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翌日、阿形は指定の場所まで車を走らせながら、やはり、次に思い出したときには、必ず望月の番号を着信拒否しようという決意を固めていた。
埃一つないフロントガラスから背後に向かって流れていく都会の景色。アスファルトの上で揺らめく空気を蹴散らして歩く人々は容赦ない日差しに顔をしかめている。クーラーの効いた車内から眺めると、これから休暇を享受する身であることも相まって、優越感と罪悪感が入り混じった気分になる。と、そこで、これから始まるのは休暇というよりはむしろ別口の仕事だったことを思い出した。いや、無償なのだから仕事ですらない。
ちょうど二十四時間前の今頃だった。繰り返される着信に痺れを切らした阿形がようやく電話をとると、望月透は最初に応答したときと同じテンションで応えた。「元気か、ハイジ!」
阿形は目を閉じ、深呼吸を一つした。
「あともう一回でも俺を『ハイジ』と呼んだら、電話を切って着信拒否する」
「わかった、わかった」望月はにやけ笑いの雰囲気を声の中に織り込む達人だった。「元気そうで安心したよ。ところで、明日空いてるか?」
「ああ」苦虫をかみつぶしたような顔で答える。
「なんだ! もう仕事を干されたのか!」望月は嬉しそうに言った。
「用件を言え」
「実はな、また手伝ってほしいことがあるんだ……うちの事務所のモデルが困ったことになってて」
「そういうことからは足を洗ったんだって、何度言えば──」
「いやいや、最後まで聞けって」
革が擦れる音がして、望月が自分のオフィスチェアの上で体勢を立て直したのがわかった。どうやら、本気らしい。
「うちのモデルで、ルカって子がいるんだが……覚えてるだろ。《サーカス》ではレオンって名前で出演てた」
「レオン……」
覚えていないと言いたかった。それなのに、その名前を聞いた瞬間、記憶が蘇った。
潤んで震えていたあの眼。少しでも貫禄をつけたかったのか、腰の後ろに施したばかりのタトゥーが痛々しかった。誇り高い眼差しの雌ライオンの図案を見て、源氏名の由来はそれだろうかと思ったのだった。すらりと痩せたしなやかな身体と、暗褐色の柔らかい癖毛。それから──そう、やはり眼だ。子鹿のような睫毛に縁取られた不思議な色の瞳。その双眸で、縋るように見つめてきた、彼の記憶。
もう、五年も前のことだ。
文章で生計を立てられるようになったのはここ数年で、それよりもずっと前に、阿形はある種のビデオに出演していた。寿命と引き換えに過去を葬る魔法が存在するとしたら、二十年くらいは捧げても良いと思える過ちの中の過ちだ。
これも、きっかけは望月だった。
ゲイビデオの制作と販売を行う《サーカス》というプロダクションで、望月はADとして働いていた。彼は金に困っていた阿形を言葉巧みに業界に誘った。そうして、阿形は男優──ゲイビデオ業界で言うところのモデル──として働くことになったのだ。
その後《サーカス》が潰れると、望月は事務所の同僚とモデルの多くを引き連れて自分のプロダクション《ウィル・シー》を立ち上げた。いま《ウィル・シー》はゲイビデオのみならず、雑誌を始めとする出版業、飲食店経営、果ては男性向けのエステ経営まで手掛ける一大企業になりつつある。
ルカと撮影で一緒になったのは一度きりだった。そのときには、彼が次のビデオに出演することはないだろうと思ったが──。
「まだモデルをやってるのか」
「ああ。そうなんだけど、実は最近調子が悪くてな」
ほら来た。阿形は我知らずソファの上で身構えた。「だから、そういうのは──」
「違うんだって。いや、まぁ、そうなんだけど……」望月は口ごもった。「何も出演しろなんて頼まないよ。ただ、ちょっと気晴らしの相手になってやってほしいだけだ」
「またスタジオまで行ってタチマチの相手をしろって?」
