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 マルディラ ディッガーロ監獄 
 
 マリシュナ号にマタルを乗船させてからというもの、フーヴァルは彼のことを注意深く観察してきた。 
 死霊術を使うアシュモールの魔女。暁の女神アシュタハの寵愛を受けたナドカ。一度は竜に変化へんげしながらも、呪いの元凶デイナを滅ぼして再び元の姿に戻った男。幽霊船団〈嵐の民ドイン・ステョルム〉を呪文ひとつで冥府に送り届けた、あの夜の戦いぶり。 
 ゲラードは、持ち前の暢気さで「乗組員なかまが増えるのは嬉しいね」とか何とか言っていたが、船長としては彼を警戒しないわけにはいかなかった。おまけに、いい仲になった男と離ればなれというおまけつきときている。 
 最高だ。彼にまつわる山ほどの逸話を別にしても、欲求不満の魔女ってだけで十分に危険だってのに。 
 船出前、フーヴァルはマタルに釘を刺した。 
「足手まといになると思ったら、その日のうちに海に放り投げるからな」 
 すると彼は、琥珀色の瞳をキラリと光らせて言った。 
「俺の船に負け犬は乗せない、だっけ?」そして、金の被せ物をした犬歯を覗かせて、ニヤリと笑った。「安心していいよ、船長。俺は絶対に足手まといにはならないから」 
 ディッガーロ監獄の湿った監房の床に蹲って、目を閉じているマタルを見る。少年のような屈託のなさと、燃える情念を抱えた魔女。 
 結論を言うと、マタルが足手まといになることはなかった。それどころか、彼ひとりでナドカ十二人分くらいの働きぶりをみせた。あの魔法の文身がひとたび蠢き出せば、宙を舞う剣だろうが、そらを掴む翼だろうが、どんなものにも姿を変える。殺されたナドカの魂を呼び戻して生き残りの隠れ場所を聞き出すなんて芸当は朝飯前。時には、墓場に眠る死体をたたき起こして戦いに加勢させたこともあった。要するに、規格外のナドカだ。とは言え、索具リギンの名前や役割を覚えるとなるとからっきしだし、索や帆の修繕をさせてもゴミを生むだけだから、船乗りとしては全く使い物にならないのだが。 
 航海が長引くにつれ、フーヴァルは、今度は逆の意味で警戒を強めた。 
 ゲラードからは、かなり早い段階から忠告を受けていた。 
「マタルは自分の中の何かを削って力に変えることに慣れてしまっているようだ」と。 
 その抽象的な言葉が、まさか、記憶を魔力に変えているという話に繋がるとは思ってもみなかった。 
 魔女は激情のナドカとも言われる。デーモンもどちらかといえば気分屋の気質だが、彼らが重んじるのは陶酔だ。芸術への陶酔、仲間との連帯感による陶酔、仕事に殉ずることへの陶酔──だからこそ、デーモンは船乗りに向いている。一方、魔女は火花を愛する連中だ。それは熱情の火花であり、怒りの火花でもある。その火花が間違ったところに飛んでいけば火種となり、やがては全てを焼き尽くす劫火となる。炎こそ、魔女の力の源だ。イルヴァの指揮下にある乗組員たちのことをよく知るフーヴァルは、彼女たちの激情の力強さと危うさを理解していた。 
 記憶は脚荷バラストだ。 
 過去の経験──多くは痛み──があるからこそ、ひとは最後の一線を越える前に踏みとどまることができる。だが記憶を捨ててしまえば、炎に巻かれた紙人形のように、どこまでも舞い上がって戻ってこられなくなる。そして、燃え尽きて灰になる。 
 聞き分けの良い奴ほど、そういう結果に陥りやすいものだ。あのアシュモールの魔女には、それを警戒させる危うさがあった。 
 
