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どこまでも続く、長く薄暗い廊下に面して、いくつもの、いくつもの、いくつもの扉が並んでいる。
眩暈がするほど沢山の部屋のどれかに小さな男の子が閉じ込められて、か細い声で泣いている。
その廊下は静まりかえっていて、男の子の声は聞こえない。聞こえないけれど、彼が《自分》を呼んでいることを知っていた。
その子を見つけるためには、一つ一つドアを開けて確かめていかなくてはならない。
一つ目の扉を開けると、中から罵声が飛びかかってきたので、慌てて閉めた。二つ目の扉には嗚咽が閉じ込められていて、三つ目は嘲笑、四つ目はひそひそ声だった。
ひそひそ声はドアの隙間から逃げ出した。途端に、さざめきのような振動が廊下を駆け抜け、他の部屋の中で眠っていた他の声を目覚めさせてしまった。
けたたましい笑い。好奇に満ちたざわめき。耳を押しつぶすほどの怒声に怒号、悪意のない質問、的外れな擁護、同情、冷笑、甲高い非難の声が、いまにもドアをはじき飛ばそうと、部屋の中で暴れ狂っている。
《自分》は逃げて、逃げて、逃げた。やがて再び廊下が静かになるまで走り続けて、どこまでやってきたのかもわからなくなった頃、他とはほんの少し違うドアがあるのに気づいた。
足元の隙間から、光が漏れ出しているのだ。
薄暗い廊下を断ち切って伸びるその光は、新たな道のように見えた。
破裂しそうな心臓を握りしめ、戸板に近づいて耳を澄ませる。恐ろしい声の気配はない。
《自分》は小さな手で小さな拳を作った。それから、手の甲をドアに向け、そっとノックをしようとした。
「おい!」
殴りつけるようなノックの音で目が覚めた。
はっきりとしない意識の断片が、状況という名の牧羊犬に追い立てられた怠惰な羊の群れのようにのろのろと、頭の中に集まり始める。
肌に馴染まないタオル地の感触。糊の効いたざらつくシーツに手を這わせる。
ここは──自宅じゃない。ホテルだ。
都内のホテル。待ち合わせ場所に指定された部屋だ。そのベッドの上に、阿形はいた。
視覚は妙に鋭敏で、それでいて水中にいるかのような浮遊感がある。ホテルの壁紙の色が浮かび上がり、グロテスクな万華鏡のように形を変えている。サイドテーブルに据え付けられた時計が、二十時四十六分を指していた。皮膚の下に隠されたなにかが、酷くざわついて落ち着かない。何故か、とても不安だった。
その間にも、ノックと言うにはあまりに乱暴な音と、苛立った声は止む気配がない。
「開けろ!!」
そんなに音を立てたら、《声》が目覚めてしまうのに。
夢と現実が混ざり合って、いま何が起こっているのか理解できない。
舌打ちと共にベッドが軋んで、そのときようやく、傍らにいた男の存在を意識した。
──芝浦。
そう、芝浦がいた。いつから? 最初から? 最初に何があった? いま、自分は何をしている?
自分の周りから柔らかい壁が迫ってきて、押しつぶそうとするのを感じる。その壁の表面には何万匹もの虫が這い回っていて、触れたが最後、骨になるまで食い尽くされてしまう。毛穴という毛穴が開いて、嫌な汗がじわりと滲んだ。
「いいからドアを開けやがれ、豚野郎!」
咆哮のようなその声を聞いて、ようやく意識が焦点を結んだ。
「ルカ……?」
「ルカ?」芝浦が言った。「なんでここが……お前、話したのか?」
「はなして、ない」
舌が上手く動かない。
阿形は身を起こし、その瞬間、頭に詰まった水が大きく揺れて前に突っ伏しそうになった。なんとか持ち直して床に足をつけるけれど、芝浦に引き戻されて、またすぐにベッドの上に倒れ込む。
「痛……」
腰から下──腹の内側に鈍い痛みが走って、愕然とする。
そうだ。
そうだった。
呆然と下腹部を掴む。その手首に、赤い痣が浮かび上がっている。
そして、外からの声が止むことはなかった。
「開けないなら、今すぐ警察を呼ぶからな!」
芝浦はもう一度舌打ちをし、阿形に「動くなよ」と言いつけると、ドアの方へ向かった。自分もあとを追いたいが、部屋に立ちこめる煙が邪魔をして前に進むことができない。
いや。
本当に、彼に会いたいのか? こんなことのあとで?
