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 カルタニア パルヴァ 
 
 枢司卿すうしきょうエヴラルド・モンティーニは、光の箭フレッチア・デル・ソル聖堂にある自分の居室にいた。 
 時は夕暮れ。彩色硝子の窓から差し込む西日も薄れ、豪華な調度品で溢れた室内の印象を、僅かに翳らせている。香炉から立ち上る煙が辺りに立ちこめ、神をたたえるための装飾で埋め尽くされた部屋に、またべつの息苦しさを付け足していた。 
 エヴラルドは十八歳の細い身体で、枢司卿の長衣をしっかりと着こなしている。彼は先代のクウィリノ・モンティーニ枢司卿から受け継いだこの豪奢な部屋を──そして聖堂を、自分自身の手できちんと支配していた。 
 彼は窓から差し込む黄昏の光を背に、執務机に腰掛けていた。机の上には香炉と鏡があり、鏡には、あどけなさの残る造作に子供らしからぬ威儀を備えた顔が映っている。香炉から立ち上る煙の色はうっすらと青みがかっていた。何か幻覚作用のあるものが焚かれているのかもしれない。 
 晩鐘が鳴り響く。余韻は重なり合って、石の聖堂の隅々にまで行き渡った。彼は毎日、この時間になると部屋に籠もり、いかなる侍従も部屋に近づかせない。 
 静けさが戻るのを待ってから、彼は鏡に向かって語りかけた。 
「マルディラのディッガーロ監獄が破られ、囚人たちを奪われました。大蒼洋で猖獗しょうけつを極める海賊が、大陸のあらゆるところでナドカを拐かしています」 
 疲れ切ったような声だけを聞けば、彼が二十歳にもなっていないとは信じられなかっただろう。 
「ダイラでは、異教徒たちが勢いを盛り返しています。忠実なる信徒であったファーナムまでもが罷免されてしまった。悪逆の女王を止める術は、もうほとんど残されていません」 
 それは独り言と見えた。あるいは神への祈りのように見えた。しばらくの間、部屋は静まりかえっていた。 
 ところが、どこからともなく聞こえてきた声が、彼に答えた。 
「小鳩よ、我が小鳩よ。敗北もまた、力に変えることができるのだ」 
 奇妙に虚ろで舌足らずなその声は、鏡の中から聞こえていた。鏡を覗き込むエヴラルドの瞳は──光っていた。背後から差し込む光の悪戯などではない。紛う方なく、目の覚めるような銀色に輝いていた。 
陽神デイナは死に、このカルタニアはもはや、沈むのを待つばかりの大きな、大きなうつぶね」鏡の中の声は、子供に聞かせるようにゆっくりと語った。「しかしお前の力があれば、迷える者たちを救うことができる。それどころか、教会に蔓延る悪徳や欺瞞をも一掃することができる。安ずるがいい、エヴラルド。あと少しで、機が熟す」 
「ありがとうございます」エヴラルドは言った。「わたしの及ばぬ力でも何かを成し遂げることができるのでしたら、望外の幸福です」 
貴銀しろがねの子よ」声は愛おしげに言った。「お前こそ、このカルタニアの地を総べるにふさわしい。お前はこの世に神を迎え入れた者たちの、正当なる後継者なのだ」 
「私などよりも、きっと兄の方が──」 
「お前の兄には、別の使命がある」声は非情な響きを帯びていた。「疑ってはならない。お前が生きてここにいることにこそ、意味があるのだよ。お前が使命を果たせば、兄との再会も必ず叶おう」 
 エヴラルドは深く頭を下げた。「お許し下さい。お導きに疑問を抱いているわけではないのです」 
「疑問さえ、わたしの前では意味を成さない」声は言った。 
 エヴラルドは万感の思いのこもった声で答えた。「あなたの御業を行うことは、わたしの喜びです」 
「そしてこれからも、そうあるようにせよ」声は穏やかに言った。「銀の輝きが強くなってきたようだ」 
 エヴラルドは、鏡に映った自分の瞳をまじまじと見つめた。「はい」 
「その瞳の輝きが最も強くなったとき、神の国への門が開く」 
「神の……国」 
 声はしばらくの間、沈黙した。 
万神宮パンテオンの封印された扉の奥に立ち入ったことは」 
