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 自分の文章を、嘘で始めたことはなかった。
「原稿、確かに拝受いたしました」電話の向こうから聞こえてくる声には興奮が宿っていた。「早速読ませていただきましたよ!」
「どうでした?」その答えを聞く前にソファに座り込んだのは、年甲斐もなく震えそうになる膝を意識しないようにするためだ。
「先生、どうでしたも何も、最高です! 本当にこれまで小説をお書きになったことないんですか」
 快哉を叫びそうになるのを堪えて、一つ呼吸をする。
「たった七千字の掌編で『先生』なんて大袈裟な」
 そうは言っても、彼女の反応を受け取って、ようやく五感が働くようになった気がしているのも事実だった。初稿が自分の手を離れて誰かの目に触れてなにがしかの手応えを得るまでは、喉に綿を詰められたような気分のまま過ごすのが常で、それが初めて挑む仕事ならなおさらだ。
 これまでエッセイや短いコラムの仕事しかしてこなかった阿形あがたに小説の仕事を持ちかけたのは、馴染みの出版社の編集者として働く野畠のばただった。
 新聞の日曜版に短編小説を連載してゆくこの企画は、さる自動車メーカーが発表した新車の大々的なキャンペーンの一環だった。その車の歴史を鑑みれば、自分に声がかかったのは偶然ではない気がした。昭和の名車のモデルチェンジと、昭和の名優の息子。確かに、良い話題作りになる──絶縁状態にあることなど、世間は知らないのだから。野畠が抜擢の理由を仄めかしもしなかったのは、阿形が親の名前を引き合いに出されるのを嫌がると知っているからだろう。
「これからの季節にぴったりのストーリーですね」
 電話の向こう側から聞こえてくる野畠の声に、物思いから引き戻された。
「シンプルですけど、阿形さんの描写の巧みさが際だって、とても良いです」
 必死に貯めた金で買った憧れの車。主人公は、納車の日を迎えたら、ずっと思いを寄せていたを誘って海に行こうと決めている。ところが、いざ真新しい車を手に入れてみると、不安ばかりが押し寄せてきて、スマートフォンのメッセージアプリを立ち上げることすらできない。季節は初夏。輝かしい季節の始まりと好対照な煩悶を抱えたまま、主人公は一人で車を走らせ──。
「最後の、海のシーンが最高でした」野畠は言った。「主人公の悩みが洗い流されていく様子が真に迫っていて。情景が鮮やかに浮かびました──潮風の匂いを感じられるくらい」
 海岸沿いの駐車場に車を停めて、主人公は意中の相手に電話をかける。「いま、どこにいるの」と、その人は尋ねる。主人公は微笑むと、受話器を青い海に向ける。その人に潮騒を届けて晴ればれと言う。「今度は、二人で来よう」と。
「編集部の誰に読ませても文句なしの出来栄えです。わたしの目に狂いはなかったって吹聴して回ってるところなんですから」
「そう言っていただけると」阿形は電話口で微笑んだ。
「先方の喜ぶ顔が目に浮かびますよ」野畠は請け合った。「ところで阿形さん、一つ気になったことがあるんですけど」
 ──来た。
 阿形はソファの上で我知らず身を強張らせた。
「この物語の主人公の性別が不明なのは……どういう意図ですか?」
「それは──」落ち着け。彼女はどういう意図ですかと訊いたんだ。意図ですか、ではない。「性別に関係なく感情移入してもらえたら、と」
 いかなる原稿も、それに金を出す誰かがいることを意識せずに書くことはできない。ときには自分の主義主張を曲げて、耳触りのいい言葉を連ねることも必要だ。これまで様々な媒体に向けて、様々なテーマの文章を書いてきた。心が折れそうになるほどリテイクを重ねたこともある。だからわかる。おそらくクライアントが求めるのは、年収四百五十万以上の、正規雇用のストレート男性の物語だ。それでも今回、生まれて初めて書く物語の主人公には、自分自身で感じたことのない思いを込めることはできなかった。自分の文章を嘘から始めたことはない。
