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おお 海の光 今は絶え
標なき夜の 昏き空ろに
愁歎ののどよいを 溢しても なお
袖に降る露 涸るることなし
序
きっと、昔どこかで誰かに聞いた物語に違いない。
それは馬車に揺られ、長い旅をした幼子の物語だ。まだ四歳になったばかりのその子にとって、故郷を出てこれほど遠くに来たのは初めてのことだった。
窓から見える外の風景は、つい七日前まで暮らしていたフェリジアの街とは何もかも違っていた。家々の壁や屋根の形。人々の服装。土や草木の色、空の色までまるっきり違う。
こんなに真っ青な空を見たのは、生まれて初めてだ。
「エヴ」と少年は言った。「外を見てごらんよ」
外の様子に夢中になる彼とは対照的に、同い年の弟は、馬車の内張りに使われた錦の模様──枝を咥えた白鳩──に魅入られていた。
「外に何があるの?」と気のない声で訊く。
「空だよ。あんなに真っ青な色、見たことある?」
弟は、長い旅にくたびれてしまった頭を気怠げに巡らせると、空を見て無感動に言った。
「見たことない。でも、いま見た」そして、再び鳩を見つめる仕事に戻った。
エヴにはそういうところがある。兄の喜びや好奇心に砂をかけるようなところが。双子の兄弟なのに、二人は──外見を別にすれば──あまり似ていなかった。
母はよく、「あなたたち兄弟は、背中合わせで生まれてきたようね」と言った。本当にその通りだ。
父は「お前たち兄弟がひとりにあわさったら、向かうところ敵無しの大人物になるだろうに」と言った。こっちの言葉には、いまいち納得がいっていなかった。弟がいなくたって立派な大人になれるはずだと思っていたからだ。
両親のことを思い出して、少年の心が翳った。
いつになればもう一度会えるのだろう。別れ際、母は泣いていた。父は難しい顔をしていた。何か言いたいのを苦労して堪えているような顔だった。ふたりから詳しい事情は聞かされなかった。ただ、「しばらく国を離れておいで」と言われただけだ。
エヴは何度も、「いつまで」と尋ねていた。
結局、誰も教えてはくれなかった。
「ねえ、ジェム」エヴが言った。「ここから家まで、歩いてどれくらいかかると思う?」
「さあ……わかんない」少年は言った。「何年もかかるんじゃないかな」
「ふうん」
そう言って、エヴは顔を背けた。それから少しして、啜り泣く声が聞こえはじめた。ジェムは弟の手を握った。
自分たちだけでは帰れないことはわかっている。きっと、いつかは迎えが来るはずだ。あんなに優しい両親が、僕たちを遠くへやってそれきり、なんて事があるはずがない。けれど、それはいつになるのかと尋ねるのは怖ろしかった。
答えはもう、知っているような気がしたから。
だから代わりに、こう言った。
「もう少しの辛抱だよ、エヴ。着いたら山ほどお菓子を食べられる」
エヴは疑うような、だが、好奇心を抑えられないような顔で兄を見た。
「なんで知ってるの?」
「さっき、御者が話してるのを聞いたんだ。一日かかっても食べきれないほどたくさんあるって」
ジェムは嘘を重ねた。
行き着く先には糖蜜が溢れる噴水があり、僕らはそこで泳ぎ回ることになっている。お屋敷には似た年頃の子供たちが沢山いて、それぞれが好きな動物をお供にして連れ歩いている。獅子に跨がって野山を駆ける子も、鷲の両脚に掴まって空を飛ぶ子もいるそうだ。僕らはどんな動物をお供に選ぼうか?
