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父親の思い通りの人生を歩んだなら、阿形は弁護士になっているはずだった。
銀幕の常連にして名優と名高い中江令二郎には三人の息子がいた。長男の信志も、次男の信明も、三男の信彦も、『役者にだけはなるな』という父の口癖を嫌というほど聞かされ続けて育ってきた。『お前たちは弁護士か医者になれ。芸能界に入るなんてもってのほか』と。
その甲斐あって、信志は脚本家になるため文学部へ進学し、弟の信明は役者を目指すために劇団に入団し、それぞれ親子の縁を切られた。人に何かをさせたくないとき、『〇〇だけはするな』と命令するのは最高の悪手だと知ったのは、もっとあとになってからのことだ。
大学に入ったはいいが、実家からの援助は期待できなかった。たとえ手を差し伸べられていたとしても、長引く反抗期のただなかにあった当時の阿形は振り払っていただろう。とにかくそのせいで、年中貧窮していた。
映画研究部に籍を置いて狂ったように映画を観ては狂ったようにシナリオを書き、自主製作映画の人手が足りないときには、役者として出演したりもした。授業に出ている時間を除けば、ほとんど部室に住んでいると言っても良かった。なにしろ、部室にいる時間が長ければ長いほど光熱費が浮くのだ。
そんな阿形に声をかけたのが、望月だった。
サークルのOB会で何度か顔を合わせ、いくつかの合図や符丁をやり取りするうち、あっさりとセックスする仲になった。アパートの薄い布団の上に寝そべって、阿形の身体に浮いたあばらを数えながら、望月は言った。
「セックスするだけで五万稼げるって言ったら、お前、やるか?」
阿形は一も二もなく飛びついた。
蓋を開けてみれば、それは『セックスするだけ』なんて生ぬるいものではなかったのだが、ゲイビデオへの出演は性に合っていたらしい。最初の頃こそ緊張でままならない場面があったものの、要領を覚えてからは安定したパフォーマンスを見せることができた。
ゲイビデオへの出演が実家にばれて勘当されたのは大学卒業後のことだが、当時の阿形にはたいした衝撃を与えなかった。それよりも堪えたのは、自分の脚本を制作会社に売り込むたびに素気無く断られ続ける現状だった。
ほとんどのプロダクションは阿形にも脚本にも見向きもせずに追い返した。読んでくれたなら運の良い方だが、それでも帰ってくるのは『君の脚本は平たい』だとか、『テレビ向きじゃない』という言葉ばかりで、一向に手応えがなかった。
大学時代と同じボロアパートに住み続けながら、複数のバイトと執筆にあけくれ、ビデオに出演しないかという声がかかれば飛んでいった。その当日払いの五万円が、たんぱく質を摂取するための貴重な資金だったのだ。
自分に才能がないことを見越していたかのような父親を見返してやりたくて選んだはずの道が、いつの間にか生き甲斐になっていた。この際、脚本でなくてもいい。自分の中に渦を巻く何かのエネルギーを、言葉にして発散したい。そうしなければ死んでしまうとさえ思った。だが、それを受け入れてくれる場所は、どこにもなかった。
こんな生活をいつまでも続けられないのはわかっていた。ゴールは日に日に遠ざかり、このままでは誰からも必要とされない人間のまま、肉体労働で一生を終えることになる予感がしていた。
そんなときにふと目に留まったのが、コンビニで立ち読みをした雑誌の一番後ろに掲載されていた『エッセイコンテスト──最優秀作品には賞金十万円』の文字だ。雑誌を買う金はないので、ダメもとで応募要項をメモしてその場をあとにした。
そのコンクールで優秀賞を受賞すると、いままでの停滞が嘘のように人生が動き出した。最初は他人が書いた原稿のリライトから始まり、フリーペーパーや企業パンフレットの原稿、それから月刊誌の小さな記事を任されるようになった。ビデオの出演依頼も、三回のうち二回は断らなくてはならなくなってきた頃に、ルカに出会ったのだ。
それから程なくして《サーカス》が倒産した。以来、阿形の男優としてのキャリアは途絶え、いまに至る。
海に着く頃には午後四時を回っていた。この海岸で夕日を背景に撮影をする予定なのだとルカが言うので、めぼしい駐車場を探すために海岸沿いを流すことにした。この時間なら、家族連れの客はそろそろ荷物をまとめ始める頃だ。
「ノブさんのビデオを必死で探したんですけど、どの店に訊いても取り扱いがないって言われるんです」
「ああ……そうだろうな」
ルカが不思議そうに阿形を見るので、付け加える。「実家の人間が圧力をかけて、俺が出演てたビデオを根こそぎ回収して燃やしたんだ。ネットに上がってる違法動画も残らず消した」
「そんなこと、可能なの?」
インターネットに自分の居場所を確保しているルカだからこそ、その恐ろしさも身に染みていると見える。
「ゲイビデオなんて、そもそもそれほど多く生産してるわけじゃないからな。《サーカス》はネット配信もしてなかったし」
だから潰れたんだろう、と呟く阿形をよそに、ルカはどこか無念そうな顔をしていた。
