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 ダイラ 旧アルバ エドニー 
 
「こういう景色を見ると、田舎暮らしも悪くないって思わないか」 
 天幕の群れを取り囲む緑の丘と、どんよりと曇った空模様を眺めて、トムソンが言った。 
「思わない」キャッスリーはむっつりと答えた。「思わないし、お前に田舎暮らしなんか無理だ。半日ともたずに音を上げる」 
 トムソンは片眉をあげてキャッスリーを見た。心外だと言わんばかりの顔。彼が立っているのが舞台の上なら、観客を魅了したかも知れない表情だが、ここは舞台の上ではない。旧アルバ領の北西、エドニーにある北部叛乱軍レバルズの宿営地だ。 
「さすが、人間観察が得意だな」 
 トムソンは、こうした無害な言葉の裏に『根暗野郎』という真意を潜ませ、それを相手に伝える能力の持ち主でもあった。 
「いいから、あんまり無駄口を叩くな」キャッスリーは釘を刺した。 
 トムソンは自分のことをあまり話さない。だが、マチェットフォードの生まれだということは聞いたことがある。様々な生い立ちの商人や船乗りで溢れたあの街で、日がな一日人間を観察していたおかげで、類い希なる観察眼と演技の才能をものにした──そう、自分で得意げに語っていた。マチェットフォードを捨てて王都に来た理由は知らない。尋ねても話しはしないだろう。 
 そんな鍛錬のたまものと言うべきか、トムソンのアルバ訛りは見事だが、それでも、耳の良いものには聞き分けられるのではないかと、気が気では無かった。 
 この国がダイラによって統一されるよりも昔。ここが小大陸と呼ばれていた頃、領主間での諍いが頻発していたアルバには、それぞれの領主が傭兵団を抱える風習があった。アルバ人はとにかく戦いを好み、何かというとすぐ家同士の戦いに発展する。傭兵団はその家の懐刀であり、結婚の持参金の代わりになるほど必要不可欠な存在だった。彼らの多くは、アルバの内紛に影響を受けることのない外国人で、多くはイムラヴやエイルから流入した民だった。彼らは長い年月をかけてアルバに定着した。 
 重く巨大な得物を好んで使う傭兵の血と、アルバの伝統的な戦い方を洗練させてきた騎兵の血が混ざり合った結果生まれたのが、野戦に長じた叛乱軍レバルズつわものたちだ。 
 アルバは、ダラニア島の中で最も早くダイラに併合された国だ。アルバ総督に任命されたオロッカ家がアルバの古い王家の家系だったこともあり、ダイラによる支配が始まった当初は、関係は良好だった。 
 ところが百年ほど前に、オロッカ家の当主は突如反逆罪を言い渡された。すげ替えられた新たな総督は生粋のダイラ人で、他の多くの人びとと同じように、アルバ人は野獣同然の野蛮な民族だと考えた。新総督の座におさまったファーナムは、アルバで特別に許されていた自由信仰の権利を撤廃し、税率を上げ、己が好き勝手に発布した条例を次々に課した。前総督の右腕として仕えていたデーモンの一族を追放し、領主たちが抱えていた傭兵団の解散を命じた。解散させられた傭兵団が北部叛乱軍レバルズを名乗って暴れはじめるのに、そう時間はかからなかった。以来、およそ百年に亘って、ダイラとアルバの紛争は続いている。 
 叛乱軍と一口に言っても、何十という軍団が独立して存在しているのが実情だ。〈赤き手ラーヴ・ジェラク〉、〈フーラの砦アル・フーラ〉、〈亡霊サーラ〉などが代表的な軍団で、その中で最も大きな勢力が、ダンカン・ミドゥンが率いる叛乱軍〈大いなる功業クレサ・モール〉だ。 
 叛乱軍への援助を──もちろん、秘密裏に──行うものにも様々な派閥が存在する。領主であったり、街の商業組合であったり、村で金を出し合って雇っている場合もある。いままで叛乱軍同士が手を取り合い、ダイラへの叛乱を企てなかった理由もそこにあった。彼らを支援しているものの中には、ダイラにすり寄る者もいれば、激しく拒絶する者も居る。それぞれ思惑の異なる支援者を持つ故に、ダイラとの諍いが国境での『小競り合い』以上の事態に発展することもなかった。 