不安が喉を締め付けて声が出ない。踏み出せば、奈落に落ちる。振り返れば、きっとまたあの長い廊下が伸びているのだと思った。
「何しに来たんだ、あんた」ドアの方から、芝浦の声が聞こえた。
「チェーンを外せ。でなきゃ警察を呼ぶ」
さっきよりはっきりと、ルカの声が聞こえる。だが、あれは本当にルカの声だろうか。低くざらついて、まるで別人のようだ。
いや、ルカのはずがない。彼には知らせていない。ひとりで片をつけるために、ここに来たのだから。ルカには会えない。こんな状態では。
金属が擦れ合う音がして、ドアが軋み、それから閉じた。ベッドルームとひと続きになった、絨毯敷きの短い廊下を歩く重い足音。それが、慌ててこちらに向かってくる。
ルカは、阿形を見て硬直した。
ああ……もう、どうしようもない。
その名前をこの空間の中に吐き出すのが、とても辛く、悲しいことのように思えた。それでも、彼を呼んだ。
「ルカ」
その途端、ルカの泣き出しそうな表情が、怒りへと変化した。
「ルカ、だっけ?」芝浦は部屋を横切り、窓際のソファに腰を降ろした。「何を勘違いしてるか知らないけど、これは合意の上でやってることだよ」
ルカは弾かれたように芝浦の方を見、テーブルの上に残された灰皿と、その上に残った煙草ではない何かの燃え滓を見て、それから阿形を見た。
「ノブさん、そうなの?」
違う。
それは違うと言いたかった。無理やりホテルに連れ込まれ、無理やり薬を吸引させられ、無理やり服を脱がされたのだと。だが、そうではない。
そうではないのだ。
「ああ」阿形は、小さな声で言った。「そうだ」
痛みすら感じるほどの静寂の中、ルカの琥珀の目から、燃えるような憤怒が……消えた。
「わかった」ルカは言った。とても静かな声で。
そして、彼はソファのところまでつかつかと歩いてゆくと、勝ち誇ったような笑みを浮かべている芝浦を見下ろした。
「まだ、何か用があるのか?」芝浦は言った。
「ああ」ルカは、感情のない声で言った。「ああ。ある」
そして、芝浦の胸ぐらを掴んで立たせてから、思い切り顔面を殴った。
「殺してやる、このクソ野郎!」
骨と骨とがぶつかり合う、生々しい音がした。芝浦が倒れ込んだのが先か、それともルカが彼をソファに押し倒したのが先かはわからない。どちらかの足がカフェテーブルを蹴り倒し、上に載っていた灰皿とグラスが鈍い音を立てて床に転がった。
「よせ……っ!」
芝浦は抵抗した。けれど当然ながら、ルカにかなうはずがなかった。ルカはその大きな身体で芝浦に馬乗りになり、両手を挙げて頭をかばおうとする彼の身体をめちゃくちゃに殴りつけた。
「やめ──やめろ!」
「黙れ!」
止めなくてはいけない。
徐々に目覚め始めた理性は、今すぐにこれをやめさせなければと主張していた。けれど、動けなかった。
阿形はベッドの上から、痛みにゆがむ顔が血糊に塗りつぶされてゆくのを――苦痛の声がやがて力ない呻きに変わってゆくのを、ただ眺めていた。
「おいおーい、あんまりやりすぎるなよ」
いきなり聞こえた楽しげな声に振り返る。そこに立っている男の姿を見て、阿形は我が目を疑った。
「望月……?」
ダブルのスーツにチェスターコートといういで立ちの望月は、ベッドの上の阿形に小さく頷いて見せてから、ルカの肩に手を置いた。
「ルカ、落ち着け。もういい」
ルカはその手を振り払い、もう一度だけ芝浦の顔面を殴ってから立ち上がった。
肩で息をする彼の両手が、血に染まっている。
視線に気づいたのか、ルカは阿形の方をちらりと見てから、顔を背けた。
「はは、派手にやったな」望月が愉快そうに言った。
そして、全員が口をつぐんだ。部屋の中に漂う、血と暴力と恐怖の匂いが、沈黙に冷え固められてゆっくりと沈殿してゆく。
「手、洗ってこい。俺は阿形と話がある」
望月はルカをバスルームに向かわせてから、ふーっとため息をついてベッドに腰かけた。
「囚われの姫にしちゃ、ずいぶんくたびれてるな」
「なんで……」
半ば呆然として阿形が尋ねると、望月は「どこから話したものか」というようにうーんと唸った。
