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Have Yourself a Merry Little Christmas

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『今日はクリスマス連休の最終日です! お出かけのご予定は、もう決まりましたか?』
 ダウンジャケットを着てマフラーを巻いた完全装備でソファの上に胡坐をかき、音量を最小にしたテレビを睨みつける。荷物が詰め込まれたダッフルバッグの取っ手を握ったまま、ルカは待っていた。
 テレビに映るのは、様々な観光地を彩るイルミネーション。イブとクリスマスが奇跡的に土日と重なったこの連休に日本中が浮き足立っているようで、光の回廊を背にしたレポーターの表情も、それに映りこむ通行人の表情も明るい。
 去年と同じクリスマスだったなら、ルカは《ウィル・シー》が協賛するクリスマスのイベントに引っ張り出されて、ステージの上、あるいはバーカウンターの中で男たちの熱気に揉まれて踊っていただろう。だが今年は、その事態を回避するためにハロウィンのイベントで多いに働いた。雑誌の仕事も、他社での仕事も鬼気迫る勢いでこなした甲斐あって、二十五日と二十六日の休暇をもぎ取ったのだった。
 テレビに表示される時計をじっと見つめる。時刻は午前七時二十四分。阿形は朝八時に迎えに来ると言っていたから、約束まであと三十分以上もある。けれど、何かの間違いで時間が早まることもあるかも知れない。だからクラクションの音を聞き逃さないように、こうして音量を下げてテレビを観ているのだった。
 ルカはバッグのファスナーを開けて、絶対に忘れてはいけない荷物がちゃんと入っていることを確認した。昨日から百回ほど同じ事をしているのだから、その小包に足と自我が芽生えない限りバッグの中から消え失せることなどあり得ないのだけれど、確かめずにはいられなかった。小さな箱を握って安心感を上書きしてから、また念入りにファスナーを閉めた。
『わたしがいま居るここ、横浜の赤レンガ倉庫では──』
 テレビに映るレポーターの背後には、沢山の家族連れやカップルの姿が見える。指をくわえてそんな光景を観ていたこともあったけれど、今年は違う。
 8時になれば、サンタがうちにやってくる。
 その時、控えめなクラクションの音がした。
「来た!」
 テレビを消そうと慌てたルカはリモコンを弾き飛ばし、それを拾い上げて電源を消すまでに三十秒ほど無駄にした。バッグを肩に担ぎ上げ、突進する勢いでドアを開ける。二階の踊り場から下を覗き込むと、阿形がいた。彼は運転席からルカを見上げて、目が合うと小さく手を振った。
 三週間ぶりの、本物の笑顔だ。
 そのまま手すりを乗り越えて地面に着地したい気持ちを堪えて、玄関に施錠し、バッグを持ち直し、階段を下りた。阿形はルカを待つ間に狭い路地で車を切り返して待っていた。トランクに荷物を載せて、助手席に乗り込む。
「久しぶり」阿形は言い、少し照れくさそうに付け加えた。「悪い。ちょっと早く来すぎたか」
 カーナビの画面には七時四十五分と表示されていた。
「ううん」
 ルカは、今朝五時に目が覚めてからまんじりともせずにあなたを待っていたのだと言いそうになる舌を噛んだ。代わりに首を振り、運転席に身を乗り出して阿形の頬にキスをした。
「早く会えて嬉しい」
 阿形は微笑んで、いつものようにルカの頭をくしゃっと撫でた。
「じゃ、行くか」そして、深々とため息をついた。「……大掃除に」

               †
 
 クリスマスの休暇を勝ち取るためにルカがどれだけ無理をしていたか知っているから、予定変更を告げるのは気が重かった。本当なら、二カ月前から予約していたレストランでディナーを共にしたあと、ホテルで過ごす予定だった。いかにもベタなクリスマスだが、いままで自分が経験するとは思いも寄らなかった定番というものを試してしてみるのも楽しいだろうと思ったのだ。ルカとなら。
 ところが、この年末までに何としても片付けなくてはいけない用事が出来てしまった。
 父親が所有していた別荘は遺言によって義母のものとなった。しかし──当然と言えば当然のことだけれど──義母は別荘なんて持て余してしまうと言い、また親戚の中からも所有者として名乗りを上げるものが居なかったので、話し合いの結果、売却することに決定した。ここまでは阿形も承知していたことだ。
 ところが、予想以上に早く買い手がついたので、今年中に全ての荷物を運び出さないといけないのだという。

「俺たちは今日家族で行ってきた。あとは兄貴の荷物だけだから」
 弟からその連絡が来たのが、十二月二十日のことだった。
「信明」阿形は鼻梁を揉みながら、電話の向こうの弟に言った。「そう言うことはもっと早く言ってくれ」
「いやぁ、兄貴は勝手に処分しろって言うだろうと思ったんだけどさ」
 このクリスマスの休暇を逃せば、阿形にもルカにも、来年まで休みがない。
 はじめはこう思った。最後に別荘で過ごしたのが何年前なのか思い出すことも出来ないのだから、自分が引き取るべき荷物など無いだろうと。だが、それを見越していたかのように弟から送られてきた写真を見て、是が非でも別荘へ行かなくてはいけなくなってしまった。
「家具やなんかはもう処分したんだけど、こういうのが出てきちまってさ」
 そこに写っていたのは、百枚以上のレコード盤が収められた棚と、壁に掛けられていた古い映画のポスターだった。父親とは折り合いが悪かった阿形だが、親子と言うだけあって趣味は似ていた。家を出るときに失敬したオールディーズのレコードは、物欲が希薄な阿形が絶対に手放せない数少ない物のひとつだ。市場価値がどれ程あるかは重要ではない。あのコレクションを人の手に渡らせるわけにはいかなかった。多分、今となっては、あれが在りし日の父親と繋がることができる唯一のよすがなのだ。

