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ダイラ スキャリー島
瞬き一つの間だった。
その一瞬で、マタル=サーリヤは大蒼洋のど真ん中から、ダイラの北にある、名前もわからない島まで飛んでいた。雷に追いつかれてはならない。とにかく、ホラスを死なせてはならないということ以外には何も頭になかった。このままでは北の果てに至るまで止まれないと思ったとき、ちょうど行く手にあったのがその島だった。マタルは空中でもんどり打つように翼をばたつかせて、ほとんど墜落するように島に降り立った。
小さな島だが、エイルの周囲に散らばる無人の小島よりは大きかった。岩と森とが、見えない境界線によって唐突に切り替わっているような地形で、そこに安全な場所はあるのか、それとも危険があるのかさえうかがい知れない。
マタルはホラスの身体を抱え上げ、緑海の波に削られた荒磯にどうにか着地した。魔力は尽きかけていて、地面に降り立った瞬間、今まで無視することができていた重さが何倍にもなって背中にのし掛かって来た。
「は……はぁ……」
暑いわけでもないのに汗が滲む。疲労と恐怖と不安とで、胃の中身が渦を捲いているようだった。
「ここは……」
辺りを見回すほどに、あらたな恐怖に心臓を鷲づかみにされる。
ここには街も、港も、人影すらない。もちろん、死にかけた男を救う手立てなどあるはずもない。
どうして、よりによってこんな場所に来たんだ。どうして。ここじゃホラスを救えないのに。
恐慌が喉元までせり上がってくる。だが、すぐに気を取り直して、腕の中で気を失っているホラスを担ぎ直した。塩水にさらされるおそれがない場所まで運んで、横にしなければ。
「心配いらないよ、ホラス。俺が必ず助ける。必ず助けるから」
呪文のように何度も唱えながら、マタルは島の内陸へと向かった。
ゴツゴツした岩盤の海岸を少し歩くと、ありがたいことに乾いた地面があった。マタルはホラスを横たえ、改めて彼の……姿を見た。
ホラスの身体はひどい状態だった。左腕はごっそり失われ、右足は膝から下が無くなっていた。溢れる血が瞬く間に地面にひろがってゆく。血そのものへの恐怖に、頭がくらくらしそうだった。
しっかりしろ!
頬の内側を強く噛んで、ふっと息を吐き出す。
負傷してから、まだ時間はたっていない。ここで出血を食い止めれば、彼は助かる。きっと助かる。
すべては俺次第だ。
マタルは茨を身に纏い、僅かに残っていた魔法を呼び出した。
医術に関しては、多少の心得はある。医術と言っても基本的な処置ばかりで、街よりも荒野で役に立つような、荒っぽい掟のようなものばかりだが。その掟の最も重要な一つが、血を失わせるなということだ。
マタルは、切断面のすぐ上に黒い文身を巻き付けて、強く圧迫した。呼び出した小さな雨雲で傷口を洗い、自分の服を裂いて作った包帯を巻いた。そして雲の中から霰を取り出すと、それで傷口を冷やした。こうすれば血管が縮み、出血を抑えられる。
そうだよな? 俺、間違ったことはしてないよな?
一度取り戻した冷静さを手放さないように、マタルは頬の内側を噛み続けた。血が滲んでいるのにも気付かないほど、必死だった。
ホラスの顔色には血の気がないものの、夥しい出血はどうにか収まっている。
彼が気を失っていてくれて助かった。悲鳴──ちょっとでも呻き声を聞いてしまったら、やり遂げられなかったかもしれない。
血まみれになった自分の姿を見下ろすと、さっき押しやった目眩が再びぶり返してきた。生臭い匂いに内臓が震え、恐怖が喉元までこみ上げる。だが、堪えて、飲み下した。
吐いてる場合じゃない。後にしろ。
傷を即座に癒やす魔法などと言うものはない。魔術師ならば、そのうちそうした魔法を編み出せるのかも知れないが、魔女には無理だ。魔女は自然に逆らわず、追い風を吹かせるような魔法を操るだけだ。マタルの魔法では大怪我を元通りにはできない。それでも、身体が持つ治癒力を手助けしてやることはできる。
とはいえ、怪我した本人の体力が充分に無ければ、かえって命を危険にさらしてしまう。なにか栄養のあるものを食べさせなければならない。
応急処置もしたのだから、この島を飛び出してダイラに移動するべきだということはわかっていた。けれどさっきの移動のせいで、自分の中の魔力がほとんど尽きかけているのが感じられた。エイルまで飛ぶのはもちろん、ダイラまでたどり着けるかどうかもわからない。海を渡っている最中に魔力が尽きたら、二人とも緑海に沈んでしまう。
それに、この島にどんな危険があるのかも把握できていない以上……魔力は温存しておいた方がいい。たとえなけなしの魔力しか残っていなかったとしても。
マタルは立ち上がり、目の前に迫る鬱蒼とした森を見つめた。
マタルには、血の他に苦手なものがもう一つある。森だ。
どこに何が潜んでいるのかわからない、じめじめとした暗い森。木々の葉が太陽を覆い、足下では腐った葉が折り重なっている。草陰や地中、木の皮の裏に無数の虫が潜み、獣や妖精や魔獣たちがこちらを窺っている。いま目の前にあるのは、まさにそんな森だった。
幼い頃、アシュモールを後にして、マタルはしばらく大陸を彷徨い、時にはこんな森に身を隠した。あの時に初めて感じた恐ろしさは、骨の髄にまで刻まれている。
マタルは、木陰に横たわるホラスをふり返った。そして、血の気のない彼の顔を見つめて、深く息を吸った。
恩人を助けるためだ。そう、心の中で呟く。彼は俺を助けるために怪我をした。恐怖を克服するきっかけとしては、これ以上ないほどおあつらえ向きじゃないか。
「待っててくれよ、ホラス」
マタルは血まみれの上着を脱いでから、森に足を踏み入れた。
雨でも降ったのか、それともこういう場所が乾いた状態になるのはありえないことなのかわからないけれど、森の中はどこもかしこも湿っていた。サンダルの足を虫が這い上がってくる想像を遠くへ押しやり、濡れた葉が素肌を擦る感触を無視しながら、マタルは進んだ。
このあたりの森をよく知る魔女ならまず薬草を探すのだろうが、薬草に関する知識は乏しかった。半端な知識で異なる薬効を持つ草を選んでしまえば、最悪の場合、命に関わる。だから、いまマタルが手に入れるべきは獣の肉だ。
兎、なんなら野ねずみでもいい。とにかく、彼の血になるものが必要なのだ。
血と肉を備えてさえいれば、魔獣だって構わない。
そんなことを考えていたから、木陰に光る橙色の目を見たときには心臓が止まりそうになった。
