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あれだけのことがあった後でも、世界は大して変わらなかった。
侵攻に失敗した光箭軍は散り散りになって解散したが、陽神教は別の場所に新たな万神宮を造り、相変わらずエイルやダイラに文句を言っている。だが、彼らが他の国に攻め入ろうとすることは、もうないだろう。陽神教の支配からの独立を宣言する国は、もはやエイルやダイラだけではなくなった。
ダイラは、エレノア女王の下で栄えた。『締まり屋』の女王は、前の戦争で使い果たした国費を取り戻すために産業を鼓舞している。新たな国策の恩恵を受けるマチェットフォードには、大きな劇場が建った。国一番の劇作家のキャッスリーと、国一番の役者のトムソンを観に、今では海の向こうからも客が来るという。ダイラの全ての街には学校が建立され、子供たちは文字を学んだ。彼らは物語を読み、またいつか自ら新しい物語を記すだろう。
エイルも、二人の王の下で繁栄した。エイルに亡命した人びとのなかには、祖国に帰るものもいれば、留まるものもいた。いずれにせよ、腥血の王と遠吠えの王が治めるあの国は、去るには名残惜しいほどの平和と自由に満ちた国となった。フーヴァル・ゴーラム船長とゲラード・スカイワード、そしてその仲間たちの船が世界一周を果たしたことで、エイルにはさらなる栄誉が加わった。ホラスとマタルは二人で旅に出た。彼らが行き着いた場所は、砂漠の民の歌だけが知っている。
〈クラン〉は伝説となった。押し寄せる海嘯と敵から仲間を守り抜いて死んだ最後の頭領の名と共に。誇り高き〈協定〉の守り手としての生き様を示した彼らは多くの者に歌われた。ヒルダのわけ隔てない誠実さを物語るように、その歌はひととナドカの両方に愛された。
信仰の礎が失われた後も、祈りは至る所で囁かれ続けた。太陽の神、海の神、雷の神、そして月の神──気休めに過ぎないと言う人もいる。そんなものは、大昔の愚か者が作り上げた嘘だ、虚構に過ぎないと。
けれど、救いを求めるとき、奇跡のような出来事を目にしたとき、彼らは、そこに在る……特別な何かを信じる。たとえ、ほんの束の間であっても。
神々が存在するのか、しないのか。それは、今や決して答えの出ない問いになってしまった。だが、ひとつだけ、確かに言えるのは──祈りがひとの傍らを去ることはないということだ。
神を失った世界で、ナドカはひとと、ひとはナドカと交わりながら、ゆっくりと一つの種族に縒り合わさっていった。月神が彼女の子らに与えた不思議な力は薄れつつある。やがては微かな伝承の面影に過ぎなくなるだろう。ナドカとひとの隔たりも、彼らが繰り広げた戦も、栄誉も、過ちも、今では無数の譚詩に残るのみだ。
神話は歴史になり、歴史は物語となる。そして、物語は──
物語は、いつまでも生き続ける。
結
「やっと起きた!」
若い娘の声が、頭上から降ってきた。
「マー! やっと目を覚ましたよ!」
いいや。目を覚ましてない。
そう言いたかった。さっきまで見ていた夢から、完全には抜け出せていない。
この頃、眠っていても起きているような気がする。逆に、起きているときにも眠っているような気がするときもあった。これだけ年を取れば、ほとんどの者はそうなるのだろうが。
仰向けに横たわった身体は、まだ馬車に乗っているみたいに揺れていた。視界はぼやけていて、光が目に痛い。恐る恐る瞬きをして少しずつ目を慣らすと、ここが派手な壁紙で統一された小部屋のような場所であることがわかった。
「レタ、あまり大騒ぎするんじゃないよ」母親が、少女を叱っている。「疲れてるんだから。そっとしておいてあげなさい」
「大騒ぎなんてしてないもん」レタは、そう言いながらも少し声を落とした。
何度か瞬きをして、ようやく正常な視界を取り戻した。
そう、そこはまさしく馬車の上。エルカンが住み処とする、移動式の小さな家──ハミシュの家だ。
