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また空耳だろうと思った。だが、背後から近づいてくる革靴の足音があまりにも懐かしかったから、ルカはヘルメットをかぶる手を止めて、しばらくの間、そのリズムがよびおこす記憶に身を委ねた。
「ルカ」
名前を呼ばれて、思わずヘルメットを取り落としそうになる。
まさか。会いに来てくれるとは思わなかった。いや、ひょっとしたら、心のどこかで期待していたかもしれない。だがとにかく、覚悟をしていなかった。
振り向いて彼の顔を見たら、どうなるだろう? 心の傷はようやく塞がりかけたところだ。今度その傷口が開いたら、今度は生き延びられる自信がない。
それでも、ルカは振り向いた。
喪服に身を包んだ阿形が、ルカを見つめていた。右手にはへしゃげた香典袋が握られている。こんなところまで何をしに来たのかと叱責されることを覚悟して、ルカはぐっと歯を食いしばった。
「ルカ」だが、阿形の声は小さく頼りなかった。「あの……これ、わざわざありがとう」
拍子抜け、というのは少し意地の悪い言い方だと思う。それでも、身構えていたルカは安堵というよりも、むしろ困惑した。
「うん」
「忙しいのに、悪かったな」
憔悴し、肩を落とした阿形が、それでも優しさを忘れないことに胸が締め付けられる。もし許されたなら、この場で彼を抱きしめて、小さな子供にするようにいつまでも背中をさすってあげられるのに。
何と言えばいいだろう?『大丈夫?』なんて尋ねるのは無意味だ。大丈夫なはずはない。いまにも頽れそうな人に『頑張って』などと言いたいわけでもない。『元気だった?』も論外だ。
肉親を失ったばかりの人にかけるべき言葉などないことは、よく知っているつもりだ。それでも、ルカは言った。
「あの……このたびは、ご愁傷さまです」
「ああ」小さく肩を竦める。「ありがとう」
気詰まりな沈黙のあとで、阿形が言った。
「ルカ」ルカに向かって伸ばしかけた手をぎゅっと握って、腿の脇に降ろす。「気をつけて帰れよ」
「うん」ルカは言った。
けれど二人とも、その場から動こうとはしなかった。
「ノブさん。何か、俺にできることがある?」
阿形は顔をあげた。それからまたすぐに視線を逸らして俯いた。
目が合った一瞬のうちに、胸の内で荒れ狂う感情を──言葉にできない願望を垣間見た気がする。けれど、彼はそれを口に出しはしないだろう。ルカがどれだけ望んでも。
ところが、その日、阿形はこう言った。
「ルカ」阿形の手が、ルカの腕に触れた。「俺を、連れ出してくれ」
目をしばたいて、阿形を見る。
「どこに……?」
「どこでもいい」絞り出すように、阿形は言った。「誰にも見つからないところなら」
ホテルの部屋のドアが閉まった瞬間、阿形に顔を引き寄せられた。
あまりに何度も夢に見た唇の感触に、最後に残っていた躊躇も、溶けて消えた。
噛みつくようなキスをしながら、首に手をかけ、ドアに押しつける。歯と歯がぶつかろうが、呼吸を忘れようが、そんなことはどうでも良かった。阿形はルカのライダースジャケットの前を開けて、喪服のベルトを外しにかかった。
「準備は──ん……」
キスの合間になんとか口にした問いも、また塞がれる。阿形は、餓えたひとのようにルカの唇を食んで、髪を掴み、さらに引き寄せた。
「昨日から、何も食ってない」
血液が、騒めきながら身体の中心に集まってゆく。じんと痺れる耳にねじ込むように、阿形が囁いた。
「いいから、抱いてくれ」
それは、とても空虚なセックスだった。
肌に触れ、味わい、身体の輪郭をなぞり、引き寄せて、埋め込み、曝け出す。唸り、噛みつき、引っ掻く。痛みを与えることにも、与えられることにも無自覚なまま、このどうしようもない欠乏を埋めるための何か──自分でもわかっていない何かをただ貪ろうとする、獣のようなセックスだった。
唾液で濡らしただけのもので、後ろから、阿形を何度も貫いた。泣き声とも嬌声ともつかない声をあげて、彼は必死でルカに手を伸ばした。ルカは鉄製の冷たいドアに阿形を磔にして、呻きながら達した。
それから、彼をベッドに運んだあとで、もう一度抱いた。
どこか遠い、楽園に似た浜辺で、波が小舟を揺らすように優しく。空想の怪物に怯える子供をあやすように、新緑の梢を撫でてゆく五月の風のように優しく。自分の魂に能う限りの労わりを込めて、彼を抱いた。
阿形はすすり泣くように喘ぎ、震えながら、とても静かに絶頂を迎えた。
力なく横たわる彼を腕に抱いて、ルカはもう一度、その姿を眺めた。