「お前とルカの写真が撮られた少しあとで、奴から稜介のところに連絡があってな。最近撮られた阿形の写真を持ってないかって」望月は目線だけで、床の上に転がる芝浦を示した。「稜介を覚えてるか? 一度か二度カラミをやったろ」
真面目そうな顔をした眼鏡の青年の顔が、ぼんやりと脳裏に浮かぶ。阿形は小さく頷いた。
「とにかく、稜介が俺に教えてくれたわけだ。奴が週刊誌の記者だってのは覚えてたから、面倒なことになる前に手を打とうと思って……身辺を洗った。狭い業界だからな。ちょっと調べさせただけで、埃が出るわ出るわ」
床の上から、地を這うような呻き声が聞こえた。それまで意識を失っていたらしい芝浦が目を覚ましたのだ。彼は胎児のように身体を丸め、掠れた呼吸を繰り返していた。
望月は立ち上がり、持ってきた鞄の中から封筒を取り出すと、芝浦の脇に放った。
「いままで、お前が脅迫し、薬を盛って、レイプしてきた被害者の記録の写しだ」望月は冷ややかな声で言った。「もし、今度妙なことを考えたら──実際にやるかどうかは関係ない。お前の悪い噂をちょっとでも耳にしたら、こっちにも考えがあるからな。わかったか?」
返事とも、呻き声ともつかない音が、それに答えた。
「わかったかって訊いてんだよ。なぁ!」
望月が革靴の先を、思い切り芝浦の腹にめり込ませた。溺れたような音と共に、芝浦が嘔吐した。
それから彼は芝浦の顔の近くにしゃがみ込み、血に濡れた髪を掴んで顔を持ち上げた。
「おい。返事をするまでやめねえぞ」
「わ、わかった」芝浦は言った。「わかったから……やめてくれ……」
「吐きたいだけ吐きな。部屋のクリーニング代はウチでもってやるからさ」そう言うと、望月は、玩具に興味を失くした犬のようにふいと顔を背け、芝浦から手を放して立ち上がった。
「ルカな……今日、お前の家に行ったんだってよ」
阿形は、言葉もなく望月を見上げた。
「そしたら、お前が書いたメモを見つけた。嫌な予感がするからって、俺に電話を寄越したんだ。泡食ってさ」望月は再びベッドに腰を降ろした。「あんまり心配かけてやるなよ」
「悪かった」阿形は小さな声で言い、俯いた。そのときようやく、自分がバスローブしか纏っていないことに気づいたが、それについて考えなくて済むように、目を閉じた。「迷惑をかけて」
「いいよ。俺だってお前には何度も助けられてるんだから」
望月は言い、阿形の頬をそっと撫でた。痛みが走り、芝浦にそこを殴られたことを思い出す。だが、怒りは感じなかった。その復讐は十分すぎるほどなされたと思う。ただ……ひどく疲れた。それだけだ。
「これでも責任感じてんだよ。ルカをお前に引き合わせたのは俺だから」
「そんなことは……」
言いかけたとき、ルカが戻ってきた。彼は昏い眼差しで、床の上で小さくすすり泣く芝浦を見て、それからベッドの上の二人の男を見た。
「もう終わった?」
「ああ」望月は言い、すっと阿形から離れた。「服を着て、早く出て行った方がいい」
「でも……」
言い募る阿形を無視して、ルカはバスルームに置かれていた服を無言で阿形に手渡した。
「あとは俺がなんとかする」望月はそう言うなりスマートフォンを取り出して、どこかへ電話をかけ始めた。「あ、前田さん? いやぁ、お久しぶりです──」
鈍い指先が能う限りの速さで服を着ると、ルカは黙って阿形を立たせた。
「い、いいよ。一人で歩ける」
そう言った阿形に向けられたルカの表情をどう言い表したらいいのかわからなかったのは、薬による酩酊が残っていたせい──そればかりではないだろう。
泣いているような、怒っているような、どのどちらでもないような顔に、阿形はそれ以上の反論を飲み込んだ。
部屋を出て行く直前、ルカは振り返って、猛烈な勢いで電話の相手にまくしたてる望月に声をかけた。
「社長、俺──」
「あ、ちょっと失礼しますね」
望月は電話口に手を当ててルカを一瞥した。
「二日休みをやる」有無を言わさぬ調子で告げてから通話に戻り、二人に向かって右手を振って『出て行け』のサインをした。