 夜が深くなっても、この監獄では灯を落とさない。 
 回廊に灯されたランタンの明かりは、監房の中をぼんやりと照らし続け、囚人たちに秘密を持つ自由を与えなかった。牢の隅には汚水がたまり、胸が悪くなるような匂いを放ち続けている。何十年前からここにあったのかもわからない、腐った藺草いぐさの上に横になっても、石の床の寝心地が良くなるわけでもない。そうでなくても、六人がようやく横になれるかどうかという大きさの牢に十二人もの囚人を詰め込んでいるのだから、まともな休息など望むべくもなかった。 
 この牢に入って、これで一週間。ここに来て二日目に、点呼並みの早さで行われた裁判によって全員焚刑に処されることが決まった。まだ炭になっていないのは、処刑すべきナドカの数が多すぎてフーヴァルたちにまで順番が回ってきていないからだ。ここでは、一日に十人のナドカが処刑されている。広場に柱を立て、そこにナドカをくくりつけては燃やすのだ。 
 ここの囚人たちは、毎日断末魔の悲鳴を聞き、肉が燃える匂いを嗅いでいる。 
 弱音など吐きたくはないが……これ以上ここに居たら、気が狂いそうだった。 
 〈浪吼団カルホウニ〉の面々は──マタルも含めて──気にしない振りをしている。だが、皆に限界が近づいているのはわかった。薄明かりに晒されながらどうにか貪る眠りの中で、部下たちはひどい悪夢に魘されている。その恐怖の汗の臭いが、石壁に染みついてしまうほど。 
 フーヴァルは、自分の船室の外で夜を過ごすときの常で、片眼をあけたまま眠っていた。半分ずつ頭を眠らせるのは、フーヴァルにとってはそれ程難しい芸当ではないのだ。とんでもなく不気味だと、部下たちには不評だが。 
 いま目覚めている方の目は監獄の壁に向けられていた。ほの明かりが、古びた石壁の凹凸に、曖昧な影を生み出している。 
 その影が、動いた。 
 フーヴァルは両目を開け、身を起こした。 
 壁に映った影が、鉄格子が投げかける影の合間を縫うように飛ぶ。それは燕の姿をしていた。 
 フーヴァルは安堵のため息をついた。それから、海に飛び込む直前にするように、深く息を吸い込んだ。 
「おい」 
 隣で眠っていたアーナヴをつついて起こす。 
 彼の眠りも浅かったようで、すぐに目を開け、視線で問いかけてきた。 
 ──決行か? 
 フーヴァルは頷いた。 
 それからいくらもしないうちに、十二人全員が目を覚ました。一週間ぶりに暴れることができるとあって、どの目にもキラキラとした光が戻っていた。 
 その時、監房の鉄格子をコツコツと叩く音がした。 
「遅くなってすまない」 
 看守の服を着たゲラードが鉄棒の隙間から顔を見せた。その手には、監房の鍵が握られていた。 
 感謝と誇らしさと、一週間ぶりに拝んだ恋人の姿に、緩みそうになる気持ちをぐっと抑えつける。 
「他の連中は?」 
 ゲラードは頷いた。「十人連れてきた。残りは船に残って出航の準備をしてる。ミラネス殿のご家族は、すでに船で保護しているよ」 
 鍵束かぎたばを繰りながら正しい鍵を探す彼の目が、銀色に輝いている。 
「ただ、最初に決めた入り江には見張りがいて、場所を変えなきゃならなかったんだ。それで、こんなに遅くなってしまった──これかな」 
 ゲラードは、無数の鍵の中から選び出した一本を鍵穴に差し込んだ。すると当然のように、扉が開いた。 
 それから、ゲラードは他の船員たちの手枷を外していった。 
「よし」フーヴァルは頷いた。「マタルとオーウィン、ガルは俺と来い。残りはガルが連れてきた十人と合流して、他の囚人たちを逃がしてやれ。アーナヴ、一番上から始めろ」 
