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 エイル エリマス 
 
「俺の役目は終わった」トムソンは言った。「お前もだろ。やっとデンズウィックに帰れるんだ。マクヒューがなんと言おうが、俺たちは十分すぎるほど仕事した」 
「ああ……」 
 キャッスリーとトムソンは、オロッカの共としてエイルを訪れていた。このエイルの城で、同盟国の長たちが重要な話し合いを行うことになっているのだ。 
 教王崩御の報は世界を駆け巡った。来るべき訃報ではあった。だがそれでも、多くのものにとっては衝撃だった。その衝撃の中で、エイルの双王から届いた招待はどこか不吉で、重々しい予感を抱かせた。 
 エイルに到着した翌日、オロッカから暇をもらった二人は、港にある酒場に繰り出した。 
 ダイラの巷ではエイルという国がどれほど奇異で怖ろしい場所なのかという噂が蔓延していた。鼠であふれかえる不潔な通りを巨人が歩き、道は穴ぼこだらけで、人狼たちがそこら中で片足をあげて用を足し、酒場では吸血鬼たちが人間をなぶって遊んでいる……噂は噂だから、あたっているのは半分程度だろうと思っていた。 
 実際には、あたっているどころか、かすりもしていない。港に船が近づいた瞬間に、それはわかった。 
 街にはナドカはもちろん人間も居た。みなくつろぎ、互いに反目することもなく当たり前に会話をしている。 
 その光景を見て初めて、キャッスリーは、自分の祖国がいつの間にか変わってしまっていたことを思い知らされた。 
 昨今のダイラの──特に田舎の方では、人とナドカの間に妙な緊張感がある。以前は警戒の眼差しを向けられただけで済んでいたのに、この頃ははっきりと敵意を感じる。聖堂を失った神官たちが宣教師として辻に立ち、ナドカの脅威を触れ回るようになってから、状況はさらに剣呑になった。目新しい情報が滅多に届かない地方の村落では、都会から来た宣教師の言葉は限りなく真実に近いものとして受け入れられるものだ。 
 吸血鬼の中では出来損ないの部類に入るキャッスリーも、ひとたびデンズウィックの市壁の外に出れば、人びとから白い目で見られた。そしていつしか、そういうことにも慣れてしまっていた。だからこそ、エイルで刺々しい視線を浴びることもなく過ごすのは……新鮮な気分だった。 
 酒場の奥では、人狼と魔女が同じ席について食事をし、給仕をしている人間と楽しげに会話していた。酒場の主人は青い肌のデーモンで、人間の外見を装うことさえしていない。 
 この国を作り上げたのが、あのヴェルギルとクヴァルドなのだと考えるのは──彼らに対して恐怖以外の感情を抱いたことがない身としては──少しばかり難しい。 
 それでも、エイルがナドカたちの楽土だと言われる理由はよくわかる。陽神教が目の敵にする理由も。 
「おい、聞いてるのか?」 
 気付くと、トムソンがキャッスリーの顔を覗き込んでいた。 
「聞いてない。何だ?」 
 トムソンはため息をついた。 
「だから、こう言ったんだって。女王と一緒に、まず間違いなくマクヒューも来る。もう辞めますと一言いってずらかろう、って」 
「そうだな……」 
 キャッスリーの煮え切らない態度に、トムソンは眉を顰めた。 
「まさか、帰りたくないのか?」 
 ああ、とも、いいやとも言えなかった。 
 はやくデンズウィックに帰って、慣れ親しんだ生活に戻りたいと思う気持ちは確かにある。だが、帰ってどうなるという気持ちもある。自分の脚本がデンズウィックの劇団に受け入れてもらえないのはわかりきっているのだから。 
 それに……正直に言えば、心残りがある。 
「お前もオロッカと話をしただろ」キャッスリーは言った。 
「ああ、したよ」 
「何か感じなかったか?」 
 トムソンは顔をしかめた。「何かって?」 
「何というか……『物語』が目の前にあるって感じだよ。続きが気になって仕方ない」 
 キャッスリーは肩をすくめた。やはり、何かを口に出して説明するのは苦手だ。だが、トムソンは理解してくれたようだった。 
「お前は骨の髄まで物書きだな」ため息をついて、首を振る。「俺のせいでこんな面倒に巻き込まれたんだってこと、ちゃんと理解してるんだろうな?」 
「当たり前だろ」キャッスリーはムッとして言った。 