そのうちに、エヴの表情は明るくなっていった。それが嘘だということを、彼はわかっていたかも知れない。少なくとも、全てを真に受けてはいなかっただろう。だけど、信じるふりをした。そうでもしなければ、希望が萎んでしまいそうだったから。
二人とも、馬車の行き先を知らなかった。
故郷の空の色を再びその目で見ることはないと、知らなかった。
だがこれは、昔どこかで誰かに聞いた物語だ。
1
一三七七年 ダイラ 旧アルバ領
「やっと気がついた!」
若い娘の声が、頭上から降ってきた。
「母さん! あの男の子が目を覚ました!」
いいや。目を覚ましてない。
そう言いたかった。さっきまで見ていた夢から、完全には抜け出せていない。仰向けに横たわった身体は、まだ馬車に乗っているみたいに揺れていた。視界はぼやけていて、光が目に痛い。恐る恐る瞬きをして少しずつ目を慣らすと、炸裂する色彩が見えた。何度か瞬きをして、それが壁紙の模様だと気づき──ようやく、自分が小部屋のような場所に居るらしいことがわかった。
「レタ、あまり大騒ぎするんじゃないよ」年嵩の女性の声。
「大騒ぎなんてしてません」レタと呼ばれた娘は、そう言いながらも少し声を落とした。
見知らぬ人々の声は、すぐ近くから聞こえている。それにしても、この小さな部屋はどうしてこんなに揺れまくっているのだろう。
さらに何度か瞬きして、ようやく正常な視界を取り戻した。
驚いたことに、そこはまさしく馬車だった。と言っても、積み荷や乗客を運ぶ馬車とは似ても似つかない。これは……窓はもちろん、作り付けの家具まで設えられている、移動式の小さな家だ。棚に、書き物机に、椅子。それから──いままさに自分が占有している──こぢんまりとした寝台。部屋の後方にはのぞき窓と乗降用の扉があり、前方にある御者席との間にも、やはりのぞき窓を備えた衝立があった。
ようやくわかった。
僕はエルカンに拾われたのだ。ということは──。
こんなところにいる理由に思い至って、心が沈み込んだ。きっとまた、どこかの道端で気を失って倒れていたのだろう。
あいつのせいで。
最初に声をかけてきた赤毛の娘は、すこしだけ遠慮がちに──それでいて興味津々という表情でこちらを見ていた。話しかけてみたくてたまらないという顔だ。
「助けてくれたんだね。ありがとう」
ハミシュが言うと、レタは満面の笑みで頷いたが、返事はしなかった。
「ええと……君たちは、エルカンだよね。僕をどこで見つけたか、わかる? それと、できればここが何処なのかも教えて欲しいんだけど──」
すると、彼女は困ったように御者席の方を見て、それからこちらを見た。言葉を話せないわけではないはずなのに、質問には答えない。
当惑していると、彼女は意を決したようにこちらを指さし、首をかしげた。
「ああ! えーと……」
エルカンの貞操観念についての話はクヴァルドから聞いていた。年頃の娘が異性と話すときは、相手からの自己紹介があるまでは口をきいてはいけないのだ。
自分の正確な年齢はわからないが、見たところ、彼女の歳は自分とそう違わない。ハミシュは体を起こして精一杯居住まいを正し、行き倒れた人間に叶う限りの無害な雰囲気を醸し出そうとした。
「僕は──」
そこで、口ごもる。
浮浪児だった自分には姓氏がない。あったとしても覚えていない。
〈クラン〉に身柄を受け入れてもらったとき、人狼のナグリが養い親になってくれた。だから、もし正式に名乗るのであれば、自分は『ハミシュ・ノルデン・ナグリソン』ということになる。
けれど、ハミシュはクヴァルドから、エルカンのナドカ嫌いについても聞いていた。エルカンは、ナドカの誕生と共に緑海を覆い尽くした瘴気によって祖国を追われたイムラヴ人の末裔だ。ナドカを憎んで当然だろう。
灰色の目に栗色の髪、オリーブ色の肌をしたハミシュは、どう見ても北方の血を引いているようには見えない。北方の民なんて姓名の由来を尋ねられたら、嘘をつき通す自信はない。