タチマチとは、アダルトビデオ界隈の業界用語で、『俳優が勃起するのを待つ時間』を意味する。ポルノの世界へ身を投じる者は誰しも性技に長け、自由自在にモノを振るえると思われているかもしれないが、決してそんなことはない。男性の心は世間一般の認識よりずっとデリケートで、男心の象徴とも言われる男性器はそれに輪をかけて繊細なのだ。アダルトビデオの撮影現場でタチマチが発生すると、すべての進行がそこで止まる。現場が自分の勃起を待ちわびている、そのプレッシャーの中で自身を奮い立たせなければならない男優の心情を想像してほしい。気の弱い人間ならそれだけで縮み上がってしまうだろう。ましてや、それが初めてのビデオ撮影などということになれば、勃起薬の使用もやむを得ないという話になる。
阿形がハイジと呼ばれるのは、そのせいだった。
勃たない相手を勃たせることにかけて、阿形の右に出る者はいなかった。異性愛者向けのアダルトビデオに比べて俳優の寿命が格段に短いゲイポルノ界では、当然ながらその分『新人』が多い。彼らは、自分のセックスを人に見せるのが好きだからゲイビデオへの出演を決めたわけではない。中にはそういう手合いもいたが、大抵は金に困って、ゲイ雑誌やインターネットの広告の謳い文句につられてやって来る者ばかりだ。半日程度の撮影でカラミ──つまり、本番──あり。それで五万円当日払いともなれば、魅力を感じずにいるのは難しい。
そしていざ本番を迎えると、多くの男優は文字通り萎縮してしまうのだ。タチマチが数十分で終わればまだ良い方で、酷いときは何時間にも及ぶ場合がある。そんなとき、阿形が相手をすると、何故か待ち時間が短く済む。本人にも理由はわからない。ただ隣に座って他愛ない話をし、そっと揺さぶりをかけてやるだけで、相手の準備が整うのだ。その噂が広がり、『クララを立たせる』ハイジの異名が事務所に浸透するのにたいした時間はかからなかった。やがて阿形は新人担当とも言うべき立ち位置に収まり、程なくして『童貞食い』だとか『ノンケ食い』という看板を背負わされることとなった。
ルカのことをはっきりと覚えているのも、そのせいだ。
「まぁ、調子が悪いってところに関してはお前の想像通りだよ。しばらくカラミがある仕事は休ませてるんだ」望月は言った。「代わりに、いまは雑誌をメインにしてる。ルカならビデオに出さなくも儲かるからな。それでも、もう半年も新作をリリースしてない。そろそろまずい」
「ビデオに出さなくても儲かる? そんなに売れてるのか」
電話の向こうで、望月は鼻を鳴らした。「ゲイポルノから足を洗ったのは知ってたけど、そこまで疎いとこっちが悲しくなってくるな」
「なんだよ」阿形はムッとして聞き返した。
「ルカはポルノだけのモデルじゃない。大手の雑誌で特集を組まれるくらい売れてるんだ。先月の《アルチザン》の表紙を見てないのか? 《ペタル》は? 平積みされてるのを見たことくらいあるだろ」
「いや……」阿形は口ごもった。「見てない」
「やれやれ。もっと早くに外の世界に連れ出してやれば良かった。それでよくライターなんて名乗れるな」
「うるさい」
「SNSでじわじわ人気を集めて、セクシャルマイノリティのアイコン的存在になってる。いまじゃ深夜番組にも出演するほどの有名人だ。『イケメンすぎるゲイビ男優』ってな。うちの虎の子だよ」
ヘテロ向けのAV女優なら、出演作以外のところで見かけるのもそう珍しいことではない。だが、ゲイポルノのモデルが地上波に載るとは。おまけに、自分の性的指向を全世界に向けて発信する? それが共感をよぶ? 時代は変わった。確かに、自分が世情に疎いのを認めなくてはいけないようだ。
「ルカはあんたを尊敬してるんだ」望月が言った。
思わず、口に含んだコーヒーに噎せかけた。「俺を!?」
「いまの自分があるのは、昔あんたにもらったアドバイスのおかげなんだとさ。聞いても教えてくれないんだよ。なんて言ったんだ?」
「覚えてるわけないだろ」咳払いする間に、もう一度思い出そうとしたけれど、無駄だった。本当に忘れてしまっている。
