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ダイラ スキャリー島
マタルは岸壁から、五隻の船が入り江を離れるのを見つめていた。
彼らの行く手にはダイラ本島がある。よく晴れた空の下、陸地の青い影がくっきりと見えていた。
船が十分沖に出てから行動を起こすことにした。そうすれば、騒ぎを聞きつけた〈アラニ〉たちが島で暴れ出すことはない。上陸先に仲間が居るのは間違いないから、あちらの岸からの援護を受けるまえに決着をつけなくてはならない。
マタルは、船影が充分に小さくなるのを待ってから、空に飛び立った。
その五隻は、カルタニアの黒い船に比べればずいぶんお粗末だった。ボロ舟と言ってもいい。あれなら、なんとかなりそうだ。
船を足止めする効率的なやり方については、ヘインズの魔法で実践済みだ。雷を落としてもいいが、いきなり嵐を呼んだのでは、対岸からこちらに気付かれる危険が増してしまう。目立たず、だが迅速に、この五隻の船を沈めなくてはならない。
船を襲うことにかけて、これほど短い間に経験を積むことになるとは。俺も案外海賊に向いているかもしれない。
冗談はともかく。
前の戦いではホラスを危険にさらしたが、今度は一人だ。それが自分を無謀な戦いへ駆り立てることになるのかもしれない。償う事への義務感があるせいで、義憤を抱きやすくなっている。拘りすぎているのは自分でもわかった。それが、時に目を曇らせることも。
それでも求められたなら、死力を尽くして、為すべきことをしたい。そうして生きてきたひとの面影が、記憶の奥底に眠っているのを感じるから。
マタルは雲の中に身を隠しながら、幼い頃にサーリヤの商隊でうけた訓練を思い出そうとした。オアシスの泉を枯らしてしまう棗椰子の木を、内側から燃やす訓練だ。
あの時は何度も失敗して、その度に姉に慰めてもらった。今は、目を閉じたり、変に力んだりすることもなくやってのけることができる。
この記憶が失われずに済んで、よかった。
船が雲の切れ目の真下に来るのを待って、マタルは降下した。太陽を背にしていれば、海上からはこちらの姿が見えないはずだ。音も無く滑空し、船の死角──主檣の真上の上空を飛んだ。思った通り、誰にも気付かれていない。
炎よ。生まれ出でろ。
マタルが念じると、主檣の内部に熱が生じた。熱の固まりから一匹の炎の蛇を孵化させる。炎の蛇は、うねり、のたうちながら、主檣の頂点に届き──いや。
目を開いた瞬間、マタルめがけて銀の矢が飛んできた。空中で身を翻すと、それはひゅうと音を立てて太陽の方角へ吸い込まれていった。間一髪で避けた。だが、心臓が痛いほど脈打っていた。
マタルは再び上昇し、雲の中に隠れた。それと同時に、船の上で警鐘が鳴らされるのが聞こえた。
何度しくじったら気が済むんだ、馬鹿!
自分を一喝して、気を取り直す。
あの主檣には、魔法よけの魔法が施されていた。そのせいで気付かれたのだ。
つまり──〈アラニ〉は、同じナドカと戦うことも想定していたというわけだ。全てを敵に回してでも、思い知らせる。そういうことか。
マタルは胸が膨らむほど深く息を吸って、吐いた。
あの魔狼たちには、平穏に生きる機会を残しておいてやれたらと思っていた。ひとの手によって生み出された兵器とは言え、誰かに危害を加えさえしなければ、普通の獣と変わりはないのだから。
だが、こうなってしまったら、もう、最小限の被害で片をつけるのは無理だ。
やるしかない。
マタルは両手で、自分の頬を張った。
降下する一瞬前、マタルは静かに思った。
ホラスにしたあの口づけは……自分でも気付いていなかったお別れだったのかもしれない。記憶を失う前にも、俺は同じ事をしていたのかもしれない。
マタルは、我知らず微笑んだ。
もしこれがうまくいったら、その時は、何もかも気付かぬふりをして、目を覚ました彼にもう一度キスしてみよう。
もし、これがうまくいったら。
うまくやる。誰かのためじゃなく、自分のために。償いきれない償いを抱えていても、つまるところ、俺は魔女だから──そんな動機も必要なのだ。
マタルは目を閉じ、今までに思い描いたことのない自分の姿を想像した。薄く小さく、そして硬い、漆黒の文身を何千と重ねたものに覆われた皮膚。さらに、空中で舵を取るための長い尾。大きな翼。想像が実体を得て、自分の身体を包み込んでゆく。
竜になるのは二度とごめんだと思っていた。けれど俺以上に、この姿で自由に戦える奴もいない。
ふっと鋭く息を吐き、雲の下まで降下する。船は予想より遠くに居た。魔法で推進力を増しているのだろう。マタルの襲撃を受けて、焦っているのだ。
はやく片をつけないと。
白雲を引きちぎって身に纏うと、それは瞬く間に黒雲に変わった。小さな嵐のなかで疾雷が弾け、身体の表面を駆け巡った。
五隻の船は警戒を固めていた。甲板上には、飛び道具を手にしたものや、いつでも魔法を放てる構えの魔女や魔法使いたちが待機していた。
マタルの姿に、彼らは動揺した。
「あれは──竜!?」
「そんな、まさか──」
その隙を狙って、急降下した。
魔女の魔法は、塩水の中では降下が半減してしまう。だからあくまで、喫水線の上をねらわなければならない。船というものに予め穿たれた楔──最大の弱点は、やはり主檣だ。
マタルは主檣の先端を掴むと、思い切り羽ばたいて、それを下へと押し込んだ。ミシミシと音を立てて、船の竜骨が軋む。
あと、もう一息。
もう一度力を込めると、船が深く沈み、軋みは一層大きくなった。
「何してる! 狙え! あれを射落とせ!」
無数の矢や魔法が放たれる。だが、幾重にも重ねた文身が、それを跳ね返してくれた。これならいける。
もう一回!