「何だ──!?」
よくよく目をこらすと、それは真っ黒な梟だった。夜行性の梟に昼日中から出くわすのも、この森が信じられないほど暗いせいだろう。
梟は、賢者の鳥と呼ばれる。なんでも知っているような顔をしているからだと言われるが、その梟も、こちらが気付くよりもずっと前からマタルのことを見ていたようだった。
「助けてくれ、梟」マタルはそっと囁いた。「俺の恩人が死にかけてるんだ。お前、彼に食われやってくれないか?」
梟は腹立たしげにホーと鳴き、枝を離れた。身をすくめるマタルの頭上すれすれを滑空して、音もなく姿を消していた。
これだから、森は嫌だ。
マタルは気を取り直して、先へと進んだ。
上空からほんの一瞬見た限りでは、この島はまるでマラニョンの実のような形をしていた。マラニョンは甲虫の幼虫のような形をした木の実で──。
また虫のことを考えてる。こういうのを自罰的思考と言うんだろうか。
マタルたちは南北にのびている島の南にいた。マタルに船乗りの素質がないのは悲しいくらい明白だったけれど、地図は読める。アーナヴ自慢の浮球儀は見事な魔道具だったから、マタルは航海の間、何度もそれを見に足を運んでいた。その記憶が間違いでなければ、ここはアルバの北東にあるスキャリーという島だろう。高台に登れば、南西の対岸に〈クラン〉の本拠地ヨトゥンヘルムの白い嶺が見えるはずだ。
そんなことを考えながら歩いているうちに、森の終わりが近づいてきた。
向こうに開けた場所があるなら、狩るのにちょうどいい獣がいるかも知れない。
滋養がある鹿を見つけられたらいいが、そこまでの幸運は望めないだろう。それに、仕留めるのに魔力を使いきれば、ホラスのところまで持ち帰る手立てが無くなる。狙うなら兎がせいぜいだ。
期待しながら、明るい方へと少しずつ足を運んだ。物音を立てないようにそっと木の陰に隠れて、眩しい光に目を慣らす。
目の前に広がっていたのは、確かに開けた場所だった。だが、想像していたような緑の草地とはかけ離れていた。そこはまるで、巨大な手で森を掴んで、力任せに剥ぎ取ったような荒れ地だった。木や草はすこしも生えておらず、地面は穴ぼこだらけの泥濘で、ひときわ深い穴には汚水が溜まっていた。
そしてこの平地には──兎などとんでもない──夥しい数の魔狼がいた。
マタルは口を手で押さえ、心の中で呟いた。
「なんだ……これ」
これほど大勢の魔狼を一度に見るのは初めてだった。
かつて、戦のために魔術師が生み出した魔狼は、ダイラの森で繁殖した。代を重ねるごとに凶暴さを増して、今では森に住む妖精の他には誰にも手がつけられない。
そのはずだ。
だが驚いたことに、魔狼たちの間には人影があった。魔獣に取り囲まれて死を覚悟しているという雰囲気ではない。むしろ──手懐けているようだ。彼らの手には鞭が握られていて、時折、それを魔狼に対して振るっているものも居た。あんな真似をすれば、人間だろうがナドカだろうが、頭から食われてもおかしくないというのに。
あの者たちは……どう見ても妖精には見えない。それなのに、どうして襲われることもなく、無事でいられる?
マタルはじっと観察した。すると魔狼たちの首に、一様になにかが取り付けられているのに気がついた。
それは、角──あるいは棒のように見えた。背中と首のちょうど境目の場所から突き出ている。新種の魔狼なのだろうかと思ったが、どうやらそうではない。その角は、日の光を照り返してキラリと輝いた。あれは……おそらく、金属だ。
あれが何のためにあるのかを理解するには至らなくても、本能が嫌なものだと告げた。とても歪で、怖ろしいものだと。
「これは……一体何なんだ……?」
そのとき、平地の奥の方で唸り声がした。目を向けると、二匹の魔狼が取っ組み合いの喧嘩を始めているところだった。『取っ組み合いの喧嘩』というのは生やさしい表現だ。まるで馬と同じくらい大きな狼が本気でぶつかり合うと、家と家が衝突したみたいな音がする。巨人の親指ほどもある大きさの牙が噛み合う音はすさまじい。普通の獣はそれを聞いただけで失神してもおかしくない。
狼の群れに紛れた男たちが騒ぎを聞きつけて集まってくる。他の狼たちも、にわかに落ち着きを失いはじめていた。このまま混乱が広がれば、魔狼の暴走が始まってしまうだろう。
その時一人の男が──魔術師が、短い呪文を口にした。
すると大きなバチッという音がして、取っ組み合っていた二頭の、首から突き出していた棒が閃光を放った。狼たちは悲痛な悲鳴を上げて蹲った。闘争心を失い、怯えるように尾を丸めている。
「まさか」マタルは呟いた。「あの棒で痛みを与えて、魔狼を操っているのか……」
それがどういう意味を持つか、マタルにはわかった。
それは、誰かが制御不能の魔獣を思いのままに動かすための方法を手に入れたということであり……その者たちが、おそろしく残虐な行為に手を染めてしまったということでもある。魔女だからこそ余計にそう感じるのかも知れないが、そもそも魔術師というものは、自然の摂理をどれほど思い通りに曲げられるかを競うようなところがある。それにしても、獣を痛みで操るというのは……度を超している。
あのナドカたちが何者で、どういう意図であんなことをしているのかはわからない。だが、摂理を侵して世に生をうけた魔狼を、その上更にねじ曲げて意のままにするなんて、許されていいことではない。
マタルの脳裏には、監獄の地下で汚物にまみれてひたすらに死を願っていた、別の狼の姿が浮かんでいた。
彼は人狼で、あれは魔狼だ。人狼は人間に苦しめられ、魔狼はナドカに苦しめられる。そこにどれだけの違いがあるだろう。
命あるものに、いったいどれだけの違いが?
マタルの膚の上で九重薔薇がざわめき、思い知らせてやるべきだと囁く。
夜を与えなければ夜明けは訪れない。美しい夜明けのために、まずは夜をもたらすべきだ、と。
枯渇していたと思っていた魔力が、怒りによって再び身体の中に満ちてゆく。骨の芯が燃え上がるように熱を帯び、無尽蔵の魔法が、大気中に飛び出すのを待ち構えて疼いた。あれくらいの数のナドカを倒すなど、造作もない。気を失わせて、それから先は魔狼たちに委ねればいい。そうすれば、きっと──。
その時、背後に気配を感じた。
「やめておけ」声が言った。
いつの間に背後をとられていたのか。
冷や汗を滲ませつつ振り向くと、そこに人狼がいた。白皙の肌に輝く金髪──狼の毛皮の外套をかぶっている。
まさか、ヨトゥンヘルムの──?
