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硲──少し前
リコヴに憑依されたハミシュは、エヴラールを導いてこの硲の世界にやって来た。
岩の隙間をくぐり抜けた瞬間、ハミシュが予想していなかったことが起こった。身体の中からリコヴの気配が消えたのだ。
「あ……!」
膝から力が抜けて、なすすべもなくよろめいたものの、なんとか立て直す。身体が空っぽになったような頼りない気持ちと、ずっと背負っていたものを捨て去った身軽さとが綯い交ぜになって、ハミシュはしばらくの間呆然と立ち尽くした。
その傍らで、エヴラールが頽れた。
「あ、ぐ……!」
「エヴ!?」
すぐさま駆け寄ったものの、ハミシュには何もできなかった。差し伸べようと思った手は、薄くて硬いものに阻まれた。弟の身体は、宙に浮かぶ殻に閉じ込められてしまっていた。
「なんだよ、これ!」
思い切り殻を殴ったが、びくともしない。薄い殻の向こう側に、混乱しきったエヴラールの顔が見える。
「エヴ……しっかり!」
力任せに殴り、引っ掻き、押し倒そうとしたけれど、無駄だった。そのうちに、透明な殻の表面がどんどん白く濁っていく。
「何なんだ」ハミシュは愕然と呟いた。「何なんだよ、これは!」
背後から、手を叩いて喜ぶ、耳慣れた──同時に初めて聞く声がする。
「大成功だ! これぞ、鳩の一族の真の姿!」
頭の中で聞くるのとは違うリコヴの声だ。
「成功……!? 成功って、何がだ!」
ハミシュがふり返ってつかみかかろうとすると、リコヴは両手の間をすり抜けた。ひとの姿をしているとばかり思っていたのだが、そこにいたのは宙に浮くおかしな蛇だった。ギョッと目を瞠るハミシュの前で、蛇は舌を突き出して嗤った。
「貴銀の族の役目は、神をこの世に孵すことなんだよ。何度も説明してやったろ?」
リコヴは歌うように言い、卵の上でとぐろを巻いた。そして、僅かに見えるエヴラールの顔を覗き込み、厳かな声で尋ねた。
「苦しいか、エヴラルド?」
エヴラールは、激しく喘ぎながらもなんとか頷いた。
「お前が生きてここにいることには、意味がある。お前の神はそう言った。覚えてるよな?」
「は……い……」エヴラールは喘鳴しながら答えた。
「これがその意味だ、我が小鳩よ。いままで、実によく俺の言うことを聞いてくれたな」
リコヴの言葉に、エヴラールはうっすらと笑みを浮かべさえした。
「エヴ、よせ! こいつの言うことなんか聞くな!」
「いまさら兄貴面はよしてくれ、ハミシュ」リコヴは冗談めかして言った。「俺は間違ったことは言ってないぜ。お前にも、エヴにも。約束はちゃんと守った。こうしてお前たちを再会させてやったんだからな」
リコヴは満足げに微笑むと、言った。
「さぁエヴラール準備はいいか? 教王として、最初で最後のお勤めだ!」
駄目だ。
「やめ──」
なにかが弾ける音がした次の瞬間、ハミシュたちが立っていた地面が崩れた。
卵と、蛇と、人間。その三つが、なすすべもなく落ちた。けたたましい笑い声を響かせるリコヴを無視して、ハミシュは弟に向かって手を伸ばした。
「エヴ!」
エヴラールも──卵の殻の中で手を伸ばして、なんとかハミシュの手を掴もうとした。だが、できなかった。殻の表面は青白い斑点模様に埋め尽くされ、弟の姿は完全に包み隠された。エヴラールの姿は、輪郭さえ見えなくなった。
「駄目だ、エヴ──待って……!」
卵はくるくると回転しながら落ちていった。闇の底で、卵はうっすらと光って見えた。
「エヴ!」
そして、どこからともなく現れた白い鳩によって、卵は運び去られてしまった。