それに、〈クラン〉の名を名乗っていいのかどうか。五年前のあの忌まわしい事件があって、〈クラン〉の皆は散り散りになってしまったけれど、ハミシュはそれよりもずっと前から彼らの元に帰っていない。なお悪いことに、彼らの行方を追ってもいない。その罪悪感にさえ見て見ぬ振りができるようになるほど長い間、養父の顔も、頭領の顔も見ていなかった。
ハミシュは、嘘をついて誤魔化すことの次にマシな方法を選んだ。
「僕は、ハミシュ」
名前だけを告げて、口をつぐんだ。
どうやら、レタは納得してくれたらしい。というより、名字よりも知りたいことが沢山あるのだろう。自己紹介を済ませるやいなや、待ってましたとばかりに口を開いた。
「あたしはグレタ・マクラリー。あっちで手綱を取ってるのが母さんのノーラ。族長なの。よろしくね」
ハミシュが「よろしく」と言い終わらないうちに、グレタが質問攻めをはじめた。
「あなた、どこの人? どこから来たの? 何をしてるひと? ひとりで旅してるの? どうしてあんなところにいたの?」
ハミシュは口を開けたり閉じたりしながら口を挟む機会を窺っていたが、仕方なく手をあげて遮った。
驚いたようなグレタの表情に、少しだけ笑ってしまう。
「ごめん」ハミシュはため息をついた。「正直に言うと、話せることと話せないことがあって……全部は答えられないんだ。それに、自分がどこで助けてもらったのかも思い出せない」
「ああ!」とグレタは手を打った。「そうだった。あのね、あなたを拾ったのはマチェットフォードの港。ヴァスタリアからダイラに戻ってきた商船に乗ってたの。覚えてないの?」
「覚えて……ない」
ヴァスタリア? そんな場所に、自分から行こうとするはずがない。縁もゆかりもない国だ。
「その商船の船主さんとはよく取り引きをしてるんだけど、凄く困っててね。気を失ってるし、どうしたらいいのかわからないって。でも、あなた譫言で『マイデン』って言ってたの。だからそのあたりの人なんだろうって母さんが引き受けたんだ」
覚えていないけれど、グレタの言葉は正しい。ハミシュは確かにそこに居たのだ。
ただし、自分の意思で行ったのではない。あいつがこの体を乗っ取って、あいつがヴァスタリアに行ったのだ。
今度はなにをしでかしていたのだろう。いや、知りたくない。
気付くと、グレタが気遣わしげな表情でハミシュを見ていた。
「話したくないことは話さなくていいからね」
「ごめん」
グレタは小さく肩をすくめた。「ううん。あたし、いつも詮索しすぎだって母さんに怒られるの」
「ごめん」ハミシュはもう一度あやまった。「君は悪くないよ」
とは言え、グレタは申し訳なさそうに微笑んだ。それから、作り付けの棚から木製の杯を取り出すと、ワインを注いでくれた。
「今はちょうど、オルネホのあたり。あたしたち、これからちょうどマイデンに向かうの。勝手に連れてきちゃって申し訳ないんだけど……もし他に行きたい場所があれば、近くまで乗せてってあげる」
「ありがとう」
ハミシュは微笑んだ。
それは、頬に強ばりを感じるほど久しぶりの笑顔だった。
彼らと一緒に、マイデンまで行こう。そこからならヨトゥンヘルムもそう遠くは無い。〈クラン〉の人狼をひとりでも見つけられたら、ヒルダやナグリのところに連れて行ってもらえるはずだ。事情を説明して、これ以上あいつが妙なことをする前に、自分をどこかに閉じ込めておいてもらう。そうして今度こそ、この疫病神を僕の中から追い出すのだ。それがいい。
嘘の神。黄昏の神。間に立つもの。誰にどう呼ばれようと、ハミシュにとってリコヴは疫病神以外の何ものでもない。
彼の干渉を強く感じるようになったのは、九年前──クヴァルドたちと共にアシュモールに行った後からだ。
アシュモールで何が起こったのか、クヴァルドに聞いた時は耳を疑った。ハミシュが──というか、ハミシュに乗り移ったリコヴが陽神の依り代を唆したせいで、陽神が──自分たちの最高神が、この世から消えたなんて。