了解アイアイ」 
 各々が頷く。フーヴァルはにやりと笑った。 
「ようやく上手い空気が吸えるぜ、野郎ども」 
 
 牢を抜け出すと、回廊のいたるところで看守や衛兵が倒れているのに出くわした。オグウェノ特製の眠り薬を葡萄酒の樽にこっそり混ぜる計画はうまくいったようだ。囚人は酒を飲まないが、看守たちには許されている。ここの看守どもの酒量は船乗りより多い。酒にでも縋らなければ正気を保てないのかも知れない。 
「今のところは、首尾よくいってるな」フーヴァルが言った。 
「今のところは」足早に歩きながら、ゲラードが頷く。 
「薬の効き目はあとどれくらいだ?」 
「二刻ほど」 
 フーヴァルは頷いた。「それだけありゃ、十分だ」 
 オーウィンは少しばかり不満そうだった。「全員で殴り込めば、こいつらが二度と目覚めることもねえのによ」 
「彼らも、誰かに命令されてここにいるんだよ、オーウィン」ゲラードが言った。 
 吹き抜けに巻き付く螺旋のような構造をした、この監獄には階段がない。そのおかげで、ぐるぐると回りながら降りてゆくフーヴァルたちを阻む物はほとんどなかった。 
 監獄のあちこちから、鉄格子が開いていく音が聞こえてきた。抑えた喜びと興奮の声、降って湧いた幸運を疑う慎重な声とが、吹き抜けで繋がった監獄を満たしていく。 
 フーヴァルたちは、監獄の下層を目指して走った。 
「今更だけど、本当に罪を犯した囚人もいるんじゃないの」マタルがひそひそ声で尋ねた。 
「いた、と言うべきか」ゲラードが答えた。「正式な裁判によって罪が確定していたものたちは、すでに処刑された後だった。いま収監されているのは、ナドカだというだけで捕まってしまったひとたちばかりだ」 
 そこから先は、計画に疑問を差し挟む者は居なかった。 
 この監獄の最下層に捕らえられている人狼のセベロ・ミラネスはマルディラの軍の事情に通じている。彼を救い出すことができれば、大陸の国々に対する防衛戦略を強化できる。これほどの危険を冒してまで、彼を救出しようとしている理由の一つがそれだった。 
 薬の効きがいまいちで、朦朧としながらもまだ目覚めている看守にも時折出くわした。だが彼らは声を上げる前に、オーウィンかマタルのどちらかによって床に沈まされていた。 
「あそこだ」 
 息を切らしながら、ゲラードが言う。 
 そこは石の壁と、分厚い鉄の扉とで封印された地下室だった。この監獄の最下層にして、他の階層と隔てられた唯一の場所でもある。 
 門を守る四人の衛士たちは目覚めていた。だが、ここが隔離された場所だったのが幸いして、上階の囚人たちが次々と脱獄していることには、まだ気付いていない。 
 一行は、壁の凹所に身を潜めて、様子を窺った。 
「俺がやる」マタルが言った。 
「静かにな」 
 マタルは琥珀の目を光らせて頷くと、右耳の封鐶を外した。すると、浅黒い顔や首筋に、茨の刺青が音もなく巻き付いた。 
 彼は呪文さえ口にしなかった。 
 彼が掲げた両腕には、漆黒の短剣を思わせる刺青が浮かび上がっていた。踊るような足取りでくるりと回転すると、短剣が宙に浮かび、マタルを取り囲む。 
「眠らせるだけでいい」とゲラードが口を挟んだ。 
 フーヴァルは、マタルの顔に、怒りと悔しさが入り交じった感情が過るのを、確かに見た。 
 だが、彼はゲラードに逆らわなかった。 
 見張りがマタルに気付いて、声を上げようと口を開く。 
