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 幼い頃、父親と過ごす時間はあまりに少なかった。お父さんはどこと母親に尋ねると、困ったような微笑みが返ってくるばかりだった。よく、母の膝の上で父親の出演作を一緒に観たものだった。テレビの中の父親は、強く、清く正しい男で、決して悪に屈しなかった。中江令二郎はヒーローなのだと、心の底から信じていた。
 母は、阿形が十三歳の時に癌で他界した。その一年後に中江家に嫁いできた紀子はすでに二人の息子を連れていて、父親は中江令二郎その人だった。信明と歳が一つしか離れていないことと、彼らが腹違いの弟だということが何を意味するのかを理解するのに、たいした時間はかからなかった。
 父親が、他の女と浮気して子供を産ませていたという事実は、喪失に苦しむ少年の心を打ち砕いた。
 母の最期の日々、自宅療養でときを待っている間、阿形は学校に通っている以外のほぼすべての時間を、日々やせ衰えてゆく母の傍で過ごした。痛み止めのモルヒネがもたらす譫妄せんもうの最中にあっても、母は父を信じていたのだ。
 許せるわけがない。
 それでも、彼は確かに力のある人間なのだと思った。こうも簡単に人の心を打ち砕いておきながら、のうのうと生きていけるのだから。
 信明から父親が入院したという報せを受け取ったとき、阿形は二分で通話を終えた。その二分の間に、必要なことはすべて知ることができたからだ。
 入院している病院の名前。病名。手術をしたが、手遅れであることがわかったこと。余命。それから、父が自分に会いたがっていると言うこと。
 最初は、いよいよというときまで見舞いには行かないつもりだった。考えを変えさせたのはルカだった。
 いま行っておかなきゃ、絶対に後悔するから、と。
 その言葉に頷きはしたものの、納得はしていなかった。ちらりと顔を見てすぐに帰るつもりで、教えられた病院まで足を運んだ。
 総合病院の白い廊下を歩き、職員、見舞客、患者の間をのろのろとすり抜けて、病室にたどり着く。よく考えれば予想できたことだが、そこは個室だった。それはつまり、病室の戸を開けた瞬間に、阿形が来たとわかってしまうということだ。
 深呼吸を一つする。
 罵声か、あるいはいわおのように静かな叱責か。子供の頃に何度も味わった口惜しさと畏怖の混ざり合う気持ちが、胃酸のように込みあげてくる。出て行けと言ってくれたら、その方が楽だ。
 意を決してドアノブに手をかけると、それがひとりでに開き、血圧測定の道具を抱えた看護師が出てきた。
「あら、失礼しました」
「いえ……」
 面食らいながらも、この隙に部屋の中を覗き見る。
「お休みのようですね」看護師が、声を落とした。「お待ちになるんでしたら、二階にカフェテリアがありますよ」
「どうも」
「お大事に」看護師はいたわるような微笑みを浮かべて、きびきびと次の病室へ向かった。
 阿形は閉まりかけたスライドドアの隙間から滑り込むと、ほんの少しの間、呆けたようにその場所に立ち尽くした。
 ベッドサイドに置かれた椅子の上には、ページを伏せた雑誌が置かれている。おそらく、義理の母がつきっきりで父を看ているのだろう。席を外したちょうどのそのときに訪れることができたのは運が良かったかもしれない。誰も、気まずい思いをしなくて済む。
 背中が引きつるような緊張感を無視して恐るおそるベッドに近づく。
 そして、阿形は父の顔を見た。
 記憶より、彼は小さく見えた。阿形が生まれた時、父は四十歳を超えていた。いまは七十も半ばだと思えば、病によって人が変わったようになるのは容易に想像できたし、そのつもりでいた。だが、血の気のない肌、落ち窪んだ眼にこけた頬をしたこの男は……違う。あまりにも違う。
 そこで眠っていたのは、父の抜け殻だった。
 呼吸をするのも大儀だというように、大きく胸がせりあがり、苦しげな呻き声と共に、危険なほどしぼむ。なんとも形容し難い匂いがした。それは薬で生に繋ぎ留められている人間が発するにおいだった。二十年前、母の最期の日々に寄り添っていた頃の記憶と、二年前、弟の死の床で秘密を受け継いだときの記憶が鮮やかすぎるほどに蘇り、鳩尾を殴られたような気分を味わった。
 これは、死の匂いだ。
 阿形は一歩、また一歩と後ずさった。そして踵を返し、病室を出た。一刻も早く、あのにおいの届かない場所へ行きたかった。
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