「なら、これ以上のめり込むのはやめとけ。お前がどうしようと、俺はデンズウィックに帰る」そして、彼は言った。「そもそも、『続き』なんかないだろ。オロッカは総督になって、ヴェルギルも復活して、三国が仲良しこよしで手を取り合って、めでたしめでたしだ」 
 キャッスリーは哀れむような目でトムソンを見た。 
「なら、どうしてその仲良しこよしの三国の長たちがわざわざエイルに集まるんだ? 何で今?」 
「さあな。教王の墓に向かって乾杯でもするんじゃないか」 
 やれやれと首を振る。「そんなこと、信じてないくせに」 
「わかったよ。正直に言う」トムソンは言った。「戦争のにおいがする。だから、これ以上巻き込まれる前にさっさとずらかりたいんだ」 
「危ない真似をするのが好きなんだと思ってた」 
「ああ、好きだよ。でも、それは儲かるからだ。戦で活躍したって手に入るのは名誉だけだろ。そんなもんに用はない」 
 オロッカの傍にいたせいで、キャッスリーには、トムソンの言い分が一層軽薄に聞こえた。 
 深々とため息をつく。 
「わかったよ。好きにすれば良いだろ」キャッスリーは言った。「俺はもう少し、オロッカの傍にいる。彼かマクヒューにお役御免だと言われるまでな」 
 すると、トムソンはいつになく真面目な表情で言った。 
「なあ、お前は物書きなんだぞ。それを忘れるなよ」 
「言われなくたってわかってる」キャッスリーは噛みついた。「だが、もう誰にも求められてない」 
 すると、トムソンは言った。 
「俺が求めてる」 
 虚を突かれて、キャッスリーは言葉もないまま、ただ瞬きをした。 
「お前の言葉は最高だ。王都の馬鹿どもだって、じきにそれを思い出す。だから、みっともなくいじけて、他に生きがいを探そうとするのはやめろ」 
 褒められているのか、貶されているのかわからない。けれど……。 
「お前に求められたってしょうがない。干されてるのは一緒だろ」 
「ま、そうだな」トムソンはニヤリと笑って、酒を飲んだ。「なあ、お前が本気で残るなら、その前に頼みたいことがあるんだが……」 
 キャッスリーはじろりと、トムソンを睨んだ。 
「吸血鬼にしろって話なら、駄目だ」 
「何でだよ! 今生の別れになるかも知れないんだぜ」 
 縁起でもないことを言いやがって。 
「今生の別れになんかならないし、お前の頼みを聞く気もない」 
「いいのか? 最後にたらふく血を飲ませてやろうと思ったのに」 
 それは……魅力的な申し出だった。 
 だが、キャッスリーは首を振った。 
「気をつけて帰れよ」 
 トムソンは、笑みの欠片のような輝きを目に宿して、言った。 
「俺が恋しくなるぞ」 
 そんなことは、言われなくてもわかってる。 
 キャッスリーは言った。 
「なるわけないだろ」 
 
 会談はエリマス城ではなく、エリマスからそう遠くない森の中にある大学で行われた。創立から五年も経っていないにもかかわらず、大学にはすでに七つもの学寮があり、何処を見ても生徒や教授、研究者たちで賑わっている。広大な敷地の中心には広々とした中庭があり、ちょうど中心の辺りに、小さな石碑がおかれていた。 
 どうやら歌碑らしい。ほとんど消えかけていたが、こんな詩が刻まれていた。 
 
  人狼ウルフハマは 血と帰属によりて成る 
  狼皮まとひて 遠吠えはかさねの響き 
   
  魔法使いウィザード魔女ウィッチは 契約と継承によりて成る 
  山河風雲を 操るべし 
   
  魔術師メイジは 探求と修練によりて成る 
  貪婪たるまなじり 理を明らめむ 
   
  鬼人デーモンは 神性と落魄によりて成る 
  失はれにける 敬神の遺児 
   
  妖精シーは 月影と畏怖によりて成る 
  隈処くまどより なれを招かん 
   
  吸血鬼コルプ・ギャラハは 死と復活によりて成る 
  る星霜は 眺めの末 
 
「キャッスリー君」 
 ふり返ると、そこにはマクヒューが立っていた。供の者も連れず、一人で。 
「閣下」キャッスリーは向き直って頭を下げた。 
「トムソン君のことは聞いた。残念だが、無理強いもできぬほど報いてくれたからな」そして彼は、切れ長の目をキャッスリーに据えた。「君が残ったのは意外だった」 
 なんと説明すれば良いものか。『物語』の続きが知りたいなどという話を、ダイラの国務卿にそのまま話すわけにはいかない。 
