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 ダイラ デンズ湾/硲 
 
「いいかい! ここが最後の防衛線だ!」 
 イルヴァの声が風に乗り、〈浪吼団カルホウニ〉の船という船に運ばれる。船乗りたちの雄叫びが、デンズ湾に響き渡った。 
「陸上からの支援は期待できない。マチェットフォードの腰抜けどもは、股をおっぴろげて敵が来るのを待ち構えてやがる! 奴らに本物の戦いってやつを披露してやろうじゃないか!」 
 〈浪吼団〉とダイラ海軍の連合艦隊が作る防衛網を、喊声が駆け抜けていった。味方の船は、およそ百。 
 フーヴァルはひとりロッサーナ号の舳先に立って、戦場を見渡していた。海の上だろうが、陸の上だろうが、こんなに滅茶苦茶な戦場を見たのは初めてだった。 
 風は強く波は高い。嵐が幕を開ける一歩手前だ。 
 光箭軍の船が、見渡す限りの海を埋め尽くしている。その数、ざっと二百。黒一色に塗り込められた船体は、見る者に威圧感を与えた。見るからに寄せ集めの船からなる味方の艦隊とは雲泥の差だ。視界の限りびっしりと押し寄せる黒と金。並みの船乗りなら失神するか、失禁するか、とにかく尊厳を失うようなことをしでかしてしまうところだ。 
 だが、問題はそれだけではなかった。 
 〈嵐の民ドイン・ステョルム〉の竜頭船ロングシップが、敵の艦隊の隙間を埋め尽くしていたのだ。 
「ふざけやがって」フーヴァルは歯ぎしりした。「やつらはひとり残らず冥土に送ったはずだろうが……!」 
 そう言いながらも、なにか普通じゃない力が働いているのはフーヴァルにもわかった。腐臭を振りまきながら敵味方の区別も無く魂を奪いまくる、あの腐死者ドラウグルどもがあんなに接近しているのに、敵の船乗りたちは気にも留めていない。 
 いや。敵艦隊の背後にがいる時点で、常識なんて物差しに意味は無いのかも知れない。 
 デンズ湾のはるか沖に、天を突くほど巨大な二つの影があった。 
 長いあごひげの先を海に浸して、巨人が波間を歩いている。鱗の張り付いた肌に、ボサボサの濡れ髪。狂気と知性を同じ分だけ持っているかのような、ぎょろりとした目の男。そいつが海をかき分けて進むほどに波は逆巻き、船は揺れた。 
 さらにそいつと向き合っているのが、これまた不気味な異形だった。全身が剣で覆われた、ひとのような、牛のような姿の大男だ。そいつは怖ろしい笑い声をあげると、鱗の巨人と取っ組み合いをはじめた。 
 海神マルドーホ剣神スヴァールク。大昔から、緑海で喧嘩を繰り返してきたふた柱の神が、どういうわけか今ここに居て、殴り合いの喧嘩をおっぱじめている。彼らが海の中で暴れると、波が荒れ、嵐雲が鳴動した。その様子は、味方にも敵にも見えてはいない。腐死者ドラウグルの群れや、フーヴァルの姿と同様に。 
 あの死に損ないどもと、神々と、それから俺がにいる。現実世界と奇妙に重なり合っているらしい、この空間に。 
「これが、『はざまの領域』ってことかよ」 
 ゲラードなら、目の前に広がるとち狂った状況を見定められるのだろう。だが、この世界に落ちるときにははぐれてしまってから、彼の姿は見ていない。 
 彼の覚悟を、フーヴァルは聞いた。 
 いざとなれば命を投げ出しても、新しい神の──唯一の神の誕生を阻止してみせる、と。 
「どこに居るにしても、頼むから早まったことはするなよ……」 
 そう呟きながら、フーヴァルは神々の背中から伸びている赤い緒を見つめた。嵐雲の中に吸い込まれている緒の先に何があるのかは、銀色に光る目を持っていなくてもわかる。あれは臍の緒だ。新しい神が、古い神を喰らうためのものだ。 
「クソッタレ、どうすりゃいいってんだ」 
