上 下
23 / 26

23

しおりを挟む
 生まれたばかりの太陽が、凪いだ海に光の道を投げかけていた。
 幼い頃、つらく悲しいことをいくつも波の上に載せて、遠い場所へと流した。ルカはあの頃と同じように、寄せては返す温かい波が足を洗うのに任せて、人もまばらな浜辺を歩いた。
 何か目的があったわけじゃない。それでも、今日ここに来なければならないと強く思った。
 阿形信志という男に惹かれ続けた歳月に終止符を打つ。そのために、彼との日々が始まったこの場所に来ることが必要だった。
 波に濡れた砂浜が、太陽の光を受けて鏡のように輝いていた。潮風が髪を梳き、シャツを帆のように膨らませて吹きすぎてゆく。
 もうすぐ、夏が訪れる。
 彼はいま何をしているだろう。そんな風に思いを馳せることが喜びだった。けれどもう、それも許されない。阿形は彼の人生を選び、そこに自分はいないのだ。 
 ふと何かの気配を感じた気がして、目をあげる。波にじゃれつく子供や、散歩中の犬、それからルカのように目的らしい目的もなく海辺をそぞろ歩く人たちの中の、たったひとりに、何故か視線が吸い寄せられた。
 何かを探しているらしく、あたりをきょろきょろと見回しながら歩く人がいる。
 あの人に、似てるなとルカは思った。数か月前なら、どんな人混みの中からでも彼を見つける自信があった。いまじゃ、他人のそら似にまで気をとられる。
 頭を振ってまた歩き出そうとしたとき、その人が、ルカの方を見た。何かの糸に引っ張られたかのように。
 そして、ルカの心臓は止まりそうになった。
 そんな。
 間違いなく、彼はそこにいた。海風の中で息を切らし、眩い朝日に目を細めて、いまにもこちらに向かって駆け出そうとしていた。
嫌だナウン」ルカは呟き、踵を返した。
「ルカ!」
 かつては、その声で名前を呼ばれるたびに、花が開くような幸せを感じた。けれどいま、彼の声はナイフと同じように心を切り裂く。
 嫌だ。もう二度と、拒まれたくない。
 恐怖、あるいは別の何かのせいで早鐘のように打つ心臓を抱えたまま、もと来た道を足早に戻る。追いつかれる前にバイクにたどり着き、走り去ってしまわなければ。
「ルカ……!」
 ルカは追いすがる声を振り払うように頭を振って、さらに歩調を速めた。打ち寄せられた流木や貝殻を裸足で踏みつける痛みよりも、阿形に追いつかれることの方が怖かった。
「ルカ、待ってくれ──頼む」
「嫌だ!」ルカは振り返り、阿形を睨みつけた。「なんでここにいるの?」
「家を尋ねたら、いなかった」阿形は、息を整えてから続けた。「バイクがなかったから、もしかしたらと思って……」
 偶然か、必然か。そんなことは関係ない。
 今さら、居心地の良い場所に戻ろうとしても、もう遅いのだ。
「何しに来たの」ルカは言った。「ディルドを探してるなら、ここにはないよ」
 あけすけな言葉に阿形はたじろいだけれど、目を逸らそうとはしなかった。
「悪かった」そして、一歩踏み出す。「お前を何度も傷つけたこと……許してほしいなんて言えないけど、それでも──」
 身を守るように一歩後ずさると、阿形は心臓を捩られたような表情を浮かべた。
「これだけは……伝えておきたくて」
 ルカは身動きせず、ただじっと阿形を見つめて、言葉を待った。
「お前と一緒にいる時間が、人生で一番幸せだった」震える息をつく。「お前のことを考えているとき……何かに祝福されているような気分だった」
「じゃあ、どうして……」言いかけて、口をつぐむ。
「怖かった」阿形はなおもルカを見つめたまま答えた。「お前と並んで歩くなら、いつかは、全部知られてしまう。周りから受け入れられないことが怖かった。今後一生、自分のしたことに勝手な意味合いを持たせられてしまうことが怖かった。それに、俺がお前に価しない男だと思われるのも。でも、いまは……」
 そのとき、一陣の風が吹き付けて、二人の息を奪った。乱れた髪を掻き上げて阿形を見たとき、ルカは息を呑んだ。
「いまは何より、お前を失うことが怖い」
 阿形の頬を、涙が伝っていた。
「信志さん……」
「悪い」ルカの表情を見て自分の涙に気づいた阿形は、掌で乱暴に、それを拭った。彼は潤んだ短い笑い声をあげて、目頭をぎゅっとつまんだ。「こんな風に縋るつもりはなかったんだ。お前に謝れたら、それで……」
