33 / 53
33-34
しおりを挟む
33
長い夢を見ている。
空を彷徨い、堕ちてゆく鳥たちの夢を。毒気に息を詰まらせて、崩れ落ちる獣たちの夢を。煮えたぎる水の中で悶える魚たちの夢を。彼らは、自分を生かすはずのものに殺されて死んでいった。
小さな地震が続いていた。迫り来る何かに身震いせずには居られないというように。人びとは怯えた。次に来るのは、もっと怖ろしい何か──この生活を徹底的に破壊し尽くす何かなのではないかと。
雲も、雨も、雪も、まるで正気を失っていた。
雪が降らない冬があったかとおもえば、暦が春に変わった途端に大雪が降り続いた。畑に撒かれたばかりの種は凍えて、閉ざされた土の中で死んだ。このありさまで、今年の夏はどうなるだろう。秋の収穫は? 次の冬は?
飢饉が訪れるのは目に見えている。だが蓄えようにも、そんな余裕はない。飢饉の後でやってくるのは疫病だ。わかっていても、頼れるものは居なかった。
教会は糾弾する。これは悪魔のごときエイル、あの異端の国を野放しにしているからだと。教会は兵を募り、光箭軍の数はいまや二十万に届くほどだという。
それは長く、陰鬱な夢だ。
決して目覚めることのない夢。
リコヴの行き先はわかっていた。彼の目論見も。彼がこれまでしてきたことも。彼との境界は時を追うごとに薄くなっている。身体も、思考も、自分の思うとおりにならない。
一歩、また一歩と、あの場所に近づいている。船を降り、人気のなくなった街へと足を踏み入れる。
度重なる地震と、鳴動する火山、そして狂った極光。そのせいで、住人のほとんどは街を捨てた。数名の衛兵たちが街への入り口を守っているが、異常事態に怯えきった彼らの目をかいくぐるのは容易かった。
「なんで、エイルを滅ぼす」ハミシュは尋ねた。
『だって、邪魔だからさ』リコヴは言った。
「ヴェルギルがエイルを取り戻すのを助けたのは、お前だろ」
『そのおかげで、月神と嵐神が蘇った』
「お前は最初から、全部ぶち壊すつもりだったんだな」ハミシュは言った。「もっとはやくに、死んでしまえば良かった」
マイデンを出てから、崖から飛び降りようとした。船から身を投げ、馬車の前に飛び出てひかれようとした。だが、うまくいかなかった。
彼は笑った。
『そう怒るなハミシュ。言ったろ、俺ほどこの世界を愛してる神はいないんだ』
「嘘だ」ハミシュは言った。「お前のせいで、何もかも滅茶苦茶だ」
僕のせいで。
ままならない身体の中で、涙だけは自分のものなのが悔しい。
「たくさんのひとが死んだ。ナドカが死んだ。全部お前のせいだ」
全部、僕のせいなんだ。
『おいおい……自分を責めるな、相棒』リコヴは言った。『お前のせいじゃねえさ。ほんと言うと、俺のせいでもない。こいつはな、どうしたって避けられないんだ。だから気に病むのはやめて、全部俺に任しとけ』
「お前が消えれば、避けられる」
『そうもいかねえんだな、これが』リコヴは笑った。『俺はずっと、ずうっと『はざま』を守ってきた。お前も覗いただろ。あそこは過去も未来もてんで滅茶苦茶に混ざり合ってる。俺はあの場所でいろんなものを見てきた。永遠を費やしても見切れないほどの過去と未来を見てきたんだよ。どう考えても、十八年しか生きてないお前よりは色々わかってるさ。当たり前だろ? だから断言できるんだ。これは仕方のないことなんだよ』
流れるように繰り出されるその言葉に身を委ねてしまえたら、どんなにか楽だろう。でも、そうして、彼のやることに見て見ぬ振りをしてきたせいで、いまの世界がある。
