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 カルタニア パルヴァ 
 
 街そのものが、息をひそめて待っているようだ。 
 パルヴァは、カルタニアの中西部に位置する街だ。標高の高い丘の上にあるこの街は、教王庁の許しを得た者にしか立ち入ることが許されない、秘された街チッタ・セグレタとも呼ばれる。北には豊かなバノルデの森、南には肥沃なトッフェティ平野、西には大蒼洋が拡がり、東には眠れる火山ウテロが聳え立つ。ここは大陸でも有数の湯治場とうじばで、各国の王侯貴族が病を癒やしに訪れる街でもある。それ以上にパルヴァを唯一無二の地たらしめているのは、丘の頂上、五重の城壁に囲まれた万神宮パンテオンと、そこから世界に君臨する陽神教会の長、教王の存在だ。 
 かつて街に溢れていた活気は、いまはなりをひそめている。 
 四十歳の峠を越えたばかりの教王エドモンが原因不明の病に倒れてから、これで三月みつき。パルヴァの人々の暮らしぶりに、さほど大きな変化はない。だが、風や牛鈴ぎゅうれいの音に弔鐘を聞いたかと表情を強ばらせては、丘を見上げて気のせいだったと思い直す──人びとのそんな瞬間に、ホラス・サムウェルは、もう何度も行き会っていた。 
 もともとエドモンは、信徒からそれほど熱心な支持を集めていたわけではなかった。むしろその逆だ。 
 彼は、カルタニアと国境を接するフェリジアの出身で、現フェリジア王ジェルヴェの叔父にあたる。 
 フェリジアという国は古来より、大陸内陸部の異教国からカルタニアの背中を守る盾の役割を担ってきた。だがそれゆえに、幾度となくカルタニアに干渉してもいた。フェリジアにとって、カルタニアは信仰の礎であり、親とも慕うべき同盟国であり、なおかつ、商機に満ちた大蒼洋と自国とを隔てる障壁でもあったのだ。二国間の緊張は、十七年前にフェリジアがパルヴァを占領した時にもっとも強まった。大陸の国々が固唾を呑んで成り行きを見守る中、戦が今にも始まろうという局面になって、フェリジアの前王フランソワが提案したのだった──自分の弟を次の教王にすれば、攻撃は加えないと。 
 教会は、その条件を受け入れるしかなかった。フェリジアの軍事力に守られてきたカルタニアがフェリジアと戦って勝つ可能性は限りなく低かったのだ。 
 即位から長い間、エドモンは『異邦人の教王』と軽んじられてきた。『神に剣を突きつけて教王の座を得た男』とも言われた。 
 そんなエドモンの評価が変わったのは、緑海の瘴気が晴れてからだ。 
 教王の許しもなく、復活した国土をナドカに与えたダイラのハロルド王は、陽神教の世界では大罪人と見なされている。彼の跡を継ぎ、ダイラ国内の陽神教会を弾圧し、エイルと協調路線をとるエレノア女王も、父親と同じ罰を科せられた。陽神教会からの破門である。 
 エドモンは一昨年、『異端者にして罪のしもべであるエレノアを破門に処す』という大勅書を発行した。勅書には、『神への忠誠を尽くせば君主への誓約から解放され、全ての罪を許される』と記されていた。すなわち、女王をこの世から消し去れば、過去の全ての罪がなかったことになる──ということだ。それ以来教王は、女王の暗殺を奨励するような発言を繰り返してきた。 
 さらにエドモンは〈燈火の手ラテルナ・マヌス〉のような反ナドカの組織への祝福を与え、ナドカへの迫害を強めるよう鼓吹こすいした。これを支持する者は決して少なくはなかった。いや、驚くほど多かった。ナドカの魔力を無効化する貴金とうがねが力を失ったことで不安に陥っていた人々は、ナドカや、彼らを擁護する君主に強硬な態度を取るエドモンに頼もしさを覚えたのだろう。彼こそ、人間の権威の守護者だった。 
 そのエドモンが病に倒れると、人びとは落胆し、恐怖した。 
 いま、教王の病はナドカの仕業であるという噂が、大陸全土でまことしやかに囁かれている。回復の見込みはないという噂も、同じくらい確信を持って語られる。前者はともかく、後者はほぼ確実だ。 