「その魔法の言葉を思い出したら教えてくれよ。新人の勃ちにご利益がありそうだ」
他の多くの製作会社とは違って《ウィル・シー》ではモデルには極力薬を飲ませず、食事指導やマッサージを行って撮影に臨ませている。これは社長である望月の方針だった。ポルノ業界では、勃起薬やその他の薬を与え続けることでモデルを潰してしまう悲劇があとを絶たない。彼を賞賛することは滅多にないけれど、そこは立派だと思う。
「思い出したらな」
「期待しないで待ってる」望月はくつくつと笑った。「じゃ、明日の十一時に、木羽駅のロータリーでルカを拾ってやってくれ。いいか?」
「わかったよ」望月に頼まれごとをするときの常で、この段になると何かを言い返す気力もなくなっていた。
「謝礼は出せないけど、旅費は経費で落として良いからさ」望月は言った。
「そんなことだろうと思った」阿形は苦笑した。それから、望月の言葉にハッとして、慌てて聞き返した。「ちょっと待て、旅費って何だ!?」
案の定、電話は切れていた。
駅のロータリーにたどり着いた阿形は、車のハンドルに両腕を載せ、ぼんやりと人の波を眺めていた。ラジオからは、夏が来るたびに息を吹き返す懐かしいヒットチャートが流れてきている。
しなやかな細身の美少年。確か、ブラジル人と日本人のハーフだと言っていた。目を伏せると、驚くほど長く濃い睫毛が眼窩の淵まで影を落としていたっけ。当時、タチマチの間に歯の根が合わないほど震えていたあの子をなんと勇気づけたのかは思い出せないけれど、その後の撮影でしどけなく乱れた姿を忘れることはできない。下唇を噛み締め、眉を顰め、胸から顔まで真っ赤に染めて感じながら、救世主を見るような眼差しで阿形を見つめていた彼のことは。
ふと思い立って、スマートフォンのブラウザを立ち上げ、『ルカ モデル』と検索してみる。一番上に表示された写真投稿型SNSのページを開くときに期待したのは、洒落たポーズでキメた宣材写真──あるいは自身の肉体を映した赤裸々な自撮り画像だったが、画面に表示されたのは意外にも、風景を映した短い動画ばかりだった。
薄青の影に沈む海辺の街並みを見下ろすカット。遠くに見える水平線の淵や空に漂う千切れ雲が、いままさに昇ろうとしている朝日の気配にほんのりと輝き始めている。次のカットで、朱ね射す空を背景にした撮影隊のシルエットが映る。白い息を吐く青い影──彼らの真剣な眼差しを、ルカのカメラはしっかりと捕らえていた。
『ご来光を待って撮影開始! #全裸で待機中 #寒い #めちゃくちゃ寒い #でも絶景でしょ』
メッセージの下には、五万人を超える人間がこの投稿を『いいね』と思ったと記してある。
ススキの穂の透かし模様の向こうに沈む夕日。砂浜に置き去りにされた誰かの思い出の欠片。川に迫り出す木々が水面に落とす木漏れ日。投稿をさかのぼってみても、いまの彼がどんな外見をしているのかを教えてくれる映像はない。それでも、彼が撮影したと思しき動画や、添えられた言葉の一つ一つが、自撮り写真よりも赤裸々にルカという人間を明かしているような気がした。
この子が好かれる理由が、なんとなくわかる。
本当に、時代は変わったのだ。それでも、今さら、『ルカ』のような生き方ができるとは思わない。そんな自分が、この輝かしいポルノスターに対して何をしてやれると言うのだろう。
コンコンと窓を叩かれ、驚いた阿形は思わずスマートフォンを取り落とした。
慌てて電話を拾い上げて助手席側の窓を向いた彼の目に映ったのは、ほんの少し申し訳なさそうな顔で車内を覗きこむ男の顔だった。五年のときが経っても薄れることがなかった記憶の通りの瞳が、阿形の姿を認めて喜びに輝いた。
「ノブさん!」
「お前──」
それから、視線が滑り落ちた。夏の太陽を遮るのは、鍛え上げられた見事な身体。健康的な小麦色の肌と、盛り上がった胸筋を惜しげもなく衆目に晒しているタンクトップ。身体が資本のポルノ業界にいてさえ、これほど見事な肉体にお目にかかることは滅多にない。