それまで、ハミシュにとってのリコヴは、気は合わないけど長く付き合ってきた友人のようなものだった。たまに勝手に家に上がり込んでは、好き勝手に寛いで帰って行くような。傍若無人で予測がつかないけれど、それほど悪い奴じゃないと思えるような。けれど──黄昏と嘘の神が、そんな生やさしい存在であるはずがなかったのだ。
黄昏時になると身体を乗っ取られることは以前からあったし、いつの間にか知らない場所に居るなんてことはしょっちゅうだった。依り代にされる期間は長くても二、三日。その程度なら、まだなんとか自分で対処できた。それが、十日以上意識を取り戻せないようなことが続き……やがて、いつでも見知らぬ場所で目覚めるのが当たり前のようになってしまった。一度意識を失えば、次に起きたときにどこに居るのか、まったく予想がつかない。身体が成長したおかげで、移動できる距離も伸びた。気付けば、ハミシュは放浪の旅に出てしまっていた。もちろん、自分の意思に反してだ。
こんな生活が始まって、もう六年になる。
初めのうちは、それもいいかと思った。〈クラン〉の世話になり続けるのは申し訳ない気がしていたし、だからといって人狼の仲間入りをするつもりもなかった。実のところ、ひとりで生きてゆくのは難しいことではない。物心ついたときからそうやって生きてきたからだ。
大きな街には掃きだめがある。親や住むところを持たない者の縄張りだ。ハミシュはそこで生活の術を学んだ。寄る辺ない子供が貧民窟で生き抜くには、なりふり構わず他人を蹴落とすしかない。幼いころから、ハミシュはそういうことに長けていた。言葉と同時に嘘を覚えた。居心地のいいねぐらを手に入れるために、居もしない野犬の噂を流して人を遠ざけた。大人に縋っては己の身に降りかかった悲劇をでっち上げて涙を誘い、金を巻き上げた。マルヴィナに出会うまでは、ずっとそうやって生きてきたのだ。親切な誰かに頼るより、自分の力だけでなんとかするほうが気楽だし、性に合っている。
あまりに甘い見通しだった。今度ばかりは自分ひとりの手には負えない。それが、ようやくわかりはじめている。
依り代は災厄をもたらすという。
実体をもたない神が、世界に干渉するための、『手』や『口』の役割を担うのが依り代だ。彼らは、その神が滅びに瀕しているときに世に現れると言われている。滅びて消えてしまう前に、何か……ろくでもないことを企むせいだ。災害だったり、戦だったり、疫病の流行だったり──忘れ去られかけた自分の存在の証しを、最後に強く刻みつけようとするみたいに。
昔は、依り代が見つかるとすぐに殺されていたらしい。無理もない。導火線に火のついた炎薬のようなものなのだから。けれど、ヴェルギルもクヴァルドも、〈クラン〉に受け入れてくれたヒルダもナグリも、ハミシュを始末しようだなんておくびにも出さなかった。みな、寄る辺のないハミシュを守ろうとしてくれた。
ありがたいことだ。ありがたいことだけれど……自分はそんな温情に値する存在だったのだろうかと、最近思う。
明らかに、リコヴは何かを企んでいる。その企みがどんなものであるにせよ、良いことのはずがない。エイルやヨトゥンヘルムに近寄らなくなったのも、きっとクヴァルドやヒルダに邪魔されたくないからだ。
依り代は災厄をもたらす。
そして、災厄は間違いなく、ハミシュの身のうちで育ちつつある。
もしかしたら、ことの真相を知らないのは、僕だけなのかもしれない。
もしかしたら、僕はすでに、ダイラとエイル、そして大陸の全ての人たちから憎まれているのかも知れない。
もしかしたら、僕はヴェルギルが死んだあの日のことに関わっていたのかも知れない。ヨトゥンヘルムの大爆発にも、女王の戴冠式の事件にも。
そう思うと、誰かに助けを求めなければという決意も揺らぐ。助けを求めた先で、僕は今度こそ殺されてしまうかもしれない。それも致し方ないと思うのに、気付くと、また見知らぬ場所で朝を迎えているのだ。
ハミシュはここのところ薄くなってきているのを感じる。
何が薄くなってきているのか、はっきりとは言えない。自分自身の存在感だったり、自分とそれ以外を隔てる膜であったり、この世界を混沌から守る壁であったり……その時によって感じ方は様々だが、どれひとつとっても、いい兆しだと思えるものはない。