 事情が変わったのは、つい数年前、〈アラニ〉と〈大いなる功業クレサ・モール〉との同盟が成ってからだ。国王への反旗を翻す二大勢力が手を組んだことにより、今までくすぶっていた叛乱の機運は一気に高まった。いま、各地の叛乱軍レバルズは総出でひとつの場所を目指している。彼らの目的地こそ、〈大いなる功業クレサ・モール〉の総大将、ダンカン・ミドゥンが陣を構える──ここ、エドニーなのだ。 
 いま、キャッスリーとトムソンの周りにいるのは、百年間の圧政に対する怒りを抱えた生粋の戦士たちと、彼らに賛同し、畑や家畜を捨てて叛乱軍に加わった数千人の志願兵だ。間諜が紛れ込んでいると知られれば、その場で八つ裂きにされるだろう。 
 二人は、ふる国境くにざかいにある小さな村から叛乱軍に参加したアルバ人ということになっている。キャッスリーが吸血鬼である事実をあえて隠さずとも、軍には加えてもらえた。旧アルバ領は昔から、人口が少なく王の目が届きにくい場所だった。おまけに自由信仰の気風が生き続けているから、ナドカたちにとっては生きやすい土地だ。おかげで、ここではナドカもそれほど珍しがられない。ここまでは、アラステア・マクヒューの思惑通りに事が運んでいる。順調だろうがそうでなかろうが、生きた心地がしないのには変わらないが。 
「何が田舎暮らしだ、まったく」キャッスリーはぶつくさと文句を言った。 
 なだらかな丘は岩がちで、苔だか草だかわからない緑のものに覆われてはいるが、立木は一本も見当たらない。木が根を張るだけの土壌がないのだ。長年都会で暮らしてきたキャッスリーにしてみれば、こんなところは田舎ですらない。ただの未開の地だ。まともな人間やナドカの住む場所ではない。 
 だが、まともな人間やナドカだったら、国王に対して叛乱を起こそうとはしないだろう。そう考えると、どう見繕っても到底まともとは言えないトムソンのような男を送り込むマクヒューの計画を無謀と決めつけるのは、早計かもしれない。 
 キャッスリーはトムソンを見た。焚き火の前に腰を下ろし、配給のポリッジを美味そうに食べている。他の兵士たちと同じように振る舞い、同じような雰囲気を醸し出している。軍に加わった経験などありはしないのに。 
 トムソンは主役向きの役者ではない。容姿は平凡で、ひとたび人混みに紛れ込めばすぐに見分けがつかなくなる。身体は鍛えているが、筋骨隆々というほどでもない。主役に向いていたのはいつだって、容姿端麗なアドコックだった。トムソンには道化や人外ナドカ、背中の曲がった老魔法使い、狂った博士や暴虐な君主──そんな役ばかりがよく似合う。舞台の上を華やかに彩りたいなら、見目の良いアドコックはうってつけだ。だがひとたび幕がおりてみると、観客の印象に残るのはトムソンの演じた役だ。主人公を謀り、呪い、惑わす者として、観客の憎しみや驚嘆を一身に浴びる。そんな役を、劇作家の想像以上に演じきることができるのは彼しかいない。 
 舞台を降りれば、パッとしないごく普通の男に見える。だからこそ、彼は詐欺を働く標的の心につけいることができるし、騙される方もこの男の言葉を信用してしまうのだった。 
「おーい、書記クラークを見なかったか」 
「ここだ!」 
 トムソン──ここでは『トヒル』という偽名を使っている──が手をあげる。書記クラークとは、ここでのキャッスリーのあだ名だ。 
 若い兵士はホッとした顔で、トムソンとキャッスリーが囲んでいた、小さな焚き火のところまでやって来た。 
「ここにいたのか。よかった」 
「どうかしたのか?」 
「アイ」彼はいそいそと焚き火に手をかざした。「誰かが探してたよ。あんたを呼んできてくれってさ」 
「誰かって?」キャッスリー、もといクラークは、のっそりと立ち上がった。 
「さあ。でも、総大将の天幕の中から呼びつけられたんだから、お偉い誰かさんだろ。近々、〈アラニ〉の幹部と会合があるって言ってたし、そのことじゃないか」兵士はキャッスリーが座っていた丸太の上にそそくさと腰を下ろした。 