 だが、他に言いようもなかった。 
「一度幕が開けば、それが閉じるまで見届けなければ気が済みません」 
 すると、マクヒューは笑った。 
「なるほど! 幕が開けば、か。言い得て妙だ」 
 キャッスリーは小さく微笑んだ。「恐縮です、閣下」 
 彼は、キャッスリーが眺めていたものに目を留めた。 
「その石碑についての話を知っているか」 
「いいえ。何か逸話があるのですか?」 
 マクヒューは頷いた。 
「エイルを再興する際、ダイラから移されたものだと聞いている。この石の上でマウリス王とナドカたちが手を取り合い、いまの〈協定ノード〉が結ばれたという。伝説の石だ」 
 キャッスリーは目を見開いた。「この石の上で──」 
 マクヒューは目を細めてキャッスリーを見た。「目に浮かぶようだろう」 
「ええ」 
 目に浮かぶ。幾人ものナドカと古の王が、互いに手を取り合う様子が。そこは立派な城の中庭だろうか。それとも森の中の古い神殿だろうか。幾重にも重なり合う緑葉の隙間から降り注ぐ光に照らされて、彼らは厳かに誓いあったのに違いない。 
 その光景を、文字に起こしてみたくて仕方がない。 
 キャッスリーは無意識のうちに小物入れを探っていた。そこにはいつも、携帯用の筆記具がしまい込まれている。 
「君はエドニーで『書記』と呼ばれていたそうだな」 
 マクヒューの言葉に、キャッスリーはハッとした。 
「そ、そうです」 
「掘り出し物はトムソン君の方だとばかり思っていたが、君も、彼に劣らぬ逸材だ。わたしの目に狂いはなかったな」 
 キャッスリーは自分の耳を疑った。 
「そんなお褒めの言葉を頂戴するようなことをした覚えがございませんが……」 
 マクヒューは微笑み、頷いた。彼にしか知り得ないことに納得し、悦に入っているみたいに。 
「じきにわかる」彼は言った。「じきにな」 
 
 会談は、大学の広間で行われた。 
 広間の重厚な内装に圧倒されかけたのも束の間、さらに驚かされたのは、巨大な円卓の中央に設えられた浮球儀ふきゅうぎだ。それは今までに見たことのない形のものだった。船でよく見る、四角い箱にのぞき窓がついた代物ではない。精緻な彫刻と彩色が施された浮球儀が、継ぎ目のない球形の硝子容器におさまっているのだ。大の大人が三人は乗れるほど大きな球体の上半分が円卓に突き出た形になっている。これなら、席についた全員からよく見えるだろう。 
 あらためて広間を見回して、キャッスリーは息を呑んだ。色とりどりの光を放つ〈魔女の灯明〉や、壁に掛けられた〈ケラニの目〉、部屋の四隅に立つ甲冑の置物にも、何らかの魔力が秘められている気配がある。至る所に飾られている、標本と見紛うほど精巧な虫や鳥の模型も。 
「この部屋にあるものは、すべて魔道具フアラヒなのか……」 
 キャッスリーと同じように、オロッカもこの部屋に圧倒されているようだった。広間に招待された人びとの中で、初めてデンズウィックに足を踏み入れた田舎者のような顔をしているのが自分一人ではないことに、キャッスリーはかなり慰められた。 
 あとでトムソンにも話して聞かせてやろうと思いかけて、彼はもうここにはいないのだと思い出す。作家にあるまじき事ながら、どうにも言葉にできない想いが、絡まり合った毛糸のように胸に残っていた。けれどキャッスリーは、それを脇に置いて自分の仕事に目を向けた。 
 集まったのは、実に錚々たる顔ぶれだった。 
 エイルに並び立つ二人の王、シルリクとフィランはもちろん、名実ともに彼らの盟友であるダイラのエレノア女王、そして旧アルバ領をあずかるオロッカ。さらにエイルの枢密院からは、国務秘書のリオーダン。大学の学長を務め、文部もんぶ卿を兼任するソーンヒル。長い伝統を有する〈青銅エレウス学会サークル〉の賢者にして魔術技術卿のワンジク。名家出身の魔女にして陸軍の長アベラール。それに、悪名高い〈浪吼団カルホウニ〉の船長にして海軍卿のシーゲレが列席している。マリシュナ号の〈鮫喰らい〉との異名を持つフーヴァル・ゴーラムの隣には、賜姓降下しせいこうかしたエレノア女王の兄、スカイワードもいた。 
