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Nirvana
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青い空と紺碧の海、そして白い砂が、彼の魂を完全なものにしていた。
砂浜を褥に、打ち寄せる波を纏って寝そべるルカの裸身は、南国の強い日差しにキラキラと輝いている。眼差しは強く、獰猛とさえ言える──この世に生を受けたばかりの、まったく新しい獣のように。
類い希なる男だと思う。恋人の欲目ではなく。
ルカは三冊目の写真集の撮影で、モルディブを訪れていた。撮影のクルーが彼を取り囲み、光が織りなす全ての奇跡を一枚の写真に捕らえるべく、忙しく立ち働いている。その人垣を透かして、阿形は数週間ぶりにルカを見つめた。
「お疲れ様です」
半年前からルカのマネージャーとして働き始めた井口真人が、タクシーを降りた阿形に駆け寄ってきた。普通はポルノの男優にマネージャーなどつかない。ルカもそう言って、最初のうちはマネージャーをつけようという望月の提案を断っていた。けれどあるとき、慣れない撮影現場で卒倒寸前になっていた明石をたまたま見かけて、マネージャーになってみる気はないか尋ねたのだという。それ以来、明石はルカのことを慕って、献身的に仕事をしてくれている。普通のマネージャーなら、外部の人間と話すときには自分がついているタレントのことは呼び捨てにするものだ。だが、井口はぜったいに『さん』をつけるのをやめようとしなかった。(『さん』づけはやめてねとルカは言うが)井口の忠義に篤いところを、ルカも阿形も好ましく思っていた。
「順調そうだ」
阿形が言うと、井口はにんまりと微笑んだ。「そう見えます?」
「なにか問題が……?」
井口は悩ましげに言った。「ルカさんは、絶食した虎みたいに飢えてます」
「減量が必要だったのか」
一緒に暮らし始めてから、自然と自炊が増えた。朝のワークアウトは続けていたから油断していたが、もしかしたら、モデルにふさわしい食生活からは大きく逸脱していたのかもしれない。
眉根を寄せる阿形を見て、井口は吹き出した。
「すみません。そうじゃなくて、ええと……つまり、ルカさんはこっちにきてから毎日百回はあなたの名前を出してます」
伝わりますか? と井口は心配そうに阿形を見上げた。
「ああ……なるほど」
伝わるどころじゃない。口元がほころびそうになるのを誤魔化すために、阿形は生えてもいない無精髭を確かめるふりをした。
「シェリダンは?」
「あちらです」
井口が示した先には、白いシャツに裾をまくり上げたジーンズをはいた、背の高い人影があった。リリー・マイケル・シェリダンは世界中を飛び回りながら仕事をするカメラマンで、他人からの依頼はほぼ受けない。気に入った被写体に直接話を持ちかけて、出版社に話を通すのがいつものやりかただった。その提案に首を横に振る出版社は滅多にいない。ルカと仕事をするのは、これで二度目だ。一度目の仕事で制作された写真集は、男性モデルとしては異例の十三万部を売り上げた。
手の中のカメラからあがるシャッター音は独特のリズムで、波の音と合わさると、まるで音楽のように聞こえる。
「シェリダンさんの話では、キメ顔の撮れ高は十分だそうなので──」
そのとき、ほんの一瞬だけ風向きが変わった。ルカの髪がなびき、栗色の髪が日の光に透ける。
彼の中には本当に、何かの獣の血が流れているのかもしれない。一体なんの気配を感じたというのだろう。瞬きを一つして、彼はまっすぐに、視線をこちらに向けた。
ルカ。
遠くても、間に何人のスタッフがいても、はっきりと見える。琥珀色の瞳が色を変えて、キメ顔がたちまち解けてゆく。
シェリダンがルカの視線を追いかけて、阿形を見つけた。撮影の邪魔を──するつもりはなかったからこうして遠くに居たのだが──してしまった後ろめたさで、阿形は弱々しく手を挙げた。シェリダンは肩をすくめて笑った。
「オーケー、休憩にしよう」
シェリダンの言葉を聞くが早いか、ルカは立ち上がり、ビーチフラッグの試合さながらの勢いで阿形に向かってきた。
「ノブさん!」
タックルに身構えていた阿形の予想を覆し、ルカは阿形の前で立ち止まった。抱擁を期待するように、わずかに手を広げたまま。
「ノブさん」ルカは言った。「えっと……」
「久しぶり」阿形は言い、ルカの肩に手を回して引き寄せた。
唇に潮の味を感じたのはほんの一瞬だった。濡れた舌と舌が触れあうと、あとはなつかしい、ルカの味に呑まれた。
周囲からヒューッという声と拍手があがる。口づけをしたままルカは笑い、見せつけるように、阿形をさらに強く抱きしめた。
「久しぶり、ノブさん」ルカは阿形の髪に顔を埋めてしみじみと呟いた。「はあぁ……死ぬかと思ったぁ」
阿形は喉の奥でくっくと笑ってから、言った。
「ああ……俺もだよ」
アメリカ人好みの骨が折れるほどの力強い握手を交わしながら、撮影を中断してくれた心遣いに礼を言うと、シェリダンは阿形の背中をバシバシと叩きながら言った。
「これを見越してスケジュールを組んでたから」
「それは……ありがとう」
見透かされていたことを気恥ずかしく思いながらも、ありがたかった。シェリダンは不思議な人物だった。会うのはまだこれが三度目なのに、ほとんどの友人たちよりも深く理解されているような気分になる。
ルカは午後の撮影の準備のために、近くのコテージに戻った。その風貌たるや、リードをつけられて飼い主から引き離されてゆくゴールデン・レトリバーそのものだったが、衣装担当のスタッフに話しかけられると、すぐさま表情が引き締まる。ルカが業界の人間に大事にされるのは、そういう姿勢が引き寄せる必然なのだろう。
「ルーカスは獣だ」
シェリダンの言葉に、阿形は心中を見透かされた気がしてハッとした。
「彼は、動物園で皆に笑いかけられる獣にも、ジャングルで出くわして命の価値を思い出させる獣にもなれる。しかもそれを、無理なくやってのけるんだ」
「ええ」阿形はうなずいた。
「あなたの前では仔犬なんだろうけど」シェリダンはいたずらっぽく付け足した。
返事を求められてはいないようだったので、阿形は曖昧に微笑んで濁した。日本人の必殺技だ。
「『動物園』の写真はこれから、ほんの数枚撮ることができれば十分だ」再び話し始めたとき、シェリダンの声に冗談の響きは無かった。「今回は、心臓に食らいつく方のルカを沢山撮った」
以前シェリダンは『被写体の内面を暴き出し、キャリアを変えてしまうほどの力を持つのが、本当に良い写真集だ』と語っていた。ルカはいま日本で、多くの人々から親しみをもって受け入れられている。優しく紳士で、柔和なタレントという認識で。この写真集がそれを変えてしまうかもしれないと、シェリダンは暗に伝えようとしているのだろう。
「ルカも、それを望みましたか?」阿形は尋ねた。
「ああ」
「それなら大丈夫」阿形は微笑んだ。「何も心配ありません」
シェリダンは目を細めて、阿形を見た。
「何です?」
首を振って、ジェリダンは言った。「時々、ずっと昔に見限った神を信じてみたくなる──あなたたちのような二人を見ると」
それは、この上ない賛辞だった。阿形はうなずいて、静かに言った。
「ありがとう」
日本から七千キロ以上離れた別世界にあっても、物書きが仕事をしない理由にはならない。紙とペンさえあれば──極端に言えば、それさえ無くても──仕事ができるのが物書きというものだ。
今は、次に取りかかる仕事のための構想を練る時間だった。書き始めればとかく内にこもりがちな阿形は、ルカの影響もあって、この頃は意識して外の世界へと足を運ぶことにしていた。その一環が、ルカの撮影にかこつけた、この数年ぶりの海外旅行だ。
