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 結局、予定のスケジュールから二日遅れですべての撮影が終了した。天候にも恵まれ、別れを惜しむかのような見事な夕映えの中で撮られた最後の写真は、加工の必要もないほどドラマチックに見えた。
 翌朝、ルカは朝食も摂らず、スーツケースを掴んで船着き場へ向かった。一日三便のフェリーの最初の便でアテネのキリニ港に着いたらタクシーに飛び乗り、エレフテリオス・ヴェニゼロス国際空港を目指す。そこから、十五時間で羽田だ。
 飛行機の座席に腰を降ろし、何かの手違いで離陸が早まることを願いながら窓の外を見る。
 いまから帰国する。真冬の東京に。阿形がいる街に。
 アルナウに薦められて、ここのところ注目されているらしいギリシャワインを何本か買ってみた。正直ワインの味はわからないし、キリル文字も読めないので、ラベルのデザインだけで選んだものばかりだが、二人で飲めば味など二の次だ。少なくとも、ルカにとっては。
 本当なら、羽田からすぐに、阿形の家へ行きたい。
 連絡なしに玄関先にあらわれたら、彼は驚くだろうか。それとも、喜ぶだろうか? そのどちらかであってほしい。それ以外の可能性は、なるべく考えたくない。
 飛行機の中ではネットに接続できないのだからスマートフォンを握っていても意味はないとわかっているのに、やはり手放せなかった。SNSも、ちょっとしたゲームもできないが、さりとて時間を潰せるような本の持ち合わせもない。あまりに手持ち無沙汰なので、写真フォルダを眺めて時間を潰すことにした。
「はぁ……」
 阿形の写真は、一枚残らずフォルダに分けて入れてあった。寝顔、笑顔、仕事のことを考えているとき、何かを食べているとき……。阿形の家で二人して映画を観ているときのものもある。
 こうした写真の半分は音の出ないカメラアプリで隠し撮りしたものだ。きっと、本人にばれたら根こそぎデータを消されてしまうだろう。
 さらにスワイプすると、画面の中央に再生ボタンがあらわれた。
 おや、と思い、サムネイルをよく見てみる。確か、二人でベッドに入る前の阿形を撮った動画だった気がする。ルカは手荷物の中からイヤホンを取り出してスマートフォンに繋ぎ、再生を開始した。
 風呂場から出てくる彼の、少し気恥ずかしそうで、それでいて真摯な表情。ルカが動画を撮っていることに気づくと、阿形は笑ってスマートフォンを奪った。揺れる画面が掌に塞がれて暗転し、二人の笑い声だけが聞こえる。それから画面がちらつき、次いで何かにぶつかるゴンという音がして、ぼんやりと白い壁と、ベッドシーツの影のようなものが映り込み、動かなくなった。
 ここまでは、確かに記憶がある。けれど、このあとどうなったのだったか。この動画を再生するのは今日が初めてだったし、録画を停止した覚えはない。
『落ちたぞ』くぐもった阿形の声。
 それに答える自分の声が聞こえた。『んん……あとで拾う……』
「うわ、これ──」
 ルカは思わず口に手を当てて、再生を一時中断した。動画の残り時間は……あと二十六分。
 これは、間違いない。
 隣と後ろの座席には、人はいない。もうしばらくは、来る気配もない。ルカはカナル式のイヤホンを耳の穴にこれでもかとねじ込み、満を持して再生を再開した。
 思った通り。それから、どちらのものともつかないため息と、湿ったキスの音が聞こえてきた。そして衣擦れと、ベッドが軋む音。
 その間ずっと、ルカは自分の口に手を当てていたが、そのことに自分で気づきもしなかった。
 仕事が仕事だから、ハメ撮りをしてみようなんて考えたこともなかった──多分提案しても却下されるだろうし。だが、思いがけず撮影されていたこの動画、というより音声は、想像以上に……。
『俺が先にしていい?』
『ん』
 ゴソゴソという音。それから、阿形のため息が聞こえた。
 よく覚えていないけれど、多分これは、ルカが阿形にフェラチオをしているのだろう。
『ふ……』
 時折、圧し殺した声と熱っぽい吐息がマイクに届いていた。密閉性の高いイヤホンのせいで、余計によく聞こえる。
 阿形がこんな声をたてていたなんて知らなかった。彼を気持ちよくすることに夢中になっていて気がつかなかったのだ。