 彼らの隣に座っているのは、見覚えのないアシュモール人だ。この場に居てもおかしくない者の名前がひとつ思い浮かんだ。大禍殃マグナ・マルムを引き起こしたマタル・サーリヤだ。彼とエイルの繋がりはよく知られている。怖ろしい力を持つ魔女だと言われているが、キャッスリーにはそんな風には見えなかった。彼は隣に座る白髪の男に、常に気遣うような目を向けていた。男の左手は義手だった。本物の手のように動いているのだから、魔道具フアラヒであるのは間違いない。彼は彼で、隣の席のアシュモール人を安心させるように微笑んでいた。 
 予想外だったのは、ここで〈クラン〉の人狼を目にしたことだ。だが、よくよく考えてみれば驚くにはあたらない。フィラン王──通称黄昏の狼クヴァルド・ウルヴは、元々は〈クラン〉に所属していたのだから。ヒルダ・フィンガルと、彼女の側近ナグリ・ノルデンは、フィラン王と親しげに言葉を交わしていた。 
 その他に、名前を知らない魔女がいた。まだ若く、少女と言ってもいい歳のように見えるが、どこか侵しがたい雰囲気を纏っている。それとは対照的に、彼女の隣には実に魔女らしい威厳を備えた老女と──コナル・モルニの副官だったイーリィが座っていた。となると、少女と老女の素性も推測できる。類い希なる力で〈アラニ〉の新たな指導者になった、エミリア・ホーウッドと、その師であるブリジット・ゴドフリーだ。 
 キャッスリーには、オロッカとマクヒューに挟まれる席が用意されていた。一介の書記に許される待遇ではない。にもかかわらず、キャッスリーはここにいた。 
 はじめて書記としての仕事をした、あのエドニー城での会談を思い出す。 
 あれからずいぶんと遠くまでやって来た。 
 全員が席についたのを見計らって、自己紹介が行われた。列席者の名前はキャッスリーの推測通りだった。 
 そして、ヴェルギルが第一声を発した。 
「遠くより足を運んでいただき、心より感謝する」彼は全員の顔を見回して、微笑んだ。「長きに亘る戦は終結した。別離の時も終わり、もうじき春がやってくる。ここは、皆の再会を祝して杯を干したいところだが……真に遺憾ながら、そういうわけにもいかぬ」 
 控えめな笑みが、皆の口元に浮かんだ。 
「いま、世界はひとつの点に向かって渦を捲いている──というのは、我が知己の言葉だ」ヴェルギルは言った。「それをひしひしと感じておられるからこそ、ここにお集まりいただけたのであろうと思う」 
 それから彼は、ここ数年の間に起こった事件をいくつか並べた。それはエダルトの死とエイルの復活からはじまった。アシュモールにおける陽神デイナの滅びと曙神アシュタハの蘇り、そして貴金とうがねが力を失ったことにも触れた。ヴァスタリアのピトゥークにある人狼の居留地で剣神スヴァールクの宝剣ハドケルが目覚めたことや、マイデンの包囲戦から街を救った海神マルドーホの奇跡について語り、ベイルズの西端レイヴンヴェイルの〈集会コヴン〉で、月神ヘカの祭壇が一夜にして成長したイチイの巨木に飲み込まれた話もした。 
 彼が地名を挙げる度、円卓の中央にある浮球儀の上には赤い光が灯った。 
 さらに彼は、ここのところ頻発する地震や、万神宮パンテオンの上空に突如現れた極光の話をした。渡り鳥は彷徨い、行き先をたがえて凍え死んだ。泉が沸き立ち、魚たちが死に絶えた。地面から毒が湧きだし、森そのものが枯れ果てた。風は狂い、気候も時をあやまつ有様だ。例年ならば全てが雪と氷に覆われる七竈ななかまどの月になっても、多くの場所では霜の気配さえ見られなかった。 
 そして王は、無数の赤い点に囲まれた場所を指さした。 
「世界はひとつの点に向かって渦を捲いている。その渦の中心が、カルタニアだ」彼は言った。「ここで、新しい神が誕生しようとしている」 
 初めのうちキャッスリーは、なんて途方もない、馬鹿げた話なんだと思った。思おうとした。だが、この場を満たす空気がそれを許さなかった。 
 ここにいる者たちはみな、シルリク王を信じているのだ。 
「新たな神……それはどのように生まれるものなのでしょう」エレノアが口を開いた。 
「それを説明する前に、貴銀しろがねうからという存在についてお話せねば」ヴェルギルは言った。「貴銀しろがねうから、あるいは白銀の民と呼ばれるものたちは、古来から精霊に力を与え、神へと育て上げる力を持つものたちでした。あなたの兄君も、そのひとり」 
 ゲラードが頷いた。 
「カルタニアの次期教王と目されているエヴラルド・モンティーニ枢司卿すうしきょうもまた、その古き血を受け継いでいます」ゲラードは言った。「彼はいま、神になろうとしている精霊と、深く……結び合っている」 
