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 硲 
 
 一瞬、硲の領域に拒まれたのかと思った。 
 自分を取り囲んでいたのが、ごく普通の森の風景だったからだ。だが、クヴァルドは思い直した。ここが尋常の世界ではないことははっきりしている。ついさっきまで真夜中のパルヴァにいたはずなのに、いま、頭上から降り注いでいるのは太陽の光だ。近くで、あるいは遠くで、のどかに鳴き交わす小鳥の声がしていた。 
「シルリク?」 
 すぐ後について隙間を潜ったのに、彼の姿は見えなかった。 
 こういうことも、当然予想されていた。狼狽えるべきではない──今はまだ。こんな事態は、これから対面する脅威に比べれば序の口だという予感がしていた。 
 仕方がないので、獣道を先へと進む。すると、そういくらも歩かないうちに森が尽きた。 
「これは……」 
 森を出たところで、獣道は街道へと続いていた。目の前には海に向かってひらかれた平野があり、中心には集落があった。しかし遠目からでも、その街に生きている者が居ないのはわかった。小さな家々も、砦さえも、生い茂る緑に埋め尽くされんばかりになっていたからだ。 
 クヴァルドは注意深く辺りを見回しながら、見捨てられた村を目指した。 
 村──というより、遺跡と言うべきかもしれない。 
 集落の建物はどれも背が低い。ひっくり返した竜頭船ロングシップの下に壁を築いた長屋ロングハウスだ。朽ちかけた壁の隙間から中を覗くと、入り口から部屋の奥までが一続きの土間になっている。家の中央には長い炉が設えられていたが、炉の床も炎の温もりを忘れて久しいようで、そこいら中に草が生い茂っていた。 
 人びとがこうした生活を営んでいたのは……ずっと昔のことだ。何百年も前──いや、それ以上か? 
 だが、数百年前の遺跡にしては、ここは新しすぎる。木造の家屋は、人が住まなくなれば百年も持たずに土に還るものだ。 
 何かの声が聞こえた気がして、クヴァルドは顔を上げた。 
 すると──驚いたことに、廃墟の景色は一変していた。 
 ほんの一瞬前まで全てを覆い尽くしていた、苔と草と蔦とが全て消えた。その代わり、クヴァルドの周りには──村があった。生きている集落が。 
 毛皮のついた分厚い服を纏った人びとが、忙しそうに往来を動き回っている。担いだ棒の両端から乾物をぶら下げた商人や、桶を掲げて客を呼び込む貝売りの声がする。老いた者はゆっくりと、若い者はせわしなく歩いていた。そこは集落の広場で、どうやら今日は、市が開かれる日のようだ。 
 いや、待て。 
 俺はいま、噴火寸前の火山の中に居るはずだ。 
 そう考えようとしても、思考はどうしても、今見えている風景に引きずられてしまいそうになる。 
 そのうちに、五感もこの状況を受け入れはじめた。あたりには潮の香りが立ちこめ、海鳴りまで聞こえてきた。吹きすさぶ風は冷たく、硬い。 
 ここはどこの海なのだろうと、集落を横切って海岸へと足を向ける。すると、険しい崖麓に屹立する岩の柱が見えた。独特な形の巨石群。海に傾いで立つその姿に、見覚えがある。 
 あれは、『うべなうう巨人』だ。 
 ここがどこなのか、ようやくわかった。 
「若様! お待ちなさい!」 
 不意の声にハッと顔を上げて、振り向いた。 
 すると、十歳にもなっていないような小さな子供が、こちらへ向かって走ってくるのが見えた。従者とおぼしき男の手を逃れ、黒い癖毛を跳ねさせながら、クヴァルドをまっすぐに見つめている。 
 その青い目は、まるで──。 
 
「フィラン!」 
 急に腕を掴まれて、クヴァルドは驚きに喘いだ。 
 瞬きをすると、そこにいたのはヴェルギルだった。険しい眼差しで、こちらの顔を覗き込んでいる。 
「フィラン、今までどこにいた?」 
「どこ……とは」 
 質問の意味が掴めず、クヴァルドはあたりを見回した。すると、さっきまでの景色は消えていた。またしても。 