「だから、俺のビデオは実質この世から消滅してる」
「なんだ……」
「お、あそこが空いてるな」
ルカの落胆に気づかない振りをして、阿形は駐車場に入った。
車を降りたルカは、腕を突き上げて思い切り伸びをした。
真夏のこの時期は、午後四時を回っても真昼のように明るい。彼の血の中に流れる南国の気風がそうさせるのだろうか──太陽の光の下で一層生き生きとして見えるルカを眺めると、彼がただのゲイビデオ俳優ではないことを思い知らされる。均整のとれた身体や長い手足。風に吹かれて揺れるウェーブがかった暗褐色の髪。熱帯に住む大型の肉食獣を思わせるしなやかな筋肉。最初に足を踏み入れたのがポルノ業界ではなかったとしても、モデル──世間一般が考えるモデル──として成功していただろう。
不意に、この男と並んで浜辺を歩く自分の姿が、他人からどう見えるのかが気になり始めた。
「じゃ、行きましょうか!」
タンクトップにハーフパンツ、両耳にあけられたピアス。それから、これだ。ルカが阿形を見つめる眼差し。嬉しいのをまるで隠そうともしていない。勘のいい人間なら、ゲイカップルだと邪推するだろう。それに、ルカは自分のセクシャリティを公表している。それでいて雑誌の表紙を飾るほどの人気モデルではないか。
「お前、変装とかしなくてもいいのか」阿形は言った。有名人に対してこういう気の廻し方をするのが正しいのか、自信がない。「その、サングラスとか、帽子とか」
「何で?」
「誰かと一緒に歩いてたら変な噂が立つんじゃないのか」
「あぁ」ルカの顔に理解の表情が浮かんだ。「俺はあんまり気にしないんだけど……」
ルカが飲み込んだのは、「あなたはそうじゃないよね」という言葉だろう。阿形が自分の性的指向を公表していないことは、望月から聞いているはずだ。
「でも俺、サングラスとか持ってきてなくて」
「そうか……」
申し訳なさそうに言うルカに、かえってこちらが申し訳ない気持ちになってしまう。彼が属する世界──フラッシュライトに身を晒す華やかなアーティストたちの世界では、クローゼットに隠れて過ごすタイプの人間は少ないのかもしれない。きっと、『隠す』という発想がルカにないことを喜ぶべきなのだろう。だが、阿形には自分の指向をオープンにするつもりはなかった。
何かいい案はないかとあたりを見回す阿形は、道路を挟んで反対側にあるカフェと、その隣にあるサーフショップに目を止めた。
「なぁ、腹減ったろ」
「え?」虚を突かれたルカは間の抜けた声をあげた。
阿形がバーガーショップに向かって歩き出すと、ルカは従順にあとをついてきた。「トイレに行ってくるからさ」そう言って、店の外にある公衆便所を示し、何枚か紙幣を手渡す。「その間に、何か買ってきてくれないか──お前の分も」
「了解です!」
棒切れを放り投げられた犬のように、ルカはカフェを目指した。
彼がこちらを見ていない隙に、阿形はトイレではなく、サーフショップに入った。そこで目に留まったサングラスとパーカーを買い──これくらいの出費はよしとしよう──真剣な顔でメニューを吟味しているルカに気づかれないように車に戻った。
「はまぐりバーガー?」
ルカは大真面目な顔で頷いた。
「これ……」食えるの? と訊きそうになった自分を蹴飛ばして、なんとか「好きなのか?」と口に出した。
「あー、うん」ルカはほんの一瞬目を泳がせてから、笑顔で頷いた。「名産らしいから」
やっぱり食ったことないんじゃないかと思いつつ、包み紙を開ける。恐るおそる匂いを嗅いでみたが、意外にも食欲をそそられた。よく考えたら、昼休憩もとらずにここまで車を飛ばしてきたのだ。
買い物をしている間に雲が出てきたせいで、焼けつくような暑さも和らいでいた。涼しい潮風に吹かれながら、駐車場に停めた車に寄りかかって遅めの昼食──あるいは早めの夕食をとることにした。
「お前の分は?」
ルカが飲み物しか手にしていないことに気づいて尋ねると、彼はほんの一瞬躊躇ったあと、正直に答えた。
「ええと、その──明日、帰ったら撮影があって」
ゲイビデオの撮影でウケに回る者は、当日の朝、あるいは前日の夜から食事を抜くのが普通だ。本来とは異なる用途にその器官を使用するのだから、それなりの犠牲を払う必要がある。
「なるほど」
阿形はそれ以上は尋ねなかった。この旅の目的は、そもそも彼のインポテンツを改善するための気晴らしだ。カウンセラー役を務めあげる自信など全くないが、自分と一緒にいるだけで嬉しそうなルカを見ていれば、このおかしな旅行にも何かの意味があるのかもしれないと思う。
しかし、明日がタイムリミットなのか。望月が縋りついてくるわけだ。
「助手席に荷物があるから、開けてみろ」
阿形の言葉に従って、ルカがガサガサとビニールの中のものを取り出す。トランクにもたれてバーガーをほおばる阿形の耳に、ルカの「えっ!?」という声が聞こえてきた。それから、彼は両手の上にパーカーとサングラスを載せたまま、阿形の隣に戻ってきた。
「これ……」