彼女はマタルには目もくれず、身をかがめて、魔狼たちの様子を窺っていた。
「連中は島のいたるところにいる。事を起こせば、岸辺で寝ている男の命もなくなるぞ」
まるで、この場所に雪を連れてきたような声だった。つんと冴えた冬の空気を感じて、マタルの怒りも瞬時に冷えた。
彼女は敵ではない。それは、本能でわかった。
「あなたは……?」
「通りがかりだ」彼女はさらりと言うと、マタルの肩越しに魔狼の群れをもう一度見た。「有象無象の寄せ集めだと思っていたが──〈アラニ〉め。こんな切り札を隠していたか」
「〈アラニ〉? あれが?」名前は知っている。「ダイラの北部で叛乱軍と手を組んだって聞いたけど」
「それも、いつまでもつか時間の問題だ。二つに割れた叛乱軍のうち、連中は弱い方につくしかなかった」
彼女は魔狼たちの姿を見て、警戒するように目を細め──いや、そうではない。
彼女の目は、ガラス玉でできた義眼だ。
マタルは小さく息を呑んだ。
見えていないのだ。にもかかわらず、彼女は目の前で何が起こっているのかを、匂いだけで正確に判断している。頬にわずかに射す赤みを見れば、彼女もまた憤っているのだとわかる。だが、あくまで冷静だった。
「焦れているな。じきに事を起こすぞ」
「事って──」
そのとき、いままで森の中に身を隠していた五人ほどの人狼たちが次々に姿を現し、彼女の周りに集まった。
初老の人狼が彼女の近くに寄り添い、小さな声で言った。
「この島にもおらぬようです」
「わかった」
彼女は短いため息をついた。
「そこの御仁。においから魔女と察するが」
マタルは無言で頷いてから、彼女の目のことを思い出して、言った。「はい」
「もしあなたが、我が〈クラン〉の敵ではないというのであれば、手を貸してくれまいか。そのかわりに、我々はあなたの連れの手当をしよう」
そして、彼女は手を差し出した。
「わたしはヒルダ・フィンガル。〈クラン〉を率いている──というより、その残骸をな」
島の南端に戻ると、さらに三人の人狼たちがいた。彼らはヒルダを見ると期待に目を輝かせた。
「坊主は?」
ヒルダが首を振ると、彼らはうつむいた。
「もう、ダイラには居ないのかも知れませんね」
「かもしれん。だが、実に不愉快なものを見つけたぞ。ナグリ、説明してやれ」
初老の老人は頷くと、さっき見たものの説明をはじめた。
マタルはその場を離れ、ホラスのところに戻った。そこではトーレという人狼がホラスの手当をしてくれていた。彼は毛皮のマントに包まれて、即席の寝台の上に寝かされている。
「傷を看た後で一度目覚めたから、事情を説明して薬湯を飲ませた」彼は念を押すように頷いた。「危ない状況は脱したよ。あとは安静にして、傷が癒えるのを待てばいい」
「ありがとう……」マタルは言った。「顔色も、少し良くなったみたいだ」
「なにか滋養のあるものを作ろう。さっき兎を狩ったんだ」
「ありがとう、本当に」
ほっと息をつくと、気が抜けたあまり、身体が前に傾ぎそうになった。
「出来上がったら、あんたも食った方がいい。ひどい顔色だ」
マタルは何度も礼を言い、ホラスのすぐ傍に腰を下ろした。
トーレが言ったように、容態は安定しているようだ。何故か涙がにじみそうになり、マタルは手の甲で乱暴に目を拭った。
そして、怒りに我を忘れそうになった自分を恥じた。
何より大事なのは、彼を助けることだったはずなのに。あの魔狼たちを見て、彼の安否は頭から抜けてしまった。
以前、ゲラードが言っていた。記憶を失えば失うほど、感情を制御するのが難しくなると。これがその結果なのか、それとも生来の短慮が祟ったのかもわからない。
守りたいと、心の底からそう思うのに、壊すことしかしていない。
「俺は……駄目だなあ……」
マリシュナの船室で、思い出しかけた記憶があったような気がする。なのに、それもまたどこかに消えてしまっていた。
「ごめん。ホラス……」
マタルは、ホラスの寝顔を見つめた。そうしていれば、また何かを思い出せるかも知れないと思った。だが憔悴した顔をいくら眺めていても、罪悪感と不安が湧くばかりで変化は訪れない。
「懐かしい匂いを追った先に、あなたがいたのだ」
ハッとして顔を上げると、ヒルダが目の前に立っていた。
「懐かしい匂い?」
ヒルダは焚き火の傍に腰を下ろした。目が見えないとは思えないほど迷いのない動きだった。
「あなたは、アシュモールの魔女だろう」
「どうして判るんです──」見えないのに、と言いかけて、口をつぐんだ。「すみません」
遅すぎた気遣いに気付いて、ヒルダはからからと笑った。
「気を遣う必要はない」彼女は言った。「この目は、わたしが自ら差し出したものだ──アシュモールの魔道具に」
マタルは思わず声を上げた。「アシュモールの魔道具と契約をしたんですか?」
ヒルダは頷いた。「どうしても、必要な契約だった」
アシュモールの魔道具と言えば……それはつまり、死霊術に関係するものと相場が決まっている。あの砂漠の国にも普通の魔道具は存在するけれど、死霊を操るものに比べれば玩具同然だ。この世に生まれた魔道具は、その危うさゆえいずれも目が飛び出るほど高価で、かつ厳重な取り扱いを要求される。いまでは、死霊魔道具を作る魔術師の数は減り、過去に生み出された魔道具のひとつひとつが伝説となっている。
「ダイラの人狼の依頼で作られた魔道具の話は、聞いたことがある──」
それは、死んだ者の生首だけを延命して、こちらの質問に答えさせるためのものだと。
「子供を怖がらせるための作り話だと思っていました」
「わたしの曾祖父が作らせた」ヒルダは小さく笑った。「若くして連れ合いを無くしたせいで、壮年の頃には『気狂いベルトルト』と呼ばれていた。息子のイェルハルドが彼を討ち、魔道具も封印された。それを、わたしが用いた」
ヒルダは笑い話のように語った。
彼女は間違いなく、その『気狂いベルトルト』の血をひいているのだろう。理由はどうあれ、死んだ者の生首に縋ろうとする者に狂気の片鱗がないわけがない。けれど、それでも信頼できると思った。彼女に従っている人狼たちに、恐怖の影はなかった。
「その魔道具は、どうなったんですか?」
ヒルダは小さく肩をすくめた。「消えてしまった。魔神と化したわたしの夫と共に」
「そうですか……」
そういえば、前にホラスが言っていた。〈呪い〉に落ちかけた吸血鬼を討伐するための戦いで、〈クラン〉の頭領が命を落とした。彼は長いこと魔道具に囚われていた、と。あれは、彼女の夫のことだったのだ。
前にホラスが言っていた──? いったいいつの話だ?