 漆黒の剣は、ひとかたまりの群れとなった椋鳥のように、マタルの周りを旋回していた。彼はそのうちの四本を飛ばして──柄の側で──見張りたちの額を強く打ち据えた。壁を背にして立っていた見張りたちは瓜が砕けるような音をさせて後頭部を壁にぶつけ、ずるずると床に頽れた。 
「大丈夫。中身は出てないよ」マタルは見張りを一瞥して言った。 
「お見事」 
「ありがとう、オーウィン」マタルは優雅な辞儀をしてみせた。 
「よし。さっさと助け出してずらかるぞ。ガル、鍵だ」 
 ゲラードが頷き、倒れた看守の腹帯ベルトから鍵束を取り上げた。鍵は三本あった。そして、鍵穴も三つ。それほど厳重に監禁しておかなければならないほど、手強い囚人だと言うことだ。彼がエイルの味方についてくれれば、さぞかし活躍してくれるだろう。 
「いいねえ」 
 カチャリと音を立てて、鍵が開く。苦戦した末に落とした船の船艙に乗り込むような心持ちで、フーヴァルは扉に手をかけた。そこで何を見ることになるかを、想像さえしていなかった。 
「待ってくれ」 
 ゲラードが、引き手を握るフーヴァルの手を押しとどめる。 
「なんだよ?」 
 ゲラードの目が、銀色に輝いていた。直視できないほど眩く。だが、その表情は強ばり、薄闇の中でも見て取れるほど青ざめていた。 
 彼は、フーヴァルの手を握る力を抜いて、言った。 
「……手遅れだ」 
「何? 死んでるのか?」 
 ゲラードは首を振った。「死んではいない。けれど──」 
「だったら、すぐ助けないと」 
 扉を押し開けたのはマタルだった。重い鉄扉が軋みながら開いた瞬間、息の詰まりそうな悪臭が、正面からもろにぶつかってきた。 
「う……っ!」オーウィンが呻き、口に手を当てる。「なんなんだ、この匂いは……」 
 地下室には、小さな監房が一つだけあった。そこには、確かに狼がいた。 
 がいた。 
「もしかして……彼が?」 
 セベロ・ミラネスは、狼の姿のまま首輪をつけられ、牢に繋がれていた。肋骨がくっきりと浮かび上がるほど痩せさらばえ、汚れきった被毛もほとんどが抜け落ちている。牢の中には、襤褸切れや藺草いぐさに染みこんだ汚物が溜まり、層のようになっていた。不潔な環境に長く留め置かれたせいで、剥き出しの皮膚は炎症を起こし、赤く爛れている。金色の眼がギラギラと光り、口の周りは、ボタボタと垂れ続ける唾液でぐっしょりと濡れていた。 
 明かりが乏しくても、はっきりとわかる。彼が正気を失いかけていることは。 
 ゲラードにも、それはわかっていたはずだ。だが彼は、檻の前まで進み出て膝をついた。 
「ミラネス殿どの」彼は落ち着いた声で話しかけた。「わたしは、ゲラード・スカイワードと言うものです。エイルの遣いと共に、あなたを助けに参りました」 
 狼は身を低くし、歯をむき出して唸った。ゲラードは、鉄格子の隙間から彼に手を差し伸べようとした。 
「馬鹿!」 
 顎がガチンと鳴るほど強く、狼がその手に噛みつこうとした。フーヴァルが身体ごと引き寄せて居なかったら、ゲラードは右手を失っていただろう。 
「なにしてやがるんだ、このクソ馬鹿野郎……もっと慎重に考えて行動しろ!」 
「すまない」 
 フーヴァルの腕の中で、ゲラードは悔しげに俯いた。謝罪の言葉はフーヴァルに向けられたものなのか、それともに向けられたものなのか。 
「彼は……長いあいだ獣の姿で居すぎてしまった」ゲラードはひび割れた声で言った。「ひととしてのが、もうほとんど残っていない」 
「どういうこと?」マタルは、ゲラードに詰め寄りかねない勢いだった。「まだ助かるんだろ? 今すぐここを出て、身体をきれいに拭いてやって、何か食べさせてやれば──」 
