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 ダイラ 旧アルバ アドリス城 
 
 ダイラの城の客間は、得てして過剰に飾り立てられている。高価な置物やら生けた花やら、真新しい寝具やら……クヴァルドは、そうしたものに囲まれていると寛げなかった。うっかり損なってしまいそうで。一度など、純白の絹の寝具に気後れするあまり、床の上に寝たこともあったほどだ。 
 だが、アドリス城は居心地が良かった。かつてこの場所を占領していた総督軍の栄華をしのばせるものは、おそらく意図的に、全て排除されていた。 
 クヴァルドが案内されたのは、城の客間の中でも最上の部屋だ。それでも、来客を迎えるためにあつらえられた絹の寝具や、香りの強い生花はなかった。その場に馴染まない匂いがあると敏感になってしまうクヴァルドにとってはありがたかった。古い匂いがするものは落ち着く。 
 城の至る所で使われている格子柄の織物が、寝台のうえにさりげなく掛けられていた。この柄は、以前の城主であるオロッカ家に特有の色と柄で織られたものだ。新しいにおいがするのは、その織物くらいだった。 
 初めて訪れる場所では、自分の中にある狼の部分に感覚を委ねる。壁の向こう、窓の外に耳を澄ませ、部屋の匂いを嗅ぎ、異常がないことを確かめる。百年以上前に建てられたアドリス城は、ひとつひとつの部屋が小さい。狭い空間なら全てに目が行き届く。ここは、狼にとっても居心地のいい部屋だ。 
 小さな窓に嵌まった硝子から結露を拭うと、遠くなだらかな山襞や、野山を彩る雪化粧の景色が見えた。アルバには冬が訪れている。雪よりは氷雨が多いエリマスでも、今ごろは白いものが積もっているかもしれない。 
 視線を降ろすと、城壁の稜堡で歩哨に立つ兵士が見えた。寒さを意に介することもなく任務に就いている。人目につきにくい場所での任務を忠実にこなせる兵がいるかどうかは、その軍の成熟度に通ずるところがある。この城には良い意味での緊張感があった。上にたつものが有能なのは間違いないらしい。 
 上にたつもの──ダンカン・ミドゥンについての噂には事欠かない。叛乱軍レバルズきっての知将。アルバの王の末裔にして、怖ろしい化け物を従えたグレンヴァーの牡鹿。この場所を敵の手から取り戻すために活躍した化け物とは、いったいどういうものだろう。 
 ダイラの噂がエイルに届く頃には、実物よりも大きな尾ひれがついているのが常だ。しかし、ダイラに派遣している間者から直接得た情報も、眉唾物の噂話と似たり寄ったりなのが妙だった。 
 報告によれば、千を超す総督軍の兵士たちが一夜にして枯れ木のように萎んでいたという。吸血鬼のしわざというのが、今の段階ではもっとも有力な説だ。 
 いくら〈アラニ〉と手を組んでいるとは言え、個人主義の吸血鬼が北部の叛乱に手を貸すだろうかと思ったが、ミドゥンあらため、オロッカには吸血鬼の従卒がいるとも聞く。 
 加えて、マイデンに降臨した海神マルドーホの噂もある。あれはオロッカの策ではなくエルカンの呪いだとも言われている。いずれにせよ、アルバの勝利を決定づけたのは人ならざる存在だ。 
 噂というものが正しく伝わることはほとんどない。その出所がアルバなら、なおさらだ。昔から閉鎖的な土地であるのに加えて、この地方の人びとはとにかく話し好きだ。好天が滅多にないような地で、家に籠もって物語をする習慣が古くから根付いているアルバでは、単なる噂話もあっという間に異聞奇譚に変わる。いまやグレンヴァーの牡鹿は、化け物を従え、神を味方につける男として畏怖、あるいは崇拝の対象になりつつあった。 
 ダンカン・オロッカ。真相を尋ねて、素直に教えてくれる男だとも思えないが……それでも、実際に会って言葉を交わすだけでも、何らかの収穫を得られるだろう。 
 その時、部屋の外から声がかかった。 
「陛下、よろしいですか」 
 扉を守っている護衛の声だった。 
「なんだ」 