 あたりは再び、隙間を通った直後に見た森の風景に戻っていた。 
「俺は……」 
 目眩がしそうになって、目を瞑る。混乱を振り払うように頭を振った。 
「別の場所にいた」 
 そして、その時ようやく、自分が見ていたのがだったのかに思い至った。 
「おそらく……エイルにいたんだと思う。千年前のイスラスに」呆然としながらも、クヴァルドは言った。「俺はたぶん……お前に会った。子供の頃のお前の姿を見た」 
「そうか」ヴェルギルは驚かなかった。 
「ほんの子供だった。まだ十歳にも満たないほどの。黒髪で、癖毛で──」 
「利発そうで、愛くるしかったか?」 
 衝撃からまだ立ち直れていないせいで、素直に頷いてしまう。「ああ」 
「なら、間違いなくわたしだ」ヴェルギルは小さく笑った。「ここでは、我々の世界のことわりは意味を失う」 
「そのようだ」クヴァルドは言った。「ここは、ミョルモルのより、ずっと……力が強いな」 
「わたしから離れるな」ヴェルギルは、張り詰めた表情で言った。 
「ああ」 
 今度は二人で、森の中を歩く。さっきとは別の方向に向かったつもりだったのに、森が尽きたときに目の前に現れた風景は同じだった。 
 ヴェルギルが苛立たしげにため息をついた。 
「またか」 
?」 
 クヴァルドは傍らの彼に目をやった。「俺が昔のエイルにいた間、お前は何を見た」 
「エイルが滅びる夜の光景だ」彼は僅かに俯き、首を振った。「そこから逃げ出すと、さっきの森に戻っていたのだ」 
「おっと失礼!」 
 突然の声に振り向くと、小さな馬に乗った行商人がすぐ後ろに迫っていた。道を塞いでいたクヴァルドはあわてて飛び退いた。 
「申し訳ない──」 
 だが、彼が自分を見ていないのに気付いて、口をつぐんだ。 
 その行商人には連れがいた。立派な身なりをして、馬の鞍袋に荷物を満載している。乾いた薬草や軟膏に使う脂のにおいから察するに──治療師のようだ。どうやら行商人の馬が泥濘ぬかるみをいやがり、治療師の馬にぶつかってしまったらしかった。 
「いや失敬! いつもはこんな水たまり、へいちゃらなんだが」行商人は言った。「春は嬉しいが、こう道が泥濘ぬかるんじゃねえ」 
「ああ、全くだ」 
 二人は会話を続けながら遠ざかってゆく。 
「おれたちの姿が……見えていないのか?」 
 クヴァルドが言うと、ヴェルギルは頷いた。 
「どうやらそうらしい」 
 行商人と治療師は、連れだって城を目指しているようだ。 
「ついていこう」クヴァルドは言い、ヴェルギルもそれに従った。 
 緊張した面持ちの二人とは対照的に、馬上の旅人たちはのんびりと進んでゆく。 
「それで、あんた仕事はなにをなさっていなさるのかね」 
「治療師さ。シルリク王に呼ばれたんだ」 
「ほう!」行商人は膝を打った。「そりゃ奇遇だな。俺も王様にお目通りしたくてね。あんたの村にもお布令が来たのかい」 
「ああ。そういうあんたは、薬か何かを商っているのかな」 
「商うなんてご大層な言葉が当てはまりますかどうかねえ! 俺が扱うのは薬草ですよ。知識さえありゃ、誰だっておんなじ商売ができるってもんで。とは言え今日くらいは自分を商人あきんどと呼んでも許されるかも知れませんな」商人は胸を張った。「王様のお役に立てればね」 
 クヴァルドは隣を歩くヴェルギルに小声で尋ねた。「お布令とは?」 
「布令はいくつか出したはずだが……」ヴェルギルはクヴァルドをちらりと見た。「君は、わたしの記憶力に対して懐疑的だったのではないのか?」 
「それもそうだ」クヴァルドは言った。 
 行商人は、深々とため息をついた。 
「エダルト王子もお可哀相になあ。シルリク王は、殿下の病気を治して差し上げたいとあらゆる手を尽くしておられるんだそうだ。大陸の薬師にまで遣いをやって招待したとか。それでも一向にお元気になられない」 
 治療師も頷いた。 
「お妃様も身罷られて、一粒種の王子となれば……無理もないでしょうな」 