 ホラスが、彼の言葉を引き継いだ。 
「この世には、古き混沌の世の名残を留める『はざまの領域』が存在します。そこでは理というものが通用しない。過去と未来、生と死が混ざり合う場所です。神々と精霊、妖精シーたちの領域でもある。パルヴァの教王庁が聖域と定めるウテロ山も『はざまの領域』のひとつなのです。神々の胎と呼ばれるその場所で、新たな神が息づいています。その影響は、すでに現れている」 
「ここのところの天変地異も、そのせいだとおっしゃるのか」オロッカが言った。「なんと途方もない……」 
「〈はざまに立つもの〉リコヴ。こうした出来事の裏側には、常に彼がいた。彼がハミシュという依り代の身を借りて暗躍してきたことで、今日の情勢が生まれたと言っても過言ではない」 
「我々と〈アラニ〉を引き合わせたのも、その依り代でした」オロッカが言った。「ハミシュ──そう、そんな名前の青年だった」 
「ジャクィス・キャトルを尋問したところ、彼も同じ名前を口にした」マクヒューが声を上げた。「アドリエンヌと手を組んだのは、彼の仲介があったからだと認めました」 
「いったい、何故そんなことを」オロッカが呟くように言う。「方々に戦を招いて、依り代に何の得が?」 
 ゲラードが説明した。 
「情勢が不安定になれば、人々は拠り所を求めます。陽神教徒は陽神デイナを求め、異教徒たちは古の神々を求める。そうしておこる対立が、リコヴの狙いのひとつです」 
「次期教王候補のエヴラルド・モンティーニは、ハミシュの双子の兄弟です」ホラスが言った。「彼は新たな神による世界の統一を実現するため、大陸の国々に働きかけ、新生光箭軍を募っている。目標は──エイル」 
「教会が、エイルを標的にするであろうことはわかっていました」エレノアが言った。「エイルの魔道具フアラヒが広く浸透したおかげで豊作が続きました。しかし……同時にそれが、この世界の均衡を損ないはじめているのも確かです。市民が富み栄えれば、王は無用になりはてる。民は自ら学び、選び、己の手で道を切り開くようになる。血統という権利しか持たぬ王は、遅かれ早かれ引きずり下ろされるでしょう」 
「だが、教会はそれを是としない」ホラスが言った。「王の支配権の根拠となるのが、彼らに王冠を授けたであり、その代弁者たる教会だから」 
「その通り」エレノアは頷いた。「いずれ、民は支配者を必要としなくなり、国は教会を必要としなくなる。そうすれば、教会の影響力は地に落ちる。カルタニアはそれを防ぐため、エイルを狙うのでしょう。唯一無二の神とやらのもと、時代をいまのまま停滞させるために」 
「しかし……リコヴの手が教王庁にまで伸びていようとは……」マクヒューが呟いた。 
 その時、壁の止まり木に止まっていた黒い梟──の模型だと思っていたものが、不意に口を開いた。 
「新生光箭軍の規模は、いまや十五万にまで届こうとしています」梟は、言葉を失う人びとを見下ろして続けた。「帆船の数は、およそ三百。エイルとダイラを同時に攻めても、まだ余裕があるほどの大軍勢です。加えて、彼らには新たな兵器がある。大砲よりも小さく取り回しやすい、手持ちづつと呼ばれる兵器も」 
「なるほど。殲滅戦にふさわしい兵力というわけだね、アドゥオール」ゴドフリーは言った。 
「その通りよ、ブリジット」梟は答えた。 
 勝ち目はない、と皆が思ったはずだ。 
 新たな神を生み出し、その神のもとすべてをまつろわせようとするカルタニアに、抗う術などないではないか、と。 
「やはり、依り代は見つけ次第殺しておくべきだったのでは──」 
 マクヒューの言葉に、〈クラン〉のヒルダ・フィンガルが眼光を光らせた。 
「依り代に罪はない! たとえハミシュを殺しても、また別の依り代が現れるだけだ」 
「ならば、その依り代から目を離した〈クラン〉の責任を問うべきか? あなたがたは自ら子守を買って出たそうだが、一体なにをしていた?」 
 ナグリが唸った。「何も知らぬ者が、横から口を出すのは容易いわ!」 
「いまそんな話をしたって意味はないだろう!」 
 広間は騒然となった。 
