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 ダイラ デンズウィック 
 
 モーガン・キャッスリーにとって、オリヴァー・トムソンを見ているときに興る感情は二種類しかない。感嘆と、憎悪だ。 
 オリヴァー・トムソンは役者だ。いや、役者。ストーン座に所属する役者の中では一番。デンズウィックのどの役者と比べても、その演技力は群を抜いていた。人気だけで言えば看板役者のアドコックの足下にも及ばなかったが、実力なら間違いなく、トムソンに軍配が上がる。 
 彼の喉と舌とで紡がれたいがために、いったい何千の妙なる詩業がペンの先に舞い降りただろう。そして実際に、彼が言葉たちの熱望を裏切ったことは一度たりとてなかった。どんなに拙い詩も、彼にかかればたちまち輝きだす。ましてや、それがキャッスリーの手がけた台詞なら、まるで魔法のように人びとの心を操る……とさえ言われた。デンズウィックに乱立する劇場同士の競争がどれほど熾烈を極めようと、名優トムソンと、戯曲家キャッスリーのふたりを抱えている限り、ストーン座の評判は安泰だ、と……そう言われていたのだ。 
 デンズウィックの戯曲家として最も成功したフィッツヨークを追い抜くために、キャッスリーは長年に亘って努力を積み重ねてきた。上演回数から観客の動員数、街の酒場でより多くあげられるのはどちらの名前なのか……互いの新作が上演されるたび、キャッスリーは干からびた胃を引き絞る思いで巷の評価を漁った。そして、次こそはこの街一番の戯曲家になれるはずだと確信してペンを握ってきた。 
 それがまさか、座長本人が一座を潰す原因になろうとは。 
 ストーン座の座長を務めていたバーナード・ウィッカムが、ナドカの人身取り引きに関与していた廉で逮捕され、処刑された。事もあろうに自分の婚約者の姉に唆され、婚約者そのひとを狂信者に売り渡そうとしたそうだ。 
 なんという悲劇。いや、喜劇か? 
 婚約者ヒロインは生き延び、『悪者』は皆、お縄についた。 
 結局、副座長がストーン座の跡を継ぎ、これまで通りにやっていけると思った矢先、今度はふたりの看板俳優、トムソンとアドコックまでが逮捕された。 
 デンズウィックの人びとは耳が早く、手厳しい。悪評が重なった一座は、もはや見向きもされなくなっていた。劇場は競売にかけられている最中に不審火で全焼し、一座のものたちは散り散りになった。 
 名実ともに一座の専属戯曲家だったキャッスリーもまた、行き場を失った。 
 もはやデンズウィックには、キャッスリーの脚本を買う劇団はなかった。ストーン座で上演されたことのあるものばかりでなく、完全な新作を売り込んでも無駄だった。キャッスリーとストーン座という二つの名前は、混ざり合ってしまった二色の絵の具のように、もはや切り離すことはできなくなっていた。 
 これまでキャッスリーは、表舞台には絶対に姿を現さなかった。にもかかわらず、自分の脚で劇団巡りをしなければならないほど切羽詰まっていたのだ。たとえ断られても、話を聞いてくれただけまだいい。キャッスリーの顔を見るなり扉を閉ざした一座もひとつやふたつではなかった。この化け物め、審問官を呼ぶぞと罵られさえした。審問官など、もう何年も前に街から姿を消しているのに。 
 そんなわけで、キャッスリーがこれまで積み上げてきたものは、瞬く間に灰になった。それも、他人が犯した過ちのせいで。金に目がくらんだウィッカムと、ウィッカムが持ちかけてきた儲け話に飛びついたアドコックのせいで。 
 やっぱり、これは悲劇だ。 
 ウィッカムとアドコックの裁判の決着はあっという間についた。二人あわせて半日とかからなかったと聞いている。主犯のビアトリス・ホーウッド、ウィッカム、そしてアドコックの有罪があっさりと決まった。彼らにどんな刑が下されたのかは、思い出したくもない。『処刑狂い』で知られた、ハロルド王の治世の終焉を飾るには十分すぎるほどだったことだけは確かだ。アドコックの処刑の日には、市内の十人の乙女がノリスリン川に身を投げたという。少なくとも、そんな噂が流れた。 
