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 シートが汚れてしまうからと、後部座席の床の上にしゃがんで乗り込もうとしていたルカをなんとか説得して助手席に座らせた。
 いくら雰囲気に流されたと言っても、あんなに開けた場所で男といちゃつくなんて、何を考えていたのか。いつもなら、あんな風に分別をなくすことはないのに。
 あの不良たちは、ルカの顔を知っているだろうか。まさにああいうときのためにサングラスを持たせたのに、わざわざ外して顔を見せてやるなんて、抜けているというか、あけっぴろげというか。大事に至る前に制止できて、本当に良かった。
「すみませんでした」助手席で身を縮めて、ルカがぽつりと言った。
「いいよ。汚れちまったのはお前の方だろ」
 ルカはそれ以上、何も言わなかった。

 平屋建てのこぢんまりしたコテージには、ユニットバスと小さな台所があった。それから、海がよく見える大きな窓の傍に、小さなサイドテーブルを挟んで二つのベッドが並んでいた。阿形はしょげ返ったルカを風呂場に押し込んで戸を閉めてから、途中のコンビニで買ったビールを開けた。
 宿の用意なんて全く期待していなかったのに、海からほど近いコテージを予約してあると聞かされたときは素直に驚いた。だが、よく考えたら、このロケハンが単なる雑誌のグラビアのためだけのものであるはずがない。おそらく、グラビアの撮影と並行して、ここでビデオの撮影を行うのだろう。そう考えると、一層生々しく、今夜ルカと同じ屋根の下で眠るという現実が迫ってきた。
 明らかに自分のことを好いているゲイと、ステディな恋人とは年単位で縁がないゲイとが同じ場所で寝泊まりして、何も起きないわけがない。だから、あの海岸で起こったこと──起こりそうになったことを考えないようにするのは無意味だとわかっていた。
 相手がルカじゃなければ、一夜だけの関係を楽しむこともできたかもしれない。だが、ルカはこの十二時間のうちにもう何度も、五年間阿形を想い続けたことを公言していた。もしなったとして、一度で終わりにできるか?
 多分、一回りかそれと同じくらい年下の、いまをときめくポルノスター。かたやこちらは、世間に後ろ指を指されることを恐れて生きる、しがないクローゼットだ。ようやく手に入れた平穏を守っていきたいなら、妙な感傷に流されて関係を持たないほうがいい。
 そのとき、バスルームの扉が開く音がした。
 物陰から、大判のタオルで身体を拭く音が聞こえてくる。それだけで緊張しそうになる自分を笑い飛ばして、阿形は冷蔵庫で冷やしておいたミネラルウォーターを手渡そうと、ルカに近づいた。もちろん、下着を履いたタイミングを見計らって。
「少しはましな気分になったか?」
「あ、はい……」ルカは気のない返事をして、差し出された水のボトルを受け取った。
 ルカは着古したスウェットのパンツだけを身につけた状態で、上には何も着ていなかった。かすかに水滴の残る肌から、備え付けのボディーソープの甘い香りが立ち上っている。彼は酒でも呷るように水を飲み、それから、洗面台に丸めておいてあるパーカーに未練がましい視線を向けた。
 そんな彼をさらに気落ちさせるのは気が進まなかったけれど、この旅行の目的は単なる気晴らしだ。人生を脅かすほどの変化は歓迎されないはずだ。どちらにとっても。
「俺も風呂に入るから──先に寝てろよ」
 明確な拒否。
 ルカは阿形の方を見て、弱弱しい笑みを浮かべた。「試してみるのも、駄目?」
「相談にはのってやるよ。でも、そこまでだ」
 ルカは、ゆっくりと俯いた。「はい」
 多分、仔犬を殴ったら、こんな気分になるのだろう。
「わかるだろ」阿形は言った。「もう、冒険できる歳じゃないんだよ」
 ルカは小さく頷いて、静かにベッドの方へと向かった。
 その気落ちした背中を抱きしめたいと思うのは人間として当然の感情だと自分を納得させようとしながら、阿形は三分間ほど冷水のシャワーを頭に浴びた。

