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 夜の十時すぎに、呼び鈴が鳴った。
 電子の鐘の音に飛び上がって、玄関に駆けつけ、待ち人の姿を期待して覗き穴に目を近づけることにも飽きてしまった。インターホンの通話ボタンを押す手間を省いて、玄関から直接呼びかける。
「はい?」
「俺」
 ルカはため息をついた。わかっていたことだろと自分に言い聞かせつつ。
 雄司のためにチェーンを外し、ドアを開ける。「八時に来るって言わなかった?」
「わりい。撮影が押した」勝手知ったる他人の家と言わんばかりに、雄司は遠慮なく玄関に上がり込んだ。彼は、ゴミと洗濯物が散乱した室内を見回してから改めてルカの顔を見て、言葉を飲み込んだ。
 彼が何を考えているのか、なんとなくわかった。だが、小言は稜介からたっぷり聞かされていたから、何か余計なことを言われないうちに、顔を背けた。
 その仕草に気づいたのか、雄司も深く追求してこなかった。
「データはできてんの?」
「うん。あとはMAの仕事だけ」
 MAはマルチ・オーディオの略で、映像に付随する音のすべてに関わるポストだ。ルカが趣味で動画制作を始めた当初から、MAは雄司が担当していた。
 二人はパソコンの前に座り、完成直前の映像を見た。編集からCG、色調整まで完了していて、あとは文字通り、音を入れるだけだ。
「うん。良いな」最後まで見終わると、雄司は言った。「ぶっちゃけ、お前がやりきるとは思ってなかったわ。あんなことのあとだし」
 滅多に他人を誉めない彼の、これは最上の評価と言っても良かった。
「仕事は仕事だよ」ルカは言った。
「まあな」雄司は小さく頷いた。「じゃ、ここからは俺の仕事だな」
「よろしく」ルカは言い、MA用のデータの入ったUSBを手渡した。「社長にも見てもらうから、できあがったらチェックさせて」
「おう」雄司は、USBをジャケットの内ポケットに仕舞った。「ナレーションを被せるって話は、結局なしにしたのか?」
 ルカは頷きながら、机の戸棚の奥にしまい込んだ手書きの脚本のことを考えた。
 あのひとと二人で作りあげたシナリオは、きっと沢山の人の心に届くはずだった。だが、もう、彼の言葉に頼ることはできない。
「音楽だけでいい」
 ルカはそう言うとパソコンをシャットダウンして、吸い殻が満載された灰皿を持ってベッドに座り、煙草に火をつけた。
「煙草、やめたんじゃなかったのかよ」
「やめたんだよ」ルカは言い、最初の煙を勢いよく吐き出した。
 二か月前、ルカと阿形のことを知っていた近しい友人たちは、ルカを慰めようと飲み会を開いてくれた。だが結局、泥酔したルカが他の客と喧嘩沙汰を起こしそうになるという結果に終わった。それ以来、事情を知る者も、それ以外の人間も、ルカにはどこか腫れ物に触れるような接し方をしていた。いまも雄司は黙ったまま、ルカがものすごい勢いで煙草を灰に変えてゆくのを心配そうに眺めていたが、やがて諦めたように顔を背け、立ち上がった。
「じゃ、帰るわ」
「ん」
 ベッドの上から動こうとしないルカを、雄司は一度振り向いた。
「あのさ、社長が心配してたぞ」
 煙草の煙が肺から毛細血管まで染みわたるかと思うほど深く息を吸い込んでから、ルカは雄司を見返した。煙を吐きながら、ニコチンに痺れた舌で言う。
「仕事は、ちゃんとしてる」
「そういうことじゃ──まあいいや」雄司は首を振った。「自棄になるなら、死なない程度にしとけよ」
 五年来の友人はそう言い置いて、部屋を出て行った。
 再びの孤独。
 夜の間に没頭するべき仕事を失ってしまったいま、孤独と静寂とが、酸のようにルカの肌を焼いていた。フィルターの際まで吸った煙草を灰皿に押しつけて、パックから最後の一本を取り出して、火をつけた。
 最初に、否認があった。混乱と、「これで終わりのはずはない」という問いかけの日々。だが、連絡をとることだけはできなかった。次に会話をするときが最後になる、そんな予感が『送信』ボタンと指の間に、何度でも立ちふさがった。
 それから、怒り。あまりに頑なで、人間不信で、臆病な彼に対する怒りがやってきた。自分の心に立ち入らせるつもりがなかったのなら、どうしてあんなに優しくしたのか。彼はルカの願いを聞き入れ、大事な瞬間を分け合い、過去を打ち明けてくれさえした。けれど、一緒に生きていくつもりがなかったのなら、あんな声で話しかけたり、あんな風に微笑みかけたりしてくれなければ良かったのに。
 そして、彼に対して抱いているのと同じくらい強い、手を放した自分自身への怒りがあった。みっともなく泣いて頭を下げてでも、彼に縋るべきだった、と。
 だが、孤独の中で眠りにつくいくつもの夜、絶望の中で目覚めるいくつもの朝を迎えても、自分が間違っていたと思うことだけはできなかった。
 そしていま、二人は終わってしまったのだという事実が、悲しい諦めと共に心に染み込み始めていた。ここのところ、仕事をしても、街に出ても、すべてに青いフィルターがかかっているように見える。目の前でどんなに愉快な光景が繰り広げられていても、それには決して手が届かないと心のどこかで理解していた。まるで水槽の中に閉じ込められた金魚になってしまったみたいな気がした。
 初めて彼を抱いたとき、大事な何かが失われたような、いい知れない喪失感があった。多分あのとき、魂の半分を阿形に渡したのだと、ルカは思う。
 そしてこれからは、あまりに大きな欠乏を抱えたまま生きる。眠り、目覚め、仕事をして、眠る。そうして、与えられた役を演じていれば、いつかは幕が下りるのだ。それが、いまのルカに与えられた唯一の救いだった。
 いつの間に眠っていたのだろう。明け方、酷くエロティックな悪夢で目が覚めた。