また目眩がしそうになったので、マタルはホラスの身体に触れた。今度も、乱れた心はそれでおちついた。
「魔力が安定していないな」ヒルダが言った。「匂いでわかる。あなたの中の不安に反応して暴れそうになっているようだ」
「そうなんです」
マタルはため息をついた。
「俺は記憶を失いかけていて、その大半が……たぶん、この人にまつわることのようで」
そう言って、ホラスの頬に手を当てた。うっすらと汗をかいてはいるが、ちゃんと温かい。
「彼は何故、そんな大怪我を?」ヒルダは言った。「あなたがたからは海のにおいがした。それから、あの炎の薬の匂いもだ。何があった?」
そして、マタルは話した。
各国で危殆に瀕しているナドカたちを救出する任務の途中、カルタニアでホラスと出会い、教会の軍隊に追われたこと。彼らが使った新兵器のことを。
「それで、その匂いか」ヒルダが言った。「忌々しい炎薬がこの世に生まれ、次に大砲が瞬く間に広がったと思えば、今度は妙な新兵器。加えてあの魔狼どもだ。まったく。留まることを知らないな」
マタルは頷いた。
「〈アラニ〉は魔狼を操って、戦を仕掛けるつもりなんでしょうか」
「おそらくは。だが相手はダイラではなくベイルズだ」ヒルダは言った。
「ベイルズを? 彼らは女王に戦いを挑んでいるのだとばかり思ってましたが」
「彼らは、ナドカを嫌う者となら誰とでも戦う」ヒルダは皮肉っぽく口角を歪めた。「ベイルズはダイラ国内の〈燈火の手〉どもを支援しているのだ。だが、〈アラニ〉は弱体化している。瓦解する前に、最も憎い敵の喉笛に食いつこうという魂胆なのだろう」
「戦いに……なるんだろうか」
「あの程度の狼をけしかけたところで、城に傷をつけることさえできまい。ベイルズの城は堅い。おまけに、彼らには炎薬もある」
マタルは炎を見つめて、言った。
「でも……城門の外にいる人たちを襲うことはできるでしょうね」
ヒルダは頷いた。「それが狙いだろう。たとえ全滅しても、魔狼の群れが与える被害は甚大だ。そうして、ベイルズから〈燈火の手〉への支援を断ち切らせようというのだ。それが無理でも、せめて痛手を与えるくらいは、とな」
マタルは深いため息をついた。
「エイルが〈アラニ〉を受け入れていたら、結果は違ったかも知れないのに」
ヒルダは見えない目をマタルに向けて、小さく微笑んだまま首をかしげた。「そう思うか?」
「彼らは……エイルを手に入れることができなかったから怒っているんでしょう」
「それもある」ヒルダは言った。「だが、たとえエイルが彼らを迎え入れても、〈アラニ〉は存在し続けただろう」
「何故です?」
「ダイラをこそ、己の祖国と考えるものにとっては、エイルへの移住はそれほど魅力的にも映らんだろう。そんな者たちにとって、〈アラニ〉は唯一無二の拠り所だ」ヒルダは言った。「種族ごとの繋がりが強かった昔とは違い、今のナドカは孤立している。人狼たちでさえそうだ」
ヒルダは、深いため息をついた。
「私が子供の頃、ヨトゥンヘルムは足の踏み場もないほど多くの人狼で溢れていた。国中に散らばった我が一族は、成長した子をヨトゥンヘルムに送り出し、一人前の人狼になれるよう修行をさせたものだ。だが今、人狼たちはそこいら中で新たな氏族をつくり、彼らだけのしきたりに従って暮らしている。フィンガルの氏族に忠誠を誓っていたものたちも数を減らし……今の我々に、かつてのような影響力は、もうない。とどめが、あの爆発だ」ヒルダは深いため息をついた。「時代はかわっている。怖ろしいほどの早さで」
マタルは、静かに言った。
「俺の一族も、そうです」小枝を取り上げ、薪を突く。「サーリヤ族──それが俺の一族です。かつては、名前を聞いただけで血の気がひくほど恐れられた。でも、今は……」
「すさまじい変化の中では、誰もが心の支えを求める。そして、大きな力に縋ろうとする。さらに共通の敵を作り上げれば、仲間の結束は強まる」
「〈アラニ〉にベイルズ、それにアルバの叛乱軍も、そうして寄り集まって戦っているんですね」
「皮肉だな。これが、貴金が力を失った結果だと考えると」ヒルダは言った。「貴金の代わりとなる力を求めた人間は、さらに怖ろしいものに変わってしまった。それに負けじと、ナドカも協定を捨てて野放図に振る舞う。いったい、この世はどこまで混沌に近づくのだろう」
炎の中で薪が折れ、音を立てて崩れた。
「だが、たとえこの国で我々だけになったとしても、〈クラン〉は協定を守り続ける」ヒルダは言った。「魔獣に新たな改造を施すなど、言語道断だ。見つけてしまったからには正さねば」
マタルは思わず言っていた。「俺も、手伝います」
ヒルダは微笑んだ。「ありがたい。アシュモールの魔女の助力ならば百人力だ」
マタルはヒルダの笑顔から顔を背けた。貴金に力を失わせた張本人であることを、後ろめたく思わなくなる日は決して来ないだろう。
だが、償うための機会が与えられるなら、それを拒んではならない。絶対に。
「あの〈アラニ〉たちは、どうやってこの島に来たんでしょう」
「船だ。北の入り江に、帆船が五隻停泊している」ヒルダは鼻の先を北に向けた。
「それを使って、魔獣をダイラに運ぼうとしているんですね」
「ああ。昨日、船から檻が運び出されるのを確認している。奴らが事を起こすまで、もういくらもないとみていいだろう」
「〈アラニ〉の数は?」
「船乗りたちを除いて、百に届くかどうかというところだな。だが、魔狼どもは三百頭ほどいる」ヒルダが言った。「数の差は、圧倒的に向こうに有利だ」
「ヒルダ様」初老の人狼──たしか、ナグリと呼ばれていた──が、二人の元に近づいてきた。
「ヴィッレが偵察から帰ってきました。あの五隻は船出の準備を終えたようです」
「動きが速いな。ダイラでなにかあったか」ヒルダは言った。
ナグリは渋い顔で頷いた。
「コナルが死んだようです。詳細は定かではありませんが」
「なるほど……頭を失って、指揮系統も働いていないというわけか」
「この状況でなりゆきを静観しないところを見れば、計画らしい計画があるようにも思えませんな」
「〈アラニ〉が霧消する前に行動を起こし、離れかけている仲間を引き留めようという魂胆かもしれん」
ヒルダはしばらく黙り込んだ。彼女の頭の中で、無数の情報と推論が結び合わされ、一つの形を作ろうとしているようだった。
「いずれにせよ、すぐに行動をおこす必要がある」
マタルは頷いた。
「ようは、あの魔獣をこの島から出さなければいい。ですよね?」
ヒルダは、眉を顰めた。「ああ。できるか?」
マタルはにっこりと微笑んだ。
「はい」
夜が明ける前、ホラスが少しのあいだ目を覚ました。
彼の灰色の瞳は、しっかりとマタルをとらえた。微笑もうとしているのだろうが、ひどく消耗しているのが一層際立つばかりだ。回復にはほど遠い。
口を開けてなにかを話そうとするので、マタルは彼の唇に手を当てて「しーっ」と言った。
「今は休んで」
ホラスは目を閉じ、身じろぎして、身体を包み込む毛皮から右腕を出した。マタルはその手を握って、頬に当てた。
「眠って、ホラス」
彼はうっすらと笑みを浮かべた。朦朧とした意識の中、彼は掠れた声で言った。
「今度こそ、寝物語を……ねだりたいが──」苦しげに、顔を歪める。「最後まで、起きてはいられないだろうな」
マタルは微笑んだ。「そうだね」
ああ、やっぱり。彼と俺との間には過去があるんだ。思い出すべき記憶が。