撮影の様子を眺め、徒歩でも二時間で一周できる島内を散策しているうちに思い浮かんだ言葉をノートPCに打ち込み始めたが最後、撮影隊のテントの下、日が暮れかけるまで没頭してしまっていた。
「阿形さん!」
阿形の目を覚まさせたのは井口だった。
「え?」
顔を上げるまで、あたりが薄暗くなっていることに気づかなかった。
「シェリダンさんが呼んでます!」
井口に背中を押され、慌てて撮影現場に走ってゆく。最後のシーンの撮影は、海に向かって尾のように延びた砂州の先端で行われていた。スタッフの間を縫って近づいたものの、ルカの姿を見た瞬間、膝が萎えて脚がもつれそうになってしまった。
羽衣のように薄い白の麻布に、古代の王侯貴族のような装飾品を身につけただけの彼が、夕映えに染まる波打ち際にたたずんでいた。小麦色の肌に濡れて張り付く布地に、慎みを保つ役割は期待されていない。だが、いやらしさなど微塵も無かった。ただ神々しかった。
瞑想のなかにいるのか、うつむいた彼の表情は読めない。風が渡り、金のピアスが揺れる。その瞬きが、幻のような光景に見入ったまま呼吸を止めそうになっていた阿形の呪縛を破った。
「ルカ」
カメラを構えたままのシェリダンが呼びかける。
その声に応えて、ルカはカメラのレンズを見つめた。その瞳に、太古の神の面影を宿して。
連続するシャッター音に、時間が細切りにされてゆく。
「いいよ……ルカ、わたしの後ろを見て」
ルカがゆっくりと顔を上げる。瞬きをひとつ──そして、ルカが阿形を見、阿形もまたルカを見つめた。
瞬きをもう一つ。俗世から切り離されていたかのような、ルカの表情がゆっくりとほころんでゆく。鋭い眼光が、さざ波立つ水面の輝きに変わり、そして、彼が微笑んだ。
それは、言葉という枷では決して捉えることができないものだった。一度は見限った神を再び信じさせる何かがこの世にあると言うのなら、それはきっと、この瞬間に二人の間に存在しているものがそうさせるのだろう。
ルカの目を見つめている間──その目の中にある狂おしいほどの喜びに意識を絡め取られている間、自分の心臓の音だけが聞こえていた。
いつの間にか、シャッターの音は止んでいた。地平線の向こうに沈みゆく太陽の、最後の光が、たなびく雲の間を踊りながら……消える。
撮影した写真をシェリダンがチェックし「よし」と呟いた。
その瞬間に、静まりかえっていたビーチに歓声が起こり、時間は見つめ合う二人だけのものではなくなった。
「ありがとう、ノブ」
握手と抱擁を交わすスタッフたちに揉まれながら、シェリダンもまた阿形と握手を交わした。
「邪魔をしてしまってよかったんですか?」
「邪魔? とんでもない」シェリダンは笑った。「完璧だ。あれが完璧なんだ。あなたはそう思わなかった?」
再び、スタッフに囲まれるルカを見る。バスローブを羽織り、一つずつアクセサリを取り外してゆくスタッフと談笑する彼は、すでに『みんなのルカ』に戻っていた。だが、あの瞬間──あの一瞬は……。
「ええ」阿形は認めた。「完璧だった。そう思います」
「あの写真を撮るために、今回の撮影があったんだと言っても良いくらいだ」
「光栄です」阿形は言った。
「こちらこそ」シェリダンは微笑んだ。「あの瞬間を分かち合ってくれて、ありがとう」
撮影の終了からなだれ込むように始まった打ち上げは夜更けまでビーチで続いたけれど、途中で抜け出すルカと阿形をとがめる者は、誰も居なかった。
「ん……っ」
ドアが閉まるやいなや、どちらともなく身体を引き寄せ合った。二人とも、服を着ている。シャワーも浴びていないし、部屋の明かりさえついていない。それでもただ、身体と身体が触れあうだけで、どうしようもなく感じた。
はやく、肌の感触を知りたい。触れる度に驚くほど熱くなめらかなルカの身体に触れたい。そして自分の指が、彼の中に得も言われぬ感覚を引き起こすところが見たかった。
「ノブさ……だめ……」
悩ましい声で、キスの合間にルカが言う。
「何が」
「そこ、あんま擦らないで……すぐイキそ……」
理性が揺らいで、ぐらつく。
「いけばいい」汗ばんだ喉仏に口づけたまま囁く。「一度じゃやめない」
「う」ルカが喉の奥で変な声を出した。「んぐぐ」
阿形は思わず吹き出した。酒が入っているのも手伝って──それに間違いなく、三週間ぶりの二人きりの時間に上機嫌になっている。膝から力が抜けそうになるほど笑ってしまった。
「わかった、わかった」
「一泊十二万円! 経費外!」ルカは怒った振りをしつつも、笑顔で言った。「俺、撮影の間はずっと、マムシみたいなヘビが出る一泊二千円の部屋に泊まってたんだから! 今日は絶対にベッドで──」
「マムシが出たのか? 本当に?」
お互い、一泊十二万円の宿に自腹で泊まって困るような稼ぎでは無い。しかも、たまの休みに。それでも、ルカはブラジルの実家に毎月仕送りをしていたし、贅沢するまえにまず我慢を味わうべきだという禁欲的思想の持ち主でもあった。俗っぽい言い方をすれば、Mの気があるとも言う。
「はは……それは悪かったな」
阿形は目尻の涙を拭いながら、ルカの後について部屋に入ろうとした。ところが、ルカが部屋の入り口で立ち尽くしている。
「どうした?」
一抹の不安を抱えつつ、身体の脇から部屋の中を覗く。と、そこには、キャンドルライトに浮かび上がる、水上コテージのスイートルームがあった。東向きの壁は、海を一望できるように硝子張りになっていた。開放的なベッドルームは、ライトアップされたプライベートプールと、ハンモックが設えられたバルコニーと一続きになっている。部屋の中央にあるユーラシア大陸ほどの大きさの天蓋付きのベッドの上には、なんとまあ、薔薇の花びらが散らしてあった。
阿形はチラリと、ルカの横顔をのぞき見た。面と向かってそう言われたことは無いけれど、多分彼は、こういうシチュエーションに弱い。
「悪かった」阿形はもう一度言った。
「何が?」ルカは夢見る瞳のまま阿形を見た。
「これは確かに……無駄撃ちできないな」
ルカが吹き出し、互いに折り重なるようにして、腹がよじれるほど笑った。
「あ……」
キャンドルライトに浮かび上がる、ルカの見事な肢体。黄昏の光の中で神とも見紛った彼の、その肉体に改めて手を触れることに気後れを感じずにいるのは難しかった。だがこうして、ベッドの上に散らばる薔薇の花びらの中で狂おしげに身をよじる彼を目にしてしまったら、神性を穢すことへの躊躇など簡単に捨て去ってしまえる。
抱きたいのか、抱かれたいのか──この頃は、言葉にしなくてもわかるようになった。ルカの雰囲気に誘われて、こちらの腹が決まるということでもある。抱かれたいと思っているときの甘えたような声音を聞けば、その気にならずにはいられないのだ。
「あ……んん……」
中に触れると、ルカの手がシーツをぎゅっと握った。久しぶりに触れた彼の内側は、ローションが与える潤いに悦ぶように温かくとろけた。いいところを知り尽くした指で擦りあげると、ルカは切なげな声を上げ、阿形の腿を優しく引っ掻いた。
「ノブさん……信志さん……」
ねだられているのに気づかないふりをしてキスでルカの口を塞ぐと、ルカはもどかしさにむずがりながら舌を絡ませた。
「んん……っ」
抽挿を思わせるリズムで身体を揺らす。ルカはむせび泣くような声をあげた。
「ノブさ、や……指じゃ嫌だ……」阿形の唇を食み、舌先でなぞりながら囁く。「あなたのがいい……俺、ずっと待ってたんだから……」
むずむずと、悪戯心が腹をくすぐる。
「俺のこと考えて、一人で抜いたか?」
そっと尋ねると、組み敷いた身体が震えた。
「うん……一回だけ」
「へえ」意外と少ない。
「一回抜いたら、寂しすぎて泣けてきたから……あとは我慢した」そう言うと、ルカはまた、ねだるように阿形の唇を舐めた。「ね、はやく……」
我知らずうめき声を上げながら、阿形は思った。
