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『明日、何時に着く?』
 スマートフォンの画面に表示されたメッセージと差出人を見て、阿形は頭を抱え、それから途方に暮れた顔をあげた。
 徹夜明けの目を刺す十月の陽光に眉をひそめ、公園のベンチに腰かけたまま死人のような視線を彷徨わせる阿形の姿は、さながら、数週間後に訪れるハロウィンの予行演習だった。
 阿形は気を取り直して、もう一度スマートフォンを見た。メッセージは相変わらずそこにある。
『明日、何時に着く?』
 時計によれば、ルカとの約束まではまだ時間があった。
 ため息をつき、ロックを外してメッセージを立ち上げ『明日は行かない』と打ち込んでから、『行けない』に修正して送信した。続けて『前に言っておいただろ』という一文も。
 予想通り、すぐさま電話がかかってきた。
 阿形は深呼吸してから電話に出た。
「はい」
「兄貴、一年に一度は顔を見せるって約束はどうしたんだよ」開口一番、電話の向こうで弟が言った。「お盆にも帰らなかったんだって?」
「仕事だ」
 嘘ではない。夏の休暇は七月のことで、世間一般のお盆の時期には仕事をしていたのだ。明日もクライアントとの打ち合わせがある。もちろん、スケジュールを組み直すことだってできたが、そうはしなかった。実家に帰らなくて済むなら、空白だったとしても率先して予定を詰め込んでいただろう。
「弟の三回忌より大事な仕事かよ」信明は声に怒りを滲ませた。「俺だって、撮影の合間を縫って今日と明日だけはなんとか休みを入れたんだぞ」
 そう言われるのはわかっていたけれど、だからと言って罪悪感が軽減されるわけではない。いい歳をした大人の振る舞いではないという自覚もある。
 弁護士だった弟の信彦──兄弟の中で唯一、父の望みを叶えた心優しい弟は、二年前に死んだ。法曹界でのキャリアをスタートさせた矢先の交通事故だった。
「お前がいれば、信彦は喜んでくれる」苦し紛れに、阿形は言った。「俺はあとから、一人で墓参りに行くから」
 電話の向こうから、長いため息が聞こえた。
「親父に会いたくないのはわかるけどさ……」
「俺が行くとどうなるか、去年の正月でよくわかっただろ」阿形は言った。親戚一同を前に繰り広げられた醜い罵り合いは、中江家歴史絵巻の最新のハイライトだ。「俺があの人に会いたくないんじゃない。あの人が俺に会いたくないんだよ。大事な日に、またあれを繰り返したくない」
 しばらく、重たい沈黙が続いた。
「信彦は、兄貴のことが好きだったよ」
「お前のこともな」阿形は言った。「悪いと思ってる。本当に。でも、今回は見送る」
「わかった」あとに続くのは「じゃあな」だと思っていたけれど、そうではなかった。「兄貴の小説、読んだよ」
「それは……どうも」
 新聞での連載は、先週の日曜日の分で三回目を数えた。反応は上々で、全六回の予定が八回に延びることが決定したばかりだった。
「良かったよ。兄貴はもともとストーリーもの向きだもんな。でも、主人公の性別がわからないのは、隠し事されてるみたいですっきりしない」大学時代から下読みに付き合わせていただけあって、信明のダメ出しは板についている。「最後に種明かしするつもりか?」
「いや。クライアントがこのスタイルを気に入ってくれたから、今のところは変えないでいくつもりだ」
「ほーん」信明は言った。「ま、兄貴がそれでいいならいいけどさ。じゃあ、また連絡する」
「由貴さんと茉莉ちゃんによろしくな。あと、紀子さんにも」弟の妻と娘、それから、中江の後妻──つまり、義理の母だ。
「ああ。親父にも伝えとくよ」
 お馴染みの皮肉を最後に、電話が終わった。
 これで一段落ついた。阿形はため息をついて、ベンチの背もたれにもたれかかった。
 父親が自分を嫌う理由は両手に抱えきれないほど思いつく。ゲイであること。反対を押し切って芸能界を目指したこと。ポルノビデオに出演したこと──。だが阿形にも、父を許せない理由があった。
「誰にも言わないで」と信彦は言った。それが彼の最後の言葉だった。
「あなたのお父さんはヒーローなのよ」と母は言った。何年ものあいだ欺かれ続けたことを知ってもなお、そう信じたまま、彼女は死んだ。
 脇に追いやっていた疲労が、不意に足元から這いあがってくるのを感じる。このままこうして目を閉じていれば、やがて悪夢が約束された眠りの中に落ちていくだろう。だが、それに抵抗するだけの気力を奮い起こすのが、いまはとても難しい……。
 そのとき、右手に握りしめたままだったスマートフォンが震えた。
『どのあたりにいる?』
 ──ルカ。
『時計近くのベンチ』
 返信するが早いか、視界の端に気配を感じた。