ホラスは言った。「君を……守れて、よかった」
あの船に守りたい人がいるのかと尋ねた時、マタルはゲラードのことを考えていた。彼はゲラードを守ろうとして、あんな無茶をしたのだと思った。
でも、違うんだ。彼はずっと、俺を守ろうとしていた。
最初から、きっとわかっていた。彼が俺を見る眼差しに、それを感じていた。俺たちには、心を通わせていた日々がある。
それなのに、思い出せない。
ひどく悲しい。けれど、それを彼に悟られたくはなかった。
「寝物語は無理でも、これならどうかな」
『降れよ 慈雨
灼熱の砂のごとき 懊悩を鎮めよ
眠れ獅子 猛虎よ眠れ
今宵ばかりは 岩窟に隠い
尖鋭き歯牙を 夢寐に沈めよ』
マタルは詠いながら、ホラスの身体の上に手をかざした。傷を治そうとしている彼の身体に力を与えて、痛みを遠くへ追いやる。
そのくらいしかできないけれど。
『清浄き慈雨の降るほどに
痛苦みは解けぬ 白銀の砂原』
詠唱を終える頃には、ホラスは再び眠っていた。
マタルは、その寝顔を見つめた。
彼が、前に会っていることを俺に伝えなかったのはどうしてなんだろう。俺を嫌っていて、離れたいと思っていたからか? それなら、危険を冒してまで俺についてこようとはしなかったはずだ。
何故。
なぜ俺は、このひとの記憶を失っているんだろう。
なにも覚えていないのに、彼に触れたいのは何故なんだろう。
「ホラス」マタルは、初めて習う呪文のように、その言葉を口にした。「ホラス。サムウェル」
前にも、こうして彼の寝顔を見つめて逡巡していたことがあった気がする。それは果たして、幸せな記憶だったのだろうか。
やがて空が白み、暁の気配が近づいてきた。
人狼たちの小さな野営地がにわかに慌ただしくなる。五人の人狼たちがマタルのところへやって来た。
「作戦開始だ」
マタルは頷いた。それから、もう一度だけホラスの寝顔を見た。
「いってきます」
そして、彼の頬にそっと、小さな口づけをした。
ダイラ スキャリー島
瞬き一つの間だった。
その一瞬で、マタル=サーリヤは大蒼洋のど真ん中から、ダイラの北にある、名前もわからない島まで飛んでいた。雷に追いつかれてはならない。とにかく、ホラスを死なせてはならないということ以外には何も頭になかった。このままでは北の果てに至るまで止まれないと思ったとき、ちょうど行く手にあったのがその島だった。マタルは空中でもんどり打つように翼をばたつかせて、ほとんど墜落するように島に降り立った。
小さな島だが、エイルの周囲に散らばる無人の小島よりは大きかった。岩と森とが、見えない境界線によって唐突に切り替わっているような地形で、そこに安全な場所はあるのか、それとも危険があるのかさえうかがい知れない。
マタルはホラスの身体を抱え上げ、緑海の波に削られた荒磯にどうにか着地した。魔力は尽きかけていて、地面に降り立った瞬間、今まで無視することができていた重さが何倍にもなって背中にのし掛かって来た。
「は……はぁ……」
暑いわけでもないのに汗が滲む。疲労と恐怖と不安とで、胃の中身が渦を捲いているようだった。
「ここは……」
辺りを見回すほどに、あらたな恐怖に心臓を鷲づかみにされる。
ここには街も、港も、人影すらない。もちろん、死にかけた男を救う手立てなどあるはずもない。
どうして、よりによってこんな場所に来たんだ。どうして。ここじゃホラスを救えないのに。
恐慌が喉元までせり上がってくる。だが、すぐに気を取り直して、腕の中で気を失っているホラスを担ぎ直した。塩水にさらされるおそれがない場所まで運んで、横にしなければ。
「心配いらないよ、ホラス。俺が必ず助ける。必ず助けるから」
呪文のように何度も唱えながら、マタルは島の内陸へと向かった。
ゴツゴツした岩盤の海岸を少し歩くと、ありがたいことに乾いた地面があった。マタルはホラスを横たえ、改めて彼の……姿を見た。
ホラスの身体はひどい状態だった。左腕はごっそり失われ、右足は膝から下が無くなっていた。溢れる血が瞬く間に地面にひろがってゆく。血そのものへの恐怖に、頭がくらくらしそうだった。
しっかりしろ!
頬の内側を強く噛んで、ふっと息を吐き出す。
負傷してから、まだ時間はたっていない。ここで出血を食い止めれば、彼は助かる。きっと助かる。
すべては俺次第だ。
マタルは茨を身に纏い、僅かに残っていた魔法を呼び出した。
医術に関しては、多少の心得はある。医術と言っても基本的な処置ばかりで、街よりも荒野で役に立つような、荒っぽい掟のようなものばかりだが。その掟の最も重要な一つが、血を失わせるなということだ。
マタルは、切断面のすぐ上に黒い文身を巻き付けて、強く圧迫した。呼び出した小さな雨雲で傷口を洗い、自分の服を裂いて作った包帯を巻いた。そして雲の中から霰を取り出すと、それで傷口を冷やした。こうすれば血管が縮み、出血を抑えられる。
そうだよな? 俺、間違ったことはしてないよな?
一度取り戻した冷静さを手放さないように、マタルは頬の内側を噛み続けた。血が滲んでいるのにも気付かないほど、必死だった。
ホラスの顔色には血の気がないものの、夥しい出血はどうにか収まっている。
彼が気を失っていてくれて助かった。悲鳴──ちょっとでも呻き声を聞いてしまったら、やり遂げられなかったかもしれない。
血まみれになった自分の姿を見下ろすと、さっき押しやった目眩が再びぶり返してきた。生臭い匂いに内臓が震え、恐怖が喉元までこみ上げる。だが、堪えて、飲み下した。
吐いてる場合じゃない。後にしろ。
傷を即座に癒やす魔法などと言うものはない。魔術師ならば、そのうちそうした魔法を編み出せるのかも知れないが、魔女には無理だ。魔女は自然に逆らわず、追い風を吹かせるような魔法を操るだけだ。マタルの魔法では大怪我を元通りにはできない。それでも、身体が持つ治癒力を手助けしてやることはできる。
とはいえ、怪我した本人の体力が充分に無ければ、かえって命を危険にさらしてしまう。なにか栄養のあるものを食べさせなければならない。
応急処置もしたのだから、この島を飛び出してダイラに移動するべきだということはわかっていた。けれどさっきの移動のせいで、自分の中の魔力がほとんど尽きかけているのが感じられた。エイルまで飛ぶのはもちろん、ダイラまでたどり着けるかどうかもわからない。海を渡っている最中に魔力が尽きたら、二人とも緑海に沈んでしまう。
それに、この島にどんな危険があるのかも把握できていない以上……魔力は温存しておいた方がいい。たとえなけなしの魔力しか残っていなかったとしても。
マタルは立ち上がり、目の前に迫る鬱蒼とした森を見つめた。
マタルには、血の他に苦手なものがもう一つある。森だ。
どこに何が潜んでいるのかわからない、じめじめとした暗い森。木々の葉が太陽を覆い、足下では腐った葉が折り重なっている。草陰や地中、木の皮の裏に無数の虫が潜み、獣や妖精や魔獣たちがこちらを窺っている。いま目の前にあるのは、まさにそんな森だった。
幼い頃、アシュモールを後にして、マタルはしばらく大陸を彷徨い、時にはこんな森に身を隠した。あの時に初めて感じた恐ろしさは、骨の髄にまで刻まれている。
マタルは、木陰に横たわるホラスをふり返った。そして、血の気のない彼の顔を見つめて、深く息を吸った。
恩人を助けるためだ。そう、心の中で呟く。彼は俺を助けるために怪我をした。恐怖を克服するきっかけとしては、これ以上ないほどおあつらえ向きじゃないか。