だが、『しなやかな細身の美少年』を思い描いていた阿形の顔には、思い切り不信の表情が浮かんだ。
「誰だ!?」
埃一つないフロントガラスから背後に向かって流れていく都会の景色。アスファルトの上で揺らめく空気を蹴散らして歩く人々は容赦ない日差しに顔をしかめている。クーラーの効いた車内から眺めると、これから休暇を享受する身であることも相まって、優越感と罪悪感が入り混じった気分になる。と、そこで、これから始まるのは休暇というよりはむしろ別口の仕事だったことを思い出した。いや、無償なのだから仕事ですらない。
ちょうど二十四時間前の今頃だった。繰り返される着信に痺れを切らした阿形がようやく電話をとると、望月透は最初に応答したときと同じテンションで応えた。「元気か、ハイジ!」
阿形は目を閉じ、深呼吸を一つした。
「あともう一回でも俺を『ハイジ』と呼んだら、電話を切って着信拒否する」
「わかった、わかった」望月はにやけ笑いの雰囲気を声の中に織り込む達人だった。「元気そうで安心したよ。ところで、明日空いてるか?」
「ああ」苦虫をかみつぶしたような顔で答える。
「なんだ! もう仕事を干されたのか!」望月は嬉しそうに言った。
「用件を言え」
「実はな、また手伝ってほしいことがあるんだ……うちの事務所のモデルが困ったことになってて」
「そういうことからは足を洗ったんだって、何度言えば──」
「いやいや、最後まで聞けって」
革が擦れる音がして、望月が自分のオフィスチェアの上で体勢を立て直したのがわかった。どうやら、本気らしい。
「うちのモデルで、ルカって子がいるんだが……覚えてるだろ。《サーカス》ではレオンって名前で出演てた」
「レオン……」
覚えていないと言いたかった。それなのに、その名前を聞いた瞬間、記憶が蘇った。
潤んで震えていたあの眼。少しでも貫禄をつけたかったのか、腰の後ろに施したばかりのタトゥーが痛々しかった。誇り高い眼差しの雌ライオンの図案を見て、源氏名の由来はそれだろうかと思ったのだった。すらりと痩せたしなやかな身体と、暗褐色の柔らかい癖毛。それから──そう、やはり眼だ。子鹿のような睫毛に縁取られた不思議な色の瞳。その双眸で、縋るように見つめてきた、彼の記憶。
もう、五年も前のことだ。
文章で生計を立てられるようになったのはここ数年で、それよりもずっと前に、阿形はある種のビデオに出演していた。寿命と引き換えに過去を葬る魔法が存在するとしたら、二十年くらいは捧げても良いと思える過ちの中の過ちだ。
これも、きっかけは望月だった。
ゲイビデオの制作と販売を行う《サーカス》というプロダクションで、望月はADとして働いていた。彼は金に困っていた阿形を言葉巧みに業界に誘った。そうして、阿形は男優──ゲイビデオ業界で言うところのモデル──として働くことになったのだ。
その後《サーカス》が潰れると、望月は事務所の同僚とモデルの多くを引き連れて自分のプロダクション《ウィル・シー》を立ち上げた。いま《ウィル・シー》はゲイビデオのみならず、雑誌を始めとする出版業、飲食店経営、果ては男性向けのエステ経営まで手掛ける一大企業になりつつある。
ルカと撮影で一緒になったのは一度きりだった。そのときには、彼が次のビデオに出演することはないだろうと思ったが──。
「まだモデルをやってるのか」
「ああ。そうなんだけど、実は最近調子が悪くてな」
ほら来た。阿形は我知らずソファの上で身構えた。「だから、そういうのは──」
「違うんだって。いや、まぁ、そうなんだけど……」望月は口ごもった。「何も出演しろなんて頼まないよ。ただ、ちょっと気晴らしの相手になってやってほしいだけだ」
「またスタジオまで行ってタチマチの相手をしろって?」