 ニットキャップをかぶり、ストールをまきつけ、丈の長い厚手のカーディガンの上にダッフルコートを着込んだ背の高い男が、急ぎ足でこちらに向かってくる。マスクをしていても、その下に満面の笑みを浮かべているのがわかった。
「ごめん、待った?」ほんの少し、息があがっている。
「いや、いいよ」阿形は立ち上がって、ルカの顔を見た。「変装が板についてきたな」
「え、これ? 違うよ。ただ寒いだけ」
 言葉だけ聞いたなら、変装をしなければ街中で会えないことを気に病む阿形をおもんばかって言った冗談なのだろうと思うところだが、ルカの声は真剣だった。
「その格好で、まだ寒いのか?」阿形は言った。
「俺は半分ブラジル人で、雪が降らない県で育ったんだよ、ノブさん」ルカは半分恨み言のようにこぼした。
「いまからそんなで、冬になったらどうする? スキーウェアでも着ないと死んじまうんじゃないか」
「ううう」ルカは『冬』という単語だけで身震いした。「いまから考えさせないで」
「じゃあ、暖かいところに行くか。次の仕事は?」
 歩き出したルカの顔が、寂しそうに曇った。「十六時に品川」
「俺も十五時から打ち合わせだから、ちょうどいいな」
 ここのところ二人とも仕事が立て込んできて、こうして互いの仕事の合間の短い時間に会う算段をつけなければ、次に顔を見られるのがいつになるのかわからない状況だった。ルカと会うようになるまでは、ほんの二時間の逢瀬──しかも、セックスはなし──になど何の意味も見出さなかっただろう。けれどいまは、ほんの数分でも、このコロコロとよく変わる表情を眺めていられれば、それでいいと思っていた。

 ルカは、いい店を知っているからと、個室があるレストランに案内してくれた。こういう店を重宝する人間は多いようで、案内されるまでに通り過ぎた個室のほとんどの戸が閉ざされていた。
 丸いテーブルを囲む馬蹄型のソファに腰掛け、軽食と飲み物の注文を済ませてしまうと、阿形は言った。
「そういえばこの間、服屋でお前が映ってるビデオを見たよ」
 うわ、とルカは悪戯が見つかったような声を出した。「服屋って、どの?」
「あー……黒っぽいとこ」ファッションにうといせいで、いつまで経っても店の名前が覚えられない。「ニューヨークのビルの屋上で撮ってた。いつ撮影したんだ?」
 分厚いニットキャップとコートを脱ぎ、ストールを解きながら、ルカは記憶の糸を辿っていた。
「ああ! あれか」ルカが頷いた。「あの背景、合成なんだよね。ほんとは全部スタジオなんだよ」
「じゃあ、後ろは全部ブルースクリーン?」
 映像を見ただけではちっとも気づけなかった。撮影技術の進歩に関して、阿形の認識は十年前にのめり込んだ貧乏学生の自主製作映画で止まっている。素直に舌を巻いた。
「そう。かっこつけるのに苦労したよ……とにかくシュールで」
 しばらくして、注文したものが運ばれてきた。『ご注文は以上でお揃いですか?』という質問に頷くまでは、節度ある距離を保つ、節度ある二人の大人の男でいなくてはならない。店員が扉を閉めるが早いか、ルカは阿形ににじり寄った。それから、運ばれてきた料理には目もくれず、阿形の肩にそっと頭を載せて「お疲れさま」と呟いた。
「お前もな」阿形は言い、撫で心地の良いふわふわの髪を撫でた。
「今日は、いつもより疲れた顔してる」ルカが言った。「仕事が忙しいなら、無理して会わなくても平気だよ」
「大丈夫だ」阿形は言い、安心させるように微笑んだ。
 本当に心配する必要はないのだから、それ以外に言いようがない。けれど、こういう返事をすると、ルカはいつでも不満げな顔をした。自分にも何かできることがあるはずなのにと信じて疑わない表情を。
「ほら、せっかく温かい飯が来たのに、冷めちまうぞ」
 阿形が促すと、ルカは渋々身を離して無言のうちにコーヒーを啜った。
「望月から聞いたけど、今度五周年記念のビデオの監督をやるんだって?」
 今度は、ルカは顔中で失望を表明した。「俺から言いたかったのに!」
 そのリアクションに、阿形は思わず笑ってしまった。
 つい先日、望月と電話で話す機会があった。来年で創業五周年を迎える《ウィル・シー》のキャンペーンの一環として、同社が刊行している雑誌にエッセイを執筆してほしいという内容の電話だった。望月からそういうオファーが来るのは初めてではない。おそらくこれは、カミングアウトの場を提供する意思があることを示す、彼なりの思いやりなのだろう。だが、例に漏れず、阿形は今回もその依頼を断った。
 そのことを半ば予想していた望月の話題は、会社の創業記念日と同じ月に東京で行われるプライドパレードの話題に移った。
 その話の最中に、ルカに五周年記念の動画の監督を任せるという話が飛び出したのだった。