 全身汗にまみれ、不快感に吐き気がした。だが、生々しい肌触りと体温の感触が消えないうちに──理性に追いつかれてしまう前に、ルカは火がついたように自身を扱き、あっという間に果てた。
 夢の中で、ルカは阿形を抱いていた。血が出るほど荒々しく、野蛮な方法で。彼は泣きそうな声で、しきりに何かを懇願していた。内容は思い出せないが、その懇願を踏みにじることに悦びを覚えた。
「クソ……」
 最低だ。
 ルカは頭を抱えて、ベッドの上で蹲った。下着の中に放ったものが徐々に冷えてゆくほどに、虚しさで押しつぶされそうになる。憂鬱を払いのけるように布団を剥いで、シャワールームに向かった。肌にへばりつく夢の残滓を洗い流すために、火傷しそうなほど熱いシャワーを頭から浴びた。
最低だメルダ……」
 狭い浴室に蹲り、頭が空っぽになるまでそうしていた。身体を流れ落ちてゆくシャワーが、手の感触や、汗の湿り気、舌の上に残る彼の味、鼓膜に染みついた声の響きを掻き消してくれることを期待していた。けれど心のどこかで、無理だろうとわかっていた。
 少なくとも、いましばらくは。
 身体を拭いて、ベッドに戻ろうか考えながら居間を横切ると、カーテンはすでにうっすらと光を孕んでいた。眠るのを諦めてソファに腰を降ろし、何とはなしにテレビをつけると、ニュース番組が映った。近頃起こった事件の続報を聞きながら、今日のスケジュールを確認しようとスマートフォンを操作していると、アナウンサーが急に、声の調子を変えた。
『今朝は、悲しいニュースをお伝えしなければなりません』
 ルカはスマートフォンを注視していて、賑やかしのためにつけただけのテレビには何の注意も払っていなかった。そのときまでは。
『昭和が生んだ最後の名優と言われた中江令二郎さんが、昨夜十一時頃、都内の病院で息を引き取りました。膵臓癌でした』
 その瞬間、弾かれたように顔をあげた。「えっ!?」
 トーンを抑えたナレーションに導かれるように、画面は中江が入院していた病院や、彼の自宅を映しながら次々と切り替わっていった。
『中江さんは、昭和二十三年に静岡県に生まれ──』
 彼の人生を振り返る短いVTRの中で、代表作の一部が紹介された。それから、最初の結婚と死別、愛人との再婚について触れられ、三男の信彦を交通事故で喪ったときの葬儀の様子が映し出された。記者たちの前で弔辞を述べる中江の奥で、位牌を手にして立つ阿形の姿が、ほんの一瞬だけ映った。
 そのすべてを、ルカは食い入るように見つめていた。
『中江令二郎さんの通夜は本日十九時より都内で行われます。会場の外に設けられた献花台には、早くも訃報に悲しむ多くのファンが訪れ、花を手向けています』
 ルカは手の中のスマートフォンを握りしめ、何も考えずにメッセージを立ち上げた。