眩暈がするほど沢山の部屋のどれかに小さな男の子が閉じ込められて、か細い声で泣いている。
その廊下は静まりかえっていて、男の子の声は聞こえない。聞こえないけれど、彼が《自分》を呼んでいることを知っていた。
その子を見つけるためには、一つ一つドアを開けて確かめていかなくてはならない。
一つ目の扉を開けると、中から罵声が飛びかかってきたので、慌てて閉めた。二つ目の扉には嗚咽が閉じ込められていて、三つ目は嘲笑、四つ目はひそひそ声だった。
ひそひそ声はドアの隙間から逃げ出した。途端に、さざめきのような振動が廊下を駆け抜け、他の部屋の中で眠っていた他の声を目覚めさせてしまった。
けたたましい笑い。好奇に満ちたざわめき。耳を押しつぶすほどの怒声に怒号、悪意のない質問、的外れな擁護、同情、冷笑、甲高い非難の声が、いまにもドアをはじき飛ばそうと、部屋の中で暴れ狂っている。
《自分》は逃げて、逃げて、逃げた。やがて再び廊下が静かになるまで走り続けて、どこまでやってきたのかもわからなくなった頃、他とはほんの少し違うドアがあるのに気づいた。
足元の隙間から、光が漏れ出しているのだ。
薄暗い廊下を断ち切って伸びるその光は、新たな道のように見えた。
破裂しそうな心臓を握りしめ、戸板に近づいて耳を澄ませる。恐ろしい声の気配はない。
《自分》は小さな手で小さな拳を作った。それから、手の甲をドアに向け、そっとノックをしようとした。
「おい!」
殴りつけるようなノックの音で目が覚めた。
はっきりとしない意識の断片が、状況という名の牧羊犬に追い立てられた怠惰な羊の群れのようにのろのろと、頭の中に集まり始める。
肌に馴染まないタオル地の感触。糊の効いたざらつくシーツに手を這わせる。
ここは──自宅じゃない。ホテルだ。
都内のホテル。待ち合わせ場所に指定された部屋だ。そのベッドの上に、阿形はいた。
視覚は妙に鋭敏で、それでいて水中にいるかのような浮遊感がある。ホテルの壁紙の色が浮かび上がり、グロテスクな万華鏡のように形を変えている。サイドテーブルに据え付けられた時計が、二十時四十六分を指していた。皮膚の下に隠されたなにかが、酷くざわついて落ち着かない。何故か、とても不安だった。
その間にも、ノックと言うにはあまりに乱暴な音と、苛立った声は止む気配がない。
「開けろ!!」
そんなに音を立てたら、《声》が目覚めてしまうのに。
夢と現実が混ざり合って、いま何が起こっているのか理解できない。
舌打ちと共にベッドが軋んで、そのときようやく、傍らにいた男の存在を意識した。
──芝浦。
そう、芝浦がいた。いつから? 最初から? 最初に何があった? いま、自分は何をしている?
自分の周りから柔らかい壁が迫ってきて、押しつぶそうとするのを感じる。その壁の表面には何万匹もの虫が這い回っていて、触れたが最後、骨になるまで食い尽くされてしまう。毛穴という毛穴が開いて、嫌な汗がじわりと滲んだ。
「いいからドアを開けやがれ、豚野郎!」
咆哮のようなその声を聞いて、ようやく意識が焦点を結んだ。
「ルカ……?」
「ルカ?」芝浦が言った。「なんでここが……お前、話したのか?」
「はなして、ない」
舌が上手く動かない。
阿形は身を起こし、その瞬間、頭に詰まった水が大きく揺れて前に突っ伏しそうになった。なんとか持ち直して床に足をつけるけれど、芝浦に引き戻されて、またすぐにベッドの上に倒れ込む。
「痛……」
腰から下──腹の内側に鈍い痛みが走って、愕然とする。
そうだ。
そうだった。
呆然と下腹部を掴む。その手首に、赤い痣が浮かび上がっている。
そして、外からの声が止むことはなかった。
「開けないなら、今すぐ警察を呼ぶからな!」
芝浦はもう一度舌打ちをし、阿形に「動くなよ」と言いつけると、ドアの方へ向かった。自分もあとを追いたいが、部屋に立ちこめる煙が邪魔をして前に進むことができない。
いや。
本当に、彼に会いたいのか? こんなことのあとで?
