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喪失の竜と漂流獣医

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「最初のは、庭で見つけたカナヘビでした。小学二年生の時だったかな」
 当時のことを思い出して、深浦みうら誠治せいじは小さな笑みを浮かべた。
「野良猫に襲われたのか、尾を自切じせつしていたのを大怪我してると思い込んでね……。一年くらいかけて尾が生えるのを見届けてから、野性に返したんです。当時はまだ、治療すべき動物をと呼ぶことも知らなかった」
 ──俺はどうして、自分の身の上語りなんかしてるんだろう。
 誠治はぼんやりとした頭の片隅でそう思った。
 自分が院長を務める動物病院にいた……それが、最後の記憶だ。
 それなのに、何故こんな見たこともないような場所にいるのだろう。
 周囲を見回しても、居場所のヒントになるようなものは何もない。やけに白っぽい空間で、壁も、天井も、家具もない。頭上には青空があり、足下には……謎の白いふわふわが敷き詰められている。幼い頃、雲の上に乗れたらこんな風景が広がっているはずだと考えたことがあるが、まさにそんな感じだ。
 さっきから、目の前にいて誠治の話を聴いている(らしい)のは、人の形をした光の塊だった。顔ははっきりしない。輪郭も、すべてがぼんやりとしている。
 それは雲でできた椅子にゆったりと腰掛け、くつろいだ様子で誠治に自分語りを促している……気がする。なにしろ、光人間は一言も言葉を発しないので、推測するしかないのだ。
 ここはどこで、自分に何が起こったのか、まるで見当もつかない。
 疑問に思いながらも、誠治は話を続けた。そうするように促されているように思えたから。
「親の跡を継いで人間相手の医者になるように期待されて来たんだけど……なんやかんやあって、結局獣医師の道に進むことにしたんです」
 この話題に興味を覚えたらしく、光人間が少し前のめりになる。なんだか面接を受けているような気分だなと思う。
「自分の医院をもってしばらくすると『深浦動物病院はエキゾも看てくれる』って評判になって。正直、寝る間もないほどの忙しさですよ。あ、エキゾって言うのは、エキゾチックペットの略です。犬や猫以外の珍しい動物のことで──いわゆる珍獣ですね」
 すると、言葉を発しないと思っていた光人間が言った。
『竜の治療もできるか?』
「へえ!?」
 いきなり話しかけられて、誠治は飛び上がるほど驚いた。しかもその声は、喉や舌といった、生身の器官を使って発せられたものとは違っていた。スピーカーから聞こえてくるような音声だ。まるで現実味がない。
 おまけに──なんて質問だ? 竜を治療できるかって? 空想好きの小学生みたいな質問だ。
 だが、昔から空想が嫌いな質ではなかったので、誠治はその話に乗ることにした。
「まあ、蝙蝠の羽根が生えた、火を吐く爬虫類だと思えば……どうにかなるかな」
 そこまで言って、ひとりでにクスクスと笑う。
「症例が少ないエキゾの治療は、基本的に行き当たりばったりになるしかないんですよ。飼い主さんの話を聞いて、観察して、検査をして、身体の構造を把握して、工夫しながら治療に当たる。どんな患畜でも、やり方は変わりませんね」
 そこで、かつて執刀した手術のことをを思い出す。
「竜の卵詰まりなんて、相当大変だろうなぁ──」
 その時、ふと記憶が蘇り、自分が目を逸らしていた記憶が脳裏に浮かんで来そうになる。
「あれ?」
 ──なんで俺は、こんなところに?
