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 カルタニア 
 
 カルタニアの陸地に近づくにつれ、大気のにおいは徐々に変わっていった。海も、空も、風さえもそわそわと落ち着かない。カレフははしゃいでいるようでもあり、緊張しているようでもあった。マリシュナ号の索具リギンの合間をもの凄い速さですり抜けては、またゲラードの傍に戻ってくる。まるで、何かを伝えようとしているようだった。 
 夜の闇に紛れて上陸する作戦だった。カルタニアへと接近したマリシュナは黒い帆を掲げ、船上の明かりを消したままで航行していた。 
「もうすぐ、陸地が見えるはずだ」浮球儀を見ていたアーナヴが言った。 
 乗組員たちは甲板に集まっていた。その地がどんな風に変貌してしまったのか、航海の間中、みながしきりに話題にしていた。火山が噴火したらしい。地震で地面に亀裂が入っているらしい。極光が見えるらしい……怖ろしげな噂には事欠かなかった。 
 いま、実際にその目でパルヴァを見たものたちは、ただ絶句した。 
 空を覆い尽くす黒煙のせいで、パルヴァには月や星の明かりも届かないはずだ。それなのに、街はおどろおどろしい光に照らされていた。ウテロ火山から立ち上る黒煙に宿る赤い光と、街を舐め尽くした大火の残り火によって。棚引く煙はすべてを覆い尽くし、いたるところで燃えている炎さえも幻影のようにみせていた。まるで、煙の中にうっすらと影を映す蜃気楼のようだ。いつもと変わらぬ状態で存在し続けているのは、丘の頂上でかがり火に囲まれた万神宮パンテオンだけのようにみえた。 
 火山から降り注いだ軽石があたりに降り積もったせいで、民家の屋根はほとんど崩れていた。石造りの重厚な建物でさえ執拗な地震によって倒壊し、容赦ない大火に呑まれて黒く焼け焦げていた。とてもではないが、数ヶ月前に訪れたのと同じ街だとは思えなかった。 
 まるで、息をひそめて待っているように見えた。滅びの時が訪れるのを。 
「ひでえにおいだ」 
 オーウィンが言った。 
 まだ、岸まではかなりの距離がある。にもかかわらず、息を詰まらせる硫黄のにおいはここまで届いていた。潮騒をして、脅かすような地鳴りの音が聞こえてきた。 
「本当に、あそこに行くのかよ……」他の船員たちも、甲板の上で慄いていた。 
「お前らが怖じ気づいてどうする、馬鹿」フーヴァルが喝を入れた。「いいか、お前らの仕事は、ここで俺たちを待つことだ。ケツまくって逃げたらただじゃおかねえからな」 
「そんなことしませんよ!」 
「当然だ」フーヴァルは笑った。「もうすこし陸に近づいたら、小舟ボートを降ろせ。後は──そうだな、酒盛りでもしながら俺たちの帰りを待ってろ」 
 
 小舟に乗ったのは、ヴェルギルとクヴァルド、ホラスとマタル、そして、フーヴァルとゲラードの六人だ。小舟は、夜の闇そのもののような海面をゆっくりと滑っていった。パルヴァ港の南にある岬に小舟をつけ、見つからないように茂みの中に隠しておく。街は無人のように見えたが、厳密にはそうではなかった。海の上から望遠鏡で見ただけでも、百人以上の金面の兵士たちが街を守っている。 
「準備は?」 
 ホラスの声に皆が黙って頷いた。それを確認して、彼も頷いた。 
「俺についてきてください」 
 カルナバンの導者たちによって、多くの情報がもたらされた。そのひとつが、パルヴァの地下街にまつわるものだ。情報を元に、一行の中で最も土地勘のあるホラスが案内役を買って出た。 