これだから、彼に捧げる心臓がいくつあっても足りないのだ。
†
柔らかく丸い先端が、待ちかねていた場所に触れる。阿形は、ローションを馴染ませた彼自身であらためてルカの中を潤すように、ゆっくりと挿入を進めていった。
「あ、ああ……っ」
滲みそうになる視界に阿形の姿をしっかりと捕まえておきながら、這い上がってくる快感に身を震わせる。わずかに険しい表情を浮かべる彼の顔に濡れた黒髪が零れて、とても美しい。かき抱いた背中はすでに汗ばんでいて、その濡れた感触に、また心臓が追い詰められた。阿形のものが、脈打つほど充血した内壁を愛撫し、押し拡げながら、結合が深まってゆく。
「あ……はいってる……これ、すき……」
阿形は小さく、ほんのわずかに苦しげな笑みを溢した。「これが好き?」
「ん……」
すると、阿形は途中まではいりかけたものを、再びゆっくりと引き抜いた。ぞわぞわとした快感が肌の上を這い回り、呼吸が引きずられる。そして次の呼吸で、阿形は自身を思いきり突き込んだ。
「あ……!!」
目の後ろで火花が散る。同時に、細い糸がプツンと切れたような感覚と共に、腹の上にあたたかいものが滴るのを感じた。
「ん、あ……っ」
それが自分の精液だと気づく前に、阿形がルカの腿を抱き寄せ、身体を揺さぶった。
「凄いな、ルカ」賞賛と興奮の入り交じった声で呟いて、阿形はルカの腹に手を這わせた。「いれただけで……?」
「んっ、だっ……て……」
「ずっと待ってたんだもんな?」
阿形は微笑み、温く滑らかな精液を指に絡め取ると、目を閉じてそれを味わった。
見惚れたらいいのか、興奮すれば良いのかわからない。
「うあ……」
「動いても良いか? 辛くないか?」
ルカは二度ほど無言でうなずいた。
波打つように腰を使いながら、阿形はルカの足の指を甘噛みした。ほんのわずかに眉根を寄せたまま目を閉じて、指の股や土踏まずを舐める。
「俺も待ってた、ずっと」
熱い吐息混じりの声で囁く阿形の、濡れた舌で隅々まで愛撫されて、繋がった場所がぎゅっと締まった。
「あ……あ、ノブ、さん……っ」
一度達して敏感になったルカの身体は、すぐにまた準備が整ってしまう。その証に目をやって、阿形は褒美のような笑顔を浮かべた。
「綺麗だ、ルカ」
「え……」
阿形は繋がったまま、ゆっくりと身をかがめた。
「は……う……」
結合が深まり、震えるため息が漏れる。阿形は、ルカの耳に温かい口づけをしてから、もう一度囁いた。
「とても綺麗だ。ルーカス」
「……っ!」
快感が駆け上がり、頭の後ろではじける。涙がにじんで、たった一度の瞬きで目尻から零れた。
「お前を抱くと、罪深い人間になった気がする。何か、尊いものを穢しているようで」波のリズムを思わせるゆっくりとしたピストンでルカを揺さぶりながら、阿形は言った。
暗闇の中で見つめ合う。阿形の目の中には、確かにおそれのようなものがあった。敬虔なひとが、聖なるものを見つめるときのような表情が。
でも、そんな距離は必要ない。二人には。
ルカは両脚で阿形の腰を撫でた。
「なら、穢してよ」両手を拡げて、喉をさらす。命をなげうつための姿勢だ。「引きずり下ろして、抱きしめて、めちゃくちゃにして……一つになるまで」
言葉の矢が心臓に届くまでの、一瞬の間──そして、阿形は微笑んだ。ルカの両手を掴み、指を絡ませてベッドに押しつける。
「仰せのままに」阿形は言い、腰を押しつけて、ルカの中をかき混ぜた。
「あ……い」快感と満足感に、ものを考える部分までとろけてしまいそうになる。「すご……いい……きもちいい……!」
少しの恐れと、途方も無い快感に突き動かされて、繋がった両手をぎゅっと握る。汗で濡れた額をすりあわせ、切羽詰まったキスをいくつも交わしながら揺れる。触れあうたび、汗ばんだ肌が音を立てた。絡み合う二人の身体のどこにも、乾いた場所など残っていなかった。ルカはがむしゃらに引き寄せ、締め付け、あるいは緩むにまかせて、ただひたすらに自分を愛する男の熱を感じようとした。
「信志さん……信志さん……!」
しがみつき、背中を引っ掻くと、阿形が首筋に歯を立てた。律動の度に漏れる熱い吐息が首筋を擽り、理性を焼き焦がす。
「あ……噛んで」あえぎ声とも嬌声ともつかない声で、ルカは言った。「もっと噛んで……痛くして……」
阿形は小さく唸り、ルカの首筋を舐めあげた。その快感に身を震わせた次の瞬間、首の根元に鋭い痛みがはしる。
「あっ!」
阿形は噛みついた場所を労るように舐め、また噛んでは舐めながら、ぐずぐずになったルカを抽挿で揺らし続けた。
「ああ……っ、だめ……きもちい……」
これ以上は熱くなるなんて思ってもみなかった血が、さらに沸きたつ。目を閉じていなければ、快感に溶けた眼球が涙と一緒に流れていってしまいそうだと思った。けれど、もう恐ろしいと思う気持ちを抱く余裕すら無い。ただ、阿形と繋がっている今この瞬間のことしか考えられない。それはきっと、自分でも気づかぬまま、獣のように唸りながらルカを抱いている阿形も一緒だった。
ああ、その声。
愛しい男が、他ならぬ自分に溺れているのだと確信させてくれるその声が、あられも無い濡れ音と絡み合って鼓膜を愛撫する。
「は……ノブさ……おれ、トんじゃいそ……」
「まだ駄目だ」阿形が言い、こめかみから目尻まで、ルカの涙を舐めとった。「もう少し……頑張れ」
「ん、んん!」
唇を噛んで頷く。その耳元に、阿形が言った。
「もうすぐいくから」そして、阿形の手が臍の下を包んだ。「な……?」
ここに注ぎ込むのを、ちゃんと感じていろと言うように。
「あ……う……」
繋がった場所が勝手に収縮し、甘い疼きが、炎のように燃え上がる。永遠に、この瞬間にとどまっていたい。同時に、今すぐに駆け上がって頂から飛び立ちたいという気持ちがせめぎ合う。ああ、苦しいことが、こんなにも気持ちいい。
「ルカ──?」
問われて、頷く。
阿形の呼吸がおぼつかなくなり……ぐっと息を詰めたその一瞬、ルカは阿形の腰を掴んで引き寄せた。ひときわ深く突き込まれたものが自分の中で大きく脈打つのを、確かに感じた。
「あう……っ!」
自分の中に注がれるものを感じ、その熱さに理性をとろかされながら、ルカも絶頂を迎えた。
爆発するような、綻ぶような、縒り合わさるような、飛翔、あるいは落下するような、解放されるような、全ての感覚が殺到して、ただただ素晴らしいとしか言い表すことのできない、あの一瞬が訪れる。身体はガクガクと震え、『気持ちいい』しか感じられない。
「あ……ああ……あ……」
中からの刺激だけでたやすく達するようになったルカのペニスは、二人の間で脈打ちながら、白い精液をなみなみと溢れさせていた。阿形の指が、それをそっと包み込み、濡れそぼったものを優しく扱いた。
「あ、ん」
あまりに気持ちよくて、たまらなくて、一度忘れたはずの心細さが再びよみがえってくる。ルカは、絶頂の余韻をかき混ぜるようにゆっくりと腰を揺らす阿形を抱き寄せて、いくつものキスをした。
「ルカ……」
度重なるキスに柔らかくなった舌を夢中で絡ませていると、阿形のもので一杯になった腹の中で、彼の準備が再び整うのを感じた。
「ふ、あ」
うそでしょ、という顔で阿形を見る。胸は期待ではち切れそうになっていた。
阿形は喉の奥で笑った。「一度じゃやめないって言ったろ」
その声で、繋がったままの身体の中心が脈打つように疼く。
「ノブさん……」
鼻と鼻とを触れあわせてから、ついばむようなキスをする。ほんの少し動くだけで、身体の中にとどまった精液を感じて、また震えてしまう。
「ルカ」掠れた声で、阿形が言った。「今でも、夜の海が怖いか?」
一瞬、思考が追いつかなかった。だが次の瞬間、再会の夜に自分が阿形に語って聞かせた思い出話のことだと思い至った。
「お、覚えてたの……?」