不安が喉を締め付けて声が出ない。踏み出せば、奈落に落ちる。振り返れば、きっとまたあの長い廊下が伸びているのだと思った。
「何しに来たんだ、あんた」ドアの方から、芝浦の声が聞こえた。
「チェーンを外せ。でなきゃ警察を呼ぶ」
さっきよりはっきりと、ルカの声が聞こえる。だが、あれは本当にルカの声だろうか。低くざらついて、まるで別人のようだ。
いや、ルカのはずがない。彼には知らせていない。ひとりで片をつけるために、ここに来たのだから。ルカには会えない。こんな状態では。
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ああ……もう、どうしようもない。
その名前をこの空間の中に吐き出すのが、とても辛く、悲しいことのように思えた。それでも、彼を呼んだ。
「ルカ」
その途端、ルカの泣き出しそうな表情が、怒りへと変化した。
「ルカ、だっけ?」芝浦は部屋を横切り、窓際のソファに腰を降ろした。「何を勘違いしてるか知らないけど、これは合意の上でやってることだよ」
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「ノブさん、そうなの?」
違う。
それは違うと言いたかった。無理やりホテルに連れ込まれ、無理やり薬を吸引させられ、無理やり服を脱がされたのだと。だが、そうではない。
そうではないのだ。
「ああ」阿形は、小さな声で言った。「そうだ」
痛みすら感じるほどの静寂の中、ルカの琥珀の目から、燃えるような憤怒が……消えた。
「わかった」ルカは言った。とても静かな声で。
そして、彼はソファのところまでつかつかと歩いてゆくと、勝ち誇ったような笑みを浮かべている芝浦を見下ろした。
「まだ、何か用があるのか?」芝浦は言った。
「ああ」ルカは、感情のない声で言った。「ああ。ある」
そして、芝浦の胸ぐらを掴んで立たせてから、思い切り顔面を殴った。
「殺してやる、このクソ野郎!」
骨と骨とがぶつかり合う、生々しい音がした。芝浦が倒れ込んだのが先か、それともルカが彼をソファに押し倒したのが先かはわからない。どちらかの足がカフェテーブルを蹴り倒し、上に載っていた灰皿とグラスが鈍い音を立てて床に転がった。
「よせ……っ!」
芝浦は抵抗した。けれど当然ながら、ルカにかなうはずがなかった。ルカはその大きな身体で芝浦に馬乗りになり、両手を挙げて頭をかばおうとする彼の身体をめちゃくちゃに殴りつけた。
「やめ──やめろ!」
「黙れ!」
止めなくてはいけない。
徐々に目覚め始めた理性は、今すぐにこれをやめさせなければと主張していた。けれど、動けなかった。
阿形はベッドの上から、痛みにゆがむ顔が血糊に塗りつぶされてゆくのを――苦痛の声がやがて力ない呻きに変わってゆくのを、ただ眺めていた。
「おいおーい、あんまりやりすぎるなよ」
いきなり聞こえた楽しげな声に振り返る。そこに立っている男の姿を見て、阿形は我が目を疑った。
「望月……?」
ダブルのスーツにチェスターコートといういで立ちの望月は、ベッドの上の阿形に小さく頷いて見せてから、ルカの肩に手を置いた。
「ルカ、落ち着け。もういい」
ルカはその手を振り払い、もう一度だけ芝浦の顔面を殴ってから立ち上がった。
肩で息をする彼の両手が、血に染まっている。
視線に気づいたのか、ルカは阿形の方をちらりと見てから、顔を背けた。
「はは、派手にやったな」望月が愉快そうに言った。
そして、全員が口をつぐんだ。部屋の中に漂う、血と暴力と恐怖の匂いが、沈黙に冷え固められてゆっくりと沈殿してゆく。
「手、洗ってこい。俺は阿形と話がある」
望月はルカをバスルームに向かわせてから、ふーっとため息をついてベッドに腰かけた。
「囚われの姫にしちゃ、ずいぶんくたびれてるな」
「なんで……」
半ば呆然として阿形が尋ねると、望月は「どこから話したものか」というようにうーんと唸った。