「悪いんだけどさ、今日だけはそれを着てくれるか」阿形は言った。「お前の好みに合わなかったら、明日帰ってから捨ててくれていいよ」
「捨てる!? そんなこと!」ルカは、手にしたものを一度車のトランクフードに載せてからこちらを向き、阿形の両手が食べ物で塞がっていることに気づくと、握手──をしようとしていたらしい──を諦めて、手を握り合わせた。
「ありがとう。ずっと大切にします」
駄目だ。こいつに感情をぶつけられると顔が緩みそうになる。
「いいよ。安物だし、そもそもこっちの都合なんだから」
その後、恭しくサングラスとパーカーを身につけたルカは振り返り「どうですか?」と尋ねてきた。
「似合うよ。素材が良いから何を着ても様になるな」
本心だった。たとえ背中に『I♥99 BEACH』と書かれただけの、野暮ったさの代名詞みたいなパーカーでも、ルカが着るとハイブランドのカジュアルラインか何かのように見える。
ルカは「そんなことないです」だとかモゴモゴと呟きながら、すっかり温くなっているはずのウーロン茶に口をつけた。満面の笑みを浮かべたまま。
結局、ハンバーガーは美味しかった。
†
少し前から吹き始めた強風が、海岸づたいに立てられた遊泳禁止の旗をはためかせていた。いまでは人影も疎らで、サーフボードを抱えた人影が波打ち際に点在するばかりだ。ルカたちが撮影する予定の場所は、海水浴の客が滅多にやってこない奥まった場所にあるから、二人の周りには人の気配はなかった。
地平線へ沈む夕日が放つ金色の光が、潮風に千切れた雲に宗教画のような輝きを与えている。事前の打ち合わせでは、まさにこんな夕焼けを背景に、モデルに白い布だけを纏わせてグラビア撮影をすることになっている。同時に、撮影の様子を動画に収めてホームページ上で公開するのだ。
ルカは自分のスマートフォンにインストールされたロケハン用のアプリを使って、実際の撮影のシミュレートをしながら風景をカメラに収め、絵コンテと現実の風景を重ね合わせていった。そうして、良い角度を見つけては、持参した地図に撮影ポイントとモデルの立ち位置を書き込む。
イメージが固まってゆく満足感に浸りながら、ルカはスマートフォンのカメラを阿形に向けた。彼はルカの仕事を邪魔しないよう、少し離れた場所に転がっている流木の上に腰かけて海を眺めていた。
はまぐりバーガーはやり過ぎだったと、ルカは密かに後悔していた。《ウィル・シー》で受ける食事指導が身に染みついていたから、蛤という文字を見た瞬間、貝=亜鉛=精力増進という図式が浮かんでしまい、気づいたらそれを選んでいた。メニューにも『一番人気!』と書かれていたのは確かだし、阿形は美味しそうに食べてくれたのだから、気にすることはないのだろうけれど。ましてや、風味付け程度の蛤を食べたからって、即座にやる気満々になるわけでもないだろうし……。
ルカは気を取り直して、阿形との距離を詰めた。
今日、彼に会った一番の目的はそれではないのだ。
「ずっと……お礼が言いたくて」
「ん?」
振り向いた阿形の顔を、最後の斜陽が照らしている。画面越しに向けられた緩やかな微笑に、息が止まりそうになった。
「撮影のとき、一冊の本をくれたの覚えてますか。俺が映画が好きだって言ったら、もう使わないからって」
ルカはスマートフォンを降ろし、いまの動画をこっそりと保存してからポケットに突っ込んだ。
「あー……そんなことあったっけ」記憶にないのだろう。阿形はまた、申し訳なさそうな笑顔を浮かべた。
「これです」
ルカはリュックサックの中から、ボロボロになってしまった本を取り出した。それは、実際の映画の中で使われている撮影技法とその効果を丁寧に説明した、動画製作者のためのガイドブックだった。ちょうどあの日、あの現場でADとして働いていた望月に貸していた本が返ってきたところなんだと、阿形は言っていた。
「懐かしいな」阿形はそれを受け取って、労うように表紙を撫でた。「いまのいままで忘れてたよ。ずいぶん読み込んだな」
ルカは、阿形の隣にそっと腰を降ろした。
「俺、今度……サイトにのっける動画の撮影をさせてもらえることになったんです。まだお試しだけど」
阿形は目を丸くしてルカを見た。「本当に?」
「もともと映画は好きだったけど、この本を読んでからは撮るってことに興味が湧きました。それで、いまの事務所の仲間内でサークル作って、撮影が終わったあとに機材を借りてプロモ作りの真似ごとをしてたんです。そしたら、社長が声をかけてくれて……俺、モデルの仕事も好きだけど、撮るのは本当に楽しいから嬉しくて。今日はどうしても、それを直接伝えたかったんです」
「おい、すごいな!」阿形はルカの背中を叩き、しみじみと言った。「まさか、あの子がこんなに立派になるなんてな……複雑な気分だ」
熱が、じわりと頬に滲む。
「阿形さんのおかげです。全部」
阿形は感慨深げなため息をついて、またルカの頭を撫でた。「お前の実力だよ」
このままずっとこうしていてほしいと思いながら、ルカは言った。