俺のせいで、大事な人たちの故郷が消えてなくなってしまうかも知れない。
ずっと昔、遠い昔に、ハミシュは旅をしていた。故郷を離れて。
弟と二人で乗った馬車を、武装した男たちが囲んだ。彼らは護衛を殺し、馬車の扉をこじ開けて、中からハミシュを引きずり出した。
天も地も逆さまになって、何が何やらわからなかった。金切り声を上げて泣きわめく弟の声が遠ざかっていることに気付いた時には、もう後戻りができなくなっていた。
放してよと、何度も叫んだ。だがそんなとき、誰かがハミシュに言ったのだ。
『生きて弟に会いたいか?』
ハミシュは「うん」と答えた。
自分を掠った山賊の声ではないことはわかった。彼らよりずっと若くて、楽しげな声をしていた。不思議な声の出所を、ハミシュは必死で探した。けれど、突き止めることは出来なかった。
『おとなしくしてれば、いつか弟に会わせてやる。俺を信じろ。いいな?』
直感で、嘘だとわかった。けれど、だからといってどうすることもできない。
『この男どもに抵抗しちゃだめだ。いいか、おとなしく待っているんだぞ』
ハミシュは心の中で頷いた。何故かはわからないけれど、そうすれば彼には通じると知っていた。
わかったよ。抵抗なんかしない。怖いからじゃない。弟に会うためだ。
そう自分を納得させることで、恐怖も混乱もおさまった。弟をあの場に置き去りにしてきてしまった罪悪感も。
男たちは、ハミシュを人質にして両親から金を巻き上げるつもりだといっていた。助けてやった礼を、すこしばかり頂戴するだけだ、と。だが不思議なことに、彼らは少しずつ減っていった。あるものは狼に食われ、あるものは森に迷って、また別の者は、馬の上でいつの間にか落命していた。
何かがおかしいと思った。だが、恐怖は感じなかった。あの『声』を信じることに決めていたから。
六人いた男たちの最後のひとりは、呪いから逃げようとして崖から身を投げた。
そして、ハミシュは野営地に一人残された。そこに通りがかった狩人が、拘束を解き、しばらくの間世話をしてくれた。
『生きて弟に会いたいか?』
不思議な声は、常にハミシュと共にあった。
『なら、俺の手足になれ──相棒』
親切にしてくれた狩人の家を抜け出したとき、ハミシュはまだ五つだったが、自分の行くべき場所はわかっていた。
ハミシュは声の導くまま、ダイラへと密航した。デンズウィックの港に降り立ったとき、ここだ、ここがその場所なのだと思った。
やがて時がたつほどに、リコヴの声が聞こえる頻度は減っていき……記憶は心の奥底に封印されてしまった。リコヴがわざとそうしたのだろう。少しずつ記憶を盗み、自分にとって都合の良い操り人形にするために。
だが、今ははっきりと思い出せる。弟との別れ──そしてリコヴとの出会いを。
「お前の言葉は……嘘ばかりだ」
すると、リコヴは笑った。まるで、この世で一番の冗談を聞いたみたいに。
そして言った。
『でも、人間は嘘が好きだろ?』
34
エイル エリマス
この泉を訪うのも、もう何年ぶりになるのだったか。
城から歩いて一刻ほどの森の中に、小さな遺跡がある。哨兵のように立ち並ぶ石柱に守られた、小さな泉だ。その畔に、ヴェルギルとクヴァルドは腰掛けていた。
一緒に。かつてここで、二人で王になろうと彼に告げた。正義が意味を持つ国を、共に作り上げよう、と。
そしていま、二人は別離のためにここに来た。