「お前とルカの写真が撮られた少しあとで、奴から稜介のところに連絡があってな。最近撮られた阿形の写真を持ってないかって」望月は目線だけで、床の上に転がる芝浦を示した。「稜介を覚えてるか? 一度か二度カラミをやったろ」
真面目そうな顔をした眼鏡の青年の顔が、ぼんやりと脳裏に浮かぶ。阿形は小さく頷いた。
「とにかく、稜介が俺に教えてくれたわけだ。奴が週刊誌の記者だってのは覚えてたから、面倒なことになる前に手を打とうと思って……身辺を洗った。狭い業界だからな。ちょっと調べさせただけで、埃が出るわ出るわ」
床の上から、地を這うような呻き声が聞こえた。それまで意識を失っていたらしい芝浦が目を覚ましたのだ。彼は胎児のように身体を丸め、掠れた呼吸を繰り返していた。
望月は立ち上がり、持ってきた鞄の中から封筒を取り出すと、芝浦の脇に放った。
「いままで、お前が脅迫し、薬を盛って、レイプしてきた被害者の記録の写しだ」望月は冷ややかな声で言った。「もし、今度妙なことを考えたら──実際にやるかどうかは関係ない。お前の悪い噂をちょっとでも耳にしたら、こっちにも考えがあるからな。わかったか?」
返事とも、呻き声ともつかない音が、それに答えた。
「わかったかって訊いてんだよ。なぁ!」
望月が革靴の先を、思い切り芝浦の腹にめり込ませた。溺れたような音と共に、芝浦が嘔吐した。
それから彼は芝浦の顔の近くにしゃがみ込み、血に濡れた髪を掴んで顔を持ち上げた。
「おい。返事をするまでやめねえぞ」
「わ、わかった」芝浦は言った。「わかったから……やめてくれ……」
「吐きたいだけ吐きな。部屋のクリーニング代はウチでもってやるからさ」そう言うと、望月は、玩具に興味を失くした犬のようにふいと顔を背け、芝浦から手を放して立ち上がった。
「ルカな……今日、お前の家に行ったんだってよ」
阿形は、言葉もなく望月を見上げた。
「そしたら、お前が書いたメモを見つけた。嫌な予感がするからって、俺に電話を寄越したんだ。泡食ってさ」望月は再びベッドに腰を降ろした。「あんまり心配かけてやるなよ」
「悪かった」阿形は小さな声で言い、俯いた。そのときようやく、自分がバスローブしか纏っていないことに気づいたが、それについて考えなくて済むように、目を閉じた。「迷惑をかけて」
「いいよ。俺だってお前には何度も助けられてるんだから」
望月は言い、阿形の頬をそっと撫でた。痛みが走り、芝浦にそこを殴られたことを思い出す。だが、怒りは感じなかった。その復讐は十分すぎるほどなされたと思う。ただ……ひどく疲れた。それだけだ。
「これでも責任感じてんだよ。ルカをお前に引き合わせたのは俺だから」
「そんなことは……」
言いかけたとき、ルカが戻ってきた。彼は昏い眼差しで、床の上で小さくすすり泣く芝浦を見て、それからベッドの上の二人の男を見た。
「もう終わった?」
「ああ」望月は言い、すっと阿形から離れた。「服を着て、早く出て行った方がいい」
「でも……」
言い募る阿形を無視して、ルカはバスルームに置かれていた服を無言で阿形に手渡した。
「あとは俺がなんとかする」望月はそう言うなりスマートフォンを取り出して、どこかへ電話をかけ始めた。「あ、前田さん? いやぁ、お久しぶりです──」
鈍い指先が能う限りの速さで服を着ると、ルカは黙って阿形を立たせた。
「い、いいよ。一人で歩ける」
そう言った阿形に向けられたルカの表情をどう言い表したらいいのかわからなかったのは、薬による酩酊が残っていたせい──そればかりではないだろう。
泣いているような、怒っているような、どのどちらでもないような顔に、阿形はそれ以上の反論を飲み込んだ。
部屋を出て行く直前、ルカは振り返って、猛烈な勢いで電話の相手にまくしたてる望月に声をかけた。
「社長、俺──」
「あ、ちょっと失礼しますね」
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