 焦るべき場面だという気がするのに、妙に危機感がない。心臓がバクバクしたり、脂汗が出たりもない。まるで……まるで何もかも納得ずくで、自分からここにやって来たのだとでも言うように。
 でも、そんな覚えはない。ここがどこかもわからないのに。
 無意識に首に手を当ててから、誠治はハッとして自分の両手を見つめた。
 なんだか、妙に透き通っている気がする。いや、『気がする』どころじゃない。掌を空かして、自分の足下がはっきり見えているではないか。
「ちょっと、ちょっと待って」
 自分の身体が、幻でできている。幻という言葉はしっくりこない。幽霊。霊体。馬鹿げているが、まさにそんな感じだ。
 誠治はよろよろと立ち上がった。他に行くあてもないのに、それでも、ここにはいられないと思った。
「俺は、どうして……!?」
 狼狽える誠治の傍に、光人間がやってくる。彼は誠治の肩に重さを感じない手を置いて、もう一方の手で、ある一点を指し示した。
 彼が指さす先に、扉があった。ドアは開け放たれていて、その向こうから目映い光が溢れ出ている。
「あそこに行けばいいんですか? そうすれば……戻れる?」
 縋るような誠治の言葉に、光人間は、「はい」とも「いいえ」とも言わなかった。
 誠治は、その出口に向かって恐る恐る足を踏み出した。微かに声が聞こえている。痛切な声で、誰かが、誰かを呼んでいる。
「あの……」
 誠治は足を止め、振り向こうとした。
 次の瞬間、強い力に思い切り背中を押されて、光の中に飛び込んでいた。

「ハッ!?」
 身体がガクンと沈み込むような感覚に瞼を開けた瞬間、外国人らしき男と目が合った。至近距離から、無遠慮に顔を覗き込まれている。
「な……何……?」
 ひどく掠れて、自分の声とは思えない声で、誠治は言った。
 身体が重くて、まるで言うことを聞かない。ひどい目眩に加えて吐き気もすごいし、身体中、謎の痛みに苛まれている。熱もあるのか、身体が火照って頭が朦朧としている。
 一瞬前までいた場所は夢の世界だったのか、それとも別の場所だったのかはわからないが、これは現実らしい。でなきゃ、こんなに苦しいはずがない。
 外国人の男は、相変わらず誠治の顔を見つめ続けている。心配そうな表情を見るに……これが初対面というわけではないらしい。以前、うちに来院した飼い主のひとりだろうか?
 だが、こんなに整った顔のひとを……一度見たら忘れるはずがない。
 かなり背が高い。見たところ、身長は一九〇㎝近くありそうだ。
 彫りの深い顔立ちに、浅黒い肌。黒い長髪は肩まで長さがあって、両耳の後ろから、鮮やかな紐で括られた細い三つ編みが数本ずつ垂れていた。精悍という言葉がしっくりくる凜々しい眉に切れ長の目。砂漠で暮らす遊牧民を思わせる。
 うっすらと開いた口から、牙みたいに長く鋭い犬歯が覗いていた。
 特筆すべき様々なことがらの中で、最も目をひくのは目だ。見たこともないほど美しい、琥珀色の目。その瞳孔は縦長で……いわゆる猫目と呼ばれる形状をしていた。
 人間には決して現われることのない形質だ。
 驚くと同時に魅了されて、男から目を離せなくなる。すると、彼がおずおずと口にした。
「……ご主人様? 俺です。貴方のラシャです」
 ──いや、待て待て待て。
 誠治は即座に目を閉じた。
 ──今、俺のことを『ご主人様』と呼んだよな?
 ラシャなんて名前の知り合いはいない。自分を『ご主人様』と呼ばせる趣味もないし、そういう趣向の風俗店に行ったことだってない。
 瞼にぎゅっと力を込め、目眩と、この妙な状況がどこかへ消え去ってくれるのを待ってから、もう一度、恐る恐る目を開けた。
 当然ながら、ラシャと名乗った男はまだそこにいる。
 彼が身につけている黒い衣服は、誠治が見たことがないようなものだった。時代劇で良く見る裁着袴たっつけばかまとチュニックが合わさったような麻の服だ。腰を締めている幅広のベルトには短刀が挟んであった。
 まるで海外の歴史映画か、ファンタジー映画のコスプレみたいだ。立派な体格であることも相まってよく似合っているが、なんでそんな格好をしているのか、考えれば考えるほど混乱は大きくなってゆく。
 視線を動かして、周囲の状況を見る。
 今いる場所が、知っている所であって欲しいという望みは完全に断たれた。
 ベッドにかかった天蓋やら、壁を埋め尽くす勢いで並んでいる棚やら、そこに詰め込まれた本や謎の道具やら……ここがどこなのか見当もつかない。