「もちろんございません。あの場所は聖域で──教王が即位の際に、ただ一度だけ訪れることが許されるのですから。わたしのような者には、近づくことさえ……」 
「それも、もうじき変わる」 
 その声には、なにか子細らしい響きが籠もっていたが、エヴラルドはそれを問いただしはしなかった。 
「あの先に何があるのか、知りたいと思わぬか、我が小鳩よ?」 
 エヴラルドは恐れをなしたかのように瞬きをした。「そんな──考えるだけでも、咎められます」 
「わたしは咎めぬ」声はきっぱりと言った。 
 その言葉が促していることに、エヴラルドはすぐに気付いた。 
「では、あの扉の向こうには……なにがあるのでしょう?」 
 声は満足げに笑った。 
「神々のはら」そして、訂正した。「神の胎だ」 
「神の……はら」 
 鏡の中にいるもう一人のエヴラルドは、物語を披露する前の語り部がするように、深く息を吸い込んだ。 
「遙けき昔のこと──貴銀しろがねうからがあの場所で神と通じ合い、導者たちがその言葉をカルタに記した。彼らはそれを、聖典として世に広めた」 
「はい。それが、カルタニアの興りなのですね」 
「神々の胎は、この世のことわりあわいにある」声は言った。「生と死が混ざり合う場所に、いま、新たな神の命が宿っている。太陽が沈み、また昇るように、これは必然」 
 エヴラルドは息を呑んだ。「それは……陽神デイナの生まれ変わりなのでしょうか?」 
の神の生まれ変わりだ」声は言った。「陽神デイナは、この世界に恵みを与えながらにして秘する神。真理は彼の中だけで燃え、地上に生きる者には、そのわずかな熱しか与えられなかった。恵みのありかも、赦しも、真理も、すべてが秘されてきた」 
 エヴラルドは頷いた。 
「これから生まれるのは、それとは異なる神なのだよ、エヴラルド。どのようにして恵みを手に入れるか、どうすればひとは赦されるのか、真理はどこにあるのか──すべてが暴かれる。知ることこそが是となる。新たなる神は人びとを目覚めさせ、さらなる高みへ導く。そしてお前は、小鳩よ、その神に奉仕する最初の教王となる」 
 少年は誇らしげに顔をほころばせ……何かに気付いたように眉を顰めた。 
の神の生まれ変わり……」 
 声は、再び沈黙した。 
 黄昏の光が薄れ、部屋は翳りはじめる。最後の光の筋が彩色硝子の中で、踊りながら絶えてゆこうとしていた。 
の神の生まれ変わりだ」声はもう一度言った。「それが生まれ出ずるとき、世界は震える。天地が鳴動し、海は逆巻く。戦が起こるだろう。無数の国が滅んでは、また生まれるだろう。しかしカルタニアは残らねばならない。残り、栄えねばならない」 
 エヴラルドは魅入られたように、鏡に身を乗り出していた。 
「備えよ、エヴラルド。そして勝つのだ」声は言った。「金のおもてをさらに鍛えよ。一つの名の下に全てがまつろう──それが、平和への唯一の道。お前の使命だ」 
「御身に仕える兵は日に日に数を増し、みな鍛錬に励んでいます」エヴラルドは、眠りに落ちる前のようにおぼつかない調子で答えた。「船も兵器も集まりつつあります……」 
「勝利を捧げよ、エヴラルド。エイルを滅ぼし、お前の神に奉じるがいい。力を持つべきは、唯一にして至高のひと柱のみ。まつろわぬ者の存在を許してはならぬ」 
「勝利を……力を……」 
「勝利を。そして、力を求めよ」 
 エヴラルドはこくりと頷き、そのまま机に突っ伏した。 
 窓からさす光がゆっくりと消え──部屋は青い薄闇と、香炉から立ち上る煙とに満たされた。 
 鏡の中から、声が囁く。 
「もうじき、我らはまみえる」声は楽しげに言った。「それはもう、すぐにでもな」 
 エヴラルドは返事をしなかった。彼は危険なほど深い呼吸を繰り返しながら、机の上で小刻みに痙攣していた。 
 それは不気味で、なおかつただならぬ儀式だった。 
 彼の姿を──そして、彼が使っていた鏡を、もっとはっきり見ることはできないかと思ったとき、視界に白い羽根が映った。 
 室内で、鳥でも飼っているのか? 
