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 本当は誰よりもお父さんに認めてほしいと思ってるくせに。
 耳鳴りの中にこだまする声に、阿形はふと顔をあげた。それから、人も疎らな病院のカフェテリアを柔らかく照らす春の光に目をすがめ、またすぐにノートパソコンのディスプレイに視線を戻した。
 こんなところに、彼がいるはずがない。
 あれから二か月近くが経ったいまも、こうして、意識の隙間にルカの存在が滑り込んでくることがあった。
 だが、仕事と父親のことで頭を満たしておくことで、大抵の間は忘れていられた。指が動く間はひたすら机に向かい、脳が乾いたスポンジのようになってしまうと、病院へ行く。そして、他にすべきことがないと心が納得すると、また執筆作業に戻った。
 眠る日も、眠らない日もあった。折に触れてみる夢と、目覚めた瞬間に胸を貫く喪失感が恐ろしくて、できることならば眠りたくなかった。気絶寸前まで自分を追い込んで、夢も見ない睡眠を数時間貪ってから、生きる屍のように目覚めて机に向かう毎日を、ひたすらに繰り返していた。
 いつかは慣れる。細胞に染みついた彼の存在を消してしまえるはずだと、そう言い聞かせて。
 自分を責めるルカの、誰よりも傷ついた眼差しを思う。
 唯一の救いは、もうこれ以上、彼には自分よりも相応しい相手がいるのではないかと頭を悩まさずに済むことだ。五年間の執着に別れを告げて、もっと広い世界で一緒に飛び回れる相手を選ぶべきだ。平穏を守ることで精一杯の自分より相応しい相手が、きっといる。
 だから、これで良かったのだ。
 そう思い続けていれば、いつかは納得するだろう。完璧な人生などないのだと。
 この数週間は、時間の融通が利く阿形が義理の母を支えていた。昼間、父親が起きている間には義母ははが付き添い、夜、眠っている間には阿形が見張った。カーテンを隔てたソファに座り、呼吸の音に耳を澄ませるだけだったが。
 いつ、そのときが来てもおかしくないと、医者は言った。
 自分たちがしているのは介護や看護ではなく、長い葬送の最初の段階なのだろう。
 日に日に衰弱してゆく父親に引きずられるように憔悴する義母と、彼女に心配させまいと強がる父をみていると、一緒になるまでの過程はどうあれ、いい夫婦なのだと思う。多分本当に、母と中江の結婚は不幸な間違いだったのだ。
 そして、その産物が自分だ。
「あの、信志さん」
 声をかけられて、物思いから覚める。振り向くと、洗い物の袋を抱えた義母が立っていた。
「紀子さん」
 彼女との間の確執だとか、気まずさだとか、そういういものにこだわっている時期は、とうにすぎていた。
「お仕事中に御免なさい。一度お家に戻るから、その間……お願いできる?」
 初めて会ったとき──彼女が十年来の愛人だったと知る前だ──なんて綺麗なひとだろうと思った。いま、義母の顔の上には、いままでは幸せが退けていた年月が覆い被さり、実際の年齢よりも十歳は歳をとっているように見えた。
 それでも、彼女はやはり綺麗だった。
「いいですよ」阿形はノートパソコンを閉じ、荷物を鞄に詰め込んで立ち上がった。「ついでに、たまにはどこかでお茶でもしてきてください」
 中江紀子は首を振った。「いいの。すぐ戻ってくるから」
「信明から、くれぐれも無理をさせるなって命令されてるんですよ」阿形は微笑んだ。「親父なら大丈夫。今朝は顔色も良かったし」
 死ぬのは、今日じゃない。
 そんなやり取りも、普通になってしまった。
「じゃあ、少しだけ」彼女は子供のわがままを聞き入れる母親の表情で笑った。「家を出る時にまた連絡しますから」
「ごゆっくり」阿形は微笑み、義母の華奢な肩に勇気づけるように手を置いてから、病室に向かった。

 西向きの窓から差し込む夕日が、真っ白な病室を茜色に染めていた。
 資料のページを繰っていた手を止めて、阿形はベッドの方を見た。それから、傍まで歩いてゆき、ほんの少しだけカーテンを開いた。
 何故その日、父親の顔を見ておこうと思ったのだろう。あとから考えても、阿形には説明することができなかった。
 痩せこけてしまった父の顔も、もはや見慣れた。呼吸をし、生命維持のために細胞を働かせること自体が闘いであるかのような姿を、じっと見つめる。阿形は、すっかり白髪になってしまった解れ髪を額からどけてやった。
「母さんと同じ病気で死ぬんだから、因果応報だよ」
 そのとき、父の目がゆっくりと開いた。
「そうだな」
 反射的に、心が逃げようとした。だが、足が動かない。息をすることすら忘れかけた。
「起きてたの」阿形はようやく、これだけ言った。
 彼はゆっくりと瞬きをして、阿形を見た。「起きていると……すぐに帰るからな、お前は」
 つまり、いままでに何度か寝たふりをされていたと言うことか。悪戯が見つかったときのような気まずさに、阿形は何も言えなくなってしまった。
「悪かったな」中江が、ぽつりと言った。
「何が」
「忙しいんだろう」
「別に……いいよ。どこでもできる仕事だから」
「小説を書いてるって、信明に聞いたぞ」
「ああ」
 中江は深い息をついて、衰弱に揺らぐ眼差しを、それでもしっかりと阿形に据えた。
「いつ出る」
 そのとき、何故か一気に血の気が引いた。
 この本が出る頃には、父親はこの世にはいない。
 間に合わない。
 その事実が──当たり前なのに、いままで見ないようにしていた事実が目の前に立ち現れて、眩暈がした。
 ルカの言葉は正しい。最初からずっとそうだったように、ルカは正しかった。
 俺は誰よりも、この人に読んでほしくて書いていたんだ。
 失敗に終わった結婚の産物である自分を、ただ認めてほしかった。方法を探しているうちに目的を忘れ──いまもう一度、それを見つけた。だが、間に合わない。
 なにもかも、もう手遅れだ。
 中江は阿形の顔に浮かんだ表情を見て察したようだった。
「そうか」目を閉じて、大きなため息を一つつく。それから彼は目を開けた。「元気で、やってるのか」
「ああ」
「うん」父は言い、再び目を閉じた。「それなら、いい」
 規則正しい寝息が聞こえてくる頃には、部屋は青い夕闇に包まれていた。阿形は義母が部屋の戸を開けるまで、ベッドの傍に立ち尽くしていた。
 それが、父との最後の会話となった。
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