「オロッカ殿の使いの者が、いましがた言伝を。城の中庭に陛下をぜひご招待いたしたいとのことです」 
 噂をすれば、とはこのことだ。クヴァルドは言った。 
「すぐに行くと伝えてくれ」 
 
 中庭は美しかった。砦として一切の無駄を省いたかのように見えたアドリスだったが、総督軍がここを押さえていた時代に作られた見事な庭園はそのまま残されていた。城に到着するなり降り始めた雪は全てを覆い尽くし、アルバの冬のあせた色彩を、目の覚めるような白に塗り替えている。 
 よく手入れされた中庭には、少しばかり浮いて見える立石の輪があった。クヴァルドは、好奇心に駆られてその石に近寄った。 
「それは遙か昔、この城のために戦い、魔法によって石に変えられた戦士たちの名残だと言われています」 
 背後から聞こえた声にふり返ると、彼がそこにいた。 
 グレンヴァーの牡鹿という異名をオロッカに与えたのが誰であれ、いい仕事をしていると、クヴァルドは思った。 
 オロッカは、血統こそ由緒正しい王家のものではあるが、立ち振る舞いや物腰は間違いなく兵士だった。素朴で、気取ったところがない。友軍の兵として出会っていたら、友人になりたいと思えるような男だ。 
 だが、オロッカから発せられる匂いには何か──クヴァルドを身構えさせるようなものがあった。 
「拝謁がかなうのを心待ちにしておりました」オロッカは言い、敬礼をした。 
「こちらこそ、光栄だ」 
 クヴァルドは頷いた。 
「今宵の晩餐の前に、是非こうしてご挨拶を申し上げたかったのです。陛下はヨトゥンヘルムで長い時を過ごされたのでしょう。ここからの景色には、あの険しい山々の面影があります。あいにくの天気となってしまいましたが」 
「気遣い、痛み入る」クヴァルドは言った。「部屋の窓からも、雪を戴いた山がよく見えた。とても居心地がいい部屋だ」 
「恭悦に存じます」 
 そういって膝を折りはするものの、彼の言葉を額面通りに受け止められないひっかかりがあった。 
 オロッカの狙いがなんであれ、向こうから仕掛けてきたのだ。まずは当たり障りのない話題からはじめることにした。 
「実に見事な城だ」 
「ええ、その通りです」オロッカは謙遜を挟むようなことはしなかった。「この城を取り戻すのが、我が〈大いなる功業クレサ・モール〉の悲願でした」 
「実に喜ばしい」クヴァルドは小さく笑った。「しかし、あなたが用いた戦法は、謎に包まれているな」 
 オロッカは、今の言葉を聞いたはずだ。だが、妙に見当違いなことを言った。 
「ここへは、陛下お一人で?」 
 クヴァルドは思わず、足を止めそうになった。これはどういう質問だろう。 
「無論、供の者を連れてはいる──」 
「失礼しました。そうですね」オロッカは如才なく微笑んだ。「この城を取り戻すことができたのは、大いなる助力があったからなのです」 
「それは聞き及んでいる。だが、これぞ真相というものを見出すには至っていない」クヴァルドは、環状に並んだ立石へと目を向けた。「あの石の戦士らが蘇って戦ったという話も耳にした」 
「アルバの者は、物語を愛していますから」オロッカは頷いた。「真相は、このまま秘しておくほうがよいでしょう。畏怖は最も強大な戦力になる」 
「それは、一理ある」 
 こうして実際に会うまで、クヴァルドは、ダンカン・オロッカという将を──王を、尊敬できる男だと思っていた。だがどういうわけか、彼と話せば話すほど、理由のつかない苛立ちが募る。秘密主義なところが気に入らないのか、それとも、こちらをじっと窺い、何かを推し量ろうとしている素振りが気に食わないのか。 
 物言いは慇懃だが、彼の芯には恭順がない。そのかわり、できることなら挑みかかりたいという、埋み火のような敵意を感じた。 
 クヴァルドは、エイルの王であれば次に選ぶであろう話題を持ち出した。 
「オロッカ殿には、吸血鬼の従卒がいるとか」 
「左様です。従卒というよりは、ダイラとの橋渡し役と言うべきでしょうか。彼はわたしに忠誠を誓っているわけではないので」 