                †

 ポケットの中のスマートフォンが震えたとき、阿形はそれが、葬儀のコーディネーターからの連絡だと思った。だから、ロック中の画面に表示された名前と、短いメッセージのプレビューを見たときに自分を襲う感情に対しての準備が、全くできていなかった。

『差出人:ルカ
 メッセージ:あなたの傍にいたい』

 阿形はスマートフォンを握りしめて、ほんの一瞬目を閉じた。
 その一瞬だけ、彼は葬儀場の遺族控え室にいる自分を忘れた。その一瞬だけ、阿形はルカの抱擁の中にいて、ただその体温のことだけを考えていたあのときに戻っていた。
 新たなメッセージに、端末が震える。

『差出人:ルカ
 メッセージ:行ってもいい?』

 無意識に、ため息が漏れる。
 まず、自分を気にかけてくれたことへの感謝があった。それから、彼の中にまだ自分がいるということに、みっともないほど安堵した。そして、もう一度彼を手放さなくてはならないことへの、限りなく悲しみに近い怒り。
 阿形は額に手を置いて、もう一度深いため息をついて、こう返信した。
『来なくていい』
「兄貴?」
 顔をあげると、弟が心配そうに阿形を見ていた。
「大丈夫か?」
 信明の隣に座っていた妻の由貴が言った。
「少し横になられたらどうですか? お隣の部屋に、お布団を用意してもらってますから……」
 礼を言い、当たり障りのない言葉で断ろうとした阿形の背中に、重いものが覆い被さった。
「おじちゃん、寝るの?」
「茉莉っ! やめなさい!」
 由貴の顔から血の気が引く。彼女の中には、家族と疎遠の義理の兄に対する恐れがあるのだ。ごくたまに実家に戻るたびに父と繰り広げていた諍いを目にしているのだから、無理もないことだと思う。
「やだ!」茉莉は言い、阿形の背中にしがみついたまま足をばたつかせた。
 身内が集まるこの部屋の中では、お悔やみと、いくつもの思い出話と近況報告が飛び交うばかりで、小さな子供には退屈極まりない場所であるに違いない。
「どうしようかな」六歳の女の子を背中に背負ったまま、阿形は机に突っ伏した。「俺が寝たら、茉莉はどうする?」
「えー……そしたら、おじちゃんと一緒に寝る!」
「茉莉……!」
 立ち上がりかけた由貴に、阿形は大丈夫だからと頷いて見せた。二年前の法事で会って以来、この小さな姪の中では、阿形は寝る前に面白いお話をしてくれるおじさんという位置づけなのだ。
 だが、親戚が一堂に会したこの異常事態に、一張羅を着せられた女の子が大人しく昼寝などできるはずがない。こういう席で年寄り連中はここぞとばかりに子供を甘やかすし、それは阿形にとっても同じことだった。舞い上がった子供はゴム毬のように飛び跳ね続ける。だが、それが葬式における子供の役割なのだろう。悲しみにふさぎ込む空気を和ませることが。
「おじちゃん、誰とメールしてたの?」
 肩越しに画面を覗きこまれそうになって、阿形は慌ててスマートフォンをポケットに仕舞った。「誰でもないよ」
「ほら、茉莉」信明が娘を抱き上げて、自分の膝に乗せた。「遠慮しないで休んで来いよ、兄貴」
「いや、いいって」阿形は言った。「それより、喪主を代わってくれた方が有り難い」
「馬鹿言うな」信明は一蹴した。
 阿形はため息をついた。
 喪主を誰にするかという話になったときに、消沈しきった義母に喪主の重責を背負わせる考えはなかった。そうすると、自分か弟のどちらかだろうということになる。阿形は、俳優として活躍する信明に任せるつもりでいた。だが、当の信明は頑として首を縦に振らなかった。
「長男が喪主を務めないなんて、この家には確執がありますと言ってるようなもんだろ」
 結局、彼の言い分がもっともなだけに、受け入れざるを得なかった。とはいえ、確執は確かに存在する。それをこんな席で持ち出すほど愚かではなかったが。
「それに、俺には兄貴以上の挨拶を考える自信がないからな」信明がさらに追い打ちをかけた。
「お前な……」
 そのとき、遺族室の外から声がかかった。
「阿形信志様はいらっしゃいますでしょうか。ちょっとご相談させていただきたいことが……」
「いま、行きます」阿形は返事をして、真面目ぶった顔で頷く弟を睨みつけてから立ち上がった。