乱れた気候の影響はこの森にも現れている。泉を取り囲む五つの石柱はこんもりとした雪の帽子をかぶっていた。苔むした柱からしたたり落ちる雪解け水が、戸惑いながらも蕾を開いた白詰草の花を濡らしている。
月明かりに照らされた聖域に、虫たちが降るような声を響かせていた。
沈黙が、どんな言葉よりもかたく、二人を結びつけていた。
冗談に、誓いに、愛の言葉。どれを口に出そうと、それが最後の言葉になってしまうのではないかと……二人とも、きっとそれを恐れていた。
国に残って欲しいとクヴァルドに告げたとき、ヴェルギルは、また殴られるかもしれないと思っていた。少なくとも、反対されるだろうと。涙を見ることも覚悟していた。
だが、彼はこう言った。
「わかった」と。
だから、彼に告げるつもりだった無数の言葉は、口に出されるまでもなく、胸の中にしまい込まれた。
わたしは君のために、このエイルを蘇らせようと思ったのだ。君の故郷に──わたしたちの故郷になればいいと。
結局わたしがしたことと言えば、灰の中から取り上げて、体裁を整え、君に手渡しただけだった。それでも後悔はしていない。千年に亘る生で、この数年ほど後悔のない日々を送れたことはなかった。
フィラン。君がこのエイルで生きていると思えば、わたしは心置きなく、この身を燃やし尽くすことができる。だから、行かせてくれ、と。
だが口に出さずとも、彼にはわかっているのだ。
この上なく残酷なことを強いているのは理解しているつもりだった。
狼が連れあいをなくせば、それでおわりだ。死ぬまで、孤独の暗闇の中を生きる。それ以外に道はない。それが狼になるということだ。
その言葉を聞いたうえで、君は永遠にわたしのものだと告げた。これ以上に惨い呪縛はない。残された数百年の余生を過ごすうち、彼の想いはいずれ愛から憎しみに変わるかも知れない。
それでも、生きていて欲しい。
「シルリク」
「うん?」
「明日、見送りには行かない」小さな声で、ぽつりと言う。「追いかけてしまいたくなるから」
ヴェルギルは頷いて、彼の手を取った。「それでいい」
「考えたことはあるか、シルリク」
おもむろに、クヴァルドが言った。
「もし俺たちがただの人間で、王冠や……戦いとは無縁の人生を送っていたら、と」
ふたりは小さな、だが居心地のいい村に住んでいて、お互いのことはよく知らない。そんな空想を、二人の間に広げてゆく。
「そうだな」ヴェルギルは小さく笑った。「君は狩人だろう。猟犬を従えて森に入り、恵みと共に帰ってくる」
「なら、お前は牧人だな」
ヴェルギルは眉を上げた。「村の穀潰しではなく?」
わかっているくせに、という目で、クヴァルドがヴェルギルを見る。
「お前には、命を守る生き方が似合う」彼はいい、肩を寄せた。「普段は山の上で放牧をしていて、滅多に顔を合わせない。だが冬になると、お前は村に戻る」
「君も狩りから帰ったところで──」
「酒場に行く」クヴァルドは楽しげに言葉を継いだ。「そこで、お前が誰かを口説いているのに出くわすんだろう」
ヴェルギルはくつくつと笑った。「さもありなん、だな」
「俺はお前のことを、いけ好かない奴だと思う」クヴァルドは言い、ヴェルギルの手を取った。「でも、目が離せなくなる」
手の甲を撫でる親指の温かさを感じながら、ヴェルギルは続けた。
「君が酒場に入ってくる。冷たい冬の空気を引き連れて」目を閉じて、その光景を思い浮かべる。「わたしは君の姿を見て、思うだろう──いったいどの神がこの男の造形を編んだのかと」