「待っててくれよ、ホラス」
マタルは血まみれの上着を脱いでから、森に足を踏み入れた。
雨でも降ったのか、それともこういう場所が乾いた状態になるのはありえないことなのかわからないけれど、森の中はどこもかしこも湿っていた。サンダルの足を虫が這い上がってくる想像を遠くへ押しやり、濡れた葉が素肌を擦る感触を無視しながら、マタルは進んだ。
このあたりの森をよく知る魔女ならまず薬草を探すのだろうが、薬草に関する知識は乏しかった。半端な知識で異なる薬効を持つ草を選んでしまえば、最悪の場合、命に関わる。だから、いまマタルが手に入れるべきは獣の肉だ。
兎、なんなら野ねずみでもいい。とにかく、彼の血になるものが必要なのだ。
血と肉を備えてさえいれば、魔獣だって構わない。
そんなことを考えていたから、木陰に光る橙色の目を見たときには心臓が止まりそうになった。
「何だ──!?」
よくよく目をこらすと、それは真っ黒な梟だった。夜行性の梟に昼日中から出くわすのも、この森が信じられないほど暗いせいだろう。
梟は、賢者の鳥と呼ばれる。なんでも知っているような顔をしているからだと言われるが、その梟も、こちらが気付くよりもずっと前からマタルのことを見ていたようだった。
「助けてくれ、梟」マタルはそっと囁いた。「俺の恩人が死にかけてるんだ。お前、彼に食われやってくれないか?」
梟は腹立たしげにホーと鳴き、枝を離れた。身をすくめるマタルの頭上すれすれを滑空して、音もなく姿を消していた。
これだから、森は嫌だ。
マタルは気を取り直して、先へと進んだ。
上空からほんの一瞬見た限りでは、この島はまるでマラニョンの実のような形をしていた。マラニョンは甲虫の幼虫のような形をした木の実で──。
また虫のことを考えてる。こういうのを自罰的思考と言うんだろうか。
マタルたちは南北にのびている島の南にいた。マタルに船乗りの素質がないのは悲しいくらい明白だったけれど、地図は読める。アーナヴ自慢の浮球儀は見事な魔道具だったから、マタルは航海の間、何度もそれを見に足を運んでいた。その記憶が間違いでなければ、ここはアルバの北東にあるスキャリーという島だろう。高台に登れば、南西の対岸に〈クラン〉の本拠地ヨトゥンヘルムの白い嶺が見えるはずだ。
そんなことを考えながら歩いているうちに、森の終わりが近づいてきた。
向こうに開けた場所があるなら、狩るのにちょうどいい獣がいるかも知れない。
滋養がある鹿を見つけられたらいいが、そこまでの幸運は望めないだろう。それに、仕留めるのに魔力を使いきれば、ホラスのところまで持ち帰る手立てが無くなる。狙うなら兎がせいぜいだ。
期待しながら、明るい方へと少しずつ足を運んだ。物音を立てないようにそっと木の陰に隠れて、眩しい光に目を慣らす。
目の前に広がっていたのは、確かに開けた場所だった。だが、想像していたような緑の草地とはかけ離れていた。そこはまるで、巨大な手で森を掴んで、力任せに剥ぎ取ったような荒れ地だった。木や草はすこしも生えておらず、地面は穴ぼこだらけの泥濘で、ひときわ深い穴には汚水が溜まっていた。
そしてこの平地には──兎などとんでもない──夥しい数の魔狼がいた。
マタルは口を手で押さえ、心の中で呟いた。
「なんだ……これ」
これほど大勢の魔狼を一度に見るのは初めてだった。
かつて、戦のために魔術師が生み出した魔狼は、ダイラの森で繁殖した。代を重ねるごとに凶暴さを増して、今では森に住む妖精の他には誰にも手がつけられない。
そのはずだ。
だが驚いたことに、魔狼たちの間には人影があった。魔獣に取り囲まれて死を覚悟しているという雰囲気ではない。むしろ──手懐けているようだ。彼らの手には鞭が握られていて、時折、それを魔狼に対して振るっているものも居た。あんな真似をすれば、人間だろうがナドカだろうが、頭から食われてもおかしくないというのに。
あの者たちは……どう見ても妖精には見えない。それなのに、どうして襲われることもなく、無事でいられる?
マタルはじっと観察した。すると魔狼たちの首に、一様になにかが取り付けられているのに気がついた。
それは、角──あるいは棒のように見えた。背中と首のちょうど境目の場所から突き出ている。新種の魔狼なのだろうかと思ったが、どうやらそうではない。その角は、日の光を照り返してキラリと輝いた。あれは……おそらく、金属だ。
あれが何のためにあるのかを理解するには至らなくても、本能が嫌なものだと告げた。とても歪で、怖ろしいものだと。
「これは……一体何なんだ……?」
そのとき、平地の奥の方で唸り声がした。目を向けると、二匹の魔狼が取っ組み合いの喧嘩を始めているところだった。『取っ組み合いの喧嘩』というのは生やさしい表現だ。まるで馬と同じくらい大きな狼が本気でぶつかり合うと、家と家が衝突したみたいな音がする。巨人の親指ほどもある大きさの牙が噛み合う音はすさまじい。普通の獣はそれを聞いただけで失神してもおかしくない。
狼の群れに紛れた男たちが騒ぎを聞きつけて集まってくる。他の狼たちも、にわかに落ち着きを失いはじめていた。このまま混乱が広がれば、魔狼の暴走が始まってしまうだろう。
その時一人の男が──魔術師が、短い呪文を口にした。
すると大きなバチッという音がして、取っ組み合っていた二頭の、首から突き出していた棒が閃光を放った。狼たちは悲痛な悲鳴を上げて蹲った。闘争心を失い、怯えるように尾を丸めている。
「まさか」マタルは呟いた。「あの棒で痛みを与えて、魔狼を操っているのか……」
それがどういう意味を持つか、マタルにはわかった。
それは、誰かが制御不能の魔獣を思いのままに動かすための方法を手に入れたということであり……その者たちが、おそろしく残虐な行為に手を染めてしまったということでもある。魔女だからこそ余計にそう感じるのかも知れないが、そもそも魔術師というものは、自然の摂理をどれほど思い通りに曲げられるかを競うようなところがある。それにしても、獣を痛みで操るというのは……度を超している。
あのナドカたちが何者で、どういう意図であんなことをしているのかはわからない。だが、摂理を侵して世に生をうけた魔狼を、その上更にねじ曲げて意のままにするなんて、許されていいことではない。
マタルの脳裏には、監獄の地下で汚物にまみれてひたすらに死を願っていた、別の狼の姿が浮かんでいた。
彼は人狼で、あれは魔狼だ。人狼は人間に苦しめられ、魔狼はナドカに苦しめられる。そこにどれだけの違いがあるだろう。
命あるものに、いったいどれだけの違いが?
マタルの膚の上で九重薔薇がざわめき、思い知らせてやるべきだと囁く。
夜を与えなければ夜明けは訪れない。美しい夜明けのために、まずは夜をもたらすべきだ、と。
枯渇していたと思っていた魔力が、怒りによって再び身体の中に満ちてゆく。骨の芯が燃え上がるように熱を帯び、無尽蔵の魔法が、大気中に飛び出すのを待ち構えて疼いた。あれくらいの数のナドカを倒すなど、造作もない。気を失わせて、それから先は魔狼たちに委ねればいい。そうすれば、きっと──。
その時、背後に気配を感じた。
「やめておけ」声が言った。
いつの間に背後をとられていたのか。
冷や汗を滲ませつつ振り向くと、そこに人狼がいた。白皙の肌に輝く金髪──狼の毛皮の外套をかぶっている。
まさか、ヨトゥンヘルムの──?