 以来、キャッスリーは九年近く、その日暮らしを続けている。代筆、文書偽装、手紙の複製──金になるならどんなことでもやった。 
 そうした仕事を見つけてくることにかけて、光りものに目がないかささぎなみの能力を持っていたのが、トムソンだった。ストーン座を失ったふたりは、王都に暮らす二匹の蚤の地位にまで落ちぶれた。 
 ところがある日、トムソンが逮捕されてしまった。 
 九年前の事件でウィッカムと共謀したことを疑われ、尋問を受けたという。刑が確定してこの世から退場するのも時間の問題だろうと、みなが噂した。 
 だが、それでは困るのだ。 
 彼の苦境を笑っていられない事情が、キャッスリーにはあった。その事情さえ無ければ、『これぞ喜劇』と笑いつつ、同情した風を装って杯のひとつでも捧げてやったかも知れないが、残念ながらそうはいかない。 
 トムソンが逮捕されて数日後、キャッスリーは分厚い陳情書を携えて、白茨砦ホワイト・ソーンへと足を運んだ。 
 彼の尋問には、女王陛下の忠実なるしもべ、アラステア・マクヒューがあたっているという。この国の国務卿を務める男が、直々に尋問を行ったのだ。王子の婚約相手に関わる醜聞なのだから当然と言えば当然だが、九年前のことを、何故いまさら? それに、王子はとっくに賜姓降下している。キャッスリーは、何か事情があるのを覚悟していた。 
 蜂の巣をつつくようなことにならなければいいがと思うと同時に、自分はすでに、蜂の巣の上を裸足で歩いているのだとも思った。それでも、トムソンの命を繋ぎ止めるためにできる限りのことをしなければ、きっと後悔する。 
 約束は、すでにとりつけていた。あの醜聞事件に関する陳情だと言うと、拍子抜けするほどあっさりと面会の約束が成ったのだ。嘘はついていない。 
 キャッスリーは、トムソンが無罪だと知っていた。決して品行方正な人間ではないし、別の犯罪に手を染めていたとしても驚かないが、あの事件には関わってはいない。そこまで馬鹿な男ではないし、そこまで腐りきってもいない。 
 キャッスリーは、白茨砦の門の前で立ち尽くした。衛兵が胡散臭そうにこちらを見る。キャッスリーはあわててうつむき、ずり落ちかけた帽子をかぶり直した。 
 卿は何故、陳情を許してくれたのだろう。罪があろうがなかろうが、あの小憎たらしいトムソンを無罪にしたいと思う人間は少ない。彼がキャッスリーに期待しているのが、あの事件の関係者の名前だとか、隠された真相だとかいうものであるなら、少なからず失望させてしまうはずだ。 
 今更になって、後悔が襲ってくる。 
 この国の国務卿を失望させればどういうことになるのか、よく考えるべきだった。けれど、もう遅い。約束を違えれば、どのみち不興を買う。 
 見るに見かねたらしい衛兵が尋ねてきた。 
「何か用なのか?」 
「モ、モ、モーガン・キャッスリーと申します。国務卿閣下にお話があって参りました」 
 衛兵の案内に従って、執務室に入る。古い設えの部屋は、無数の棚と、そこに整然と並べられた書類に埋め尽くされていた。小さな窓から日が差し込む西側の壁には、大陸の西からダイラ、エイルにイムラヴまでを網羅した綴れ織りタペストリーの地図が掲げられている。壁の余白というものがほとんどない部屋だった。暖炉が灯っているのに、何故か寒々しい。そして、妙な圧迫感がある。 
 その部屋の主が、執務机についたまま言った。 
「君とは、一度話をしたいと思っていた」 
「お……恐れ入ります」心底恐れ入りながら、キャッスリーは答えた。 
 マクヒューは、人間のくせに、人狼並みの嗅覚と吸血鬼並みの狡知、魔術師並みの知識を兼ね備えた男だと言われている。女王陛下のお気に入りで、彼自身の忠誠心も篤い。国の内外に放った何百という間諜が、あらゆる陰謀を掴んでいるという噂だ。 
 女王陛下の間諜頭スパイ・マスター。それが、この男。 
 実際に対面してみると、キャッスリーにも納得がいった。 
 彼に嘘は通用しない。たとえ、嘘を紡ぐ舌にかけては他の追随を許さないと言われる──自分のような種族でも。 
「吸血鬼というものは、変異すると創作への意欲を失うものと思っていたが、君にはあてはまらないようだな」彼は言った。「女王陛下のお供をして、君の作品をいくつか観賞させてもらったよ。どれも素晴らしいできばえだった」 