『あ、それ……』
『んふ?』それに答える自分の声、それから、湿った口淫の音。
『は、ぁ……ルカ……それ、あんまり……』
『嫌い?』
『いや……』口ごもる。『今夜はちゃんとから』
 駄目だ。
 ルカは思わず手で顔を覆い、写真フォルダを閉じた。それから足を組み、座席に用意されていたブランケットを広げて、ふわりと掛けた。
 飛行機でハメ撮りの音声を聞いて勃起するなんて、どれだけ溜まってるんだ。
 折り悪くシートベルト着用を促すライトが点灯し、席を立ってこっそりトイレで処理をすることもできなくなってしまった。
 きまり悪さで赤くなっているはずの顔を伏せて、何か気の紛れることを考えようとする。年末までの仕事のスケジュールや、クリスマスにブラジルの家族に贈るプレゼントのこと──。けれど結局、何を考えても、思考は阿形に向かって彷徨い始めた。
 一か月。セックスどころか、触れてもいない。生の声を聞いてすらいない。セックスを仕事にしているのだから、欲求不満とは無縁だろうと世間の人は思うかもしれない。人それぞれなので一概には言えないけれど、プライベートと仕事とは、別の欲求がある男優モデルの方が多数派だ。そんなモデル仲間にも呆れられるほど、ルカは阿形と触れ合うことに夢中だった。
 阿形と一緒にいるときに感じる、刺激と安らぎとが絶妙に混ざったもの。それをただの憧れだとか、承認欲求だとか、性欲だとか、そのすべてが合わさった自分勝手な気持ちなのではないかと考えたこともある。
 でも、そうではない。
 これはもっと……もっと尊い何かであるはずだ。
『彼を信じろ』とアルナウは言った。
 阿形が自分を見るときに、その顔に浮かぶ表情を想う。自分にかけてくれる言葉を。触れる手つきを。
 そこに優しさがあるのはわかる。おそらく、好意があるのも。だが、その先にあるものを信じるには、まだ足りない。確かめる方法はあるのだろうか。合わせた肌から感じる以上に確かな証しがあるのだろうか。
 そんなものが存在しないというのなら、それでもいい。もう一度会えたら、そのときはまず自分から伝えよう。そして、信じる。
 いつの間にか、飛行機は空のただなかにいて、遠い家路を辿っていた。

 数か月前、望月に、どうしても阿形に会いたいとせがんだときには、清水きよみずの舞台から飛び降りるような気がした。いまは、それよりもさらに高いところに立っている。
 自宅からバイクに乗ってここにたどり着くまでの間は、無心でいられた。阿形の家への道順と同じくらい、自分がすべきことに確信をもつことができていた。けれど、いざこのドアを目にしたら、どうしたらいいかすっかりわからなくなってしまった。
 合い鍵を手にしたまま阿形の部屋の前に立ち、もう十分も身動きがとれないでいる。もしここで隣人と出くわしでもしたら? ルカの背格好は、阿形とは全く違う。ましてや、こんな夜中にサングラスをかけ、マフラーで顔の半分を隠した自分の姿はあまりにも怪しすぎる。一目見ただけで不審者だと思われ、即座に警察に通報されてしまうに違いない。それでも、本当に崖っぷちに立っているかのような気分で、足が竦んで動かない。
 そもそも、合い鍵を渡されたからって、いつでも家に来て良いということになるのか? 合い鍵を渡されるほど深い関係を築いた経験がないから見当もつかない。インターホンは鳴らすべき? 事前に電話した方が良かったのだろうか?
 そのとき、数件隣の部屋の鍵が、内側から解除される音がした。
 頭が真っ白になったルカは、何も考えずに阿形の部屋の鍵を開けて、中にはいった。
 後ろ手にドアを閉め、慌てて鍵をかける。それから、狼狽うろたえきった声で部屋の中に呼びかけた。
「お、お、お邪魔します!」
 ――おお、何だよ。びっくりした。
 そう言って、笑顔で迎えてくれる阿形の幻が脳裏に再生される。
 けれどいま、ルカが立つ現実の世界では、誰からも返事はなかった。
「ノブさん?」おずおずと声をかけてみる。「あの……ルカですけど」
 やはり、返事はない。闇に沈み、冷え切った部屋のどこにも、人の気配はなかった。
「なんだ……いないのか……」
 緊張から解放されて力が抜けそうになる膝を掴んで、長いため息をつく。
 帰るべきだろうか?