目を開けると、クヴァルドは少しだけ狼狽えたような顔をしていた。彼の美しさを讃えると、必ずそうなる。
「きっと一目で君に夢中になる」ヴェルギルは言った。「君に一杯奢ると言うだろう。声を聞き、その目に自分を映して欲しいと望むばかりに」
「なら、俺は──」クヴァルドは言った。「鳩の香草焼きでも奢るかもな」
思い出が蘇る。かつて二人で旅をしていたとき、貴金でできた〈陽神の蛇〉で一時的に人間に戻っていたヴェルギルに、クヴァルドはその料理を食べさせようとしていた。嫌がらせの意味を込めて。
ヴェルギルは思わず噴き出し、声を上げて笑った。
「俺が人間だった頃は、あれが一番好きだったんだ。今じゃ香草のにおいのせいで受け付けなくなってしまったが」クヴァルドも笑いながら言い、そして優しい眼差しで、ヴェルギルを見た。「多分俺は、お前が何かを味わっているところを見るのが好きなんだろうな」
ふたりは、まだ笑いの残る唇を重ねた。
「きっと、幸せだろう」ヴェルギルは言った。「夜には小さな炉のそばで寄り添い、ささやかな心配事を二人で分け合いながら老いていくのは」
だが、わたしたちには許されない。
それを、わざわざ口にする必要はなかった。
「戻ってきたら」クヴァルドが、躊躇いがちに言った。「俺の、夫となってくれないか」
ヴェルギルは一瞬、言葉を失った。
「格式張った誓いや続柄が無いからといって、何が欠けているというものでもない。そう思っていた。それに……少し遠慮もしていた。お前には最初の妻がいたのだし、彼女のことも大切に思っているだろうから」クヴァルドは小さく笑った。「それでも……」
「もちろんだ」
ヴェルギルは言い、クヴァルドの手を取った。血を飲んだわけでもないのに、心臓が動き出しそうだった。
「本当に私でかまわないのなら」
クヴァルドはフフ、と笑った。
その笑みの意味はわかる。今さらだと言いたいのだろう。だが、問わずにはいられなかった。運命の血によって結びつけられ、永遠という言葉で縛り、わたしのものだと言いさえした。それでも──結の誓いには、そうした言葉たちを総べるほどの重い意味がある。
クヴァルドの表情には、見透かすような何かがあった。
これで、何が何でも帰って来たくなったんじゃないか? と。
「ありがとう」ヴェルギルは言った。「これ以上に光栄なことはない」
「お前を愛している」クヴァルドは、とても静かに言った。「どこに行ってもそれだけは、絶対に忘れるな」
「わかっているとも、わたしの狼」ヴェルギルは言った。
クヴァルドは小さく笑った。
「もう一度、仔犬と呼んでくれないか?」彼はいい、ヴェルギルに寄り添った。「お前に、そう呼ばれるのが好きだった」
長い夢を見ている。
空を彷徨い、堕ちてゆく鳥たちの夢を。毒気に息を詰まらせて、崩れ落ちる獣たちの夢を。煮えたぎる水の中で悶える魚たちの夢を。彼らは、自分を生かすはずのものに殺されて死んでいった。
小さな地震が続いていた。迫り来る何かに身震いせずには居られないというように。人びとは怯えた。次に来るのは、もっと怖ろしい何か──この生活を徹底的に破壊し尽くす何かなのではないかと。
雲も、雨も、雪も、まるで正気を失っていた。
雪が降らない冬があったかとおもえば、暦が春に変わった途端に大雪が降り続いた。畑に撒かれたばかりの種は凍えて、閉ざされた土の中で死んだ。このありさまで、今年の夏はどうなるだろう。秋の収穫は? 次の冬は?
