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 エイル エリマス城 
 
 この国が、一度死んだ男を迎えるのはこれで二度目だ。 
 だが九年前と違って、今回は静かに上陸するのは難しかった。シルリク王復活の報せは瞬く間に知れ渡り、港には多くの民がつめかけていた。 
「ずいぶんと賑やかになった!」 
 接舷がはじまり、港は一層騒がしくなる。楽団が居ないのを見て、ヴェルギルはホッと息をついた。そこまで大げさにして欲しくはない。できることならひっそりと城に入りたいとも思ったが、それでは王の──一度は王だったものの勤めをないがしろにすることになる。いまの自分が為すべきなのは、和やかな微笑みを絶やさずに居ることだ。 
 ヴェルギルは甲板に立って、晴れ晴れと言った。 
「やはり、君は良い王だ。わたしの見立てに間違いはなかった」 
「そうか」 
 ぎこちない返事に、ヴェルギルはこっそりと笑みを漏らした。クヴァルドの緊張が痛いほど伝わってきたからだ。 
 盛大な出迎えに後ろめたさを感じてはいても、平和に栄えるエイルを見て、喜びと誇らしさでいっぱいになる心に嘘はない。 
 クヴァルドは、舷縁ブルワークに手を掛けるヴェルギルを背後から包み込むようにして立っていた。まるで、少しでも目を離せば風に乗って飛んでいってしまうと考えているようだ。もう少しで死にかけたという話を詳しく聞かせてしまったのは間違いだったかも知れないと思ったものの、あの時のふたりには、あれが必要だったのだと思い直した。 
 厳しい横顔だ。数多くの責任と重圧に耐える者の顔をしている。 
「五年の間に君が成し遂げてきたことは耳に入っていた」ヴェルギルは言い、クヴァルドの手に自分の手を重ねた。「心配などする必要はないのだ。まったく! まるで採点を待つ書生のようではないか」 
「ハ、ハ」クヴァルドは言った。「お前にはわからないだろう」 
「ああ、わからない」ヴェルギルはけろりと言った。 
 だが、それがどれほど心を苛むか、君に伝えないだけの思いやりはある。 
「わたしにわかるのは、エイルがさらに良い国になったということだけだ」 
 クヴァルドは何も言わず、笑みを浮かべた。 
 そのむず痒そうな唇に口づけすることができたら。人目も憚らず、五年間の離別など無かった振りをして。 
 ヴェルギルは唇の裏側を噛み、どうしようもない衝動を殺した。 
「おかえり、シルリク」クヴァルドがそっと囁く。 
 その言葉に、ヴェルギルはハッとした。 
 九年前、瘴気の中から蘇ったエイルに戻ったときと今とでは、心持ちが全く違う。あの時、ヴェルギルはこの国に『帰ってきた』とは思わなかった。まったく新しい土地に足を踏み入れたような気がしていた。だが、今は──。 
 船が船着き場に収まり、係留索がもやわれる。乗組員たちは顔を輝かせて、ふたりを待っていた。 
 ヴェルギルは微笑み、クヴァルドの胸にもたれた。「ただいま、フィラン」 
 
 噂がエイルに伝わってから船が帰着するまで、そう間はなかったはずだ。にもかかわらず、港から城へと続く道には人びとが詰めかけていた。冬の最中だというのに、彼らは歩道に撒くための花を手にしていた。楽団が呼ばれなかったことにホッとしていたら、これだ。だが、彼らの気持ちを無碍にしたいとは思わない。ヴェルギルは笑みを浮かべて、数年ぶりに馬に跨がった。そして、城への道のりをゆっくりと進んだ。 
 シルリクの名を歓呼しながら花を撒く人びとの目に、自分はどう映っているのだろうか。 
 死に損ないの王? それとも、放蕩癖が再発したろくでなしの王。あるいは、痩せさらばえ、今にも倒れ込みそうな弱々しい男が見えているのかも知れない。 
 最後の一つに関しては、あたらずとも遠からず、と言わねばならないだろう。 