渾身の力で押し込むと、ついに抵抗が失われた。重く響くような音がして、主檣が沈み込み、甲板上の穴にむかって落ちてゆく。
悲鳴が上がった。
「馬鹿な! 船底が抜けただと!?」
周囲のマストや船体と繋がっている索によって引っ張られているおかげで、主檣は完全には抜けてしまわずにぶら下がっている。だが、船底に開いた穴は修復のしようがないだろう。
「射て! あいつを殺せ!」
甲板から射かけられた無数の矢を避けつつ、マタルは次の船に向かった。
次、そして次の船では、雷を使って帆の根元を折った。小さな雲から放つ稲妻は威力も小さいが、ピッチの染みこんだ索具に引火したため、その船の主檣も間もなく使い物にならなくなった。
次は四隻目──。
風が肌に染みる。攻撃に晒されたせいで、鱗はほとんど失われていた。残った鱗は身体の前面に集中させたから、背中を剥き出しにしたままで、あと二隻を沈めるしかない。
行く手には、アルバの陸地がくっきりと見えている。向こうに着くまでどれくらいの時間があるかはわからないけれど、様子を窺っていては上陸を許してしまう。
マタルは、四隻目の主檣にとりついた。途端に、矢や魔法を浴びせかけられる。
鱗は、もうもたない。
マタルはマストの頂点を掴んだ。
風を裂いて飛んでくる矢の音がして、衝撃と共に、腕に鋭い痛みが走る。
怯んでいる場合ではない。大した痛みじゃない。ホラスの怪我に比べたら!
マタルが一層力を込めると、身体が炎に包まれた。炎は主檣の根元に向かって、もの凄い勢いで駆け下りてゆく。腕に刺さった矢は燃え落ち、灰となって宙を舞った。
あと……一隻!
マタルは、悲鳴と怒号に包まれた船を後にして飛んだ。最後の船はさらに速度を上げていて、あと半刻もしないうちに岸に辿り着いてしまいそうだ。このままでは援軍が動き出しかねない。
「待て──」
マタルは掠れた声をあげて、翼を羽ばたかせた。
ひとつ羽ばたくごとに、僅かに残っていた鱗が剥がれ落ちる。均衡をとろうにもおぼつかず、翼がもつれて、まっすぐに飛べない。
船は、どんどん遠ざかってゆく。
「待て……!」
口に金気臭い味を感じた。手で拭うと、それは血だった。いつのまにか、鼻から大量の血が流れていた。
まずいと思った。思った時にはもう遅かった。目の前が昏くなり──全ての文身が消えた。
海に落ちるのが先か、気を失うのが先かはわからない。けれどいずれにしても、このままでは溺れ死ぬ。
わかっているのに、身体が動かなかった。まるで冷え固まった鉛のように、為す術もなく落下する。無常な風になぶられ、噎び泣くような音に包まれながら、マタルは思った。
やっぱりあれは、お別れの口づけだったんだ、と。
涙が頬を伝う。その熱さえ、風の中で瞬く間に奪われてしまった。
ごめん。皆──ホラス──。
次の瞬間、マタルは誰かに抱き留められた。
いや。
誰かの魔法に抱き留められたのだ。目を開けると、身体が宙に浮いているのがわかった。頭は、混乱と落下の余韻でぐるぐると回転していた。
「何……どうして……」
すると、宙に浮かんだままの身体がゆっくりと回った。横向きに滑る世界をなすすべもなく見つめていると、目の前に老人の顔が現れた。
「おやまあ! 空から男が降ってきた!」
「うわ!」
その魔女は、鼻血にまみれたマタルの顔をしげしげと覗き込むと失望を露わにした。
「なんだい。ずいぶん見苦しいね」
俺は死んだのだろうかと、マタルはほんの一瞬考えた。目の前の光景が、最後に見ていたものとあまりにも違いすぎたせいだ。
「これは……一体……?」
マタルの周囲──遠慮なく顔を覗き込んでくる魔女の背後には、氷の平原が広がっていた。どこまでも連なる波が微動だにせず凍り付いている。まるで、時間の止まった世界に居るようだ。
「海が、凍ってる……?」
でも、一体誰がこんなことを?
魔女はゆっくりと、マタルを凍った海の上に降ろした。触れてみると、確かに冷たい。幻ではない。
「あ……!」
陸地の方に目を向けると、氷の海のただ中に、さっきマタルが追いかけた船がいた。分厚い氷に閉じ込められて身動きができなくなっているようだ。船の周りでは、〈アラニ〉の船乗りと、見たことのないナドカたちが戦っていた。
俺も、加勢しないと。
「お待ち!」
起き上がりかけた肩を後ろから掴まれて、無理矢理座らされた。
振り向くと、そこには老婆と──さっきは気付かなかったが──若い娘がいた。老婆の方は、氷でつくった椅子の上に悠々と腰掛けている。美しい黒衣に、長い白髪──昔ながらのダイラの魔女といった風貌だ。少女の方は、また雰囲気が違った。色白の膚に、ほとんど白に近い金髪。凜とした顔立ちは貴族的でありながら、戦士のようでもある。
彼女はマタルをチラリと見て、小さく笑みを浮かべた。
「君、前にどこかで──」
尋ねかけて、マタルは言葉を呑んだ。そういうことは言わない方がいいと、ホラスに忠告されたのを思い出したのだ。
少女は老婆の椅子の背もたれに控えめに手を置き、戦いの様子に視線を戻した。
老婆はマタルを見下ろし、言った。
「あんたは無理をしすぎだよ。少しここで休んでおいで」
「でも……」
遠くで行われている戦いに目を向けたマタルの顔面に、魔女が何かを押しつける。
「お食べ」
マタルは老婆と、彼女が持っている濁った宝石のようなものを交互に見た。「これは……何ですか?」
「飴だよ。少しはあんたの魔力の足しになるだろうさ」
そう言われたら、食べるしかない。マタルは恐る恐る、巨大なあめ玉を口に入れた。口が閉まらないほど大きいから舐めるのには苦労したが、それは蜂蜜と、無数の薬草の味がした。