飢饉が訪れるのは目に見えている。だが蓄えようにも、そんな余裕はない。飢饉の後でやってくるのは疫病だ。わかっていても、頼れるものは居なかった。
教会は糾弾する。これは悪魔のごときエイル、あの異端の国を野放しにしているからだと。教会は兵を募り、光箭軍の数はいまや二十万に届くほどだという。
それは長く、陰鬱な夢だ。
決して目覚めることのない夢。
リコヴの行き先はわかっていた。彼の目論見も。彼がこれまでしてきたことも。彼との境界は時を追うごとに薄くなっている。身体も、思考も、自分の思うとおりにならない。
一歩、また一歩と、あの場所に近づいている。船を降り、人気のなくなった街へと足を踏み入れる。
度重なる地震と、鳴動する火山、そして狂った極光。そのせいで、住人のほとんどは街を捨てた。数名の衛兵たちが街への入り口を守っているが、異常事態に怯えきった彼らの目をかいくぐるのは容易かった。
「なんで、エイルを滅ぼす」ハミシュは尋ねた。
『だって、邪魔だからさ』リコヴは言った。
「ヴェルギルがエイルを取り戻すのを助けたのは、お前だろ」
『そのおかげで、月神と嵐神が蘇った』
「お前は最初から、全部ぶち壊すつもりだったんだな」ハミシュは言った。「もっとはやくに、死んでしまえば良かった」
マイデンを出てから、崖から飛び降りようとした。船から身を投げ、馬車の前に飛び出てひかれようとした。だが、うまくいかなかった。
彼は笑った。
『そう怒るなハミシュ。言ったろ、俺ほどこの世界を愛してる神はいないんだ』
「嘘だ」ハミシュは言った。「お前のせいで、何もかも滅茶苦茶だ」
僕のせいで。
ままならない身体の中で、涙だけは自分のものなのが悔しい。
「たくさんのひとが死んだ。ナドカが死んだ。全部お前のせいだ」
全部、僕のせいなんだ。
『おいおい……自分を責めるな、相棒』リコヴは言った。『お前のせいじゃねえさ。ほんと言うと、俺のせいでもない。こいつはな、どうしたって避けられないんだ。だから気に病むのはやめて、全部俺に任しとけ』
「お前が消えれば、避けられる」
『そうもいかねえんだな、これが』リコヴは笑った。『俺はずっと、ずうっと『はざま』を守ってきた。お前も覗いただろ。あそこは過去も未来もてんで滅茶苦茶に混ざり合ってる。俺はあの場所でいろんなものを見てきた。永遠を費やしても見切れないほどの過去と未来を見てきたんだよ。どう考えても、十八年しか生きてないお前よりは色々わかってるさ。当たり前だろ? だから断言できるんだ。これは仕方のないことなんだよ』
流れるように繰り出されるその言葉に身を委ねてしまえたら、どんなにか楽だろう。でも、そうして、彼のやることに見て見ぬ振りをしてきたせいで、いまの世界がある。
俺のせいで、大事な人たちの故郷が消えてなくなってしまうかも知れない。
ずっと昔、遠い昔に、ハミシュは旅をしていた。故郷を離れて。
弟と二人で乗った馬車を、武装した男たちが囲んだ。彼らは護衛を殺し、馬車の扉をこじ開けて、中からハミシュを引きずり出した。
天も地も逆さまになって、何が何やらわからなかった。金切り声を上げて泣きわめく弟の声が遠ざかっていることに気付いた時には、もう後戻りができなくなっていた。
放してよと、何度も叫んだ。だがそんなとき、誰かがハミシュに言ったのだ。
『生きて弟に会いたいか?』
ハミシュは「うん」と答えた。
自分を掠った山賊の声ではないことはわかった。彼らよりずっと若くて、楽しげな声をしていた。不思議な声の出所を、ハミシュは必死で探した。けれど、突き止めることは出来なかった。
『おとなしくしてれば、いつか弟に会わせてやる。俺を信じろ。いいな?』
直感で、嘘だとわかった。けれど、だからといってどうすることもできない。
『この男どもに抵抗しちゃだめだ。いいか、おとなしく待っているんだぞ』
ハミシュは心の中で頷いた。何故かはわからないけれど、そうすれば彼には通じると知っていた。
わかったよ。抵抗なんかしない。怖いからじゃない。弟に会うためだ。
そう自分を納得させることで、恐怖も混乱もおさまった。弟をあの場に置き去りにしてきてしまった罪悪感も。