 通夜は滞りなく終わった。葬式は、遺族を忙しく立ち働かせることで悲しみを紛らわすためのものでもあるとよく言われる。生前父の知り合いだったという弔問客に挨拶し、礼を言い、静岡の菩提寺から駆けつけてくれた住職を迎えて、神妙な顔で念仏を聞いた。自分が何のために手を合わせ、意味もわからない念仏を唱和しているのかもよく考えないままに葬儀は進行し、焼香を経て棺の蓋が閉じられた。弔問客が帰ったあとには、遠方から来て葬儀場に泊まる親戚を労うささやかな宴が執り行われる。いわゆる通夜振る舞いと呼ばれるもので、これが済んでようやく、何かを考える時間を手に入れることができるのだった。

 地下にある安置室に置かれた棺の前には何脚かの椅子が並べられていた。阿形はそのうちの一つに座り、明日の告別式の最後にする挨拶で言うべきことを考えようとしていた。使い古したノートに書き連ねた挨拶文を眺めながら、ボールペンの尻を噛む。
 いくら頭をひねってみても、浮かんでくるのは定型文のように空々しい文句ばかりだった。
 棺に遺体を収めながら涙を流し、自分の温もりを分け与えようとするかのように冷たい頬に手を当てる義母の顔や、悲しみに耐えて気丈に振る舞う弟の姿を思い浮かべる。茉莉でさえ、『じいじ』の亡骸を前にして、初めて死というものを自分の頭で考えようとする子供の真摯な表情を浮かべていた。献花台の前で人目もはばからず号泣するファンたちや、「もっと長生きしてくれなきゃ」と悔し涙を流していた親戚連中のことを思う。そして、一滴の涙も流していない自分のことを。
 許せるよ。大丈夫。
 そう、ルカは言った。
「本日はお忙しいところ、父・中江庄造の葬儀にご会葬くださり……」小さく、空っぽの部屋の中で、自分の声は虚ろに響いた。「父は俳優・中江令二郎として、数多くの作品に出演してまいりました。その雄姿をみることが、わたしたち家族にとっては何よりの誇りで──」
 嘘だ。
「昨年の冬の入院から、短い闘病生活を経て、あっという間の旅立ちでした。せめてもの救いは、家族に見守られて最期のときを迎えたことでした。苦しみから解放されたことに安堵こそすれ、長く悲しむべきではないと、父であれば思うでしょう」
 嘘だ。
「わたしどもは、未熟ではありますが、故人の教えを守り、手を取りあって──」
 阿形は言葉を切り、ため息をついた。
 自分の耳にすら空々しく聞こえる。
 ただの挨拶なのだから、インターネットから文例集でも見つけてきて名前の部分だけ変えれば事足りるはずだ。それでも、こういうときに自分の口から発せられる言葉を、他人の頭から借りてくるのは、矜持が許さなかった。
 そうして俯いたまま、どれくらいの時がすぎただろう。
 控えめなノックの音に顔をあげる。
「はい?」
 葬儀社の担当者が申し訳なさそうにドアを開けた。
「申し訳ありません、弟様からこちらにいらっしゃると伺いましたもので……」
「どうかしたんですか?」
「先ほど、お外の献花台を一度下げさせていただいておりましたところ、最後にいらした方が、これを喪主様にお渡ししてほしいと仰られまして」
 スタッフはそう言うと、小さな包みを差し出した。「わたしどもの方で簡単に中を改めましたが、危ないものは入っていないようでした」
 著名人の葬儀が執り行われることが多い会場というだけあって、スタッフの対応も手馴れている。阿形が礼を言うと、彼女は小さく礼をして部屋を出て行った。
 阿形は改めて、受け取った袋を見てみた。『ご霊前』と書かれた、オーソドックスな不祝儀袋だ。ただ、表に記名がない。
 熱心な父のファンだろうか? だが、わざわざ阿形に渡すことを頼んだ意味がわからない。
 眉を顰めながら、中に収められた封筒を引き出してみたが、そこにも記名はなかった。だが、名前の代わりに書かれていた文字を見て、阿形にはその香典の差出人がわかった。
『ごめんなさい』それから、『からだに気をつけて』
 何も考えず、阿形は駆け出していた。
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