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エイル
「エイルを頼む」と、彼は言った。
全てが混沌へと崩れ落ちてゆく、狂乱の一瞬。あの瞬間、己が成すべき事をわかっていたのは二人しかいなかった。
一人は、炎薬の入った瓶を身体中にくくりつけ、群衆の前に躍り出た〈アラニ〉の狂信者。もう一人はヴェルギル──エイルの王、シルリク・エイラ・ルウェリン。
狂信者は何かを叫んでいた。その内容を思い出そうとしても、うまくいかない。苦しみや恨みについての話だったような気がするが。
クヴァルドが覚えているのは、人びとのあいだに膨れ上がる恐慌の最中、自分を見つめていたヴェルギルの瞳と、彼の声だけだ。
「エイルを、頼む」
そう、彼は言った。
あの時、何か返事をしなければと思った。彼に手を伸ばし、引き留め──それが叶わぬなら、何か一言でも言葉をかけなければ、と。
だが、彼は行ってしまった。クヴァルドの言葉を待たずに。
恐怖に駆られた人びとの叫喚が、割れた硝子のように耳に突き刺さる中、黒い霧に姿を変えたヴェルギルが、喚き散らす男を捕えた。
彼は霧の檻となって男を包み込み、空高く飛び上がった。そのまま、男を遠くへ連れ去ろうとしたのだと思う。だが、間に合わなかった。
爆発が起こった。
怖ろしい力がヴェルギルの身体の内側で白熱し、膨張した。まるで目の前で小さな太陽が生まれ、そして弾けたかのようだった。熱と光はヴェルギルの霧の身体を切り裂き、焼き尽くした。草原を焦土に変えた熱波は、衝撃に倒れ伏したクヴァルドのところにまで届いた。風に巻き上げられた土が頬を焼き、焦げたにおいで息が詰まった。
その時になってもまだ、クヴァルドは空を見上げたまま、最愛の男に伝えるべき言葉を探していた。
「これにて議会を閉会いたします」
エイル議会の議長を務めるシーヴァ・オグバーンの声が議場に響き渡ると、議員たちがめいめい起立する。椅子の脚が床を擦る音や衣擦れの音が、ひとでいっぱいの広間を満たした。
「皆、ご苦労だった」
そう言って立ち上がると、門を守る衛士以外の全員が深々と辞儀をする。彼らは王が立ち去るまで、あのまま頭を下げている。
この光景に慣れる日など来るのだろうか。
王が労いの言葉と共に笑みの一つでも浮かべれば、彼らはきっと安堵するだろう。実りある議会の締め括りに、彼がいつでもそうしていたように。だが、わかっていても上手くできなかった。頬も口角も、まるで岩刻の像のように固まったままだ。笑い方など、ずいぶん前に忘れてしまったような気がする。
ならばせめて、長々しい敬礼からはさっさと解放してやらねば。
「陛下のご退場!」
ふれ役が言うが早いか、クヴァルドは足早に議場を後にした。
あれから五年。必要に迫られて戴冠してから五年。
心の半分を失ってから、五年。
途方もない喪失感とは裏腹に、エイルの状況は以前に比べてずっと安定している。人口は増え、国内の産業も回り始めた。
いまやエイルは、東方大陸の西岸諸国に住まうナドカの亡命先としてほぼ唯一の選択肢だ。フーヴァル・ゴーラムが率いる船団の活躍により、今までに数多くの難民や亡命者が救出され、エイルに根を下ろした。彼らの中には〈学会〉の賢者たちや、他国の政の中枢にいた顧問に、技術者たちもいた。政を知るものには政を、技術を有するものには技術を、知識を持つものには知識を発揮できる場を与えた。
議会場における議論は、他国からやって来た者たちの知識と経験を吸収して一層充実した。築城や街の造成に関わっていた技術者によって、膨れ上がる人口を受容する新しい街も生まれた。
そして、大学だ。
王都エリマスの西北にあるカルナバンの森に大学を設立するという計画は、ヴェルギルがエイルに遺した最後の形見だった。