何かが、蠢いている。それが芽吹く前に、なんとかしないと。
エルカンに拾ってもらえたのは運が良かった、今度こそ、僕は自分の意思で行動を起こそう。
今度こそ。
ハミシュはグレタにもう一度礼を言って、マイデンまで乗せてもらいたいと願い出た。グレタは話し相手ができて嬉しいと言い、改めて、彼女の母親にハミシュを紹介してくれた。
少し安心したせいか、再び眠気が襲ってくる。
「無理しないで、もう少し休んで」と、グレタはハミシュを寝台に寝かせ、毛布を掛けてくれた。
眠りに落ちる寸前、窓から見えた曇天に冬を予感する。重くのし掛かるような雲の下を、凶兆のように、烏の群れが横切っていった。
標なき夜の 昏き空ろに
愁歎ののどよいを 溢しても なお
袖に降る露 涸るることなし
序
きっと、昔どこかで誰かに聞いた物語に違いない。
それは馬車に揺られ、長い旅をした幼子の物語だ。まだ四歳になったばかりのその子にとって、故郷を出てこれほど遠くに来たのは初めてのことだった。
窓から見える外の風景は、つい七日前まで暮らしていたフェリジアの街とは何もかも違っていた。家々の壁や屋根の形。人々の服装。土や草木の色、空の色までまるっきり違う。
こんなに真っ青な空を見たのは、生まれて初めてだ。
「エヴ」と少年は言った。「外を見てごらんよ」
外の様子に夢中になる彼とは対照的に、同い年の弟は、馬車の内張りに使われた錦の模様──枝を咥えた白鳩──に魅入られていた。
「外に何があるの?」と気のない声で訊く。
「空だよ。あんなに真っ青な色、見たことある?」
弟は、長い旅にくたびれてしまった頭を気怠げに巡らせると、空を見て無感動に言った。
「見たことない。でも、いま見た」そして、再び鳩を見つめる仕事に戻った。
エヴにはそういうところがある。兄の喜びや好奇心に砂をかけるようなところが。双子の兄弟なのに、二人は──外見を別にすれば──あまり似ていなかった。
母はよく、「あなたたち兄弟は、背中合わせで生まれてきたようね」と言った。本当にその通りだ。
父は「お前たち兄弟がひとりにあわさったら、向かうところ敵無しの大人物になるだろうに」と言った。こっちの言葉には、いまいち納得がいっていなかった。弟がいなくたって立派な大人になれるはずだと思っていたからだ。
両親のことを思い出して、少年の心が翳った。
いつになればもう一度会えるのだろう。別れ際、母は泣いていた。父は難しい顔をしていた。何か言いたいのを苦労して堪えているような顔だった。ふたりから詳しい事情は聞かされなかった。ただ、「しばらく国を離れておいで」と言われただけだ。
エヴは何度も、「いつまで」と尋ねていた。
結局、誰も教えてはくれなかった。
「ねえ、ジェム」エヴが言った。「ここから家まで、歩いてどれくらいかかると思う?」
「さあ……わかんない」少年は言った。「何年もかかるんじゃないかな」
「ふうん」
そう言って、エヴは顔を背けた。それから少しして、啜り泣く声が聞こえはじめた。ジェムは弟の手を握った。
自分たちだけでは帰れないことはわかっている。きっと、いつかは迎えが来るはずだ。あんなに優しい両親が、僕たちを遠くへやってそれきり、なんて事があるはずがない。けれど、それはいつになるのかと尋ねるのは怖ろしかった。
答えはもう、知っているような気がしたから。
だから代わりに、こう言った。
「もう少しの辛抱だよ、エヴ。着いたら山ほどお菓子を食べられる」
エヴは疑うような、だが、好奇心を抑えられないような顔で兄を見た。
「なんで知ってるの?」
「さっき、御者が話してるのを聞いたんだ。一日かかっても食べきれないほどたくさんあるって」
ジェムは嘘を重ねた。
行き着く先には糖蜜が溢れる噴水があり、僕らはそこで泳ぎ回ることになっている。お屋敷には似た年頃の子供たちが沢山いて、それぞれが好きな動物をお供にして連れ歩いている。獅子に跨がって野山を駆ける子も、鷲の両脚に掴まって空を飛ぶ子もいるそうだ。僕らはどんな動物をお供に選ぼうか?