 キャッスリーをひと目見て、吸血鬼だと見抜く者は少ない。確かに、両目とも薄い菫色をしているし、血色も悪い。それでも、日の光の下でじっと観察してようやく気付くかどうかという程度だ。 
 なんとなく、マクヒューは初めからキャッスリーの正体を知っていたのではないかと思えた。 
「もったいない……お言葉で」 
 吸血鬼は他人に平身低頭したがらない種族だとも言われるが、これもまた、キャッスリーには当てはまらない。 
「さて、用向きはざっと聞いている。確か、お仲間の釈放が望みだとか?」 
「左様でございます、閣下」 
 キャッスリーは、抱きしめていた陳情書を、恭しく執務机の上に載せた。国務卿はそれを手に取り、何枚かに目を通した。 
「これほどの美文で綴られた陳情書は初めてだ」彼は眉を上げ、口元だけで微笑んだ。「なるほど。君の事情は理解した」 
 続く沈黙は、きっと、キャッスリーを苦しめるためだけに用意されていた。そして、その効果は抜群だった。心臓が止まっていなかったら、胸を突き破って投身自殺を図っていただろう。 
「この陳情書のとおり、例の件にトムソンが関わったという証拠はない」 
 安堵の余り、大きなため息をつきそうになる。だが、マクヒューの目を見て思いとどまった。 
「ただし、彼には他に無数の罪がある。他人の金をだまし取る行為には、厳しい罰を与えなければならない」 
 そうなのだ。トムソンには、どうしようもない悪癖があった。間抜けそうな金持ちを見ると詐欺を働かずにはおれないという悪癖が。 
 馬鹿野郎。いつか命を落とすと、俺は何度も警告しただろうに。 
「金額の如何を問わず、詐欺に対する処罰は、生きたまま舌を切断したのち、絞首刑だ。彼が巻き上げた金額を加味すれば、さらに四肢の切断も追加される」マクヒューは、キャッスリーの表情をじっくりと読んでから付け加えた。「だが、トムソンは女王陛下のお気に入りだ。舌の切断だけで放免されるだろう」 
 そんな刑罰のどこが『放免』なんだ。 
「か、か、閣下」思わず、口をついて言葉が出た。「彼は役者です。役者の中には、言葉を使わずに人を魅了する匠もおりますが、残念ながら、トムソンはそうではありません。オリヴァー・トムソンは役者としては三枚目、クズとしても二流でございます。ケチな詐欺を働く以上のことなどできない、取るに足らぬ男です。彼の魂は──彼の薄汚れた魂の何処かに、素晴らしい部分が僅かにでもあるとしますれば、それはあの舌に宿っているのです。その、ほんの少しの美徳さえ失えばどうなりましょう? 勿体なくも女王陛下、そして閣下のお心を一度ならず楽しませた男が、もし舌を失えば──溝鼠どぶねずみほどの価値もなくなるでしょう」 
 マクヒューは、片肘で頬杖をつき、長い指先を口元にあてて、キャッスリーの陳情を聞いていた。引き締まった唇とは裏腹に、目には笑みの欠片が踊っていた。 
「価値があるのはあの男の舌、それに……血か?」マクヒューは目を細めた。 
 キャッスリーは硬直した。 
 陳情書に、そんなことまで書いただろうか? いや。そんなはずはない。 
「な、何のお話でしょうか……」 
 マクヒューは、茶番は結構と言わんばかりに首を振った。 
「吸血鬼と運命の血にまつわる話は、恋物語に目がない若者のためのお伽噺だと思っていたのだが」 
 彼は知っているのだ。キャッスリーの運命の血が『クズとしても二流』のあの男だと。だが、いったいどうやって? トムソン本人にさえ話していないのに。 
「吸血鬼が、他人の問題にこれほど必死になるのだから、理由は推して知るべしということだよ、キャッスリー君。君の戯曲はなかなかだが、今見たものに比べれば──いやはや」 
 ばつの悪さに、キャッスリーは俯いた。 
 抗弁できるものならしたかった。俺だって、何も好き好んであんな奴と運命を共にしたいわけではないのです、と。だが、全てを飲み込んで、口をつぐんだ。 
「真に迫っていて、実によろしい」マクヒューは楽しげに言った。 
「いささかなりと、閣下のご歓心に貢献できましたら、光栄でございます」 
 うむ、とマクヒューは頷いた。 