尋ねると、阿形は心外そうに少しだけ眉をよせた。「当然」
その様子が可笑しくて、ルカは笑った。
「ううん……もう怖くない。あなたがいるから」
阿形は満足げに微笑み、窓の外を視線で示した。「ん?」
窓の外には、ハンモックが設えられたバルコニーがある。狙いはわかりすぎるほどにわかる。けれど……。
「声、我慢できるかな」
「ルカには無理かもな」阿形がさらりと言う。
ルカはハッとして阿形を見た。滅多に見ることの無い挑戦的な表情──ルカをあおるには、それだけで十分だった。ルカはニヤリと笑って身を起こすと、阿形も自分ものを引き抜いた。
「言ったね?」
†
「見て、ノブさん」
ルカは後ろから、阿形の顎にそっと手を添えて上を向かせた。
「夜明けだよ……すごく綺麗だ」
けれど、ルカの膝の上で突き上げられ続けた阿形には、夜明けどころではなかったかもしれない。ぐったりと体重を預けてくれる心地よさと、柔らかくほぐれて絡みつく内壁の感触に酔いしれながら、ルカは阿形を抱きしめた。
「ね、もう動いていい?」
「冗談だろ?」阿形は本気で驚いた声を上げた。
「んーん」
ルカは歌うように言い、阿形の耳に口づけた。後ろから回した両手で、なだらかな腹から胸、そして胸から両脚の付け根までをなで下ろす。何度達したのだったか……阿形の腹は、混ざり合った二人分の精液で濡れていた。阿形の身体が震えたのは、朝の海を渡る風のせいだけではないだろう。
「俺は現役だもん」
腰を揺らめかせると、溢れるほど注いだ精液が、ぐちゅりと音を立てた。
「ああ……ノブさんのなか」朝の光に透けて赤らむ阿形の耳に、ねじ込むように囁く。「ドロドロのぐちゃぐちゃで……すっごくきもちいい」
「う、あ」阿形が震えて、なかがきゅんと締まった。「ル、カ……っ」
「こっちむいて」
ルカは阿形の身体を抱き上げ、向かい合わせになるように、再び膝の上に載せた。散々放ったものが零れて、すでに二人のものでぬめる膝に滴った。
夜通し──とは言え、後半戦だけだ──抱かれているあいだに何度も泣いた阿形の目は、まだ潤んでいる。涙の痕に口づけをして、ルカは言った。
「口、塞いであげるから」
「お前、さっき言ってたマムシってやつ、まさか食ったりしてないよな──んん」
宣言通り、噛みつくようなキスで舌を奪う。阿形は、それでも素直に腰を浮かせて、ルカのものを受け入れた。もはやローションも必要ないほど濡れてほぐれたその場所に、ルカの屹立は易々と飲み込まれる。
「んン……ん」
すすり泣くような声を上げながらもキスをやめない阿形に、心臓がぎゅっと締め付けられる。
小さく突き上げながら好きな場所を何度も突くと、調子に乗るなと言わんばかりに、阿形が舌の先を甘噛みしてきた。
「ね……ノブさん」舌を引き抜き、濡れた唇を触れあわせたまま、そっと囁く。
「キス、やめるなよ──っ」
揺さぶられながら、阿形が苦しげな声を上げる。口を塞ぐものを奪われた彼は、代わりにルカの肩に顔を埋めた。
「あのね……俺を抱くと、罪深い人間になった気がするって言ったよね」
返事の代わりに、くぐもった声で「ウフ」と鳴くのが聞こえた。
「俺はね、ノブさん──あなたを抱くと、完璧な人間になった気がするんだ」
今度こそ、返事は無かった。やがてゆっくりと、阿形が顔を上げた。
「俺は、あなたに魂の半分を渡したから」愛おしむように、阿形の背中をなで下ろす。「だから、こうして繋がってるときの俺は……完璧なんだ」
ルカの瞳を見つめる阿形の瞳が、静かに輝きを増していった。朝の光をいっぱいに湛えて、今にもこぼれ落ちそうなほど。ルカは阿形の頬を包んで引き寄せた。光の雫に口づけると、彼は小さく笑った。
「俺も、さっき同じことを思ったよ」
「同じこと?」
阿形はルカに口づけてから、言った。「俺も、お前に心臓を捧げてるんだ」
ああ、そうか。とルカは思った。だからなのか。見つめる度に、こんなに胸がいっぱいになるのは。
「じゃあ、二人で一つだ」ルカは言った。
「ああ。二人で一つだ」
阿形が言い、ルカの唇を奪う。彼はそうして、ゆっくりと腰をうねらせながら、二人で一つの快感を追い求めた。
夜明けが世界を温めて、夜を西の向こうへと追い払う。潮風の愛撫を受けながら、二人は揺れた。波に揺蕩うように。
「ルカ……ああ──ルカ……!」
高まってゆく阿形の声を味わうために、キスをする。
「俺の光……俺の命……」
薄く開いた唇の隙間に注ぎ込むように、ルカは囁き、呼び続けた。阿形にはわからないはずのその言葉が、確かに伝わっただろうか。彼は頷き、こう囁き返した。
「俺も愛してる……ルカ」
繋がった部分の熱さで、吐息の甘さで感じる──その時が近いと。
「は……、ルカ、俺……」
「うん……うん。一緒にいこう……」
二人して波に包まれ、攫われてゆく……そんな感覚に包まれる。
「あ、ああ……っ!」
切ない声を上げて、阿形の身体がぎゅっと強ばる。腹の上に滴る熱を感じながら、ルカもまた、阿形の中に自らを解き放った。
「あ……」
繋がった二人を同じように貫く甘美な震え。原始の衝動に身をまかせ、長く深い絶頂に囚われたまま、二人は荒い吐息と共に唇を重ねた。一つになると言うことを、最後の瞬間まで真実にするために。
そして、夜明けの色に染まった互いの目をのぞき込むと、ルカは笑みを浮かべた。
そして言った。
「イッソ・エ・ニルヴァーナ」
†
酒と果物とセックス。それに、美しい海と絶え間ない波音に彩られた短いバカンスに終わりを告げる。十四時間のフライトを経てたどり着いた日本は春を迎えたばかりで、相変わらず、不景気顔でごった返していた。それでも、帰ってくればちゃんと心安らぐのが不思議だ。
あれから季節は移ろった。あの日のことを思い出すと今でも、夢のような一日だったと思う。それこそ、神隠しにでもあったかのような。
そんなとき阿形は、本棚に飾られた一冊の写真集を見る。
その写真集の中には、日常の懊悩に紛れて忘れてしまいそうになるものが、たしかに映し出されていた。
初めてその題名を聞いたとき、阿形はシェリダンに尋ねた。
「はじめから、タイトルを決めていたんですか?」と。
すると、電話の向こうで、シェリダンは答えた。
「最初は『化身』にするつもりだったんだ。わたしのなかでは、ルカは失われた自然への崇拝を喚起させる神の化身だった。でも、最後の写真を撮って、気が変わった」
「なぜです?」
「そうだな……このタイトルなら、もっと根源的な──我々の根っこに眠っている可能性を表現できると思ったから、かな」
交わした会話を思い出しながら、阿形は写真集の最後のページをめくった。そこにはルカがいた。原初の世界を思わせる黄昏時の海辺で、荘厳な衣装に身を包みながら、目を輝かせて誰《ヽ》かを見つめる彼が映し出されていた。
あの瞬間。愛が時を止めた、あの一瞬──全てが満ち足りていた。完璧だった。
「ニルヴァーナ」表紙に刻まれた文字を撫でて、阿形は囁いた。
それは、煩悩を吹き消すこと。『楽園』または『永遠の平和』を表す古の言葉だ。
そのとき、玄関の戸が開く音がした。
「ただいま!」
愛しい人の声がする。
「ニルヴァーナ、か」
阿形は微笑み、本を元の場所に戻した。
楽園はここにある。二人の魂が結び合うところに。
「おかえり、ルカ」
砂浜を褥に、打ち寄せる波を纏って寝そべるルカの裸身は、南国の強い日差しにキラキラと輝いている。眼差しは強く、獰猛とさえ言える──この世に生を受けたばかりの、まったく新しい獣のように。
類い希なる男だと思う。恋人の欲目ではなく。
ルカは三冊目の写真集の撮影で、モルディブを訪れていた。撮影のクルーが彼を取り囲み、光が織りなす全ての奇跡を一枚の写真に捕らえるべく、忙しく立ち働いている。その人垣を透かして、阿形は数週間ぶりにルカを見つめた。
「お疲れ様です」