 ゲラードが、ゆっくりと首を振る。そして、言った。 
「彼が、それを望んでいない」 
 マタルの顔から、表情が消えた。 
「そんなの……わからないだろ。このひとは喋れないんだから。あんたが勝手に──」 
「そうじゃない」 
 ゲラードは言った。彼の目には、再び銀の欠片が踊っている。暗闇の中で、その光は、まるで粉雪のように見えた。 
「人狼という種族は、長いあいだ狼の姿をとり続けると、人としての理性を失う。そうなれば……その者はもう、人でも狼でもない孤独な存在になり果ててしまう。それがどれほど怖ろしいことなのか……人狼でないものには、理解できない」 
 ゲラードはもう一度、牢に近づいた。今度はより断固とした表情で。部屋の壁に掛けられていた鍵を手に取り、鉄格子を開ける。 
 フーヴァルが口を開きかけたけれど、ゲラードは手の動きだけで、それを止めた。 
 こうなると、どんな言葉も彼には届かない。 
 ゲラードは牢の中に入り、狼の前に再び膝をついた。 
 狼は、ただじっとゲラードを見つめていた。先ほどまでの凶暴さは消えていた。そして何かを窺うように、自分とゲラードの間にある空気の匂いを嗅いだ。 
「ミラネス殿どの」ゲラードは言った。「あなたの望みは?」 
 狼は悲痛な声でクウンと鳴いた。何かを乞うように頭を下げると、重い首輪を嵌められ続けたせいですり切れ、血の滲んだ首筋が露わになる。 
 マタルは一瞬、その姿から目をそらし──そして拳をきつく握って、再び彼を見た。 
 ゲラードが、彼に手を差し出した。 
 ミラネスは手にすり寄り、目を閉じた。 
「彼の身体は」声が震えている。「内臓まで、もう……手の施しようがない」 
 再び目を開けたとき、ゲラードの目から涙が零れた。 
「苦しかったですね」 
 噎び泣くような声で、ミラネスが鳴いた。 
「自由に……なりたいですか」ゲラードが、静かに尋ねた。 
 狼はクンクンと鼻を鳴らして、ゲラードの手のひらをそっとつついた。 
「奥方とご息女は、ご無事です」ゲラードは言った。「必ず、無事にエイルまでお連れします」 
 その言葉に、狼は深いため息をついた。そして大儀そうに座り込むと、ゆっくりと腹ばいになった。 
 その悲しげな目は、ゲラードの隣の何もない空間に向けられていた。彼の耳がぴくぴくと動き、尾が力なく振られた。 
 ああ、そこに来ているのか。 
 フーヴァルは前にも、ゲラードのカレフの真の姿を見たことがある。貴銀しろがねうから以外でその姿を見られるのは、カレフ──精霊に許された者だけだ。 
 そしていま、フーヴァルたちは許されていない。 
 これは、いわば秘蹟の儀式だった。 
「あの人は、何を──?」 
 フーヴァルは視線でマタルを黙らせた。それぐらいしか、してやれることはない。 
 ゲラードが、狼──セベロ・ミラネスの頭に手を乗せる。彼は痩せ衰えた腹を何度か大きく膨らませて、息をした。それから小さく、啜り泣くような声を上げ──死んだ。 
 マタルが、声にならない声を漏らした。彼の目には、青い光を放つ狼の身体から旅立った二つの魂──人間と、狼のもの──が見えたのかも知れない。 
 彼は「ひどい」も「何で」も言わなかった。けれど頭の中では、その二つが渦を捲いていたはずだ。この場にいる全員がそう感じていた。口に出すには、あまりにも途方もないから黙っているだけだ。 
 やがて、ゲラードが牢から出てきた。彼の頬は涙に濡れていた。 