 鳩の鳴き声のような音を聞いたかと思った次の瞬間、エヴラルドが急に身を起こした。そして、突っ伏していた身体の下に隠していたらしい短剣を振りかざし、部屋の隅に向かって投げつけた。 
 短剣は見事に獲物を捕らえた。 
 彼はゆっくりと椅子から立ち上がり、切っ先に突き刺さったまま蠢くものを持ち上げた。剣を引き抜くと、裂け目からは無数の小さな歯車と、細かな宝石が零れ出る。 
 金属でできた蠍の魔道具フアラヒだ。 
 彼はそれを地面にたたきつけ、靴底で踏みつけた。 
「くせ者だ!」エヴラルドは叫んだ。「何者かが忍び込んでいるぞ!」 
 ホラスに覗けたのは、そこまでだった。 
 
 聖堂の警鐘が鳴り始めた。 
 光の箭フレッチア・デル・ソル聖堂の身廊にひざまずいて祈っていた人びとは、その鐘の音に驚き、すぐさま立ち上がった。ホラスもそれに倣い、慌てふためく信徒たちに交じって、聖堂を後にした。 
 聖堂の前に開かれた広場は武装した衛兵で溢れていて、怪しげな者を片っ端から捕まえて問いただしている。だがホラスは、たまたま近くに居た母娘ははこ二人連れの信徒の傍に近づき、家族の一員であるかのように見せかけて、彼らの目から逃れた。 
 聖堂の敷地を出たところで物陰に隠れると、程なくして、重たい羽音を響かせながら蜂が飛んできた。その金属製の蜂は、ホラスの耳に留まっていたもう一匹の蜂に並んでとまると、耳の後ろへもぞもぞと身を隠した。ホラスはかけていた眼鏡を畳んで、小物入れにしまい込んだ。 
 さっき壊された蠍も、この蜂も、眼鏡も、盗聴と盗視のための魔道具フアラヒだ。デンズウィックで装身具の店を構える魔術師、ルーシャが秘密裏に製造しているもののひとつである。蜂は近くで聞こえる物音を記録し、その小さな目と耳で見聞きしたことを、離れた場所にいるもう一匹の蜂に伝える。審問官時代から、ルーシャの魔道具には何度も世話になっていた。 
 家一件分の価値に匹敵する『蠍』を失ったのは痛い犠牲だったが、おとりに使ったのは正解だった。おかげで、報告するに足る情報を手に入れることができた。 
 ホラスはこの数ヶ月で、エヴラルドについて可能な限り調べ上げていた。 
 まず、彼が地元の神官によって見出された時に入院していた療養施設を突き止めるところからはじめた。十八歳と言い伝えられている年齢をもとに情報を漁って、その場所に辿り着くのにひと月以上かかった。 
 そこは療養施設というよりは、隔離された宮殿とでも言うべき場所だった。豪華な造りで、病人らしい者がいるようにも見えない。警備は厳重で、よそ者を受け付けない。ただならぬ予感がした。 
 誰かに取り入って内部への鍵を手に入れるやり方では、深層に辿り着くまでにいったい何ヶ月──いや、何年かかるかわからない。本屋として出入りできないものかとそれとなく探ってはみたが、すでに長い付き合いの業者が居たので諦めるほかなかった。嫌な予感に急かされたのもあって、ホラスはルーシャの蟲の力を借り、夜中に忍び込むことにした。 
 治療院というものは、ほとんどが聖堂の延長線上にある。その施設も、運営の母体となっているのは慈悲の光明ルーチェ・ディ・ミゼリコルディア聖堂だった。神を正しく迎えるため、神殿の構造は教義によって定められている。年代によって造りに多少の差はあるが、それぞれ著しく異なることはない。文書の保管場所は日の当たらぬ北東と決まっている。記憶と勘を頼りに、ホラスは資料の在処ありかを探り当てた。思った通り、問題の資料は北東の文書室に厳重に保管されていた。 