そのうちに、エヴの表情は明るくなっていった。それが嘘だということを、彼はわかっていたかも知れない。少なくとも、全てを真に受けてはいなかっただろう。だけど、信じるふりをした。そうでもしなければ、希望が萎んでしまいそうだったから。
二人とも、馬車の行き先を知らなかった。
故郷の空の色を再びその目で見ることはないと、知らなかった。
だがこれは、昔どこかで誰かに聞いた物語だ。
1
一三七七年 ダイラ 旧アルバ領
「やっと気がついた!」
若い娘の声が、頭上から降ってきた。
「母さん! あの男の子が目を覚ました!」
いいや。目を覚ましてない。
そう言いたかった。さっきまで見ていた夢から、完全には抜け出せていない。仰向けに横たわった身体は、まだ馬車に乗っているみたいに揺れていた。視界はぼやけていて、光が目に痛い。恐る恐る瞬きをして少しずつ目を慣らすと、炸裂する色彩が見えた。何度か瞬きをして、それが壁紙の模様だと気づき──ようやく、自分が小部屋のような場所に居るらしいことがわかった。
「レタ、あまり大騒ぎするんじゃないよ」年嵩の女性の声。
「大騒ぎなんてしてません」レタと呼ばれた娘は、そう言いながらも少し声を落とした。
見知らぬ人々の声は、すぐ近くから聞こえている。それにしても、この小さな部屋はどうしてこんなに揺れまくっているのだろう。
さらに何度か瞬きして、ようやく正常な視界を取り戻した。
驚いたことに、そこはまさしく馬車だった。と言っても、積み荷や乗客を運ぶ馬車とは似ても似つかない。これは……窓はもちろん、作り付けの家具まで設えられている、移動式の小さな家だ。棚に、書き物机に、椅子。それから──いままさに自分が占有している──こぢんまりとした寝台。部屋の後方にはのぞき窓と乗降用の扉があり、前方にある御者席との間にも、やはりのぞき窓を備えた衝立があった。
ようやくわかった。
僕はエルカンに拾われたのだ。ということは──。
こんなところにいる理由に思い至って、心が沈み込んだ。きっとまた、どこかの道端で気を失って倒れていたのだろう。
あいつのせいで。
最初に声をかけてきた赤毛の娘は、すこしだけ遠慮がちに──それでいて興味津々という表情でこちらを見ていた。話しかけてみたくてたまらないという顔だ。
「助けてくれたんだね。ありがとう」
ハミシュが言うと、レタは満面の笑みで頷いたが、返事はしなかった。
「ええと……君たちは、エルカンだよね。僕をどこで見つけたか、わかる? それと、できればここが何処なのかも教えて欲しいんだけど──」
すると、彼女は困ったように御者席の方を見て、それからこちらを見た。言葉を話せないわけではないはずなのに、質問には答えない。
当惑していると、彼女は意を決したようにこちらを指さし、首をかしげた。
「ああ! えーと……」
エルカンの貞操観念についての話はクヴァルドから聞いていた。年頃の娘が異性と話すときは、相手からの自己紹介があるまでは口をきいてはいけないのだ。
自分の正確な年齢はわからないが、見たところ、彼女の歳は自分とそう違わない。ハミシュは体を起こして精一杯居住まいを正し、行き倒れた人間に叶う限りの無害な雰囲気を醸し出そうとした。
「僕は──」
そこで、口ごもる。
浮浪児だった自分には姓氏がない。あったとしても覚えていない。
〈クラン〉に身柄を受け入れてもらったとき、人狼のナグリが養い親になってくれた。だから、もし正式に名乗るのであれば、自分は『ハミシュ・ノルデン・ナグリソン』ということになる。
けれど、ハミシュはクヴァルドから、エルカンのナドカ嫌いについても聞いていた。エルカンは、ナドカの誕生と共に緑海を覆い尽くした瘴気によって祖国を追われたイムラヴ人の末裔だ。ナドカを憎んで当然だろう。
灰色の目に栗色の髪、オリーブ色の肌をしたハミシュは、どう見ても北方の血を引いているようには見えない。北方の民なんて姓名の由来を尋ねられたら、嘘をつき通す自信はない。
それに、〈クラン〉の名を名乗っていいのかどうか。五年前のあの忌まわしい事件があって、〈クラン〉の皆は散り散りになってしまったけれど、ハミシュはそれよりもずっと前から彼らの元に帰っていない。なお悪いことに、彼らの行方を追ってもいない。その罪悪感にさえ見て見ぬ振りができるようになるほど長い間、養父の顔も、頭領の顔も見ていなかった。