半年前からルカのマネージャーとして働き始めた井口真人が、タクシーを降りた阿形に駆け寄ってきた。普通はポルノの男優にマネージャーなどつかない。ルカもそう言って、最初のうちはマネージャーをつけようという望月の提案を断っていた。けれどあるとき、慣れない撮影現場で卒倒寸前になっていた明石をたまたま見かけて、マネージャーになってみる気はないか尋ねたのだという。それ以来、明石はルカのことを慕って、献身的に仕事をしてくれている。普通のマネージャーなら、外部の人間と話すときには自分がついているタレントのことは呼び捨てにするものだ。だが、井口はぜったいに『さん』をつけるのをやめようとしなかった。(『さん』づけはやめてねとルカは言うが)井口の忠義に篤いところを、ルカも阿形も好ましく思っていた。
「順調そうだ」
阿形が言うと、井口はにんまりと微笑んだ。「そう見えます?」
「なにか問題が……?」
井口は悩ましげに言った。「ルカさんは、絶食した虎みたいに飢えてます」
「減量が必要だったのか」
一緒に暮らし始めてから、自然と自炊が増えた。朝のワークアウトは続けていたから油断していたが、もしかしたら、モデルにふさわしい食生活からは大きく逸脱していたのかもしれない。
眉根を寄せる阿形を見て、井口は吹き出した。
「すみません。そうじゃなくて、ええと……つまり、ルカさんはこっちにきてから毎日百回はあなたの名前を出してます」
伝わりますか? と井口は心配そうに阿形を見上げた。
「ああ……なるほど」
伝わるどころじゃない。口元がほころびそうになるのを誤魔化すために、阿形は生えてもいない無精髭を確かめるふりをした。
「シェリダンは?」
「あちらです」
井口が示した先には、白いシャツに裾をまくり上げたジーンズをはいた、背の高い人影があった。リリー・マイケル・シェリダンは世界中を飛び回りながら仕事をするカメラマンで、他人からの依頼はほぼ受けない。気に入った被写体に直接話を持ちかけて、出版社に話を通すのがいつものやりかただった。その提案に首を横に振る出版社は滅多にいない。ルカと仕事をするのは、これで二度目だ。一度目の仕事で制作された写真集は、男性モデルとしては異例の十三万部を売り上げた。
手の中のカメラからあがるシャッター音は独特のリズムで、波の音と合わさると、まるで音楽のように聞こえる。
「シェリダンさんの話では、キメ顔の撮れ高は十分だそうなので──」
そのとき、ほんの一瞬だけ風向きが変わった。ルカの髪がなびき、栗色の髪が日の光に透ける。
彼の中には本当に、何かの獣の血が流れているのかもしれない。一体なんの気配を感じたというのだろう。瞬きを一つして、彼はまっすぐに、視線をこちらに向けた。
ルカ。
遠くても、間に何人のスタッフがいても、はっきりと見える。琥珀色の瞳が色を変えて、キメ顔がたちまち解けてゆく。
シェリダンがルカの視線を追いかけて、阿形を見つけた。撮影の邪魔を──するつもりはなかったからこうして遠くに居たのだが──してしまった後ろめたさで、阿形は弱々しく手を挙げた。シェリダンは肩をすくめて笑った。
「オーケー、休憩にしよう」
シェリダンの言葉を聞くが早いか、ルカは立ち上がり、ビーチフラッグの試合さながらの勢いで阿形に向かってきた。
「ノブさん!」
タックルに身構えていた阿形の予想を覆し、ルカは阿形の前で立ち止まった。抱擁を期待するように、わずかに手を広げたまま。
「ノブさん」ルカは言った。「えっと……」
「久しぶり」阿形は言い、ルカの肩に手を回して引き寄せた。
唇に潮の味を感じたのはほんの一瞬だった。濡れた舌と舌が触れあうと、あとはなつかしい、ルカの味に呑まれた。
周囲からヒューッという声と拍手があがる。口づけをしたままルカは笑い、見せつけるように、阿形をさらに強く抱きしめた。
「久しぶり、ノブさん」ルカは阿形の髪に顔を埋めてしみじみと呟いた。「はあぁ……死ぬかと思ったぁ」
阿形は喉の奥でくっくと笑ってから、言った。
「ああ……俺もだよ」
アメリカ人好みの骨が折れるほどの力強い握手を交わしながら、撮影を中断してくれた心遣いに礼を言うと、シェリダンは阿形の背中をバシバシと叩きながら言った。
「これを見越してスケジュールを組んでたから」
「それは……ありがとう」
見透かされていたことを気恥ずかしく思いながらも、ありがたかった。シェリダンは不思議な人物だった。会うのはまだこれが三度目なのに、ほとんどの友人たちよりも深く理解されているような気分になる。
ルカは午後の撮影の準備のために、近くのコテージに戻った。その風貌たるや、リードをつけられて飼い主から引き離されてゆくゴールデン・レトリバーそのものだったが、衣装担当のスタッフに話しかけられると、すぐさま表情が引き締まる。ルカが業界の人間に大事にされるのは、そういう姿勢が引き寄せる必然なのだろう。
「ルーカスは獣だ」
シェリダンの言葉に、阿形は心中を見透かされた気がしてハッとした。
「彼は、動物園で皆に笑いかけられる獣にも、ジャングルで出くわして命の価値を思い出させる獣にもなれる。しかもそれを、無理なくやってのけるんだ」
「ええ」阿形はうなずいた。
「あなたの前では仔犬なんだろうけど」シェリダンはいたずらっぽく付け足した。
返事を求められてはいないようだったので、阿形は曖昧に微笑んで濁した。日本人の必殺技だ。
「『動物園』の写真はこれから、ほんの数枚撮ることができれば十分だ」再び話し始めたとき、シェリダンの声に冗談の響きは無かった。「今回は、心臓に食らいつく方のルカを沢山撮った」
以前シェリダンは『被写体の内面を暴き出し、キャリアを変えてしまうほどの力を持つのが、本当に良い写真集だ』と語っていた。ルカはいま日本で、多くの人々から親しみをもって受け入れられている。優しく紳士で、柔和なタレントという認識で。この写真集がそれを変えてしまうかもしれないと、シェリダンは暗に伝えようとしているのだろう。
「ルカも、それを望みましたか?」阿形は尋ねた。
「ああ」
「それなら大丈夫」阿形は微笑んだ。「何も心配ありません」
シェリダンは目を細めて、阿形を見た。
「何です?」
首を振って、ジェリダンは言った。「時々、ずっと昔に見限った神を信じてみたくなる──あなたたちのような二人を見ると」
それは、この上ない賛辞だった。阿形はうなずいて、静かに言った。
「ありがとう」
日本から七千キロ以上離れた別世界にあっても、物書きが仕事をしない理由にはならない。紙とペンさえあれば──極端に言えば、それさえ無くても──仕事ができるのが物書きというものだ。
今は、次に取りかかる仕事のための構想を練る時間だった。書き始めればとかく内にこもりがちな阿形は、ルカの影響もあって、この頃は意識して外の世界へと足を運ぶことにしていた。その一環が、ルカの撮影にかこつけた、この数年ぶりの海外旅行だ。
撮影の様子を眺め、徒歩でも二時間で一周できる島内を散策しているうちに思い浮かんだ言葉をノートPCに打ち込み始めたが最後、撮影隊のテントの下、日が暮れかけるまで没頭してしまっていた。
「阿形さん!」
阿形の目を覚まさせたのは井口だった。
「え?」
顔を上げるまで、あたりが薄暗くなっていることに気づかなかった。
「シェリダンさんが呼んでます!」
井口に背中を押され、慌てて撮影現場に走ってゆく。最後のシーンの撮影は、海に向かって尾のように延びた砂州の先端で行われていた。スタッフの間を縫って近づいたものの、ルカの姿を見た瞬間、膝が萎えて脚がもつれそうになってしまった。
羽衣のように薄い白の麻布に、古代の王侯貴族のような装飾品を身につけただけの彼が、夕映えに染まる波打ち際にたたずんでいた。小麦色の肌に濡れて張り付く布地に、慎みを保つ役割は期待されていない。だが、いやらしさなど微塵も無かった。ただ神々しかった。