「なあ、〈アラニ〉の幹部って誰かな」そんな彼に、トムソンが見事なアルバ訛りで尋ねる。「コナルが出てくると思うかい?」 
「まさか! あんな大物、滅多に人前に出てこない」 
「でも、こっちからはミドゥンが行くんだろ?」 
「そうだとも。だが連中は何かってぇと秘密、秘密だ……」 
 蓋を開けてみれば、トムソンは間者に向いていた。 
 昔、彼がこう言っているのを聞いたことがある。 
「俺は人を騙すのが好きなんだ。皆が俺の言葉を真に受けて、怒ったり、喜んだり、涙まで流す。こんなに気持ちのいい遊びは他にないね。だから役者なんて商売をやってるうえに、暇を見つけちゃ人を騙して金儲けをするんだ。お前も試して見ろ。簡単だし、もの凄くいい気分だ」 
 彼は天性の役者であり、役者というのは、つまるところ嘘つきなのだ。 
 吸血鬼と連れだって北部叛乱軍レバルズに加わろうとした経緯を聞かれたとき、トムソンは、その場にいた兵の半分を泣かせた。比喩ではない。本当に泣かせたのだ。 
 
「こいつの母親は女手ひとつで息子を大学にいかせたんだ。わかるだろ? 並の人間にゃそんなことできない。ほんとうに立派なひとさ。ところがだ、当の息子は学位をとっても、なかなか故郷に帰ってこないんだ。そのうちに、彼女はとうとう病に倒れちまった」 
 気の毒に、という声に重々しく頷いて、彼は続けた。 
「アイ。長年の気苦労がたたったんだろう。まだ若いのに、彼女はまるで老婆みたいに真っ白な髪をして、肌もしわくちゃになってしまっていた。俺はどうにも忍びなくてな……。息子を連れて帰ると約束してデンズウィックに行った。見るに見かねてってやつだ。俺とこいつは幼なじみで、ガキの頃からなんでも一緒にやったもんだった。どうもおかしいと思ったよ。こいつはお袋さんのことを、そりゃあ大事にしていたからなぁ」 
 居並ぶ男たちも、自分の母親に思いを馳せていたのだろう。この時点で、すでに目に涙を溜めている者もいた。 
「くだらん理由でお袋さんを放っておいたんだったら、一発ぶん殴ってやろうと思ってた。ところが、いざ再会してみると、こいつは……悪い男に騙されて、ご覧の有様さ。吸血鬼にされちまってたんだ」 
 おお、という同情の声があがり、男たちの視線がキャッスリーに集まった。こんなにいたたまれない気持ちになったのは、子供の頃、仲間たち全員がみている前で馬の糞を踏んづけて転んだ時以来だった。 
「帰りたくないと抜かすこいつを、俺はなんとか説得しようとした。でも、こいつときたら手に負えない頑固頭で……冷たい手じゃ、お袋に触れない! とな……」 
 とうとう、男たちの中から啜り泣く声が聞こえてきた。 
「俺は言ったよ。大丈夫だ、兄弟。俺に任せろ。そうして、こいつはようやく故郷に帰ることになった。だが、お袋さんはすでに虫の息だった。お袋さんはそりゃあ感激してたよ。何年かぶりに聞く息子の声だもんな。でも、そんな彼女の手を握ってたのは俺だった。何せ彼女はもう、目もろくに見えてなくて……それでもあの人は『ああ、お前の手はあったかいねえ』って……涙を流して喜んでなぁ」 
 一同、号泣。 
 そして暗転。幕。 
 そんなこんなで、人間と吸血鬼の二人組は、難なく叛乱軍レバルズの仲間に加えてもらえることとなったのだ。 
 一度受け入れられると、キャッスリーは重宝された。 
 このあたりの人びとのほとんどは文盲だ。デンズウィックの大学仕込みの頭脳をもつ(ということになっているが、本当は近所に住み着いていた、破門された元神官に読み書きを習っただけだ)キャッスリーは、貴重なペンの使い手だった。 
 エレノア王女の治世が始まってから、各地に文法学校が設立されはじめた。じきに、子供たちのほとんどが読み書きできるようになるのかもしれない。だが、今はまだ、文字は万民のためのものではない。 
 二人が加わった地方の部隊は、各地でおこるちょっとした小競り合いをいなしながら北へと向かった。キャッスリーとトムソンがエドニーにたどり着いたのは、ちょうどひと月ほど前のことだった。 
