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 紺碧の空と海、そして生まれたばかりの純白の雲が、濃厚なコントラストとなって目の前に広がっていた。木々も、大地も、海も、建物や人も、この島では、すべてのものが太陽の恩恵を享受している。間もなく訪れようとしている冬を前に、ザキントス島はハイシーズン最後の輝きを存分に放っていた。
 そんな風景を背にして微笑むことができたら、きっとになるのだろう。しかし、いまのルカには、笑顔を求められてもクライアントのイメージ通りの表情を見せる自信が全くなかったので、『楽しげなイメージで』だとか『恋人に見せるような笑顔で』のような指示を出されなくてホッとしていた。
 単体での撮影が終了したいま、残る仕事は他のモデルと並びで撮る写真だけだ。スケジュール調整にちょっとした手違いがあったとかで、最後の一人が現場入りするまでの数日は、ひたすら待機との指示が出ていた。他のモデルたちは、ホテルの近くにあるビーチに繰り出して、穏やかな海を満喫している。ルカも誘われたけれど、断った。代わりに、港町のカフェにひたすら入り浸っては、長居しすぎだと思われる前に別の店に移り、また時間を潰すと言うことを繰り返していた。Wi-Fiが飛んでいる場所なら、どこでも良かった。
 阿形からの連絡を期待していないと言えば嘘になるけれど、それよりも気になるのは、出発直前に稜介から送られてきたメールだった。

『ルカ、まだ日本か?』
 ──うん。なんで?
『この間、お蔵入りになった企画の話をしただろ。あれで阿形さんに怪我させた奴から、昨日連絡があった』
 荷造りの途中だったルカは、手にしていた替えの下着を床に放り投げて、両手でスマートフォンを握った。
 ──何で?
『最近のシノブさんの顔写真持ってないかって』
 体温が下がる。ルカの返信を待たずに、続きが送信されてきた。
『週刊誌の記者なんだよ、その人』
 これ以上は命に関わるというところまで、血の気が引いた。母の言語で小さく悪態をついてから、ルカは返信した。
 ──まさか、送ってないよな?
『当たり前だろ。そもそも写真なんか持ってない。で、それからは返信がない』
 ──どこに勤めてる、なんて人?
 今度は、『それを訊いてどうする』なんて言わせない。しばらく間が空いてから帰ってきた返信には、『週刊報知 芝浦しばうら さとし』と書かれた名刺の写真が添付されていた。
『五年前の名刺だから、いまは別のところにいるかもしれない』
 ──ありがとう。知らせてくれて。
『気をつけろよ』

 そのメールのあと、ほとんど眠らずに考えた。
 阿形に忠告するべきだろうか?
 だが、自分のせいでこんな事態になって、一体どの口で「気をつけて」なんて言えるだろう?
 結局、何も告げずに発つことにした。
 きっと、いたずらに不安を煽るようなことはしない方がいい。きっと、今回騒ぎになった件とは何の関係もない。万が一関係があったとしても、稜介に断られたことで諦めてくれる。きっと。
 いくら自分に言い聞かせても、胸のつかえはとれなかった。
 オープンテラスに降り注ぐ穏やかな日差しの中にあって、ルカは命綱のようにスマートフォンを握りしめていた。いつ誰から連絡があるかもわからないから。
 毎年冬が近づくたびにどこか暖かいところへ行きたいと思ってきた。けれどこの冬は、温暖な地中海には何の魅力も感じなかった。できることなら、今すぐ阿形のところまで飛んでいきたい。傍にいたからといって、何ができるというわけでもないのだけれど。
 あの写真が拡散されるまで、阿形の根深い警戒心を本当の意味では理解していなかった。ルカにとって、誰かと恋人同士に見えるような写真が出回ることには何の抵抗もない。自分はを売る仕事をしているだけで、アイドルのように、人間性や人生そのものを売りにしているわけではない。確かに──阿形には言わなかったけれど──このちょっとした騒ぎで年末までの仕事が二つほどキャンセルになった。けれど、自分のスタンスを理解してくれる人だけが支持してくれたらそれでいいと思っていたから、何のダメージもなかった。
 それでも、阿形はあれ以来、二人で会おうとはしてくれなかった。
 一番つらいのは、阿形が何を考えているのかわからないことだ。
 いくら彼が普段通りに振る舞おうとしていたとしても、いままでとは様子が違うのはわかる。
 軽率な真似をしたことを怒っている? それとも、怯えている? だとしたら何に? あるいは、ただこれ以上の面倒に巻き込まれたくないから距離を置いているだけ?