「おいしい」
すると、魔女はにっこりと笑った。「そうだろ。もっとあるから遠慮するんじゃないよ」
一刻も早くあめ玉を消費しようと舌をしきりに動かしながら、マタルは戦いに目をこらした。
どうやら魔女が言ったとおり、〈アラニ〉のほうが劣勢だ。魔女たちはよく訓練されていたし、魔法も強力だ。氷の術を使うものが多いのが見て取れた。冬場に、氷原の上で戦うなら、地の利は完全に魔女たちの方にある。
「あなた方も、〈アラニ〉を追っていたんですか?」
すると、老婆は首を振った。
「いいや。昔なじみに頼まれて、急いで来たのさ。何としても上陸させちゃならないものが近づいてるってね。こっちの岸に潜んでいた連中をちょうど片付けたところに、海の上で大立ち回りしてるあんたの姿が見えたもんだから」魔女は笑った。「あんな無茶な戦い、見たこともない。あれがアシュモールの流儀なのかい」
「そういうわけでは」マタルはきちんと座り直した。「ありがとうございます」
「なあに、ついでさね」老婆は言った。「これで真夜中の魔女にも恩を売れるってもんさ」
「真夜中の魔女? アドゥオールが、あなたに助けを──?」
その時、ずっと静かだった少女が口をひらいた。
「師匠」
彼女が指し示したのは、今まさに、〈アラニ〉の船から氷原に放たれた魔狼たちだった。沈みかけた船からわらわらと、二〇頭近い魔狼が湧いて出る。
「よし。お前の出番だね」老婆は言った。「気をつけていっておいで、エミリア」
「はい!」少女はガウンの裾を持ち上げて颯爽と走っていった。
エミリア。
確かに聞き覚えがある。雷、竜、金の編み目──バラバラの連想が頭に浮かぶが、何も繋がらない。マタルは目眩がする直前のところで二の足を踏み、記憶を探るのを諦めた。
「あの子も、魔女なんですか」マタルは尋ねた。
老婆は頷いた。
「いい家の出なんだが、魔女になりたての頃に、教会でひどい目に遭わされてね……修行がしたいと言って、うちの〈集会〉にやってきたのさ」彼女はフフンと鼻を鳴らした。「貴族出身の魔女を受け入れようって集会はなかなかない。その点うちはあの子に合ってた。あたし自身、貴族の出だ」
そう言う間にも遠ざかる少女は、白く輝く氷海の風景に消えてしまいそうなほどか細く、頼りなげに見えた。
「俺も、加勢を──」
「まあまあ、そんなに焦ることはないよ」
このお婆さんは、自分の愛弟子が獰猛な獣たちのまっただ中に飛び込もうとしているときに、どうしてこんなに悠々としていられるんだ?
半ば驚き、半ば呆れながら、マタルは老婆を見た。
すると、彼女は言った。
「あの子はね、我が〈キックリーの集会〉で一人前になったんだ。そんじょそこらの魔女とは格が違うよ。〈アラニ〉の有象無象や、奴らが操る獣では、あの子に傷一つつけられない」老婆は誇らしげに笑った。「ほら、ご覧!」
そして、マタルは見た。
小さな少女の手から迸る、金の編み目。それが、獣の群れに覆い被さった。
すると、さっきまで唸り、攻撃的に哮り立っていた魔狼たちが……静かになった。
「嘘だろ──」
マタルは思わず呟いていた。
〈アラニ〉の獣使いも、その光景に狼狽えていた。必死に呪文を叫んでは、獣たちを操ろうとする。だが何度試みても、魔狼たちが彼らに耳を傾けることはなかった。
「あの魔法は、あの子にしか使えない」
「魔力を……無効化しているように見えますが」
「その通り、あれは貴金の力さ」魔女は言った。「教会の愚か者どもが、あの子に植え付けたものだ」
その話を、知っている気がする。俺はきっと、彼女と会ったことがある。
考え込むマタルをよそに、魔女は語り続けた。
「貴金が力を失って、一度は手放さざるを得なかった。だがあの子は力を取り戻した」そして、口惜しそうに付け足した。「血の滲むような努力と、信仰を重ねてね」
獣使いは茫然自失したまま、他の魔女たちに取り押さえられた。
狼たちは従順に頭を下げてエミリアを取り囲むと、彼女の手に鼻を押しつけたり、足下で腹ばいになったりした。尾を振ってキュンキュンと鳴いているものまでいる。
「まるで、大いなる月神を見ているようだねえ」魔女はしみじみと言った。「〈聖なる雌犬〉の異名そのものだ」
まさに、その通りだった。マタルはこの光景に──彼女の姿に、神々しささえ見出していた。
「さて、事態が収拾したようだ」
老婆は言い、椅子から立ち上がった。彼女の背筋はぴんと伸びて、実に矍鑠としていた。けれど、こういった。
「ちょっとあんた。飴を食べ終えたなら、あたしをあそこまで運んでおくれ」
老婆はブリジットと言う名前だった。貴族の名門ゴドフリー家に生まれた彼女は、魔女であることを隠して生活していたのだが、あるときそれが露見して家を追われてしまったのだという。
「だからなおさら、エミリアを放っておけなくてね」マタルに抱きかかえられたまま、彼女は言った。「生い立ちや力を別にしても、あの娘は特別な子だよ。まるで、何かの使命を持ってこの世に送り出されたようだ」
「使命って……?」
「まあ、見ておいで」ブリジットは言い、マタルを突いて氷原に降ろさせた。
そこでは、彼女の言うとおり、興味深い出来事が起こっていた。
すっかり彼女に従順になった魔狼を従えて、エミリアは、魔法によって拘束された〈アラニ〉のものたちに面と向かって話をしていた。
「コナル・モルニを失ったあなた方の悲しみと失望はいかばかりか、お察しします」
魔女であるにもかかわらず、彼女は死者への短い祈りを呟き、陽神の印を切った。
「しかし、だからといって、この蛮行は許されません。あなた方は、可哀相な狼たちを使って、何をなさろうとしていたのです」