 夕方から吹き始めた強風は、夜半までにちょっとした嵐に変わった。
 こちらを脅かそうとするかのような海鳴りを聞きながら、慣れないベッドの中で何度も寝返りを打つ。分厚い雲に覆われて月も見えないはずなのに、窓の隙間からうすぼんやりと光が忍び込んできているらしく、目を開ければ部屋の中を見通すことができた。だから、少し離れたところにあるベッドに大きな身体をたくし込んで横になっているルカもまた、同じように眠れない夜を過ごしているのがわかった。
「ノブさん……寝てる?」
 にも拘わらす、小さな声でそう呼ばれたとき、咄嗟に寝たふりを決め込んで返事をしなかった。阿形の狸寝入りに気づいていたのかどうかわからないけれど、ルカはそのまま話し続けた。
「俺ね、小さいころ海のすぐ傍に住んでたから、悲しいことがあると、いつも海に行って日が沈むまで座って眺めてたんだ」
 多分、ルカにはそんな日々がいくつもあったのだろうと、阿形は思った。珍しいものを有り難がるのは人間の性だけれど、幼い集団の中ではルカのような子供は異分子とみなされ、のけ者にされやすい。以前、移民が多い地域のことを記事にしたときの取材で、日本語を話せず、さりとて彼らの母語に通じた教師もいないので、クラスの中で孤立してしまう子供たちがいるという話を聞いていた。彼がポルトガル語と日本語をこれほど流暢に話すのは、この社会と母親の間に立つ通訳として努力した証しなのだろう。父親を亡くしたばかりの子供には、あまりに重い責任だ。
「だから、海の傍にいるとすごく落ち着くんだけど……海鳴りだけは、いくつになっても怖くて。夜になると母さんマーイの布団のすぐ隣で寝てたんだ。わざわざ弟たちをどけてまで」
 小さな笑いにつられて、阿形も微笑みそうになる。
「あの音は、俺が海に流した良くない気持ちが立てる音だと思ってた。さすがに、中学に上がる頃には気のせいだと思えるようになったけど。それでも──」
 まったく。
 阿形が盛大なため息をついたので、ルカはそこから先を言う前に口をつぐんだ。
「ほら」
 半ば自棄になって、布団を持ち上げる。暗闇に慣れきった目には、反対側のベッドで目を丸くして固まっているルカの表情がよく見えた。
「ほら」阿形はもう一度言った。「添い寝してほしいんだろ」
 ルカは一つ唾を飲み込んで、それからそろそろとベッドの上で身を起こした。「添い寝だけ?」
「独りで寝たいなら好きにしろ」
「ま、待って!」
 阿形が腕を降ろそうとすると、ルカが慌てて上掛けの下に飛び込んできた。大きな図体に押されて、背中が壁にくっつきそうになる。押しつぶしてしまうことを心配したルカが阿形の腰に手を回し、それがくすぐったくて身をくねらせた。
「よせ、馬鹿!」
「だって、ベッドが狭い──」
 そんなじゃれ合いが可笑しくて、つい、くすくすと笑ってしまう。他人を迎え入れたベッドは確かに狭いけれど、そこに触れることを許された肌がある感覚を、心が勝手に喜んでいる。
 まずい。
 ほんの数時間前にした決心が、早くもぐらついていた。
 ひとしきり笑ったあとに、ため息をつく。その沈黙のあとに何が来るのか、わかりすぎるほどわかっていた。
「俺、もう一つ謝らなくちゃいけないことがあって」
 ルカの息が、顔を撫でた。
 たったいま触れ合った一瞬のうちに感じた違和感の正体が、わかった気がする。
「勃たないってのは、嘘か?」
「ごめんなさい」ルカは赦しを請うように額で阿形の頭に触れ、小さな声で謝った。「動画の仕事が決まったとき、どうしてもあなたに報告したくて──何でもいいから会いたいって言ったら、社長が『そういうことにしておけば会ってくれる』って」
 今度は、阿形がため息をつく番だった。ただし、嘘だったことを喜びそうになっている自分の情けなさに対してだ。望月にどんな文句を言うかは、あとで考えようと思った。
「ごめん」もう一度、ルカは言った。