計画を白紙に戻すべきではないかという声も出た。ヴェルギルが死んだのは、まさにその大学の上棟式の最中だったのだから。しかし、あの事件を──大いなる死を忘れないためにも、大学の建設は進めるべきだとクヴァルドは主張した。
計画は続行された。
教会に頭を抑えられて自由な研究開発ができない大陸とは違い、エイルでは──よほど倫理にもとる研究でない限りは──どんな試みも奨励される。いまやカルナバンには、ナドカと人の別を問わず世界中から学生が集い、いくつもの学寮が競い合うように技術を向上させている。そしてそれが、新たな魔道具をこの世に送り出す助けとなっている。
国の収入のほとんどを占めているのが、そうして生まれた魔道具の輸出によるものだ。大陸の西岸諸国におけるナドカ排斥が強まる中、魔道具の輸出による利益が増加しているのは、当然と言えば当然の結果だ。一度慣れ親しんだ利便を捨てるのは難しい。それまで重宝していたナドカを追い出したはいいが、生活が不便になるのは望まない、ということだ。フェリジアやマルディラでは、魔道具の使用を禁ずる法律を制定する動きもあったが、大きな反発を受けて頓挫した。今や彼らの需要を満たす魔道具を提供できる国は、エイルをおいて他にはない。日照不足の畑に蒔けば作物がすくすくと育つ〈陽神の黄金〉、雲に向かって射れば即座に雨をもたらす〈雨乞矢〉などは、不作続きの大陸を飢饉から救った。それを表立って認める者は多くないが、実情はそうだ。
エリマスの港は、いつでも貿易船でひしめいている。そのすべてが、他国の港にエイルの魔道具を運ぶための船だ。
彼がこの様子を見たら、きっと喜んでくれたはずだ。
そのはずだ。
だが、彼はもういない。何をも見ることはないし、喜ぶこともない。
国が安定し、栄えれば栄えるほど、クヴァルドの心中の虚ろは大きくなっていった。
正直なところ、自分は王としてまずまず上手くやれていると思う。
自身の能力を過信しているわけではない。己の限界をわかっているからこそ、より優れた他者の判断を尊重できるというだけだ。己の無力を認めたがらない為政者もいると聞くが、クヴァルドは違う。自分の限界は痛いほどわかっている。幸いにして仕事を任せる有能な人材には事欠かない。贅沢を好まないクヴァルドは、金庫の中身をすり減らすような生き方とは無縁だし、戦いに国費を費やす必要もない。今のところは。
王らしく振る舞うのも、コツさえ掴めばそれなりにこなせた。彼が臣下にかけた言葉、彼の表情、仕草。その記憶をなぞりさえすれば良かった。
王として弁えておくべきことは、実はそれほど多くはないのだと、彼は言っていた。それを、こんな形で実感することになろうとは。
エイルは成長している。満ち足りた気分に浸ることを、自分に許しても良いと思う。だがあの日以来、自分を許せる瞬間は一瞬たりとも訪れなかった。
「陛下!」
そう呼ばれる度、そんな風には呼ばないでくれと言いたくなる。
けれど、クヴァルドは足を止めて、自分を呼び止めた者が追いつくのを待った。
長靴の音を響かせてやって来たのは、クラリス・アベラール──エイルの常備軍を束ねる将軍の任に就く魔女だ。彼女はクヴァルドの前に来ると、深々と辞儀をした。
「恐れながら──」
クヴァルドは手をあげて前置きを省かせた。このやりとりも、もはや恒例となっている。それでも生真面目なアベラールは、こうした儀礼をないがしろにはできないのだ。
「──例の国防計画を進める許可を戴きたく」
「そうだったな」
クヴァルドは、ぶり返した頭痛に眉間を揉みたいのを堪えた。彼女からの催促は、これで三度目だ。今までに二度、考える時間が欲しいと時間を稼いだ。アベラールは生真面目で儀礼を重んじるが、だからといって権威におもねるような真似はしない。彼女はこの国を守るためにここにいる。行く手に立ちはだかる者があれば、たとえ相手が王であっても、物怖じせずに意見して尻に火をつけようとするのは当然だ。
だが、アベラールの『計画』について考えると、クヴァルドの心のどこかで警鐘が鳴るのも確かだった。
