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「はぁ……ほんと無理。幸せすぎて」
 居酒屋の個室に集まった四人の男たちのうち、テーブルについた両肘に顎を乗せ、おとぎ話の姫のように夢見がちな表情を浮かべるルカを、残りの二人は呆れ顔で、もう一人は困惑顔で見つめた。
 短い茶髪と、両耳に光るシルバーのピアスが特徴的な雄司ゆうじは、気を取り直してタッチパネル式のメニューを手にとった。
「はーい。またルカがウザいこと言ったから枝豆追加ね」
「幸せだって言っただけだろ」そう言い返すルカの顔には、まだ拭いきれない笑みが残っている。「わかった。だし巻き卵おごるからちょっと聞いて」
「は? 焼き鳥盛り合わせに匹敵する苦痛だぞ」雄司はルカの提案を却下してタッチパネルを叩いた。「俺たちのシノブさんを横取りしやがって」
「いい、いい。なんでもおごってあげる」ルカは両手を差し出して『どうぞ』の仕草をした。「せめてそれくらいのことはさせてよ」
「チッ! こいつマジ……」
 雄司はルカを睨みつつ注文を完了し、タッチパネルを充電用のクレードルに戻した。それから、隣に座っていたポロシャツ姿の青年にしなだれかかり、立派な胸筋をここぞとばかりに揉んだ。「将人まさとくぅん、こいつどうにかして」
 将人は倒れ込んできた雄司を受け止めつつも、助けを求める眼差しで薄暗い個室を見回した。
「やめろ、酔っ払い」右隣にいた稜介りょうすけが雄司のパーカーのフードを引っ張って姿勢を正させる。「新人にお前のノリを押しつけるなよ」
 黒縁の眼鏡に黒髪のツーブロック、黒いジャケットに身を包んだ稜介は《サーカス》時代から雄司のお目付役だった。
「ごめんな。こいつのことは遠慮しないでぶん殴っていいよ」
 稜介が雄司の代わりに謝ると、将人は恐縮して「いえ! 俺で良ければ胸、お貸しします」と、体育会系らしいはきはきとした口調で答えた。
「将人くんは知らないでしょ」ルカはモヒートをちびりと飲んで言った。「俺たちみんな、デビューしたての頃にシノブさんってひとと共演してるんだ」
「大昔の話だけどな」と稜介。
「まだ五年しか経ってねぇよ!」
 と噛みつく雄司に、稜介は「ゲイビ業界の五年は、娑婆の十年だ」と釘を刺した。
「入れ替わりが激しいからなぁ」ルカはしみじみと言った。「俺たちはいまだにカラミで出演さしてもらって、運がいいよ」
「実力だろ、そんなの」雄司がぼやいた。「うちはレーティングがすべてなんだから」
 《ウィル・シー》では、ゲイビデオの販売はオンデマンド配信の方式をとっている。一つの動画に対して、視聴者は『良い』か『悪い』の評価を与えることができ、出演した動画の評価レーティングが高ければ高いほど、モデルの出演依頼は多くなる。実力のあるモデルにとっては有り難いが、同時にシビアなシステムでもある。
「最初がシノブさんだったから良かったんじゃないかって気がするよ、俺たちは」稜介が言った。「業界の裏側を見るって、なんだかんだ言ってショッキングなもんだけどさ、それでもこの仕事も悪くないなって思えたのは、シノブさんのおかげだよな」
「ああ。正直《サーカス》はクソだった。唯一の救いは、潰れたことと、シノブさんがいたことだけだ」
 それじゃ唯二ゆいにじゃん、と言うルカの向こう脛を、テーブルの下で雄司が蹴った。
「はぁ……そんなにすごい方だったんですか」将人は感心したように言った。
「そーだよ!」雄司は四杯目のウーロンハイを飲み干して、勢いよくテーブルに置いた。「あの人はいま堅気に戻って、俺たちの手の届かないところにいっちまったから諦められてたんだ。それをこいつがさぁ!」
 雄司がくだを巻いている最中に個室のドアが開き、先ほど注文した料理と追加の酒が運び込まれてきた。空になったグラスを下げる店員に、稜介はさりげなく「水、貰えます?」と頼んでいた。
「ほらほら、焼き鳥食べて落ち着いて」ルカは満面の笑みを浮かべたまま、大皿を雄司の方へおしやった。「で、もう話していい?」
「駄目!」と雄司。
「それで?」稜介は雄司とは違って理性的だった。
「この間、車で鎌倉に行ったんだけど」ルカは髪を玩びながら続けた。「その帰りに渋滞に捕まってさ……」
 皆まで言わないうちに、雄司が遮った。「お前……最っ悪。クソビッチ。死ね」