 阿形は、ふっと笑みをこぼした。「お前も、もの好きだな」
「ノブさん」
 掠れた声で、ルカが囁く。彼は、その顔を見上げることができずにいる阿形の手をとって、自分の左胸の上に押し当てた。
 燃えるように熱い肌。それを突き破りそうなほど脈打つ心臓の鼓動を感じる。
 それから、ルカの手が阿形の顎に添えられた。優しく促されるままに顔をあげると、あの日と同じ琥珀色の瞳が、潤んで揺れていた。
 力強い腕が自分の身体に回されるのを感じながら、瞼を閉じる。
 阿形は最後に、半分わかりかけていたことを尋ねた。
「明日の撮影しごとってのは……」
「それも嘘」
 唇を塞ぐ唇のしっとりと濡れた柔らかい感触に、躊躇ためらいはかき消えた。ほんの少し汗ばんだルカの首筋に手を当てて引き寄せ、遠慮がちなキスを終わらせるために、舌を差し込む。ルカは小さな呻き声をあげて阿形をぎゅっと抱き寄せ、嘘の証しを腰に押しつけた。思わず、ため息が漏れる。
 ルカが身を起こし、阿形をヘッドボード際に追い詰め、シャツを剥ぎ取った。互いの体温と滑らかな感触を味わいながら腰を重ね、柔らかいスウェット地の下で昂ぶるものを押しつけ合う。二人ともすでに息があがりかけていて、これ以上はまともな会話もできそうになかった。
 ひときわ深い口づけのあと、ルカは阿形の首筋、鎖骨、乳首へと愛おしむようなキスを重ねていった。そうして臍まで到達すると、許可も得ぬうちにスウェットを引き下ろした。
 暗闇の中で、視線がかちあう。互いの望みは明らかで、わざわざ口に出す必要すらなかった。
 ルカはボクサーの中で窮屈そうにしている阿形自身を引き出して、まじまじとそれを眺めた。
 あんまり見るな、と口にする前に、ルカが屈み込んで先端にキスをする。もう一度。そして、もう一度。それはだんだんと熱を帯び、ついには唇を使った愛撫に変わった。
「う……」
 久々の感覚に、思わず声が漏れる。
 先端に滲んだものを舐めとって、ルカが小さな声で呟いた。「美味しいゴストゾ
「なんて……?」陶然としかけた頭の中に浮かんだ疑問をそのまま口にする。
 ルカは答える代わりに低い声で笑って、今度はもっと深く飲み込んだ。亀頭が喉の奥を突く確かな感触に続いて、ぎゅっと窄まるその場所に締め付けられる。
「は、あ……」
 阿形の反応に気を良くしたのか、ルカは宥めるように阿形の腹に手を這わせて、そっとさすった。
 それにしても、巧くなった。
 最初の撮影でがちがちに緊張していたレオンと、いまここでいいように自分を喘がせているルカとが同じ人間なのだと思うと、また妙な感慨に襲われそうになる。阿形の屹立そのものを味わうように丹念に舌を這わせながら、気づくとルカも、スウェットの隙間から手を指し込んで、自身をしごいていた。
「ルカ」
 それを示して、交代を提案する。けれどルカは首を振って、すっかり勃ちあがったものをゆっくりと舐めあげてから、再び阿形に覆い被さってキスをねだった。
「抱いて」キスの合間に、ルカが言った。
「でも──」
 いいのか? と聞き返そうとした唇をキスで塞いでから、ルカが言った。
「準備、してきたから」
 その言葉の意味を訪ねる前に、ルカは身を引いて、スウェットのパンツと下着を一緒に降ろした。膝立ちの姿勢で手を後ろに回し、顔をしかめる。
「嘘だろ」阿形は目を疑った。
 ルカは下唇を噛んで首を振ると、ふっと息を詰めてアナルプラグを抜き去り、脇に放った。
「はぁ……」
 大きく息をつくたび波打つ腹筋に汗が滲んでいる。ルカは異物が入りっぱなしになっていた場所を確かめるように撫でて、それからもう一度阿形に寄り添った。
「抱いて」ルカはもう一度言った。
 羞恥と歓喜が綯交ないまぜになった何とも言えない表情を見て、下半身が疼く。
「いいんだな……?」そんな質問をする段階はとうにすぎているのに、それでも訊かずにはおれなかった。