 ホラスはそこに辿り着くまでに歩哨を四人ほど気絶させていた。四人という数は──多すぎる。いつ侵入に気付かれてもおかしくはない。だが、忍び込むのに手荒い真似をしなければならないほど、ホラスは焦りを感じていた。 
 見張りから奪った鍵で扉を開け、光量を絞った〈魔女の灯火〉を口にくわえて、問題の年に記録された資料を探る。 
 これだという名前を見つけたとき、ホラスは思わず頭を抱えた。 
 彼をハミシュと見間違えたわけが、それではっきりした。 
 
 治療院、そして今回の潜入で得た情報は、ダイラとエイルにとって非常に重要な意味を持っている。無茶をしたが、して正解だった。これを確実にアドゥオールの元へ届けるためにも、この町を離れるべきかも知れない。 
 何物かが治療院に侵入したという情報は、まず間違いなくエヴラルドの耳にも入っている。十中八九、すでに何らかの策が講じられているだろう。目障りな蠅を二度も取り逃がすほど、甘くは無いはずだ。 
 の追跡ならまく自信があるが──おそらく、エヴラルドは手段を選ばない。この国を去るのは、早ければ早いほどいい。 
 足取りを更に早めたその時、遠吠えが聞こえた。 
 ホラスは裏路地で目を閉じ、吐き捨てるように言った。 
「くそったれ」 
 やはり、彼は手段を選ばなかった。あの遠吠えは、教会に所属している人狼のものだ。銀の首輪を嵌められて教会に仕える聖なる奴隷──聖奴。人狼かれらに狙いをつけられてしまったら、ただの人間に逃げおおせる望みなどあるわけがない。 
 この情報を託すための遣い鷹は、すでに確保してあった。ここから通りを二つ挟んだ宿屋の裏に、鳥籠ごと隠しておいたのだ。 
 ホラスは人混みに紛れて隠し場所に向かった。だが、鳥籠まで辿り着く前に、先手を打たれていることがわかった。鷹は鳥籠の中で殺されていた。まだ生きているように見せかけるために、針金で止まり木にくくりつけられているが、ピクリとも動かない。 
 待ち伏せされている。この付近に、教会の手の者が潜んでいる。 
 鳥を囮にホラスをおびきよせ、捕らえる算段なのだ。 
 ホラスは表情を変えずに踵を返し、そこを離れた。 
 どうする? いかに優秀な魔道具フアラヒでも、小さな虫の身体で海を渡ってダイラにまで飛んではいけない。だからと言って、いまから別の遣い鷹を探すのは無理だ。鷹貸しの店には、すでに教会が手を回しているはずだ。 
 こうなったら賭けに出るしか無いが、正しい隠し場所を選びさえすれば、きっとアドゥオールが見つけてくれる。 
 ホラスは次の目標を港に定めて、通りを曲がった。 
 この街から遠ざかるには、とにかく坂を下れば良い。万が一、陽神デイナを滅ぼした男に憐憫を垂れる奇特な神が存在しているのなら、その慈悲によって活路が開けるかも知れない。だが、期待はできないだろう。それならせめて、ここから脱出できる唯一の場所に向かうしかない。 
 港に向かう途中で服や小物を脱いで、通りすがりの馬車や荷車にそっと忍ばせてから、軒先に干されていた洗濯物を盗んで身につける。この程度のことで人狼の鼻を攪乱できるのかどうか、クヴァルドに聞いておけば良かったと思いながら、足を止めずに歩き続けた。 
 港に近づくにつれて人の数が増え、さまざまな音と匂いが溢れはじめた。 
 追っ手が迫ってくる様子は? 
