういちど言った。
「もちろんだとも」
 
 それ以来、あの港町でマレク・アクスマンを見たものは居ない。彼が何処へ消えたのかは、いかなる伝承にも記されてはいない。
 ただ、今でもあの岬から、仲良く寄り添って泳ぐ二頭の逆叉の背びれを見ると、人々は耳を澄ませるという。
 人魚の歌が聞こえてきやしないか、と。
 その歌が、また別の迷える魂を、海へといざなっていはしないかと。 
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