酷くやつれ、疲れ果てた顔。顔にかかる前髪を掻き分けてやると、眉間に刻まれた皺と、少し落ち窪んだ眼が露わになる。五年前に抱かれて以来、自分の心をずっと支配し続けた男の面影は、懊悩に洗われてすっかりくたびれてしまっていた。
それでも、彼を置いて他にはいない──これほどまでに美しい生き物は。
魂の半分を、この男に捧げた。もう二度と、取り戻せなくても構わない。
「愛してる」
阿形は目を開けて、ルカを見た。
「愛してる」ルカはもう一度告げた。縋るのではなく、押しつけるのでもなく、ただ淡々と、事実を述べるように。
最初に阿形の顔に浮かんだのは、驚きだった。それから、彼の心情はルカには読み取れない複雑な変遷を描き、不信、拒絶、あるいはその両方が混ざり合った色へと変わった。
阿形は首を振った。「違う」
「違う?」
彼はルカの腕の中から抜け出して、ベッドを降りた。
「違うって、なに」ルカは言った。
阿形は答えずに、脱ぎ散らかした服を集め、一つずつ身につけてゆく。まるで、それが鎧であるかのように。皺になったジャケットを羽織ると、彼は足元に向かって呟いた。
「そんな気持ちは……お前の勘違いだ」
頭に血が上る。
「自分には、いくらでも嘘をつけばいい」ルカは言った。「それでも、あなたに俺の気持ちを否定する権利はない!」
阿形は弾かれたようにルカを見た。それから、また顔を逸らして、吐き捨てるように言った。
「勝手にしろ」
「どうして、俺を選んだの」
ルカは、部屋を出て行こうとする阿形を追いかけた。ドアを手で押さえて詰め寄り、深く底知れない色の瞳を覗きこむ。
「辛いことを忘れたいだけなら、誰でも良かったはずだろ。社長でも、芝浦でも、他の男でも。でも、あなたは俺を追いかけてきた。俺の手を掴んで、俺に『抱いてくれ』って言った」心臓が暴れて、息が苦しい。「愛じゃないなら、ノブさん──これはなんなの?」
阿形は、何も言わなかった。
沈黙が血のように流れ出して、あたりを満たした。ほんの少し前までこの部屋を満たしていた昂ぶりや、淡い期待や欲望が、その血だまりの中で、ゆっくりと死んでゆくのを感じた。ルカは、ドアを押さえていた手を放して、後ずさった。
阿形は何も言わずに部屋を出て行った。振り返ることも、躊躇うこともなかった。
そしてルカは、今度こそ、すべてが終わったことを知った。
「ルカ」
名前を呼ばれて、思わずヘルメットを取り落としそうになる。
まさか。会いに来てくれるとは思わなかった。いや、ひょっとしたら、心のどこかで期待していたかもしれない。だがとにかく、覚悟をしていなかった。
振り向いて彼の顔を見たら、どうなるだろう? 心の傷はようやく塞がりかけたところだ。今度その傷口が開いたら、今度は生き延びられる自信がない。
それでも、ルカは振り向いた。
喪服に身を包んだ阿形が、ルカを見つめていた。右手にはへしゃげた香典袋が握られている。こんなところまで何をしに来たのかと叱責されることを覚悟して、ルカはぐっと歯を食いしばった。
「ルカ」だが、阿形の声は小さく頼りなかった。「あの……これ、わざわざありがとう」
拍子抜け、というのは少し意地の悪い言い方だと思う。それでも、身構えていたルカは安堵というよりも、むしろ困惑した。
「うん」
「忙しいのに、悪かったな」
憔悴し、肩を落とした阿形が、それでも優しさを忘れないことに胸が締め付けられる。もし許されたなら、この場で彼を抱きしめて、小さな子供にするようにいつまでも背中をさすってあげられるのに。
何と言えばいいだろう?『大丈夫?』なんて尋ねるのは無意味だ。大丈夫なはずはない。いまにも頽れそうな人に『頑張って』などと言いたいわけでもない。『元気だった?』も論外だ。
肉親を失ったばかりの人にかけるべき言葉などないことは、よく知っているつもりだ。それでも、ルカは言った。
「あの……このたびは、ご愁傷さまです」
「ああ」小さく肩を竦める。「ありがとう」
気詰まりな沈黙のあとで、阿形が言った。
「ルカ」ルカに向かって伸ばしかけた手をぎゅっと握って、腿の脇に降ろす。「気をつけて帰れよ」
「うん」ルカは言った。
けれど二人とも、その場から動こうとはしなかった。
「ノブさん。何か、俺にできることがある?」
阿形は顔をあげた。それからまたすぐに視線を逸らして俯いた。
目が合った一瞬のうちに、胸の内で荒れ狂う感情を──言葉にできない願望を垣間見た気がする。けれど、彼はそれを口に出しはしないだろう。ルカがどれだけ望んでも。