か弱い少女と見えたエミリアの横顔は、激しい怒りに燃えていた。だがそれは、彼女の個人的な怒りによる炎ではなく──もっと眩く白熱する、義憤の炎だった。
「彼らをけしかけ、抵抗する術を持たぬ人間の民を襲うのですか? 己が受けた苦しみを思い知らせる──ただそれだけのために?」
「お前にはわかるまいよ、エミリア・ホーウッド」〈アラニ〉の魔術師が言った。「そうやって方々で演説をぶっては、仲間を誑かしてきたようだな」
「差し伸べられる手を求めていたのは彼ら自身です」エミリアは少しだけ顎をあげた。「彼らは、あなたやモルニが強く凶行ではなく、正しい行いを欲していましたよ」
「正しい行いだと? 女王の手先に寝返ることがか」魔術師は吐き捨てるように言った。「いいとも、そんな連中はお前にくれてやる。だが、俺たちは──真のナドカである俺たちは、怒りがあるかぎり決して止まらん。何度頭がすげ変わろうと、この心臓が動いている限りはな」
「では、心を入れ替えるべきです」エミリアは言った。
「愚かな小娘め」魔術師は苦笑した。「我々の怒りも、悲しみも、惨めさも──お前には想像することもできない」
「そのとおりです」エミリアはきっぱりと言った。「あなたはわたくしに刃を向け、わたくしの無知に絶望しておきながら、理解を求めようというのですか? あなたが襲おうとしたものたちに対してはどうです? 狼をけしかけ、苦しみを理解せよと説得するつもりだったのですか? そのようなことが理にかなうと?」
「黙れ」
「この狼たちに襲われたものたちは、あなた方を理解しないでしょう。ただ恐怖し、憎むだけです。やがて彼らは銀の剣を掲げ、再びあなた方に向かってくる。そして、あなた方は傷つき、また牙を剥く。そうした繰り返しが、長いこと……ほんとうに長いこと、世界中で行われてきたのです」
「黙れ! 何も知らないくせに!」魔術師は言った。だが、その顔には苦し紛れの汗が滲んでいた。「これは正義なのだ。我々が行動を起こさねば、百年先のナドカに待つのは、家畜のように飼い慣らされた奴隷の身分だ!」
「憎しみはしばしば、正義の仮面をかぶるもの」エミリアは言った。「正義という言葉は、いかなる行為にも赦免を与えません。あなたの行い、そして、その結果がすべてです。あなたの成してきたことが、なにか一つでも、良い結果を生んだことがありましたか?」
厳然としたエミリアの眼差しに射貫かれ、それ以上言い返せずに、魔術師は座り込んだ。
「結果か」魔術師は言った。「結果は……散々だった」
それを認めることで、堰が切れてしまったのだろう。魔術師はほんの一瞬のうちに、何歳も歳をとったように見えた。
「俺たちはコナルに従った。だが奴は──奴は自分の復讐のことしか頭になかった。奴は俺たちを煽り、操り……ナドカの立場を前よりもっと悪くした。挙げ句、勝手に死んだ。それが結果だ」
魔術師は疲れ果てたようにため息をついて、空を見上げた。
「俺たちは、復讐に狂った男の道具にされて……またしても見捨てられたんだ。〈アラニ〉は今度こそ瓦解する。それこそが、俺たちの結果だ。何も残らない……何もな」
そして、咳き込むように笑った。
「だが、全てが終わる前に、俺たちの名前を、人間たちの記憶に刻み込むことはできる。恐怖と共に」
そう言いながら、その心中の闘志は、ほとんど消えかけているように見えた。
「マイラ・イーリィ」エミリアは膝をついた。「〈月神の雌犬たち〉の名をこれ以上汚す前に、心を入れ替えなさい」
イーリィと呼ばれた魔術師は、エミリアを見た。
「憎しみではなく、善意を信じなさい。善意を受け取るために、まず善意を与えるのです。希望をもたらし、同じものを返されるように生きましょう。ナドカであれ人間であれ、それが一番大切なことです」
「まるで聖典を聞かされているようだな」イーリィは言った。
「語る価値があるからこそ、真理は長く残るのです」
「だが、いずれは裏切られる。それもまた真理だ」
エミリアは頷いた。「裏切るものは、また別のものに裏切られ、身を滅ぼすでしょう」
「失敗から学ばないのは馬鹿だ。裏切られる前に手を打つべきなんだ」
「そのようにして、あなたがたは失敗したのです」エミリアは優しく言った。「そろそろ、別の方法を模索する頃合いですよ。剣の過ちは、盾によって償われる──聖句のとおりです。そうすればきっと、次こそはよい結果が得られるでしょう」
イーリィの目には、実に様々な感情が表れていた。
魔術師の自尊心は、なにも知らないこんな小娘に言い負かされて良いのかと声を上げていたはずだ。だがエミリアには、彼女の目を見て、声を聞いた者にしかわからない力があった。それは月の光のように弱々しくもあり、陽の光のように有無を言わせぬものでもあった。
太陽と月が、彼女の中で結び合わされている。
教会のしたことは、おぞましい罪だった。それは否定のしようがない。けれど、彼女は、彼女自身の力でそこから蘇り──自分自身の使命と、それを全うする力を手に入れた。
「日が出てきたね」ブリジットが言った。「もうしばらくここで見つめ合っていてもいいけどね。そろそろ氷が溶けてしまうよ」
エミリアはにっこりと笑って、頷いた。
「はい、師匠」そして、イーリィに手を差し伸べた。「続きは、陸でお話ししませんか。この狼たちも、お腹をすかせているでしょう」
マイラ・イーリィは、〈アラニ〉の最後の幹部だった。
イーリィがエミリアの手を取った瞬間、〈アラニ〉は復讐の道を捨てた。そしてその日以降、エミリア・ホーウッドという名の若い魔女が、〈月神の雌犬たち〉の群れを率いる〈聖なる雌犬〉となったのだった。