 教王に死が訪れたとき、懸念されることは二つある。 
 一つは、動揺した民衆によるナドカの虐殺。 
 多くのナドカがカルタニアの都市部から姿を消した。ほとんどが亡命を成功させたと言えればよいのだが、そうではない。逃げた者より、捕らえられた者の方が圧倒的に多かった。はじめのうち、抵抗する者はほとんどなかった。彼らは、裁判の場で潔白を証明すれば今まで通りの暮らしができると考えていたのだ。だが、大部分のナドカは、主張の真偽を鑑みられることさえないまま処刑、あるいは追放された。 
 いま国内に残っているナドカは、ゆくあてもなく郊外に身を隠す者たちか、教会に仕える聖なる奴隷──聖奴せいどだけだ。奴隷たちは焼き印を押され、銀の鍍金めっきの施された枷をつけられて、最低限の寝食と引き換えに労働させられている。滅私の奉公をなしとげた暁には、ナドカであっても神の御許に迎え入れられる──彼らはそう教え込まれている。無力化されているが故に生き残ったのだ。 
 だが、聖堂から逃げ出す聖奴の数も日に日に増えている。 
 街の人間たちは、郊外に隠れ住んでは周囲の村を襲う逃亡奴隷の群れがいると信じている。彼らを討伐する名目で自警団が組まれ、それがまた、街に残るより他に選択肢のないナドカたちにまで危害を加えた。教王が崩御したとき、最も苛烈な行動に出るのはこうした自警団だろう。いずれ確実に、虐殺は起こる。その前に、できるだけ多くのナドカを救い出さなければならない。 
 二つ目の懸念は、次期教王に選ばれる者の動向だ。 
 教王の選定は聖選クム・クラヴィスという討議によって決まる。パルヴァのオラトリオ聖堂に候補者たちが籠もり、何日もかけて議論を重ね、全員が納得した上で一人の教王を選び出すのだ。実際にものを言うのは金だという話も聞くが、候補に挙がるはずの者たちにもそれが当てはまるかどうかはわからない。 
 莫大な影響力と資金力を有しているのは、ヴィシステ出身のファツィオ枢司卿すうしきょうで、彼が次期教王の最有力候補だ。だが彼には、どうしても金の力で引き離すことのできない対立候補がいる。 
 歴史上最年少で選出された十八歳の枢司卿、エヴラルドだ。 
 彼はパルヴァの治療院で死にかけていたところを、地元の神官によって見出され、神官となった。生まれや幼少期にまつわる情報は極めて少ないが、人間離れした逸話には事欠かない。 
 エヴラルドは正真正銘の人間でありながら、いままでに様々な奇跡を起こしてきた。予言を的中させ、人びとの身体に潜んだ病魔を言い当て、荒野に水脈を探り当てた。かつて陽神が、最も敬虔なる導者の前に道を指し示したように、彼もまた陽神に導かれて奇跡をもたらしていると言われている。まさに神の存在の証しと、彼に寄せられる人望は熱狂的だ。エヴラルドに比べたら、汚職まみれのファツィオ枢司卿などものの数ではない、とも。 
 
 ホラスはペンを置いた。薄暗い部屋で長いこと書き物をしていたせいで霞む目をしばたき、鼻梁を揉んだ。 
 パルヴァに潜り込んで、はや六年。様々な国の人間が集まるこの街に、ホラスはうまく溶け込んだ。『カルタニアのバシーナで火事に遭い、燃え残った本と印刷機だけをもってパルヴァに越してきた印刷屋』として、街中まちなかに小さな本屋を構えている。ダイラのプロフィテイア聖堂で、カルタニア人の教司から習い覚えたカルタ語はまだ錆びてはいなかった。 
 強ばった首筋をほぐしながら、揺れる蝋燭の炎を見つめる。 
 暖かい光を放ちながらも、うかつに触れれば肌を焼く、炎のような男のことを考える。 
 マタル・ナーシル・アミード=サーリヤ。 
 その名前のひとつひとつを辿る度に、自分の中で形を失いかけていたものが、再び確固と立ち上がってくるのが感じられた。 