 オルノアが海中に没したのと同じ頃、パルヴァも一度沈んだ。ただし、海中にではない。ウテロ山の噴火によって降り注いだ灰の下にだ。現在のパルヴァは、かつての街を飲み込んで固まった石灰の土壌の上に築かれている。やがて、地中に染みこんだ雨が長い時間をかけて灰を洗い流すと、街の地下に再び古のパルヴァが現われた。後になってそのことに気付いた教王庁は地下遺跡への入り口を封印してしまった。だが、古代のパルヴァは当時の姿のまま、確かに残っている。 
 海に迫り出した岬の岩場を伝い歩いてゆくと、小さな洞窟があった。 
「ここか……」 
 クヴァルドが言う。 
 洞窟の入り口は煉瓦で塞がれていて、交差した二本の矢の紋章が描かれていた。『この壁を損なうものは、教王の名において処罰を受ける』とも記されている。 
「できるか?」 
 ホラスが言うと、マタルはにっこりと微笑んだ。 
「当然!」 
「おい、静かにやれよ、静かに」フーヴァルが後ろから釘を刺した。「連中が何処に潜んでるかわからねえ」 
 マタルは、不満げに鼻を鳴らした。「わかってる」 
 すると、両手の先から無数の茨が伸びて、煉瓦の壁に張り付いた。 
「魔法除けは?」ホラスが言う。 
「もちろんあるよ。ご丁寧に銀の欠片も混ぜ込んである。でも、そこまで厄介じゃない」 
 茨の先端がうねりながら壁にめり込み、植物の根が土を食むように、奥へと浸食していった。魔法避けや銀の欠片に行き当たる度、茨は萎れるように朽ちてゆく。だが、新しい茨はまたすぐに現れた。マタルの表情は生き生きとしていた。 
「なんだか、昔に戻ったみたいだ」 
 彼が囁くと、ホラスは微笑んだ。「ああ、そうだな」 
 その様子をみていたフーヴァルが言った。 
「あいつ、確か元審問官だよな? 泥棒じゃなくて」 
 やがて、積み重なっていた煉瓦がひとつ、またひとつと砕けて降り積もる。そうして瞬く間に、人ひとりが通れるほどの大きさの穴が空いた。マタルが勝ち誇ったようにフーヴァルを見ると、彼は降参したように手をあげた。 
「俺から中に入る」 
 ホラスはそう言うと、〈魔女の灯明〉を掲げて、洞窟に足を踏み入れた。続いてマタルが中に飛び込み、次にクヴァルドとヴェルギルが、最後にフーヴァルとゲラードが、中に入った。 
「大丈夫だ、ホラス。人の気配はないよ」 
「わかった」 
 ホラスが光量を調節したのだろう。一歩先の暗闇の中で、〈灯明〉の明かりが大きくなる。すると、青い光の中に、旧パルヴァの景色が立ち現れた。 
「わあ……」 
 ゲラードは思わず、ため息をついた。 
 オルノアで見た景色に、すこしばかり似ていた。広々とした路と、大理石の建造物──どの建物も、大きな出入り口を持つ開放的な作りだ。白い方尖塔オベリスクや無数の像が、至る所に建っていた。古の神々に捧げられたものなのだろう。オルノアでみたのとそっくりな月神ヘカの像や、太陽を右手に掲げた陽神デイナの像がある。長いあごひげを蓄えた海神マルドーホは足下にイルカを従えていた。盾に戦斧、剣を手にした三姉妹の像に、異国風の装飾が施された山羊のような顔の神もいた。そうした神々の合間を、カレフは嬉しそうに飛び回った。 
「見ろ、あそこに嵐神ユルンがいる」 
 クヴァルドが言うと、ヴェルギルが彼に身を寄せ、指し示した方向を見た。 
「ああ」彼は懐かしそうにため息をついた。「昔、スーランが話していた。かつてのパルヴァには、天をつくほど巨大な嵐神ユルン像があったのだと」 