ダイラ スキャリー島
マタルは岸壁から、五隻の船が入り江を離れるのを見つめていた。
彼らの行く手にはダイラ本島がある。よく晴れた空の下、陸地の青い影がくっきりと見えていた。
船が十分沖に出てから行動を起こすことにした。そうすれば、騒ぎを聞きつけた〈アラニ〉たちが島で暴れ出すことはない。上陸先に仲間が居るのは間違いないから、あちらの岸からの援護を受けるまえに決着をつけなくてはならない。
マタルは、船影が充分に小さくなるのを待ってから、空に飛び立った。
その五隻は、カルタニアの黒い船に比べればずいぶんお粗末だった。ボロ舟と言ってもいい。あれなら、なんとかなりそうだ。
船を足止めする効率的なやり方については、ヘインズの魔法で実践済みだ。雷を落としてもいいが、いきなり嵐を呼んだのでは、対岸からこちらに気付かれる危険が増してしまう。目立たず、だが迅速に、この五隻の船を沈めなくてはならない。
船を襲うことにかけて、これほど短い間に経験を積むことになるとは。俺も案外海賊に向いているかもしれない。
冗談はともかく。
前の戦いではホラスを危険にさらしたが、今度は一人だ。それが自分を無謀な戦いへ駆り立てることになるのかもしれない。償う事への義務感があるせいで、義憤を抱きやすくなっている。拘りすぎているのは自分でもわかった。それが、時に目を曇らせることも。
それでも求められたなら、死力を尽くして、為すべきことをしたい。そうして生きてきたひとの面影が、記憶の奥底に眠っているのを感じるから。
マタルは雲の中に身を隠しながら、幼い頃にサーリヤの商隊でうけた訓練を思い出そうとした。オアシスの泉を枯らしてしまう棗椰子の木を、内側から燃やす訓練だ。
あの時は何度も失敗して、その度に姉に慰めてもらった。今は、目を閉じたり、変に力んだりすることもなくやってのけることができる。
この記憶が失われずに済んで、よかった。
船が雲の切れ目の真下に来るのを待って、マタルは降下した。太陽を背にしていれば、海上からはこちらの姿が見えないはずだ。音も無く滑空し、船の死角──主檣の真上の上空を飛んだ。思った通り、誰にも気付かれていない。
炎よ。生まれ出でろ。
マタルが念じると、主檣の内部に熱が生じた。熱の固まりから一匹の炎の蛇を孵化させる。炎の蛇は、うねり、のたうちながら、主檣の頂点に届き──いや。
目を開いた瞬間、マタルめがけて銀の矢が飛んできた。空中で身を翻すと、それはひゅうと音を立てて太陽の方角へ吸い込まれていった。間一髪で避けた。だが、心臓が痛いほど脈打っていた。
マタルは再び上昇し、雲の中に隠れた。それと同時に、船の上で警鐘が鳴らされるのが聞こえた。
何度しくじったら気が済むんだ、馬鹿!
自分を一喝して、気を取り直す。
あの主檣には、魔法よけの魔法が施されていた。そのせいで気付かれたのだ。
つまり──〈アラニ〉は、同じナドカと戦うことも想定していたというわけだ。全てを敵に回してでも、思い知らせる。そういうことか。
マタルは胸が膨らむほど深く息を吸って、吐いた。
あの魔狼たちには、平穏に生きる機会を残しておいてやれたらと思っていた。ひとの手によって生み出された兵器とは言え、誰かに危害を加えさえしなければ、普通の獣と変わりはないのだから。
だが、こうなってしまったら、もう、最小限の被害で片をつけるのは無理だ。
やるしかない。
マタルは両手で、自分の頬を張った。
降下する一瞬前、マタルは静かに思った。
ホラスにしたあの口づけは……自分でも気付いていなかったお別れだったのかもしれない。記憶を失う前にも、俺は同じ事をしていたのかもしれない。
マタルは、我知らず微笑んだ。
もしこれがうまくいったら、その時は、何もかも気付かぬふりをして、目を覚ました彼にもう一度キスしてみよう。
もし、これがうまくいったら。
うまくやる。誰かのためじゃなく、自分のために。償いきれない償いを抱えていても、つまるところ、俺は魔女だから──そんな動機も必要なのだ。
マタルは目を閉じ、今までに思い描いたことのない自分の姿を想像した。薄く小さく、そして硬い、漆黒の文身を何千と重ねたものに覆われた皮膚。さらに、空中で舵を取るための長い尾。大きな翼。想像が実体を得て、自分の身体を包み込んでゆく。
竜になるのは二度とごめんだと思っていた。けれど俺以上に、この姿で自由に戦える奴もいない。
ふっと鋭く息を吐き、雲の下まで降下する。船は予想より遠くに居た。魔法で推進力を増しているのだろう。マタルの襲撃を受けて、焦っているのだ。
はやく片をつけないと。
白雲を引きちぎって身に纏うと、それは瞬く間に黒雲に変わった。小さな嵐のなかで疾雷が弾け、身体の表面を駆け巡った。
五隻の船は警戒を固めていた。甲板上には、飛び道具を手にしたものや、いつでも魔法を放てる構えの魔女や魔法使いたちが待機していた。
マタルの姿に、彼らは動揺した。
「あれは──竜!?」
「そんな、まさか──」
その隙を狙って、急降下した。
魔女の魔法は、塩水の中では降下が半減してしまう。だからあくまで、喫水線の上をねらわなければならない。船というものに予め穿たれた楔──最大の弱点は、やはり主檣だ。
マタルは主檣の先端を掴むと、思い切り羽ばたいて、それを下へと押し込んだ。ミシミシと音を立てて、船の竜骨が軋む。
あと、もう一息。
もう一度力を込めると、船が深く沈み、軋みは一層大きくなった。
「何してる! 狙え! あれを射落とせ!」
無数の矢や魔法が放たれる。だが、幾重にも重ねた文身が、それを跳ね返してくれた。これならいける。
もう一回!