男たちは、ハミシュを人質にして両親から金を巻き上げるつもりだといっていた。助けてやった礼を、すこしばかり頂戴するだけだ、と。だが不思議なことに、彼らは少しずつ減っていった。あるものは狼に食われ、あるものは森に迷って、また別の者は、馬の上でいつの間にか落命していた。
何かがおかしいと思った。だが、恐怖は感じなかった。あの『声』を信じることに決めていたから。
六人いた男たちの最後のひとりは、呪いから逃げようとして崖から身を投げた。
そして、ハミシュは野営地に一人残された。そこに通りがかった狩人が、拘束を解き、しばらくの間世話をしてくれた。
『生きて弟に会いたいか?』
不思議な声は、常にハミシュと共にあった。
『なら、俺の手足になれ──相棒』
親切にしてくれた狩人の家を抜け出したとき、ハミシュはまだ五つだったが、自分の行くべき場所はわかっていた。
ハミシュは声の導くまま、ダイラへと密航した。デンズウィックの港に降り立ったとき、ここだ、ここがその場所なのだと思った。
やがて時がたつほどに、リコヴの声が聞こえる頻度は減っていき……記憶は心の奥底に封印されてしまった。リコヴがわざとそうしたのだろう。少しずつ記憶を盗み、自分にとって都合の良い操り人形にするために。
だが、今ははっきりと思い出せる。弟との別れ──そしてリコヴとの出会いを。
「お前の言葉は……嘘ばかりだ」
すると、リコヴは笑った。まるで、この世で一番の冗談を聞いたみたいに。
そして言った。
『でも、人間は嘘が好きだろ?』
34
エイル エリマス
この泉を訪うのも、もう何年ぶりになるのだったか。
城から歩いて一刻ほどの森の中に、小さな遺跡がある。哨兵のように立ち並ぶ石柱に守られた、小さな泉だ。その畔に、ヴェルギルとクヴァルドは腰掛けていた。
一緒に。かつてここで、二人で王になろうと彼に告げた。正義が意味を持つ国を、共に作り上げよう、と。
そしていま、二人は別離のためにここに来た。
乱れた気候の影響はこの森にも現れている。泉を取り囲む五つの石柱はこんもりとした雪の帽子をかぶっていた。苔むした柱からしたたり落ちる雪解け水が、戸惑いながらも蕾を開いた白詰草の花を濡らしている。
月明かりに照らされた聖域に、虫たちが降るような声を響かせていた。
沈黙が、どんな言葉よりもかたく、二人を結びつけていた。
冗談に、誓いに、愛の言葉。どれを口に出そうと、それが最後の言葉になってしまうのではないかと……二人とも、きっとそれを恐れていた。
国に残って欲しいとクヴァルドに告げたとき、ヴェルギルは、また殴られるかもしれないと思っていた。少なくとも、反対されるだろうと。涙を見ることも覚悟していた。
だが、彼はこう言った。
「わかった」と。
だから、彼に告げるつもりだった無数の言葉は、口に出されるまでもなく、胸の中にしまい込まれた。
わたしは君のために、このエイルを蘇らせようと思ったのだ。君の故郷に──わたしたちの故郷になればいいと。
結局わたしがしたことと言えば、灰の中から取り上げて、体裁を整え、君に手渡しただけだった。それでも後悔はしていない。千年に亘る生で、この数年ほど後悔のない日々を送れたことはなかった。
フィラン。君がこのエイルで生きていると思えば、わたしは心置きなく、この身を燃やし尽くすことができる。だから、行かせてくれ、と。
だが口に出さずとも、彼にはわかっているのだ。
この上なく残酷なことを強いているのは理解しているつもりだった。
狼が連れあいをなくせば、それでおわりだ。死ぬまで、孤独の暗闇の中を生きる。それ以外に道はない。それが狼になるということだ。
その言葉を聞いたうえで、君は永遠にわたしのものだと告げた。これ以上に惨い呪縛はない。残された数百年の余生を過ごすうち、彼の想いはいずれ愛から憎しみに変わるかも知れない。
それでも、生きていて欲しい。
「シルリク」
「うん?」
「明日、見送りには行かない」小さな声で、ぽつりと言う。「追いかけてしまいたくなるから」
ヴェルギルは頷いて、彼の手を取った。「それでいい」
「考えたことはあるか、シルリク」
おもむろに、クヴァルドが言った。
「もし俺たちがただの人間で、王冠や……戦いとは無縁の人生を送っていたら、と」