「なんだよぉ」ルカはむくれた顔でドリアをつついて虐めた。
「良かったじゃないか。この間のビデオも好評だったんだろ。大抜擢って奴だな」
 まあね、とルカは言い、ちらりと阿形の方を見た。「どうせいつか言うつもりだったから、いま訊きますけど」
「ん?」
 眉をあげた阿形に向かって、ルカは拝むように両手を合わせた。
「動画に添える台詞を、書いてくれませんか!」
 ほんの三日前に似たような仕事を断ったばかりだったので、阿形は一瞬硬直してしまった。その顔を見て、ルカは畳みかけるように言った。「詩みたいな、手紙みたいなものをイメージしてるんだ。ポルノっぽくない、もっと優しくて、誰かを勇気づけるような動画にしたいんだよ。だから、阿形さんに頼むのがぴったりだと思って」
 改めて『阿形さん』などと呼ばれると、妙な気分だ。だが、これがルカなりの礼儀なのだろう。
「詩みたいな、手紙みたいな、か……」
 きっと、いい作品になる。ルカの撮ったものはほんの短い動画しか観たことがないけれど、目にした瞬間に、彼が見ている世界を言葉で表すとしたらどうなるだろうと考えていたことを思い出す。
 望月からのオファーは断った。彼が求めるエッセイには、阿形の名前が必要だったから。けれど、これは──。
「俺の名前をクレジットしないと約束してくれるなら、いいよ」
「まじで!」
 さっきまでとは打って変わったルカの喜びように、阿形は微笑んだ。「ああ。まじだ」
 誰かに勇気を与えるような、とは、自ら輝くことで他の人間を楽しませることができるルカの考えそうなことだと思う。他ならぬ自分こそが、その恩恵にあずかっているのだ。
 彼は、思い描いた通りのものを作りあげるだろう。阿形には、そんな大それたアイデアを思いつくことすらできない。それでも、こうしてわれて、彼を手伝えることが、心密かに誇らしかった。

 きっと、少し浮かれていたのだ。
 徹夜明けで頭がぼーっとしていたせいもあるし、弟との気まずい電話のあとでルカに会った開放感も一因だった。ルカがマスクを着けずに店を出たのを注意せず、別れ際にハグをし、手を繋いだことをたしなめなかったのもまずかった。だが、あんなに歓び、体中で幸せを体現していたルカに、どうしてそんなことができる?
 いま思えば──あれは起こるべくして起こったことだった。
 あの日、昼食を食べてからものの数時間後に、SNSに一つの投稿があった。
『銀座のマテウスの近くでルカ目撃! 一緒にいるのは恋人かな!?』
 その一文と共にアップされた三枚の画像は、スマートフォンのズームを最大にした状態で撮影されていたせいで酷くぼやけていた。メディアにほとんど顔を晒していない阿形を特定することは難しい。けれどそこに映った、手を繋ぎ、ハグをする二人の姿は、恋人同士以外の何者にも見えなかった。
 投稿は拡散されたが、それに対する反応のほとんどは好意的な意見だったそうだ。SNSの類には縁のない阿形には、それすら伝え聞いた話でしかないが、とにかく、世に聞く『炎上』という事態にはなっていないと聞いて、ほっとする。
 望月は、ルカの相手が阿形だと知っている唯一の人間として至極自然なアドバイス――カミングアウトすればいいだろ──をくれたが、阿形は首を縦には振らなかった。
『ルカに恋人がいること』が世間に許された。それだけで十分だ。それ以上の情報を、決して明らかにするつもりはなかった。

「ノブさん、本当にごめん」
 写真の流出以来、ルカは何度も阿形に謝っていた。当然ながら会うのは控えていたので、あの日から、いまに至るまでの一か月は電話口で言葉を交わすだけに留めている。
「いいって。俺の名前はどこにも出てないし、お前の方がダメージが大きいだろ」阿形は安心させるように言った。
「そんなことないよ。どこからも契約を切られてないし」
 その言葉が本当なら喜ばしいことだ。だが、他人を傷つけないための嘘というものが、この世には存在する。
「明日からギリシャだっけ?」阿形はわざと話題を変えた。
「うん。一週間」ルカの声は暗かった。「行きたくないな、こんなときに」
「大丈夫だ」語気が強すぎた気がして、すぐに言葉を足した。「心配するな。もう遅いから、そろそろ寝ろよ」
「帰ってきたら、また電話してもいい?」
 あまりにしおらしくて、思わず笑みが零れてしまう。「ああ。いつでもいいから。気をつけてな」
 電話を切った阿形は、この数時間立ち上げっぱなしになっていたパソコンの画面を見つめた。
 今や瞼の裏にまで焼き付いた三枚の写真。それが添付された一通のメールが、阿形の返信を待っていた。

『この写真、お前だよな?』
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