 ──ない。もしかしたら、このまま逃げ切れるのではないか? 
 そう思った瞬間、見えない壁にぶつかったように、ホラスは足を止めた。 
 路地の向こうには賑やかな港が広がっていた。荷の積み下ろしをしている者、所有する船が無事に航海から戻ったことを確かめに来た商人、船に乗る者、降りる者──そうした人びとでごった返している中に、銀の首輪をつけられ、後頭部に矢の焼き印がされた狼が三頭──いや、五頭居る。聖奴せいどだ。国外への逃亡を図ると踏んで、先回りしていたのだろう。 
 失望はなかった。もはや、自分が逃げおおせる望みは抱いていない。重要なのは魔道具フアラヒだけでも国外に脱出させることだ。 
 ホラスは耳にとまっていた蜂をそっと手の中に握った。そして、囁いた。 
「ダイラの匂いがする人間について海を渡れ。アドゥオールの元まで行くんだ」 
 小さな魔道具に、あまり複雑な命令はできない。同時に覚えられることはせいぜい二つだ。だが、とにかくこの場所から──自分から遠ざかってくれれば、それでいい。 
 手をひらくと、蜂は勢いよく空中に飛び出し、港を目指して瞬く間に消えた。 
「よし」 
 これで、情報がアドゥオールに届く希望が繋がった。 
 海風のおかげでこちらが風下になっているから、人狼はもうしばらくホラスの居所に気がつかないだろう。 
 ホラスは、港の雑踏の中に足を踏み出し、さらに風下に向かって歩き始めた。行く手には漁から戻ったばかりの漁船が並んでいる。強烈な魚のにおいに身を隠せれば、この場から逃げられるかも知れない。パルヴァを出たら陸路でヴァスタリアを目差し、そこから──。 
 漁船の影に身を潜めてから、肩越しにふり返る。 
 狼たちは、船に積み込まれるのを待っている荷の一つ一つに鼻を近づけて匂いを嗅いでいた。教会に所属する者だとわかるように、太い首輪には十字に交差する矢の紋章が縫い付けられていたが、人びとから向けられる視線は冷たい。 
 それでも彼らは、身を尽くして奉仕することで救われると信じているのだ。 
 これもまた、陽神デイナを倦ませた歪みのひとつだろうか。 
 そのとき、一頭の狼が何かに気付いたように顔を上げた。空気の匂いをしきりに嗅ぎながら首を巡らす。彼の視線は、港湾に設置された吊り上げ機クレーンに向けられていた。吊り上げ機は、巨大な回し車の中に入った人間が歩くことで動力を生み、荷の積み下ろしをする装置だ。人狼の視線の先には、いままさに船に積み込まれようとしている大きな木箱があった。空中で危なっかしげに揺れる貨物の上を、さっき放った魔道具フアラヒが飛び回っている。 
「どうしてあんな所に──」 
 今日はとことんついていない。よりによって、滅多に間違わない魔道具フアラヒが命令を違えるとは。『ダイラの匂いがする人間について行け』と言ったはずなのに、積み荷の匂いに反応してしまったらしい。 
 人狼が蜂に向かって吼えはじめた。吊り上げ機クレーンの車輪を回していた人足は悲鳴を上げて逃げ出し、荷は空中にぶら下がったまま放置されてしまった。 
 万事休す。 
 ホラスは頬の内側を噛んだ。 
 あの情報は、是が非でもアドゥオールに届けねばならない。この命に替えても。 
 ならば、なすべきことはひとつだ。 
 ひとは、あわやという時になるまで、自分の命や希望を顧みるのに使える時間は限られているのだと気づけない。ホラスもそうだ。 
 人混みをすり抜けながら、ホラスはマタルに思いを馳せた。 
 彼に知られないまま異国の地で死ぬのは、いいことなのかも知れない。俺たちはもう、十分すぎるほどの別離を味わった。これで最後になるのなら──きっと、それもいい。 