 運命の血の味を知ってしまった吸血鬼にとっては、他人の血を何千人分啜ったところで、本当の飢えをしのぐことはできない。 
 だが、アドリス城で血を差し出そうとしたクヴァルドを、ヴェルギルは押しとどめた。 
 見るからに飢えているにもかかわらず吸血を拒んだことが、彼の心をさらに傷つけたかも知れない。しかしヴェルギルには、彼の厚意に甘える前にどうしても確かめておかねばならない事があった。そしてそれは、エイルに戻ってこの目で確かめるべき事だ。 
 歓声をあとにして、小高い丘の上に立つエリマス城への道を上る。 
 わたしの国。わたしの帰るべき場所。懐かしい場所に近づくにつれ、立ち去る覚悟をも同時に固めなければならないのは辛い。 
 けれど、五年という時間は、誰にとっても等しく流れる。 
 何を見ることになっても、決して感情を表に出すまいと、ヴェルギルは己に誓っていた。 
 城では城の衛士たちが、門の向こうでフィラン王の到着を待っていた。巨大な城門は開け放たれていて、ここにも、色とりどりの花が散らされていた。 
「お戻りをお待ち申し上げておりました」 
 二人の前で膝を折ったのは、近衛隊の章を身に帯びた人狼だ。ルーマン──そう、思い出した。それが彼の名だ。 
「感謝する」クヴァルドが言い、ヴェルギルを示した。「もう一人の王も、無事戻った」 
 ルーマンは面を上げ、感に堪えないという微笑を浮かべた。「わたしや、この国のものたちにとって、今日より喜ばしい日はないでしょう」 
 ああ、とヴェルギルは思った。彼がか。 
 二人の間を行き交う視線を見たからではない。ルーマンの目に、うっすらと浮かぶ涙を見たからでもない。クヴァルドの気遣うような声色を聞いたからでもない。そうしたものに気付くよりも先に、ヴェルギルにはわかった。馬が蹄の音を響かせる度、城門の向こうで、だれかの傷心が血を流しているのを感じていた。誰もが歓喜しているこの場で、それはなによりも強く際立っていた。 
 そしてヴェルギルは誓ったとおりに、己の感情を胸の奥に埋めた。 
 
 枢密院の顔ぶれがほとんど変わっていないのは嬉しかった。彼らのことは、エイルを立て直すところから共に手を携えてきた戦友のように思っていたから。 
「フーヴァルとゲラード、それにマタルも、知らせを聞いたらきっと喜ぶよ」イルヴァは目に涙をためてそう言った。 
 エイルの議会議員たちが見守る中、ヴェルギルは一人一人と抱擁を交わした。中でもロドリックは──ああ、この五年でたいそう苦労したことだろう。髪はすっかり白くなり、皺もずいぶん増えてしまった──感極まって、囁くような声で何度も、「良くご無事で」と繰り返した。 
 それ以外の面会の予定はなかった。二人を慮ってのことだろう。他の者たちをないがしろにしたいわけではないのだが、正直に言えばありがたかった。久しぶりの船旅を経て、疲労と飢えを表に出さないようにするのが難しくなりつつあったからだ。こうしたことを命ずるまでもなく察してくれるから、この城がよけいに自分の家であるかのように思えてしまう。 
 島の沿岸に新設された砲台や、そこに設置された兵器に目を留めたときに胸を過った不安は収まった。なにも変わっていないと、ヴェルギルは思った。 
 だが、王の居室は少し様相を変えていた。 
 部屋で二人きりになると、クヴァルドの緊張が一層高まったのが感じられた。 
 彼以外の誰かの痕跡は──ない。全ては自分の思い過ごしか、それとも、注意深く片付けたのか。けれど、ヴェルギルの痕跡もまた消えていた。 
「お前の物は、ほとんどしまい込んでしまった」彼は言った。「決心するまでにはだいぶかかったんだが……ふり返ってばかりではいられない。城のものにも心配をかけてしまう」 
「そうだな」ヴェルギルは言った。「何も申し訳なく思う必要はない」 