「こんなこと言っちゃいけないんだろうけど、あのまま《サーカス》にい続けてたら、こうはならなかったと思う」
阿形は声をあげて笑った。「確かに。望月は、面白そうなことは何でもやってみるってタイプだからな」
「ありがたいです。ほんと」
そう言いながら、内心では、阿形が望月のことを口にするたび、小さな嫉妬の針に心を刺されていた。
もう終わった関係だと、社長は言っていた。けれど、長い付き合いのこの二人の間に侵し難い絆があるのは確かだ。阿形の前で社長を賞賛するようなことを口にするのを本能が嫌がっているけれど、ここで本当のことを話さないのは、フェアじゃない。
「社長は、ノブさんのおかげだって言ってました」
「あいつが? なんで?」
思い切り不信がっているのが可笑しくて、ほんの一瞬だけ嫉妬を忘れる。
「ノブさんがモデルをやめて執筆の仕事をするようになったのを見て、モデルをポルノの仕事だけで使い潰すのはもったいないって思うようになったって。だから、本番をしなくなったあとの仕事にできるようなスキルを身につけたいと思う奴がいたら、応援することにしたんだって言ってました」
阿形の顔に、感心したような表情が浮かぶ。「へぇ、あいつがねぇ」
「俺も、ノブさんの文章を読むたび、頑張ろうって思って。載る雑誌がどんどん増えてくから、追うのが大変だったんですよ」
冗談めかしてそう言うと、阿形の眼差しがほんの少しだけ陰った。
「まぁ、俺の場合は看板がでかいから──全部実力で勝ち取った仕事ってわけでもないんだよ」
「看板って?」
「親が……有名人だからな」
彼の父親のことは知っていた。けれど望月から、阿形は決して父親のことを口に出さないと聞いていたので、いまその話を聞くことになるとは予想していなかった。彼の文章に心を動かされた経験がなかったら、こういう状況で『いえいえ、あなたの実力あったればこそ』なんて、空々しい世辞を吐いたかも知れない。けれど、ルカは違った。
「ノブさんの文章には嘘がないから」ルカは言った。「嘘がないのに、優しいから。だからみんな、もっと読みたくなるんです」
阿形ははっと顔をあげて、ルカの眼差しを受け止めた。
「小さい頃……学校で上手くいかなくて」この話を他人に聞かせたことはなかった。けれど、もし打ち明けるなら、それは阿形だと思っていた。「ハーフだし、父は小五のときに死んだから、俺たち孤立無援になっちゃって。母親はほとんど日本語を話せないし、結局、話せるようにならなかった。弟妹四人と一緒に暮らしてくのは……難しくて。いまは皆ブラジルにいるんです。あの撮影は空港で皆を見送ってきた次の日で、家も引き払ってたから、失敗したら帰るところがなかったんです」
「そうか……」阿形は言い、多分無意識に、ルカの膝に手を置いた。慰めようとするみたいに。
「あれから、どうしてももう一度ノブさんに会いたかった。だけど、いまは家のことでごたごたしてるから、近づかない方がいいって社長が──だから、代わりにノブさんの文章が載る本があれば、片っ端から買って読んで……」
ルカは、膝の上に載せられた阿形の手をとった。
「ノブさんは、顔の見えない沢山の人に向けてあの文章を書いてたんでしょうけど、俺にとっては……手紙だったんだ」
手の中で、阿形の手がぴくりと跳ねる。眼差しが絡み合い、黄金色の残照に、瞳が輝いた。
不意に心臓が重みを増して、狂おしく疼く。
その瞼が降りたら、それは赦しのサインと思ってもいいだろうか? あとほんの数ミリ、瞼が閉じたら、そのときは──。
「おい!」
どこからともなく声がした。と思ったら、死角から飛んできた何かが背中に当たった。衝撃に次いで、冷たく濡れた感触が背中に広がる。甘ったるい匂い──誰かが、自分たちに向かって飲み物を投げつけてきたのだとわかった。
「いちゃいちゃしてんじゃねーよ、ホモ!」
罵声と、それに続く嘲笑。咄嗟に腕の中に引き寄せた阿形は、恐怖のためというより、緊張に身を強張らせていた。
混乱を圧倒するほどの怒りが込みあげ、ルカは立ち上がり、声のした方を振り返った。二人がいた場所からほど近いところにある砂の丘の上に、ジャージ姿の若者が三人立っていた。
「おい、この野郎!!」
サングラスを外して睨みつけると、彼らは目に見えて怯んだ。
暗がりで座り込んでいた人影を見ただけでは、ルカがどれほど鍛え上げた身体をしているのかわからなかったのだろう。加えて、この日本人離れした顔立ちだ。
「何しやがる!?」
ポルトガル語でまくしたてると、最初の一人が後ずさった。
「死にたいのか、え? 殺してやろうか!?」
びしょ濡れになってしまったパーカーを脱いで一歩踏み出す。彼らは互いを急かしながら道路へ続く道を戻っていこうとした。
手の中には、斑な紫に染まってしまったパーカー。
追い散らしただけでは、この怒りは収まらない。
「待て、この──!」
拳を握り、さらに追いかけようとしたルカの腕を、阿形が掴んで引き留めた。
「やめとけ」
「でも!」遠ざかる人影と、厳しい表情の阿形を、何度も見比べる。「でも……」