「彼を、きちんと埋葬してやらなければ」ゲラードは断固とした声で言った。「マルディラの人狼は、荒野の土に還るのが習わしだ」 
「わかった」フーヴァルは頷いた。「なら、まずはここからずらからねえとな」 
「俺が彼を運びます」オーウィンが進み出て、牢の薄汚れた床から大きな狼の遺体を抱き上げた。 
 マタルは、狼が居なくなった空っぽの檻を見つめていた。 
 その時、けたたましい鐘の音が鳴り響いた。続いて、大勢の人間が発するマルディラ語が、上階から降ってきた。 
「クソ、もう増援が来やがった」 
 ここで時間をとられすぎた。だが悔やんでいる暇はない。フーヴァルは地下室の扉を閉めて、内側から閂をかけた。時間稼ぎにしかならないだろうが、それで十分だ。 
「抜け穴は?」 
「こっちだ!」 
 ゲラードが言い、地下室のさらに奥へと進んだ。 
 らせん状の階層の尽きるところに下水道への開口部があることを、下調べで探り出していた。ゲラードは、聞き取り調査を元に自ら書き起こした図面を、頭の中に叩き込んでいるはずだ。 
 だが、問題の排水口に辿り着くと、あらたな絶望が待っていた。この地下室から監獄の外へと続く唯一の出口が、打ち付けられた木板で塞がれていたのだ。 
「クソ……!」 
 新しい木材を使っているところを見ると、塞がれたのはつい最近だ。何者かが牢獄について調べているという噂が立っていたのかも知れない。 
「これくらい、時間があれば引っぺがすくらいわけはねえです」オーウィンが言った。 
「だが時間がねえ。他の逃げ道は?」 
 ゲラードは首を振った。 
 背後から、鐘を鳴らすような音が響いた。兵隊どもが、鉄の扉に押しよせて体当たりをしているのだ。ちっぽけな木の閂では、そういくらも持たないだろう。 
 その時、マタルが立ち上がった。 
「俺が行く」 
 フーヴァルは、一瞬だけ目を閉じた。 
 そう言い出してくれたらと思っていたのだ。だが── 
「これ以上魔法を使えば、君の記憶は完全に失われてしまうかもしれない」ゲラードは、マタルの手に触れた。 
「それでも、いい」マタルは言った。「行かせてくれ、船長」 
 フーヴァルは目を開けて、マタルを見た。 
 琥珀色の目は、闘争を求めて輝いている。怒りの火花が、彼の周りで踊っているのが見える気がした。 
「わかった。行ってこい」フーヴァルは言った。「でも、かならずマリシュナに戻ってこい。旗印は覚えてるな?」 
 マタルは頷いた。「ああ、魚を食べる骸骨」 
 魚じゃなくて鮫だが、訂正している暇はない。 
「それじゃ──」 
 行きかけたマタルの背中に、ゲラードが呼びかけた。 
「ホラスだ、マタル。ホラス・サムウェル。君の愛しい人の名前だ」ゲラードは、その名を繰り返し口にした。「忘れちゃ駄目だ。この名前だけは」 
 マタルは一瞬だけ振り向き、微笑んだ。 
「ありがとう、ガル」 
 その笑顔は何故か──なにかを、謝っているように見えた。 
「俺のことは待たないで、できるだけ急いでここを出て」マタルは言った。「夜明けには戻る」 
 マタルが駆けていった先で、何かがぶち破られる音がした。それから先は、悲鳴だけが聞こえた。 
 彼が時間を稼いでいる隙に、フーヴァルとオーウィンは、脱出口を塞ぐ板を二人がかりで剥がし始めた。爪が割れ、血が溢れたが、痛みは感じなかった。 
「急げ、急げ!」 
 なんとか覆いを引き剥がすと、オーウィンがさび付いた鉄格子を蹴破った。これで出口が復活した。フーヴァルは後ろをふり返った。マタルの姿は見えない。 
「行くぞ!」 