 クヴァルドは部屋の中を歩き回った。落ち着かなげではあったが、足取りは確固として、力強い。かつて自分が王だった時、彼がこの部屋をこんな風に歩いたことがあっただろうか。五年の間に、彼はこの部屋を──城を、己の縄張りとしたのだ。今や、クヴァルドこそがエリマスのあるじだ。 
「お前を失ったと思った」クヴァルドは言った。「いや、事実……失っていた」 
 ヴェルギルは頷いた。そして思った。 
 言うべきことを言うときが来たのだ、と。 
「わたしがいない間、別のものと契りを結んだのだとしても、それを責めるつもりはない」つとめて冷静に、感情を交えずに言った。「君は王で、王には支えが必要だ。当然のことだと弁えている──」 
 その言葉を聞いた瞬間にクヴァルドが浮かべた表情を見て、ヴェルギルはそれ以上何も言えなくなった。 
「本気で言っているのか?」彼は眉をひそめた。「ようやく国に帰って、二人きりになって、この部屋で最初に言うべき言葉が、それなのか?」 
「当然、明確にしておくべきだ」ヴェルギルも言い返した。「わかって欲しい。避けられない事態だったとは言え、わたしは五年もの間……死んでいたのだ。これは精一杯の誠意のつもりだ」 
「誠意?」 
 クヴァルドは机に手を突き、天板の淵を握りしめた。重厚な一枚板が、みしみしと音を立てている。 
「誠意だと?」 
 彼は荒い息をつきながら、内なる獣と戦うように、そうしてじっとしていた。 
「もう一度殴るつもりなら、その前に教えてくれないか」ヴェルギルは言った。「次は避けさせてもらう」 
 いつもの余裕を欠いているという自覚はあった。彼を揶揄う余裕がないのと同じくらい、自分の言葉に冗談めいた響きをもたせる余裕もない。この五年間にわたって一秒たりとも満たされなかった飢えがそうさせているのだ。彼の血に限ったことではない。彼そのものに飢えていた。 
 許されるなら、今すぐに彼に触れて、全てを貪り尽くしたい。他の男との間にあった……かもしれないことなど、そんな懸念さえ忘れてしまえるくらいに、身も心も雁字搦めにしたい。歓喜の涙を流させ、一切の言葉が意味をなさないほど何度も名前を呼び、彼にも己の名を呼ばせてやりたい。 
 彼が欲しい。 
 けれど、もし、彼がもう自分を欲していないのであれば──そんな望みは、抱くことさえ許されない。 
「わたしが言いたいのは」ヴェルギルは、意を決した。「他に伴侶にしたいものがいるのなら、わたしは謹んで城を──」 
 クヴァルドが怒鳴った。 
「いるはずがないだろう! この、この……!」 
 怒りのあまり、金色にぎらつく瞳。それに射貫かれて、これほどまでに生きている実感を覚えるとは。 
 言葉を継げない彼の代わりに、ヴェルギルは言った。「この、クソッタレの蛭ディアウル・スームレ?」 
「大馬鹿ものだ!」牙が伸びて、目の周りにうっすらと狼の毛が現れている。「お前が俺に触れず、血も飲まないのはそういうわけか? 俺と、居もしない愛人に遠慮したと? そういうことか?」 
「愛人ではないだろう。我々は婚姻しているわけではないのだし」 
 もの凄い音を立てて、机のかどが折れた。 
「だったらいますぐ外へ出て、お前を俺のつがいにするところをみなに見せつけてやる! そうすれば──」 
 彼はぐっと喉を詰まらせ、それ以上の言葉を飲み込んだ。苛立ちも露わに髪を掻きむしると、獣の様相は再び消えた。 
 ひとつ、ふたつ。深呼吸をする彼の喉をざらつかせるほどの怒りを、ヴェルギルは感じた。 
「俺は……狼だ、シルリク」彼は言った。「一度心を捧げたら、同じものを別の誰かに手渡すことはできない!」 
「それでも──」 
 言いかけたヴェルギルを遮るように、クヴァルドが手をあげた。 
「ない、と言っている。これまでも、これからもだ」 
 彼の目は、ヴェルギルが口にしなかった心の底まで暴いていた。 