 南からやって来た哀れな吸血鬼の噂は、このエドニーでもあっという間に拡がった。そこに『読み書きできる』というおまけがついていたおかげで、キャッスリーは、予想した以上の早さで『書記』という地位を手に入れ、叛乱軍総大将の懐に潜り込むことに成功したのだった。 
 〈大いなる功業クレサ・モール〉の総大将──ダンカン・ミドゥンの出自は謎に包まれている。ひとつだけ、暴くまでもなく確かなのは、彼が罪人の血筋であるということだ。 
 アルバでは、重大な罪を犯したものは家系ごと消滅させられる。その中で最も幼い子供だけが処刑を免れるのだが、かわりに苗字は取り上げられる。彼らに新しく与えられるのは、水の子フィッツウォーター森の子マクウッズ土の子オソイル雲の子フィッツクラウドといった苗字だ。叛乱が盛んなアルバには、そうした名前を持つものたちが大勢いた。ミドゥンもその一人だ。 
 ミドゥンとは、アルバの言葉で『ゴミ捨て場』を意味する。このうえない重罪を犯したものの末裔が、未来永劫に亘って引き継ぐ名だ。 
 ミドゥンが特別なのは、罪人の血筋でありながら、いまや五万を越す兵を抱える軍団の総大将となったから──それだけではない。 
 〈大いなる功業クレサ・モール〉が一つ勝利を手にする度、彼らにまつわる伝説が、鼠が増えるよりもあっというまに増殖してゆく。やれミドゥンは神の使いだとか、ナドカだとか、ハロルド王の落とし子だとか。ほとんどは酔っ払いの戯言だが、中には警戒すべきものある。少なくとも、国務卿のマクヒューはそう考えている。 
 それは、ミドゥンが〈アラニ〉から譲り受けた『怪物』を飼っているという噂だ。彼が手に入れてきた勝利は、その怪物の手助けがあったからこそだ、とも言われている。 
 その怪物とやらは、普段は小さな箱に閉じ込められているが、闇のように黒い声で箱の持ち主に助言を囁く。そいつの知識の深さと来たら、まるで世界の隅々まで知り尽くしているかのようだという。 
 事実キャッスリーも、エドニーに至るまでに似たような噂を方々で耳にした。怪物の正体について、兵士たちは好き勝手に推量していた。エリトロスの森の妖精だとか、怖ろしく凶暴な落神らくしんだとか……本一冊書けそうなほど様々な意見を聞いたが、どれも信憑性に欠ける。妖精も落神も、小さな箱の中に収まって人間を手助けするなんてことをするはずがない。 
 女王陛下の間諜頭スパイ・マスターがキャッスリーに課した任務は、その噂の真意を確かめることだった。 
 馬鹿馬鹿しい。よりによって、噂の出所がアルバなんて。そんなもの、暇を持て余したアルバ人たちがでっち上げた嘘に決まっている。 
 箱の中の怪物? 干からびた呪物やイモリの死骸が関の山だろう。 
 どう考えても根も葉もない噂を探るためだけに、こんな辺境までやってくる羽目になったのだと思うと、涙が出てきそうになる。 
 ぶつぶつとぼやきながら、広大な宿営地を横切って、キャッスリーはようやく、ミドゥンの天幕に着いた。 
 入り口を守る衛士が、キャッスリーを見て顔をしかめる。 
「何の用だ?」 
「書記の仕事です」 
「中には誰もいないぞ」 
「本当に?」キャッスリーも驚いた。「まあ……それなら、中で待ちます」 
 衛士は怪訝そうな顔をしたものの、通してくれた。 
「やたらとうろつくなよ。中のものには手を触れるな」 
「わかってます」 
 そう返事をしつつ、天幕の入り口を潜った。今までに五度、ここに足を踏み入れた。いずれも、入り口からすぐのところに置かれた椅子に座って会議の内容を紙に書き留めただけで、それ以上奥に入ることはなかった。 
 天幕の内部は、いかにも戦い慣れした軍の司令部という感じだ。巨大な机に拡げられた巨大な地図や、その上に散らばる、様々に色づけされた軍団の駒。簡易書棚には丸めた書類がぎゅうぎゅうに詰まっているが、なぜだか、この状態でもきちんと整頓されているのだとわかった。 
 キャッスリーは天幕の中を見回した。 
 確かに、司令部には誰も居ない。会議の途中だとか、その準備がされているようにも見えない。 
 伝達に間違いがあったのだろうか? さっきの門番に話を聞いてみるべきか? 