 ルカは聞き分けのない子供のように自分勝手なキスをしてから、くしゃくしゃに丸まった掛け布団に寄りかかるように寝そべった。そしてつま先と脹ら脛とで、開いた脚の間に阿形を招き入れると、小さく微笑んだ。
 きらきらと輝く瞳に浮かぶ混じりっけのない歓びにあてられて、阿形の顔にも笑みが浮かんでいた。導かれるままに覆い被さり、キスをする。
「この五年間──俺がどれだけあなたのことを思ってオナニーしてたか聞いたら、きっとひくよ」吐息混じりの声で、ルカが言った。
「ひかないよ。もう何を言われても驚かない」
 阿形は言い、十分すぎるほど準備が整ったその場所に、指で優しく円を描いた。それだけで、ルカは小さく身震いして、堪えきれずに声を漏らした。
 五年分の執着にあっけなくほだされてしまった我が身を情けないと思う気持ちに見切りをつけて、濡れそぼった場所に自身をあてがう。
「あ」吐息とも、声ともつかない音を立てて、ルカが息を呑む。「あ、あ……!」
 その声を味わいながら、阿形はゆっくりと、屹立を埋めていった。
 縋りつくような手が伸びてきて、阿形の二の腕を掴む。根本まではいりきると、その手が震えて、肌が粟立つのがはっきりと見えた。
「う……やば……」ルカが苦しそうに言った。
「どうした? 痛いか?」
 ルカは力なく首を振った。「違う……なんか、すぐいっちゃいそうな気がする」
 熱が阿形の首筋を這いあがり、耳朶じだを焦がす。
 多分、いまの衝動で少し大きくなったのを感じたルカが、驚いたような小さな声をあげた。
「あ……」
「クソ――」
 滅多につかない悪態をついて、阿形は腰を揺らした。やばいのはこちらも同じだ。アナルプラグによって――どれほどの間仕込んでいたのか知るよしもないが――解れた壁が阿形に絡みつき、もっと奥へとそそのかすように蠢いている。ルカの中は熟れきった果実のように、熱く濡れていた。
「ああ……ずっと」泣き出しそうな声で、ルカが言った。「ずっと、こうして欲しかった……」
 一体、自分は何とセックスしているのかとさえ思いそうになる。
「あ、いい」ルカはか細い息を吐き出しながらのけぞり、目尻に涙を滲ませた。「す、ごい、気持ちいい……」
 抽挿のたびに、濡れそぼったその場所が淫靡な音を立てる。それが聴覚から這入はいり込んで、欲情を一層掻き立てた。
「ハハ」我知らず、阿形は笑っていた。「もう、海鳴りも聞こえないな……?」
「ん、んん!」唇を噛み締めたままルカは何度も頷いた。
 その様子がいじらしくて、もっと乱したくなる。
 阿形はルカの両腿を抱えると、そのまま後ろに倒れ込んだ。
「あ──!?」
 そして、突然の動きに対応しきれずおかしな声をあげるルカと繋がったまま、騎乗位に移行した。
「う、ずるい……」ルカは震える声で言った。
「ずるくない」阿形は言い、脱力しかけているルカの腿を掴んで、思い切り突き上げた。
「ああっ……!」
 ルカはびくりと慄いたものの、すぐに身体を反らして、もっと感じる体勢を選んだ。眉根を寄せた切なげな顔に、確かに悦楽の色が浮かんでいる。
 突き上げる動きに呼応してうねる腰つきを見れば、セックスに慣れていることは明らかだ。けれどその事実は、いまこの瞬間の二人にとって何の障害にもなりはしなかった。
「ね、俺、がっつきすぎ……?」
 気を逸らしたいのだろう。身をくねらせ、息を喘がせながら尋ねてきた。
「流れが決まってないセックスするの――久しぶりすぎて、わかんない……」
 阿形はルカの腕を掴んで引き寄せると、キスで無駄口を塞いだ。「うるさい」
 捕まえた手の中で、ルカが身震いしたのがわかった。
 降伏の印か、腰が抜けたのか、ルカは前に屈み込んだまま腰をしならせ、従順に阿形を受け入れた。
 突くたびに腹の上で揺れるルカのものに手を伸ばす。ぎゅっと握り込むと、彼は息を呑んで、強すぎる快感から身を守ろうとするかのように自分自身を抱きしめた。
「まって」ルカはいい、自分のペニスを握る手を払った。「待って、まだいきたくない……」