ときに備えてこんな話をしているのであれば、この際はっきりさせておく」有無を言わせぬ声で、彼は言った。「狼が連れあいをなくせば、それでおわりだ。死ぬまで、孤独の暗闇を生きる。それ以外に道はない。それが狼になるということだ」 
 彼に、いったいどんな言葉をかけることができただろう。かけるべき言葉などなかった。剥き出しの苦悩が、癒えない傷のように彼の表情に刻まれていた。 
「一度は諦めたのに、お前はこうしてここにいる。もしまた同じ事があったら、俺は……!」 
 彼は、きつく瞼を閉じた。机から手を放し、たったの一歩で、二人の間にあった距離を詰めた。 
 そして、思い切りヴェルギルを抱きしめた。 
 ああ。 
 ヴェルギルは目を閉じた。野ざらしの骨のように冷え切った身体に、彼の温もりが、鼓動が、においが流れ込んでくるのを感じた。 
「お前は何もわかっていない」くぐもった声で、クヴァルドが言う。「なにもわかっちゃいないんだ。馬鹿野郎」 
 クヴァルドは震えていた。彼を抱くと、静かに涙を流しているのだとわかった。 
「すまない」ヴェルギルは、彼の背中を優しく撫でた。「二度と、この話はしない」 
「したら殴る」彼は言った。「避けたら、もう一発殴る」 
 泣けばいいのか、笑えばいいのか。迷った末、ヴェルギルは笑った。心にあったのは途方もない安堵だった。 
 膝から力が抜けて、情けなくその場に頽れる。クヴァルドはヴェルギルを抱いたまま放さなかった。 
 暗闇の淵で過ごした永劫にも思える時に、この抱擁をどれだけ求めていただろう。 
 ああ、わたしはようやく、故里に辿り着いたのだ。本当の故里に。 
「ありがとう。フィラン」ヴェルギルは目を閉じた。「ほんとうに、ありがとう」 
 そして、涙の味の口づけをした。赦しを乞うことと赦すことを、互いに与え合うような口づけだった。 
 
「正直に話しておく。申し出はあった」 
 少し後、クヴァルドが言った。 
 長旅の疲れを湯浴みで洗い落とした後のことだった。ふたりは暖炉に熾した火を見つめながらもたれ合い、絨毯に寝そべっていた。 
「満月の夜の俺は──わかるだろう」 
 ヴェルギルは頷いた。申し出をした者のこともわかっていた。けれど、彼の──彼らの名誉のために、それは胸にしまっておくことにした。 
「だが、断った。さっきも言ったとおり……俺にはそういうことはできない。彼のためにも、したくなかった」 
「そうか」ヴェルギルは言い、彼の手に触れた。「辛い思いをさせて、ほんとうにすまないと思っている」 
 クヴァルドは首を振った。「いいや。謝るのは俺だ。お前を守ってやれなかった」 
 ヴェルギルは笑って、彼の頬に両手をあてた。そして顔を持ち上げて、目を合わせた。 
「君はエイルを護ってくれた。それだけではなく、これほどまでに立派に育ててくれたではないか」 
 二人は五年ぶりに、額を突き合わせて微笑んだ。 
 目と目が合う。 
 緑海の色の瞳に、微かな金色と火影が踊っている。この瞳を、何刻でも見つめていられると思った。いつか──自分に終わりが訪れるなら、その瞬間まで見つめていたい、と。 
 翳る緑に揺らめく金の欠片が、炎を飲み込む。熱された黄金がとろりと溶けるように、彼の瞳が変わってゆく。 
 暖かい部屋で、二人、互いを感じて寝そべっているだけでもこの上なく満たされる。そのはずなのに、さらに求めてしまうのを止めることができない。 
「シルリク」クヴァルドが、そっと囁いた。「俺の血を飲め」 
 ヴェルギルは躊躇った。 
「餓えが強すぎて、自分を制御できるかどうか……自信がないのだ」 
 正直な言葉の裏側に、もう一つの真実を隠した。 
 クヴァルドは痩せてしまった。五年間飢えていた自分の状態を棚に上げていることは確かだが、それでも、彼は痩せていた。けた頬を誤魔化すために髭を伸ばし、浮いたあばらを隠すために重ね着をしているのだ。これ以上、彼に負担をかけたくはない。 