 この人が最後に泣いたのはいつなのだろうと、ルカは不思議に思っていた。阿形は強姦されても、肉親の死期を知ったときにも涙を流さなかった。彼がもし泣くときがあるのなら、自分がその涙を受け止めたいと──そんな想いを抱いていた。
「今朝の新聞、読んだよ」
 あれだけ必死で守ろうとした秘密を、あんな風に堂々と曝け出したことを、賞賛したいのか、叱責したいのか、自分でもよくわからなかった。
「ああ」阿形はほんの一瞬、視線を足元に落とした。「そうか」
「隠し通すつもりなんだと思ってた」
 阿形は小さく頷いた。
「最初はそうするつもりだった。でも……最後まで嘘をつくのは嫌だったんだ。お前に、読んでほしかったから」阿形は短く息を吐き出して、濡れた瞳でルカを見た。「手紙のつもりだった」
 言葉では言い表せない想いが、出口を求めて身のうちで荒れ狂っている。それは名前をつけることもできないほど混沌として、生々しい感情だった。
「もう……」これ以上は、抗えないと思った。「もう。勝手すぎる……」
「ごめん」阿形が言い、一歩、前に踏み出す。
 ルカは後ずさらなかった。
 彼の指が、躊躇ためらいがちに腕に触れる。それから、存在を確かめようとするように、ぎゅっと握った。
「ルカ」阿形は、ルカの瞳をまっすぐに見つめた。「愛してる」
 その言葉。
 待ち焦がれていた言葉が、矢のようにルカの心臓を貫いて、息ができなくなる。
「信志、さん」涙が溢れて、頬を伝った。「信志さん……」
 阿形は少し困ったような顔で微笑んで、そっと、ルカの頬を拭った。小さな声で何度も「ごめんな」と囁きながら。
「俺はわがままだよ」ルカは言った。「独占欲が強いから、男にも女にも嫉妬するからね」
「いいよ」
「それに、本当は外でも構わずいちゃいちゃしたい」
「うん」
「手を繋いで歩きたい。二人で色んなところに行きたい」
「ああ、そうしよう」
「もう変装しないよ。サングラスもかけない。それでもいいの?」
「要らない」阿形は微笑んで、前髪をそっと掻き分けた。「お前の瞳が見えなくなるから」
 ルカは、わなわなと震える唇で泣きながら笑った。
「どうしよう……涙が止まらない」
「止めなくていい」とても優しい声で、彼は言った。「全部、俺が拭うよ。許してくれるなら」
 二人の視線が結ばれて、引き寄せ合う。唇の熱を感じるほど近く、発する言葉を味わえるほど近い。
「愛してる」阿形は、もう一度言った。「俺を、許してくれるか?」
 ルカは目を閉じて、頷いた。大粒の涙が零れて、頬を包み込む阿形の手の中に吸い込まれてゆく。
「もう、離れたくない」ルカは言った。
「ああ」阿形は言った。「ずっと一緒にいよう」
 温かい息が、唇に触れる。ルカの理性の欠片が、最後の警鐘を鳴らした。
「あ……人が──」
 重ねた唇から、ルカは阿形が微笑んだことを知った。
「もう、いいんだ」
 そして、二人はキスをした。
 その瞬間、骨も肉も内臓も、すべてが溶けてしまったような気がした。身体の中に滞っていた澱みが洗い流され、空っぽになる。それから、待ち焦がれた温もりに触れ、触れられるたびに、思いも寄らなかったものに満たされてゆくのを感じた。それは朝日のように透明で、それでいて、きらきらと輝く何かだった。しがみつき、引き寄せ合い、身体ごと一つに──それが無理なら、魂で一つになろうとする。二人が交わしたのは、そんな口づけだった。
 いま、これまでに感じた欠乏も、喪失も哀しみも、すべてが報われたと、ルカは思った。すべては、この瞬間に導かれるために存在していたのだと。
 唇が離れ、互いの瞳を覗きこむ。まるで生まれ変わったような――昨日までの自分より、もっと良い存在になったような気がした。
「ずっと一緒?」ルカは言った。
「ずっと一緒だ」阿形は頷いて、ルカの手を握った。「愛してる、ルカ」
 その言葉が、何度でも魂を震わせる。
「きっと、もうずっと前から……俺はお前のことを愛してたんだ」
 夏を運ぶ風に吹かれて、さざめく波も、砂浜も、すべてが金色に輝いていた。
 時が止まれば良いと思ったことは数知れずある。けれど、時がとまらなければ良いと、そのとき初めて、ルカは思った。
 この人の隣で、喜びも哀しみも、共に感じていきたいから。
 それがどんなに苦難に満ちたものでも構わない。この人と歩く未来が見たいと、そう思うから。
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