「ストーン座がなくなったのは残念だ。陛下もそう仰っておられた」 
 キャッスリーは顔を上げた。立ちすくむ鼠を見つめる狐のような目と、目が合った。 
「きみ、仕事はあるのかね?」 
「い、いいえ……お恥ずかしながら……」キャッスリーはしどろもどろになりながら言った。「ストーン座の評判は地に落ちました。わたしも一蓮托生といった有様で」 
 すると、マクヒューは微笑んだ。彼の目と口の両方が笑っているのを見るのは、これが初めてだった。 
「ならば、働き口を与えよう。君たちにうってつけの仕事だ」 
「わたし……たち?」 
「さよう。君とトムソン君の二人に頼みたい」 
 国務卿の申し出には、当然ながら裏があった。書類にすれば天井まで届きそうなほどの罪にまみれたトムソンを処刑せずにおいてやる代わりに、女王の間者としてアルバの北部叛乱軍レバルズに潜り込めというのだ。 
「君は賢いし、トムソン君には天性の演技力がある」 
「しかしわたしは……一介の作家です。おまけに吸血鬼で──」 
「連中は〈アラニ〉と手を組んでいるのだ。難しいことではないだろう。それに、君に同行してもらわねばならない理由があるのだよ。トムソン君は、一度耳にしたことは決して忘れぬという特技の持ち主だが、読み書きができない。君ならできる。それも、平均以上に」 
「しかし──」 
「彼が、君と一緒でなければ組まないと言うのでね」 
 キャッスリーは、鼻っ柱を殴られたようにのけぞった。「あいつが?」 
「左様。早晩そうばん君を召喚する予定だったのだ。君の方から来てくれたので、手間が省けた」 
 二の句が継げないとはこのことだ。 
 つまり、あいつははじめっから、俺を巻き込むつもりでいたのだ。 
「ひと月後の報告書に期待している。委細はわたしの部下から聞きたまえ。今後、我々が顔を合わせて話すことは二度とないはずだ。ではご機嫌よう」 
 結局、一言も反論できないまま、キャッスリーは砦を出ていた。 
 それから程なくして釈放されたトムソンの話では、マクヒューは彼に「君には間者スパイの素質がある」と言ったそうだ。白茨砦の地下の拷問部屋で、得体の知れない拷問器具を撫でながら。 
「素質とは……頭の回転が速いから、ということでしょうか?」トムソンは(たぶん、半分本気で)尋ねた。 
「それもあるが、違う」マクヒューは首を振った。「何より重要なのは、恥知らずなところだ」 
 女王陛下の刑吏にアドコックを売ったのはトムソンだった。彼の容疑を裏付ける証言を、泥棒大市おおいちの品揃えにも負けないほどこれでもかと並べ立てたのだ。さすが二流のクズ。だが、マクヒュー国務卿閣下は、そこがお気に召したらしい。 
 感嘆と、憎悪だ。それ以外に言いようがない。 
 
 キャッスリーが初めてトムソンと会ったのは劇場だった。他の劇団の演目を見にやって来た観客同士として出会ったのだ。 
 いまでは思い出せないけれど、上演していたのは、その当時主流だった教訓臭い悲劇だった気がする。桟敷席で隣り合ったのも偶然なら、トムソンが呟いたこっ酷い批評を聞きつけてしまったのも偶然だ。 
「結末はわかりきってるのに、演者がひどすぎてかえって予測できないな」 
「確かに」 
 そして、二人は意気投合した。劇場を出て最初に見つけた酒場にしけこんで酒を飲んだのは偶然で、自分が吸血鬼であることをうっかり明かしたのも偶然なら、つい悪乗りして宿屋の部屋で吸血の真似事をしたのも偶然だ。 
 トムソンは、キャッスリーが吸血鬼だと知って嫌悪するどころか、一層興味を惹かれたようだった。 
 実に楽しそうに、彼は言った。「なあ、俺のことも吸血鬼にしてくれよ」 
 キャッスリーは笑った。 
「やめておけ。こんな化け物、なるものじゃないよ」 
 キャッスリーが吸血鬼になったのは、母が連れ込んだ男のせいだった。デンズウィックの靴無しシューレス通りレーンで生糸を紡いで生計を立てていた母は、あるとき吸血鬼の男を家に入れた。その吸血鬼は、母の血だけでは満足せず、キャッスリーの血をも求めた。 
 吸血鬼になるには大仰な儀式が必要だと言うが、そんなものがなくても、キャッスリーは変異した。何度も吸血されているうちに、気付いたら変化していたのだ。まるで、少しずつ毒に犯されてゆくように。 