「彼──リコヴの狙いは、いったい何なのですか」白金の髪の魔女、エミリア・ホーウッドが言った。「わたしには、ただ混乱を引き起こそうとしているようにしか思えません。こうした混乱が……戦が、新しい神の誕生にどう関わってくるのでしょう」 
「深く関わっている」ゲラードが言った。「この混乱の中、リコヴは古い神々に力を与えている。世が乱れれば、ひとは拠り所を求める──神々の復権にはうってつけの状況だ。そうして力を取り戻したいにしえの神々を、彼は新しい神への供物とするつもりなのです。」 
「戦はさておき、それは……見方を変えれば、歓迎すべきこととは言えないでしょうか」エミリアは言った。「混沌を捧げれば、秩序が与えられる。陽神デイナという支えを失いつつある人びとにとっては、新たな神こそ希望となるのでは……? わたしたちがそれを受け入れさえすれば、戦も起こらない。そうではありませんか?」 
「エイルに、降伏しろと?」クヴァルドが言った。 
「歩み寄るという選択肢はないのでしょうか」エミリアは臆せずに言った。 
 いつのまにか、広間は静まりかえっていた。 
「わたしは、ハミシュという少年と話をしました。彼はとても優しい少年で……彼がしたことは、邪神の所業には見えませんでした」 
「陸地のただ中に海を出現させ、数千の兵士を溺れ死なせることがか」マクヒューは鋭く問いただした。「このままリコヴの思惑通りに事が進めば、ダイラもエイルも海の藻屑と成り果てるかも知れないのだ。歩み寄ったところで、何の意味もない」 
「そうでしたね」エミリアは僅かに躊躇った後、こうも言った。「確かに……彼は『罠だ』と言いました。しかしそれでも、ハミシュの中にあったのは善意だったのです」 
 縋るような響きに、皆、なにも言えなくなってしまった。 
「そうだろうな」ヴェルギルは、飾らぬ声で言った。「ハミシュに悪意はない。そして、神がなすことの善悪や結果を断言できる者もいない。新たな神が君臨すれば、自由を謳歌しながら生き、平和のうちに死ぬ──そんな世界が訪れるのやもしれぬ。あるいは、とり返しのつかぬほど荒廃した世界へとひたすらに転げ落ちてゆく事になるのかも知れぬ。いずれにせよ、いま生きる者がその日を見ることはないだろう」 
 そして、彼は語った。他ならぬリコヴが生まれた時、世界に何が起こったのかを。 
「リコヴの誕生によって、オルノアが──歴史にさえ残らぬいくつもの国々が海中に没した。彼は神を喰らって生まれ、人びとの心に嘘や欺瞞をもたらした」 
 エミリアは呟いた。「嘘や、欺瞞……」 
 広場は再び、重い沈黙に包まれた。 
「どう抗っても避けようのない運命なのかもしれぬ」ヴェルギルは深く息をした。「百歳ももとせの後の世の幸福のために、いま生きる民の命を捧げるか──あるいは、あくまで戦うか」 
「これから生まれるのは『暴く神』だと、エヴラルドは言っていた」ゲラードが言った。「どのようにして恵みを得るか、どうすればひとは赦されるのか、真理はどこにあるのか──すべてが暴かれる。知ることこそが是とされる、と」 
「それは……素晴らしいことのように思えるが」ソーンヒルはおずおずと言った。 
という言葉が、どうにも気に掛かるね」ゴドフリーが言った。「秘されているものには理由がある。それをこじ開けてしまう方法を知れば、もはや後戻りはできなくなる。ひとの貪欲には終わりがない」 
「いかにも、魔女の言い分ですな、ゴドフリー殿」ワンジクが言った。 
「そして、あんたのは魔術師の言い分だ」ゴドフリーも言い返した。「魔術師は自然の摂理が与えるものだけでは満足しない。自然を挑発し、こじ開けて、手管で以てそこから何かを引きずり出そうとする。もう長いこと、魔術師ばかりがもてはやされてきた。何処の国でもそうさ」 
「ご不満をお持ちなのはわかるが──」 
「ご不満なんてとんでもない」ゴドフリーはおどけて見せた。「魔術師のすることは、知識を掘り出し、広めることだ。あんたらには慎みってものがまるでない。人間たちの間にさえ、秘密をひろめてしまう。炎薬がどうなったか見るがいいさ」 
 反論しかけたワンジクを制して、彼女は言った。 
「あたしが言いたいのはね、世界はすでに、その新しい神とやらを受け入れているように見えるってことさ」 
「確かに、そうかも知れません」ゲラードは言った。「もしかしたら、それが『世界』の望みなのかも」 