 眼前に、敵の艦隊が迫る。金の仮面をかぶった兵士を満載して。彼らの手には手持ち筒が握られていた。ホラスの話に聞いていたやつだ。射程は短いが、威力はデカい。至近距離からあれにぶち抜かれたら、人間だろうがナドカだろうが、手足なんか一発で吹き飛ぶ。 
 一にも二にも、敵の船に乗り込んで暴れるのが〈浪吼団カルホウニ〉の戦い方だった。だが、今度はそれを恐れなければならない。連中は、海賊狩りにこれ以上ないほど適した武器を手に入れてしまったのだ。 
 こちらとしては、奴らを近づけないように戦うしかない。 
「大砲、発射用意!」 
 イルヴァが叫ぶ。命令は谺のように繰り返され、下甲板にまで伝わっていった。 
 とにかく大砲を撃ちまくって、敵を近づけさせない。勝つにはそれしかない。大学の魔術師たちのおかげで、エイルの船に搭載された大砲の射程は長い。上手く逃げ回れば勝機はある。 
 あるはずだ。でなきゃおしまいだ。 
 味方の背後には、ダイラの陸地が見えていた。マチェットフォードには、ダイラ随一の貿易港を守る立派な砦があり、海上に向けて設置された大砲がずらりと並んでいる。だが、それが味方を救うために使われることはない。イルヴァが言ったとおり、マチェットフォードはすでに戦いを放棄している。近くの砦から救援に差し向けられた女王の兵は、市兵によって締め出しを食らい、市壁の前で足止めされている。 
 光箭軍のダイラへの上陸を阻むには、ここで戦い、勝つしかないのだ。 
 フーヴァルは、自分に何ができるのかを考えた。だが、何も思い浮かばない。あの腐れ死人どもと、ただ我武者羅に戦うより他には。 
 光箭軍の黒い艦隊が、すぐそこまで来ている。 
 どこか遠く、左の海上で、最初の大砲の音が鳴り響いた。そう思ったら、至る所で同じ音が起こった。 
 〈嵐の民ドイン・ステョルム〉どもが剣を振り上げ、声なき声で雄叫びを上げる。神々は狂ったように笑いながら、死の舞踏を踊っている。角笛が鳴り響き、陣太鼓がとどろき渡る。空は暗くなり、重く粘つく雲が、さらに低くのし掛かって来た。 
 そして、混沌が始まった。 




      44 
 
 ダイラ 旧ベイルズ ガーナリン/硲  
 
 投石機から放たれる火の玉が、ガーナリンの壁にぶち当たる。 
 霹靂のような音を立てて崩れゆく壁の上で、ホラスが敵に囲まれている。マタルは彼の元へと、全速力で走った。 
「ホラス!!」 
 ホラスは十二人もの男に取り囲まれながら、なんとか剣一本でしのいでいる。だが、いつまで持つかわからない。いつまでも持つはずがない。 
 マタルの焦りをあざ笑うように、マタルを見捨てた曙神アシュタハの黒い茨がうねる。その合間にも投石は次々と壁に命中し、ついに、穴を開けた。 
 女王の軍勢から歓声が上がる。 
「くそっ!」 
 エレノアの勝利のためには、壁は崩されなければならない。けれどそうなったら、崩壊に巻き込まれて、ホラスは死んでしまう。 
 壁まで届かなかった巨石が地面に堕ち、土が舞い上がる。彼らにはマタルのことが見えていない。上から降ってくる壁と、後ろから飛んでくる大岩。足を置く場所を間違えれば、次の瞬間にはぺちゃんこに押しつぶされるかもしれない。マタルは走った。踊る巨人の足下をちょこまかと逃げ惑う鼠のように。 
 地面を揺らすほどの衝撃によろめきながら死の雨をすり抜け、泥をかぶり、火の粉を浴びながらも、マタルはようやく壁に辿り着いた。 
 大変なのはここからだ。 
 見上げると、壁は絶望そのもののように高く聳え立っている。だが、門が閉ざされている以上、外からこれをよじ登るより他に方法はない。マタルは意を決して、曙神アシュタハの茨を掴むと、壁を登りはじめた。避けたつもりの棘に何度も肌を切り裂かれながら、無我夢中で上を目指した。 
 石が壁に当たる度、世界そのものが怖ろしいほど揺れる。曙神アシュタハの茨に掴まっているから振り落とされるようなことはなかった。けれど、絶え間ない揺れのせいで激しい目眩に襲われて、危うく手を離しかけてしまった。 