彼女の曾祖母から名前を引き継いだひ孫が、ハミシュの顔を覗き込んでいた。グレタだけではない。マタルに、ホラス、ガルにアーヴィン。ヒルダにエレノア、そしてエヴラールまで、狭い馬車の中に乗り込んでいる。
みな、この商隊の一族で、ハミシュが語った物語に育てられた子供だ。
あの大戦の後、ハミシュはマクラリー一家の元に身を寄せた。弟の行方は知れない。彼はしばらく導者たちと過ごした後、どこか小さな村の教会で慎ましく暮らしたという話を耳にした。真実はわからない。生きているのか、死んでいるのかさえ。きっと……それでいいのだと思う。ハミシュには新しい家族ができた。彼もまた、新たな道を選んだのだ。
「ひいじいちゃん。何処まで話してくれたか覚えてる?」
「おぼえているとも」ハミシュは言い、ゆっくりと体を起こした。「さて……どこまで話したかな」
「やっぱり覚えてない」呆れたように、アーヴィンが言った。
「じゃあ初めからお話しして! もう一回!」
マタルの言葉に、全員が賛同した。
「もう一度、最初からかね?」
全員が頷いた。
「ひいおじいちゃん、おねがい」
レタが目を潤ませた。そういう顔をすると、この子はほんとうにグレタにそっくりに見える。
「仕方がない……それじゃ、最初からな」
子供たちは歓声を上げた。
やれやれ、死ぬ前に最後まで語り切れるかどうか。
ハミシュは深く息を吸い、吐いた。はじまりの気配に、子供たちの目が輝く。
「昔むかしのその昔」
ハミシュは子供たちの顔を見回して、待った。
子供たちの頭の中から、馬車の揺れや、部屋の狭さが消えてゆくのを。ガタゴトという音が遠ざかり、かわりにリュートの音色や剣戟の響きが鳴り渡るのを。そして目の前に、遙か昔のダイラやエイルが拡がってゆくのを。
そこには彼らが息づいている。今も生き生きと、少しも色褪せることなく。
だから言っただろう、リコヴ。お前は、いまも生きているよ。
そして、ハミシュは物語をはじめた。
「これは、去る日月の歌語り──」
あれだけのことがあった後でも、世界は大して変わらなかった。
侵攻に失敗した光箭軍は散り散りになって解散したが、陽神教は別の場所に新たな万神宮を造り、相変わらずエイルやダイラに文句を言っている。だが、彼らが他の国に攻め入ろうとすることは、もうないだろう。陽神教の支配からの独立を宣言する国は、もはやエイルやダイラだけではなくなった。
ダイラは、エレノア女王の下で栄えた。『締まり屋』の女王は、前の戦争で使い果たした国費を取り戻すために産業を鼓舞している。新たな国策の恩恵を受けるマチェットフォードには、大きな劇場が建った。国一番の劇作家のキャッスリーと、国一番の役者のトムソンを観に、今では海の向こうからも客が来るという。ダイラの全ての街には学校が建立され、子供たちは文字を学んだ。彼らは物語を読み、またいつか自ら新しい物語を記すだろう。
エイルも、二人の王の下で繁栄した。エイルに亡命した人びとのなかには、祖国に帰るものもいれば、留まるものもいた。いずれにせよ、腥血の王と遠吠えの王が治めるあの国は、去るには名残惜しいほどの平和と自由に満ちた国となった。フーヴァル・ゴーラム船長とゲラード・スカイワード、そしてその仲間たちの船が世界一周を果たしたことで、エイルにはさらなる栄誉が加わった。ホラスとマタルは二人で旅に出た。彼らが行き着いた場所は、砂漠の民の歌だけが知っている。
〈クラン〉は伝説となった。押し寄せる海嘯と敵から仲間を守り抜いて死んだ最後の頭領の名と共に。誇り高き〈協定〉の守り手としての生き様を示した彼らは多くの者に歌われた。ヒルダのわけ隔てない誠実さを物語るように、その歌はひととナドカの両方に愛された。
信仰の礎が失われた後も、祈りは至る所で囁かれ続けた。太陽の神、海の神、雷の神、そして月の神──気休めに過ぎないと言う人もいる。そんなものは、大昔の愚か者が作り上げた嘘だ、虚構に過ぎないと。