 屈服させようとするかのように屹立を握りしめるルカの手の中で、それは赤みを帯び、苦しそうに先走りを零した。
 濡れそぼった肉と肉がぶつかり合う音が小さなコテージの中に響く。聞こえるのはそのなまめかしい音と、喘ぎ混じりの互いの吐息だけ。汗ですべる肌を引っ掻き、引き寄せ、口づけては噛みつき、衝動のままに身体を揺らした。ルカの昂ぶりを握る手は汗と先走りとローションにまみれて温かくぬめり、手の中のものはいまにもはち切れんばかりになっていた。
「あ、だめナウン……!」何かの予感に見開かれたルカの目から、涙が零れる。「だめ、まだいきたくない――もっとゆっくり……!」
「無理だ」阿形は食いしばった歯の間から答えると、ルカの髪を手繰り寄せて、キスをした。
「ん、ん! あ――!」
 ルカは襲い来る絶頂に身を晒しながら必死に舌を絡めた。それもできなくなると阿形の頬に頬をこすりつけ、震えながらすすり泣きを漏らした。
「あ、あ……」
 腹の上に温かいものが零れ、滴り落ちる。ルカの中が痙攣しながらぎゅっと締まり、阿形にも限界が来た。
「う……」
 察したルカは身を引いて、止める間もなくゴムを剥ぎ取り、いままさに射精しようとしている阿形のペニスを咥えた。
「あ、馬鹿……っ」
 それ以上は言えなかった。真っ白い光の塊を後頭部から投げつけられたみたいに視界がぼやけ、同時にすべての五感が下半身に集約されたかのような感覚に陥る。
 心臓が重く脈打つたびに快感を伴って延々と湧き出てくる精液を、ルカはすべて飲み干した。喉を鳴らして。
「馬鹿……そんなことしなくていい……」
 掠れた声で叱ろうとしても、全くさまになっていない。陶酔に潤んだ瞳に見上げられて、阿形は思わずルカを抱き寄せて、自分の精液の味がまだそこに残っているのも構わず、キスをした。

 抜け殻のようになってしまった頭と身体が、なんとかものを考えられるようになった頃、ようやく、阿形はルカの姿がないことに気づいた。
「ルカ?」
 身を起こし、名前を呼んでみるが、返事がない。
 よく耳を澄ませてみると、どうやらシャワーを使っている音がする。そうだ、先にシャワーを浴びてくると言ってベッドをあとにしたきりだった。とそこまで考えてから、阿形はハッとした。
 待てよ、あれから何分経った?

「ルカ?」
 今さら遠慮も何もないだろうと、声をかけるのと同時に扉を開ける。すると、ルカはバスタブに屈み込んで、何かを一心不乱に擦っていた。
「え? あ!」ルカは素っ頓狂な声をあげ、慌てて手の中にあるものを隠そうとしたが、手遅れだった。
「何してる?」眉を顰めて覗きこむ。
 そこにあったのは、泡まみれのパーカーだった。ぶちまけられたジュースがつけた紫色の染みは残念ながら少しも薄くなっていない。阿形は備え付けの液体石鹸のボトルを一瞥した。さっきよりもずいぶん残量が減ったように見える。
「ボディーソープじゃ落ちないだろ」
 ルカはなにか言い返したそうに口を開いたけれど、諦めて俯いた。「だよね……」
 阿形はバスタブに上がり込んで、ルカの手からシャワーヘッドを奪うと、おあずけになっていたシャワーにありついた。
 大きな身体をねじ込むようにバスタブにしゃがみ込んでいるルカの背中の丸みが、妙に可笑しい。阿形は笑いを堪えて言った。
「そんなに嬉しかったなら、また今度買ってやるよ」
「え?」ルカは振り返り、自分の耳を疑う表情をありありと浮かべた。
「別に、服じゃなくてもいいけど」阿形は言った。「飯でもおごるか? 今回は何も食えなかったもんな」
「今度って、また今度?」ルカはわなわなと震えかけていた。「明日の帰り道とかじゃなくて? 別日?」
「うるさい」阿形は笑い、ルカの顔に向かってシャワーを浴びせかけた。
「うわ!」
「別日だよ」
 それから、気づいたときにはルカに抱きしめられ、シャワーよりも熱いキスの雨を浴びていた。
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