タチマチとは、アダルトビデオ界隈の業界用語で、『俳優が勃起するのを待つ時間』を意味する。ポルノの世界へ身を投じる者は誰しも性技に長け、自由自在にモノを振るえると思われているかもしれないが、決してそんなことはない。男性の心は世間一般の認識よりずっとデリケートで、男心の象徴とも言われる男性器はそれに輪をかけて繊細なのだ。アダルトビデオの撮影現場でタチマチが発生すると、すべての進行がそこで止まる。現場が自分の勃起を待ちわびている、そのプレッシャーの中で自身を奮い立たせなければならない男優の心情を想像してほしい。気の弱い人間ならそれだけで縮み上がってしまうだろう。ましてや、それが初めてのビデオ撮影などということになれば、勃起薬の使用もやむを得ないという話になる。
阿形がハイジと呼ばれるのは、そのせいだった。
勃たない相手を勃たせることにかけて、阿形の右に出る者はいなかった。異性愛者向けのアダルトビデオに比べて俳優の寿命が格段に短いゲイポルノ界では、当然ながらその分『新人』が多い。彼らは、自分のセックスを人に見せるのが好きだからゲイビデオへの出演を決めたわけではない。中にはそういう手合いもいたが、大抵は金に困って、ゲイ雑誌やインターネットの広告の謳い文句につられてやって来る者ばかりだ。半日程度の撮影でカラミ──つまり、本番──あり。それで五万円当日払いともなれば、魅力を感じずにいるのは難しい。
そしていざ本番を迎えると、多くの男優は文字通り萎縮してしまうのだ。タチマチが数十分で終わればまだ良い方で、酷いときは何時間にも及ぶ場合がある。そんなとき、阿形が相手をすると、何故か待ち時間が短く済む。本人にも理由はわからない。ただ隣に座って他愛ない話をし、そっと揺さぶりをかけてやるだけで、相手の準備が整うのだ。その噂が広がり、『クララを立たせる』ハイジの異名が事務所に浸透するのにたいした時間はかからなかった。やがて阿形は新人担当とも言うべき立ち位置に収まり、程なくして『童貞食い』だとか『ノンケ食い』という看板を背負わされることとなった。
ルカのことをはっきりと覚えているのも、そのせいだ。
「まぁ、調子が悪いってところに関してはお前の想像通りだよ。しばらくカラミがある仕事は休ませてるんだ」望月は言った。「代わりに、いまは雑誌をメインにしてる。ルカならビデオに出さなくも儲かるからな。それでも、もう半年も新作をリリースしてない。そろそろまずい」
「ビデオに出さなくても儲かる? そんなに売れてるのか」
電話の向こうで、望月は鼻を鳴らした。「ゲイポルノから足を洗ったのは知ってたけど、そこまで疎いとこっちが悲しくなってくるな」
「なんだよ」阿形はムッとして聞き返した。
「ルカはポルノだけのモデルじゃない。大手の雑誌で特集を組まれるくらい売れてるんだ。先月の《アルチザン》の表紙を見てないのか? 《ペタル》は? 平積みされてるのを見たことくらいあるだろ」
「いや……」阿形は口ごもった。「見てない」
「やれやれ。もっと早くに外の世界に連れ出してやれば良かった。それでよくライターなんて名乗れるな」
「うるさい」
「SNSでじわじわ人気を集めて、セクシャルマイノリティのアイコン的存在になってる。いまじゃ深夜番組にも出演するほどの有名人だ。『イケメンすぎるゲイビ男優』ってな。うちの虎の子だよ」
ヘテロ向けのAV女優なら、出演作以外のところで見かけるのもそう珍しいことではない。だが、ゲイポルノのモデルが地上波に載るとは。おまけに、自分の性的指向を全世界に向けて発信する? それが共感をよぶ? 時代は変わった。確かに、自分が世情に疎いのを認めなくてはいけないようだ。
「ルカはあんたを尊敬してるんだ」望月が言った。
思わず、口に含んだコーヒーに噎せかけた。「俺を!?」
「いまの自分があるのは、昔あんたにもらったアドバイスのおかげなんだとさ。聞いても教えてくれないんだよ。なんて言ったんだ?」
「覚えてるわけないだろ」咳払いする間に、もう一度思い出そうとしたけれど、無駄だった。本当に忘れてしまっている。
「その魔法の言葉を思い出したら教えてくれよ。新人の勃ちにご利益がありそうだ」