 落下の前兆。地面が急速に近づく感覚。マタルは茨にしがみついたまま、背筋に嫌な汗が滲むのを感じた。 
 文身を失った自分の弱さ。剥き出しの恐怖が、錆が鉄を食うように気力を鈍らせる。ほんの一瞬、すべてを投げ出すことを考える。諦めは……心に平穏をもたらす。竜になってしまう前に死ねと渡された、あの丸薬を見つめていたときのように。 
 でも、ここで自分が諦めたらホラスは助からない。 
 それだけは、絶対に嫌だ。 
 マタルは目を閉じ、歯を食いしばって、次の茨を掴んだ。 
「いま、行くから……!」 
 そのとき背後から、新しい喊声が聞こえた。 
 振り向いたマタルは、思わず声を上げていた。 
 城を取り囲むエレノアと〈アラニ〉の大軍勢──彼らの背後から、敵が押し寄せてくるのが見えた。 
「そんな──」 
 彼らが振りかざしているのは銀の剣。燈火を持つ手の旗印を見るまでもない。 
 〈燈火の手ハンズ〉だ。 
 連中の狙いは明白だった。陣の後方に配されていた投石機と、それを守り、動かしている〈アラニ〉たちだ。 
 背後を突かれた女王軍は形勢を崩した。隊列がゆがみ、散り散りになる様子が、マタルの居る場所からは手に取るように見えていた。 
 ハンズは、かたい煉瓦にはいった皹のように隊伍を割り、脇目も振らずに目標に突っ込んだ。体勢を立て直し、陣の前方にいた騎兵たちが駆けつける頃には、〈アラニ〉たちはなすすべもなく倒れ、投石機も火に包まれていた。それは無数のかがり火のように、戦場を照らした。 
 その期を待っていたのだろう。 
 ガーナリンの城壁が軋みながら開いた。中から躍り出た何百という騎兵が、一目散に駆けてゆく。 
「これじゃ……挟み撃ちだ」 
 背後を突かれたことで、ほころびはすでに生じている。このままでは、女王軍は瞬く間に包囲されてしまう。 
 その時、戦況を見守るマタルを振り落とそうとするかのように、茨が蠢めき、マタルを弾き飛ばした。 
「う、あ!」 
 マタルはあえなく宙を舞った。 
 文身──駄目だ。落ちるしかない! 
 落下の衝撃に備えて身構えたが、無駄だった。地面にめり込んでいた投石に、背中からもろに突っ込んでしまった。 
「か……!」 
 息が、できない。 
 息を吸い込もうとしているはずなのに、感じるのは痛みだけだった。 
 無力さ、絶望の冷たさが、四肢の先から身体を侵食していく。 
 明滅する視界の奥で、曙神アシュタハが黒い茨を、さらに伸ばしていた。まるで、デンズ湾の海戦で見た大烏賊の脚──その何百倍もの数の茨が地面に突き刺さる。 
 そしてマタルは、今までに何度も味わってきた、あの力の波動を感じた。それは、マタルが今横たわっている地面の下から湧き上がってきた。 
 ガーナリン平野の地面の下。いままで幾たびもの戦の舞台になってきたガーナリン平野の地面の下には──。 
 嘘だろ……頼む。やめてくれ。 
 痛みも忘れて、マタルは祈った。だが、どの神に祈るというのだろう。いま絶望をもたらそうとしているのは、他ならぬ彼自身の神だというのに。 
「アシュタハ……やめてくれ……」 
 マタルは地面に手を置き、力を押し戻そうと足掻いた。 
 だが、何の意味も無かった。 
 目の前の地面が盛り上がったと思った次の瞬間、骨張った手が突き出てきた。手は空を掴むように伸び、やがて腕が、肩が、頭が現れる。土を振り落としながら、ひとりの死者が立ち上がった。ひとり、またひとり──みるみる間に、百、いや、千以上もの骸が地上に這い出してきた。 
 骸たちは、ガーナリンの城から湧き出す騎兵の馬に飛び乗り、あるいは歩兵たちの列に加わって、女王軍に向かって行った。 