 傍らを歩くヴェルギルの気配を感じながら、クヴァルドは、彼の苦しみも感じていた。 
 過ぎ去った日々の記憶と、再び向き合うのはどんな気分がするものだろうか。推し量ることしかできないが。 
 エイルの街を守る門を潜ると、商人と治療師は馬首を市場の方へ向けた。 
 彼らの後ろ姿を見送って、クヴァルドはヴェルギルを振り向いた。 
「それで、これからどうする」 
 だが、そこに彼の姿はなかった。 
 
 後を追うのは造作もなかった。人狼の嗅覚に頼るまでもない。彼が目指す場所はひとつだ。 
 集落の北端に築かれた、石造りのどっしりとした城。その二階の東に、広縁が備えられた部屋がある。この古いエイルの城と、エリマス城の間取りとはほぼ同じだ。だから、そこには王の居室があり、エダルトがいることもわかっていた。 
 念のため、周囲に目を配ってから城の外壁をよじ登る。 
 彼はそこにいた。広縁の影に身を潜めて、部屋の中を覗き込んでいた。 
「離れるなと言ったくせに」 
 ぶつくさと呟いて隣に立つと、彼はクヴァルドに弱々しい笑みを見せた。そして、再び部屋に目を向けた。 
 そこに、シルリクが居た。 
 過去の幻を見ているのだとわかっていても、ドキリとした。 
 古めかしい、だが重厚な装束に身を包んだシルリクは、ほとんど別人のように見えた。見慣れた冠帯ミンドを身につけてはいたが、髪は短く、血色もいい。目の色は薄い青──彼に血を与える度に何度も目にした、あの色だ。 
 彼は憔悴しきっていた。頬はこけ、疲れ切った目は落ちくぼんでいる。子供には大きすぎるようにも思える寝台──その中央の頼りなげな膨らみに手を置き、もう片方の手で息子の白い髪を優しく撫でている。クヴァルドには、彼が息子に、自分の生気を分け与えようとしているように見えた。 
 その眼差しに、胸が痛んだ。息が詰まるほど、胸が痛んだ。 
 俺が彼をけしかけたのだ。嫌がる彼に首輪をつけて、対決を無理強いした。彼が愛して止まなかった息子を裏切らせ、そして……俺がとどめを刺した。 
 それ以外に道はなかったと、自分を納得させることはできる。エイルが蘇ったことで、何人のナドカが救われたか思い出すだけでいい。だがこの痛みは、そうした誇らしい気持ちを感じる場所とは全く別のところにあった。あまりにも近すぎて、もはや自分の一部になってしまった者のために抱く痛みだ。 
「ただ、怖ろしかった」ヴェルギルは、静かに言った。「彼の命を助け給えと、何度神々に祈ったか」 
「シルリク──」 
 彼は首を振り、それ以上言わせなかった。 
「君が気に病むことはない」ヴェルギルはクヴァルドの手を握った。「わたしの過ちに、君が巻き込まれてしまっただけなのだから」 
 その時、二人の頭上に影が堕ちた。 
「フィラン!!」 
 気付いたのはヴェルギルの方が先だった。彼がクヴァルドの手を思い切り引くと、すぐ後ろに衝撃を感じた。世界が揺れ、危うげに揺らぐ。 
 突風の中、蹈鞴たたらを踏みながら振り向くと、そこには──エイルの曇天を背負った、純白の異形がいた。 
「そんな……」 
 あり得ない。 
「何故だ──」 
 ヴェルギルは掠れた声で呟いた。繋いだままの手が、震えていた。 
 鱗、鉤爪、そして牙。貪婪と輝く深紅の瞳。ヴェルギルとよく似た顔。だが、あまりにも違う。ひとの形と混沌とが入り交じる異形。〈呪い〉に堕ちた、最古の月の體コルプ・ギャラハ。 
 記憶から薄れたことは一度だってなかった。ミョルモルよりも前──エギルがこの世から奪われた瞬間から、その姿、におい、そして声は、クヴァルドの魂に焼き付いていた。だが、混乱からは逃れられなかった。 
 何故。 
 エダルトが、何故ここに。 
 白い翼をはためかせ、彼は空中から二人を見下ろしていた。そして言った。 
「そうですよ、父上」 
 エダルトの顔が二つに裂け、そこから竜の顔が現れた。 
「全部、あなたの過ちが招いたことだ!」 