 この街が地上で繁栄を極めていた頃には、白亜の像と青々とした空との対比がざぞかし美しかっただろう。だがいまは、石化した灰が屍衣しいさながらに覆い被さり、造形の妙を飲み込んでしまっている。無数の像や石柱は、彼らの頭上にのしかかる地盤を支えるという苦役に半ば沈み込んでいた。 
 一行は、時折短い言葉を囁きあいながら、ゆっくりと出口を目指した。 
 さらに進むと、洞窟の様相が僅かに変わってきた。人工物が疎らになり、岩肌の色も暗くなってゆく。 
「灰の痕跡が無い。この辺りは最初の噴火があった頃から地下だったんだな」マタルが言う。 
「この方向で間違いない。先を急ごう」 
 進むにつれ、滑らかな岩の壁に見慣れた模様が現れ始めたのだ。 
 無数の曲線と、重なり合う円。渦巻きに、稲妻、車輪のような文様。そして鳥たち。 
「バリェーナ島で見たのと同じだ」ゲラードは言った。 
 クヴァルドが文様をなぞって言った。 
「ミョルモルでも見た。他の場所でも」 
「ミョルモルもバリェーナも、現地の言葉で『鯨』を意味する言葉です」ホラスが言った。「なにか関連があるのかも知れません」 
 その時、まるで興味などなさそうにしていたフーヴァルがハッと顔を上げた。 
「そういや、ナールが言ってたっけ。人魚は鯨になって、鯨は島になるとか何とか」 
「とか何とか?」マタルが非難がましい声で言った。 
 フーヴァルはマタルを睨んだ。「記憶が戻ったら、一段と生意気になりやがったな」 
「この文様は……精霊の形によく似ている」ゲラードは言った。「とても古い時代から、パルヴァは聖地だった。ウテロ山の中にはざまの世界が存在しているのだとしたら──」 
はざまの領域があるところに、この文様もある、ということか」ヴェルギルが言った。 
「そしてはざまの領域があるところに、人びとが後から聖堂を築いた」クヴァルドは感心しきった声で言った。「シルリク。ひょっとしたら、あのゴルマグの神殿も──」 
 ヴェルギルは頷いた。「おそらく、そうだろう」 
 一行は慎重に歩きながら、忘れ去られていた真実と、そして、新たに見出された真実の両方に近づいていった。 
「もうすぐ出口につくはずです。警戒を怠らないように」 
 ホラスの言葉を裏付けるように、クヴァルドが手をあげた。 
 みなが口をつぐんで立ち止まる。 
「敵か」 
 ヴェルギルが囁くと、クヴァルドは空気のにおいを嗅いでから、頷いた。 
「出口もすぐそこだ」 
「そりゃ、こんな近道を放っておく馬鹿はいねえわな」フーヴァルは鼻を鳴らした。「誰が行く?」 
 ヴェルギルの力があれば、瞬きする間に片がつくのはみなわかっていた。だが、彼に力を使わせれば揺り戻しの危険を伴うという事実もまた、皆に共有されていた。 
「静かにやるのが一番うまいのは、俺だ」マタルが言った。 
「よく言うぜ、監獄ごとぶっ壊しておいてよ──」 
「アーヴィン……」ゲラードは彼の肩に手を置いた。 
「ここは大将に決めてもらわないとな」フーヴァルが言った。「どうします、陛下?」 
 皆が、ヴェルギルを見た。 
「君に頼もう、サーリヤ君」ヴェルギルは真面目な顔を少し緩めた。「しばらくサムウェル君と二人きりにした方が良ければ、そう言ってくれ」 
「お気遣いどうも」マタルは笑った。「でも、それには及びません」 
 そして皆がみている前で躊躇なく、ホラスの首に腕を巻き付け、長いキスをした。 
 フーヴァルはしみじみとぼやいた。 
「欲求不満の魔女は手に負えねえが、満ち足りた魔女も同じくらい厄介だな」 
 