「議会では可決されました。あとは陛下の御璽をいただけますれば」
いま、カルナバンの学者たちのほとんどが血道を上げているのは、兵器の開発だ。大学で生み出されているのは、生活を豊かにする技術だけではない。むしろそうしたものは、別の技術を追求する過程で偶然のように生まれ落ちる、おまけのようなものだ。現に〈陽神の黄金〉は、甚大な爆発を引き起こす炎薬の副産物として生まれた。
大学の方針を定めるのは文部卿であるソーンヒルの役目である。彼はどちらかと言えば穏健派なのだが、アベラールや、魔法技術省の長を務めるオティエノ・ワンジクにせっつかれて、この現状を受け入れざるを得ない状況にある。
アベラールの故郷であるフェリジアの北方は、軍国として名高いヴァスタリアと国境を接し、長きに亘って争いを繰り広げてきた地域だ。彼女自身、国境軍の将軍の家に生まれ、幼い頃から戦いを見てきた。父も、兄姉たちも、老いる前に戦で死んだ。彼女の中では、弱腰の軍略はそれ自体が悪なのだ。
彼女は正しい。国を守るための決定に尻込みしている場合ではない。
この国の民の多くが被ってきた苦難を思えば、二度と奪われないようにするための力を得ようとするのも、無理からぬことだ。
俺とて奪われるのはごめんだ。もう二度と。
「正式な認可証は、明日届けさせる」
クヴァルドの言葉に、アベラールの表情が明るくなった。
「ありがとうございます、陛下!」
彼女は兵士らしく、きびきびとその場を後にした。
入れ違いになるように、議場を出た議員たちの群れが、意見を交わしながらこちらに近づいてくる気配がした。
廊下でもたついていたクヴァルドに目を留めた議員や枢密顧問たちは、これぞ好機とばかりに各々の懸案事項を奏上しようとするだろう。議会を通さずに物事を進める、それが一番手っ取り早い方法だからだ。いつもならばそうした言葉にも耳を傾けるのだが、今はとにかく、一人になって考えたかった。
クヴァルドは分厚い外套を翻し、王の執務室へと向かった。衛士には、少なくとも一刻の間は誰も取り次がぬようにと告げて部屋に籠もった。
あれでよかったのだろうか?
大きな決断をした後には、いつも自問する。
いや。本当は、自分に問うているのではない。ヴェルギルに問うているのだった。
アベラールが推し進めようとしている計画は、エイルの島々の沿岸に強力な魔道具を配備するという大規模なものだ。それも、すでに大陸に普及している大砲とは比べものにならないほどの威力を持つ兵器だ。
俺は、兵器の生産と配備を行う許しをあたえた。
クヴァルドは、机の上に広げられた設計図を見つめた。
軍事技師の集団で、兵器開発も行う〈ミランディ学会〉の魔術師たちが、鉱物を専門にする〈シアノス学会〉と共同で開発に取り組んだ。その成果が、先月、一つの兵器という形となって目の前に現れた。
その兵器は、一見しただけでは巨大な弩砲にしか見えない。しかし、その弩砲が放つのは矢ではなく、雷だった。手順は極めて簡易で、子供でも扱える。巻き上げ機で弦を引き絞り、引き金となっている踏子を思い切り踏むだけでいい。仕組みは単純でも、威力は怖ろしい。実験で的にするために海上に浮かべられた古い商船は、たった一撃で木っ端微塵になった。
それを目の当たりにしたとき、クヴァルドの背中の毛は強く逆立った。
巨大な弩砲は、嵐神が携えた武器にちなんで天の矛と名付けられた。
天の矛に矢は必要ない。弦に取り付けられた金具が嵐神石と呼ばれる鉱石を打つと、そこから雷の矢が迸る。石が砕けてしまうまでは、壊滅をもたらす雷を無数に放つことができる。
「これぞ、この宝玉の島にふさわしい守り手です」と、〈ミランディ学会〉の賢者セッティアは言った。
クヴァルドは、国の防御が盤石になるのを喜ぶ気持ちと、これこそが国に戦を招くだろうという不安の両方を抱いた。無理もない。マチェットフォードのしがない職人が生み出した炎薬と、それを利用した兵器が瞬く間に大陸全土に伝播したことを考えれば。