 彼は、大気を引き裂くような咆哮を上げた。すると、二人が立っていた城が崩れ、世界が崩れた。今まで見ていた景色の全てが灰一色に褪せ、闇の中に吸い込まれていった。 
 きりもみになって落ちながらも、クヴァルドはヴェルギルに手を伸ばした。 
「シルリク!」 
「フィラン……!」 
 彼もこちらに手を伸ばし、どうにかして離ればなれになるまいとしている。けれどその顔には、たったいま直面した悪夢への恐怖が残っていた。 
 あり得ないことなど、この領域には存在しない。わかっていたはずだ。ここでは我々の世界での死さえも意味を持たないと。 
 指先が触れあい、指と指が編み合わされる。そのまま引き寄せ合い、互いをしっかと抱きしめた。 
 そうして、二人は落ちた。落ちて、どれほど長い間落ちているのかもわからぬほど、手もすべもなく落ち続けた。 
 クヴァルドはそこで、真のを見た。 
 最初は夜空のただ中に放り込まれたのかと思った。暗闇と、無数の光──だが、そうでないことにはすぐ気がついた。 
 星の明かりのように見えたものが、自由自在に宙を駆け巡っていた。光だけではない。螺旋と、重なり合う円と、稲妻と、それから色彩が、縦横無尽に動き回っていた。夜のように暗い場所があったかと思えば、真昼のように明るい場所もある。まるで神の手が世界を千切り、それを無造作に放り投げたかのようだった。混沌とした空間の中に陸地があり、海があり、空がある。燃えさかる石塊、輝く胎盤に包まれた翼馬、それに空を泳ぐ鯨を見た。上へとのぼってゆく水の粒に頬を撫でられたかと思えば、それは逆さまに浮かぶ世界の欠片からこぼれ落ちた滝の雫だった。 
 ここでは、我々の世界のことわりは意味を失う。 
 こんな場所で、いったい何とどう戦えばいいというのだろう。 
「フィラン!」 
 叫び声に警告を聞き取り、下を見た次の瞬間、もの凄い勢いで迫ってくる地面が見えた。クヴァルドは反射的に身を強ばらせた。 
 ヴェルギルが霧に変化し、ふたりの身体を包み込んだ。それでも全身に衝撃が走り、激痛がやってくるのを止められなかった。 
「ぐ……!」 
 歯を食いしばりながら、クヴァルドは即座に身を起こした。ヴェルギルは彼の黒霧を身のうちにしまい込み、クヴァルドの肩を抱いた。 
「平気か、フィラン」 
「ああ……」 
 ヴェルギルは小さく息をついて、辺りを見回した。 
 そこは海岸だった。砂浜の岸ではない。波打ち際を埋め尽くすのは黒々とした丸石ばかり。曇天の下にどこまでも広がる海原は青銅色で、冷たく硬そうだ。陸地をふり返れば、海岸に向かって開かれた門のように渓谷が聳えていた。切り立った岸壁からは、剣さながらに鋭い岩山が海原に向かって突き出している。 
 足下に、なにか白いものが降り積もっている。雪のように見えるが、そうではない。触れてみると、それは灰だった。 
「ここは……?」 
「おそらく──」ヴェルギルは言いかけた言葉を飲み込んで、剣を抜いた。「誰かくる」 
 クヴァルドの耳にも、その音は届いていた。誰か、という言葉では正しくないだろう。切り立った谷の壁に谺を響かせながらこちらに近づいてくるのは、何千──何万もの足音。隊伍を組んだ兵士の、行進の足音だった。 
がくる」 
 エダルトが差し向けたのだろうか。それともリコヴが? 
 クヴァルドも剣を抜いた。だが、たった二振りの剣でなにができるだろう。 
 軍勢は怖ろしい勢いで迫っている。二人で立ち向かおうとするなんて暴挙もいいところだ。しかし、いまから身を隠せるような場所を探している時間もない。 
「わたしが注意を惹く。君は──」 
「言うな」クヴァルドは最後まで言わせなかった。 
 ヴェルギルは珍しく、苛立ったような声を出した。「フィラン……」 
「待て」 
 手をあげて、彼の言葉を制する。クヴァルドの耳は、轟く足音とはまた別の音を捕らえていた。 
 最初は耳を疑った。なぜ、今ここで、こんなものを耳にしているのか? 