 そんなわけで、ルカにクリスマスに一緒に過ごせなくなったことを告げた。そのとき受話器から聞こえた「ぐっ」という音は、失望の声を飲み込んだ音だったのだろう。
「仕事なら、仕方ないね……」ルカは絞り出すように言った。
 それが、仕事じゃなくてただの大掃除なのだと告げると、ルカは「それなら手伝う」と申し出てくれたのだった。
「でも、家具すら無いんだぞ。寝袋で寝るしかない」
「ノブさん」ルカはしみじみとため息をついた。「俺がそんなこと気にすると思う?」
 胸にじわりと、熱がひろがる。
「寒がりのくせに」
 と、そこで思い出した。寒さについては心配しなくていいかもしれない。確か──。
「とにかく、手伝うから」
 記憶を掘り起こそうとする阿形をよそに、ルカはきっぱりと言った。
「悪い」阿形は言った。「せめて、良い酒でも飲もう。家具はなくても、山小屋よりはマシなところだから」
「去年言ったでしょ、ノブさん」ルカの声には微笑みが宿っていた。「あなたが居れば、それでいいんだって」

 勝手知ったる恋人の車とばかりに、ルカはオーディオと自分のスマートフォンを接続した。
 お馴染みのクリスマスソングが車内に溢れると、何の変哲もない師走の東京の街並みが、どことなく浮かれているように見えてくる。阿形自身、この車のトランクに入っているのがハタキや古布やバケツではなく、白い袋に詰め込まれたプレゼントであるような気がしそうになった。
 とは言え、それも全くの気のせいというわけではない。プレゼントは確かにある──少なくとも一つは。ただ、それをどうやって手渡したらいいのか、こうしたイベントとは距離を置いてきたから皆目見当がつかないけれど。
 いっそのこと、笑ってしまうくらい気障きざな方法で手渡してみようか。
 そんなことを考えている間に車は高速に入り、あとはただ一直線に軽井沢を目指すのみとなった。
「お仕事は順調ですか、先生?」
 ルカはマフラーを解いて膝の上に載せた。ヒーターに暖められて、頬がほんのりと赤くなっている。
「先生じゃないって」苦笑して、阿形は言った。「でも、順調だ。この間相談したプロットな、感触いいからあのまま通りそうだ。お前の方は?」
 ルカは小さな快哉をあげて、それから言った。
「なんか、ミュージックビデオの仕事が来るかも知れないって」
「すごいじゃないか」ちらりとルカを見る。横顔は、どことなく不満げだった。「撮る方? それとも出る方?」
「出る方」
「撮る方がよかったか」
 ルカはやるせなさそうなため息をついて、シートに一層深く身を沈めた。「うん。まあね」
「焦らなくても、そのうちそっちの仕事も増えてくる」
「うん……」
 そう言いながらも、実際のところ、今しばらくはルカに裏方の仕事のオファーが来ることはないだろうと思った。これまでは深夜に放送されるものばかりだったテレビ番組への出演オファーだったが、つい先日出演したトーク番組をきっかけに、ゴールデンタイムからもお呼びがかかるようになったと言っていた。ルカの頑張りがあったのももちろんだけれど、今日と明日の休暇は、きっと奇跡のようなものだろう。
「そういえば、いつお前に会わせてくれるんだって信明に言われたよ」
「そ、そう?」ルカは目に見えて動揺した。「そのうちにね」
 以前に同じような話をしたときにも、ルカは『もう少し待って』と言っていた。嘘がつけない彼の目の中には見慣れない怯えの色があって、何よりも、それが気がかりだった。最初は、同性愛者に否定的だった父親の話を聞かせていたせいで、弟も同じ思想の持ち主だと思っているのではないかと思った。その心配はないと伝えはしたが、ルカの気持ちが変わったようには見えない。
「焦らなくていい。心の準備が出来たらで」
「ん」ルカは小さく頷いて微笑んだ。「ありがと」

               †

 一年前、自分たち以外の全てから隠れるように関係を続けていた頃には思いも寄らなかったけれど、恋人の家族にどうやって自己紹介をするのか、というのはかなり大きな問題だ。ゲイであることは何の問題にもならないと阿形は言ってくれた。けれど、職業はどうだろう。セクシャリティには選択の余地がないけれど、仕事は違う。
『ゲイビ男優モデルをしてる海野と申します』などと、あの中江信明に面と向かって言う? その後で、『一昨年の大河ドラマ、ずっと観てました! ファンです! サインもらってもいいですか?』とか?

 考えただけで血の気が引く。
 いや、そもそも、そんなことは既に知られているのだ。阿形と安定した関係を続けている今もポルノ俳優を続けていることを、阿形に遺されたたった一人の弟はどう思っているだろう。
 何百人の人間に石を投げられたって屁でもない。けれど、大事な人の大事な人に軽蔑されるのはいやだ。
 かといって、プライドを持ってやっている仕事を、自分以外の誰かが気にくわないと思っているからという理由では投げ出したくはない。
 そんな風にぐるぐると、行き場もなく悩みあぐねたまま月日は過ぎた。
 受け入れてもらいたい。祝福してもらいたい。自分のためにも、阿形のためにもそう思う。
 家族と暮らした家から一歩外に出れば、この世界に最初から自分の居場所が用意されていたことはない。だから、自分の場所を作ることには自信がある。肝心なのは、焦らないこと。それから、決して投げ出さないことだ。
 いつかは、ポルノグラフの世界から歩き去ることになる。その『いつか』が今ではないのなら、信明と会うのも、今ではないと思った。