 ガーナリン平野の地面の下には、何万もの兵士が眠っている。その兵士たちを、曙神アシュタハが呼び起こしてしまったのだ。現実の戦場に居る者たちの目には映らなくとも、マタルにはそれが見えていた。 
 死者たちが、生きている者たちの精気を、剣を握る力を、地面を踏みしめる力を奪ってゆく。 
 この、硲の世界と現実の世界とは、決して別々に分かたれたものではない。互いに影響を及ぼし合っている。その証拠を、マタルは目の当たりにしていた。 
 女王の言葉に奮い立った兵たちの目に宿った光はすでに消えかけていた。光を失い、ここで死ぬより他にないのだと、悟った者から倒れていった。 
「隊列を崩すな! 固まれ!」 
「陛下をお守りしろ!」 
「進め! 前進しろ!」 
 何十もの命令がてんでに飛び交う。戦旗は千切れ、踏みにじられ、無数の剣も、槍も、動揺に震えていた。 
 あっという間に、女王軍は取り囲まれた。がちゃがちゃと鋭い音を立てる鎧と、盾の壁が何重にも軍勢を包囲する。 
「だめだ……」 
 マタルは手を伸ばした。 
 自分の中から消えてしまった曙神アシュタハの力の欠片が、ほんの少しでも残ってはいないかと。だが、駄目だ。何度呼びかけても、女神はマタルの声に応えてはくれない。 
 勇ましい戦喚いくさよばいは、いまや叫喚に変わっていた。 
 自分は滅びを目にするのだろうか? 
 自由を掲げて立った一国の主が死んでゆくのを、なすすべもなく見ていることしかできないのだろうか。 
 いや、そんなことはしない。 
 マタルは呻きながら、ゆっくりと身を起こした。喘ぎと共に空気を吸い込み、地面に手を突いて、立ち上がる。 
 ガーナリンの街の頭上に咲く、大輪の薔薇の花が萎れかけている。その姿を見て、マタルは気付いた。 
 曙神アシュタハは、俺たちを相手に戦いたがっているわけじゃない。ただ苦しんで、食われまいと抗っているだけなんだ。その抵抗が、あちらの世界にも影響を及ぼしている。 
 それなら、いまここで俺がすべきことは、何だ? 
「俺は──」 
 俺は戦うためにここにきた。なら、戦わなければ 
 ホラスを見捨てるのか、と、心の中の声が言う。その瞬間、彼への想いが、思慕が燃え上がる。 
 本当は、すべてを見殺しにしてでも彼を助けに行きたい。世界と引き換えにしても良いほど、彼を想っている。彼の命が絶たれるときは、自分が死ぬときだ。確かに、そう思う。 
 けれど、彼と離れて、世界を巡ってわかった。この戦いに加わると決めたからには、それでは駄目なのだ。 
 何かを愛するということは──自分を失う覚悟をすること。時に自分自身よりも重い、愛そのものを犠牲にしなければならないとしても……正しい選択を胸に、しっかりと立つことだ。 
 神を殺した男が何を、と言われるかもしれない。 
 けれど、今ならわかる。あれは過ちなどではなかった。 
 二人が生まれたこの世界を、よりよくするための選択だった。だから、俺は──俺たちは贖罪のためではなく、最初の気持ちに正直に戦い続けるべきなんだ。世界をよくするために。そのために生きて、生きる。 
「ホラス……俺──」 
 目を閉じると、彼の顔が浮かぶ。頷いて、微笑んでくれる。 
 お前の思うとおりにするんだ、と。 
 そういうひとだから、マタルは愛した。強くなった。 
「俺、行くよ」 
 マタルは目を閉じた。そして、自分の奥底に眠っている力に呼びかけた。 
 身の内に根を張る茨の力ではなく、死人たちの帰りを照らす暁の力でもなく、いままでずっと己の血の中で燃えていた、根源に宿る力に命じた。いまこそ燃え上がれと。 
 これまでは、曙神アシュタハの力を借りて戦ってきた。けれど、俺は魔女だ。曙神アシュタハと出会う前から──生まれた時から、俺はサーリヤ族の魔女なんだ。 
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