 そう言うと、彼は中庭の隅で控えていた男を手招きした。 
 小柄な男だ。意識して見なければ、遠目では吸血鬼だとはわからない。クヴァルドが相手にしてきた吸血鬼たちは、いずれも堂々とした侵しがたい雰囲気を放っていて、誰かに手招きされたからと言ってびくつきながら駆け寄ってくるような者はいなかった。 
「モーガン・キャッスリーと申します。仰せのままに、陛下」彼は言い、辞儀をした。 
 瞳は、たしかに吸血鬼特有の菫色だ。肌の色も雪のように白く、口元からは牙が覗いている。だが、薄かった。匂いも雰囲気も、何もかもが薄い。 
 ふと、ソーンヒルが言っていたことを思い出す。 
 ナドカは昔よりも……何というか、ずいぶん気ままに、同族を増やしているように思えます。昔からの方法に則った増やし方ではありません。儀式もなければ、その後の面倒を見ることもない。未熟な者が、さらに未熟なナドカを生み出しています。そうした、いわば奔放な変異を繰り返してきたせいか、ナドカに受け継がれる力は年々弱まっています。 
 彼が話していたのは、こういうことなのだろうか。 
「アドリスを落としたのは、君の尽力によるものだと話していた」オロッカは言った。 
「ええ!?」キャッスリーは面食らって声を上げた。「そんな、滅相もございません」 
 吸血鬼のにおいから、彼らの本心を探るのは難しいと思っていた。だがキャッスリーからは、はっきりと恐怖のにおいがした。この小心者が、千もの兵士を平らげるのはまず無理だ。 
「お目にかかれて光栄です、陛下」キャッスリーは言った。 
「こちらこそ」クヴァルドは慇懃に答えた。 
 そして、彼らは顔を見交わした。オロッカの表情は読みづらいが、キャッスリーの方はそうでもない。彼の眼差しには、不安がはっきりと表れていた。 
 彼らは何かを隠している。そのうえで、こちらのことを探ろうとしている。 
 ならば、こちらも窓を閉ざすまでだ。 
「では、わたしはこれで」クヴァルドは言った。「明日の会談に備えて、目を通しておきたい文書があるので」 
「かしこまりました」 
 二人は深々と頭を下げた。 
「長旅のあとで、いい気晴らしができた。ありがとう」 
 そして、クヴァルドは中庭を後にした。 
 おかしな二人組だ。 
 最初は、嫉妬かと思った。クヴァルドよりもよほど王にふさわしい血筋でありながら、属国の総督としての地位に甘んじるしかないことへの欲求不満があるのか、と。だがそれでは、キャッスリーの表情の説明がつかない。 
 この違和感はなんなのだ。 
 クヴァルドは、妙な焦燥に駆られながらも自室に戻った。 
 扉を潜り、中に入った瞬間──気配を感じた。 
「あ……」 
 思わず、名前を呼びそうになる。だが、堪えた。 
 理性で堪えたが、心の方はまだ納得がいっていないようだ。心臓が強く鼓動し、耳の後ろの毛が勝手に逆立つ。 
 吸血鬼の匂いだ。それも、さっき会ったキャッスリーとは、また別の。年経た吸血鬼であるのは間違いない。更に言えば、の匂いに似ている。 
 年経た吸血鬼の匂いは似通ってくるものなのかも知れない。萎びた茸のようなにおい、などとは言ってくれるな──そう、彼は言った。あの時……俺たちが初めて出会ったあの時に。 
 だめだ、これ以上は考えるな。 
 代わりに、『何故』と考えそうになる。だが、それもやめた。『何故』などない。これは、単なる気のせいだ。ここは古いものであふれている。きっとそのせいだ。 
「馬鹿馬鹿しい……」クヴァルドは独りごちた。「もう、ふり返らないと決めただろう」 
「陛下?」扉の外から、衛士の声がした。「何か問題がございましたか」 
「いや、なんでもない」 
 寝台に腰を下ろし、深くため息をつく。 
 力なく寝そべると、頭の横でなにかがカサカサと音を立てた。 
 手を伸ばして掴むと──それは紙片だった。そこには、小さく流麗な文字で、こう書いてあった。 
 
『警戒せよ』 
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