ハミシュたちは、長い、長い時間をかけて落下した。落ち続ける感覚はあまりに不快で、いっそ死んでしまいたいとさえ思った。実際、何度か死んだような気がした。意識が遠のき、身体から重さが消え、肉体の結び目が全て解かれたような感覚に陥った。けれど、その度に意識を取り戻して、ただ気絶しただけだったのだと思い直した。
やっと底に辿り着いた時には、どれくらいの時間が経ったのか想像もつかなかった。落下の衝撃は、下敷きになった脆い地面が和らげてくれたものの、しばらくは身動きが取れなかった。
僕はどれくらいの距離を落ちてきたのだろう。
息を喘がせながら見上げる。しかし、渦を捲く黒い雲に阻まれ、自分たちが入ってきた裂け目を見つけることは出来なかった。
「一体……ここは何なんだ」
「ここは『忘却の果て』さ」リコヴが言った。「または、世界の墓場。生者の記憶から消えたものは、ここに捨てられる」
そこは、広大ででたらめな硲の領域の底にある、墓場とでも言うべき場所だった。力を失った世界の破片や精霊の残骸が積もって、底の……さらに底にあるはずの地面を覆い尽くしている。ハミシュが居るあたりはちょうど窪地になっていて、四方を見渡しても、壁のようにそそり立つ瓦礫が見えるばかりだ。
ハミシュは、これと似たものを見たことがあった。大禍殃の後、疫病がダイラを襲ったときに。
病の蔓延を恐れた人びとは、病気で死んだものの死体を地面の穴に積み重ねて火をつけた。いまハミシュが見ている光景は、火が消えた穴に燃え残った真っ黒な遺骸の山とそっくりだった。
上を見れば、遙か頭上で渦巻く黒雲の中心から、赤い筋が伸びていた。無数の赤い緒──最初にこの世界を覗き込んだときにも見た。まるで、無数の神々から何かを吸い取っているように見えた。
あの時は意味がわからなかったけれど、いまならわかる。あれはきっと、古い神から奪った力を新しい神に注ぎ込むための、臍の緒のようなものなのだ。
だとすれば、あの緒を辿っていけばエヴラールにたどり着ける。
ハミシュは歩きはじめた。
「おーい、どこ行くんだ?」リコヴが暢気な声で尋ねる。
「エヴを助けに行く」ハミシュは彼の方を見ずに答えた。「決まってるだろ」
だが、一筋縄ではいかなかった。
足場は脆く、歩くだけでも一苦労だった。窪地を抜け出すべく残骸の土手をよじ登り、崩落に巻き込まれては転がり落ちる。そんなハミシュの周りで、リコヴは宙を泳いでいた。
「なあ、いい加減に機嫌を直せよ。相棒」
ハミシュは彼を無視した。リコヴは肩をすくめて、またハミシュの周りを泳ぎはじめた。でたらめな歌を口ずさんだかと思えば、支離滅裂な言葉をつぶやき、ひとりでに笑っている。
ハミシュは、リコヴという神は自分に似た姿をしているのかと思っていた。
いままで、四六時中彼の声を耳にし、その姿を思い描いていた。だが、この硲の世界で実際の彼と対面して、ハミシュは自分の想像力の限界を思い知った。
彼は蛇の姿をしていた。太陽を思わせる鮮やかな金色から、夜の濃紺色へと移ろう色彩の蛇。ただし中身はない。骨も肉もない、鱗だけの蛇だ。鱗は時に並び順を変えたり、波打ったりしていた。無秩序で勝手気まま。まるでリコヴそのものだ。
彼はひとの姿をしてもいた。若く背の高い青年だ。浅黒い肌で、手足はすらりと細くて長い。麻の腰布を巻いていて、足は裸足という質素な出で立ちだが、無数の装飾品を身につけている。人の姿を取っているときにも、蛇の姿の時と同じように舌の先が二つに裂けていた。そして瞳は、黄昏時の西空と東空をそれぞれに映したように、左右別々の色だった。