 踵を返そうとしたところで、思い直した。 
 待てよ。これこそ絶好の機会じゃないか。降って湧いた好機とは言え、これを逃す手はない。 
 よし。やってやる。早く情報を手に入れたら、その分早く帰れるんだから。 
 司令部の右翼と左翼には、一回り小さな天幕が併設されている。確か、一方が総大将の私室として、もう一方は機密物資の保管庫として使われていたはずだ。 
 慎重になりすぎて、もたもたしている間に誰かが入ってきたら一巻の終わりだ。キャッスリーは大きな机の傍をそっと、だが速やかに回りこんだ。 
 まずは左の天幕を覗いてみる。薄明かりにぼんやりと浮かび上がるのは、積み上げられた衣装箱やら、鎧、旗などの類い。どうやら、こちらが保管庫の方らしい。 
 怖ろしい獣だか怪物だかを閉じ込めておくとしたら、きっとこういう場所だろう。 
 キャッスリーは一度背後をふり返ってから、勇気を出して保管庫の中に入った。分厚い布地越しに差し込む日の光は弱々しいが、籠もった空気は暖まって息苦しかった。 
 小さな箱だぞ、と自分に念を押し、目をこらして周囲を探った。小さな箱。怪物が入った小さな箱。 
 だが、いくら探してもそれらしいものは何もない。 
 訝しみながら、もう一度だけ辺りを見回す。獣はおろか、生き物の気配さえ、ここにはまるでない。吸血鬼の聴覚は人狼には劣るし、キャッスリーの吸血鬼としての能力は弱い。それでも、こんなに狭い空間で鼓動を聞き漏らすことはないはずだ。 
 キャッスリーは素早く天幕を出て、司令部の出入り口の方へと戻り、様子を窺った。誰かが来る気配は……まだない。 
 こうなったら、とことんまで家捜ししてやる。 
 今度は、反対側の天幕に近づいてみた。 
 空間を仕切る垂れ幕の隙間に人差し指の先を差し込み、そっと中を窺う。話に聞いていたとおり、そこは総大将個人の天幕だった。簡素な衝立の向こう側には折りたたみ式の寝台と、きれいに整えられた毛布の一部が見える。他には、書き物机に椅子。使い込まれた衣装箱と、それから──。 
「いつまでそこに立っているつもりだ?」 
 キャッスリーの止まった心臓が、まるで杭を打たれたように震えた。冷や汗が出る代わりに、脊椎がガタガタと音を立てる。 
 こういうときにどうすればいいか、トムソンは念入りに教えてくれた。もし間者だと見破られそうになったら、開き直って馬鹿の振りをしろ。ぜったいにあやまるんじゃないぞ、と。 
 だがこんな状況では、無責任な忠告などクソの役にも立たない。キャッスリーは直立不動の体勢になり、うわずった声で言った。 
「申し訳ありません! わたしは……!」 
「おやおや」とその声は言った。「可哀相に、震えているな。なに、怯える必要はない」 
 何かがおかしい。 
 気付いたのはその時だった。そして気付いた瞬間、別の恐怖がキャッスリーの臓腑を鷲づかみにした。 
 これは、ミドゥンの声ではない。おそらく、人間の声でもない。 
 怪物だ。怪物がいる。ここに。この場所に。 
「もっと近くに寄りたまえ。遠慮などせずに、ほら」 
 声は、まるで誘惑そのもののように甘かった。なぐさみを求めながら、途方もない見返りをちらつかせるような……そんな声だ。 
 キャッスリーは、震える足を一歩踏み出した。すぐにここから逃げるべきなのに、どうしても身体が言うことを聞かなかった。 
「これほど若い月の體コルプ・ギャラハに会うのは久しぶりだ……」声はしみじみと言った。 
 コルプ・ギャラハ? 吸血鬼の事だというのはわかるが、それにしてもずいぶん古い言い回しだ。 
 一歩、また一歩と、キャッスリーは天幕の奥へと進んでいった。 
「変異してどれくらいになる?」 