 旧パルヴァの終点は、地上へと続く洞窟の出口だった。そこを守っていた数名の兵士は、マタルの茨に次々と絡め取られ、洞窟の暗がりに引きずり込まれた。微かなうめき声の他には物音ひとつなく、道が開けた。とは言え、洞窟は尽きても明かりは見えない。 
「地下から出て、また地下に出たのか?」フーヴァルが言った。 
 マタルと二人で外の様子を偵察しにいったホラスは、しばらくして一人で戻ってきた。 
「ここは、万神宮パンテオンの地下です。マタルが地上を制圧し、見張っています。ですが……」ホラスは、言いかけた言葉を飲み込んだ。 
「どうした」ヴェルギルが言った。 
 ホラスは深く息を吸い込んだ。 
「来るのが遅すぎたかも知れません」 
 
 血の海の中に、赤い長衣を纏った枢司卿すうしきょうたちが倒れていた。 
 万神宮パンテオンの内部に、息のあるものは一人としていない。神官は全て殺されていた。虐殺を行った張本である金面の兵たちはマタルによって命を奪われ、今は彼に従う兵として同じ場所に立っている。マタルの死霊術が続く限り、彼らの死が外の者に気付かれることはないだろう。 
 ゲラードは、何かが動きつつあるのを感じていた。それは、地滑りが起こる直前に転がり落ちる小石の足音のようでもあり、微かな胎動のようでもあった。なにかとてつもなく大きなものが、大気の奥で、大地の下で蠢いている。目覚めの時を間近に控えて、微睡んでいる。空気は重く濃密になり、何かにのし掛かかられているような圧を感じた。 
 大理石の床に広がった血の中に足を踏み入れて、クヴァルドが言った。 
金面兵アウレアのしわざか……」 
 マタルは頷いた。「死者のひとりに聞いた。彼が言うには──金面の兵たちと共に、もうひとりのエヴラルドが来たって」 
「もうひとりのエヴラルド──ハミシュだな」クヴァルドが言った。「やはり、ここを目指していたか」 
「となると、エヴラールとハミシュの行き先は──」 
「ウテロ山の聖域だ」ゲラードは言った。 
 ホラスは、聖選の進行を担っていたと思しき従僕の遺体を調べた。「間違いない。聖域への鍵が消えている」 
 聖域への鍵は、聖選で選ばれた教王にのみ与えられる。聖選によって次の教王が決まるまでは、前教王の従僕が肌身放さず持っているはずのものだという。 
「抵抗のすえに殺されている。無理矢理奪われたようだ」ホラスは言った。 
 目眩がする。ゲラードは、頭の横をそっと押さえた。 
「どうした」 
 フーヴァルが隣に来て、背中に手を添えた。 
「このあたりの空気が、渦を捲いている。もうすぐ始まってしまう」 
「急ごう」ヴェルギルは言った。「もはや立ち止まっている時間はない」 
 
 万神宮の祭壇の奥には、装飾のない小部屋があった。聖域へと続く扉はその部屋にあり、いまは惜しげもなく開け放たれていた。 
 扉を守っていた二人の騎士は死んでいた。金面兵アウレアの仕業ではないことはひと目でわかる。彼らは鎧ごと押しつぶされていたのだ。 
「ハミシュ──リコヴにこんな力が……?」 
 クヴァルドが呆然と呟いた。この中でハミシュと最も長い時間を過ごしたのは彼だ。 
「彼はマイデンに海神マルドーホの力を喚びだした。他の神の力を操ることができたとしても不思議ではありません」ゲラードは言った。 
「桁外れの力だ。パルヴァは長い間、他の神の力を遮断してきたはずなんだ。陽神デイナが死んでも、それは変わってない」マタルは苦しげに言った。「曙神アシュタハの力だって、ここじゃ普段の半分も発揮できないのに」 
「先へ進もう」ホラスが言った。「平気か?」 
「もちろん」マタルは気丈な笑みを浮かべて見せた。 
 そして一行は、聖域へと続く扉を潜った。 