45歳のおっさん、異世界召喚に巻き込まれる

よっしぃ
ファンタジー
2月26日から29日現在まで4日間、アルファポリスのファンタジー部門1位達成!感謝です! 小説家になろうでも10位獲得しました! そして、カクヨムでもランクイン中です! ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● スキルを強奪する為に異世界召喚を実行した欲望まみれの権力者から逃げるおっさん。 いつものように電車通勤をしていたわけだが、気が付けばまさかの異世界召喚に巻き込まれる。 欲望者から逃げ切って反撃をするか、隠れて地味に暮らすか・・・・ ●●●●●●●●●●●●●●● 小説家になろうで執筆中の作品です。 アルファポリス、、カクヨムでも公開中です。 現在見直し作業中です。 変換ミス、打ちミス等が多い作品です。申し訳ありません。

いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜

きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員 Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。 そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。 初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。 甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。 第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。 ※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり) ※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り 初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

目が覚めたら、カノジョの兄に迫られていた件

水野七緒
BL
ワケあってクラスメイトの女子と交際中の青野 行春(あおの ゆきはる)。そんな彼が、ある日あわや貞操の危機に。彼を襲ったのは星井夏樹(ほしい なつき)──まさかの、交際中のカノジョの「お兄さん」。だが、どうも様子がおかしくて── ※「目が覚めたら、妹の彼氏とつきあうことになっていた件」の続編(サイドストーリー)です。 ※前作を読まなくてもわかるように執筆するつもりですが、前作も読んでいただけると有り難いです。 ※エンドは1種類の予定ですが、2種類になるかもしれません。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

江路学園へようこそ!

こうはらみしろ
BL
父親からの命令で、金持ち私立の江路学園に編入することとなったリバで快楽主義者の主人公・みつ。 気に入った子を食べたり、食べられたり好き勝手な楽しい学園生活がはじまるかと思いきや、生徒会と関わったことによって波乱万丈な学園生活をおくることになり――

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

MAN OF THE FULL BLOOM

亜衣藍
BL
芸能事務所の社長をしている『御堂聖』は、同業者で友人の男『城嶋晁生』の誘いに乗り『クイーン・ダイアモンド』という豪華客船に乗り込むのだが。そこでは何やらよからぬ雰囲気が…?

処理中です...