 いや。ここで、阿形の帰りを待っていてもいいはずだ。というか、ここで逃げ帰ったら、二度と動き出せないような気がする。
 心を決めたルカは、ブーツを脱いで部屋にあがった。
「お邪魔します……」小さな声でもう一度言ってから、灯りをつける。
 自分にとっては、まだ異質な阿形の家のにおい。初めて呼ばれたときもには何もかもがよそよそしくて、まるで、部屋そのものに観察されているような気がした。けれどいまは、このにおいに包まれることは純粋な喜びだ。
 きちんとした性格の阿形らしく、整然と片付いた部屋。使いこまれた家具に、家電。料理のための道具も少し。ものは多くはない。苦学生時代からの習い性で、必要最低限しか置かないのだと、昔読んだエッセイに書いてあった。それでも、本棚の隙間にちょこんと置かれた松ぼっくりや、靴箱の上に飾ってある紙粘土の梟のように、何かの思い出を象徴しているらしい他愛ない小物たちが、彼が決してドライな人間ではないことを物語っている。何故か、それが無性に嬉しかった。
 じっと座って待っているのは性に合わないので、持ってきたワインを冷蔵庫に仕舞ってみる。それからまたソファに戻り、ひとしきりそわそわしたあとで、寝室を覗いてみることにした。もしかしたら、徹夜で原稿を書いていたせいで、ずっと眠っているのかもしれないし。
 けれど、綺麗に整えられたベッドは空だった。小さな寝室にこもるにおいにくらっとしそうになるけれど、主のいない間に勝手に潜り込むのはやめておいた。多分――条件反射で情けない事態に陥ってしまう気がする。
 未練がましい視線をベッドから剥がして、ルカは再びリビングルームに戻った。
 緊張と、阿形の不在とで落ち着かないせいだろう。部屋に入ってから三十分も経過していないのに、足元からは早くも不安が這いあがってこようとしていた。
 勝手に上がり込んで何をしていたんだと問いただされたらどうしよう。冷蔵庫を開けるなんて、不作法な真似をするなと怒られたら、どうすればいいのか。だが、そこまで考えて冷静になった。勝手に上がり込んだことは事実だが、悲しくなるほど何もしていない。冷蔵庫は開けたけれど、それは土産のワインを冷やしておくためだ。
『彼を信じること』
 彼を信じる。よし。
 深呼吸を一つして、ナーバスな思考を追い払う。
 どうせサプライズを仕掛けるなら、ピザでもとってみるのもいいかもしれない。ギリシャのワインとピザの相性が良いかは知らないけれど。
 それにしたって、いつ帰ってくるのかわからなければ意味がない。ルカは、リビングに置かれた阿形の仕事机の上を見た。機械にそれほど強くない阿形が、アナログ方式のスケジュール管理を好むことを、ルカは知っていた。机の上に置かれた卓上カレンダーには、仕事の締め切りや打ち合わせ、取材の日程がびっしりと書き込まれている。
 今日は十一月十日。仕事の予定は何もない代わりに、きっちりとした字で『ルカ帰国』と書かれていた。
「あは……」
 胸がじんとして、泣き笑いのようなものが込みあげる。
 カレンダーの文字の上を、人差し指でそっと撫でる。けれど、それだけで満足できるはずがなかった。
 今すぐに、あのひとに触れたい。
 仕事の予定もないのなら、どうして留守なのだろう。
 ふと目を落とすと、キーボードの横に転がったペンとメモパッドが目に入った。阿形にしては珍しく、ペンがペン立てに入っていないし、メモパッドには破れた用紙が残っていた。乱暴にちぎり取ったみたいに、残った白紙が皺になっている。
 胸騒ぎがした。
 背中の後ろで、何かが囁く――やっと気がついたのか、と。
 何か、良くないことが起きている。
 詮索するなと叱られる覚悟で、残ったメモ用紙をじっと見てみる。ちぎられた紙の下に、書き殴られた力強い筆跡だけが残っていた。

『20:00 帝都ホテル 六〇八』

 体中の毛が逆立つ。
 時計を見る――十九時四十六分。ここから帝都ホテルまで、一時間はかかる。
 一時間──駄目だ。三十分で着こう。
 それ以上何も考えず、ルカは部屋を飛び出した。
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