「嘘だぁ」
「嘘じゃない」
 軽井沢の山中の別荘街の中でも特に奥まった一画、雑木林のアーチに覆われた坂道を抜けて見えてきたのは、森の中に佇む大きな屋敷だった。石積みの柱と煉瓦の外壁に、白い木の窓枠。この景色だけ見たら、ここが日本ではないと言われても信じてしまっただろう。
「だってこれ、大抵の一軒家より広い……」
「持て余してるって言ったろ」
 圧倒されている間に、阿形は車のギアを『P』に入れ、サイドブレーキを引いていた。
 慌てて車を降りて、呆然としながらトランクの荷物を取り出し、阿形の後をついて行く。
「あのー、ノブさん? ここ全部掃除したら、一日じゃ足りないと思うんですけど……」
 管理用の札がついた鍵束を鳴らしながら鍵を開けて、阿形は言った。
「ああ。どうせクリーニングが入るから大丈夫だ。持ち帰る荷物の埃だけ払えば──」
 ルカは心の中で大きな安堵のため息をついた。
 よかった。夜通し掃除するプランだと言われたら、心が折れてしまうところだった。 
 三週間ぶりのデートだ。こうして阿形の隣にいるだけで──つんと澄んだ森の空気のなかに立ち上る、彼の香りを嗅いだだけで理性が消し飛びそうなのに、このうえお預けだなんて言われたら、泣き崩れずにいる自信がない。
 阿形がドアを開くと、嗅ぎ慣れない家のにおいがぶつかってきた。緊張に、ほんの少し胃が固くなる。
「ブレーカーあげてくるから、居間に荷物を置いておいてくれるか。突き当たりの部屋だから」
「了解です」
 遠ざかる足音が空っぽの建物に響くのを聞きながら靴を脱ぎ、真新しい来客用スリッパを履いて薄暗い廊下を怖々と歩く。そうして、突き当たりの部屋に足を踏み入れた瞬間、肩に背負っていたダッフルバッグがどさりと床に落ちた。
 吹き抜けのリビングルームは二十畳ほどの広さがあった。だが一番に目に飛び込んできたのはその広さではなく、西向きの一面に設えられた大きな窓だ。広いテラスの向こう、ブナの枯れ枝の透かし模様の向こうに、湖が横たわっている。何とも見事な眺望だ。
「はぁー、すげ……」
 子供の頃から今に至るまで、こうした地所を所有するような生き方とは縁がなかった。不動産の価値のことなどわからないけれど、おそらく一億円くらいはするであろう建物を堂々と歩き回ることが出来る阿形と自分の人生が交わった運命に、改めて畏怖に近い感慨を抱いてしまう。語彙も失われようというものだ。
 ルカはため息をついて、窓際にそっと近づいた。午後二時という時間でも、曇り空のせいですでに夕方のように薄暗い。もしも時間が許すなら、天気のいい日にここからの眺めを見てみたかったけれど……。
 そのとき、背後で明かりが灯った。
「ルカー、電気ついたか?」
「うん、いま──」
 近づいてくる阿形の足音と声に振り返る。そして、今まで死角にあったものに視線が釘付けになった。ルカはまたしても、言葉を失った。
「どうした?」
 居間に入って来た阿形が、怪訝な表情でルカの視線を追いかけ──ルカと同じように固まった。
「うわ、あいつ……!」
 それは、見事に飾り付けされたクリスマスツリーだった。二メートル程の高さのツリーを優しい光が取り巻いて点滅している。色とりどりのオーナメントに混ざって、小さな子供が手作りしたような紙製のサンタクロースが飾られている。ツリーのすぐそばには暖炉があり、あとは火を入れるのを待つばかりと言わんばかりに薪が積まれていた。そして、暖炉の前に敷かれたラグの上にはリボンで結ばれたブランケットが並べられていた。さらにその傍らにシャンパンと、二脚のグラスが置かれている。小さなメッセージカードには子供の字で『Welcome!』と書かれていた。
「ノブさん、これって……」
「信明」阿形は右手で目元を覆い隠していた。「これをやりたくて、俺をここに来させたんだ」
「あは……」
 いくつもの喜びが、シャンパンの泡のように体の中を上昇してゆく。
「たまにこういう粋な真似をするんだよ」阿形はルカを引き寄せてキスをした。「ツリーの下にもプレゼントがあった。夜になったら開けてみるか?」
 嫌な予感しかしないけどな、と言いつつも、阿形の顔は優しかった。
「うん」ルカは頷いた。「じゃ、早く片付け終わらせないと」

               †

 納戸で埃をかぶっていたレコードから埃を払って車に積み込み、何枚かは居間に持ち込むことにした。それから、大事に仕舞われていたポータブルのレコードプレイヤーも。父はよく、これをテラスに持ち出しては、湖畔の風景を眺めながらパイプをくゆらせ、音楽をお供に一人の時間を味わっていた。
 子供の頃にはよく、父が儀式のように恭しい手つきで、レコードをかけるのをわくわくしながら見つめていたものだ。居間に置かれていた大きなオーディオプレイヤーのセットは既に撤去されていたものの、今でも鮮明に、あの魅力的な装置の姿を思い描ける。父は家では滅多にレコードを触らせてくれなかったけれど、この別荘で過ごす間だけは特別に、阿形をその儀式に加えてくれたものだった。
 かつてはこの部屋で多くのひとが賑やかに過ごした。紫煙と酒、そしていつもよりすこし大きな大人たちの笑い声。当時の阿形には会話の内容はさっぱりわからなかったけれど、その輪の中に居ることを許されたあの誇らしさは、不思議と色褪せないまま記憶に残っていた。
 いま、この家は夜の静寂にぽつねんと佇み、かつての面影をかすかにのこすばかりだ。臓腑を抜かれた思い出の場所に、もしも一人で訪れていたなら、やるせない気持ちに押しつぶされそうになっていただろう。
 ルカが居てくれて本当によかった。
 夕食は、麓の店で買いそろえたパンと、ちょっとしたオードブルで既に済ませていた。空腹を満たした後は、二人きりの夜を楽しむための時間だ。埃っぽい納戸で肉体労働をしている間──いや、それよりももっと前、朝アパートから出てきたルカと目が合ってからずっと、彼に触れたくてたまらなかった。
 会えずにいた三週間。仕事に打ち込んでいられない時間には、まるで初恋の熱に浮かされた中学生のように、ルカのことばかりを考えた。彼と笑いあう瞬間のこと。触れ合ったときの温度や、自分を見る眼差しにこもる、隠しようのない熱のことを。
 この歳になって、こんなに誰かにのぼせ上がるとは思わなかった。可笑しいのは、それが嬉しいと思える自分の心だ。
 ルカが風呂場で汗と埃を洗い流している間に、暖炉に火を入れる。弟の罠にまんまと嵌まるのは癪だけれど、ルカは喜んでいたじゃないかと自分に言い聞かせて、シャンパングラスも並べておいた。
 ルカが阿形の家族と会うことに躊躇っているのはわかっていたので、このサプライズがプレッシャーになるかと一瞬気をもんだ。けれど、弟の遠慮のなさはルカの心にわだかまっていたものを、少し溶かしてくれたようだった。多分──いや、間違いなく、信明に感謝すべきなのだろう。きっとホテルのディナーでは、ルカにあんな顔をさせることは出来なかっただろうから。
 プレーヤーの蓋を開けて、古びたレコードをセットし、針を落とす。
 ナット・キング・コールの『Christmas Song』だ。
 優しい弦楽の旋律がスピーカーから流れ出して、空っぽの部屋を祝福された音色で満たしたとき、ルカが戻ってきた。
「お先にいただきました」暖炉の前に立つ阿形を後ろから抱きしめて、ルカが喉を鳴らす。「おれ、この歌大好きなんだ」
 湯上がりの体温が自分の体にしみこんでゆくのがわかる。
「ああ……クリスマスと言えばこれだな」
「昔、何かの雑誌でこの歌のことを書いたでしょ。それから好きになったんだよ」
「そんなことあったかな」
「覚えてないの? 『夏に書かれた歌だからこそ、そこには純粋な憧憬がこもっている』って書いてたんだよ」
 阿形は驚いて、まじまじとルカを見つめた。「良く覚えてるなぁ」
「ふふん」ルカは得意気に微笑み、いくつかの旋律を辿るように呟いた。
 ルカは口づけをした肩にそっと歯を立てて甘噛みしてから、ゆっくりと舌を這わせ、またキスをした。
「お風呂、ノブさんの番ですよ」
 それから、甘えるように鼻先で耳輪じりんをなぞった。
 阿形は抱擁の中でくるりと振り向き、ルカの肌の上に残っていた水滴を舐め取った。鎖骨、首筋、それから耳まで。背伸びをするために捕まった肩が、ぞくりと震えたのがわかった。
「戻ってきたら、プレゼントを開けよう」紅潮した耳もとで囁いて、抱擁から逃れた。「いい子で待ってろよ」
 呆然とした顔のルカを笑い飛ばして、居間を後にする。
 現役のポルノスターを赤面させるのは、なんとも良い気分だった。