阿形はゆっくりと、首を振った。「そろそろ、泊まる場所を探そう」
銀幕の常連にして名優と名高い中江令二郎には三人の息子がいた。長男の信志も、次男の信明も、三男の信彦も、『役者にだけはなるな』という父の口癖を嫌というほど聞かされ続けて育ってきた。『お前たちは弁護士か医者になれ。芸能界に入るなんてもってのほか』と。
その甲斐あって、信志は脚本家になるため文学部へ進学し、弟の信明は役者を目指すために劇団に入団し、それぞれ親子の縁を切られた。人に何かをさせたくないとき、『〇〇だけはするな』と命令するのは最高の悪手だと知ったのは、もっとあとになってからのことだ。
大学に入ったはいいが、実家からの援助は期待できなかった。たとえ手を差し伸べられていたとしても、長引く反抗期のただなかにあった当時の阿形は振り払っていただろう。とにかくそのせいで、年中貧窮していた。
映画研究部に籍を置いて狂ったように映画を観ては狂ったようにシナリオを書き、自主製作映画の人手が足りないときには、役者として出演したりもした。授業に出ている時間を除けば、ほとんど部室に住んでいると言っても良かった。なにしろ、部室にいる時間が長ければ長いほど光熱費が浮くのだ。
そんな阿形に声をかけたのが、望月だった。
サークルのOB会で何度か顔を合わせ、いくつかの合図や符丁をやり取りするうち、あっさりとセックスする仲になった。アパートの薄い布団の上に寝そべって、阿形の身体に浮いたあばらを数えながら、望月は言った。
「セックスするだけで五万稼げるって言ったら、お前、やるか?」
阿形は一も二もなく飛びついた。
蓋を開けてみれば、それは『セックスするだけ』なんて生ぬるいものではなかったのだが、ゲイビデオへの出演は性に合っていたらしい。最初の頃こそ緊張でままならない場面があったものの、要領を覚えてからは安定したパフォーマンスを見せることができた。
ゲイビデオへの出演が実家にばれて勘当されたのは大学卒業後のことだが、当時の阿形にはたいした衝撃を与えなかった。それよりも堪えたのは、自分の脚本を制作会社に売り込むたびに素気無く断られ続ける現状だった。
ほとんどのプロダクションは阿形にも脚本にも見向きもせずに追い返した。読んでくれたなら運の良い方だが、それでも帰ってくるのは『君の脚本は平たい』だとか、『テレビ向きじゃない』という言葉ばかりで、一向に手応えがなかった。
大学時代と同じボロアパートに住み続けながら、複数のバイトと執筆にあけくれ、ビデオに出演しないかという声がかかれば飛んでいった。その当日払いの五万円が、たんぱく質を摂取するための貴重な資金だったのだ。
自分に才能がないことを見越していたかのような父親を見返してやりたくて選んだはずの道が、いつの間にか生き甲斐になっていた。この際、脚本でなくてもいい。自分の中に渦を巻く何かのエネルギーを、言葉にして発散したい。そうしなければ死んでしまうとさえ思った。だが、それを受け入れてくれる場所は、どこにもなかった。
こんな生活をいつまでも続けられないのはわかっていた。ゴールは日に日に遠ざかり、このままでは誰からも必要とされない人間のまま、肉体労働で一生を終えることになる予感がしていた。
そんなときにふと目に留まったのが、コンビニで立ち読みをした雑誌の一番後ろに掲載されていた『エッセイコンテスト──最優秀作品には賞金十万円』の文字だ。雑誌を買う金はないので、ダメもとで応募要項をメモしてその場をあとにした。
そのコンクールで優秀賞を受賞すると、いままでの停滞が嘘のように人生が動き出した。最初は他人が書いた原稿のリライトから始まり、フリーペーパーや企業パンフレットの原稿、それから月刊誌の小さな記事を任されるようになった。ビデオの出演依頼も、三回のうち二回は断らなくてはならなくなってきた頃に、ルカに出会ったのだ。
それから程なくして《サーカス》が倒産した。以来、阿形の男優としてのキャリアは途絶え、いまに至る。
海に着く頃には午後四時を回っていた。この海岸で夕日を背景に撮影をする予定なのだとルカが言うので、めぼしい駐車場を探すために海岸沿いを流すことにした。この時間なら、家族連れの客はそろそろ荷物をまとめ始める頃だ。
「ノブさんのビデオを必死で探したんですけど、どの店に訊いても取り扱いがないって言われるんです」
「ああ……そうだろうな」
ルカが不思議そうに阿形を見るので、付け加える。「実家の人間が圧力をかけて、俺が出演てたビデオを根こそぎ回収して燃やしたんだ。ネットに上がってる違法動画も残らず消した」
「そんなこと、可能なの?」
インターネットに自分の居場所を確保しているルカだからこそ、その恐ろしさも身に染みていると見える。
「ゲイビデオなんて、そもそもそれほど多く生産してるわけじゃないからな。《サーカス》はネット配信もしてなかったし」
だから潰れたんだろう、と呟く阿形をよそに、ルカはどこか無念そうな顔をしていた。
「だから、俺のビデオは実質この世から消滅してる」
「なんだ……」
「お、あそこが空いてるな」