「杯かなにかに注いでもらったものを、少しずつ飲むのはどうかと考えていた」 
 すると、クヴァルドは笑った。「お前が?」 
 ヴェルギルも、笑みを浮かべながら眉を顰めた。「わたしが、とは?」 
 彼は少年のように目を輝かせ、くつくつと笑いながらヴェルギルを見た。「初めて会った時にはずいぶん好みにうるさかったお前が、そんなことを言うとはな。やれ市井の者の血は飲まないだとか、感情によって血が不味まずくなるだとか──」 
「それは……確かに」 
「あの頃のお前に、杯から血を飲むか尋ねたら、どんな顔をするか見物だな」 
「言っておくが、今でも好みにはうるさい」ヴェルギルは笑った。「だが、君から与えられるものは、温かろうと、冷たかろうと──恵みだ」 
「なら、受け取れ」 
 クヴァルドは言い、ヴェルギルに身を寄せた。彼は右手を持ち上げると、ヴェルギルが待てという間もなく、自分の手首に思い切り噛みついた。 
「フィラン!」 
 暖炉に温められた空気の中に立ち上る、彼の匂い──彼の血のにおいに、止めようもなく牙が伸びる。鮮やかな赤に目が吸い寄せられ、視界が狭まる。炎に照らされた血の雫は、黄金こがねに輝く皮膚をたどり、無骨な指先にまで伝い落ちてゆく。その様子は愛撫に似て、官能的ですらあった。 
「ほら」 
 無造作に差し出された手から、いまにも血がしたたり落ちそうだ。 
 ヴェルギルは観念して目を閉じた。 
 彼が掲げる右手の指先に、口づけをして──その血の味を感じる。 
 思わず漏れたうめき声にクヴァルドが反応して、甘美な血の味はさらに濃厚になった。匂い立つような陶酔が喉の奥から鼻腔を満たし、目の奥がじんと痺れた。 
 指先、指の股、手のひらに舌を這わせ、荒々しい手首の傷に口づけをすると、クヴァルドは深く呻いた。 
 微かな痛みを伴って動き始めた心臓は、初めのうちはぎこちなく──やがて力強く、血を送り出しはじめた。血への渇望とは別の渇きを孕んだ、温かい血が身体中をめぐる。その熱は、骨の芯にまで根を下ろしていた氷を瞬く間に溶かし、押し流していった。 
 血にまみれた手首を掴み、それを脇にどかして、ヴェルギルはクヴァルドに覆い被さった。微かに潤む彼の瞳は、金色に輝いていた。 
「もう満足したのか……?」 
「いいや」ヴェルギルは言った。「まだだ」 
 それとは別の餓えがあるのだと、言葉に出さずに、彼に伝える。 
 そして、どちらともなく、噛みつくような口づけをした。 
 血の味がする舌を重ねながら、互いの身体に手を這わせる。小さな箱の中で自分を見失わないようにするために、ヴェルギルは彼の記憶に縋ってきた。いま、燃え立つような赤い髪に触れ、その下にある首筋の熱に触れて、闇の底で幾度もなぞった思い出とは比べものにならない、生身の彼の力強さを思い知る。硬く縺れた糸を丁寧に解き、また編みあわせるように、ヴェルギルは、クヴァルドを感じた。手のひらで、全ての指で。 
 それはクヴァルドも同じだった。ふたりの膚の間に生まれる熱を追い求めるように、頭や、喉や肩を撫でさすりながら、彼は五年間の孤独と欠乏をどうにかして癒やそうとしていた。 
 このまま先へと進めば、待っているのは後悔かも知れない。どれだけ互いを貪っても、傷が癒えないことを知って愕然とするばかりなのかも知れない。 
 それでも、求めずにはいられない。 
「シルリク」クヴァルドが言った。「シルリク……!」 
 彼は指先でヴェルギルの黒髪をたぐり寄せ、頬を、顎の線を鼻先でなぞった。甘えるような仕草。彼もまた、胸の内になおも吹き込む隙間風を恐れている。 
「自分の肉体を、うまく扱えるかどうか……まだわからない」ヴェルギルは言った。「それでも、君の望みは変わらないか?」 
 クヴァルドは微笑んだ。優しい笑みに、涙がにじみそうになる。 
 彼は言った。 