 だが、間違いない。 
 クヴァルドは、訝しむようにこちらをみるヴェルギルを見た。 
「歌だ」 
 歌が、こちらに近づいてきた。 
 
  『彼方に伸びゆくは 
   空疎なるグレンモール 
   かつて居並びし 誇り高き兵ども 
   煌めく剣つるぎ掲げて 声高くうたった 
   勇ましき戦歌を』 
 
 少し遅れて、ヴェルギルの耳にもその歌が届いた。 
「この歌──そうか」ヴェルギルは言った。「ここがどこだか、ようやくわかった」 
 二人の目は、渓谷に釘付けになった。 
 あれこそ、剣の島イニスクラウ大いなる谷グレンモール。ここは太古の昔から、幾度となくエイルとイムラヴの戦場となってきた地だ。 
 問題は、これがいつの時代の光景なのかということだ。つい先ほど見ていたのは千年前のエイルだった。では、いまここで始まろうとしている戦いは、いったいいつのものだ? 
「フィラン、あれを見ろ」 
 ヴェルギルが指さした先、最初に見えたのは旗だった。交差する赤い戦斧。二つの旗印に率いられて、無数の軍勢が行進してくる。 
 蔦と角笛、屹立する塔、剣と烏。色とりどりの旗は── 
「あれは、アルバの叛乱軍レバルズのものだ」ヴェルギルが言った。 
 曇天を突かんと聳峙しょうじする絶壁の谷間に、何百という旗が翻っていた。 
 軍旗の林を率いて現れた男は──。 
「オロッカ……!」 
 渓谷から溢れ出した軍勢は、浜辺に陣を敷いた。中央には〈大いなる功業クレサ・モール〉──彼らを率いるオロッカも、戦装束に身を包んで先頭にいる。 
 陣の左右には人狼たちがいた。いざ戦いに臨まんとする彼らは、狼や半狼の姿に身をやつしていた。 
「〈クラン〉の狼たちだ」クヴァルドが言った。 
 そう遠くないところにぽつねんと立ち尽くすクヴァルドとヴェルギルを、誰も気にも留めなかった。やはり先ほどと同じように、彼らにはこちらの姿が見えていないのだ。 
「この光景は、たったいま起こっていることなのだな」 
 ヴェルギルと顔を見合わせたクヴァルドは、彼の目の中に、生々しい恐怖を見た。 
 味方は騎兵が二千、歩兵が一万。砲兵は五百足らずといったところか。戦力はイムラヴの島々とエイル本島に分散されている。これで敵に立ち向かえるだろうか。 
 この世界からでは、彼らに加勢することはできない。ただ見ていることしかできないのだ。 
 その時、角笛が鳴った。一度、そして二度。敵の姿を捉えたときの合図だ。 
 ふり返って海を見ると、黒い帆が見えた。それは瞬く間に数を増やし、やがて水平線を埋め尽くした。黒い帆に、金の太陽。光箭軍の印だ。 
 エレノアはダイラで兵を起こし、ベイルズの叛乱制圧に乗り出した。光箭軍に所属するフェリジアの軍勢がダイラに向かったならば、エイルに注がれる兵力は削がれるはずだ。それでも、目の前に迫りつつある軍勢──その圧倒的な数に、膝が震えそうになった。 
 オロッカの声が谷間に響いた。 
「皆のもの、聞け!」 
 ダンカン・オロッカ──アルバの長が、馬上から声を上げた。 
「光箭軍が、このイニスクラウに上陸しようとしている!」 
 クヴァルドは、彼がこんな風に話すのを聞いたことがなかった。クヴァルドの前では、彼はいつでもグレンヴァーの牡鹿にふさわしい落ち着きを保っていたから。だがいま、戦斧を振りかざし、荒ぶる馬を乗りこなしつつ仲間に檄を飛ばす彼の声は戦士のそれだった。たとえ冠をいただかずとも、かれは王だった。それは雄々しく揺るぎない、戦士たちの王の威容だった。 
「連中はこの島を足がかりにして、エイルに攻め込む心づもりだ!」オロッカは言った。「エイルが落ちたら、次はどこが狙われるか──そう、海を挟んだ我らが産土うぶすな、アルバだ」 
 軍勢から同意の声が上がる。 