 ホラスは九年前、マタルを探すために大陸に渡った。ダイラで築いた生活を捨て、財産は長年仕えてくれた女中のマーサと、彼女の息子で厩番のジョシュに譲り渡した。マタルを見出すまでは、決して居を定めぬと決めていた。 
 手がかりを掴んでは、それが蜃気楼だったと知る──そんなことを繰り返す日々だった。行く先々で出くわす世界に閉じていた心をこじ開けられ、これが全てと思っていた空が、さらに広がるのを感じた。だが、いくら空を拡げたとて、彼無しでは持て余してしまう。世界を切り開く三年間は、砂漠の砂が身のうちに降り積もるような三年間でもあった。 
 もしかしたら、彼は──。 
 一歩踏み出す度に、嫌な想像ばかりが頭に浮かんだ。 
 もしかしたら、彼はもう、人の手の届かないところへ行ってしまったのではないだろうか、と。 
 そんなとき、転機が訪れたのだった。 
 あれはたしか、五度目に足を運んだバルナサルーンでの夜だった。賑やかな港町の片隅にある寂れた宿屋の一室に、彼女は姿を現した。まるで、近所に住んでいる知己を訪ねるような気軽さで。 
 黒梟に身をやつした魔女──王都デンズウィックの裏世界を仕切る〈真夜中の集会コヴン〉のアドゥオールは、いつも前触れなく人をおとなう。 
「ずいぶんとすり切れてしまったわねえ」と彼女は言った。「はるばる会いに来た古い友に、笑顔の一つくらい見せて下さらないこと?」 
 魔法の翼を持つ彼女にとっては、行き先が隣の街区だろうがアシュモールだろうが、大した違いはない。 
 彼女とは、審問官だった頃に何度か話をした。腹を割った話だ。罪を犯した者の足跡を追うには、裏社会の顔役でもある彼女にまず話を聞くのが最も効率的なやり方だった。 
「何の用だ」ホラスは言った。 
「全くあなたというひとは、暖炉の灰と同じくらい愛想がおありだわ」彼女は器用に肩をすくめ、色を正した。 
「いま、世界はひとつの点に向かって渦を捲いているのよ。それを感じることはあって?」「謎々に付き合う気分じゃない」ホラスは答えた。 
「まあ、サムウェル。傷心の苛立ちをわたくしにぶつけるのはやめてちょうだい」 
 ホラスはむっつりとアドゥオールを見た。黒梟の姿をした彼女は、まるで透かし格子の模様のように完璧な出で立ちで窓枠にとまっている。彼女のことだから、三年間の捜索の甲斐なく、未だマタルの後ろ姿さえ見つけられていないこともお見通しだったのだろう。 
「傷心じゃない」ホラスは言った。「まだ」 
 アドゥオールは、橙色の目に同情と言えなくもない表情を浮かべた。 
「少なくとも、深酒に逃げてはいないようで安心したわ」彼女は穏やかに言った。 
「そんな当てこすりをするために、こんなところまで来たわけじゃないだろう」 
 梟は胸を張った。 
「あなたの愛しい人ハヤーティの居場所を教えて差し上げる、と言ったら、少しは愛想良くできるかしら」 
 自分でも気付かぬうちに、ホラスは立ち上がり、アドゥオールがとまった窓枠に手を掛けていた。 
「彼は無事なのか?」 
 アドゥオールは満足げに目を細めた。「ええ」 
 途端に、目眩がして膝が萎える。ホラスは窓枠を掴んだまま、ずるずるとその場に頽れた。 
 彼が生きていた。しかも、無事でいる。 
 よかった。 
 もし、興味深げに自分を見下ろしている一双の目がなければ、涙さえ流していたかも知れない。 
「どこにいるんだ、彼は」 
 すると、彼女は言った。 
「教える前に、一つ条件があるの」 
「くそったれ……」 
 アドゥオールは窘めるように舌を鳴らした。「言葉に気をつけなさい、サムウェル。仮にも神に仕えた者が口にしていい単語じゃなくてよ」 
 ホラスは肩をすくめた。「それは、俺が決めることだ」 
 彼女はため息をつくように胸を膨らませて、また萎ませた。手の中の駒を、はやく盤上に置けと急かすような目だった。 
「俺に何をしろと?」 
「頭が硬いわりに話が早いのがあなたの美点ね」アドゥオールは言った。「実は、ある事件を調べているところなの。失敗に終わった暗殺計画──その黒幕について」 