ルカの落胆に気づかない振りをして、阿形は駐車場に入った。
車を降りたルカは、腕を突き上げて思い切り伸びをした。
真夏のこの時期は、午後四時を回っても真昼のように明るい。彼の血の中に流れる南国の気風がそうさせるのだろうか──太陽の光の下で一層生き生きとして見えるルカを眺めると、彼がただのゲイビデオ俳優ではないことを思い知らされる。均整のとれた身体や長い手足。風に吹かれて揺れるウェーブがかった暗褐色の髪。熱帯に住む大型の肉食獣を思わせるしなやかな筋肉。最初に足を踏み入れたのがポルノ業界ではなかったとしても、モデル──世間一般が考えるモデル──として成功していただろう。
不意に、この男と並んで浜辺を歩く自分の姿が、他人からどう見えるのかが気になり始めた。
「じゃ、行きましょうか!」
タンクトップにハーフパンツ、両耳にあけられたピアス。それから、これだ。ルカが阿形を見つめる眼差し。嬉しいのをまるで隠そうともしていない。勘のいい人間なら、ゲイカップルだと邪推するだろう。それに、ルカは自分のセクシャリティを公表している。それでいて雑誌の表紙を飾るほどの人気モデルではないか。
「お前、変装とかしなくてもいいのか」阿形は言った。有名人に対してこういう気の廻し方をするのが正しいのか、自信がない。「その、サングラスとか、帽子とか」
「何で?」
「誰かと一緒に歩いてたら変な噂が立つんじゃないのか」
「あぁ」ルカの顔に理解の表情が浮かんだ。「俺はあんまり気にしないんだけど……」
ルカが飲み込んだのは、「あなたはそうじゃないよね」という言葉だろう。阿形が自分の性的指向を公表していないことは、望月から聞いているはずだ。
「でも俺、サングラスとか持ってきてなくて」
「そうか……」
申し訳なさそうに言うルカに、かえってこちらが申し訳ない気持ちになってしまう。彼が属する世界──フラッシュライトに身を晒す華やかなアーティストたちの世界では、クローゼットに隠れて過ごすタイプの人間は少ないのかもしれない。きっと、『隠す』という発想がルカにないことを喜ぶべきなのだろう。だが、阿形には自分の指向をオープンにするつもりはなかった。
何かいい案はないかとあたりを見回す阿形は、道路を挟んで反対側にあるカフェと、その隣にあるサーフショップに目を止めた。
「なぁ、腹減ったろ」
「え?」虚を突かれたルカは間の抜けた声をあげた。
阿形がバーガーショップに向かって歩き出すと、ルカは従順にあとをついてきた。「トイレに行ってくるからさ」そう言って、店の外にある公衆便所を示し、何枚か紙幣を手渡す。「その間に、何か買ってきてくれないか──お前の分も」
「了解です!」
棒切れを放り投げられた犬のように、ルカはカフェを目指した。
彼がこちらを見ていない隙に、阿形はトイレではなく、サーフショップに入った。そこで目に留まったサングラスとパーカーを買い──これくらいの出費はよしとしよう──真剣な顔でメニューを吟味しているルカに気づかれないように車に戻った。
「はまぐりバーガー?」
ルカは大真面目な顔で頷いた。
「これ……」食えるの? と訊きそうになった自分を蹴飛ばして、なんとか「好きなのか?」と口に出した。
「あー、うん」ルカはほんの一瞬目を泳がせてから、笑顔で頷いた。「名産らしいから」
やっぱり食ったことないんじゃないかと思いつつ、包み紙を開ける。恐るおそる匂いを嗅いでみたが、意外にも食欲をそそられた。よく考えたら、昼休憩もとらずにここまで車を飛ばしてきたのだ。
買い物をしている間に雲が出てきたせいで、焼けつくような暑さも和らいでいた。涼しい潮風に吹かれながら、駐車場に停めた車に寄りかかって遅めの昼食──あるいは早めの夕食をとることにした。
「お前の分は?」
ルカが飲み物しか手にしていないことに気づいて尋ねると、彼はほんの一瞬躊躇ったあと、正直に答えた。
「ええと、その──明日、帰ったら撮影があって」
ゲイビデオの撮影でウケに回る者は、当日の朝、あるいは前日の夜から食事を抜くのが普通だ。本来とは異なる用途にその器官を使用するのだから、それなりの犠牲を払う必要がある。
「なるほど」
阿形はそれ以上は尋ねなかった。この旅の目的は、そもそも彼のインポテンツを改善するための気晴らしだ。カウンセラー役を務めあげる自信など全くないが、自分と一緒にいるだけで嬉しそうなルカを見ていれば、このおかしな旅行にも何かの意味があるのかもしれないと思う。
しかし、明日がタイムリミットなのか。望月が縋りついてくるわけだ。
「助手席に荷物があるから、開けてみろ」
阿形の言葉に従って、ルカがガサガサとビニールの中のものを取り出す。トランクにもたれてバーガーをほおばる阿形の耳に、ルカの「えっ!?」という声が聞こえてきた。それから、彼は両手の上にパーカーとサングラスを載せたまま、阿形の隣に戻ってきた。
「これ……」
「悪いんだけどさ、今日だけはそれを着てくれるか」阿形は言った。「お前の好みに合わなかったら、明日帰ってから捨ててくれていいよ」