 万神宮パンテオンとウテロ山は、一本の石橋によって繋がっている。パルヴァの街の半分はあろうかという長さの橋が、丘の頂点に位置する万神宮パンテオンから山の中腹に向かってまっすぐに伸びていた。これほどの建造物を建てるには、人間の力だけでは為し得なかっただろう。古びた石畳の上に足を乗せると、確かに魔法の気配を感じた。 
 その時、背後から角笛の音がした。 
「気付かれた!」そう声を上げたマタルの、琥珀色の瞳が瞬いた。「奴ら、こっちに向かってる……五十人は居る!」 
 聖域の扉に飛びかかり、渾身の力を込めて閉める。マタルの身体から伸びた蔦が建物の一部を崩して、扉を埋もれさせた。 
「よくやった!」 
 マタルは額に浮かんだ汗を拭って言った。「時間稼ぎにしかならない。行こう!」 
「走れ!」 
 クヴァルドが皆を先導し……ヴェルギルが殿しんがりについた。彼はクヴァルドと目を見交わして、小さく頷いた。 
 一行が地下に潜っていたわずかの間に、火山の様子は変容していた。火口から漏れ出る赤い光はさらに強まり、立ち上る黒煙は空にまで届いて、紫の稲妻を孕んでいた。硫黄のにおいが垂れ込め、気温は真夏のように暑い。息をするだけで肺が焦げそうなほどの熱気の中を、ゲラードたちは疾走した。 
 何かが爆発するような音が轟く。振り向くと、さっきマタルが塞いだばかりの扉を破って、兵たちがなだれ込んできていた。彼らの手には、ホラスが話していた手持ちの大砲が握られている。命中精度は低いとは言え、至近距離から集中砲火を受けてしまったら、全員無事ではいられない。 
「先に行け!」 
 そう言って、ヴェルギルが宙に浮き上がった。 
「シルリク──!」 
「フィラン! 君が先導しろ!」 
 クヴァルドは反論を飲み込み、一行の先頭に躍り出た。 
 その間に、ヴェルギルの姿が変わってゆく。以前、デンズ湾の海戦で見た時のように、彼は夜よりも濃い漆黒の霧を纏っていた。それが、二倍──いや、五倍にも膨れ上がる。 
「ガル! ちゃんと前を見とけ!」フーヴァルが叫ぶ。 
 わかっていたけれど、目が離せなかった。 
 ヴェルギルの霧が男たちを包みこむと、くぐもった悲鳴が上がる。だが、ヴェルギルは彼らの血を奪おうとしているわけではなかった。 
 足下が揺らぎ、積み石を結び合わせている魔法が……震えた。 
 ヴェルギルの狙いに、最初に気付いたのはフーヴァルだった。 
「嘘だろ、クソッタレ──橋を崩すつもりだ」彼は血相を変えて叫んだ。「走れガル! 全速力だ!」 
 ゲラードも、今度ばかりは彼の言葉に従った。 
 自分たちを待ち受ける終着点へと向き直る。その直前に、ゲラードは見た。聖域へと続く唯一の橋が万神宮パンテオンとの繋がりを断ち切り、ゆっくりと崩れはじめたのを。 
 兵士たちの悲鳴は、橋が崩れ落ちる音に飲まれた。 
「もうすぐ、向こう側だ!」マタルはそう言うと、文身の翼を広げてホラスを抱え上げた。「しっかりつかまって!」 
 それを見て、フーヴァルが唸った。 
「ずるい真似しやがって……!」 
 一歩踏みしめるごとに、足下の揺らぎが大きくなっていくような気がする。ふり返る余裕はない。足下を見れば転んでしまう。マタルが、山の中腹から伸びる岩棚に着地した。次いでクヴァルドが、その隣に飛び乗る。彼は振り向き、何かを叫ぼうと口を開いた。 
 次の瞬間、足下から橋が消えた。 
 キャトフォードの監獄から飛び降りた時の記憶が蘇る。内臓が空っぽになると同時に、自分の身体が信じられないほど重くなったように感じる。 