瞑想のなかにいるのか、うつむいた彼の表情は読めない。風が渡り、金のピアスが揺れる。その瞬きが、幻のような光景に見入ったまま呼吸を止めそうになっていた阿形の呪縛を破った。
「ルカ」
カメラを構えたままのシェリダンが呼びかける。
その声に応えて、ルカはカメラのレンズを見つめた。その瞳に、太古の神の面影を宿して。
連続するシャッター音に、時間が細切りにされてゆく。
「いいよ……ルカ、わたしの後ろを見て」
ルカがゆっくりと顔を上げる。瞬きをひとつ──そして、ルカが阿形を見、阿形もまたルカを見つめた。
瞬きをもう一つ。俗世から切り離されていたかのような、ルカの表情がゆっくりとほころんでゆく。鋭い眼光が、さざ波立つ水面の輝きに変わり、そして、彼が微笑んだ。
それは、言葉という枷では決して捉えることができないものだった。一度は見限った神を再び信じさせる何かがこの世にあると言うのなら、それはきっと、この瞬間に二人の間に存在しているものがそうさせるのだろう。
ルカの目を見つめている間──その目の中にある狂おしいほどの喜びに意識を絡め取られている間、自分の心臓の音だけが聞こえていた。
いつの間にか、シャッターの音は止んでいた。地平線の向こうに沈みゆく太陽の、最後の光が、たなびく雲の間を踊りながら……消える。
撮影した写真をシェリダンがチェックし「よし」と呟いた。
その瞬間に、静まりかえっていたビーチに歓声が起こり、時間は見つめ合う二人だけのものではなくなった。
「ありがとう、ノブ」
握手と抱擁を交わすスタッフたちに揉まれながら、シェリダンもまた阿形と握手を交わした。
「邪魔をしてしまってよかったんですか?」
「邪魔? とんでもない」シェリダンは笑った。「完璧だ。あれが完璧なんだ。あなたはそう思わなかった?」
再び、スタッフに囲まれるルカを見る。バスローブを羽織り、一つずつアクセサリを取り外してゆくスタッフと談笑する彼は、すでに『みんなのルカ』に戻っていた。だが、あの瞬間──あの一瞬は……。
「ええ」阿形は認めた。「完璧だった。そう思います」
「あの写真を撮るために、今回の撮影があったんだと言っても良いくらいだ」
「光栄です」阿形は言った。
「こちらこそ」シェリダンは微笑んだ。「あの瞬間を分かち合ってくれて、ありがとう」
撮影の終了からなだれ込むように始まった打ち上げは夜更けまでビーチで続いたけれど、途中で抜け出すルカと阿形をとがめる者は、誰も居なかった。
「ん……っ」
ドアが閉まるやいなや、どちらともなく身体を引き寄せ合った。二人とも、服を着ている。シャワーも浴びていないし、部屋の明かりさえついていない。それでもただ、身体と身体が触れあうだけで、どうしようもなく感じた。
はやく、肌の感触を知りたい。触れる度に驚くほど熱くなめらかなルカの身体に触れたい。そして自分の指が、彼の中に得も言われぬ感覚を引き起こすところが見たかった。
「ノブさ……だめ……」
悩ましい声で、キスの合間にルカが言う。
「何が」
「そこ、あんま擦らないで……すぐイキそ……」
理性が揺らいで、ぐらつく。
「いけばいい」汗ばんだ喉仏に口づけたまま囁く。「一度じゃやめない」
「う」ルカが喉の奥で変な声を出した。「んぐぐ」
阿形は思わず吹き出した。酒が入っているのも手伝って──それに間違いなく、三週間ぶりの二人きりの時間に上機嫌になっている。膝から力が抜けそうになるほど笑ってしまった。
「わかった、わかった」
「一泊十二万円! 経費外!」ルカは怒った振りをしつつも、笑顔で言った。「俺、撮影の間はずっと、マムシみたいなヘビが出る一泊二千円の部屋に泊まってたんだから! 今日は絶対にベッドで──」
「マムシが出たのか? 本当に?」
お互い、一泊十二万円の宿に自腹で泊まって困るような稼ぎでは無い。しかも、たまの休みに。それでも、ルカはブラジルの実家に毎月仕送りをしていたし、贅沢するまえにまず我慢を味わうべきだという禁欲的思想の持ち主でもあった。俗っぽい言い方をすれば、Mの気があるとも言う。
「はは……それは悪かったな」
阿形は目尻の涙を拭いながら、ルカの後について部屋に入ろうとした。ところが、ルカが部屋の入り口で立ち尽くしている。
「どうした?」
一抹の不安を抱えつつ、身体の脇から部屋の中を覗く。と、そこには、キャンドルライトに浮かび上がる、水上コテージのスイートルームがあった。東向きの壁は、海を一望できるように硝子張りになっていた。開放的なベッドルームは、ライトアップされたプライベートプールと、ハンモックが設えられたバルコニーと一続きになっている。部屋の中央にあるユーラシア大陸ほどの大きさの天蓋付きのベッドの上には、なんとまあ、薔薇の花びらが散らしてあった。
阿形はチラリと、ルカの横顔をのぞき見た。面と向かってそう言われたことは無いけれど、多分彼は、こういうシチュエーションに弱い。
「悪かった」阿形はもう一度言った。
「何が?」ルカは夢見る瞳のまま阿形を見た。
「これは確かに……無駄撃ちできないな」
ルカが吹き出し、互いに折り重なるようにして、腹がよじれるほど笑った。
「あ……」
キャンドルライトに浮かび上がる、ルカの見事な肢体。黄昏の光の中で神とも見紛った彼の、その肉体に改めて手を触れることに気後れを感じずにいるのは難しかった。だがこうして、ベッドの上に散らばる薔薇の花びらの中で狂おしげに身をよじる彼を目にしてしまったら、神性を穢すことへの躊躇など簡単に捨て去ってしまえる。
抱きたいのか、抱かれたいのか──この頃は、言葉にしなくてもわかるようになった。ルカの雰囲気に誘われて、こちらの腹が決まるということでもある。抱かれたいと思っているときの甘えたような声音を聞けば、その気にならずにはいられないのだ。
「あ……んん……」
中に触れると、ルカの手がシーツをぎゅっと握った。久しぶりに触れた彼の内側は、ローションが与える潤いに悦ぶように温かくとろけた。いいところを知り尽くした指で擦りあげると、ルカは切なげな声を上げ、阿形の腿を優しく引っ掻いた。
「ノブさん……信志さん……」
ねだられているのに気づかないふりをしてキスでルカの口を塞ぐと、ルカはもどかしさにむずがりながら舌を絡ませた。
「んん……っ」
抽挿を思わせるリズムで身体を揺らす。ルカはむせび泣くような声をあげた。
「ノブさ、や……指じゃ嫌だ……」阿形の唇を食み、舌先でなぞりながら囁く。「あなたのがいい……俺、ずっと待ってたんだから……」
むずむずと、悪戯心が腹をくすぐる。
「俺のこと考えて、一人で抜いたか?」
そっと尋ねると、組み敷いた身体が震えた。
「うん……一回だけ」
「へえ」意外と少ない。
「一回抜いたら、寂しすぎて泣けてきたから……あとは我慢した」そう言うと、ルカはまた、ねだるように阿形の唇を舐めた。「ね、はやく……」
我知らずうめき声を上げながら、阿形は思った。
これだから、彼に捧げる心臓がいくつあっても足りないのだ。
†
柔らかく丸い先端が、待ちかねていた場所に触れる。阿形は、ローションを馴染ませた彼自身であらためてルカの中を潤すように、ゆっくりと挿入を進めていった。
「あ、ああ……っ」
滲みそうになる視界に阿形の姿をしっかりと捕まえておきながら、這い上がってくる快感に身を震わせる。わずかに険しい表情を浮かべる彼の顔に濡れた黒髪が零れて、とても美しい。かき抱いた背中はすでに汗ばんでいて、その濡れた感触に、また心臓が追い詰められた。阿形のものが、脈打つほど充血した内壁を愛撫し、押し拡げながら、結合が深まってゆく。
「あ……はいってる……これ、すき……」
阿形は小さく、ほんのわずかに苦しげな笑みを溢した。「これが好き?」
「ん……」