戦に大砲が用いられるようになってから、それまで何ヶ月とかかった攻城戦はものの数週間でけりがつくようになった。いまやほとんどの城壁は、紙の壁のように無意味な代物に成り下がった。戦は変わりつつある。おそらくは、ひとの心をも変えてしまった。
いつか、大砲よりも遠くから放たれ、大砲以上に甚大な被害をもたらす新しい技術が生まれる。そして、それが人びとの心にさらなる変化を及ぼす。それは……致し方ないことなのだろう。
エイルがその発端になるのは、できる限り避けたかった。だからこそ、ぎりぎりまで悩み抜いたのだ。その逡巡も、今日で終わりを告げたが。
「これで、よかっただろうか」
空っぽの部屋にいくら尋ねても、返事はない。
かつて、この執務室の机についた彼と、時には何刻もかけて話をした。夜更けから空が白むまで話し込むこともあった。この部屋で二人が交わしたのは睦言ではなく、ましてや心を楽しませる話題でさえないことがほとんどだったけれど、二人は確かに、ここで絆を深めたのだ。二人で足を運んだ、他の全ての場所でそうしてきたように。
「シルリク……」そっと、名前を呼ぶ。
その度に後悔する。続く沈黙が、静寂が、余りにも深く心を抉るから。
人狼の寿命は四百年ほどあると言われている。クヴァルドにはあと三百年残っている。
あと、三百年も。
自分に遺された日々を考えるのは、絶望を喰らうのと同じだとわかってはいても、やめることができない。
緩慢な余生を捨て去るために生き急いでいるわけではないと、自分に言い聞かせる。賢明な統治が長く続けば続くほど、国は富み栄える。国民は平和のうちに、幸福に暮らせる。俺は戦を──死に場所を望んでいるわけではない。
「これは、戦を避けるために必要なことなんだ」
空っぽの部屋の中で、クヴァルドは言った。
返事は、やはり返ってこなかった。
エイル
「エイルを頼む」と、彼は言った。
全てが混沌へと崩れ落ちてゆく、狂乱の一瞬。あの瞬間、己が成すべき事をわかっていたのは二人しかいなかった。
一人は、炎薬の入った瓶を身体中にくくりつけ、群衆の前に躍り出た〈アラニ〉の狂信者。もう一人はヴェルギル──エイルの王、シルリク・エイラ・ルウェリン。
狂信者は何かを叫んでいた。その内容を思い出そうとしても、うまくいかない。苦しみや恨みについての話だったような気がするが。
クヴァルドが覚えているのは、人びとのあいだに膨れ上がる恐慌の最中、自分を見つめていたヴェルギルの瞳と、彼の声だけだ。
「エイルを、頼む」
そう、彼は言った。
あの時、何か返事をしなければと思った。彼に手を伸ばし、引き留め──それが叶わぬなら、何か一言でも言葉をかけなければ、と。
だが、彼は行ってしまった。クヴァルドの言葉を待たずに。
恐怖に駆られた人びとの叫喚が、割れた硝子のように耳に突き刺さる中、黒い霧に姿を変えたヴェルギルが、喚き散らす男を捕えた。
彼は霧の檻となって男を包み込み、空高く飛び上がった。そのまま、男を遠くへ連れ去ろうとしたのだと思う。だが、間に合わなかった。
爆発が起こった。
怖ろしい力がヴェルギルの身体の内側で白熱し、膨張した。まるで目の前で小さな太陽が生まれ、そして弾けたかのようだった。熱と光はヴェルギルの霧の身体を切り裂き、焼き尽くした。草原を焦土に変えた熱波は、衝撃に倒れ伏したクヴァルドのところにまで届いた。風に巻き上げられた土が頬を焼き、焦げたにおいで息が詰まった。
その時になってもまだ、クヴァルドは空を見上げたまま、最愛の男に伝えるべき言葉を探していた。
「これにて議会を閉会いたします」
エイル議会の議長を務めるシーヴァ・オグバーンの声が議場に響き渡ると、議員たちがめいめい起立する。椅子の脚が床を擦る音や衣擦れの音が、ひとでいっぱいの広間を満たした。
「皆、ご苦労だった」