ハミシュは、嘘をついて誤魔化すことの次にマシな方法を選んだ。
「僕は、ハミシュ」
名前だけを告げて、口をつぐんだ。
どうやら、レタは納得してくれたらしい。というより、名字よりも知りたいことが沢山あるのだろう。自己紹介を済ませるやいなや、待ってましたとばかりに口を開いた。
「あたしはグレタ・マクラリー。あっちで手綱を取ってるのが母さんのノーラ。族長なの。よろしくね」
ハミシュが「よろしく」と言い終わらないうちに、グレタが質問攻めをはじめた。
「あなた、どこの人? どこから来たの? 何をしてるひと? ひとりで旅してるの? どうしてあんなところにいたの?」
ハミシュは口を開けたり閉じたりしながら口を挟む機会を窺っていたが、仕方なく手をあげて遮った。
驚いたようなグレタの表情に、少しだけ笑ってしまう。
「ごめん」ハミシュはため息をついた。「正直に言うと、話せることと話せないことがあって……全部は答えられないんだ。それに、自分がどこで助けてもらったのかも思い出せない」
「ああ!」とグレタは手を打った。「そうだった。あのね、あなたを拾ったのはマチェットフォードの港。ヴァスタリアからダイラに戻ってきた商船に乗ってたの。覚えてないの?」
「覚えて……ない」
ヴァスタリア? そんな場所に、自分から行こうとするはずがない。縁もゆかりもない国だ。
「その商船の船主さんとはよく取り引きをしてるんだけど、凄く困っててね。気を失ってるし、どうしたらいいのかわからないって。でも、あなた譫言で『マイデン』って言ってたの。だからそのあたりの人なんだろうって母さんが引き受けたんだ」
覚えていないけれど、グレタの言葉は正しい。ハミシュは確かにそこに居たのだ。
ただし、自分の意思で行ったのではない。あいつがこの体を乗っ取って、あいつがヴァスタリアに行ったのだ。
今度はなにをしでかしていたのだろう。いや、知りたくない。
気付くと、グレタが気遣わしげな表情でハミシュを見ていた。
「話したくないことは話さなくていいからね」
「ごめん」
グレタは小さく肩をすくめた。「ううん。あたし、いつも詮索しすぎだって母さんに怒られるの」
「ごめん」ハミシュはもう一度あやまった。「君は悪くないよ」
とは言え、グレタは申し訳なさそうに微笑んだ。それから、作り付けの棚から木製の杯を取り出すと、ワインを注いでくれた。
「今はちょうど、オルネホのあたり。あたしたち、これからちょうどマイデンに向かうの。勝手に連れてきちゃって申し訳ないんだけど……もし他に行きたい場所があれば、近くまで乗せてってあげる」
「ありがとう」
ハミシュは微笑んだ。
それは、頬に強ばりを感じるほど久しぶりの笑顔だった。
彼らと一緒に、マイデンまで行こう。そこからならヨトゥンヘルムもそう遠くは無い。〈クラン〉の人狼をひとりでも見つけられたら、ヒルダやナグリのところに連れて行ってもらえるはずだ。事情を説明して、これ以上あいつが妙なことをする前に、自分をどこかに閉じ込めておいてもらう。そうして今度こそ、この疫病神を僕の中から追い出すのだ。それがいい。
嘘の神。黄昏の神。間に立つもの。誰にどう呼ばれようと、ハミシュにとってリコヴは疫病神以外の何ものでもない。
彼の干渉を強く感じるようになったのは、九年前──クヴァルドたちと共にアシュモールに行った後からだ。
アシュモールで何が起こったのか、クヴァルドに聞いた時は耳を疑った。ハミシュが──というか、ハミシュに乗り移ったリコヴが陽神の依り代を唆したせいで、陽神が──自分たちの最高神が、この世から消えたなんて。
それまで、ハミシュにとってのリコヴは、気は合わないけど長く付き合ってきた友人のようなものだった。たまに勝手に家に上がり込んでは、好き勝手に寛いで帰って行くような。傍若無人で予測がつかないけれど、それほど悪い奴じゃないと思えるような。けれど──黄昏と嘘の神が、そんな生やさしい存在であるはずがなかったのだ。
黄昏時になると身体を乗っ取られることは以前からあったし、いつの間にか知らない場所に居るなんてことはしょっちゅうだった。依り代にされる期間は長くても二、三日。その程度なら、まだなんとか自分で対処できた。それが、十日以上意識を取り戻せないようなことが続き……やがて、いつでも見知らぬ場所で目覚めるのが当たり前のようになってしまった。一度意識を失えば、次に起きたときにどこに居るのか、まったく予想がつかない。身体が成長したおかげで、移動できる距離も伸びた。気付けば、ハミシュは放浪の旅に出てしまっていた。もちろん、自分の意思に反してだ。