 せめてもう一度、彼の笑顔が見たかったが。 
 ホラスが踵を返し、人狼の気を惹くために声を上げようとしたその時──港の景色が一変した。 
 それまで晴れ渡っていたはずの空が、どこからともなく湧き出た黒雲に覆われたのだ。そして雷鳴が、巨大な獣の唸りのように轟きはじめた。まさに青天の霹靂だ。陽神デイナの加護が篤いパルヴァでは、嵐はおろか雨さえ滅多に降らないと昔から言われていた。人びとは、真っ黒に翳った空を見上げて慄いた。 
 この天気の急変がなにを意味するのか、考え込んでいる暇はない。蜂は相変わらず箱の周りを飛び回っていたし、狼は吠え続け、神官たちもこちらに向かってきている。あの蜂が奴らの手に落ちれば、大勢が死ぬ。躊躇っている時間はない。 
 ホラスは混乱する群衆の隙間を縫って、人狼に近づいていった。 
 すると、どこからともなく聞き慣れた言語が聞こえてきた。 
「ふざけんな! 船に乗るまで我慢しろ──」 
「宙づりのままでどうやって──」 
 共通語だ。しかも、ダイラの北方訛り。声が聞こえると同時に、吊り上げ機クレーンの先にぶら下がった木箱がぐらぐらと揺れはじめた。 
 そしてホラスはようやく、魔道具フアラヒが箱の周りを飛び回っていた理由に気付いた。魔道具は指示を取り違えてなどいなかった。 
「密航者か!」 
 あの木箱の中には、密航者か、亡命者か、とにかくダイラに関わっている人間が潜んでいるのだ。それはわかったが、このままでは皆まとめて処刑台行きだ。 
 なんとか、密航者たちには無事にここから出て行ってもらわねばならない。ホラスは、すぐ傍で成り行きを見守っていた荷揚げ人の肩を掴んだ。 
陽神デイナの名において、今すぐあの吊り上げ機クレーンを動かすんだ」 
「ええ!?」男はぎょっと身を引いたが、ホラスの身なりをじろじろと眺めた。「あんた、教会の人なのかね?」 
「そのようなものだ」ホラスは言い、男の手に金の入った袋を握らせた。「これで、あの荷を船に乗せてくれ。どうだ?」 
 男はずっしりと重い袋に目を白黒させたが、決断は早かった。 
「神の使いの頼みとあっちゃ、断れねえな」 
 男はすぐさま吊り上げ機クレーンによじ登り、車輪を回転させはじめた。 
 木箱の中からは相変わらず言い争っている声が聞こえるが、箱はすでに船の舷を越えていた。乗組員たちが取りつき、あわてて縄を取り外そうとしている。 
 よし。 
 自分は丸腰で、人狼に対抗できるような小道具も持っていない。逃げる算段もなければ、生き延びる手立てもない。だが、覚悟だけはできている。 
「おい!」 
 声を上げると、今度こそ、人狼がホラスの方を向いた。 
「何処に向かって吼えてる!」 
 人狼たちは牙を剥きだし、ホラスに向かって唸る。彼らの背後には、別の人狼と神官たちがかけつけようとしていた。港の人びとが悲鳴を上げて、蜘蛛の子を散らすように逃げてゆく。 
「お前たちが探している男は、ここにいるぞ!」 
 その瞬間、黒雲から無数の電閃でんせんが迸ったかとおもうと、さっき助けた木箱が爆発した。 
 箱の中に隠れていた者たちは、悲鳴と怒号をあげながらも、すぐ下で彼らを待ち構えていた船の甲板に落下した。 
 ただひとりを除いて。 
 ただひとりを、除いて。 
 彼は、宙に浮いていた。暗雲を背負い、飛電ひでんを従えて。漆黒の茨を羽衣のように纏い、主檣メインマストよりも高いところからこちらを見下ろしている。彼の背後では、うねる雲の合間を駆け抜けて、雷鼓らいこがとどろき渡っていた。まるで、彼らを総べる者の到来を歓呼するかのように。 
 炯炯と輝く琥珀色の双眸。どこか不思議そうに、じっとこちらを見つめている。 