               †

昨日の夜からぶっ通しでマンガ読んでるんだナウン・コンシーゴ・パラ・デ・レア・オス・クアドリノス・デジェ・オンテム!』
 画面の向こうから差し込む朝日に照らされて、妹の笑顔が眩しく輝いていた。
ペースを落とさないとヂサセレーリ、ルイサ。誕生日まで次の本は送らないからなナウン・エンヴァレイ・オウトロ・アテ・オ・セウ・アニヴェルサリオ
やだナウン! ルカってば酷すぎるコモ・ヴォセ・ポーデ・フェザ・アキアロ!』
 妹のルイサも、他の弟妹たちも日本の漫画に目がない。向こうで翻訳された漫画を買うことも出来るけれど、日本の物に比べて値段は格段に跳ね上がる。子供たち四人が働きに出ることなく学校に行ける程度の仕送りはしているとは言え、漫画を買い揃えることが出来るほどの余裕は無い。小さな頃を日本で過ごしたおかげで読む分には不自由しない彼らに、古本屋で見つけた全巻セットの漫画を送ってやるのは、季節ごとのイベントの恒例になっていた。もっとも、弟たち二人はもう十八歳と十六歳で、漫画よりは現実の恋愛に夢中だけれど。
学校はエ・ア・エスコラ?」
「んー、悪くないよナウン・エ・タオ・ルイム
そこは「完璧!」って言うところヴォセ・デーヴェ・ディゼ・ペルフェイト・クアンド・ファズ──」
「ルカ?」
 振り向くと、阿形が少し離れたところからこちらを伺っていた。画面に映った知らない顔を見てビデオ通話の最中だったことに気がついたらしい。納得した顔で頷いてからそっと遠ざかったので、ルカも頷き返して電話に向き直る。
誰か居るのテム・アルゲム?』
 目ざとい妹は、画面の外で行われた目配せを見逃さなかった。
居ないよナウン
誰か居るんだテム・アルゲム!』妹は警報装置そっくりの声をあげた。『彼氏ナモラード? 彼氏出来たのヴォセ・テン・ナモラード!?』
「うるさいな……」
 頭を抱える。こうなってしまったら、本人が満足するまで大人しくならないのだ。おしゃぶりを加えさせるまで泣き止まなかった赤ん坊の頃からちっとも変わっていない。
「ルカ」
 阿形の手が肩に触れた。
 振り向くと、阿形は遠慮がちな目でルカとスマートフォンとを見比べた。「挨拶してもいいか?」
「も、もちろん……!」
 思いがけず降ってきた喜び──あるいは緊張の一瞬。いつかは家族に紹介できたら良いと思っていたけれど、それが今夜だとはこれっぽっちも思っていなかった。自分自身、阿形の家族に会うことに尻込みしているから──それに、自分の性的指向を公にしないことを選んだ阿形のことを思えば、彼がこんなにもあっさりとルカの家族の前に姿を現そうとしてくれたことが嬉しい。嬉しいけれど、緊張のあまり胃が捻れそうだ。阿形よりもルカの方がよほど、心の準備が出来ていなかった。
「あー……ルイサ」咳払いをする。「こちらが──」
 手の中の小さな画面には、目を丸くした妹の顔が映っていた。ところが、二人の姿が画面に映った途端、画面はめちゃくちゃに揺れ、ゴトンという音と共に動かなくなった。天井を映したまま固まった映像と対照的な騒々しい足音と、ルイサの『お母さんマーイ!!』という絶叫が聞こえてきた。
 見合わせた阿形の顔に、面白がるような表情が浮かんでいる。
お母さーんマ───────イ! ルーカスの彼氏が出たオー・ナモラード・デ・ルーカス・エスタ・アクィ!!』
 阿形は片眉を上げた。「何て言ってる?」
「えーと……母さんを呼んでる」
 阿形は着慣れたトレーナーとスウェット姿の自分を見下ろした。「こんな格好じゃまずかったかな」
「気にしないよ」
 そうこうしているうちに、再びスマートフォンの画面が揺れて、ルイサと母、それにもう一人の妹のマルガリータが映った。
まぁアー、ルーカス!』母は満面の微笑みを浮かべた。『久しぶりねクアント・テンポ!』
元気にしてたエスタ・トゥード・ベン?」
 元気なのは見ればわかる。けれど、家に飾ってある家族の写真を見慣れているから余計に、母の目尻や首筋に増えた皺に気づかずにはいられない。
みんな元気よエスタモス・ベン
「よかった」
『ルーカス! いいから早く紹介して!』ルイサが画面ごと飛び跳ねた。
 もう一度、ルカは阿形と顔を見合わせて、それからひとつ咳払いをした。「あー、ノブさん。画面の左から、母さんのマリアと、妹のルイサと、末の妹のマルガリータ。弟も二人居るけど、今は出掛けてるって」
 ルカが日本語で阿形に伝えた内容を、ルイサが母に通訳してやっていた。
『アベルとディオゴっていうの!』マルガリータが言った。『帰ってきてからふたりに自慢しようね、ルイサ! ルーカスの彼氏に会ったって!』
「それから、みんな」ルカはほんの一瞬目を閉じた。自分の顔が赤くなっていることに気づかずにいられない。「こちらが、阿形信志さん」
 口々に発せられる「こんにちは」に頷いてから、阿形は言った。
「ええと……お会いできてうれしいですプラーザ・エン・コンヘーセ・ロ
 それから、ルカの方をチラリと見る。たどたどしいながらも、彼の言葉で伝えようとしてくれたことが嬉しかった。ルカは大きく頷いた。
『こちらこそ』ルイサは子供らしからぬ悩ましげなため息をついた。『めっちゃハンサムエレ・エ・ベン・リンド。ねぇお兄ちゃん、どうやって引っ掛けたのコモ・ヴォセ・フェリエルトウ・コム・エレ?』
 母がヒュッと息を吸って、ルイサの背中を叩いた。
『ルイサ! お行儀はどうしたのコンポーチェ・シ!』
 阿形が困惑した顔でルカを見てきたけれど、その視線には気づかない振りをした。通じてないのは好都合だ。
『ね、ルーカスをよろしくお願いしますって、母さんが』ルイサが言った。
「こちらこそ」阿形はルカの肩に手を置いて言った。
「今度、二人で会いに行きますって伝えてくれるか?」
 その手に自分の手を重ねて、頷く。
そのうち、二人で会いに行くよノス・ヴィジテリアモス・ヴォセ・マイス・セド・オウ・マイス・タルデ
まぁ、嬉しいオー・イッソ・エ・オティモ
 母が笑顔を綻ばせると、離れ離れの日々が彼女に刻んだ足跡が、ほんの一瞬消えた。
いつでもいらっしゃいノス・ヴァモス・セレブレロ・ア・コルクエラ・モメントご馳走作ってあげるからねエウ・ヴォウ・ファゼー・ウン・ディーテ・パラ・ヴォセ
 それから、他愛のない会話をひとつふたつ交わして、通話を終えた。見慣れた壁紙のホーム画面が戻ってきた時には、富士山を登って降りた後みたいにくたびれていた。
「はぁ……」
「お前の方が緊張してなかったか」
「だって、家族に恋人を紹介するなんて初めてだし」ルカは唇を尖らせた。「ノブさんは慣れてるみたいだったけど」
「慣れてるわけないだろ、俺も初めてだよ」
 阿形は立ち上がり、リビングルームと一続きになっているダイニングへ歩いて行った。
「お前の家族だからさ。いい人たちに決まってると思って」
「まー、お上手なんだから」
 戻ってきた阿形は笑いながら暖炉の前のラグに腰を下ろして、冷蔵庫から取りだしたシャンパンの栓を抜いた。二人の間に並べたグラスに満ちてゆく金色の液体が、暖炉の火明かりを宿して美しく輝いた。
「もう、誰からの電話にも出ない」ルカはきっぱりと宣言して、スマートフォンを伏せた。
「二人きりの夜に?」
 阿形がグラスを掲げて小さく首をかしげると、濡れた髪が額に零れた。
「最高のクリスマスに」
 そして、二人は乾杯をした。
「それじゃ……プレゼントを開けようか」