 心の中で渦巻く疑問を、そのままぶつけられない自分にも嫌気が差す。けれど、もし間違った質問をすれば、すべてが壊れてしまいそうで怖いのだ。
 いずれはすべてがもとの鞘に収まるのだろうか。それをただ待っているのが正解なのだろうか。
 考えることしかできない、この時間と距離がもどかしい。ルカは立ち上げっぱなしのメールアプリで、今日で二百四十回目のリロードをして、またしても誰からも、何の連絡もないことを確かめてため息をついた。
「はぁ……」
「ルカ!」
 聞き覚えのある声に顔をあげると、道の向こう側から懐かしい顔が近づいて来るのが見えた。
「アルナウ!」
 ルカは立ち上がり、アルナウ・リユルの熱烈な抱擁を受ける準備をした。彼は久々に会う人間には必ず、愛情のこもったハグをするのだ。
「ルカ! 俺のガニュメデ!」アルナウは再会した家族に対してするようにルカを抱きしめ、ぎゅっと力を込めてから、背中をぽんぽんと叩いて身を離した。「一年ぶりだな。ちょっと痩せたか?」
「そう? 体重は変わってないよ」
 アルナウとは、二年ほど前に別の仕事で知り合って以来の友人だった。妻と二人の子供を愛する家庭的な父親で、自他ともに認めるサッカー狂でもある。ブラジル人の血が流れるルカがサッカーにさほどの興味を持っていないと言うと、無宗教のバチカン人を見るような目で見つめられたが、それ以外の面ではとても寛容で、人懐こい。
「さっきこっちに着いたばかりなんだ」アルナウは言い、カフェの店内を覗きこんだ。「他の連中は? みんな港の方にいるって聞いてたんだが」
「ビーチにいるよ。ここからすぐのところ」
「ルカは行かなかったのか。珍しいな。いつも海を見たら五秒でビーチまで駆けてくのに」
 ちょっとね、と、言葉を濁す。「撮影は明日からだって?」
「いや。天気がもてば夕方から撮るらしい。今日は全員並びで撮って、俺だけ明日の朝一で。問題がなければ、昼までには撤収だとさ。そしたら、今度はプラハに飛ぶ」
「猛烈なスケジュールだね」
「ああ。でもその後は家族水入らずでクリスマスを過ごせる」
 アルナウはルカの向かいの席に座ると、ウエイターにルカと同じものを持ってくるように頼んでから、まじまじとカップの中を見た。
「泥水か何かか?」
「ギリシャのコーヒーだよ」
 グリークコーヒーと呼ばれるギリシャのコーヒーは小さなカップの中に入った濃厚な液体で、粗い粒状のコーヒーが下に沈むのを待って上澄みを飲むのだ。最初のうちはそれを知らずに大いにせたルカも、カフェ巡り二日目ともなればすっかり慣れた。
「そういえば……最近、新作は撮ってないか?」アルナウが言った。
 慎ましい──悪く言えば閉塞的な日本で長く生活していると、海外で活躍するモデルとの感覚の違いにまごついてしまうことがある。それとも、アルナウが極端にオープンなだけかもしれないが。
「二か月前に撮影したよ。そろそろリリースされてるんじゃない」
「マリサが楽しみにしてるんだ。あれを観ると燃えるってさ──俺もだけど」アルナウは屈託のない笑みを浮かべた。「三人目ができたら、お礼にチョコレートでも送るよ」
「やったね」
 阿形も自分も、甘いものが好きだから嬉しい。そう思ってから、二人でそれを食べる日が来るのかどうかわからないことを思い出して、またため息をつきそうになった。
 アルナウは、やってきたコーヒーを受け取ると、慎重に臭いを嗅いで顔をしかめた。「こんなもの、何杯飲んだ?」
「さぁ……昨日から十杯くらい飲んだかも」
「これ以上はやめとけ。カフェインに殺されるぞ」アルナウは、また心配性な父親らしい表情を浮かべた。「パートナーと上手くいってない?」
 アルナウに、パートナーがいるという話はしたことがない。そんなにわかりやすいだろうかと思いつつも、その通りなのでルカは頷いた。
「上手くいってないわけじゃないんだけど……彼が考えてることがわからなくて」
 ふむ。と、アルナウは腕を組んだ。「君がそうやって悩んでいることを、彼は知らないんだろ」
「え? うん……」
「何故言ってやらないんだ。『あなたが考えていることがわからなくて苦しい』って」
「そんなの……言えないよ」
 アルナウはふっと笑った。「日本では、本音で語り合うと刑務所行きになるのか」
「違うよ」ルカもつられて笑ってから、考え込んだ。「違うけど……」
 アルナウは思慮深げなため息をついて、両肘をテーブルの上に置いた。
「そうやって悩むほど、大事な人なんだな」
 ルカは頷いた。「うん」
 素直な返事に、アルナウはほとんど孫を見る老人のように目を細めた。「そうか」
「難しいね」ルカは小さく肩を竦めた。「大事なのに、難しい」
「ルカ」アルナウは真剣な声で言い、ルカの手をぎゅっと握った。「俺がマリサと十六の頃から付き合ってて、いままで一度も──いいか、一度もだぞ──別れなかったのには秘訣がある。知りたい?」
 ルカは頷いた。
「よし。では教えて進ぜよう」アルナウはルカの手を放し、ゆっくりと人差し指を立てた。「それはね、相手を見くびらないことだ」
「見くびる?」
「言い方を変えれば、相手を信じてやるってことだな。こんなことを言ったら傷つくんじゃないか、こういうことは彼には対処しきれないんじゃないか、こんなことをしたら彼は愛してくれなくなるんじゃないか……そんな遠慮のせいで、現実にある問題から目を逸らしちゃいけない。俺は、マリサは地球上の大抵のトラブルを解決できると信じてる」アルナウは言い、冗談めかしてウィンクした。「多分、彼女が本気を出せば、地球温暖化だって来年までに終わるさ」
「相手を……信じる」
 俺はいままで、彼を信じていなかっただろうか?
 阿形は優しい。寛容で、自分よりずっと大人だ。包容力があって、どんなことでも受け止めてくれる。
 でもそれなら何故、言葉に形作ることすらできずに、喉の奥で消えてしまったいくつもの問いがあったのだろう。俺は彼を見くびっていたのか?
「アルナウ」嵐の海のようにざわめく思いを抱えたまま、ルカは言った。「ありがとう」
「どういたしまして」アルナウは力強く微笑んで、ルカの手をぎゅっと握った。
 彼は一口だけコーヒーを飲むと、老婆のように唇を窄め、もう一度ルカに「それ以上飲むなよ」と釘を刺してから席を立った。「海にいる連中にも挨拶してくる。あとで合流して、飯でも食おう」
「それじゃ、あとで」
 アルナウは頷くと、ビーチの方へ向かっていった。その姿が見えなくなるやいなや、スマートフォンの画面を確認したけれど、誰からも、何の連絡もなかった。
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