「ゆっくり、思い出そう」その首筋には、初々しい赤色が浮かび上がっていた。「俺も……久しぶりだから」 
 
 久方ぶりの交わりは、喜びを追求するためのものにはなり得なかった。官能を愉しむためのものでも、互いをどこまで掻き立てられるか競うためのものでもない。それは限りなく優しい、贖いのための交わりだ。 
「はやく入れてくれ、シルリク」泣きそうな声で、クヴァルドは言った。「もう、待つのは無理だ」 
 ヴェルギルは、逸る心臓を胸の内で握りしめてから、頷いた。 
「わかった」 
「いますぐお前を感じなければ、崩れ落ちてしまいそうな気がする」クヴァルドの囁きは、切なく掠れていた。 
「もし、痛くしたら──」 
「わかってる」クヴァルドは遮った。「わかっているから、シルリク」 
 それ以上の前置きは飲み込んで、時間をかけて柔らかくした彼の中に、そっと身を沈める。奥にある強ばりを少しずつ押し広げるように身体を揺らした。 
「は……んん……っ」 
 クヴァルドは、伸びた牙で下唇を噛んでいた。目を閉じて、眉根を寄せ、何かに耐えるように息をいている。 
 ヴェルギルは彼の頬に触れた。 
 赤銅色の睫毛がひらく。緑色の虹彩の中で、黄金の欠片が揺らいでいた。 
「痛くはないか?」 
 すると、彼は唇を震わせながら答えた。 
「痛くは……ない」悩ましい吐息まじりの声。「正直、まだ気持ちよくもないが」 
 彼は右手を伸ばして、ヴェルギルの首筋を撫でた。 
「それなのに……お前とこうしていると思うだけで、終わってしまいそうだ」彼はそう言いながら、自分の胸から腹に手を滑らせ、透明な雫を垂らしている彼自身を手の中に包み、繋がりあった場所に触れた。「どれだけ痛くてもかまわない……だから、もっとお前を感じさせてくれ」 
「フィラン……」 
 ヴェルギルは、クヴァルドに口づけをしながら、根元まで彼の中に収めた。 
「あ……!」 
 甘い吐息を奪い、彼の味を貪るようにキスをする。そして、炎のように燃えさかる彼を抱いたまま、更に奥へ、奥へと、繋がりを深めた。 
「は、あ……、あ……!」 
 峨々ががたる山脈が雪の衣を脱ぎ捨ててゆくように、寒々しい荒野ムーア芽差めざすように少しずつ、だが確かに、目覚めは訪れようとしていた。 
 クヴァルドの耳朶に射した赤色が、首筋から胸元にまで広がっている。火明かりを受けていっそう鮮やかなその色は、彼の毛皮を彷彿とさせた。 
 肩から零れたヴェルギルの髪が、抽挿の度にクヴァルドの膚を擽った。遊ぶ毛先に撫でられるたび、クヴァルドは小さく呻いて締め付けた。 
「ずいぶん……髪が伸びたな」彼は言い、小さく笑った。 
「煩わしいか?」 
 ヴェルギルが尋ねると、彼は首を振った。「このままでいい」 
 そして、ヴェルギルの髪を一房掴むと、それを鼻に当てて、深く吸い込んだ。 
「お前のにおいに包まれているように感じて……いい」 
 においに反応したのか、彼の内壁がぎゅっと締まる。 
 ゆっくり。 
 ゆっくりするという約束だ。だが、この状態で──無意識にこちらを掻き立てる彼を組み敷いている状況で、自分を抑えるのが、だんだんと難しくなってきた。 
 ヴェルギルは、クヴァルドに口づけをしながら彼の両腕を掴むと、そのまま彼を引き起こし、自分が下になった。 
「何を──久しぶりだと言っただろう!」 
 クヴァルドは、自重で深まった結合に喘いだ。 
「だから、君が手綱を握った方がいい」ヴェルギルは言った。「久々なのはわたしも同じなのだ。君が昂ぶってゆく様子を見せてほしい」 
 クヴァルドは小さな吐息を溢してから、ヴェルギルの両脇に手を突いた。 
「うまく動ける自信がない」 
「うまく動こうとしなくていい。君の望むままに。わたしはそれに合わせる」 
「お前という奴は……」 
 そう溢すと、クヴァルドは下唇を噛んで、ゆっくりと、身体を揺らしはじめた。 