けれど、救いを求めるとき、奇跡のような出来事を目にしたとき、彼らは、そこに在る……特別な何かを信じる。たとえ、ほんの束の間であっても。
神々が存在するのか、しないのか。それは、今や決して答えの出ない問いになってしまった。だが、ひとつだけ、確かに言えるのは──祈りがひとの傍らを去ることはないということだ。
神を失った世界で、ナドカはひとと、ひとはナドカと交わりながら、ゆっくりと一つの種族に縒り合わさっていった。月神が彼女の子らに与えた不思議な力は薄れつつある。やがては微かな伝承の面影に過ぎなくなるだろう。ナドカとひとの隔たりも、彼らが繰り広げた戦も、栄誉も、過ちも、今では無数の譚詩に残るのみだ。
神話は歴史になり、歴史は物語となる。そして、物語は──
物語は、いつまでも生き続ける。
結
「やっと起きた!」
若い娘の声が、頭上から降ってきた。
「マー! やっと目を覚ましたよ!」
いいや。目を覚ましてない。
そう言いたかった。さっきまで見ていた夢から、完全には抜け出せていない。
この頃、眠っていても起きているような気がする。逆に、起きているときにも眠っているような気がするときもあった。これだけ年を取れば、ほとんどの者はそうなるのだろうが。
仰向けに横たわった身体は、まだ馬車に乗っているみたいに揺れていた。視界はぼやけていて、光が目に痛い。恐る恐る瞬きをして少しずつ目を慣らすと、ここが派手な壁紙で統一された小部屋のような場所であることがわかった。
「レタ、あまり大騒ぎするんじゃないよ」母親が、少女を叱っている。「疲れてるんだから。そっとしておいてあげなさい」
「大騒ぎなんてしてないもん」レタは、そう言いながらも少し声を落とした。
何度か瞬きをして、ようやく正常な視界を取り戻した。
そう、そこはまさしく馬車の上。エルカンが住み処とする、移動式の小さな家──ハミシュの家だ。
彼女の曾祖母から名前を引き継いだひ孫が、ハミシュの顔を覗き込んでいた。グレタだけではない。マタルに、ホラス、ガルにアーヴィン。ヒルダにエレノア、そしてエヴラールまで、狭い馬車の中に乗り込んでいる。
みな、この商隊の一族で、ハミシュが語った物語に育てられた子供だ。
あの大戦の後、ハミシュはマクラリー一家の元に身を寄せた。弟の行方は知れない。彼はしばらく導者たちと過ごした後、どこか小さな村の教会で慎ましく暮らしたという話を耳にした。真実はわからない。生きているのか、死んでいるのかさえ。きっと……それでいいのだと思う。ハミシュには新しい家族ができた。彼もまた、新たな道を選んだのだ。
「ひいじいちゃん。何処まで話してくれたか覚えてる?」
「おぼえているとも」ハミシュは言い、ゆっくりと体を起こした。「さて……どこまで話したかな」
「やっぱり覚えてない」呆れたように、アーヴィンが言った。
「じゃあ初めからお話しして! もう一回!」
マタルの言葉に、全員が賛同した。
「もう一度、最初からかね?」
全員が頷いた。
「ひいおじいちゃん、おねがい」
レタが目を潤ませた。そういう顔をすると、この子はほんとうにグレタにそっくりに見える。
「仕方がない……それじゃ、最初からな」
子供たちは歓声を上げた。
やれやれ、死ぬ前に最後まで語り切れるかどうか。
ハミシュは深く息を吸い、吐いた。はじまりの気配に、子供たちの目が輝く。
「昔むかしのその昔」
ハミシュは子供たちの顔を見回して、待った。
子供たちの頭の中から、馬車の揺れや、部屋の狭さが消えてゆくのを。ガタゴトという音が遠ざかり、かわりにリュートの音色や剣戟の響きが鳴り渡るのを。そして目の前に、遙か昔のダイラやエイルが拡がってゆくのを。
そこには彼らが息づいている。今も生き生きと、少しも色褪せることなく。
だから言っただろう、リコヴ。お前は、いまも生きているよ。
そして、ハミシュは物語をはじめた。
「これは、去る日月の歌語り──」
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