「だからって、このまま何もしないで指をくわえて見てろってのか? さんざっぱら苦労して何とか立て直した俺たちの国が海の底に沈んで腐っちまうのを、船の上でのんきに眺めてろって?」フーヴァルは声を荒らげた。「俺はそんなのは御免だ。一人でだって止めてやる」 
「先走るのはよせ、ゴーラム」アベラールが釘を刺す。「我々だって、手をこまねいて待ちたいわけではない」 
「様々な意見があるのはわかる」クヴァルドが言った。「様々な立場があり、その立場に立って決めねばならないということも理解しているつもりだ。だから、あえてわたしの意見を言わせてもらう」 
 広間に居る全員が、クヴァルドを見た。 
「俺は……王だ。この命に替えても、エイルとそこに住むものたちを守り抜くと誓い、そのための力を授かった。そして、民はそんな我々を信頼している。その信頼を背負っておきながら、迫る脅威に立ち向かうこともなく、ただ待つつもりはない」 
 彼は、ヴェルギルと視線を交わした。 
「そうだな。百年後の者たちに愚王と罵られようと、我々は、我々のなすべき事をするまでだ」 
 ヴェルギルが言った。 
「わたしは、いま生きる者の命を選ぶ。それが百年後の命に通ずると信じる故に。そしてわたしは、いまある希望を繋ぐことを選ぶ。それが百年後の世に花開くと信じる故にだ。百年後の秩序や、真理や、富というものが、何かを滅ぼして生まれてくる神によってもたらされるのであれば……わたしは違う未来を選びたい」 
 ヴェルギルとクヴァルドは、互いの目を見て小さくうなずき合った。 
「エイルは、新たな神の誕生を阻止する」彼は居並ぶ者たちを見回した。「たとえ、それが勝ち目のない戦いであろうと」 
「ダイラは、それを支持します」エレノアが言った。 
「陛下──!」 
 異を唱えかけたマクヒューを目で黙らせて、彼女は続けた。 
「これはエイルだけの問題ではないのです。未曾有の大飢饉を民が生き延びたのは、エイルの魔道具フアラヒがあったればこそ。エイルを失い、カルタニアによる支配が強まれば、民は再び、天の機嫌や王の気まぐれに左右される世界に生きることになる。それは、私の望む未来でもありません。わかりましたか?」 
 マクヒューは大きく息をついた。「御意に」 
「とは言え、今カルタニアに兵を出せばベイルズに背後をとられるでしょう。幸いにして、アルバと〈アラニ〉はわが友となってくれました。やりようはあります。ベイルズを説得する時間は、あとどれほど残っているでしょうか」 
 ホラスが口を開いた。 
「教王エドモンが崩御したいま、全世界が喪に服すための『空座期くうざき』がひと月続きます。世界中の神官がパルヴァを訪れ、教王の葬儀に参列する。そこから、様々な儀式を経て教王の選定が始まります。おそらくふた月ほど後でしょう」 
「ふた月……」 
「そしてもし、エヴラルド・モンティーニが新たな教王となれば、彼は戴冠の儀式でウテロ山中にある聖域に立ち入ります」 
「神々の胎と呼ばれる場所が、ウテロ山の奥深くにある」クヴァルドが言った。「新たな神が誕生するのは、エヴラルドがそこに辿り着いたときだろう」 
「たったふた月か」オロッカが呟いた。 
「新生光箭軍が、エイルに総攻撃を仕掛けてくるのもその頃……ってことになるだろうな」フーヴァルが言った。 
 皆の間に、重い空気が垂れ込める。 
「軍備を整えつつ、カルタニアに兵を送って、エヴラルドの教王就任を阻止するなどという離れ業を行うなど……とても現実的ではありません」マクヒューが言った。 
「このエイルとて、十五万もの光箭軍に太刀打ちするのは無理だ」アベラールが言った。「ましてや、大陸への派兵など……」 
 イルヴァが頷いた。 
「エイルには沢山の島がある。どれかひとつでも獲られて足がかりにされたら、そこから総崩れになるかもしれない。防衛だけで手一杯だ」 
 すると、ヴェルギルが言った。 
「ならば、方法はひとつ──国の防衛に兵を残して、少数精鋭で乗り込む」 
 それ以外に採れる方法がないことは、皆気付いていた。だが、口に出す者は居なかった。ヴェルギルを除いては。 
「エヴラルドが神々の胎に至るのを阻止できれば、天変地異の到来は防げるだろう」 
 マクヒューが言った。「教王庁に、暗殺者でも送り込むと仰るのか」 
 さて、とヴェルギルは言った。「誰を送るかについては思案のしどころだが、大綱は、そうだな」 