 フーヴァルは言い、薄暗い地下道の入り口に飛び込んだ。 
 瘴気のような悪臭に満ちた下水道を、三人は無言で走った。頭上で起こっている戦いの激しさは、地下に居ても伝わってきた。土埃が雨のように降り注ぎ、下水に住み着いた鼠たちは慌てふためきながら出口を目指している。 
 先頭に立って走るゲラードが、一度だけ、自分の拳を壁に打ち付けた。彼が怒りにまかせてそんな真似をするのを見るのは、これが初めてだった。 
 やめとけ、と声をかけても良かったのかも知れない。だが、フーヴァルは何も言わなかった。救えなかった無力感──その重さを、痛いほどよくわかっていたから。 
 
 翌朝フーヴァルたちは、マリシュナ号の上から、かつて監獄があった場所からもうもうと立ち上る黒煙を見ていた。 
「あれじゃ、あそこにいた人間は皆死んだろうな」誰かが言った。 
「いい気味だ」と、別の者が答えた。 
 乗組員たち全員をやきもきさせながらも、マタルはそれから半日後、無事に船まで飛んで戻ってきた。 
「魚を食べてる骸骨!」 
 そう言って旗印を指さし、彼は笑った。幾分疲れた笑顔ではあったけれど、無傷だった。かすり傷一つ負っていなかった。 
 それを喜ぶ半面──やはり、怖ろしいと感じるべきだとフーヴァルは思った。 
「お前の言う『夜明け』ってのは、真っ昼間って事か、マタル」 
 彼は悪びれずに笑った。「荒野の民バーディヤにとってはね」 
「おかえり」ゲラードは彼を抱きしめた。「あのひとの亡骸は、出航前にちゃんと埋葬したよ」 
「よかった」マタルは小さく微笑むと、言った。「俺も、誰も殺さずにすんだ」 
 フーヴァルは耳を疑った。 
「あれだけ派手にぶっこわしておいてか?」 
 マタルは気まずそうに笑った。「確かに、力の加減を誤ったかもしれない」 
 どうやったら、地上六階建ての巨大な円塔を倒壊させられるのかはさておき、彼が怒りを抑え込んで人死にを避けた事の方に、フーヴァルはより驚いていた。 
「小さい穴を開けるだけのつもりでいたんだ。けど、当たり所が悪かった。全部崩れそうになったから、全員穴の外に放り投げたよ。骨が折れるくらいはしたかもね。でも、軽いもんだろ」マタルは肩をすくめた。「とにかく……そんなことをしてたら、魔力をほとんど使い果たしちゃって。戻るのに時間がかかったのはそのせいなんだ」 
 彼は、ゲラードのもの問いたげな顔を見て察したらしい。 
「そりゃあ、俺だって……連中に思い知らせてやりたかった。でもそれをやったら、ナドカを迫害する理由を、また作ることになってしまう」 
 マタルは微笑んだ。本当は泣きたいと思っているような笑顔だった。 
「俺は二度と、同じ間違いは犯せないんだよ」 
 ゲラードはマタルの頬を両手で包んだ。「君は、ほんとうに凄い魔女だ」 
「知ってる」そしてマタルは、今度こそ本当に笑った。 
 ゲラードは彼に微笑み返してから、一つの質問をした。それは、今までにも繰り返し、彼に投げかけてきた質問だった。 
「マタル。君の望みは?」 
 笑みを拡げて、淀みなく答える。 
「ナドカたちを救う」 
 彼はマリシュナ号の船上で自由な空気を愉しんでいる元囚人たちを見回した。 
「もっともっと、大勢の人を助けるよ。次は、今日より上手くやる」 
「そうだね」ゲラードは、穏やかに尋ねた。「捜し物は、みつかった?」 
 マタルは笑顔を曇らせた。そして、怪訝そうに眉を顰めた。 
「捜し物って?」 
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