そう言って立ち上がると、門を守る衛士以外の全員が深々と辞儀をする。彼らは王が立ち去るまで、あのまま頭を下げている。
この光景に慣れる日など来るのだろうか。
王が労いの言葉と共に笑みの一つでも浮かべれば、彼らはきっと安堵するだろう。実りある議会の締め括りに、彼がいつでもそうしていたように。だが、わかっていても上手くできなかった。頬も口角も、まるで岩刻の像のように固まったままだ。笑い方など、ずいぶん前に忘れてしまったような気がする。
ならばせめて、長々しい敬礼からはさっさと解放してやらねば。
「陛下のご退場!」
ふれ役が言うが早いか、クヴァルドは足早に議場を後にした。
あれから五年。必要に迫られて戴冠してから五年。
心の半分を失ってから、五年。
途方もない喪失感とは裏腹に、エイルの状況は以前に比べてずっと安定している。人口は増え、国内の産業も回り始めた。
いまやエイルは、東方大陸の西岸諸国に住まうナドカの亡命先としてほぼ唯一の選択肢だ。フーヴァル・ゴーラムが率いる船団の活躍により、今までに数多くの難民や亡命者が救出され、エイルに根を下ろした。彼らの中には〈学会〉の賢者たちや、他国の政の中枢にいた顧問に、技術者たちもいた。政を知るものには政を、技術を有するものには技術を、知識を持つものには知識を発揮できる場を与えた。
議会場における議論は、他国からやって来た者たちの知識と経験を吸収して一層充実した。築城や街の造成に関わっていた技術者によって、膨れ上がる人口を受容する新しい街も生まれた。
そして、大学だ。
王都エリマスの西北にあるカルナバンの森に大学を設立するという計画は、ヴェルギルがエイルに遺した最後の形見だった。
計画を白紙に戻すべきではないかという声も出た。ヴェルギルが死んだのは、まさにその大学の上棟式の最中だったのだから。しかし、あの事件を──大いなる死を忘れないためにも、大学の建設は進めるべきだとクヴァルドは主張した。
計画は続行された。
教会に頭を抑えられて自由な研究開発ができない大陸とは違い、エイルでは──よほど倫理にもとる研究でない限りは──どんな試みも奨励される。いまやカルナバンには、ナドカと人の別を問わず世界中から学生が集い、いくつもの学寮が競い合うように技術を向上させている。そしてそれが、新たな魔道具をこの世に送り出す助けとなっている。
国の収入のほとんどを占めているのが、そうして生まれた魔道具の輸出によるものだ。大陸の西岸諸国におけるナドカ排斥が強まる中、魔道具の輸出による利益が増加しているのは、当然と言えば当然の結果だ。一度慣れ親しんだ利便を捨てるのは難しい。それまで重宝していたナドカを追い出したはいいが、生活が不便になるのは望まない、ということだ。フェリジアやマルディラでは、魔道具の使用を禁ずる法律を制定する動きもあったが、大きな反発を受けて頓挫した。今や彼らの需要を満たす魔道具を提供できる国は、エイルをおいて他にはない。日照不足の畑に蒔けば作物がすくすくと育つ〈陽神の黄金〉、雲に向かって射れば即座に雨をもたらす〈雨乞矢〉などは、不作続きの大陸を飢饉から救った。それを表立って認める者は多くないが、実情はそうだ。
エリマスの港は、いつでも貿易船でひしめいている。そのすべてが、他国の港にエイルの魔道具を運ぶための船だ。
彼がこの様子を見たら、きっと喜んでくれたはずだ。
そのはずだ。
だが、彼はもういない。何をも見ることはないし、喜ぶこともない。
国が安定し、栄えれば栄えるほど、クヴァルドの心中の虚ろは大きくなっていった。
正直なところ、自分は王としてまずまず上手くやれていると思う。
自身の能力を過信しているわけではない。己の限界をわかっているからこそ、より優れた他者の判断を尊重できるというだけだ。己の無力を認めたがらない為政者もいると聞くが、クヴァルドは違う。自分の限界は痛いほどわかっている。幸いにして仕事を任せる有能な人材には事欠かない。贅沢を好まないクヴァルドは、金庫の中身をすり減らすような生き方とは無縁だし、戦いに国費を費やす必要もない。今のところは。