彼女はマタルには目もくれず、身をかがめて、魔狼たちの様子を窺っていた。
「連中は島のいたるところにいる。事を起こせば、岸辺で寝ている男の命もなくなるぞ」
まるで、この場所に雪を連れてきたような声だった。つんと冴えた冬の空気を感じて、マタルの怒りも瞬時に冷えた。
彼女は敵ではない。それは、本能でわかった。
「あなたは……?」
「通りがかりだ」彼女はさらりと言うと、マタルの肩越しに魔狼の群れをもう一度見た。「有象無象の寄せ集めだと思っていたが──〈アラニ〉め。こんな切り札を隠していたか」
「〈アラニ〉? あれが?」名前は知っている。「ダイラの北部で叛乱軍と手を組んだって聞いたけど」
「それも、いつまでもつか時間の問題だ。二つに割れた叛乱軍のうち、連中は弱い方につくしかなかった」
彼女は魔狼たちの姿を見て、警戒するように目を細め──いや、そうではない。
彼女の目は、ガラス玉でできた義眼だ。
マタルは小さく息を呑んだ。
見えていないのだ。にもかかわらず、彼女は目の前で何が起こっているのかを、匂いだけで正確に判断している。頬にわずかに射す赤みを見れば、彼女もまた憤っているのだとわかる。だが、あくまで冷静だった。
「焦れているな。じきに事を起こすぞ」
「事って──」
そのとき、いままで森の中に身を隠していた五人ほどの人狼たちが次々に姿を現し、彼女の周りに集まった。
初老の人狼が彼女の近くに寄り添い、小さな声で言った。
「この島にもおらぬようです」
「わかった」
彼女は短いため息をついた。
「そこの御仁。においから魔女と察するが」
マタルは無言で頷いてから、彼女の目のことを思い出して、言った。「はい」
「もしあなたが、我が〈クラン〉の敵ではないというのであれば、手を貸してくれまいか。そのかわりに、我々はあなたの連れの手当をしよう」
そして、彼女は手を差し出した。
「わたしはヒルダ・フィンガル。〈クラン〉を率いている──というより、その残骸をな」
島の南端に戻ると、さらに三人の人狼たちがいた。彼らはヒルダを見ると期待に目を輝かせた。
「坊主は?」
ヒルダが首を振ると、彼らはうつむいた。
「もう、ダイラには居ないのかも知れませんね」
「かもしれん。だが、実に不愉快なものを見つけたぞ。ナグリ、説明してやれ」
初老の老人は頷くと、さっき見たものの説明をはじめた。
マタルはその場を離れ、ホラスのところに戻った。そこではトーレという人狼がホラスの手当をしてくれていた。彼は毛皮のマントに包まれて、即席の寝台の上に寝かされている。
「傷を看た後で一度目覚めたから、事情を説明して薬湯を飲ませた」彼は念を押すように頷いた。「危ない状況は脱したよ。あとは安静にして、傷が癒えるのを待てばいい」
「ありがとう……」マタルは言った。「顔色も、少し良くなったみたいだ」
「なにか滋養のあるものを作ろう。さっき兎を狩ったんだ」
「ありがとう、本当に」
ほっと息をつくと、気が抜けたあまり、身体が前に傾ぎそうになった。
「出来上がったら、あんたも食った方がいい。ひどい顔色だ」
マタルは何度も礼を言い、ホラスのすぐ傍に腰を下ろした。
トーレが言ったように、容態は安定しているようだ。何故か涙がにじみそうになり、マタルは手の甲で乱暴に目を拭った。
そして、怒りに我を忘れそうになった自分を恥じた。
何より大事なのは、彼を助けることだったはずなのに。あの魔狼たちを見て、彼の安否は頭から抜けてしまった。
以前、ゲラードが言っていた。記憶を失えば失うほど、感情を制御するのが難しくなると。これがその結果なのか、それとも生来の短慮が祟ったのかもわからない。
守りたいと、心の底からそう思うのに、壊すことしかしていない。
「俺は……駄目だなあ……」
マリシュナの船室で、思い出しかけた記憶があったような気がする。なのに、それもまたどこかに消えてしまっていた。
「ごめん。ホラス……」
マタルは、ホラスの寝顔を見つめた。そうしていれば、また何かを思い出せるかも知れないと思った。だが憔悴した顔をいくら眺めていても、罪悪感と不安が湧くばかりで変化は訪れない。
「懐かしい匂いを追った先に、あなたがいたのだ」
ハッとして顔を上げると、ヒルダが目の前に立っていた。
「懐かしい匂い?」
ヒルダは焚き火の傍に腰を下ろした。目が見えないとは思えないほど迷いのない動きだった。
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アシュモールの魔道具と言えば……それはつまり、死霊術に関係するものと相場が決まっている。あの砂漠の国にも普通の魔道具は存在するけれど、死霊を操るものに比べれば玩具同然だ。この世に生まれた魔道具は、その危うさゆえいずれも目が飛び出るほど高価で、かつ厳重な取り扱いを要求される。いまでは、死霊魔道具を作る魔術師の数は減り、過去に生み出された魔道具のひとつひとつが伝説となっている。
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ヒルダは笑い話のように語った。
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マタルはため息をついた。
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そう言って、ホラスの頬に手を当てた。うっすらと汗をかいてはいるが、ちゃんと温かい。
「彼は何故、そんな大怪我を?」ヒルダは言った。「あなたがたからは海のにおいがした。それから、あの炎の薬の匂いもだ。何があった?」
そして、マタルは話した。
各国で危殆に瀕しているナドカたちを救出する任務の途中、カルタニアでホラスと出会い、教会の軍隊に追われたこと。彼らが使った新兵器のことを。
「それで、その匂いか」ヒルダが言った。「忌々しい炎薬がこの世に生まれ、次に大砲が瞬く間に広がったと思えば、今度は妙な新兵器。加えてあの魔狼どもだ。まったく。留まることを知らないな」
マタルは頷いた。
「〈アラニ〉は魔狼を操って、戦を仕掛けるつもりなんでしょうか」
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「ベイルズを? 彼らは女王に戦いを挑んでいるのだとばかり思ってましたが」
「彼らは、ナドカを嫌う者となら誰とでも戦う」ヒルダは皮肉っぽく口角を歪めた。「ベイルズはダイラ国内の〈燈火の手〉どもを支援しているのだ。だが、〈アラニ〉は弱体化している。瓦解する前に、最も憎い敵の喉笛に食いつこうという魂胆なのだろう」
「戦いに……なるんだろうか」
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マタルは炎を見つめて、言った。
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ヒルダは頷いた。「それが狙いだろう。たとえ全滅しても、魔狼の群れが与える被害は甚大だ。そうして、ベイルズから〈燈火の手〉への支援を断ち切らせようというのだ。それが無理でも、せめて痛手を与えるくらいは、とな」
マタルは深いため息をついた。
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「それもある」ヒルダは言った。「だが、たとえエイルが彼らを迎え入れても、〈アラニ〉は存在し続けただろう」
「何故です?」