「我らが祖国は瞬く間に飲み込まれる。お前たちは今後死ぬまで、我々が望まぬ神への服従というくびきに囚われる。奴らは我々の国土を、信仰を、家族を奪うためにやってくる。我々の魂を奪うためにやってくるのだ! それを許せるか!」 
 人の声と足音。盾と剣の打ち鳴らされる音が渾然となって湧き上がる。 
 その時、透き通った氷のような声が聞こえた。 
「かつてエイルは呪われた国と呼ばれた! それを呪いから奪い返したのは我らの友であって、カルタニアの生臭坊主どもではない!」 
 クヴァルドは呆然と呟いた。 
「ヒルダ様……」 
 彼女は目の上に包帯を巻いていた。魔道具フアラヒを使えば、失った視力を取り戻せたはずなのに、そうはしなかったのだ。彼女の傍らにはナグリがついているが、彼女に肩を貸すようなことはしていない。ヒルダはあくまでも、彼女自身の力でこの戦場に立っていた。 
「分裂するダイラとアルバが手を携えるまでに、血の涙を流したのも奴らではない! この国を守り、育て、この国と共に苦しみ、喜び、骸となったあかつきにこの国の土に迎え入れられるのは、奴らではない!」 
 どよもす軍勢が、遠吠えが、それに答える。 
「アルバのつわものどもよ、そして誇り高き狼たちよ」オロッカが叫んだ。「今日、我らは風となろう。死神シュダズ戦神ヴズダ血神カハディルの翼を運ぶ腥風せいふうとなろう! 遠吠えを孕んだ狂風きょうふうとなろう! 敵の肉体から魂を抜き去り、敵の血を浴びるのだ! 連中を一人残らず海に沈め、海原を赤く染めよ!」 
 オロッカの声が、林立する槍や、戦旗の合間に響き渡る。打ち寄せる波を乗り越え、敵の元にまでとどいているだろう。 
 風が吹き、海が鳴った。光箭軍の船から無数の小舟が吐き出され、陸地へと近づいてくる。彼らは重々しい太鼓の音色にあわせて橈を操り、波に乗ってやって来た。 
「鉄よ、目覚めろ。鉄よ、目覚めろ」 
 アルバの兵たちが鬨の声をあげる。相手を威嚇するために打ち鳴らされる盾が、斧が、剣が、槍同士がぶつかる音と、どよめきがうねりながら高まり、海鳴りを飲み込んでゆく。 
 金面の鎧を身につけた兵士たちが次々と小舟を下り、一糸乱れぬ行進をしながらやってくる。彼らは剣を抜き、それを胸の前に掲げた。鈍色にびいろの空から注ぐ光が、何千もの剣を輝かせた。兵士たちは次から次へと上陸してきた。打ち寄せる波の如く押し寄せ、瞬く間に海岸を埋め尽くした。 
死神シュダズよ、血神カハディルよ!」戦士たちが口々に叫んだ。「聞け、戦神ヴズダよ! 鉄が目覚めるぞ!」 
 オロッカが、高々と斧を掲げた。 
「エイルのために! ナドカのために! 大いなる功業いさおしのために!」 
 陣太鼓と角笛、そして遠吠えが鳴り響く。 
「我らの自由のために! 進め!」 
 
 双方の軍勢から放たれた矢が空を覆い尽くし、死の雨となって降り注いだ。海岸沿いに設置した天の矛スローデが、艦隊に向かって無数の雷撃を放射している。だが、敵の勢いはおさまらない。光箭軍の兵たちは何かに取り憑かれたように突き進んできた。死への恐怖などというものは身の内の冷たい箱の中に閉じ込めたか、あるいはそもそも抜き取られてしまっているかのようだった。彼らの目には強烈な熱意の光が宿っていて、ちょっとやそっとの傷は、かえってその輝きを強めてしまうばかりだった。 
 クヴァルドとヴェルギルには、それを見ていることしかできなかった。 
 クヴァルドには、戦況を見つめるヴェルギルの心中がわかる気がした。自分も同じことを考えていた。 
 国に残って、彼らと共に戦場にいたなら……。 
 だが、今となっては、もう遅い。 
 沖に並んだ光箭軍の船は、攻城戦にでも用いるような巨大な大砲を陸地に向けていた。砲弾の口が、爆音と共に火を噴く。無数の弾が空を裂き、悲鳴のような音を響かせながら地上に飛んできた。 
 味方の号令が響き渡る。 
「傘をひらけ!」 