               †

 自分の弟には、人を怒らせる才能と同じだけ、人を喜ばせる才能にも恵まれている。だからこそ役者に向いているのだろうが、今日ほどその事を実感したことはなかった。
「うわーっ! これもノブさん!? 嘘でしょ……可愛すぎる!」
「もう閉じろよ」
「やだ!」
 阿形が手を伸ばしてアルバムを奪い取ろうとすると、ルカは素早い身のこなしでさっと遠ざかった。
「見てコレ! 半ズボンはいてる! 膝小僧が見えてる!」
 阿形はため息をついて、あぐらをかいた膝に頬杖をついた。「知ってるよ、本人なんだから」
 信明が──というか、あの家族全員が共犯なのだろうが──ルカに贈ったのは、阿形のアルバムだった。生まれた瞬間の猿みたいな顔写真から始まっている成長記録のようなもので、ルカはページをめくるごとに奇声を上げていた。
 せっかくシャンパンを開けて良い雰囲気になったと思ったのに、これではぶち壊しだ。
「なぁ、ルカ──」
「うわ、これ見て! いい写真!」
「いい写真なんか一枚もない」
 ムスッと言い返した阿形を見て、ルカは駄々っ子をなだめる母親のように肩を抱いた。
「ほら」そう言って、阿形の手がギリギリ届かないところにアルバムを掲げてみせる。「バレー部だったんだ?」
 それは、試合中の阿形を撮った写真だった。
「高校でな」
「いいなぁ……俺も見たかったなぁ」
 自分が高校生だった歳にルカが小学校に入学していたのかどうか、考えると気が滅入りそうなのでやめた。
 高校ではほとんど写真を撮らなかったはずなのに、弟はわざわざ卒業アルバムを引っ張り出してきて、一番見たくも無い個人写真のコピーを貼っていた。死んだ魚のような、その匂いを嗅がされたような、とにかく不機嫌な顔をしている。
「本当に嫌そうだね」ルカは楽しげに笑った。
「写真は大嫌いだ。どうせろくな写り方しない」
「そんなぁ、どれもいい写真だよ」ルカはそう言って微笑み、写真を撫でた。「この頃には、もうわかってた?」
「ああ」
 ルカは悪戯っぽく目を輝かせて阿形に寄り添った。「このアルバムの中に、初恋の相手が居たりして」
「さあな」阿形は鼻をならした。それからルカの肩に頬を預けて、ルカの膝の上のアルバムを眺めた。
「その写真。俺の隣に居るやつ」
「この人?」部活の集合写真の中の一人を、ルカがそっと指先で示した。
 阿形は頷いた。「同級生だった」
 片想いから先に進む勇気など無かった。けれど確かに、胸を焦がす日々はあった。美しくて遠い記憶だ。
「打ち明けようと思った事もあったけど、ぼんやりしてたらそいつに彼女が出来てな」溜息をつく。「あの時は世界の終わりのような気がした」
「ふぅん」ルカは複雑な感情を匂わせる返事をした。
「今じゃ二人の子供の父親だとさ」
「初恋?」
「多分な」
 ルカの顔が、もやもやとした嫉妬に曇る。「へぇ、そうなんだ」
「お前が訊いたんだろ?」口元が綻ぶのを止められない。
「わかってるよ、わかってますけど!」
「初めて気づいたんだけどな、ルカ。お前にやきもち焼かせるのって、結構楽しいよ」
「もう。訊かなきゃよかった」ルカは憤然とした振りで言い、ページをめくった。
 それからは、どこから集めてきたのかもわからない大学時代のサークルでの写真やら、学生映画のスチル写真、信明の結婚式の写真が続いた。
 そして、アルバムのページを半分ほどめくったとき、唐突に、空白のページが現れた。
「あれ? 終わっちゃった」
「ネタ切れだろ」阿形はほっと胸をなで下ろした。
「違うよ。何かカードが──」さらに次のページをめくったルカが、言葉を失った。アルバムに挟まっていた小さな紙切れを拾い上げて、じっと見つめている。
「どうした?」
 肩ごしに覗くと、それはどうやらメッセージカードであるらしかった。弟の字で「残りは一緒に埋めていこう」と書かれていた。
 あ、と思ったときには、ルカはもう鼻をすすっていた。メッセージカードを持ったままの手の甲で、目を拭っている。
「ルカ」両手でルカの頬を包み込んだ。「ルカ、大丈夫か?」
「平気。ただ、嬉しくて……」
「泣くほど?」
 ルカは頷いた。