「ダイラをこそ、己の祖国と考えるものにとっては、エイルへの移住はそれほど魅力的にも映らんだろう。そんな者たちにとって、〈アラニ〉は唯一無二の拠り所だ」ヒルダは言った。「種族ごとの繋がりが強かった昔とは違い、今のナドカは孤立している。人狼たちでさえそうだ」
ヒルダは、深いため息をついた。
「私が子供の頃、ヨトゥンヘルムは足の踏み場もないほど多くの人狼で溢れていた。国中に散らばった我が一族は、成長した子をヨトゥンヘルムに送り出し、一人前の人狼になれるよう修行をさせたものだ。だが今、人狼たちはそこいら中で新たな氏族をつくり、彼らだけのしきたりに従って暮らしている。フィンガルの氏族に忠誠を誓っていたものたちも数を減らし……今の我々に、かつてのような影響力は、もうない。とどめが、あの爆発だ」ヒルダは深いため息をついた。「時代はかわっている。怖ろしいほどの早さで」
マタルは、静かに言った。
「俺の一族も、そうです」小枝を取り上げ、薪を突く。「サーリヤ族──それが俺の一族です。かつては、名前を聞いただけで血の気がひくほど恐れられた。でも、今は……」
「すさまじい変化の中では、誰もが心の支えを求める。そして、大きな力に縋ろうとする。さらに共通の敵を作り上げれば、仲間の結束は強まる」
「〈アラニ〉にベイルズ、それにアルバの叛乱軍も、そうして寄り集まって戦っているんですね」
「皮肉だな。これが、貴金が力を失った結果だと考えると」ヒルダは言った。「貴金の代わりとなる力を求めた人間は、さらに怖ろしいものに変わってしまった。それに負けじと、ナドカも協定を捨てて野放図に振る舞う。いったい、この世はどこまで混沌に近づくのだろう」
炎の中で薪が折れ、音を立てて崩れた。
「だが、たとえこの国で我々だけになったとしても、〈クラン〉は協定を守り続ける」ヒルダは言った。「魔獣に新たな改造を施すなど、言語道断だ。見つけてしまったからには正さねば」
マタルは思わず言っていた。「俺も、手伝います」
ヒルダは微笑んだ。「ありがたい。アシュモールの魔女の助力ならば百人力だ」
マタルはヒルダの笑顔から顔を背けた。貴金に力を失わせた張本人であることを、後ろめたく思わなくなる日は決して来ないだろう。
だが、償うための機会が与えられるなら、それを拒んではならない。絶対に。
「あの〈アラニ〉たちは、どうやってこの島に来たんでしょう」
「船だ。北の入り江に、帆船が五隻停泊している」ヒルダは鼻の先を北に向けた。
「それを使って、魔獣をダイラに運ぼうとしているんですね」
「ああ。昨日、船から檻が運び出されるのを確認している。奴らが事を起こすまで、もういくらもないとみていいだろう」
「〈アラニ〉の数は?」
「船乗りたちを除いて、百に届くかどうかというところだな。だが、魔狼どもは三百頭ほどいる」ヒルダが言った。「数の差は、圧倒的に向こうに有利だ」
「ヒルダ様」初老の人狼──たしか、ナグリと呼ばれていた──が、二人の元に近づいてきた。
「ヴィッレが偵察から帰ってきました。あの五隻は船出の準備を終えたようです」
「動きが速いな。ダイラでなにかあったか」ヒルダは言った。
ナグリは渋い顔で頷いた。
「コナルが死んだようです。詳細は定かではありませんが」
「なるほど……頭を失って、指揮系統も働いていないというわけか」
「この状況でなりゆきを静観しないところを見れば、計画らしい計画があるようにも思えませんな」
「〈アラニ〉が霧消する前に行動を起こし、離れかけている仲間を引き留めようという魂胆かもしれん」
ヒルダはしばらく黙り込んだ。彼女の頭の中で、無数の情報と推論が結び合わされ、一つの形を作ろうとしているようだった。
「いずれにせよ、すぐに行動をおこす必要がある」
マタルは頷いた。
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マタルはにっこりと微笑んだ。
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眠れ獅子 猛虎よ眠れ
今宵ばかりは 岩窟に隠い
尖鋭き歯牙を 夢寐に沈めよ』
マタルは詠いながら、ホラスの身体の上に手をかざした。傷を治そうとしている彼の身体に力を与えて、痛みを遠くへ追いやる。
そのくらいしかできないけれど。
『清浄き慈雨の降るほどに
痛苦みは解けぬ 白銀の砂原』
詠唱を終える頃には、ホラスは再び眠っていた。
マタルは、その寝顔を見つめた。
彼が、前に会っていることを俺に伝えなかったのはどうしてなんだろう。俺を嫌っていて、離れたいと思っていたからか? それなら、危険を冒してまで俺についてこようとはしなかったはずだ。
何故。
なぜ俺は、このひとの記憶を失っているんだろう。
なにも覚えていないのに、彼に触れたいのは何故なんだろう。
「ホラス」マタルは、初めて習う呪文のように、その言葉を口にした。「ホラス。サムウェル」
前にも、こうして彼の寝顔を見つめて逡巡していたことがあった気がする。それは果たして、幸せな記憶だったのだろうか。
やがて空が白み、暁の気配が近づいてきた。
人狼たちの小さな野営地がにわかに慌ただしくなる。五人の人狼たちがマタルのところへやって来た。
「作戦開始だ」
マタルは頷いた。それから、もう一度だけホラスの寝顔を見た。
「いってきます」
そして、彼の頬にそっと、小さな口づけをした。
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僕は、ガブリエル・ローミオ二世・グランフォルド、グランフォルド公爵の嫡男7歳です。オメガの母(元王子)とアルファで公爵の父との政略結婚で生まれました。周りは「運命の番」ではないからと、美貌の父上に姦しくオメガの令嬢令息がうるさいです。僕は両親が大好きなので守って見せます!なんちゃって中世風の異世界です。設定はゆるふわ、本文中にオメガバースの説明はありません。明るい母と美貌だけど感情表現が劣化した父を持つ息子の健気な奮闘記?です。他のサイトにも掲載しています。
嫌われ者の僕はひっそりと暮らしたい
りまり
BL
僕のいる世界は男性でも妊娠することのできる世界で、僕の婚約者は公爵家の嫡男です。
この世界は魔法の使えるファンタジーのようなところでもちろん魔物もいれば妖精や精霊もいるんだ。
僕の婚約者はそれはそれは見目麗しい青年、それだけじゃなくすごく頭も良いし剣術に魔法になんでもそつなくこなせる凄い人でだからと言って平民を見下すことなくわからないところは教えてあげられる優しさを持っている。
本当に僕にはもったいない人なんだ。
どんなに努力しても成果が伴わない僕に呆れてしまったのか、最近は平民の中でも特に優秀な人と一緒にいる所を見るようになって、周りからもお似合いの夫婦だと言われるようになっていった。その一方で僕の評価はかなり厳しく彼が可哀そうだと言う声が聞こえてくるようにもなった。
彼から言われたわけでもないが、あの二人を見ていれば恋愛関係にあるのぐらいわかる。彼に迷惑をかけたくないので、卒業したら結婚する予定だったけど両親に今の状況を話て婚約を白紙にしてもらえるように頼んだ。
答えは聞かなくてもわかる婚約が解消され、僕は学校を卒業したら辺境伯にいる叔父の元に旅立つことになっている。
後少しだけあなたを……あなたの姿を目に焼き付けて辺境伯領に行きたい。
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