「ん……」 
 美しい赤毛を揺らしながら、微かに眉根を寄せて腰を浮き沈みさせる。その様子に、ヴェルギルは見蕩れた。クヴァルドは、その視線に気付くとヴェルギルを睨んだ。 
「あまり……じろじろ、見るな……!」 
 そう言いながらも腰を止めない。微かに鼻にかかった声が、彼の中に燃え上がりつつある炎があることを暴いていた。 
「よそ見をするほど愚かな私ではない。わかっているくせに、フィラン」 
 クヴァルドは呻きながらも、狼が仔狼を窘めるときにするように、牙の生えた口を大きく開けて、ヴェルギルの口を覆った。唇を噛み、歯列でそっと扱きながら、舌先で甘やかすようになぞる。 
 ヴェルギルが思わず嘆息すると、彼の血が歌い始めた。 
 先走りにまみれ、濡れそぼつ自身をヴェルギルの腹に擦りつけつつ律動する度、クヴァルドの喉から声が漏れる。ヴェルギルは彼の腰を掴み、背中を撫で、逞しい腿に手を這わせた。 
 彼の中は柔らかく潤み、受け入れる喜びに震えていた。温まった香油の香りに互いの欲望のにおいが絡みつき、結合する秘所がたてる音はいっそう激しく高まってゆく。 
「フィラン」ヴェルギルは彼の名前を呼んだ。それ以外に、この手に負えない感情を言い表す言葉がないように思えたから。 
 彼はかがみ込み、ヴェルギルの口を塞いだ。吐息を食み、また自分の吐息を口移ししながら、彼も名を呼んだ。 
「シルリク……」 
 ふたりの間で織りなされる旋律が、徐々に重なり、高まってゆく。 
「ああ……駄目だ」クヴァルドは言った。「駄目だ、まだ──まだ、終わりにしたくない……」 
 だが、終わりは──贖いの時は訪れようとしていた。 
 思いが高まる。胸が苦しいほど。クヴァルドの身体の、全ての場所に触れていたい。彼の熱を余すところなく感じたいという想いに応えるように、長い髪が勝手にとぐろを巻き、彼の腕や足に巻き付いた。 
 自分の肉体をうまく扱えるかどうか──その懸念が、この時になって現実のものとなってしまった。 
「フィラン、待ってくれ──」 
「いいから」クヴァルドは言った。「このままでいい。このまま……」 
 黒い霧のような、髪のような、えだのようなものが彼の肉体に這いあがり、巻き付いた。がんじがらめになった彼を促すように、えだは彼が感じる場所にのびてゆく。脇腹や乳首を撫で、屹立を締め付けて、追い詰める。ヴェルギルの胸の奥で疼く欲望のままに。 
 昨日までのことなど忘れてしまえるくらいに、身も心も雁字搦めにしたい。歓喜の涙を流させ、一切の言葉が意味をなさないほど何度も名前を呼び、彼にも己の名を呼ばせてやりたい。 
 彼が欲しい。我が美しの狼モ・フォルク・アーリン。その美しい魂の、最後のひとかけらまで。 
 フィラン。君はわたしのものだ。 
「あ……」 
 クヴァルドの身体がわななく。 
 自分が死んでいた間、彼の肌に──その心に触れた者がいるのかも知れないと考えた時、本当は、怒りで気が狂いそうだった。そいつを八つ裂きにして、自分と同じ苦痛を味わわせたいとさえ思った。 
 怒りが去ると、悲しみがやって来た。喪失よりもなお苦しい痛みに、胸が引き裂かれた。もはや彼に必要とされないかも知れないと──そう考えるだけで、灰になってしまえそうなほど哀しかった。 
 それを、幼稚な我が儘だと一笑に付すこともできるかも知れない。 
 けれど……あの灼熱の怒りと、身も凍るような悲しみこそが、愛の痛みなのだ。それは呪いであり、同時に祝福でもある。彼の血と同じように。 
「君はわたしのもの──」ヴェルギルは祈るようにそう囁いて、クヴァルドの指を甘く噛んだ。「そう言っても、許してくれるか?」 
「ああ……」クヴァルドは啜り泣くような声を上げて、そっと口づけをした。「俺は、お前のつがいだ」 
 彼は言い、証印を押すように唇を押し当てた。「いままでも、これからも」 