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王として弁えておくべきことは、実はそれほど多くはないのだと、彼は言っていた。それを、こんな形で実感することになろうとは。
エイルは成長している。満ち足りた気分に浸ることを、自分に許しても良いと思う。だがあの日以来、自分を許せる瞬間は一瞬たりとも訪れなかった。
「陛下!」
そう呼ばれる度、そんな風には呼ばないでくれと言いたくなる。
けれど、クヴァルドは足を止めて、自分を呼び止めた者が追いつくのを待った。
長靴の音を響かせてやって来たのは、クラリス・アベラール──エイルの常備軍を束ねる将軍の任に就く魔女だ。彼女はクヴァルドの前に来ると、深々と辞儀をした。
「恐れながら──」
クヴァルドは手をあげて前置きを省かせた。このやりとりも、もはや恒例となっている。それでも生真面目なアベラールは、こうした儀礼をないがしろにはできないのだ。
「──例の国防計画を進める許可を戴きたく」
「そうだったな」
クヴァルドは、ぶり返した頭痛に眉間を揉みたいのを堪えた。彼女からの催促は、これで三度目だ。今までに二度、考える時間が欲しいと時間を稼いだ。アベラールは生真面目で儀礼を重んじるが、だからといって権威におもねるような真似はしない。彼女はこの国を守るためにここにいる。行く手に立ちはだかる者があれば、たとえ相手が王であっても、物怖じせずに意見して尻に火をつけようとするのは当然だ。
だが、アベラールの『計画』について考えると、クヴァルドの心のどこかで警鐘が鳴るのも確かだった。
「議会では可決されました。あとは陛下の御璽をいただけますれば」
いま、カルナバンの学者たちのほとんどが血道を上げているのは、兵器の開発だ。大学で生み出されているのは、生活を豊かにする技術だけではない。むしろそうしたものは、別の技術を追求する過程で偶然のように生まれ落ちる、おまけのようなものだ。現に〈陽神の黄金〉は、甚大な爆発を引き起こす炎薬の副産物として生まれた。
大学の方針を定めるのは文部卿であるソーンヒルの役目である。彼はどちらかと言えば穏健派なのだが、アベラールや、魔法技術省の長を務めるオティエノ・ワンジクにせっつかれて、この現状を受け入れざるを得ない状況にある。
アベラールの故郷であるフェリジアの北方は、軍国として名高いヴァスタリアと国境を接し、長きに亘って争いを繰り広げてきた地域だ。彼女自身、国境軍の将軍の家に生まれ、幼い頃から戦いを見てきた。父も、兄姉たちも、老いる前に戦で死んだ。彼女の中では、弱腰の軍略はそれ自体が悪なのだ。
彼女は正しい。国を守るための決定に尻込みしている場合ではない。
この国の民の多くが被ってきた苦難を思えば、二度と奪われないようにするための力を得ようとするのも、無理からぬことだ。
俺とて奪われるのはごめんだ。もう二度と。
「正式な認可証は、明日届けさせる」
クヴァルドの言葉に、アベラールの表情が明るくなった。
「ありがとうございます、陛下!」
彼女は兵士らしく、きびきびとその場を後にした。
入れ違いになるように、議場を出た議員たちの群れが、意見を交わしながらこちらに近づいてくる気配がした。
廊下でもたついていたクヴァルドに目を留めた議員や枢密顧問たちは、これぞ好機とばかりに各々の懸案事項を奏上しようとするだろう。議会を通さずに物事を進める、それが一番手っ取り早い方法だからだ。いつもならばそうした言葉にも耳を傾けるのだが、今はとにかく、一人になって考えたかった。
クヴァルドは分厚い外套を翻し、王の執務室へと向かった。衛士には、少なくとも一刻の間は誰も取り次がぬようにと告げて部屋に籠もった。
あれでよかったのだろうか?