 声は出せなかった。ただ、終わったと思った。 
 落下が始まり、息が止まる。暗闇が視界を包み、皆の顔が遠ざかってゆく。 
 そして、ゲラードは黒い靄に抱き留められた。 
「いやはや、申し訳ない!」 
 ヴェルギルの声は、妙にくぐもって聞こえた。 
「橋の一部だけを落とすつもりが、力加減を誤ってしまった」 
 安堵と共に、空気が肺に流れ込む。感謝の言葉を伝えたいが、何か口に出せば吐いてしまうような気がした。代わりに、もう一方の腕に抱きかかえられたフーヴァルが忌々しげに呻いた。 
「あんたはいつもそうだ」 
 ヴェルギルが皆の待つ岩棚へと降り立つと、彼を取り巻いていた黒い靄も消えた。 
「あの橋を形作っているのは、古の魔法だ。なんとか崩すことはできたが、じきに元に戻るだろう」 
 ヴェルギルの言葉にふり返る。確かに、崩れたはずの石が再び繋ぎ合わさり、橋を復活させようとしていた。 
「ここまで来れば、聖域まではもうすぐです」ホラスが言った。 
「ああ、そのようだ」ゲラードも言った。 
 パルヴァについてからと言うもの、カレフはせわしなく飛び回り続けている。いまはしきりにゲラードの頭を小突いて、山の中腹から山頂に向かって伸びる、朽ちかけた石段の先へと進ませようとしていた。 
「行こう。追いつかれる前に、硲に入らなければ」 
 一行は石段を登りはじめた。 
 いまや、山を覆う極光も、黒煙も──手を伸ばせば触れそうなところにあった。火口からの赤い光に加えて、緑や青や紫の光があたりを照らしている。降り積もった灰のせいで、森の風景はどこもかしこも灰白はいしろに塗りつぶされていた。まるで、世界の抜け殻を見ているようだ。 
 階段を上りきり、開けた場所に出る。無数の積み石ケルンが築かれた平地の奥には、巨大な石の扉が聳え立っていた。 
「教王はこの場所で積み石ケルンを作り、また万神宮パンテオンへと戻っていく」ホラスが言った。 
「扉の奥には行かないの?」 
 ホラスはマタルに首を振った。「常人には、あの扉はくぐれない」 
 全員が、それぞれの顔を見交わした。 
「つまり、あの先に硲の領域がある」クヴァルドが言った。 
 一行は、ケルンの林を越えて扉へと向かった。 
 扉はうっすらと開かれていた。いや、そもそも扉などというものは存在していなかった。巨大な岩盤の裂け目に、扉を思わせる彫刻がほどこされているだけで、蝶番も無ければ、鍵もない。 
「門はいつでも開かれている──だが、正しい場所にたどり着けるのは、選ばれた者だけだ」ホラスは言った。 
「とてつもないものが待ち構えている。俺にはわかる」マタルが呟いた。「ホラス、俺から離れないで」 
「ああ」 
 そして、彼らは狭間の門の前に立った。 
「この幅じゃ、ひとりずつしか通れない」ゲラードが進み出た。「僕から行きます」 
「じゃ、次は俺だな」 
 フーヴァルが当然のように言い、ゲラードに寄り添った。 
 いざって時に頼りになるのは、自分てめえ自身と、俺だけだぞ。だから俺を信じろ。お前自身を信じろ。 
 彼の言葉を思い出して、ゲラードは微笑んだ。 
「我々も、すぐ後に続く」ヴェルギルが言った。 
「気をつけて、ガル」マタルは力を分け与えるように、ゲラードの背中に手を当てた。 
「ありがとう。皆もどうか無事で」 
 全員分の頷きが返ってくる。 
 ゲラードは裂け目と向き合い、深く息を吸い込み──漆黒の闇を湛えた、硲の領域に飛び込んだ。 
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