 声は、衝立の裏側から聞こえた。 
 そこで何を目にすることになるのか、知りたくてたまらない。同時に、知ってしまうのが怖ろしい。 
「じ、十年ほど、です」キャッスリーは言った。 
「ほう、若いな。それにしては、ずいぶん理性的だ。実に興味深い……」 
 その声は、リュートの中の一番太い弦を思わせた。低く豊かで、どことなく危険な響き。 
 そしてキャッスリーはとうとう、の前に立った。 
 総大将の寝台と向かい合うように置かれた、樅材もみざいの小さな箱。衣装箱よりも小さい。十歳の子供でも簡単に運べそうな大きさだ。ただ、それがただの箱でないのはすぐにわかった。表面には、見ただけで目眩がするほど強力な封印の魔方陣が何重にも刻まれていたのだ。 
 声は、そこから聞こえていた。 
「ミドゥンのことを案じているのなら、それには及ばぬ。しばらくは戻ってこぬだろうから」 
 声が耳を通過する度に、なんとも言えない悪寒が走る。 
「そ、それなら、わたしを呼んだのは──」 
「いかにも」声は言った。「みすぼらしい箱の中に閉じこもってはいても、声は聞こえるし、出せもする」 
 少し置いてから、彼は独り言のように呟いた。 
「だが、ここに至るまでにこんなにも時間がかかってしまったのは誤算だった」そして、気を取り直したように言った。「ちょうど声が届くところに通りかかったものが居たのでね。噂に聞く『吸血鬼の書記』殿を呼んでこいと、伝言を頼んだまでだ」 
 キャッスリーは途方に暮れた声で言った。 
「あ、あなたは、一体……?」 
「それに答えると思っているのなら、ナドカについての勉強が足りないのではないかな」その声には同情と同じだけ、面白がるような響きが込められていた。「いや、無理もないな。まだとおかそこらの子供では」 
 言い返す気さえ起こらない。彼が子供と言ったら、自分は子供なのだ。そう思わずにはおれない、圧倒的な力量の差があった。 
「君は、総大将の許しも得ずにこんな場所まで這入はいり込んできた。ということは……書記殿には秘密がある。後ろ暗い秘密がな。そうではないか?」 
 キャッスリーは、ゆっくりと頷いた。「は……はい」 
 声は満足げに唸った。 
「ああ……それは重畳ちょうじょう。実に重畳だ」 
 自分の身体に、もはや温かい血が流れていないのを忘れて、今すぐ彼に血を与えたくなる。それほどまでに、この声が持つ誘惑の力は強い。 
 待て。彼に何を与えるって? いったいどうして、そんな考えが浮かんだのだろう。 
 混乱するキャッスリーをよそに、彼は言った。 
「君のまことの名は?」 
 教えてはいけない。絶対に口を開けるな。 
「キ……ク……ラークです」喉が詰まりそうになる。「俺は、書記クラークです。真名は教えられません」 
 声はクスクスと笑った。嘘の名前を教えたにもかかわらず、本名も、ここにやってくるに至った経緯も、全て知ることができたとでも言うように。 
「君に頼みたいことがあるのだ。君」彼は愉快そうに言った。「引き受けてくれるなら、望みはなんでも叶えよう」 
 今まで自分は、甘い言葉に簡単に乗せられるほど馬鹿ではないと思っていた。 
 だが、考えを改めた。馬鹿だろうがそうじゃなかろうが、こうなってしまっては、もう抗えないのだと。問題は言葉の甘さにあるのではない。言葉が持つ力そのものにあるのだ。 
「そろそろ、この箱を出たいのだ」彼は言った。「〈アラニ〉がわたしを捕らえ、まるで貢ぎ物のように、ミドゥンに譲り渡した。実に不面目だが、契約が成るまでは、わたしは囚われの身のままだ」 
 彼のためならなんでもしてやりたいと、キャッスリーは思った。 