大きな決断をした後には、いつも自問する。
いや。本当は、自分に問うているのではない。ヴェルギルに問うているのだった。
アベラールが推し進めようとしている計画は、エイルの島々の沿岸に強力な魔道具を配備するという大規模なものだ。それも、すでに大陸に普及している大砲とは比べものにならないほどの威力を持つ兵器だ。
俺は、兵器の生産と配備を行う許しをあたえた。
クヴァルドは、机の上に広げられた設計図を見つめた。
軍事技師の集団で、兵器開発も行う〈ミランディ学会〉の魔術師たちが、鉱物を専門にする〈シアノス学会〉と共同で開発に取り組んだ。その成果が、先月、一つの兵器という形となって目の前に現れた。
その兵器は、一見しただけでは巨大な弩砲にしか見えない。しかし、その弩砲が放つのは矢ではなく、雷だった。手順は極めて簡易で、子供でも扱える。巻き上げ機で弦を引き絞り、引き金となっている踏子を思い切り踏むだけでいい。仕組みは単純でも、威力は怖ろしい。実験で的にするために海上に浮かべられた古い商船は、たった一撃で木っ端微塵になった。
それを目の当たりにしたとき、クヴァルドの背中の毛は強く逆立った。
巨大な弩砲は、嵐神が携えた武器にちなんで天の矛と名付けられた。
天の矛に矢は必要ない。弦に取り付けられた金具が嵐神石と呼ばれる鉱石を打つと、そこから雷の矢が迸る。石が砕けてしまうまでは、壊滅をもたらす雷を無数に放つことができる。
「これぞ、この宝玉の島にふさわしい守り手です」と、〈ミランディ学会〉の賢者セッティアは言った。
クヴァルドは、国の防御が盤石になるのを喜ぶ気持ちと、これこそが国に戦を招くだろうという不安の両方を抱いた。無理もない。マチェットフォードのしがない職人が生み出した炎薬と、それを利用した兵器が瞬く間に大陸全土に伝播したことを考えれば。
戦に大砲が用いられるようになってから、それまで何ヶ月とかかった攻城戦はものの数週間でけりがつくようになった。いまやほとんどの城壁は、紙の壁のように無意味な代物に成り下がった。戦は変わりつつある。おそらくは、ひとの心をも変えてしまった。
いつか、大砲よりも遠くから放たれ、大砲以上に甚大な被害をもたらす新しい技術が生まれる。そして、それが人びとの心にさらなる変化を及ぼす。それは……致し方ないことなのだろう。
エイルがその発端になるのは、できる限り避けたかった。だからこそ、ぎりぎりまで悩み抜いたのだ。その逡巡も、今日で終わりを告げたが。
「これで、よかっただろうか」
空っぽの部屋にいくら尋ねても、返事はない。
かつて、この執務室の机についた彼と、時には何刻もかけて話をした。夜更けから空が白むまで話し込むこともあった。この部屋で二人が交わしたのは睦言ではなく、ましてや心を楽しませる話題でさえないことがほとんどだったけれど、二人は確かに、ここで絆を深めたのだ。二人で足を運んだ、他の全ての場所でそうしてきたように。
「シルリク……」そっと、名前を呼ぶ。
その度に後悔する。続く沈黙が、静寂が、余りにも深く心を抉るから。
人狼の寿命は四百年ほどあると言われている。クヴァルドにはあと三百年残っている。
あと、三百年も。
自分に遺された日々を考えるのは、絶望を喰らうのと同じだとわかってはいても、やめることができない。
緩慢な余生を捨て去るために生き急いでいるわけではないと、自分に言い聞かせる。賢明な統治が長く続けば続くほど、国は富み栄える。国民は平和のうちに、幸福に暮らせる。俺は戦を──死に場所を望んでいるわけではない。
「これは、戦を避けるために必要なことなんだ」
空っぽの部屋の中で、クヴァルドは言った。
返事は、やはり返ってこなかった。
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僕はシュリエル・エバンス公爵令息。貴族というよりも、ルルーガレス王国を代表する水の巫子をやっている。水の巫子としての能力や、血筋から選ばれて、王子様と婚約していた。
幼い頃に結ばれた婚約だが、ディルク殿下に恋をしてから、ずっと自己研鑽に努めてきた。聖女が現れても、殿下に相応しいのは僕だと、心の中で言い聞かせるようにしていたが、
殿下の隣には、いつの間にかローズブロンドの美しい聖女がいた。
なんとかしてかつての優しい眼差しに戻ってほしいのに、日が経つ毎に状況は悪くなる。
そんなある日、僕は目を疑うものを見てしまった。
攻め・威圧系美形
受け・浮世離れ系美人
(HOTランキング最高3位、頂きました。たくさんの閲覧ありがとうございます!)
※ざまぁというより自業自得
※序盤は暗めですが甘々になっていきます
※本編60話(約16万字)+番外編数話くらい
※残酷描写あります
※ R18は後半に
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