他の多くの製作会社とは違って《ウィル・シー》ではモデルには極力薬を飲ませず、食事指導やマッサージを行って撮影に臨ませている。これは社長である望月の方針だった。ポルノ業界では、勃起薬やその他の薬を与え続けることでモデルを潰してしまう悲劇があとを絶たない。彼を賞賛することは滅多にないけれど、そこは立派だと思う。
「思い出したらな」
「期待しないで待ってる」望月はくつくつと笑った。「じゃ、明日の十一時に、木羽駅のロータリーでルカを拾ってやってくれ。いいか?」
「わかったよ」望月に頼まれごとをするときの常で、この段になると何かを言い返す気力もなくなっていた。
「謝礼は出せないけど、旅費は経費で落として良いからさ」望月は言った。
「そんなことだろうと思った」阿形は苦笑した。それから、望月の言葉にハッとして、慌てて聞き返した。「ちょっと待て、旅費って何だ!?」
案の定、電話は切れていた。
駅のロータリーにたどり着いた阿形は、車のハンドルに両腕を載せ、ぼんやりと人の波を眺めていた。ラジオからは、夏が来るたびに息を吹き返す懐かしいヒットチャートが流れてきている。
しなやかな細身の美少年。確か、ブラジル人と日本人のハーフだと言っていた。目を伏せると、驚くほど長く濃い睫毛が眼窩の淵まで影を落としていたっけ。当時、タチマチの間に歯の根が合わないほど震えていたあの子をなんと勇気づけたのかは思い出せないけれど、その後の撮影でしどけなく乱れた姿を忘れることはできない。下唇を噛み締め、眉を顰め、胸から顔まで真っ赤に染めて感じながら、救世主を見るような眼差しで阿形を見つめていた彼のことは。
ふと思い立って、スマートフォンのブラウザを立ち上げ、『ルカ モデル』と検索してみる。一番上に表示された写真投稿型SNSのページを開くときに期待したのは、洒落たポーズでキメた宣材写真──あるいは自身の肉体を映した赤裸々な自撮り画像だったが、画面に表示されたのは意外にも、風景を映した短い動画ばかりだった。
薄青の影に沈む海辺の街並みを見下ろすカット。遠くに見える水平線の淵や空に漂う千切れ雲が、いままさに昇ろうとしている朝日の気配にほんのりと輝き始めている。次のカットで、朱ね射す空を背景にした撮影隊のシルエットが映る。白い息を吐く青い影──彼らの真剣な眼差しを、ルカのカメラはしっかりと捕らえていた。
『ご来光を待って撮影開始! #全裸で待機中 #寒い #めちゃくちゃ寒い #でも絶景でしょ』
メッセージの下には、五万人を超える人間がこの投稿を『いいね』と思ったと記してある。
ススキの穂の透かし模様の向こうに沈む夕日。砂浜に置き去りにされた誰かの思い出の欠片。川に迫り出す木々が水面に落とす木漏れ日。投稿をさかのぼってみても、いまの彼がどんな外見をしているのかを教えてくれる映像はない。それでも、彼が撮影したと思しき動画や、添えられた言葉の一つ一つが、自撮り写真よりも赤裸々にルカという人間を明かしているような気がした。
この子が好かれる理由が、なんとなくわかる。
本当に、時代は変わったのだ。それでも、今さら、『ルカ』のような生き方ができるとは思わない。そんな自分が、この輝かしいポルノスターに対して何をしてやれると言うのだろう。
コンコンと窓を叩かれ、驚いた阿形は思わずスマートフォンを取り落とした。
慌てて電話を拾い上げて助手席側の窓を向いた彼の目に映ったのは、ほんの少し申し訳なさそうな顔で車内を覗きこむ男の顔だった。五年のときが経っても薄れることがなかった記憶の通りの瞳が、阿形の姿を認めて喜びに輝いた。
「ノブさん!」
「お前──」
それから、視線が滑り落ちた。夏の太陽を遮るのは、鍛え上げられた見事な身体。健康的な小麦色の肌と、盛り上がった胸筋を惜しげもなく衆目に晒しているタンクトップ。身体が資本のポルノ業界にいてさえ、これほど見事な肉体にお目にかかることは滅多にない。
だが、『しなやかな細身の美少年』を思い描いていた阿形の顔には、思い切り不信の表情が浮かんだ。
「誰だ!?」
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