「雄司!」稜介がたしなめて、先を促した。「まさか、運転しながらヤった?」
「そこまではさすがにしないよ! 俺が口でしただけ」ルカは言い、にっこりと笑った。「そのあとノブさんちに行ったけど」
 将人くぅん! と雄司は再び後輩に泣きついた。将人もこの酔っ払いの扱いがわかってきたようで、緩く抱きしめたまま、あやすように背中をぽんぽんと叩いてやっている。
「お前が幸せそうで安心したよ」稜介が微笑んだ。
「うん……」
 そのはずなのに、ルカはわずかに表情を曇らせた。
「どうした?」
「本当に聞いてほしいのはここからなんだけど」ルカは掘りごたつから脚を引き出して、膝を抱えた。「あのさ……ノブさんに『俺がタチをやりたい』って言ったら、振られると思う?」
 三人の男が、ルカを見たまま固まった。
 そのとき再び個室のドアが開き、先ほど頼んだお冷やが届けられた。稜介はルカを見たままグラスを受け取り、雄司に手渡した。雄司もまたルカを見つめたまま、それをごくりと飲み、テーブルに置いた。そして言った。
「は?」
 発端は、阿形の欠伸あくびだった。

「朝から運転させちゃってごめん。交代できたら良いんだけど……」
 助手席で心持ち肩を窄めて、ルカが阿形の顔を覗きこんだ。仕事が立て込む時期ではないとは言っていたけれど、目の周りには疲労の影が落ちている。
「気にするな」阿形は言い、横顔で笑った。「渋滞に捕まると眠くなるだけだから。これを抜けたらコンビニに寄って、コーヒーでも買うよ」
「うん……」
 言いながら、ルカは前方に視線を向けた。片道一車線の山道に連なるブレーキランプの列は十分前からほんの十メートルほどしか動いていないように見える。
 もう一度、今度はこっそりと、阿形の横顔を盗み見た。
 二人で出掛けるようになって、そろそろ一か月になる。けれどまだ、二人の関係を表すための言葉を見つけられていない。あまり人の多いところには出て行ないけれど、それでもどうにかして二人で食事をし、デートをし、セックスをしているのだから、ルカとしては『恋人』と呼びたいところだ。けれど、心の中で踏み切ることができない。
 阿形の気持ちがわからないから。
 そして、それを尋ねる勇気が、自分にはないから。
「なに?」
 視線に気づいていた阿形が、ニヤリと笑ってルカを見た。
 その笑顔を向けられるだけで、呼吸が止まりそうになると伝えたら、何かが変わるのだろうか。
 伝える代わりに、悪戯っぽく微笑んだ。「眠いなら、目が覚めることしてあげる」
 ルカはシートベルトを外して体勢を変え、ハンドルを握る阿形の左腕と脚の間に頭を突っ込んだ。
「え? おい──!」
 無意識に後ずさろうとする阿形の身体を捕まえつつ、手際よくジーンズのボタンを外し、ファスナーを降ろす。
「待て、もういい! 目は覚めたから!!」
 阿形はルカの髪を掴んで引き剥がそうとしたけれど、こちらの身を気遣ってか、力を入れていないせいで何の威力もない。
「いいから、前見てて」ルカは言い、下着の中に手を差し込んだ。
 ハンドルから両手を離して抵抗されたとしても、ルカの方が力が強いのは明白だ。引き出したものを手の中に横たえて、ふっと息を吹きかけると、阿形がびくりと身を竦めた。
「馬鹿! いい加減に──」
 最後の言葉は立ち消えになった。
 抵抗虚しくルカの口内に飲み込まれたものは、あるじを裏切って快感を受け入れ始めている。
 ほとんどハンドルを抱きかかえるようにして歯を食いしばる阿形は、ルカの舌が敏感な場所を責めるたびに小さな声を漏らしていた。前の車が動けばそれに続かないわけにはいかないから、ブレーキに載せた足を動かして、なんとか車を進めている。
「お前……あとで覚えてろよ」
 凄みのある声で阿形が言うと、ルカは先端に唇をつけたまま「やったね」と囁き、また震えさせた。
 狭い空間が許す限り大きく頭を上下させ、口の中のすべての粘膜を駆使してフェラチオを続ける。
「は……」
 阿形は声にならない声をあげて、抗うためか、それとも促すために、ルカの髪を掴んだ。
 いま、彼がどんな顔をしているか見られたら良いのに。眉根を寄せ、唇を噛み締めた切なげな表情をしているだろうか? それともすでに降伏して、ただそのときを待っているのだろうか?