 彼を泣かせたいと思ったことはない。けれど、悲しい涙でも、嬉しい涙でも、それを拭える距離に居られることが嬉しい。頬を伝う涙に口づけをする。それから目尻に。瞼の上にも。
「うひ」ルカはおかしな笑い声をあげて肩をすくめた。「くすぐったい」
 暖炉に温められた髪に手を差し込んで、そっと梳く。
「お前が嬉しいと思ってくれて、嬉しい」
「俺、恥ずかしい奴だと思われるんじゃないかって思ってた」
 思わぬ告白に、阿形は身を引いた。「恥ずかしい?」
「ほら、仕事が……」口ごもり、俯く。
 そんなことを気にしてたのか、と言いかけたが、やめた。ルカにとってはちっとも『そんなこと』でないのだ。
「大丈夫だ」ルカの頬をそっとなでる。「あいつだって、舞台の上で真っ裸になったこともある。身体一つで人を楽しませるってのがどれほど大変なことか、あいつもわかってるんだよ」
「舞台の上で?」ルカはフフ、と笑った。
「あの時は色々アドバイスを求められた」阿形はルカの手をとった。「もっと早く安心させてやればよかったな」
 ルカはその手を握り、阿形の額に額を合わせた。「いいんだ。もう大丈夫」
「よかった」
 首筋に手を当てて、ほんの少し力を込める。それだけで、ルカは望みを察してくれた。
 彼とのキスは、自分の心を現在いまに繋ぎ止めてくれる。その次の一瞬にこの身に降りかかるのが幸福なのだと信じさせてくれる。彼も、同じように感じてくれたら良いと思う。
「ルカ」
「うん?」
 阿形は、クッションの下に隠しておいた小さな箱を手に取った。
「本当は、シャンパングラスに沈めておいてびっくりさせようかとも思ったけど……そういうやり方は、俺には似合わないから」
 そして、ルカの手をとって開かせ、その上に置いた。
「持っていてくれるだけでいい」
 ルカは自分の手の中にあるものを、ユニコーンの卵か何かを見るような眼差しで見つめた。それから阿形を見て、もう一度小箱を見た。
「開けてみて」
 ルカは震える手で、その箱を開けた。
 二つ並んだ指輪が、暖炉の火明かりを受けて光る。
 多分、ルカは泣くだろうと思っていた。
 ところが、肩をふるわせたルカの顔に浮かんでいたのは笑顔だった。まるで、神経衰弱の最初の一手で見事正しいカードをめくった時のような。
「ノブさん」
 ルカは自分のポケットに手を突っ込み、小さな箱を取り出した。あまりにも見慣れたフォルムに、阿形も笑みを堪えきれなかった。
「嘘だろ」
「ノブさん」ルカはもう一度言った。「開けてみて」
 思った通り、それは指輪だった。もちろん、ペアの。
「同じことを考えてたのか」阿形は笑った。
 ルカはにっこりと微笑んで、阿形の手を取った。「でも、俺は持ってるだけじゃ嫌だ」
 彼は指輪を箱から取り出すと、阿形の左手の薬指にはめた。それから、もう一つの箱に収まっていた分も、同じ指に重ねた。
「外さないで」
 そして、指輪の上に口づけをした。封印のようにしっかりと。
 契約の印にあまりにも似ている指輪と、あからさまな所有欲。ルカの琥珀色の瞳が炎を宿して煌めいた。
「ああ……外さない」
 ルカは満足げに微笑んで阿形の手を離し、それから自分の左手を差し出した。「ね、俺にもはめて!」
「撮影の時には外すことになるってわかってたけど、これ以外に思いつかなくて」
 阿形は言い、まず自分が送った分と、それからルカの分を同じように重ねてつけた。
「嬉しい」ルカは微笑んだ。「嬉しいよ」
 そして、阿形も左手の薬指に口づけをした。
 それはとても密やかで、そして神聖な儀式のような気がした。証文も、祈りも、誓いも口にはされなかったけれど、たったひとつの想いが決して消し去ることは出来ない刻印のように魂に刻まれたのがわかった。
「愛してる」と、そう囁いたのはどちらが先だっただろう。
 重ねた唇と触れ合う舌に、シャンパンの冷たい酒気が残っている。それをかき分け、飲み下して、互いの味を確かめた。
 腰を抱く手に力が籠もり、ルカの望みを露わにする。
「ねえ、いい子にしてたよ。サンタさん」
 首筋に、蝶がとまったみたいな口づけを感じる。くすぐったいのと、他の理由で、阿形は震えた。
「プレゼントはもう開けただろ」
 彼がどう答えるのか、半分わかっていたような気がする。
 ルカは微笑んで、阿形の額にキスをした。「まだ残ってる」