すると、阿形は途中まではいりかけたものを、再びゆっくりと引き抜いた。ぞわぞわとした快感が肌の上を這い回り、呼吸が引きずられる。そして次の呼吸で、阿形は自身を思いきり突き込んだ。
「あ……!!」
目の後ろで火花が散る。同時に、細い糸がプツンと切れたような感覚と共に、腹の上にあたたかいものが滴るのを感じた。
「ん、あ……っ」
それが自分の精液だと気づく前に、阿形がルカの腿を抱き寄せ、身体を揺さぶった。
「凄いな、ルカ」賞賛と興奮の入り交じった声で呟いて、阿形はルカの腹に手を這わせた。「いれただけで……?」
「んっ、だっ……て……」
「ずっと待ってたんだもんな?」
阿形は微笑み、温く滑らかな精液を指に絡め取ると、目を閉じてそれを味わった。
見惚れたらいいのか、興奮すれば良いのかわからない。
「うあ……」
「動いても良いか? 辛くないか?」
ルカは二度ほど無言でうなずいた。
波打つように腰を使いながら、阿形はルカの足の指を甘噛みした。ほんのわずかに眉根を寄せたまま目を閉じて、指の股や土踏まずを舐める。
「俺も待ってた、ずっと」
熱い吐息混じりの声で囁く阿形の、濡れた舌で隅々まで愛撫されて、繋がった場所がぎゅっと締まった。
「あ……あ、ノブ、さん……っ」
一度達して敏感になったルカの身体は、すぐにまた準備が整ってしまう。その証に目をやって、阿形は褒美のような笑顔を浮かべた。
「綺麗だ、ルカ」
「え……」
阿形は繋がったまま、ゆっくりと身をかがめた。
「は……う……」
結合が深まり、震えるため息が漏れる。阿形は、ルカの耳に温かい口づけをしてから、もう一度囁いた。
「とても綺麗だ。ルーカス」
「……っ!」
快感が駆け上がり、頭の後ろではじける。涙がにじんで、たった一度の瞬きで目尻から零れた。
「お前を抱くと、罪深い人間になった気がする。何か、尊いものを穢しているようで」波のリズムを思わせるゆっくりとしたピストンでルカを揺さぶりながら、阿形は言った。
暗闇の中で見つめ合う。阿形の目の中には、確かにおそれのようなものがあった。敬虔なひとが、聖なるものを見つめるときのような表情が。
でも、そんな距離は必要ない。二人には。
ルカは両脚で阿形の腰を撫でた。
「なら、穢してよ」両手を拡げて、喉をさらす。命をなげうつための姿勢だ。「引きずり下ろして、抱きしめて、めちゃくちゃにして……一つになるまで」
言葉の矢が心臓に届くまでの、一瞬の間──そして、阿形は微笑んだ。ルカの両手を掴み、指を絡ませてベッドに押しつける。
「仰せのままに」阿形は言い、腰を押しつけて、ルカの中をかき混ぜた。
「あ……い」快感と満足感に、ものを考える部分までとろけてしまいそうになる。「すご……いい……きもちいい……!」
少しの恐れと、途方も無い快感に突き動かされて、繋がった両手をぎゅっと握る。汗で濡れた額をすりあわせ、切羽詰まったキスをいくつも交わしながら揺れる。触れあうたび、汗ばんだ肌が音を立てた。絡み合う二人の身体のどこにも、乾いた場所など残っていなかった。ルカはがむしゃらに引き寄せ、締め付け、あるいは緩むにまかせて、ただひたすらに自分を愛する男の熱を感じようとした。
「信志さん……信志さん……!」
しがみつき、背中を引っ掻くと、阿形が首筋に歯を立てた。律動の度に漏れる熱い吐息が首筋を擽り、理性を焼き焦がす。
「あ……噛んで」あえぎ声とも嬌声ともつかない声で、ルカは言った。「もっと噛んで……痛くして……」
阿形は小さく唸り、ルカの首筋を舐めあげた。その快感に身を震わせた次の瞬間、首の根元に鋭い痛みがはしる。
「あっ!」
阿形は噛みついた場所を労るように舐め、また噛んでは舐めながら、ぐずぐずになったルカを抽挿で揺らし続けた。
「ああ……っ、だめ……きもちい……」
これ以上は熱くなるなんて思ってもみなかった血が、さらに沸きたつ。目を閉じていなければ、快感に溶けた眼球が涙と一緒に流れていってしまいそうだと思った。けれど、もう恐ろしいと思う気持ちを抱く余裕すら無い。ただ、阿形と繋がっている今この瞬間のことしか考えられない。それはきっと、自分でも気づかぬまま、獣のように唸りながらルカを抱いている阿形も一緒だった。
ああ、その声。
愛しい男が、他ならぬ自分に溺れているのだと確信させてくれるその声が、あられも無い濡れ音と絡み合って鼓膜を愛撫する。
「は……ノブさ……おれ、トんじゃいそ……」
「まだ駄目だ」阿形が言い、こめかみから目尻まで、ルカの涙を舐めとった。「もう少し……頑張れ」
「ん、んん!」
唇を噛んで頷く。その耳元に、阿形が言った。
「もうすぐいくから」そして、阿形の手が臍の下を包んだ。「な……?」
ここに注ぎ込むのを、ちゃんと感じていろと言うように。
「あ……う……」
繋がった場所が勝手に収縮し、甘い疼きが、炎のように燃え上がる。永遠に、この瞬間にとどまっていたい。同時に、今すぐに駆け上がって頂から飛び立ちたいという気持ちがせめぎ合う。ああ、苦しいことが、こんなにも気持ちいい。
「ルカ──?」
問われて、頷く。
阿形の呼吸がおぼつかなくなり……ぐっと息を詰めたその一瞬、ルカは阿形の腰を掴んで引き寄せた。ひときわ深く突き込まれたものが自分の中で大きく脈打つのを、確かに感じた。
「あう……っ!」
自分の中に注がれるものを感じ、その熱さに理性をとろかされながら、ルカも絶頂を迎えた。
爆発するような、綻ぶような、縒り合わさるような、飛翔、あるいは落下するような、解放されるような、全ての感覚が殺到して、ただただ素晴らしいとしか言い表すことのできない、あの一瞬が訪れる。身体はガクガクと震え、『気持ちいい』しか感じられない。
「あ……ああ……あ……」
中からの刺激だけでたやすく達するようになったルカのペニスは、二人の間で脈打ちながら、白い精液をなみなみと溢れさせていた。阿形の指が、それをそっと包み込み、濡れそぼったものを優しく扱いた。
「あ、ん」
あまりに気持ちよくて、たまらなくて、一度忘れたはずの心細さが再びよみがえってくる。ルカは、絶頂の余韻をかき混ぜるようにゆっくりと腰を揺らす阿形を抱き寄せて、いくつものキスをした。
「ルカ……」
度重なるキスに柔らかくなった舌を夢中で絡ませていると、阿形のもので一杯になった腹の中で、彼の準備が再び整うのを感じた。
「ふ、あ」
うそでしょ、という顔で阿形を見る。胸は期待ではち切れそうになっていた。
阿形は喉の奥で笑った。「一度じゃやめないって言ったろ」
その声で、繋がったままの身体の中心が脈打つように疼く。
「ノブさん……」
鼻と鼻とを触れあわせてから、ついばむようなキスをする。ほんの少し動くだけで、身体の中にとどまった精液を感じて、また震えてしまう。
「ルカ」掠れた声で、阿形が言った。「今でも、夜の海が怖いか?」
一瞬、思考が追いつかなかった。だが次の瞬間、再会の夜に自分が阿形に語って聞かせた思い出話のことだと思い至った。
「お、覚えてたの……?」
尋ねると、阿形は心外そうに少しだけ眉をよせた。「当然」
その様子が可笑しくて、ルカは笑った。
「ううん……もう怖くない。あなたがいるから」
阿形は満足げに微笑み、窓の外を視線で示した。「ん?」
窓の外には、ハンモックが設えられたバルコニーがある。狙いはわかりすぎるほどにわかる。けれど……。
「声、我慢できるかな」
「ルカには無理かもな」阿形がさらりと言う。
ルカはハッとして阿形を見た。滅多に見ることの無い挑戦的な表情──ルカをあおるには、それだけで十分だった。ルカはニヤリと笑って身を起こすと、阿形も自分ものを引き抜いた。
「言ったね?」
†
「見て、ノブさん」
ルカは後ろから、阿形の顎にそっと手を添えて上を向かせた。
「夜明けだよ……すごく綺麗だ」
けれど、ルカの膝の上で突き上げられ続けた阿形には、夜明けどころではなかったかもしれない。ぐったりと体重を預けてくれる心地よさと、柔らかくほぐれて絡みつく内壁の感触に酔いしれながら、ルカは阿形を抱きしめた。