渾身の力で押し込むと、ついに抵抗が失われた。重く響くような音がして、主檣が沈み込み、甲板上の穴にむかって落ちてゆく。
悲鳴が上がった。
「馬鹿な! 船底が抜けただと!?」
周囲のマストや船体と繋がっている索によって引っ張られているおかげで、主檣は完全には抜けてしまわずにぶら下がっている。だが、船底に開いた穴は修復のしようがないだろう。
「射て! あいつを殺せ!」
甲板から射かけられた無数の矢を避けつつ、マタルは次の船に向かった。
次、そして次の船では、雷を使って帆の根元を折った。小さな雲から放つ稲妻は威力も小さいが、ピッチの染みこんだ索具に引火したため、その船の主檣も間もなく使い物にならなくなった。
次は四隻目──。
風が肌に染みる。攻撃に晒されたせいで、鱗はほとんど失われていた。残った鱗は身体の前面に集中させたから、背中を剥き出しにしたままで、あと二隻を沈めるしかない。
行く手には、アルバの陸地がくっきりと見えている。向こうに着くまでどれくらいの時間があるかはわからないけれど、様子を窺っていては上陸を許してしまう。
マタルは、四隻目の主檣にとりついた。途端に、矢や魔法を浴びせかけられる。
鱗は、もうもたない。
マタルはマストの頂点を掴んだ。
風を裂いて飛んでくる矢の音がして、衝撃と共に、腕に鋭い痛みが走る。
怯んでいる場合ではない。大した痛みじゃない。ホラスの怪我に比べたら!
マタルが一層力を込めると、身体が炎に包まれた。炎は主檣の根元に向かって、もの凄い勢いで駆け下りてゆく。腕に刺さった矢は燃え落ち、灰となって宙を舞った。
あと……一隻!
マタルは、悲鳴と怒号に包まれた船を後にして飛んだ。最後の船はさらに速度を上げていて、あと半刻もしないうちに岸に辿り着いてしまいそうだ。このままでは援軍が動き出しかねない。
「待て──」
マタルは掠れた声をあげて、翼を羽ばたかせた。
ひとつ羽ばたくごとに、僅かに残っていた鱗が剥がれ落ちる。均衡をとろうにもおぼつかず、翼がもつれて、まっすぐに飛べない。
船は、どんどん遠ざかってゆく。
「待て……!」
口に金気臭い味を感じた。手で拭うと、それは血だった。いつのまにか、鼻から大量の血が流れていた。
まずいと思った。思った時にはもう遅かった。目の前が昏くなり──全ての文身が消えた。
海に落ちるのが先か、気を失うのが先かはわからない。けれどいずれにしても、このままでは溺れ死ぬ。
わかっているのに、身体が動かなかった。まるで冷え固まった鉛のように、為す術もなく落下する。無常な風になぶられ、噎び泣くような音に包まれながら、マタルは思った。
やっぱりあれは、お別れの口づけだったんだ、と。
涙が頬を伝う。その熱さえ、風の中で瞬く間に奪われてしまった。
ごめん。皆──ホラス──。
次の瞬間、マタルは誰かに抱き留められた。
いや。
誰かの魔法に抱き留められたのだ。目を開けると、身体が宙に浮いているのがわかった。頭は、混乱と落下の余韻でぐるぐると回転していた。
「何……どうして……」
すると、宙に浮かんだままの身体がゆっくりと回った。横向きに滑る世界をなすすべもなく見つめていると、目の前に老人の顔が現れた。
「おやまあ! 空から男が降ってきた!」
「うわ!」
その魔女は、鼻血にまみれたマタルの顔をしげしげと覗き込むと失望を露わにした。
「なんだい。ずいぶん見苦しいね」
俺は死んだのだろうかと、マタルはほんの一瞬考えた。目の前の光景が、最後に見ていたものとあまりにも違いすぎたせいだ。
「これは……一体……?」
マタルの周囲──遠慮なく顔を覗き込んでくる魔女の背後には、氷の平原が広がっていた。どこまでも連なる波が微動だにせず凍り付いている。まるで、時間の止まった世界に居るようだ。
「海が、凍ってる……?」
でも、一体誰がこんなことを?
魔女はゆっくりと、マタルを凍った海の上に降ろした。触れてみると、確かに冷たい。幻ではない。
「あ……!」
陸地の方に目を向けると、氷の海のただ中に、さっきマタルが追いかけた船がいた。分厚い氷に閉じ込められて身動きができなくなっているようだ。船の周りでは、〈アラニ〉の船乗りと、見たことのないナドカたちが戦っていた。
俺も、加勢しないと。
「お待ち!」
起き上がりかけた肩を後ろから掴まれて、無理矢理座らされた。
振り向くと、そこには老婆と──さっきは気付かなかったが──若い娘がいた。老婆の方は、氷でつくった椅子の上に悠々と腰掛けている。美しい黒衣に、長い白髪──昔ながらのダイラの魔女といった風貌だ。少女の方は、また雰囲気が違った。色白の膚に、ほとんど白に近い金髪。凜とした顔立ちは貴族的でありながら、戦士のようでもある。
彼女はマタルをチラリと見て、小さく笑みを浮かべた。
「君、前にどこかで──」
尋ねかけて、マタルは言葉を呑んだ。そういうことは言わない方がいいと、ホラスに忠告されたのを思い出したのだ。
少女は老婆の椅子の背もたれに控えめに手を置き、戦いの様子に視線を戻した。
老婆はマタルを見下ろし、言った。
「あんたは無理をしすぎだよ。少しここで休んでおいで」
「でも……」
遠くで行われている戦いに目を向けたマタルの顔面に、魔女が何かを押しつける。
「お食べ」
マタルは老婆と、彼女が持っている濁った宝石のようなものを交互に見た。「これは……何ですか?」
「飴だよ。少しはあんたの魔力の足しになるだろうさ」
そう言われたら、食べるしかない。マタルは恐る恐る、巨大なあめ玉を口に入れた。口が閉まらないほど大きいから舐めるのには苦労したが、それは蜂蜜と、無数の薬草の味がした。
「おいしい」