「わたくしも、わたくしにできることをいたしましょう」エレノアは言った。「ベイルズを平定するために兵を出します」 
 オロッカが手をあげた。「陛下、それでは……光箭軍に攻め入る口実を与えるようなものです」 
「口火を切ることで、矛先を分散させようとなさっているのですか?」 
 マクヒューの言葉に、エレノアは頷いた。 
「カルタニアにとって、ベイルズの陽神教勢力は大事な苗です。王位を継ぐ者の正当性という面においても、権力の移譲を速やかに行わせるためにも、是が非でもリカルドを守ろうとするはず。ベイルズは我々にとっては目の上の瘤ですが、彼らにとっても弱みに他ならない。何も教王の即位まで待ってさしあげる必要もない。準備が整う前に動かざるを得ないように仕向けるのです」 
「国を元手に賭けをするおつもりか……」 
「賭けはひとりで行うもの。勝算があり、仲間が居るのであれば、それは……ぺてんとでも言うべきでしょう、アラステア」エレノアは小さく微笑んだ。「そうではありませんか。アベラール殿、シーゲレ殿」 
「我が国単独での防衛となると兵力の不足は否めませんが、敵勢力を二分できるのでしたら──」アベラールが言った。 
「エイルやイムラヴの群島は、軍勢を隠すのに向いてる」シーゲレが言った。「北部叛乱軍レバルズがファーナムを潰したときみたいに戦うなら、うちらにも勝ち目はあるよ、たぶん」 
「アルバはもはや叛乱軍を必要としない。ならば、なすべき事はひとつ──我らの女王のために戦いを続けることです」オロッカが言った。「アルバも、この戦いに加わりましょう」 
「〈アラニ〉も協力を惜しみません」エミリアは言った。「ダイラに蔓延したナドカへの敵意を払拭するためにも」 
 彼女の隣に座るゴドフリーも頷いた。そして、その時まで黙りこくっていたイーリィが口を開いた。 
「いま立たねば、我々の過ちを正す機会は二度と訪れないだろう」イーリィは、その言葉を噛みしめるように、しばし口をつぐんだ。「離反した仲間にも、わたしから説得してみよう」 
「我らの〈集会コヴン〉もだ」ゴドフリーが言った。「あんたのところもそうだろう、アドゥオール?」 
 話しかけられた梟は厳かに頷いた。「もちろんですわ、ブリジット」 
 ヒルダ・フィンガルが声を上げた。 
「我々の〈クラン〉は風前の灯火だ。それでも、群れに大地を踏みしめる脚がある限り、戦おう」 
「カルタニアに殴り込むってんなら、速い足が必要だな。マリシュナより早い船はねえ」フーヴァルが言った。「誰を乗せるにしても、俺たちに任しとけ」 
「僕たちは硲の世界に行って、帰ってきた。僕には他の人には見えないものを見るための目もある」ゲラードは言った。「僕らを、カルタニアへの潜入に加えてください」 
「ならばわたしも」ホラスが声を上げた。「教王庁の内側を知っている。必ずお役に立ちます」 
 ヴェルギルはホラスを見た。 
「しかし、君の身体が耐えられるだろうか」 
「俺が彼を助けます」マタルが言った。「ホラスの知識は絶対に必要だ。俺も、彼が居てくれれば普段以上に戦える」 
 ヴェルギルとクヴァルドが、目と目で短く会話をする。 
 ややあって、クヴァルドが言った。 
「よくわかった。皆の申し出に心から感謝する」 
 マクヒューは深々とため息をついた。 
「残りふた月の間に、なすべき事をするほかありませんな」 
「その通り」ヴェルギルは言った。 
 ほんの少し前まで、この部屋に垂れ込めていた絶望感や閉塞感が、別のものに変わるのを、キャッスリーは感じていた。迷いは消え、いま、覚悟のかがり火が産声を上げつつある。 
 それを希望と呼ぶには、あまりにも……愚かかもしれない。トムソンなら、「おめでたい」とでも言うかもしれない。十五万の兵をかいくぐって敵の本拠地に乗り込み、この遠大な企みの元凶を叩くだなんて。無謀で、そして悲壮だ。だが、キャッスリーの頭の中には、ヴェルギルが語った言葉が谺していた。 
 わたしは、いまある希望を繋ぐことを選ぶ。それが百年後の世に花開くと信ずるが故に。 
 いまある希望を、繋ぐ。 
 そのために戦うことを、ここに居る全員が選択したのだ。 
 厳かに、ヴェルギルが言った。 
みなに、神々の加護があらんことを」 
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