「ね、もう動いていい?」
「冗談だろ?」阿形は本気で驚いた声を上げた。
「んーん」
ルカは歌うように言い、阿形の耳に口づけた。後ろから回した両手で、なだらかな腹から胸、そして胸から両脚の付け根までをなで下ろす。何度達したのだったか……阿形の腹は、混ざり合った二人分の精液で濡れていた。阿形の身体が震えたのは、朝の海を渡る風のせいだけではないだろう。
「俺は現役だもん」
腰を揺らめかせると、溢れるほど注いだ精液が、ぐちゅりと音を立てた。
「ああ……ノブさんのなか」朝の光に透けて赤らむ阿形の耳に、ねじ込むように囁く。「ドロドロのぐちゃぐちゃで……すっごくきもちいい」
「う、あ」阿形が震えて、なかがきゅんと締まった。「ル、カ……っ」
「こっちむいて」
ルカは阿形の身体を抱き上げ、向かい合わせになるように、再び膝の上に載せた。散々放ったものが零れて、すでに二人のものでぬめる膝に滴った。
夜通し──とは言え、後半戦だけだ──抱かれているあいだに何度も泣いた阿形の目は、まだ潤んでいる。涙の痕に口づけをして、ルカは言った。
「口、塞いであげるから」
「お前、さっき言ってたマムシってやつ、まさか食ったりしてないよな──んん」
宣言通り、噛みつくようなキスで舌を奪う。阿形は、それでも素直に腰を浮かせて、ルカのものを受け入れた。もはやローションも必要ないほど濡れてほぐれたその場所に、ルカの屹立は易々と飲み込まれる。
「んン……ん」
すすり泣くような声を上げながらもキスをやめない阿形に、心臓がぎゅっと締め付けられる。
小さく突き上げながら好きな場所を何度も突くと、調子に乗るなと言わんばかりに、阿形が舌の先を甘噛みしてきた。
「ね……ノブさん」舌を引き抜き、濡れた唇を触れあわせたまま、そっと囁く。
「キス、やめるなよ──っ」
揺さぶられながら、阿形が苦しげな声を上げる。口を塞ぐものを奪われた彼は、代わりにルカの肩に顔を埋めた。
「あのね……俺を抱くと、罪深い人間になった気がするって言ったよね」
返事の代わりに、くぐもった声で「ウフ」と鳴くのが聞こえた。
「俺はね、ノブさん──あなたを抱くと、完璧な人間になった気がするんだ」
今度こそ、返事は無かった。やがてゆっくりと、阿形が顔を上げた。
「俺は、あなたに魂の半分を渡したから」愛おしむように、阿形の背中をなで下ろす。「だから、こうして繋がってるときの俺は……完璧なんだ」
ルカの瞳を見つめる阿形の瞳が、静かに輝きを増していった。朝の光をいっぱいに湛えて、今にもこぼれ落ちそうなほど。ルカは阿形の頬を包んで引き寄せた。光の雫に口づけると、彼は小さく笑った。
「俺も、さっき同じことを思ったよ」
「同じこと?」
阿形はルカに口づけてから、言った。「俺も、お前に心臓を捧げてるんだ」
ああ、そうか。とルカは思った。だからなのか。見つめる度に、こんなに胸がいっぱいになるのは。
「じゃあ、二人で一つだ」ルカは言った。
「ああ。二人で一つだ」
阿形が言い、ルカの唇を奪う。彼はそうして、ゆっくりと腰をうねらせながら、二人で一つの快感を追い求めた。
夜明けが世界を温めて、夜を西の向こうへと追い払う。潮風の愛撫を受けながら、二人は揺れた。波に揺蕩うように。
「ルカ……ああ──ルカ……!」
高まってゆく阿形の声を味わうために、キスをする。
「俺の光……俺の命……」
薄く開いた唇の隙間に注ぎ込むように、ルカは囁き、呼び続けた。阿形にはわからないはずのその言葉が、確かに伝わっただろうか。彼は頷き、こう囁き返した。
「俺も愛してる……ルカ」
繋がった部分の熱さで、吐息の甘さで感じる──その時が近いと。
「は……、ルカ、俺……」
「うん……うん。一緒にいこう……」
二人して波に包まれ、攫われてゆく……そんな感覚に包まれる。
「あ、ああ……っ!」
切ない声を上げて、阿形の身体がぎゅっと強ばる。腹の上に滴る熱を感じながら、ルカもまた、阿形の中に自らを解き放った。
「あ……」
繋がった二人を同じように貫く甘美な震え。原始の衝動に身をまかせ、長く深い絶頂に囚われたまま、二人は荒い吐息と共に唇を重ねた。一つになると言うことを、最後の瞬間まで真実にするために。
そして、夜明けの色に染まった互いの目をのぞき込むと、ルカは笑みを浮かべた。
そして言った。
「イッソ・エ・ニルヴァーナ」
†
酒と果物とセックス。それに、美しい海と絶え間ない波音に彩られた短いバカンスに終わりを告げる。十四時間のフライトを経てたどり着いた日本は春を迎えたばかりで、相変わらず、不景気顔でごった返していた。それでも、帰ってくればちゃんと心安らぐのが不思議だ。
あれから季節は移ろった。あの日のことを思い出すと今でも、夢のような一日だったと思う。それこそ、神隠しにでもあったかのような。
そんなとき阿形は、本棚に飾られた一冊の写真集を見る。
その写真集の中には、日常の懊悩に紛れて忘れてしまいそうになるものが、たしかに映し出されていた。
初めてその題名を聞いたとき、阿形はシェリダンに尋ねた。
「はじめから、タイトルを決めていたんですか?」と。
すると、電話の向こうで、シェリダンは答えた。
「最初は『化身』にするつもりだったんだ。わたしのなかでは、ルカは失われた自然への崇拝を喚起させる神の化身だった。でも、最後の写真を撮って、気が変わった」
「なぜです?」
「そうだな……このタイトルなら、もっと根源的な──我々の根っこに眠っている可能性を表現できると思ったから、かな」
交わした会話を思い出しながら、阿形は写真集の最後のページをめくった。そこにはルカがいた。原初の世界を思わせる黄昏時の海辺で、荘厳な衣装に身を包みながら、目を輝かせて誰《ヽ》かを見つめる彼が映し出されていた。
あの瞬間。愛が時を止めた、あの一瞬──全てが満ち足りていた。完璧だった。
「ニルヴァーナ」表紙に刻まれた文字を撫でて、阿形は囁いた。
それは、煩悩を吹き消すこと。『楽園』または『永遠の平和』を表す古の言葉だ。
そのとき、玄関の戸が開く音がした。
「ただいま!」
愛しい人の声がする。
「ニルヴァーナ、か」
阿形は微笑み、本を元の場所に戻した。
楽園はここにある。二人の魂が結び合うところに。
「おかえり、ルカ」
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みんなの感想(3件)
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ありがとうございます‼
阿形が父親と和解できたら、それは素晴らしいことだと思いつつ、人間ってそんなに簡単に変われないし、だとしたら、自他をこんな風に認めて前に進むのも一つの理想形なのかなぁ……と思いながら、阿形と阿形の父のエピソードを書きました。
阿形の心の動きは苦労しながら書いた部分だったので、よかったと仰って頂けてとっても嬉しいです!
クリスマス番外編の25話ともう一つ、番外編を公開予定なので、そちらもお楽しみ頂けたら嬉しいです〜!
ありがとうございます!!
このお話を最初に書いたのは数年前だったのですが、当時の私が思っていた以上に今の情勢が変わっていないことにもどかしさを感じたりしてしまいますね。
このお話には、阿形の躊躇いが『古くさい』と感じられるような世の中になってくれたら、という願いがあったりもします……!
今後も、おしまいまでコンスタントに投稿していく予定ですので、またお楽しみ頂けたらうれしいです!
ご感想、とっても嬉しく、励みになります……!本当にありがとうございました!
続き楽しみにしてます‼️
ありがとうございます!! 週に数話ずつ更新していく予定です〜!最後までお楽しみ頂けたら嬉しいです!🥹🙏