「いつから審問官の真似事をするようになった?」というぼやきを無視して、彼女は続けた。 
「ついひと月前、何者かがゲラード殿下の命を狙った。金の仮面をかぶった、黒尽くめの刺客よ」 
 ホラスは目を見開いた。「ゲラード殿下を? 何故だ。彼は第四王子だぞ。しかも、庶子だという噂まである」 
 アドゥオールは笑った。 
「それを調べて欲しいのよ、お馬鹿さん」 
 
 そんな経緯があって、ホラスはカルタニアに向かった。金の仮面という部分に心当たりがあったからだ。手がかりと言うにはやや頼りない、伝説の類いではあった。しかしこの頃、伝説と歴史の境界線は限りなく曖昧だ。まずは見えるところに手を伸ばしてゆくしか方法がなかった。 
 まず、ホラスは本屋のふりをして、希少な古書や研究書を餌に神職に近づいた。貴金が力を失ってからというもの、過去の文献をあたって原因を究明しようとする動きが盛んになっていたから、つけいるのは簡単だった。まさか彼らも、自分に本を売りに来る男が陽神を葬っただなんて夢にも思わないだろう。 
 金の仮面をつけた戦士は、陽神教の聖典にただ一度だけ登場している。 
 かつて、この世界には光箭軍こうせんぐんと呼ばれる軍隊が存在していた。様々な国から、神──つまり、教会の呼び声に応えて集まった兵士たちは、アシュモールや、遠くはアルマラまで長征に赴いた。題目は『神の威光を知らしめるため』だったが、彼らの狙いは遠征先の国々で働く略奪だ。略奪品の中で最も尊いとされたのが、貴金の金塊だった。教王庁には、そうして手に入れた貴金を独占することで、地位と影響力を盤石にしていった歴史がある。 
 第一回オダロ光箭軍が結成され、アシュモール北部のナーバへの長征を行ったのが、約千年前の四二六年だ。当時のナーバには、陽神教会に公然と反旗を翻す光神ヌールの信徒がつどっていた。そして反抗的な異教徒以上に重要だったのは、ナーバにあった貴金の鉱山だった。街の守りは非常に強固で、光箭軍には手も足も出なかった。その時に現れたのが、陽神から遣わされた金面きんめんの戦士たちだ。黄金の仮面を纏った彼らはナーバの城壁を越え、一夜のうちに首長をさせ、固く閉ざされていた扉を開いた。 
 ここで言う『屈服』は、暗殺、虐殺、人質を使った脅迫──教会の掟で固く禁じられていた、あらゆる行為を行って導き出されたものだ。金の面ラルヴァ・アウレアをかぶって顔を隠すのは、それが神の意志を遂行する者であることを示す──あるいは、神の掟を破った罰を免れるためだと言われている。 
 金面の戦士たちが聖典に登場するのはこの一度だけだが、それは度重なる改訂によって、彼らに関する他の記述が少しずつ削除されてきたからだ。実際、彼らによって表舞台から退場させられた有力者たちは数知れない。刺客の存在は一般には隠されているが、高位の神官たちはみな知っている──恐れるべき存在として。歴史を公正に見ようと努める者にとっては──忌まわしい存在として。 
 陽神教会は、略奪した富と、秘された知識によって力を保ってきた。生きとし生けるもの全てに陽光の恵みを与えようとした陽神デイナが、世を果無はかなんだのも無理はない。 
 このささやかな手がかりを頼りに、半年以上の時を費やして、ホラスはようやくゲラード暗殺未遂の真相にたどり着いた。そして確信した。 
 は、伝説の中に葬られた存在ではないのだと。 
 調査の末、ホラスはパルヴァの万神宮とおなじくらい古い歴史を持つ、光の箭フレッチア・デル・ソル聖堂に行き着いた。四百年ほど前には、この聖堂の旗の下に全世界から兵隊が集い、異教徒を殲滅すべしというかけ声のもと、光箭軍こうせんぐん遠征が行われた。軍が解散されて三五〇年余り。その末裔が、教会の権威を揺るがすものを始末する暗殺部隊として生き存えている。 
 金面兵ラルヴァ・アウレアが現存しているという事実は、パルヴァに住む神官の中でも、一部のものたちしか知らされていない。だが、秘密の覆いは綻びはじめているようだ。彼らの足跡そくせきを辿るのが、そう難しいことではなくなってきている。 