こんな生活が始まって、もう六年になる。
初めのうちは、それもいいかと思った。〈クラン〉の世話になり続けるのは申し訳ない気がしていたし、だからといって人狼の仲間入りをするつもりもなかった。実のところ、ひとりで生きてゆくのは難しいことではない。物心ついたときからそうやって生きてきたからだ。
大きな街には掃きだめがある。親や住むところを持たない者の縄張りだ。ハミシュはそこで生活の術を学んだ。寄る辺ない子供が貧民窟で生き抜くには、なりふり構わず他人を蹴落とすしかない。幼いころから、ハミシュはそういうことに長けていた。言葉と同時に嘘を覚えた。居心地のいいねぐらを手に入れるために、居もしない野犬の噂を流して人を遠ざけた。大人に縋っては己の身に降りかかった悲劇をでっち上げて涙を誘い、金を巻き上げた。マルヴィナに出会うまでは、ずっとそうやって生きてきたのだ。親切な誰かに頼るより、自分の力だけでなんとかするほうが気楽だし、性に合っている。
あまりに甘い見通しだった。今度ばかりは自分ひとりの手には負えない。それが、ようやくわかりはじめている。
依り代は災厄をもたらすという。
実体をもたない神が、世界に干渉するための、『手』や『口』の役割を担うのが依り代だ。彼らは、その神が滅びに瀕しているときに世に現れると言われている。滅びて消えてしまう前に、何か……ろくでもないことを企むせいだ。災害だったり、戦だったり、疫病の流行だったり──忘れ去られかけた自分の存在の証しを、最後に強く刻みつけようとするみたいに。
昔は、依り代が見つかるとすぐに殺されていたらしい。無理もない。導火線に火のついた炎薬のようなものなのだから。けれど、ヴェルギルもクヴァルドも、〈クラン〉に受け入れてくれたヒルダもナグリも、ハミシュを始末しようだなんておくびにも出さなかった。みな、寄る辺のないハミシュを守ろうとしてくれた。
ありがたいことだ。ありがたいことだけれど……自分はそんな温情に値する存在だったのだろうかと、最近思う。
明らかに、リコヴは何かを企んでいる。その企みがどんなものであるにせよ、良いことのはずがない。エイルやヨトゥンヘルムに近寄らなくなったのも、きっとクヴァルドやヒルダに邪魔されたくないからだ。
依り代は災厄をもたらす。
そして、災厄は間違いなく、ハミシュの身のうちで育ちつつある。
もしかしたら、ことの真相を知らないのは、僕だけなのかもしれない。
もしかしたら、僕はすでに、ダイラとエイル、そして大陸の全ての人たちから憎まれているのかも知れない。
もしかしたら、僕はヴェルギルが死んだあの日のことに関わっていたのかも知れない。ヨトゥンヘルムの大爆発にも、女王の戴冠式の事件にも。
そう思うと、誰かに助けを求めなければという決意も揺らぐ。助けを求めた先で、僕は今度こそ殺されてしまうかもしれない。それも致し方ないと思うのに、気付くと、また見知らぬ場所で朝を迎えているのだ。
ハミシュはここのところ薄くなってきているのを感じる。
何が薄くなってきているのか、はっきりとは言えない。自分自身の存在感だったり、自分とそれ以外を隔てる膜であったり、この世界を混沌から守る壁であったり……その時によって感じ方は様々だが、どれひとつとっても、いい兆しだと思えるものはない。
何かが、蠢いている。それが芽吹く前に、なんとかしないと。
エルカンに拾ってもらえたのは運が良かった、今度こそ、僕は自分の意思で行動を起こそう。
今度こそ。
ハミシュはグレタにもう一度礼を言って、マイデンまで乗せてもらいたいと願い出た。グレタは話し相手ができて嬉しいと言い、改めて、彼女の母親にハミシュを紹介してくれた。
少し安心したせいか、再び眠気が襲ってくる。
「無理しないで、もう少し休んで」と、グレタはハミシュを寝台に寝かせ、毛布を掛けてくれた。
眠りに落ちる寸前、窓から見えた曇天に冬を予感する。重くのし掛かるような雲の下を、凶兆のように、烏の群れが横切っていった。
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