 中途半端な変異だったせいか、キャッスリーの吸血欲は薄かった。目の前で血が流れていても我を失ったりしないし、数ヶ月のあいだ血を吸わなくても苦にならない。そのかわり、霧に変身するだとか、空を飛ぶとかいう芸当をやってのけられるほどの力もない。 
 俺が、あの〈災禍カル・ノグ〉やヴェルギルと同じ種だって? 笑えない冗談だ。 
 だが、生きるために必要な力を血液からしか摂取できないのは確かだし、冬になると身体の動きが鈍り、暖炉の前から一歩も動きたくなくなる。食べ物の味もろくにわからなくなったし、眠りなど欲しくないのに、三日以上眠っていないような顔色になった。 
 こんな出来損ないでも、吸血鬼といえばナドカの中で最も怖ろしい種だ。劇団の連中には受け入れられていたけれど、劇場の外では、キャッスリーはただの……血に飢えた化け物だ。 
 そうした欠点を並べ立ててみても、トムソンの決意は固かった。 
「それでもさ」とトムソンはいった。「これ以上歳を食う前に吸血鬼になれば、一生若いまま居られるんだろ?」 
 そんな理由で吸血鬼になろうとする人間なんか、見たこともない。 
「そういうのは、色男が願うから意味があるんじゃないか?」 
 呆れながらもキャッスリーがいうと、彼は笑った。 
「千年生きれば、美醜の基準も変わるさ」 
 たしかに、そうかも知れない。いや、やっぱり駄目だ。 
 説得されかかってしまったのを誤魔化すように、キャッスリーはいった。 
「千年生きるなんて、考えただけでゾッとする」 
 その後、彼の血を飲んでみて驚いた。血というものの真の味わいを思い知らされたような感覚だった。何という芳香。何という風味。それだけではない。十九の頃に鼓動を止めた心臓が、息を吹き返したのだ。安っぽい恋愛物語向けの空想だと思っていた『運命の血』の言い伝えが、まさか真実だったなんて。 
 久しぶりに動き出した心臓の鼓動にあたふたしつつ、キャッスリーは──運命の血に出会ってしまった吸血鬼の大半がそうであるように──怖ろしくなった。 
 そして、逃げた。 
 こうした全ては、偶然にしておこったことだ。 
 だから、後日ストーン座でばったり再会してしまったのも、役者志望の彼がストーン座で働くことになったのも、偶然だ。 
 キャッスリーは運命や必然を信じない。だから、これはすべて偶然なのだ。あるいは、悪い冗談。 
 偶然がこれだけ重なれば、きっと誰しも神の存在を疑いたくなるだろう。あいにくキャッスリーは、長いこと信仰そのものと仲違いをしていた。それに、物語の進行に神がちょっかいを出してくるような脚本しか書けない作家は、二流以下の素人だ。 
 キャッスリーがトムソンには絶対に打ち明けない秘密が二つある。それは、彼が自分の『運命の血』であるということ。そして彼が、キャッスリーに天啓をあたえる唯一無二の役者だということだ。秘密は鎖となり、キャッスリーをトムソンに縛り付けている。そこから自由になろうとしたこともあった。だが、必ず失敗して、トムソンの元に戻ってきてしまうのだった。 
 いまトムソンは、肥だめに自ら突っ込んだ左足を引き抜くために、別の肥だめに右足を突っ込んでいる。彼の血に縛り付けられた、哀れな吸血鬼を道連れにして。 
 キャッスリーは、白茨砦の門を出たところで呟いた。 
「今度こそ、あの男とは縁を切る」 
 何度この誓いを立てたかわからない。哀れな金持ちをカモにして大金をせしめたと笑っているのを見る度に誓っては、舞台を支配する彼の実力を目の当たりにする度に破ってしまう。その繰返しを、人は『腐れ縁』と呼ぶのかも知れない。 
 モーガン・キャッスリーにとって、オリヴァー・トムソンを見て興る感情は二種類だけ。感嘆と、憎悪だ。 
 彼は類い希なる役者、そして運命の血。 
 彼は疫病神で、しかも、それを楽しんでいる。 
 今度こそ、あの男とは縁を切る。絶対に。 
 だが、この演目の結末もまた──すでに見えているようなものなのかもしれない。 
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