 ルカとセックスするのは、いつでもほんの少しの恐怖を伴う。
 組み敷かれるのが怖いだとか、彼の身体に傷をつけてしまいそうで怖いだとか、そんな理由ではなく、ただどこまでも流されてしまいそうで、それが少しだけ恐ろしい。
「クッション、噛まないで」
 ルカの息が、普段滅多に暴かれないところを撫でる。それから、熱く濡れたものがその場所を撫で、割り込み、蠢いた。阿形はまた、身体を震わせてクッションを噛んだ。
「もう……声、我慢しないでよ」
 方法を覚えてから、数え切れないほどの相手とセックスをしてきた。だがルカとこうしていると、本当に求められるのがどういうものなのかを思い知らされる。今までのセックスは、それ以上でもそれ以下でもなかった。欲求不満を解消するためのスポーツのようなものだった。
 なら、これは? 
「ノブさん」背中に覆い被さって、ルカが言う。「入っていい?」
 頷くと、ルカのものが尻の割れ目に触れた。彼は焦らすようにそれをこすりつけて、今度は阿形の耳元で囁いた。
「駄目。ちゃんと言って」
 指先が背筋を撫で下ろす。触れられたところから肌がざわめき、どうしようもなく敏感になる。
「今度はノブさんがいい子になる番でしょ」
 耳に熱が滲むのと同時に、下半身が期待に疼く。抗えるはずがない。
「挿れて、ほしい」
「ん」
 ルカは喉で笑って、阿形の熱い頬にキスをしてから、腰を揺らめかせた。それは濡れそぼった場所を優しくこじ開け、肉体の抵抗を快感によって屈服させながら、ゆっくりと奥まで入り込んできた。
「あ……あ」
「感じる? ノブさん」ルカの吐息が震えている。「入ってるの、わかる?」
「ああ……わかる」
「熱くて、溶けそう」途方に暮れたような声で、ルカが言った。「動くよ」
「いい、いいから。はやく……」
 気遣うような律動は、あっというまに本能に支配された。肘で身体を支えて、背中から阿形に覆い被さるルカが、抽挿のたびに堪え切れず漏らす小さな声に、脳を直接愛撫されているかのような快感を覚えた。
 脈打つものが身体の内側を擦るたび、火かき棒で掻き混ぜられた炉のように新たな熱がおこる。
「あ、ああ……っ!」
 声を我慢することを、いつやめたのか記憶がない。ルカの指が唇に触れ、遠慮も無しに歯列を撫で、舌をまさぐっていた。
「ル、ルカ」濡れた指を甘噛みする。「ルカ──」
 顔が見たい。
 言葉にならない懇願を聞き取って、ルカは身体を離した。上手く力が入らない阿形を抱き寄せ、抱き上げて、仰向けになった自分の上に導く。
 促されるままに、阿形は腰を落とした。ルカの形を思い出した身体が、何の抵抗もなくそれを受け入れる。
 自ら動かなければ快感を得ることが出来ない体勢がもどかしい。
「は、あ……騎乗位、嫌いなんだよ……」
 受け入れる側のセックスにまだ慣れていないせいで、上手く動くことが出来ないのだ。
「俺は好き」ルカはバターを嘗めた猫のように微笑み、阿形の胸板から腰、そして脚の付け根でたちあがったものへと両手を滑らせていった。「ノブさん……すごく綺麗」
「馬鹿」
 おまえが、それを言うのか?
 暖炉の灯明かりの中で見るルカの姿は、まるで神話の中から抜け出してきたかのようだった。そんな男に崇拝するような眼差しで見つめられ、愛撫されていると思うと、止めるまもなく戦慄してしまう。
「支えてあげるから、気持ちよくなることだけ考えて」
 肌の内側を這うようなルカの声になだめられて、羞恥心が抵抗をやめた。
 腰を抱くルカの手に身を任せて身体を揺らす。やがて、同じリズムが二人の間に生まれると、あとは何かを考える必要はなくなった。同じ呼吸、同じ脈動、同じ感覚を共有し、二つの身体の区別をも失ってしまう。身のうちに零れるほど満ちた快感が繋がった部分からルカに流れ込み、ルカの快感もまた、同じように自分の中に流れ込んできているのがわかった。
 濡れた陰茎を扱き、陰嚢の下の滑らかな肌を撫でるルカの手に、そして、奥の奥まで届くほど深く突き上げてくるものに追い詰められる。
「気持ちいい?」ルカが言い、阿形の頬を撫でた。
「ん……」
 阿形は何も考えずに、その手を引き寄せて指を噛み、舌を纏わり付かせてゆるく吸った。
ああもうカラーリョエロすぎるケ・エクシタンテ……」
 ルカが何かを呟いて、それから阿形の腰を押さえつけ、激しく突き上げた。
「うあ、あ! ルカ……っ」
 内側から沸き起こる熱と、すぐそばで燃えている火の熱に苛まれ、閉じた瞼の内側で、眼球が溶けそうだった。ニューロンが溶解するまで、あとどれくらいだろうか。
 阿形は、瓦解しそうな身体を抱きしめるように腕を回した。それから無意識に、もう一方の手を自分の中をかき回すものに伸ばした。掴めないものを掴もうとして、汗に濡れた腹を引っ掻く。
「あ……気持ち、い、ルカ──」息をすることすら、ままならない。「ルカ……熱い……」
 中のものが大きくなった、と思ったら、ルカに首を掴まれ、引き寄せられていた。
 歯がかち合うほど切羽詰まったキスをして、舌を絡ませる。体ごと突き上げられながら、必死でルカにしがみつく。