ところが、その日、阿形はこう言った。
「ルカ」阿形の手が、ルカの腕に触れた。「俺を、連れ出してくれ」
目をしばたいて、阿形を見る。
「どこに……?」
「どこでもいい」絞り出すように、阿形は言った。「誰にも見つからないところなら」
ホテルの部屋のドアが閉まった瞬間、阿形に顔を引き寄せられた。
あまりに何度も夢に見た唇の感触に、最後に残っていた躊躇も、溶けて消えた。
噛みつくようなキスをしながら、首に手をかけ、ドアに押しつける。歯と歯がぶつかろうが、呼吸を忘れようが、そんなことはどうでも良かった。阿形はルカのライダースジャケットの前を開けて、喪服のベルトを外しにかかった。
「準備は──ん……」
キスの合間になんとか口にした問いも、また塞がれる。阿形は、餓えたひとのようにルカの唇を食んで、髪を掴み、さらに引き寄せた。
「昨日から、何も食ってない」
血液が、騒めきながら身体の中心に集まってゆく。じんと痺れる耳にねじ込むように、阿形が囁いた。
「いいから、抱いてくれ」
それは、とても空虚なセックスだった。
肌に触れ、味わい、身体の輪郭をなぞり、引き寄せて、埋め込み、曝け出す。唸り、噛みつき、引っ掻く。痛みを与えることにも、与えられることにも無自覚なまま、このどうしようもない欠乏を埋めるための何か──自分でもわかっていない何かをただ貪ろうとする、獣のようなセックスだった。
唾液で濡らしただけのもので、後ろから、阿形を何度も貫いた。泣き声とも嬌声ともつかない声をあげて、彼は必死でルカに手を伸ばした。ルカは鉄製の冷たいドアに阿形を磔にして、呻きながら達した。
それから、彼をベッドに運んだあとで、もう一度抱いた。
どこか遠い、楽園に似た浜辺で、波が小舟を揺らすように優しく。空想の怪物に怯える子供をあやすように、新緑の梢を撫でてゆく五月の風のように優しく。自分の魂に能う限りの労わりを込めて、彼を抱いた。
阿形はすすり泣くように喘ぎ、震えながら、とても静かに絶頂を迎えた。
力なく横たわる彼を腕に抱いて、ルカはもう一度、その姿を眺めた。
酷くやつれ、疲れ果てた顔。顔にかかる前髪を掻き分けてやると、眉間に刻まれた皺と、少し落ち窪んだ眼が露わになる。五年前に抱かれて以来、自分の心をずっと支配し続けた男の面影は、懊悩に洗われてすっかりくたびれてしまっていた。
それでも、彼を置いて他にはいない──これほどまでに美しい生き物は。
魂の半分を、この男に捧げた。もう二度と、取り戻せなくても構わない。
「愛してる」
阿形は目を開けて、ルカを見た。
「愛してる」ルカはもう一度告げた。縋るのではなく、押しつけるのでもなく、ただ淡々と、事実を述べるように。
最初に阿形の顔に浮かんだのは、驚きだった。それから、彼の心情はルカには読み取れない複雑な変遷を描き、不信、拒絶、あるいはその両方が混ざり合った色へと変わった。
阿形は首を振った。「違う」
「違う?」
彼はルカの腕の中から抜け出して、ベッドを降りた。
「違うって、なに」ルカは言った。
阿形は答えずに、脱ぎ散らかした服を集め、一つずつ身につけてゆく。まるで、それが鎧であるかのように。皺になったジャケットを羽織ると、彼は足元に向かって呟いた。
「そんな気持ちは……お前の勘違いだ」
頭に血が上る。
「自分には、いくらでも嘘をつけばいい」ルカは言った。「それでも、あなたに俺の気持ちを否定する権利はない!」
阿形は弾かれたようにルカを見た。それから、また顔を逸らして、吐き捨てるように言った。
「勝手にしろ」
「どうして、俺を選んだの」
ルカは、部屋を出て行こうとする阿形を追いかけた。ドアを手で押さえて詰め寄り、深く底知れない色の瞳を覗きこむ。
「辛いことを忘れたいだけなら、誰でも良かったはずだろ。社長でも、芝浦でも、他の男でも。でも、あなたは俺を追いかけてきた。俺の手を掴んで、俺に『抱いてくれ』って言った」心臓が暴れて、息が苦しい。「愛じゃないなら、ノブさん──これはなんなの?」
阿形は、何も言わなかった。
沈黙が血のように流れ出して、あたりを満たした。ほんの少し前までこの部屋を満たしていた昂ぶりや、淡い期待や欲望が、その血だまりの中で、ゆっくりと死んでゆくのを感じた。ルカは、ドアを押さえていた手を放して、後ずさった。
阿形は何も言わずに部屋を出て行った。振り返ることも、躊躇うこともなかった。
そしてルカは、今度こそ、すべてが終わったことを知った。
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