「わたしはどうすれば……?」 
「簡単なことだ」声は、笑いを含んだ声で言った。「この箱の封印を解いてほしい」 
「封印を……」 
 キャッスリーは、鷹の爪の間に囚われた兎のような気分だった。嘘の名前を一つ与えただけなのに、抵抗さえできない。しかも、相手は箱の中に収まったままだ。 
 降伏する。好きにしてくれ。いっそ、いますぐ息の根を止めて欲しい──そんな考えが次々と湧いてくる。 
「君には、そのきっかけを作ってもらおう──いや」そして、考え込むような沈黙を挟む。「この忌々しい箱に刻まれた魔方陣のどれかひとつに、傷をつけてくれるだけでもいい。その方が手っ取り早いな。なに、君がやったなどとは誰も思うまい」 
 キャッスリーは箱を見つめた。複雑に絡み合う魔方陣の、どこか一カ所に傷を刻む。それだけ。 
「引き受けてくれるのなら、君に新たな劇場と、満員の観客を与えよう──君」 
 ギクリとした。やはり、さっきの予感は正しかったのだ。彼は俺のことをわかっている。 
「あまり悠長に悩んでいる時間はないぞ」 
 声は笑っていたが、そこには背筋が凍るほどの渇仰かつぎょうがあった。甘い香りで誘うような声色が、徐々にささくれ立ってきている。 
 は──苛立っている。檻に閉じ込められた獣のように。 
「さて、どう答える?」 
 その声が、見えない腕となってキャッスリーの喉を、首を掴んだ。声が出ない。身動きも取れない。彼の望みを満たすまでは、この呪縛を解くことはできないのだ。 
「あ、う……」 
 キャッスリーは絶望に呑まれた。これほどの力を持つナドカが存在するなんて。 
「どう答えるのだ!」 
 箱の中から漏れ出てくる苛立ちと怒りとが、空気を硬く、重く変える。キャッスリーの瞼は痙攣し、胃は捻れ、膝はガクガクと震えていた。 
「お、俺は……!」 
 その時、天幕のすぐ外から声がした。 
「モーグ!」 
 この声は、トムソンだ。 
「ミドゥンが戻ってくる。はやくずらかれ!」 
 運命の血の呼び声に、キャッスリーは箱から目を反らした。その瞬間、ほんのわずかに呪縛が緩んだ。 
「この箱を開けろ!」咆哮のような声が、耳朶にねじ込まれる。「頼む! 開けてくれ!」 
 キャッスリーは耳を疑った。 
 いま、と言ったのか? 
 懇願はあまりにも赤裸々で、思わず踵を返して彼の言うことに従いたくなる。だが、腹はもう決まっていた。 
 逃げる。とにかく、一目散に、ここからさっさとずらかる。今すぐに! 
「早くしろ、モーグ!」 
 トムソンの声と、天幕に映る影とに導かれ、キャッスリーは脱兎の如く地面を蹴り、爪で帆布を切り裂いて外へ出た。誰かが侵入したことはばれてしまうだろうが、知ったことか。あの声から逃げられるなら、行き着く先が牢獄でも構わないとさえ思った。 
 トムソンと合流したキャッスリーは、今すぐに悲鳴を上げ、野営地から逃げ出したい気持ちを必死に抑えた。周りの注目を浴びてしまうのはまずい。さりげなく振る舞わなければ。だが、足取りがおぼつかない。 
「何があったんだ?」トムソンは、不思議そうな顔でキャッスリーを見た。「陳腐な言い回しだけど、幽霊に出くわしたみたいな顔してるぞ」 
 その言葉に、おかしな笑いがこみ上げた。たがが外れたように、キャッスリーは震えながら笑った。 
 そうだ。昔から勘だけは鋭いんだ。こいつは。 
 震える喉を咳払いで整えてから、キャッスリーは言った。 
「まさにその通り。俺はたぶん……幽霊を見たんだ」 
 それにしても、マクヒューへの報告書にどう書けばいいというのだろう。
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