「フィラン……」 
 ヴェルギルは、彼の背中を掻き抱いた。 
 その言葉を告げるべきではないと、理性が叫ぶ。ありったけの声で。 
 彼を縛るな。それは呪いだ、と。 
 それでも、言った。 
「君は永遠に、わたしのものだ。わたしだけの」 
 ヴェルギルは身を起こし、クヴァルドを組み敷いた。肌と肌とをぴったりと重ね合わせ、ふたつの身体が一つになる寸前まで、深く貫いた。 
「ああ……!」クヴァルドが悦びに呻く。 
「そうだ、シルリク」彼は言い、ヴェルギルの背中を強く引っ掻いた。「二度と迷うな」 
 ヴェルギルは彼を引き寄せ、荒い息を奪った。そして、赤子をあやすように優しい律動で、何度も彼を突き上げた。 
「あ、ああ……シルリク!」 
愛しているター・メ・イ・ングラ・リェト」古い言葉で──彼と己の魂を結ぶ言葉で囁いた。「フィラン、愛しいひとグラ・モ・クリー」 
「あ……!」 
 クヴァルドの目から、一筋の涙が伝った。 
「……っ!」 
 彼は大きく息をつき、そして震えた。身をすくめ、啜り泣くような声を漏らし、身体中をぶるぶると震わせながら、とても静かな絶頂に至った。 
 彼の屹立から、温かな雫が零れる。 
 官能を極めた余韻に蠢動する彼の身体に、最後の息を込めるように、ヴェルギルも自らを解き放った。 
 魂を蜜に沈めるように甘やかな絶頂に包まれながら、拠り所をもとめて疼いていた熱が放たれる。何もかも空っぽになってしまいそうなほど、深い充足と、安堵が訪れる。ヴェルギルはクヴァルドの身体を掻き抱いた。 
「あ……シルリク……」身体に注ぎ込まれる熱を感じて、クヴァルドは囁いた。「シルリク……」 
 ヴェルギルの身体から力が抜けて、クヴァルドの上に折り重なった。 
 自分の中にある熱を、満たされた思いを、喜びと幸いを分かち合うように口づけをする。そうして、何度も唇を重ねているうちに、クヴァルドがくすくすと笑いはじめた。 
「フィラン?」 
 そっと尋ねると、彼は肩を震わせた。 
「笑うなよ」そう言いながらも、まだ微笑んでいる。「どうやら、腰が抜けた」 
 そして、二人は声を上げて笑った。 
 どれだけ互いを貪っても、傷が癒えないと知って愕然とする──そんなことを恐れていた。官能や喜びとは無縁の、贖いのための交わりになるはずだと。 
 だが、違った。 
 これは、ふたつがひとつになるためにすべきこと。そんなふうに単純で、混じりけのない営みだった。はじめから、ずっと変わらずにそうであったように。 
 
 夜が明ける少し前、今度はクヴァルドがヴェルギルを抱いた。微睡みのうちに始まった穏やかななからいは、震えるほどに優しい陶酔に満ちていた。 
 背中から抱きしめられたまま深く繋がり、クヴァルドの手が身体の至る所を愛撫するのに身を任せる。背中に感じる彼の胸板。その奥の鼓動。触れたところから溢れ出る戦慄に身を任せる。耳にかかる吐息は温かく湿って、恍乎こうことした呻きが混ざっている。その声で……頭の芯まで蕩けてしまう。 
 手管も、技も、駆け引きも必要なかった。求めるままに互いを求め、煽られるほどに、どこまでも昂ぶる。 
「君の全てを──わたしの中に注いでくれ……」 
 奔放に強請ねだり、彼の望みを叶えて、充足する。ありのままの己を曝け出すこと、それ自体が悦びだった。 
 彼の温もりを身の内に感じ、同じ温度になるまで脚を絡ませ、指を手繰り、奥深いところに幾度も、幾度も情熱を注がれて──ヴェルギルはようやく、孤独の冷たさを忘れることができた。 
 そして、二人は再び眠りに落ちた。 
 やがて曙光が部屋を満たし、いまだ眠りの中に居る二人を、静かに包み込んだ。 
 それは、このエイルがはじめて、二人の王とともに迎えた朝だった。 
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