彼は二つの姿を気ままに行き来し、時には人の姿をした蛇になることも、蛇の姿をした人になることもあった。何がどう違うのかは、うまく説明できないけれど。
ハミシュは赤い緒が行き着く先を目指して、坂を登り続けた。焼け焦げた動物の角を手がかりによじ登ろうとすると、引っ張った拍子に抜けた。それがきっかけとなって崩落がおこり、ハミシュはなすすべもなく巻き込まれ、再び底まで転げ落ちてしまった。
歯を食いしばって起き上がったハミシュの前で、リコヴが鎌首をもたげていた。
「なあ、もう諦めろって」
「エヴを助ける」ハミシュは言った。「ここじゃ、お前は僕に乗り移れないんだろ。もう邪魔はできない」
リコヴは、ハミシュの返事に驚いたみたいに、空中でもんどりをうった。そして、喜々として尋ねてきた。
「この期に及んで、いったい何をしようってんだ。相棒?」
「僕はお前の相棒じゃない」ハミシュは固い声で言った。
「この期に及んで、お前になにができるってんだ、兄弟?」
ハミシュが睨むと、彼は一層嬉しそうに目を細めた。
「エヴラールを取り戻して、お前の企みを止める」
リコヴはにんまりと笑った。
「そうか? ずいぶん前から、お前は俺にあれをさせない、これをさせないと言い続けてきたよなあ。それなのに、とうとうこんなところまで来ちまったじゃないか」
そんなこと、わかってる。
僕がもっと早くにリコヴの計画に気付いていたら、こんな状況にはなっていなかったかもしれない。悪いのは僕だ。今更なにかを変える自信もない。
だからって、じっと座って待っているなんて嫌だ。
誰かに自分の人生を揺るがされるのは、もう十分。
なら、抗わないと。何も変わらない。
ハミシュは黙々と、瓦礫を登った。そうして両手の指の感覚がなくなりはじめた頃、少し開けた場所に両脚をつけて、立ち上がることができた。そこから、ようやくあたりを見渡せた。
うずたかく積もる瓦礫が丘陵のように連なる景色。その奥に、一際高く聳える山がある。天から降りてきている赤い緒は、その頂上で卵と繋がっていた。あれが、エヴラールの卵。
さっき見た時よりも、大きくなっている。成長しているのだ。
ハミシュの背筋が恐怖に震えた。
卵は、古い神々を喰らいながら膨らんでいる。あの殻の中でエヴラールが──弟が、何か別のものに作り替えられようとしている。
止めなければ。世界のためだとか、そんなことは二の次だ。僕は、エヴラールを助ける。
ハミシュは卵を目指して歩き始めた。赤い緒が道標のように頭上にあるおかげで迷うことはない。瓦礫を蹴散らし、時に足を取られながらも、ハミシュは進み続けた。
「わかんねえなぁ。これから、陽神なんか目じゃないくらい強い神が生まれるんだぜ。それも、お前の弟のおかげで!」
リコヴはぱちぱちと手を鳴らした。だが、反応がないとみるや、またつまらなそうな顔に戻った。
「天変地異は……まあ仕方ない。戦だって、なにも好きでやらせてるわけじゃないんだぜ。俺を責めるなよ」
「お前がいなければ、世界はもっと平和だった」ハミシュは言った。「お前のせいで、いまどれだけのひとが苦しんでるか──」
「良いことをしてると言うつもりはないさ。しかしな、新しい世界ってのは、一度全部をぶち壊さなきゃ生まれないんだ」
「なら、新しい世界なんか必要ないだろ!」
斜面を登り切ると、そこにはまた別の山が聳えていた。頽れた砦や、いくつもの尖塔を持つ聖堂、そして無数の神像が一緒くたに折り重なっている。ハミシュは歯を食いしばって、先へと進んだ。
「なら聞くが、お前は今までの世界で満足だったのか?」
小さな蛇が、舌をチロチロと閃かせながら、ハミシュの周りをぐるぐると泳ぎ回る。
「ナドカと人間が終わらない戦いを続け、出鱈目を押しつける教会は幅をきかせて、貧しい生まれの連中は貧しいまま、蠅みたいにバタバタ死んでく──それがお前らの世界だぜ? そりゃ、ここんところ荒れてるのは確かさ。でも、全部が俺のせいってわけじゃない。火種はずーっとあったんだ。俺はちょいと鞴を動かしてやっただけさ」
ハミシュが答えずにいると、彼は続けた。
「思うにお前らには、信じるものがありすぎるんだ、そうだとも」リコヴは、自分の言葉に納得したように頷いた。「その昔、人間は弱かった。雨が降っちゃ死に、風が吹きゃ死んだ。川で死に、海で死に、山で死んで、何もなくても死んだ。だからこそ敬虔だった。謙虚で素直だった。だが、今の奴らときたら!」
彼はひとの姿になり、ハミシュがしがみつく廃墟の壁を垂直に登っていった。
「国のためだ、種族のためだと、なんやかや信じるものをあげつらっちゃいるが、そんなものは体の良い言い訳なんだ。奴らがどれだけ思い上がってるか、冷静に考えりゃわかるはずだ! まるでこの世の全部が自分のためにあるみたいに振る舞ってる。それこそ……神みたいにな。でも、わかるだろ。そういうのは、歪なんだ」
「だから壊すのか? みんなが思い上がってるから? 言い訳ばかりしてるから?」
「違う! お前、何にもわかってないな!」 そう言ってから、リコヴは声を和らげた。「いや、違うって事はないか。壊すのは──それも手順のひとつだからだ。何をするにしても、まずは部屋を片付けなきゃな。でも、目的は壊すことじゃない。なあ、そろそろわかれったら」リコヴは焦れったそうに言った。「新しい神が生まれるのは、連中がもっといい言い訳を求めてるからだ」
ハミシュはリコヴを見た。
「もっといい言い訳って?」
リコヴは笑った。「全てに対する言い訳だ」
ハミシュは首を振って、再び登りはじめた。
「正直なところ、俺にもわからない。百年ぐらい経ちゃ、またお前らがなにかいい言葉を見つけるのかもな。でも今はまだ無理だ。この世に存在もしてないものに名前はつけられない」
歯を食いしばる。手に力が入らなくなってきた。
「ずっと同じ世界のまま回り続けるなんて、無理なんだよ。ハミシュ。流れない水は腐るって言うだろ? お前らが望もうと望むまいと、変化ってのは必然だ。何かが壊れりゃ、それまでよりももっと良いものを作り直す。だろ? 俺がやってるのはそういうことなんだよ。意味わかるよな?」
うっすらと、わかる気がした。だが、それを認めるつもりはなかった。
「ああ、ワクワクするよなあ!」リコヴは身震いしてみせた。「新しい神が、地上の全てを支配するんだ。戦争に、法。政に……人間という人間の全ての感情まで! ぐうの音も出ないほど完璧な言い訳を与えてやれるんだぜ。それが、俺たちが生み出そうとしてるものだよ、ハミシュ!」
ハミシュは、食いしばった歯の間から言った。「俺たち、じゃない」
「言ってろよ、相棒」リコヴはハミシュの隣をすたすたと歩いて行く。「俺たちが生み出すのは、世界で一番、今までの歴史で一番の『嘘』なんだ。ワクワクしないってほうがおかしい」
「勝手に喋ってろ……」
やっとの事で、崩れた城の塔を登り切った。すると、そこにリコヴが立って、ハミシュを待ち構えていた。
彼の頭の上からは、あの赤い緒が伸びていた。
「お前──」
リコヴは笑った。
「言ったろ。全ての神の生まれ変わりだ」
ハミシュの膝から力が抜け、その場に頽れた。
「なんで、そこまでして……」
リコヴは、小さく肩をすくめた。
「仕方ないだろ。それが、この世界が俺に望んだことだからな」
硲──少し前
リコヴに憑依されたハミシュは、エヴラールを導いてこの硲の世界にやって来た。
岩の隙間をくぐり抜けた瞬間、ハミシュが予想していなかったことが起こった。身体の中からリコヴの気配が消えたのだ。
「あ……!」
膝から力が抜けて、なすすべもなくよろめいたものの、なんとか立て直す。身体が空っぽになったような頼りない気持ちと、ずっと背負っていたものを捨て去った身軽さとが綯い交ぜになって、ハミシュはしばらくの間呆然と立ち尽くした。
その傍らで、エヴラールが頽れた。
「あ、ぐ……!」
「エヴ!?」
すぐさま駆け寄ったものの、ハミシュには何もできなかった。差し伸べようと思った手は、薄くて硬いものに阻まれた。弟の身体は、宙に浮かぶ殻に閉じ込められてしまっていた。
「なんだよ、これ!」
思い切り殻を殴ったが、びくともしない。薄い殻の向こう側に、混乱しきったエヴラールの顔が見える。
「エヴ……しっかり!」
力任せに殴り、引っ掻き、押し倒そうとしたけれど、無駄だった。そのうちに、透明な殻の表面がどんどん白く濁っていく。
「何なんだ」ハミシュは愕然と呟いた。「何なんだよ、これは!」
背後から、手を叩いて喜ぶ、耳慣れた──同時に初めて聞く声がする。
「大成功だ! これぞ、鳩の一族の真の姿!」
頭の中で聞くるのとは違うリコヴの声だ。
「成功……!? 成功って、何がだ!」
ハミシュがふり返ってつかみかかろうとすると、リコヴは両手の間をすり抜けた。ひとの姿をしているとばかり思っていたのだが、そこにいたのは宙に浮くおかしな蛇だった。ギョッと目を瞠るハミシュの前で、蛇は舌を突き出して嗤った。
「貴銀の族の役目は、神をこの世に孵すことなんだよ。何度も説明してやったろ?」
リコヴは歌うように言い、卵の上でとぐろを巻いた。そして、僅かに見えるエヴラールの顔を覗き込み、厳かな声で尋ねた。
「苦しいか、エヴラルド?」
エヴラールは、激しく喘ぎながらもなんとか頷いた。
「お前が生きてここにいることには、意味がある。お前の神はそう言った。覚えてるよな?」
「は……い……」エヴラールは喘鳴しながら答えた。
「これがその意味だ、我が小鳩よ。いままで、実によく俺の言うことを聞いてくれたな」
リコヴの言葉に、エヴラールはうっすらと笑みを浮かべさえした。
「エヴ、よせ! こいつの言うことなんか聞くな!」
「いまさら兄貴面はよしてくれ、ハミシュ」リコヴは冗談めかして言った。「俺は間違ったことは言ってないぜ。お前にも、エヴにも。約束はちゃんと守った。こうしてお前たちを再会させてやったんだからな」
リコヴは満足げに微笑むと、言った。
「さぁエヴラール準備はいいか? 教王として、最初で最後のお勤めだ!」
駄目だ。
「やめ──」
なにかが弾ける音がした次の瞬間、ハミシュたちが立っていた地面が崩れた。
卵と、蛇と、人間。その三つが、なすすべもなく落ちた。けたたましい笑い声を響かせるリコヴを無視して、ハミシュは弟に向かって手を伸ばした。
「エヴ!」
エヴラールも──卵の殻の中で手を伸ばして、なんとかハミシュの手を掴もうとした。だが、できなかった。殻の表面は青白い斑点模様に埋め尽くされ、弟の姿は完全に包み隠された。エヴラールの姿は、輪郭さえ見えなくなった。
「駄目だ、エヴ──待って……!」
卵はくるくると回転しながら落ちていった。闇の底で、卵はうっすらと光って見えた。
「エヴ!」
そして、どこからともなく現れた白い鳩によって、卵は運び去られてしまった。
ハミシュたちは、長い、長い時間をかけて落下した。落ち続ける感覚はあまりに不快で、いっそ死んでしまいたいとさえ思った。実際、何度か死んだような気がした。意識が遠のき、身体から重さが消え、肉体の結び目が全て解かれたような感覚に陥った。けれど、その度に意識を取り戻して、ただ気絶しただけだったのだと思い直した。
やっと底に辿り着いた時には、どれくらいの時間が経ったのか想像もつかなかった。落下の衝撃は、下敷きになった脆い地面が和らげてくれたものの、しばらくは身動きが取れなかった。
僕はどれくらいの距離を落ちてきたのだろう。
息を喘がせながら見上げる。しかし、渦を捲く黒い雲に阻まれ、自分たちが入ってきた裂け目を見つけることは出来なかった。
「一体……ここは何なんだ」
「ここは『忘却の果て』さ」リコヴが言った。「または、世界の墓場。生者の記憶から消えたものは、ここに捨てられる」
そこは、広大ででたらめな硲の領域の底にある、墓場とでも言うべき場所だった。力を失った世界の破片や精霊の残骸が積もって、底の……さらに底にあるはずの地面を覆い尽くしている。ハミシュが居るあたりはちょうど窪地になっていて、四方を見渡しても、壁のようにそそり立つ瓦礫が見えるばかりだ。
ハミシュは、これと似たものを見たことがあった。大禍殃の後、疫病がダイラを襲ったときに。
病の蔓延を恐れた人びとは、病気で死んだものの死体を地面の穴に積み重ねて火をつけた。いまハミシュが見ている光景は、火が消えた穴に燃え残った真っ黒な遺骸の山とそっくりだった。
上を見れば、遙か頭上で渦巻く黒雲の中心から、赤い筋が伸びていた。無数の赤い緒──最初にこの世界を覗き込んだときにも見た。まるで、無数の神々から何かを吸い取っているように見えた。
あの時は意味がわからなかったけれど、いまならわかる。あれはきっと、古い神から奪った力を新しい神に注ぎ込むための、臍の緒のようなものなのだ。
だとすれば、あの緒を辿っていけばエヴラールにたどり着ける。
ハミシュは歩きはじめた。
「おーい、どこ行くんだ?」リコヴが暢気な声で尋ねる。
「エヴを助けに行く」ハミシュは彼の方を見ずに答えた。「決まってるだろ」
だが、一筋縄ではいかなかった。
足場は脆く、歩くだけでも一苦労だった。窪地を抜け出すべく残骸の土手をよじ登り、崩落に巻き込まれては転がり落ちる。そんなハミシュの周りで、リコヴは宙を泳いでいた。
「なあ、いい加減に機嫌を直せよ。相棒」
ハミシュは彼を無視した。リコヴは肩をすくめて、またハミシュの周りを泳ぎはじめた。でたらめな歌を口ずさんだかと思えば、支離滅裂な言葉をつぶやき、ひとりでに笑っている。
ハミシュは、リコヴという神は自分に似た姿をしているのかと思っていた。
いままで、四六時中彼の声を耳にし、その姿を思い描いていた。だが、この硲の世界で実際の彼と対面して、ハミシュは自分の想像力の限界を思い知った。
彼は蛇の姿をしていた。太陽を思わせる鮮やかな金色から、夜の濃紺色へと移ろう色彩の蛇。ただし中身はない。骨も肉もない、鱗だけの蛇だ。鱗は時に並び順を変えたり、波打ったりしていた。無秩序で勝手気まま。まるでリコヴそのものだ。
彼はひとの姿をしてもいた。若く背の高い青年だ。浅黒い肌で、手足はすらりと細くて長い。麻の腰布を巻いていて、足は裸足という質素な出で立ちだが、無数の装飾品を身につけている。人の姿を取っているときにも、蛇の姿の時と同じように舌の先が二つに裂けていた。そして瞳は、黄昏時の西空と東空をそれぞれに映したように、左右別々の色だった。
彼は二つの姿を気ままに行き来し、時には人の姿をした蛇になることも、蛇の姿をした人になることもあった。何がどう違うのかは、うまく説明できないけれど。
ハミシュは赤い緒が行き着く先を目指して、坂を登り続けた。焼け焦げた動物の角を手がかりによじ登ろうとすると、引っ張った拍子に抜けた。それがきっかけとなって崩落がおこり、ハミシュはなすすべもなく巻き込まれ、再び底まで転げ落ちてしまった。
歯を食いしばって起き上がったハミシュの前で、リコヴが鎌首をもたげていた。
「なあ、もう諦めろって」
「エヴを助ける」ハミシュは言った。「ここじゃ、お前は僕に乗り移れないんだろ。もう邪魔はできない」
リコヴは、ハミシュの返事に驚いたみたいに、空中でもんどりをうった。そして、喜々として尋ねてきた。
「この期に及んで、いったい何をしようってんだ。相棒?」
「僕はお前の相棒じゃない」ハミシュは固い声で言った。
「この期に及んで、お前になにができるってんだ、兄弟?」
ハミシュが睨むと、彼は一層嬉しそうに目を細めた。
「エヴラールを取り戻して、お前の企みを止める」
リコヴはにんまりと笑った。
「そうか? ずいぶん前から、お前は俺にあれをさせない、これをさせないと言い続けてきたよなあ。それなのに、とうとうこんなところまで来ちまったじゃないか」
そんなこと、わかってる。
僕がもっと早くにリコヴの計画に気付いていたら、こんな状況にはなっていなかったかもしれない。悪いのは僕だ。今更なにかを変える自信もない。
だからって、じっと座って待っているなんて嫌だ。
誰かに自分の人生を揺るがされるのは、もう十分。
なら、抗わないと。何も変わらない。
ハミシュは黙々と、瓦礫を登った。そうして両手の指の感覚がなくなりはじめた頃、少し開けた場所に両脚をつけて、立ち上がることができた。そこから、ようやくあたりを見渡せた。
うずたかく積もる瓦礫が丘陵のように連なる景色。その奥に、一際高く聳える山がある。天から降りてきている赤い緒は、その頂上で卵と繋がっていた。あれが、エヴラールの卵。
さっき見た時よりも、大きくなっている。成長しているのだ。
ハミシュの背筋が恐怖に震えた。
卵は、古い神々を喰らいながら膨らんでいる。あの殻の中でエヴラールが──弟が、何か別のものに作り替えられようとしている。
止めなければ。世界のためだとか、そんなことは二の次だ。僕は、エヴラールを助ける。
ハミシュは卵を目指して歩き始めた。赤い緒が道標のように頭上にあるおかげで迷うことはない。瓦礫を蹴散らし、時に足を取られながらも、ハミシュは進み続けた。
「わかんねえなぁ。これから、陽神なんか目じゃないくらい強い神が生まれるんだぜ。それも、お前の弟のおかげで!」
リコヴはぱちぱちと手を鳴らした。だが、反応がないとみるや、またつまらなそうな顔に戻った。
「天変地異は……まあ仕方ない。戦だって、なにも好きでやらせてるわけじゃないんだぜ。俺を責めるなよ」
「お前がいなければ、世界はもっと平和だった」ハミシュは言った。「お前のせいで、いまどれだけのひとが苦しんでるか──」
「良いことをしてると言うつもりはないさ。しかしな、新しい世界ってのは、一度全部をぶち壊さなきゃ生まれないんだ」
「なら、新しい世界なんか必要ないだろ!」
斜面を登り切ると、そこにはまた別の山が聳えていた。頽れた砦や、いくつもの尖塔を持つ聖堂、そして無数の神像が一緒くたに折り重なっている。ハミシュは歯を食いしばって、先へと進んだ。
「なら聞くが、お前は今までの世界で満足だったのか?」
小さな蛇が、舌をチロチロと閃かせながら、ハミシュの周りをぐるぐると泳ぎ回る。
「ナドカと人間が終わらない戦いを続け、出鱈目を押しつける教会は幅をきかせて、貧しい生まれの連中は貧しいまま、蠅みたいにバタバタ死んでく──それがお前らの世界だぜ? そりゃ、ここんところ荒れてるのは確かさ。でも、全部が俺のせいってわけじゃない。火種はずーっとあったんだ。俺はちょいと鞴を動かしてやっただけさ」
ハミシュが答えずにいると、彼は続けた。
「思うにお前らには、信じるものがありすぎるんだ、そうだとも」リコヴは、自分の言葉に納得したように頷いた。「その昔、人間は弱かった。雨が降っちゃ死に、風が吹きゃ死んだ。川で死に、海で死に、山で死んで、何もなくても死んだ。だからこそ敬虔だった。謙虚で素直だった。だが、今の奴らときたら!」
彼はひとの姿になり、ハミシュがしがみつく廃墟の壁を垂直に登っていった。
「国のためだ、種族のためだと、なんやかや信じるものをあげつらっちゃいるが、そんなものは体の良い言い訳なんだ。奴らがどれだけ思い上がってるか、冷静に考えりゃわかるはずだ! まるでこの世の全部が自分のためにあるみたいに振る舞ってる。それこそ……神みたいにな。でも、わかるだろ。そういうのは、歪なんだ」
「だから壊すのか? みんなが思い上がってるから? 言い訳ばかりしてるから?」
「違う! お前、何にもわかってないな!」 そう言ってから、リコヴは声を和らげた。「いや、違うって事はないか。壊すのは──それも手順のひとつだからだ。何をするにしても、まずは部屋を片付けなきゃな。でも、目的は壊すことじゃない。なあ、そろそろわかれったら」リコヴは焦れったそうに言った。「新しい神が生まれるのは、連中がもっといい言い訳を求めてるからだ」
ハミシュはリコヴを見た。
「もっといい言い訳って?」
リコヴは笑った。「全てに対する言い訳だ」
ハミシュは首を振って、再び登りはじめた。
「正直なところ、俺にもわからない。百年ぐらい経ちゃ、またお前らがなにかいい言葉を見つけるのかもな。でも今はまだ無理だ。この世に存在もしてないものに名前はつけられない」
歯を食いしばる。手に力が入らなくなってきた。
「ずっと同じ世界のまま回り続けるなんて、無理なんだよ。ハミシュ。流れない水は腐るって言うだろ? お前らが望もうと望むまいと、変化ってのは必然だ。何かが壊れりゃ、それまでよりももっと良いものを作り直す。だろ? 俺がやってるのはそういうことなんだよ。意味わかるよな?」
うっすらと、わかる気がした。だが、それを認めるつもりはなかった。
「ああ、ワクワクするよなあ!」リコヴは身震いしてみせた。「新しい神が、地上の全てを支配するんだ。戦争に、法。政に……人間という人間の全ての感情まで! ぐうの音も出ないほど完璧な言い訳を与えてやれるんだぜ。それが、俺たちが生み出そうとしてるものだよ、ハミシュ!」
ハミシュは、食いしばった歯の間から言った。「俺たち、じゃない」
「言ってろよ、相棒」リコヴはハミシュの隣をすたすたと歩いて行く。「俺たちが生み出すのは、世界で一番、今までの歴史で一番の『嘘』なんだ。ワクワクしないってほうがおかしい」
「勝手に喋ってろ……」
やっとの事で、崩れた城の塔を登り切った。すると、そこにリコヴが立って、ハミシュを待ち構えていた。
彼の頭の上からは、あの赤い緒が伸びていた。
「お前──」
リコヴは笑った。
「言ったろ。全ての神の生まれ変わりだ」
ハミシュの膝から力が抜け、その場に頽れた。
「なんで、そこまでして……」
リコヴは、小さく肩をすくめた。
「仕方ないだろ。それが、この世界が俺に望んだことだからな」
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