 すると、谷を背にしていた見方の軍勢の頭上に結界が広がった。結界を直撃した砲弾は即座に砕け散り、無数の礫となって降り注いだ。渓谷の上には何十人もの魔女が立っていた。あざみを持つ兎の紋は〈シスル集会コヴン〉──〈アラニ〉と共に叛乱軍レバルズに加わったアルバの魔女の一派だ。 
 魔女たちにも防げなかったいくつかの弾は、味方の軍勢がひしめく谷間へと吸い込まれていった。巨大な砲弾が地面に突き刺さると。土煙と共に、血しぶきが飛び散る。狙われているのは、後方から矢を射かける軽装鎧の射手たちだ。 
「射手たちは傘の下へ!」魔女たちが言った。「渓谷の影から出るな! そこなら守れる!」 
 魔女たちの結界の威力は目覚ましいものだった。何十もの砲弾が降り注いでいるにもかかわらず、その多くが、無害な礫の雨に姿を変えた。 
 波打ち際の戦況も、オロッカの軍が優勢だ。 
 島への上陸を目論む光箭軍の数は、およそ三万。こちらは二万にも届かぬほどだから、両軍の差は圧倒的だ。だが、船でやって来た光箭軍には機動力が欠けていた。一方アルバの山野での戦いになれた騎兵たちは、不安定な足場を縫って縦横無尽に馬を駆った。機敏で勇敢なアルバの馬は砲弾に怯むこともなく、乗り手の剣を戦場の隅々にまで届けた。騎兵たちは敵の陣形の背後から迫り、横腹を裂き、無敵かに見えた隊列を、混乱した烏合の衆へと変えていった。 
 これなら、勝てるかも知れない。 
 そう思ったとき、クヴァルドは再び、あの声を聞いた。 
 哄笑のような、悲鳴のような咆哮。 
 悪寒が背筋を伝い落ち、純粋な恐怖に、骨が震える。 
「来たか」とヴェルギルは言った。その目は空の一点を見つめていた。 
 彼の言葉に応えるように、銀色の雲を引き裂いて、純白の竜が滑空してきた。 
 クヴァルドは拳を握った。 
「エダルト……」 
 口惜しげな呟きを、彼も聞いたのかも知れない。 
 燃えさかる炎のような目をくっと歪ませて、エダルトは確かに嗤った。地上を見下ろし、喉まで裂けよと言わんばかりに大きな口に並んだ牙を見せつけるように。 
 白い翼をはためかせ、エダルトが戦場を舞う。 
 彼は巨大な鉤爪で、今まさに飛び込んできた大砲の弾を掴むと、結界に突っ込んだ。 
 大きな爆発と共に、魔女たちの結界が破られた。 
 怖ろしい衝撃が地面までも揺らし、兵たちが──その一部が、黒煙の尾を引きながら空中に飛び散った。 
「列伍を乱すな!」オロッカが叫んでいた。「結界を立て直せ! 力を集中させろ!」 
 みな、巨大な竜には目もくれずに駆けずり回る。エダルトの姿は、エイルにいる兵たちには見えていない。彼もまた、この硲の世界に属する者なのだ。 
 煙が立ちこめる。 
 人影に炎、剣に鎧。全てが黒煙に飲まれてゆく。 
 エダルトは踏みにじられた兵たちの残骸の上で立ち上がり、クヴァルドたちをふり返った。黒く翳った世界で、彼の身体の白さが際立っている。神々しいほどに。 
「ここで起こることは、現実にも影響を与えるのか……」クヴァルドは言った。 
「そのようだ」 
 ヴェルギルは剣を捨てた。戦う意思がないからではない。敵は、剣で戦える相手ではないからだ。 
 エダルトは笑みを広げた。純白の身体に、黒々とした煤と、赤い鮮血が散っている。凄絶な姿だった。 
 激しさを増す戦いのただ中でにらみ合う父と子。それを見下ろすように、渓谷の背後で月が昇った。異様なほど大きな月は赤い緒のようなものに繋がれて、どす黒く濁っていた。 
月神ヘカ」クヴァルドは呟いた。「死にかけている……我々の神が」 
 あの緒がどこに繋がっているのか──考えるまでもない。あの緒の先にいる新しい神が、古き神々を食い尽くしたとき、我々の敗北は決するのだ。 
 新たなる神に奉じるための戦いが、こうして幕を開けた。 
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