ふたりは小さな、だが居心地のいい村に住んでいて、お互いのことはよく知らない。そんな空想を、二人の間に広げてゆく。
「そうだな」ヴェルギルは小さく笑った。「君は狩人だろう。猟犬を従えて森に入り、恵みと共に帰ってくる」
「なら、お前は牧人だな」
ヴェルギルは眉を上げた。「村の穀潰しではなく?」
わかっているくせに、という目で、クヴァルドがヴェルギルを見る。
「お前には、命を守る生き方が似合う」彼はいい、肩を寄せた。「普段は山の上で放牧をしていて、滅多に顔を合わせない。だが冬になると、お前は村に戻る」
「君も狩りから帰ったところで──」
「酒場に行く」クヴァルドは楽しげに言葉を継いだ。「そこで、お前が誰かを口説いているのに出くわすんだろう」
ヴェルギルはくつくつと笑った。「さもありなん、だな」
「俺はお前のことを、いけ好かない奴だと思う」クヴァルドは言い、ヴェルギルの手を取った。「でも、目が離せなくなる」
手の甲を撫でる親指の温かさを感じながら、ヴェルギルは続けた。
「君が酒場に入ってくる。冷たい冬の空気を引き連れて」目を閉じて、その光景を思い浮かべる。「わたしは君の姿を見て、思うだろう──いったいどの神がこの男の造形を編んだのかと」
目を開けると、クヴァルドは少しだけ狼狽えたような顔をしていた。彼の美しさを讃えると、必ずそうなる。
「きっと一目で君に夢中になる」ヴェルギルは言った。「君に一杯奢ると言うだろう。声を聞き、その目に自分を映して欲しいと望むばかりに」
「なら、俺は──」クヴァルドは言った。「鳩の香草焼きでも奢るかもな」
思い出が蘇る。かつて二人で旅をしていたとき、貴金でできた〈陽神の蛇〉で一時的に人間に戻っていたヴェルギルに、クヴァルドはその料理を食べさせようとしていた。嫌がらせの意味を込めて。
ヴェルギルは思わず噴き出し、声を上げて笑った。
「俺が人間だった頃は、あれが一番好きだったんだ。今じゃ香草のにおいのせいで受け付けなくなってしまったが」クヴァルドも笑いながら言い、そして優しい眼差しで、ヴェルギルを見た。「多分俺は、お前が何かを味わっているところを見るのが好きなんだろうな」
ふたりは、まだ笑いの残る唇を重ねた。
「きっと、幸せだろう」ヴェルギルは言った。「夜には小さな炉のそばで寄り添い、ささやかな心配事を二人で分け合いながら老いていくのは」
だが、わたしたちには許されない。
それを、わざわざ口にする必要はなかった。
「戻ってきたら」クヴァルドが、躊躇いがちに言った。「俺の、夫となってくれないか」
ヴェルギルは一瞬、言葉を失った。
「格式張った誓いや続柄が無いからといって、何が欠けているというものでもない。そう思っていた。それに……少し遠慮もしていた。お前には最初の妻がいたのだし、彼女のことも大切に思っているだろうから」クヴァルドは小さく笑った。「それでも……」
「もちろんだ」
ヴェルギルは言い、クヴァルドの手を取った。血を飲んだわけでもないのに、心臓が動き出しそうだった。
「本当に私でかまわないのなら」
クヴァルドはフフ、と笑った。
その笑みの意味はわかる。今さらだと言いたいのだろう。だが、問わずにはいられなかった。運命の血によって結びつけられ、永遠という言葉で縛り、わたしのものだと言いさえした。それでも──結の誓いには、そうした言葉たちを総べるほどの重い意味がある。
クヴァルドの表情には、見透かすような何かがあった。
これで、何が何でも帰って来たくなったんじゃないか? と。
「ありがとう」ヴェルギルは言った。「これ以上に光栄なことはない」
「お前を愛している」クヴァルドは、とても静かに言った。「どこに行ってもそれだけは、絶対に忘れるな」
「わかっているとも、わたしの狼」ヴェルギルは言った。
クヴァルドは小さく笑った。
「もう一度、仔犬と呼んでくれないか?」彼はいい、ヴェルギルに寄り添った。「お前に、そう呼ばれるのが好きだった」
応援ありがとうございます!
1
お気に入りに追加
20
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる