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エイル エリマス
マタルの記憶の大半は戻ったが、まだ不完全だ。それは自分との関係と、彼の罪悪感とが密接に絡まり合っているせいではないかとホラスは思った。
自分のしたことを、少しも悔やまずに生きるのは難しい。
彼の──自分たちの場合、そこに陽神と曙神の関係が絡んでくるから、いっそう複雑だ。
陽神の死がこの世界に混乱をもたらし、ナドカへの激しい迫害を引き起こしたのだと彼は考えている。陽神に対して究極の贖罪をもとめた曙神──彼女の願いを叶えたマタルが、そう思うのも無理はない。
だが、陽神は自ら償うことを選んだ。
しかし、『これは必然だったのだ』と告げても、それが慰めになるとは思えなかった。ホラス自身、陽神の望み通りに動いたのを後悔したことは一度や二度ではなかったから。
我々は二人とも、いまの世界の実現に加担している。
この罪悪感は、この世の終わりまで背負ってゆくべきものだと思っていた。エミリア・ホーウッドとの再会を果たすまでは。
マタルから、彼女の話を聞いてはいた。一人前の魔女となったばかりではなく、荒れ狂う魔獣をなだめ、〈アラニ〉の首魁を説得した、と。取り戻した記憶のおかげで、彼はしみじみと感動を噛みしめているようだった。
だがホラスは、会議で彼女の姿を目にするまでは、本当の意味では信じることができていなかった。
「ずっとお話ししたいと想い続けていました。きちんとお礼を申し上げたかったのですけれど、回復に時間がかかってしまって……お二人を探し始めた頃には、もう国をお出になられた後だったので」
エミリア・ホーウッドは真実、立派な魔女に成長していた。ブリジット・ゴドフリーが彼女の師を勤めたことに、数奇な運命を感じずにはおれない。〈クラン〉とヴェルギルによるエダルトの討伐に関わったゴドフリーと知り合ったのは、十二年も前のことなのだ。
「サーリヤ殿の記憶も戻られたようで、何よりです。あなたには二度も助けて頂きました。ほんとうにありがとうございます」
「お礼なんて……」マタルは落ち着かなげに目を伏せた。「あなたがひどい目に遭わされるのを止められなかった。俺はずっと、あなたに謝らなきゃならなかったんだ」
エミリアは首を振った。
「いいえ。あの経験があったからこそ、いまのわたしがあるのですから」
彼女は晴れやかに微笑んだ。
城の中庭には、昨日降った雪の名残が散らばっていた。ここのところ、季節は狂ったように入れ替わり立ち替わり訪れる。真冬のような寒さだった昨日からはうってかわって、今日は夏のようにあたたかい。泥にまみれた残雪が、僅かな木陰にしがみつくように縮こまっていた。
「ゲラード殿下も──いえ、スカイワード殿も、最後まで姉の傍についていてくださったと伺っています。父は亡くなるその時まで皆さんに感謝していました」
まっすぐに感謝を差し出されると、かえって気後れしてしまうのはホラスも同じだった。
「あのようなことになって、残念です」ホラスは言った。それ以上に言える言葉はなかった。
「ええ。わたしも」エミリアは俯いた。「わたしがもっと強ければ、姉を止められたのだと……今になって気付いても、仕方のないことですけれど」
今となっては、仕方のないこと。
この世の中に、そんなやるせない後悔がいくつ存在するだろう。
「お二人がご無事でいてくださってよかった」エミリアは静かに言った。「安否も知れないと聞いて、ずっと神に祈っていたのです」そして、彼女は思い出したように付け加えた。「月神ではなく、陽神にですけれど。習慣というものはなかなか変えられなくて」
「なら、聞き届けてくださったんだ」マタルはそっと言った。「陽神を殺してしまった者にさえ寛大な、どこかの神がね。あなたの祈りだからこそだ」
エミリアは微笑んだ。
「きっと、陽神は殺されたりしませんよ」
マタルは顔を上げて、彼女を見た。
「陽神を殺すということは、陽神の教えの全てを殺すということではないでしょうか、サーリヤ殿」エミリアは穏やかな顔を降り注ぐ日光に向けた。「確かに、神の教えとされていることの多くはひとの筆によって記されたものです。神のご意志からは外れた部分も、中にはあるのかも知れません。けれど……他者を慈しむ心や、正しさを愛する心は神の教えの根源であり、賜です。その心が我々の世を作り、歴史を、国を作った。そして、そこで生まれ育った我々がいる」
「でも……いまの状況は、陽神が死んだせいで起こっていることだ」マタルが言った。
「そうですね」エミリアは小さく頷いた。「ひとは弱い。支えを失えば、手近な縁に縋ります」
「憎しみは汝が立処にあり。そを掴むは容易し」ホラスが言った。
エミリアは頷いた。「人びとがその聖句を忘れてしまったのは、誰のせいでもありません。神の生というものは──きっと、我々が思うほど長くはない。同時に、我々が思うより遙かに長いのです、きっと」
「そう……かもしれません」
エミリアはこう伝えようとしている。
陽神は死ぬべくして死に──教えは生き続けるのだ、と。
それを認めるのは、他ならぬ自分が認めてしまうのは、許されないことなのではないかと思っていた。しかしその迷いが、マタルをも苦しめてしまうのであれば……断ち切らなければならない。いまここで。
「レディ・ホーウッド」ホラスは言った。「ありがとう」
エミリアは驚きに目を丸くした。「いいえ、わたしは何も──」
「あなたの言葉に、〈アラニ〉たちが心を開いた理由がよくわかる。あなたの言葉は希望だ」
すると、彼女はわずかに頬を赤らめた。
「そう……であれば嬉しいです。他の方たちには、気休めだ、夢物語だと言われることの方が多いものですから」
「いつか、彼らも気付くでしょう」ホラスは言った。
三人は、しばらくのあいだ押し黙ったまま中庭を歩いた。
「サーリヤ殿とサムウェル殿は、カルタニアへ発たれるのですね」エミリアが言った。
「ええ、そうです」マタルが頷いた。「ようやく、自分のしたことの責任を取れる」
すると、彼女は立ち止まり、二人を見つめた。
「ひともナドカも、ちっぽけな存在です」彼女は言った。「たったひとりで神を殺すことも、たったひとりで世界を背負うこともできません。けれど、風穴を開けることはできるのでしょう。どうか風穴を開けてください。後のことは……きっと、なるようになる。神がおられようと、おられまいと。わたしはそう思います」
マタルの表情が、少しだけ変わった。
「ありがとう」彼はいい、エミリアに手を差し出した。
エミリアはその手を握った。
「ご武運を。わたしも、ダイラに風穴を開けられるように頑張ってみます」
エミリアとの会話は、マタルに変化を及ぼした。
思い詰めたような瞳に輝きが戻り、少しばかり背が高くなったようにさえ見えた。破れかぶれの大胆さではなく、堂々たる自信を身に纏った彼の周囲には、目には映らぬ光が溢れているようだった。遠ざかるエミリアの背中を──彼女が乗った船の帆を、彼は港に立っていつまでも見つめていた。
ホラスは言った。
「本当に、カルタニアにいくつもりか?」
マタルはしっかりと頷いた。「ああ、行くよ」
彼はホラスをふり返った。
「俺はあの化け物級のヴェルギルの次に大きな戦力なんだ。オレがついて行かなかったら勝ち目はない」
わかっている。けれど、尋ねておかねばならないのだ。
「償うためか?」
マタルはうつむき、少しだけ迷う素振りを見せた。
「前は──そう思ってた。いまは違う。いまは、俺ならやれると思うから行く。俺なら止められる。風穴をあけてやれる」そして、彼はホラスを見上げて、ニヤリと笑った。「あなたもそう思うでしょ」
「ああ」ホラスも微笑んだ。
マタルは、満足げな表情を浮かべた。
「この戦いが終わったら旅がしたいな。沢山のものを見てみたいよ──今度は、あなたと一緒に」
「俺も、そうしたいと思っていた」ホラスは言った。
マタルは嬉しそうに笑った。そしてホラスの掌を持ち上げると、薬指で十字を描いた。それは、アシュモールで行われる誓いの作法だ。
「約束。二度と離ればなれにならない」
ホラスもマタルの手を取って、同じ誓いを返した。
「約束だ」
そして二人は、約束を刻んだ手と手を繋いで、城への道を戻った。
エイル エリマス
マタルの記憶の大半は戻ったが、まだ不完全だ。それは自分との関係と、彼の罪悪感とが密接に絡まり合っているせいではないかとホラスは思った。
自分のしたことを、少しも悔やまずに生きるのは難しい。
彼の──自分たちの場合、そこに陽神と曙神の関係が絡んでくるから、いっそう複雑だ。
陽神の死がこの世界に混乱をもたらし、ナドカへの激しい迫害を引き起こしたのだと彼は考えている。陽神に対して究極の贖罪をもとめた曙神──彼女の願いを叶えたマタルが、そう思うのも無理はない。
だが、陽神は自ら償うことを選んだ。
しかし、『これは必然だったのだ』と告げても、それが慰めになるとは思えなかった。ホラス自身、陽神の望み通りに動いたのを後悔したことは一度や二度ではなかったから。
我々は二人とも、いまの世界の実現に加担している。
この罪悪感は、この世の終わりまで背負ってゆくべきものだと思っていた。エミリア・ホーウッドとの再会を果たすまでは。
マタルから、彼女の話を聞いてはいた。一人前の魔女となったばかりではなく、荒れ狂う魔獣をなだめ、〈アラニ〉の首魁を説得した、と。取り戻した記憶のおかげで、彼はしみじみと感動を噛みしめているようだった。
だがホラスは、会議で彼女の姿を目にするまでは、本当の意味では信じることができていなかった。
「ずっとお話ししたいと想い続けていました。きちんとお礼を申し上げたかったのですけれど、回復に時間がかかってしまって……お二人を探し始めた頃には、もう国をお出になられた後だったので」
エミリア・ホーウッドは真実、立派な魔女に成長していた。ブリジット・ゴドフリーが彼女の師を勤めたことに、数奇な運命を感じずにはおれない。〈クラン〉とヴェルギルによるエダルトの討伐に関わったゴドフリーと知り合ったのは、十二年も前のことなのだ。
「サーリヤ殿の記憶も戻られたようで、何よりです。あなたには二度も助けて頂きました。ほんとうにありがとうございます」
「お礼なんて……」マタルは落ち着かなげに目を伏せた。「あなたがひどい目に遭わされるのを止められなかった。俺はずっと、あなたに謝らなきゃならなかったんだ」
エミリアは首を振った。
「いいえ。あの経験があったからこそ、いまのわたしがあるのですから」
彼女は晴れやかに微笑んだ。
城の中庭には、昨日降った雪の名残が散らばっていた。ここのところ、季節は狂ったように入れ替わり立ち替わり訪れる。真冬のような寒さだった昨日からはうってかわって、今日は夏のようにあたたかい。泥にまみれた残雪が、僅かな木陰にしがみつくように縮こまっていた。
「ゲラード殿下も──いえ、スカイワード殿も、最後まで姉の傍についていてくださったと伺っています。父は亡くなるその時まで皆さんに感謝していました」
まっすぐに感謝を差し出されると、かえって気後れしてしまうのはホラスも同じだった。
「あのようなことになって、残念です」ホラスは言った。それ以上に言える言葉はなかった。
「ええ。わたしも」エミリアは俯いた。「わたしがもっと強ければ、姉を止められたのだと……今になって気付いても、仕方のないことですけれど」
今となっては、仕方のないこと。
この世の中に、そんなやるせない後悔がいくつ存在するだろう。
「お二人がご無事でいてくださってよかった」エミリアは静かに言った。「安否も知れないと聞いて、ずっと神に祈っていたのです」そして、彼女は思い出したように付け加えた。「月神ではなく、陽神にですけれど。習慣というものはなかなか変えられなくて」
「なら、聞き届けてくださったんだ」マタルはそっと言った。「陽神を殺してしまった者にさえ寛大な、どこかの神がね。あなたの祈りだからこそだ」
エミリアは微笑んだ。
「きっと、陽神は殺されたりしませんよ」
マタルは顔を上げて、彼女を見た。
「陽神を殺すということは、陽神の教えの全てを殺すということではないでしょうか、サーリヤ殿」エミリアは穏やかな顔を降り注ぐ日光に向けた。「確かに、神の教えとされていることの多くはひとの筆によって記されたものです。神のご意志からは外れた部分も、中にはあるのかも知れません。けれど……他者を慈しむ心や、正しさを愛する心は神の教えの根源であり、賜です。その心が我々の世を作り、歴史を、国を作った。そして、そこで生まれ育った我々がいる」
「でも……いまの状況は、陽神が死んだせいで起こっていることだ」マタルが言った。
「そうですね」エミリアは小さく頷いた。「ひとは弱い。支えを失えば、手近な縁に縋ります」
「憎しみは汝が立処にあり。そを掴むは容易し」ホラスが言った。
エミリアは頷いた。「人びとがその聖句を忘れてしまったのは、誰のせいでもありません。神の生というものは──きっと、我々が思うほど長くはない。同時に、我々が思うより遙かに長いのです、きっと」
「そう……かもしれません」
エミリアはこう伝えようとしている。
陽神は死ぬべくして死に──教えは生き続けるのだ、と。
それを認めるのは、他ならぬ自分が認めてしまうのは、許されないことなのではないかと思っていた。しかしその迷いが、マタルをも苦しめてしまうのであれば……断ち切らなければならない。いまここで。
「レディ・ホーウッド」ホラスは言った。「ありがとう」
エミリアは驚きに目を丸くした。「いいえ、わたしは何も──」
「あなたの言葉に、〈アラニ〉たちが心を開いた理由がよくわかる。あなたの言葉は希望だ」
すると、彼女はわずかに頬を赤らめた。
「そう……であれば嬉しいです。他の方たちには、気休めだ、夢物語だと言われることの方が多いものですから」
「いつか、彼らも気付くでしょう」ホラスは言った。
三人は、しばらくのあいだ押し黙ったまま中庭を歩いた。
「サーリヤ殿とサムウェル殿は、カルタニアへ発たれるのですね」エミリアが言った。
「ええ、そうです」マタルが頷いた。「ようやく、自分のしたことの責任を取れる」
すると、彼女は立ち止まり、二人を見つめた。
「ひともナドカも、ちっぽけな存在です」彼女は言った。「たったひとりで神を殺すことも、たったひとりで世界を背負うこともできません。けれど、風穴を開けることはできるのでしょう。どうか風穴を開けてください。後のことは……きっと、なるようになる。神がおられようと、おられまいと。わたしはそう思います」
マタルの表情が、少しだけ変わった。
「ありがとう」彼はいい、エミリアに手を差し出した。
エミリアはその手を握った。
「ご武運を。わたしも、ダイラに風穴を開けられるように頑張ってみます」
エミリアとの会話は、マタルに変化を及ぼした。
思い詰めたような瞳に輝きが戻り、少しばかり背が高くなったようにさえ見えた。破れかぶれの大胆さではなく、堂々たる自信を身に纏った彼の周囲には、目には映らぬ光が溢れているようだった。遠ざかるエミリアの背中を──彼女が乗った船の帆を、彼は港に立っていつまでも見つめていた。
ホラスは言った。
「本当に、カルタニアにいくつもりか?」
マタルはしっかりと頷いた。「ああ、行くよ」
彼はホラスをふり返った。
「俺はあの化け物級のヴェルギルの次に大きな戦力なんだ。オレがついて行かなかったら勝ち目はない」
わかっている。けれど、尋ねておかねばならないのだ。
「償うためか?」
マタルはうつむき、少しだけ迷う素振りを見せた。
「前は──そう思ってた。いまは違う。いまは、俺ならやれると思うから行く。俺なら止められる。風穴をあけてやれる」そして、彼はホラスを見上げて、ニヤリと笑った。「あなたもそう思うでしょ」
「ああ」ホラスも微笑んだ。
マタルは、満足げな表情を浮かべた。
「この戦いが終わったら旅がしたいな。沢山のものを見てみたいよ──今度は、あなたと一緒に」
「俺も、そうしたいと思っていた」ホラスは言った。
マタルは嬉しそうに笑った。そしてホラスの掌を持ち上げると、薬指で十字を描いた。それは、アシュモールで行われる誓いの作法だ。
「約束。二度と離ればなれにならない」
ホラスもマタルの手を取って、同じ誓いを返した。
「約束だ」
そして二人は、約束を刻んだ手と手を繋いで、城への道を戻った。
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