「あ、ルカ、放せ……!」
 そんなことを言われたところで放さないことはそろそろわかってもいい頃なのに、阿形は毎回そう言った。
「ん……っ!」
 暴れないようにと押さえつけた掌の下で、腹筋が硬くなり、息が止まったのがわかる。それから、口の中で彼自身が脈打ち、温かいものが迸った。とてものど越しが良いとは言えないそれを飲み下し、さらに根元から先端に向かって、濾し出すように唇で扱く。達したばかりで敏感なものを玩ばれて、阿形は息を吐き出しながらまた震えた。
 それから、濡れたペニスを拭って下着の中に戻そうとするルカを「そこまでしなくていい!」と叱り、片手で身繕いをした。ルカが大人しくシートベルトをつけ直したのを横目で確かめてから、阿形は大きなため息をついた。
「目、覚めたでしょ?」
「あのなぁ……!」
 言いかけた声を遮って、耳をつんざくマフラー音がけたたましく鳴り響いた。渋滞で連なる車の隙間を縫って、暴走族の一団が、硬直する二人のすぐ傍を低速で蛇行していった。
 あともう数秒遅かったら、きっとあのうちの何人かに目撃されていたはずだ。
 同じ背筋の冷たさを共有して、二人は無言のうちに目を合わせた。それから、どちらともなく吹き出して、そのまま腹がよじれるほど笑った。そして、後ろからクラクションを鳴らされて、慌てて車を進めた。
 馬鹿笑いが収まると、阿形はルカを見て困ったような笑みを浮かべた。それから左手を伸ばし、ルカの濡れた唇を指先で拭った。
「明日、仕事は?」
 どぎまぎしながら答える。「午後からだけど……」
「カラミか?」
「ううん」
 ルカの仕事がなんであれ、阿形がそれに拒否感を示したことはない。自分なりに誇りを持って全うしている仕事だから、尊重してくれるのは素直に嬉しい。それでも、明日誰かを抱くのだと告げなくて良いのは気が楽だった。
「服を着て写真撮る仕事」
「なら、うちにくるか」
「いく!」ルカは阿形が言い終わらないうちに返事をして、それから言った。「いいの?」
「いいよ。ちょっと汚いけど」それから、ほんの少し間を置いて付け足した。「あと、ベッドも狭いな。お前には」
 ルカは満面の笑みで答えた。「狭い方がいい」
「それで、なんでお前がシノブさんの上になるって話になるんだよ」雄司はイライラしているのを隠そうともせずに言った。「ていうか、いまの話必要だったか?」
「そのあと、ノブさんちに行って『お返し』してもらったんだから、『お返し』してもらう前の話も聞いてもらわないと」ルカは悪びれずに笑った。
「お前、たいがい性格悪いよな」
 雄司は言い、レバーの串にかじりついた。余計に血の気が多くなるだろうに。
「で、今度は俺が口でしてもらったんだけど……」ルカはため息をついて、抱えた膝小僧の上に顎を載せた。「一生懸命してくれてるのを見たら、頭を撫でたくなるでしょ。そうするとこっちを見る──上目遣いで」
 ああ……と、一同から身に覚えありという声が漏れた。
「そしたらなんかこう……ぶわってなっちゃって。ああ、この人のこと、めちゃくちゃにしたいなって」そこまで言ってから、ルカはわずかに首をかしげた。「いや、めちゃくちゃにしたいってのは違うな──もっとこう……なんて言えばいいのか……」
「まぁ、気持ちはわからんでもない」稜介が言った。
「そのシノブさんて方は、ボトムの経験あるんですか」将人がおずおずと訊いた。
「あー……俺が知ってるのは一回だけだな」と稜介。「俺が入ったばっかのときに輪姦モノを撮ってたけど、お蔵入りになった」
「まじで!?」ルカと雄司が同時に身を乗り出した。
「そう、シノブさんが体育教師で、周りは全部生徒って企画だったかな」
 ルカは両手で口を押さえ、くぐもった声で「うわー、うわー」と呟いた。「稜介、観た? データ持ってないよね?」
 《サーカス》はとても人材豊富な事務所とは言えなかったから、モデルでも暇さえあれば製作現場に入っていた。稜介はよくモザイク処理を手伝っていた関係で、出回らないデータにもアクセスできていたのだ。
「お前、マジで観たいのか?」
「観たくない」ルカは瞼に皺が寄るほどぎゅっと目をつぶった。「観たくないけど、観たいけど、観たくない」
「俺は観たい」雄司が言った。「なんでお蔵入りになったんだよ? 売れそうな企画なのに」
「タチ役の一人が撮影中にシノブさんに怪我させたから。撮影自体が中止になったらしい」
 ルカの顔から血の気が引き、酔いが一気に覚めた。「怪我?」
「原因になった奴は辞めさせられてたよ。荒っぽいスタイルの人だったらしくて、しばらく噂になってた」雄司が言った。
「そいつの名前、知ってる?」
 ルカの声には感情がなかった。
 稜介はすぐには答えず、ルカを見つめた。「訊いてどうする?」
「別に」ルカは俯いて、氷で薄まったモヒートを呷ってから、もう一度言った。「別に、どうもしないけどさ」
「とにかく、それ以来ウケはやってないはず」
「一番古株のこいつが言うなら、少なくともこの五、六年はやってないんだろうな」雄司が言った。「プライベートはどうだったか知らんけど」
 うう、と呻いて、ルカは膝に額をつけた。「それは考えたくない」
「病気だわ、お前」
 うん知ってる、とルカは頷いた。「はぁ……一回くらいなら、駄目かなぁ」
「努力次第だな」
 稜介は励ますように言ったけれど、『多くは望むな』という言葉の彼なりの婉曲表現なのはルカにもわかった。
「うじうじ言ってないで、さっさと迫って振られちまえ」雄司が言った。「バチが当たるぞ、マジで」
「わかってる」ルカは呻いた。「わかってるよ……」
『振られる』以前に『付き合って』いるのかどうかすら自信がないのに、これ以上自分の幸せばかり求めてはいけないと、わかっている。阿形が自分にしてくれたことの半分も恩返しできていない。それなのに、あのひとからもっと手に入れようだなんて、虫が良いにもほどがあるだろう。
 この関係は、いままでに経験したどんなものとも違う。執念にも似た思いで憧れ続けたひとと、ようやく繋がることができたのだ。それを壊すくらいなら、願望に蓋をするくらい、難しいことじゃない。

 店を出ると、雄司と稜介は二人で住んでいるアパートに帰っていった。
「あの二人、もしかして……?」
 目を丸くする将人に、ルカは頷いた。「もう三年くらい付き合ってるんだよ」
 将人は二人の背中を見つめたまま、心配そうに言った。「モデル同士って、大変じゃないですか?」
「大変だろうね。付き合いたての頃は何度も喧嘩してたよ。最近は落ち着いてきたけど」
「へぇ……」俺だったら無理だな、と将人が思っているのがなんとなく伝わってきたけれど、ルカの前で口に出すようなことはしなかった。
「この仕事、嫌だって言われないんですか」将人はおずおずと訊いた。「シノブさんに」
「んー? 言われないね」
 それが何を意味するのか考えないようにしながら、ルカは駅への道を歩き始めた。
 開放感とアルコールとアドレナリン、それから目映いネオンサインが渾然一体となった金曜の夜の喧騒が、川のように流れてゆく繁華街。夜が更けてもなお、次のオアシスを求めて彷徨う人の群れ。それを掻き分けながら、二人は歩いた。
 駅の改札まで来たときに、将人が神妙な声で言った。
「あの……明日、よろしくお願いします」
「うん。よろしく」ルカはふっと笑って、強張る肩のラインを解すように手を置いた。「いまから緊張してる?」
「下になるの、初めてなので……」自分のことをふがいないと思っているような顔で俯く。「すんません。多分、ご迷惑おかけすると思います」
「そんなにかしこまることないって」ルカは励ますように背中を叩いた。
 いままでに何度、こんな瞬間を迎えてきただろう。そのたびに、自分に勇気を与えてくれた阿形の微笑みを思い出してきた。少しでも彼に近づきたいと思いながら。
「緊張しててもいいよ。俺がリラックスさせてあげる」
 ルカは肩に置いた手を滑らせて、秋の空気に冷えた首筋に当てた。そうして、耳元にそっと口を寄せ、ターミナル駅のざわめきに負けないほど確かな囁きを吹き込んだ。
「明日は、君のことだけ考えるから」
 それだけ言うと、ルカは身を翻して改札をくぐった。
『この世は一つの舞台。男も女も、すべてその役者にすぎぬ』
 そして、これが俺の『役』だ。
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