「捨てる!? そんなこと!」ルカは、手にしたものを一度車のトランクフードに載せてからこちらを向き、阿形の両手が食べ物で塞がっていることに気づくと、握手──をしようとしていたらしい──を諦めて、手を握り合わせた。
「ありがとう。ずっと大切にします」
駄目だ。こいつに感情をぶつけられると顔が緩みそうになる。
「いいよ。安物だし、そもそもこっちの都合なんだから」
その後、恭しくサングラスとパーカーを身につけたルカは振り返り「どうですか?」と尋ねてきた。
「似合うよ。素材が良いから何を着ても様になるな」
本心だった。たとえ背中に『I♥99 BEACH』と書かれただけの、野暮ったさの代名詞みたいなパーカーでも、ルカが着るとハイブランドのカジュアルラインか何かのように見える。
ルカは「そんなことないです」だとかモゴモゴと呟きながら、すっかり温くなっているはずのウーロン茶に口をつけた。満面の笑みを浮かべたまま。
結局、ハンバーガーは美味しかった。
†
少し前から吹き始めた強風が、海岸づたいに立てられた遊泳禁止の旗をはためかせていた。いまでは人影も疎らで、サーフボードを抱えた人影が波打ち際に点在するばかりだ。ルカたちが撮影する予定の場所は、海水浴の客が滅多にやってこない奥まった場所にあるから、二人の周りには人の気配はなかった。
地平線へ沈む夕日が放つ金色の光が、潮風に千切れた雲に宗教画のような輝きを与えている。事前の打ち合わせでは、まさにこんな夕焼けを背景に、モデルに白い布だけを纏わせてグラビア撮影をすることになっている。同時に、撮影の様子を動画に収めてホームページ上で公開するのだ。
ルカは自分のスマートフォンにインストールされたロケハン用のアプリを使って、実際の撮影のシミュレートをしながら風景をカメラに収め、絵コンテと現実の風景を重ね合わせていった。そうして、良い角度を見つけては、持参した地図に撮影ポイントとモデルの立ち位置を書き込む。
イメージが固まってゆく満足感に浸りながら、ルカはスマートフォンのカメラを阿形に向けた。彼はルカの仕事を邪魔しないよう、少し離れた場所に転がっている流木の上に腰かけて海を眺めていた。
はまぐりバーガーはやり過ぎだったと、ルカは密かに後悔していた。《ウィル・シー》で受ける食事指導が身に染みついていたから、蛤という文字を見た瞬間、貝=亜鉛=精力増進という図式が浮かんでしまい、気づいたらそれを選んでいた。メニューにも『一番人気!』と書かれていたのは確かだし、阿形は美味しそうに食べてくれたのだから、気にすることはないのだろうけれど。ましてや、風味付け程度の蛤を食べたからって、即座にやる気満々になるわけでもないだろうし……。
ルカは気を取り直して、阿形との距離を詰めた。
今日、彼に会った一番の目的はそれではないのだ。
「ずっと……お礼が言いたくて」
「ん?」
振り向いた阿形の顔を、最後の斜陽が照らしている。画面越しに向けられた緩やかな微笑に、息が止まりそうになった。
「撮影のとき、一冊の本をくれたの覚えてますか。俺が映画が好きだって言ったら、もう使わないからって」
ルカはスマートフォンを降ろし、いまの動画をこっそりと保存してからポケットに突っ込んだ。
「あー……そんなことあったっけ」記憶にないのだろう。阿形はまた、申し訳なさそうな笑顔を浮かべた。
「これです」
ルカはリュックサックの中から、ボロボロになってしまった本を取り出した。それは、実際の映画の中で使われている撮影技法とその効果を丁寧に説明した、動画製作者のためのガイドブックだった。ちょうどあの日、あの現場でADとして働いていた望月に貸していた本が返ってきたところなんだと、阿形は言っていた。
「懐かしいな」阿形はそれを受け取って、労うように表紙を撫でた。「いまのいままで忘れてたよ。ずいぶん読み込んだな」
ルカは、阿形の隣にそっと腰を降ろした。
「俺、今度……サイトにのっける動画の撮影をさせてもらえることになったんです。まだお試しだけど」
阿形は目を丸くしてルカを見た。「本当に?」
「もともと映画は好きだったけど、この本を読んでからは撮るってことに興味が湧きました。それで、いまの事務所の仲間内でサークル作って、撮影が終わったあとに機材を借りてプロモ作りの真似ごとをしてたんです。そしたら、社長が声をかけてくれて……俺、モデルの仕事も好きだけど、撮るのは本当に楽しいから嬉しくて。今日はどうしても、それを直接伝えたかったんです」
「おい、すごいな!」阿形はルカの背中を叩き、しみじみと言った。「まさか、あの子がこんなに立派になるなんてな……複雑な気分だ」
熱が、じわりと頬に滲む。
「阿形さんのおかげです。全部」
阿形は感慨深げなため息をついて、またルカの頭を撫でた。「お前の実力だよ」
このままずっとこうしていてほしいと思いながら、ルカは言った。
「こんなこと言っちゃいけないんだろうけど、あのまま《サーカス》にい続けてたら、こうはならなかったと思う」
阿形は声をあげて笑った。「確かに。望月は、面白そうなことは何でもやってみるってタイプだからな」
「ありがたいです。ほんと」
そう言いながら、内心では、阿形が望月のことを口にするたび、小さな嫉妬の針に心を刺されていた。
もう終わった関係だと、社長は言っていた。けれど、長い付き合いのこの二人の間に侵し難い絆があるのは確かだ。阿形の前で社長を賞賛するようなことを口にするのを本能が嫌がっているけれど、ここで本当のことを話さないのは、フェアじゃない。
「社長は、ノブさんのおかげだって言ってました」
「あいつが? なんで?」
思い切り不信がっているのが可笑しくて、ほんの一瞬だけ嫉妬を忘れる。
「ノブさんがモデルをやめて執筆の仕事をするようになったのを見て、モデルをポルノの仕事だけで使い潰すのはもったいないって思うようになったって。だから、本番をしなくなったあとの仕事にできるようなスキルを身につけたいと思う奴がいたら、応援することにしたんだって言ってました」
阿形の顔に、感心したような表情が浮かぶ。「へぇ、あいつがねぇ」
「俺も、ノブさんの文章を読むたび、頑張ろうって思って。載る雑誌がどんどん増えてくから、追うのが大変だったんですよ」
冗談めかしてそう言うと、阿形の眼差しがほんの少しだけ陰った。
「まぁ、俺の場合は看板がでかいから──全部実力で勝ち取った仕事ってわけでもないんだよ」
「看板って?」
「親が……有名人だからな」
彼の父親のことは知っていた。けれど望月から、阿形は決して父親のことを口に出さないと聞いていたので、いまその話を聞くことになるとは予想していなかった。彼の文章に心を動かされた経験がなかったら、こういう状況で『いえいえ、あなたの実力あったればこそ』なんて、空々しい世辞を吐いたかも知れない。けれど、ルカは違った。
「ノブさんの文章には嘘がないから」ルカは言った。「嘘がないのに、優しいから。だからみんな、もっと読みたくなるんです」
阿形ははっと顔をあげて、ルカの眼差しを受け止めた。
「小さい頃……学校で上手くいかなくて」この話を他人に聞かせたことはなかった。けれど、もし打ち明けるなら、それは阿形だと思っていた。「ハーフだし、父は小五のときに死んだから、俺たち孤立無援になっちゃって。母親はほとんど日本語を話せないし、結局、話せるようにならなかった。弟妹四人と一緒に暮らしてくのは……難しくて。いまは皆ブラジルにいるんです。あの撮影は空港で皆を見送ってきた次の日で、家も引き払ってたから、失敗したら帰るところがなかったんです」
「そうか……」阿形は言い、多分無意識に、ルカの膝に手を置いた。慰めようとするみたいに。
「あれから、どうしてももう一度ノブさんに会いたかった。だけど、いまは家のことでごたごたしてるから、近づかない方がいいって社長が──だから、代わりにノブさんの文章が載る本があれば、片っ端から買って読んで……」
ルカは、膝の上に載せられた阿形の手をとった。
「ノブさんは、顔の見えない沢山の人に向けてあの文章を書いてたんでしょうけど、俺にとっては……手紙だったんだ」
手の中で、阿形の手がぴくりと跳ねる。眼差しが絡み合い、黄金色の残照に、瞳が輝いた。
不意に心臓が重みを増して、狂おしく疼く。
その瞼が降りたら、それは赦しのサインと思ってもいいだろうか? あとほんの数ミリ、瞼が閉じたら、そのときは──。
「おい!」
どこからともなく声がした。と思ったら、死角から飛んできた何かが背中に当たった。衝撃に次いで、冷たく濡れた感触が背中に広がる。甘ったるい匂い──誰かが、自分たちに向かって飲み物を投げつけてきたのだとわかった。
「いちゃいちゃしてんじゃねーよ、ホモ!」
罵声と、それに続く嘲笑。咄嗟に腕の中に引き寄せた阿形は、恐怖のためというより、緊張に身を強張らせていた。
混乱を圧倒するほどの怒りが込みあげ、ルカは立ち上がり、声のした方を振り返った。二人がいた場所からほど近いところにある砂の丘の上に、ジャージ姿の若者が三人立っていた。
「おい、この野郎!!」
サングラスを外して睨みつけると、彼らは目に見えて怯んだ。
暗がりで座り込んでいた人影を見ただけでは、ルカがどれほど鍛え上げた身体をしているのかわからなかったのだろう。加えて、この日本人離れした顔立ちだ。
「何しやがる!?」
ポルトガル語でまくしたてると、最初の一人が後ずさった。
「死にたいのか、え? 殺してやろうか!?」
びしょ濡れになってしまったパーカーを脱いで一歩踏み出す。彼らは互いを急かしながら道路へ続く道を戻っていこうとした。
手の中には、斑な紫に染まってしまったパーカー。
追い散らしただけでは、この怒りは収まらない。
「待て、この──!」
拳を握り、さらに追いかけようとしたルカの腕を、阿形が掴んで引き留めた。
「やめとけ」
「でも!」遠ざかる人影と、厳しい表情の阿形を、何度も見比べる。「でも……」
阿形はゆっくりと、首を振った。「そろそろ、泊まる場所を探そう」
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