 虚構を組み立てて物語を作る小説というものが自分に向いているのかどうか、まだよくわからない。すべてのひとの心に届くような、普遍的なストーリーを目指そうとしてはいるけれど、それで『凡庸』に行き着くのだけは避けたい。果たして、それが成功するかどうか。何にせよ、この仕事でこければ、二度と小説の執筆依頼が来ることはないだろう。
「なるほどですね」
 野畠の特徴的な相槌を遮るように、遠くから『おい野畠! 三番に電話、庄司さん!』という声が聞こえた。彼女はにわかに慌てた声で
「ええっと……そうしましたら、三日後には校正入れてお戻しできると思います。今後の進行の擦り合わせも兼ねて、一度お伺い──」と、そこまで言いかけて言葉を切った。「違った」
「夏休みでしたよね」つい先日、休暇には宮古島へ行くという話を聞いたばかりだ。「大丈夫ですよ。進行には余裕があるでしょ」
 野畠はほっとした声で言った。「ありがとうございます。先生の夏のご予定は?」
「さあ……ネタ探しに近場をドライブするくらいですかね」
「あら」と肩すかしを食らったような声。「それなら、お土産にこうご期待です」
「僕のことなんか忘れて、楽しんできてください」
 盆暮れ正月とは縁遠いフリーランサーの羨望ととられないように、さりげない調子で阿形は言った。
「はぁ……みんなが阿形さんみたいに仕事してくれたらいいのに」
 野畠はしみじみと言い、通話を終えた。

 すっかり結露してしまったコーヒーのグラスに指先で意味のない模様を描きながら、不意に迫ってくる静寂を感じた。都内に暮らしていれば、安らぎをもたらす静けさは得難いものだ。昼夜を問わない騒々しさに慣れきった身には、静かなひと時は一種の贅沢ですらある。だがいまこのとき、それは孤独と同義だった。
 マンションの最上階──十四階だから高層とは呼べないが、ちょうどいい高さだ──に位置する部屋の掃き出し窓を開けると、その途端に喧騒と熱がひとかたまりになってぶつかってきた。クーラーに慣れた身体が、意外にもこの不快感を喜んでいる。阿形はアイスコーヒーを片手にベランダの手すりにもたれて、猛暑の中でどことなく浮き足立っているように見える人々の営みを、何とはなしに眺めた。
 一週間の休暇。この小説仕事のためにイレギュラーな案件は断っていたし、それ以外の仕事はすでに入稿が済んでしまっていた。次に野畠から連絡が来るまで、自宅待機していなくてはならない理由はない。大手の出版社でお盆休みを掲げるところは少ないものの、編集者は入れ替わり立ち替わり休暇を取得するから、すべての進行は必然前倒しになる。その慌ただしさの洗礼を受けたあとでは、いまから始まる一週間がとてつもなく大きな空白のように思えた。
 ぼんやりとした頭の片隅に、今年も開催するはずのいくつかのイベントと、馴染みの場所が浮かんでは消えた。禁欲生活に入るような歳ではないが、それでも若い頃のように、捌け口を求めて発展場を彷徨わなければ収まらない欲求不満があるわけでもない。
 多分本当に、そのあたりをドライブして来るくらいがちょうど良いのだ。きっと、それはそれで楽しめる。
 そうして、半ば強引に気分を盛り上げているところで、着信音が邪魔をした。
 何か伝え忘れた野畠からだろうと、相手をろくに確かめもせず応答する。
「はい?」
「ハイジ! 元気でやってるか!」
 阿形は慌てて電話を切った。
 それから、病原菌の温床を見るような目でスマートフォンを見つめ、ベランダから部屋の中のソファに向かってそれを投げた。思った通り、着地する前に二度目の着信音が聞こえた。
 いつもなら、たとえ不在着信の件数が二ケタに届いても奴からの電話には出ない。間違いなく面倒なことを押しつけられるからだ。そのたびに、次こそはこの番号を着信拒否リストに入れておこうと思うのだが、いまだにそれをしていない理由を、阿形には明言することができなかった。
 だが、今年の夏の休暇は長く、することは乏しい。
 鳴っては途切れる着信音が五度目のリフレインに突入したところで、阿形は電話をとった。
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