すると、魔女はにっこりと笑った。「そうだろ。もっとあるから遠慮するんじゃないよ」
一刻も早くあめ玉を消費しようと舌をしきりに動かしながら、マタルは戦いに目をこらした。
どうやら魔女が言ったとおり、〈アラニ〉のほうが劣勢だ。魔女たちはよく訓練されていたし、魔法も強力だ。氷の術を使うものが多いのが見て取れた。冬場に、氷原の上で戦うなら、地の利は完全に魔女たちの方にある。
「あなた方も、〈アラニ〉を追っていたんですか?」
すると、老婆は首を振った。
「いいや。昔なじみに頼まれて、急いで来たのさ。何としても上陸させちゃならないものが近づいてるってね。こっちの岸に潜んでいた連中をちょうど片付けたところに、海の上で大立ち回りしてるあんたの姿が見えたもんだから」魔女は笑った。「あんな無茶な戦い、見たこともない。あれがアシュモールの流儀なのかい」
「そういうわけでは」マタルはきちんと座り直した。「ありがとうございます」
「なあに、ついでさね」老婆は言った。「これで真夜中の魔女にも恩を売れるってもんさ」
「真夜中の魔女? アドゥオールが、あなたに助けを──?」
その時、ずっと静かだった少女が口をひらいた。
「師匠」
彼女が指し示したのは、今まさに、〈アラニ〉の船から氷原に放たれた魔狼たちだった。沈みかけた船からわらわらと、二〇頭近い魔狼が湧いて出る。
「よし。お前の出番だね」老婆は言った。「気をつけていっておいで、エミリア」
「はい!」少女はガウンの裾を持ち上げて颯爽と走っていった。
エミリア。
確かに聞き覚えがある。雷、竜、金の編み目──バラバラの連想が頭に浮かぶが、何も繋がらない。マタルは目眩がする直前のところで二の足を踏み、記憶を探るのを諦めた。
「あの子も、魔女なんですか」マタルは尋ねた。
老婆は頷いた。
「いい家の出なんだが、魔女になりたての頃に、教会でひどい目に遭わされてね……修行がしたいと言って、うちの〈集会〉にやってきたのさ」彼女はフフンと鼻を鳴らした。「貴族出身の魔女を受け入れようって集会はなかなかない。その点うちはあの子に合ってた。あたし自身、貴族の出だ」
そう言う間にも遠ざかる少女は、白く輝く氷海の風景に消えてしまいそうなほどか細く、頼りなげに見えた。
「俺も、加勢を──」
「まあまあ、そんなに焦ることはないよ」
このお婆さんは、自分の愛弟子が獰猛な獣たちのまっただ中に飛び込もうとしているときに、どうしてこんなに悠々としていられるんだ?
半ば驚き、半ば呆れながら、マタルは老婆を見た。
すると、彼女は言った。
「あの子はね、我が〈キックリーの集会〉で一人前になったんだ。そんじょそこらの魔女とは格が違うよ。〈アラニ〉の有象無象や、奴らが操る獣では、あの子に傷一つつけられない」老婆は誇らしげに笑った。「ほら、ご覧!」
そして、マタルは見た。
小さな少女の手から迸る、金の編み目。それが、獣の群れに覆い被さった。
すると、さっきまで唸り、攻撃的に哮り立っていた魔狼たちが……静かになった。
「嘘だろ──」
マタルは思わず呟いていた。
〈アラニ〉の獣使いも、その光景に狼狽えていた。必死に呪文を叫んでは、獣たちを操ろうとする。だが何度試みても、魔狼たちが彼らに耳を傾けることはなかった。
「あの魔法は、あの子にしか使えない」
「魔力を……無効化しているように見えますが」
「その通り、あれは貴金の力さ」魔女は言った。「教会の愚か者どもが、あの子に植え付けたものだ」
その話を、知っている気がする。俺はきっと、彼女と会ったことがある。
考え込むマタルをよそに、魔女は語り続けた。
「貴金が力を失って、一度は手放さざるを得なかった。だがあの子は力を取り戻した」そして、口惜しそうに付け足した。「血の滲むような努力と、信仰を重ねてね」
獣使いは茫然自失したまま、他の魔女たちに取り押さえられた。
狼たちは従順に頭を下げてエミリアを取り囲むと、彼女の手に鼻を押しつけたり、足下で腹ばいになったりした。尾を振ってキュンキュンと鳴いているものまでいる。
「まるで、大いなる月神を見ているようだねえ」魔女はしみじみと言った。「〈聖なる雌犬〉の異名そのものだ」
まさに、その通りだった。マタルはこの光景に──彼女の姿に、神々しささえ見出していた。
「さて、事態が収拾したようだ」
老婆は言い、椅子から立ち上がった。彼女の背筋はぴんと伸びて、実に矍鑠としていた。けれど、こういった。
「ちょっとあんた。飴を食べ終えたなら、あたしをあそこまで運んでおくれ」
老婆はブリジットと言う名前だった。貴族の名門ゴドフリー家に生まれた彼女は、魔女であることを隠して生活していたのだが、あるときそれが露見して家を追われてしまったのだという。
「だからなおさら、エミリアを放っておけなくてね」マタルに抱きかかえられたまま、彼女は言った。「生い立ちや力を別にしても、あの娘は特別な子だよ。まるで、何かの使命を持ってこの世に送り出されたようだ」
「使命って……?」
「まあ、見ておいで」ブリジットは言い、マタルを突いて氷原に降ろさせた。
そこでは、彼女の言うとおり、興味深い出来事が起こっていた。
すっかり彼女に従順になった魔狼を従えて、エミリアは、魔法によって拘束された〈アラニ〉のものたちに面と向かって話をしていた。
「コナル・モルニを失ったあなた方の悲しみと失望はいかばかりか、お察しします」
魔女であるにもかかわらず、彼女は死者への短い祈りを呟き、陽神の印を切った。
「しかし、だからといって、この蛮行は許されません。あなた方は、可哀相な狼たちを使って、何をなさろうとしていたのです」
か弱い少女と見えたエミリアの横顔は、激しい怒りに燃えていた。だがそれは、彼女の個人的な怒りによる炎ではなく──もっと眩く白熱する、義憤の炎だった。