 フェリジアでは、ナドカの叛乱に資金提供を行っていた貴族の数名が命を落とした。マルディラで月の聖堂を建設中だった者たちが、一夜にして全員殺されていた事件もある。ナルバニアではふたりの王族が相次いで急死した。まだ十四になったばかりの双子の兄妹だったが、妹に魔女の兆候が現れていたという。 
 いまや光の箭聖堂の金面兵アウレアは公然の秘密になりつつある。噂に耳ざといとある神官は、この世の悪を殲滅するために、神が再び金のおもてに力を与えておられるのだと熱っぽく語った。 
 陽神教にとっての。すなわち異端。すなわち人外ナドカ。 
 金面兵の存続を確認したことで、ゲラードの命が狙われた理由もおのずと明らかになった。ゲラードのナドカへの傾倒ぶりは有名だった。連中にとっては、標的に選ぶ理由など、それで十分なのだろう。 
 注意すべきはもうひとつある。 
 彼らの本拠地である光の箭フレッチア・デル・ソル聖堂を任された枢司卿すうしきょうこそ、歴史上最も若い教王になるかもしれない男──エヴラルドだということだ。年齢に似合わぬ権力を握る少年。そして、彼が操る金面の刺客。エヴラルドが教王の座に着いた暁になにが起こるのか、考えると背筋が冷たくなる。 
 ホラスは、直ちにアドゥオールに報告した。 
 教会の教えに救われた過去を忘れたわけではないけれど、いまは教会よりも、彼らが敵視している者たちの方が信用できる。そう思うと、少しばかり可笑しい。 
 アドゥオールは約束を違えなかった。ホラスは、ようやくマタルの居場所を知ることとなった。 
 彼がエイルに向かったこと。そこでヴェルギルたちに協力し、長年恐れられてきた海の怪異を葬り去ったことも。 
 さすがはマタルだ。 
 本当なら、今すぐに荷物をまとめて、エイルに行きたい。彼がいない大陸になど用はない。あれから歳を重ねた彼の姿を見たい。彼を抱きしめ、温もりを感じて、そして……。 
 だが、調査を進めてゆく上で、ホラスは気付いた。いまは、思慕に引きずられて目の前の大事だいじをないがしろにしていい状況ではないのだと。おそらく、彼を巻き込んだアドゥオールの狙いもそこにあったのだろう。義侠心を擽り、間諜の片棒を担がせようというのだ。教会の内部を知り尽くしたホラスが、探りを入れるのに最適な人材であることは言うに及ばず。 
 そうしてホラスは、かれこれ六年もカルタニアへの潜入と情報収集を続けている。 
 エヴラルドが起こしてきた数々の奇跡を紐解くほどに、確信は強まった。光の箭フレッチア・デル・ソル聖堂には何かが潜んでいる。見過ごしてはならない陰謀を抱えた何かが。 
 人前には滅多に姿を現さないエヴラルドの素性を探るのは容易な事ではない。だが、人の目から隠されているものには、必ず理由がある。それを明らかにするまでは、ここを離れることはできない。もう少しで手が届く。もう少し深く潜れば、きっと真実が見えてくるはずだ。 
 こちらからマタルに接触することは控えた。居場所をしらせれば、彼は一も二もなくパルヴァにやってくるだろう。それこそ、雨と雷を従えてでも。世界で最もナドカを憎んでいるこの街に、魔女を呼び寄せるような真似はしてはいけない。あの笑顔が、声がどれほど恋しくとも。 
 だから、ホラスは今夜も蝋燭の炎を見つめて、彼に思いを馳せる。彼が一緒であったなら、心身をすり減らす潜入捜査も、今ほど苦ではなくなるだろうに。教会の悪行を肴に彼と笑い合えたら、どんなに救われるだろう。 
 考えても詮ないことだ。 
 ホラスはため息をついて、満たされざる想いを脇に追いやった。 
 机の上で埋められるのを待っている報告書の空白は、良くない報せを携えてきた旅人のように青ざめて見えた。 
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