 ホラスは思った。自分は夢を見ているのだと。 
 彼がこんなところにいるはずがない。だからこれは、どこかの神が死に際にみせてくれた、この上なく優しい幻なのだろうと。 
 それでも、名前を呼ばずにはいられない。手を、伸ばさずにはいられない。 
「マ──」 
「このクソったれ野郎!!」 
 荒っぽい罵倒が、船の上から鳴り響いた。 
 すると、はホラスから目をそらし、声の主をふり返った。 
「さっさと船に乗れ! 出航だ!!」 
「先に行って! すぐ追いつく!」 
 彼は言い、もう一度ホラスを見た。そして地面の上を歩くのと同じくらい造作もなく空を飛んで、ホラスの目の前に着地した。彼を中心に風が巻き起こり、人や積み荷を遠くへ跳ね飛ばした。 
 港は阿鼻叫喚に包まれていた。当然だろう。怖ろしげに語られる彼の物語は、この街にも轟いている。雷雨を操り、邪神を蘇らせたアシュモールの魔女。その姿、特徴の仔細にいたるまで、誰もが知っている。 
 竜の魔女。大禍殃マグナ・マルムの元凶。 
 サーリヤ族のマタル。 
 人びとは我先にと逃げ惑った。神官や人狼たちは、マタルが従える小さな嵐のなかに入ってくることができず、為す術もなく暴風の壁の向こうに足止めされていた。 
 そんな中、マタルは相変わらず、不思議そうな表情を浮かべたままホラスを見ていた。 
 ああ──大人になった。少年の面影が薄れたかわりに、確固とした自信が漲っている。 
 マタルはホラスの目をじっと見つめて、小首をかしげた。 
「俺たち……前にどこかで会った?」 
 心臓が止まったかと思った。だが、止まってはいない。いっそ止まってくれたらと願いそうになったが。ホラスは一瞬だけ目を閉じて、引き絞るような胸の痛みを握りつぶした。 
 記憶を、失っている。 
 予想はしていた。何千と予想した『最悪の結果』のうちの一つとして。だが、神の僕になることがどれほどの犠牲を強いるのかを考えれば、記憶だけで済んで幸運だった。そう思うべきだ。 
 かつて自分が、彼の記憶から消えてしまえれば良いと考えていたことを思い出す。彼を自由にするためにそうすべきだと、あの時は確かに思った。 
「どこかで見たような顔だ」マタルは言った。「俺の気のせいかな」 
 ホラスは、深く息を吸って、吐いた。 
「さあ、どうだったか」ホラスはなんとか笑みを作ろうとした。「君のような魔女を見たら、絶対に忘れないと思うが」 
「へえ?」マタルはクスクスと笑った。「見かけによらず、口が上手いんだな」 
 彼は、濃く長い睫毛に縁取られた瞳を細めて、微笑んだ。 
「俺たちの船に来るといいよ。どうやら面倒に巻き込まれてるみたいだし」そう言って、嵐の障壁の外側で剣を振りかざしている神官たちを一瞥してから、ホラスに手を差し出した。「どう?」 
 断れと、理性が強く訴える。 
 情報は無事だ。役目は果たしたのだから、舞台を去るいい頃合いだ。 
 断れ。このまま、彼を自由にしてやるんだ。 
 だが、ホラスは覚えていた。別れの瞬間を。彼の言葉を。 
「ずっと待ってる」 
 ホラスはハッとして、マタルを見た。 
「──ってわけにも行かないんだけど」 
 マタルは、ホラスの驚いた顔に笑った。 
「迷ってるなら、行こう! 船酔いが怖いなら話は別だけど、ここよりはマシなはずだ」 
 その瞬間、自分の心を押しとどめていたものは、消えた。 
 ホラスは微笑んだ。 
「船酔いは、治ったよ」 
 そして、マタルの手を取った。 
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