「彼らをけしかけ、抵抗する術を持たぬ人間の民を襲うのですか? 己が受けた苦しみを思い知らせる──ただそれだけのために?」
「お前にはわかるまいよ、エミリア・ホーウッド」〈アラニ〉の魔術師が言った。「そうやって方々で演説をぶっては、仲間を誑かしてきたようだな」
「差し伸べられる手を求めていたのは彼ら自身です」エミリアは少しだけ顎をあげた。「彼らは、あなたやモルニが強く凶行ではなく、正しい行いを欲していましたよ」
「正しい行いだと? 女王の手先に寝返ることがか」魔術師は吐き捨てるように言った。「いいとも、そんな連中はお前にくれてやる。だが、俺たちは──真のナドカである俺たちは、怒りがあるかぎり決して止まらん。何度頭がすげ変わろうと、この心臓が動いている限りはな」
「では、心を入れ替えるべきです」エミリアは言った。
「愚かな小娘め」魔術師は苦笑した。「我々の怒りも、悲しみも、惨めさも──お前には想像することもできない」
「そのとおりです」エミリアはきっぱりと言った。「あなたはわたくしに刃を向け、わたくしの無知に絶望しておきながら、理解を求めようというのですか? あなたが襲おうとしたものたちに対してはどうです? 狼をけしかけ、苦しみを理解せよと説得するつもりだったのですか? そのようなことが理にかなうと?」
「黙れ」
「この狼たちに襲われたものたちは、あなた方を理解しないでしょう。ただ恐怖し、憎むだけです。やがて彼らは銀の剣を掲げ、再びあなた方に向かってくる。そして、あなた方は傷つき、また牙を剥く。そうした繰り返しが、長いこと……ほんとうに長いこと、世界中で行われてきたのです」
「黙れ! 何も知らないくせに!」魔術師は言った。だが、その顔には苦し紛れの汗が滲んでいた。「これは正義なのだ。我々が行動を起こさねば、百年先のナドカに待つのは、家畜のように飼い慣らされた奴隷の身分だ!」
「憎しみはしばしば、正義の仮面をかぶるもの」エミリアは言った。「正義という言葉は、いかなる行為にも赦免を与えません。あなたの行い、そして、その結果がすべてです。あなたの成してきたことが、なにか一つでも、良い結果を生んだことがありましたか?」
厳然としたエミリアの眼差しに射貫かれ、それ以上言い返せずに、魔術師は座り込んだ。
「結果か」魔術師は言った。「結果は……散々だった」
それを認めることで、堰が切れてしまったのだろう。魔術師はほんの一瞬のうちに、何歳も歳をとったように見えた。
「俺たちはコナルに従った。だが奴は──奴は自分の復讐のことしか頭になかった。奴は俺たちを煽り、操り……ナドカの立場を前よりもっと悪くした。挙げ句、勝手に死んだ。それが結果だ」
魔術師は疲れ果てたようにため息をついて、空を見上げた。
「俺たちは、復讐に狂った男の道具にされて……またしても見捨てられたんだ。〈アラニ〉は今度こそ瓦解する。それこそが、俺たちの結果だ。何も残らない……何もな」
そして、咳き込むように笑った。
「だが、全てが終わる前に、俺たちの名前を、人間たちの記憶に刻み込むことはできる。恐怖と共に」
そう言いながら、その心中の闘志は、ほとんど消えかけているように見えた。
「マイラ・イーリィ」エミリアは膝をついた。「〈月神の雌犬たち〉の名をこれ以上汚す前に、心を入れ替えなさい」
イーリィと呼ばれた魔術師は、エミリアを見た。
「憎しみではなく、善意を信じなさい。善意を受け取るために、まず善意を与えるのです。希望をもたらし、同じものを返されるように生きましょう。ナドカであれ人間であれ、それが一番大切なことです」
「まるで聖典を聞かされているようだな」イーリィは言った。
「語る価値があるからこそ、真理は長く残るのです」
「だが、いずれは裏切られる。それもまた真理だ」
エミリアは頷いた。「裏切るものは、また別のものに裏切られ、身を滅ぼすでしょう」
「失敗から学ばないのは馬鹿だ。裏切られる前に手を打つべきなんだ」
「そのようにして、あなたがたは失敗したのです」エミリアは優しく言った。「そろそろ、別の方法を模索する頃合いですよ。剣の過ちは、盾によって償われる──聖句のとおりです。そうすればきっと、次こそはよい結果が得られるでしょう」
イーリィの目には、実に様々な感情が表れていた。
魔術師の自尊心は、なにも知らないこんな小娘に言い負かされて良いのかと声を上げていたはずだ。だがエミリアには、彼女の目を見て、声を聞いた者にしかわからない力があった。それは月の光のように弱々しくもあり、陽の光のように有無を言わせぬものでもあった。
太陽と月が、彼女の中で結び合わされている。
教会のしたことは、おぞましい罪だった。それは否定のしようがない。けれど、彼女は、彼女自身の力でそこから蘇り──自分自身の使命と、それを全うする力を手に入れた。
「日が出てきたね」ブリジットが言った。「もうしばらくここで見つめ合っていてもいいけどね。そろそろ氷が溶けてしまうよ」
エミリアはにっこりと笑って、頷いた。
「はい、師匠」そして、イーリィに手を差し伸べた。「続きは、陸でお話ししませんか。この狼たちも、お腹をすかせているでしょう」
マイラ・イーリィは、〈アラニ〉の最後の幹部だった。
イーリィがエミリアの手を取った瞬間、〈アラニ〉は復讐の道を捨てた。そしてその日以降、エミリア・ホーウッドという名の若い魔女が、〈月神の雌犬たち〉の群れを率いる〈聖なる雌犬〉となったのだった。
応援ありがとうございます!
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