 永遠にこうしていたい気持ちと、今すぐ終わりを迎えたい気持ちとがせめぎあう。
「愛してる」と、ルカが言った。
「俺も」同じ言葉で返事をした。「ルーカス、愛してる」
「ああ……」ルカが呻いて、それから阿形の腰をぎゅっと掴んだ。「ノブさん、俺、もう──」
「奥に、ルカ──」言葉が勝手に、こぼれ落ちていた。「中に欲しい……」
「ん……っ!」
 声にならない声を上げて、ルカが阿形を抱きすくめる。同時に強く突き上げられ、自分の身体の深いところで、濡れた熱が滲むのをはっきりと感じた。
「あ……出てる……」譫言うわごとのように口走る。「中で……びくびくしてる……」
「ノブさん、ちょっと抑えて……!」ルカは自分が放ったもので濡れた内部を、未だ萎えないものでさらに突いた。
「あ、ああっ!」
「クソ……おかしくなりそうだ……」狼狽すら感じさせる声でルカが言う。
「あ」阿形はルカの背中に手を回して、懇願するように引っ掻いた。「俺も──俺もいく……ルカ……」
 もう一度、キスに息を奪われる。次の瞬間、阿形はルカに組み敷かれていた。互いの吐息と嬌声と、唾液と呻きを混ぜ合わせるような口づけをしながら、阿形は自分の身体が張り詰めてゆくのを感じた。最後の一瞬、その堤を破るために、全ての快感が一つの場所を目指す。
「あ、あ……っ!」
 そして、心臓が大きく脈打ち、身体の中で渦を巻いていたものが一気に流れ出た。握りしめていた指の間から精液が零れ、心臓が鼓動するたびに止めどなくあふれる。
「は……俺も、また──」
 ルカが息を詰めて自身を引き抜き、阿形の上で数度扱いた。白く濡れたものが、最初の射精に劣らぬ勢いで、もう一度吐精する。熱い滴が腹にかかり、阿形自身の精液と混ざり合った。
 二人して、激しい律動の名残に身体を揺らしながらキスをして、喘鳴に近い呼吸をなんとか整える。腹の上に放たれた精液の青臭い匂いにすら陶然としてしまうのは、あまりにも素晴らしかった行為の余韻のせいだろうか。
「はぁ……」
 ルカが、全力疾走した後のようなため息をついて、阿形の胸に額をつけた。汗みずくの肌が触れ合って、ぬるりと滑る。
「死ぬかと思った」
「そんなに?」けだるい雰囲気に浸りながら、阿形は微笑んだ。
 ルカは阿形の顔を見て目を覆い、苦しげにうめいた。
「駄目だって、そんな顔したら」
「そんな顔?」
「エロい顔」ルカはもう一度ため息をついて隣に寝そべると、目を覆っていた手を伸ばして阿形の頬を撫でた。「俺以外の前でそういう顔しちゃ駄目だからね。絶対駄目」
 阿形は笑った。「しようと思っても出来ない」
「なら、いいけど」
 ふと、視界の隅に白いものがちらついた。リビングルームの大きな窓の向こうで、小さな雪片が音もなく舞い降りていた。
「雪だ」
 阿形の言葉に、ルカも窓を振り向いた。「わぁ」
「どうりで寒いわけだ」また少し、ルカに寄り添った。
「そう? 気づかなかった」ルカはフフ、と笑って阿形を抱きしめた。
 そうして抱き合ったまま、しばらくの間、黙って雪を見つめていた。情熱に火照るからだが徐々に凪ぎ、穏やかな幸福感がブランケットのように二人を包んでいた。
「なぁ」温かい肌を撫でながら、この数ヶ月、ずっと心の中にあったことを口に出してみた。「一緒に住もうか」
「え……」
 触れ合った肌が、驚きにこわばったのがわかった。
「今すぐじゃなくていいんだ。もし、お前の都合がよければ」阿形は言い、ぼんやりと天井を見上げた。「お互いの仕事部屋があって、寝室が一つあって、少し広いリビングがあって──そんな部屋を探し始めてもいいかもしれないと……最近よく、考えてる」
 ルカはしばらくの間、言葉もなく阿形の横顔を見つめていたが、やがてこう言った。
「俺も、もう一人で眠るのはいやだなって思ってたよ。ずっと」
「じゃあ、探すか」
 ルカを見る。琥珀の瞳がキラキラと輝いて、阿形を見つめていた。
「うん……うん! 一緒に探そう」
 その笑顔を見ると、太陽を見上げたときのように、目を細めずにはいられない。
「ああ。そうしよう」 
 そうして二人はキスをした。骨抜きにされてしまうような、それでいて新しいエネルギーを注ぎ込むようなキスだった。
「メリー・クリスマス。信志さん」
「メリー・クリスマス」
 そう言って微笑み、握り合わせた手に、二重の指輪が光っている。
 『あなたは俺のものだ』と証明する美しい枷であり、『あなたのことを愛する』という揺るがぬ契約の証。こうしたものを身につけることで、誇らしい気持ちになるとは思ってもみなかった。
 阿形は、自分の体温と同じ温度に馴染んだ二つの指輪を、そっと撫でた。
 窓の外では、これまでの約束と、これからの約束と、まだこの世に生まれてもいない幾つもの約束の欠片と同じ数だけの雪が音もなく降り積もり、世界を覆い尽くそうとしていた。
 とても幸せな夜だった。そして、おごそかな夜だった。
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