 窓にはカーテンがひかれていたが、傍には地球儀らしきものや、おおきな望遠鏡が置かれていた。部屋の奥にある書き物机は畳一畳分ほどもありそうな大きさだが、開かれたままの本や巻物で埋め尽くされている。
 目に入るものすべてが日本らしくない。空気の匂いさえ違う気がする。
「ここ……は……?」
 誠治は苦労しながらも、なんとか口にした。自分の思い通りにならない身体を、無理やり動かしているような感覚だ。
 まるで、借り物の肉体に入っているみたいだ……と考えておいて、自分でゾッとする。
「ここは、あなたの屋敷の寝室です。ガイウス様」
 男──ラシャは、微かに震える声で言った。彼の声は優しく、思いやりに満ちていて、聞いているだけで心地いい。
 だが、彼が見せた優しさも思いやりも、誠治が次の言葉を言った瞬間に消え失せた。
「俺は……ガイウス……? ってひとじゃ……ない」
 ラシャの表情が凍り付く。
 その顔を見た誠治の中で、怖ろしい違和感が渦を捲きはじめる。
 別人の名で自分を呼ぶ見知らぬ男。見たこともない景色。借り物の肉体のように、思い通りにならない身体。
「まさか──」
 誠治は自分の手を持ち上げて、見つめた。それから左腕の袖をまくって、そこにあるはずの傷を探した。動物園で飼育されていたコモドオオトカゲの治療中に負った傷が、そこにくっきりと残っているはず……。
「ない……」
 何もなかった。どれだけ腕まくりしても、そこにはムダ毛すらない滑らかな肌があるだけだ。
 目眩が、大きくなってくる。
「あの、か、鏡。鏡をください」
 鏡をとりに行ったラシャはすぐさま戻ってきた。ベッドのそばに座り、恐る恐る手鏡を差し出してくる。誠治はそれを受け取り、覗き込んだ。
 鏡の中から、全くの他人がこちらを見返していた。
「うそだろ……」
 これは……骨格も顔立ちも、自分のものとはまるで違う。三十五年間生きてきた深浦誠治という人間の面影が、どこにもない。日本人の顔ですらない。
 白い肌。青い目。金の髪。瞬きする度にバサバサと音が鳴りそうなほど濃い睫毛まで金色だった。
 唇は薄めで、笑うことを忘れてしまったかのように素っ気ない。表情筋が乏しいのかもしれない。これほど驚愕しているにもかかわらず、わずかに強ばった表情が浮かんでいる程度だ。
 モデルみたいに整った顔を見れば、怜悧という言葉が脳裏に浮かぶ。おそろしく美形だが、温かみを感じる人相ではない。
 これは、何かのいたずらだろうと思おうとする。きっと手の込んだどっきりで、すべてに納得いく説明がつくはずだ。もしや鏡に液晶か何かが仕込んであって、そこに別人の顔が映し出されている、なんてことはないだろうか?
 指先で頬をつねり、顔をしかめ、口を開けたり閉じたりしてみる。が、すべてその通りに映し出された。鏡におかしなところはない。
 と言うことは──。
 結論が浮かびかけたけれど、考えをまとめる余裕はなかった。さっきまで優しい顔をしていた男が、急に誠治の肩を掴んできたからだ。
「お前……!」
「痛っ! 何する──」
 誠治の言葉を遮って、彼は唸るように言った。
「お前は、何者だ!」
 誠治は呆然としながらラシャの顔を見返した。そこに痛々しいほどの切実さが現われていたとしても、気にかける余裕すらなかった。
「お、俺は……深浦誠治……です」
 ラシャは、穢らわしいものに触れたとでも言うようにぱっと手を放し、誠治には聞き取れない言語で悪態らしき言葉を吐き捨てた。
 それから彼は立ち上がり、足音荒く部屋を出ていった。と思ったら、もう一人の男を連れてすぐに戻ってきた。男の胸ぐらを乱暴に掴んで、半ば引きずるようにベッド脇にやってくる。
「おいおいおい、なにすんだよ!」
 そう文句を言った男は、ラシャが来ているものとは雰囲気の違う、ゆったりとした麻の服を着ていた。指には指輪、耳にはピアス、首にはネックレスをこれでもかと身につけ、クルクルとした巻き毛をド派手な絹のターバンでまとめている。はっきり言って、胡散臭い見た目をしていた。
「これを見ろ、秘術師!」
 怖ろしい剣幕のラシャに言われるがまま、男はしげしげと誠治を見て、不満げに言った。
「何が気に入らないんだよ。あんたのご主人様はちゃんと生き返ってる。大成功だ!」
 すると、ラシャは秘術師と呼んだ男の頭をがしっと掴んで、誠治の方に顔を向けさせた。
「別人だ、この馬鹿者!」
 ラシャは牙の生えた歯を剥き出しにして、秘術師に詰め寄った。
「ガイウス様のお身体に、お前は別人の魂を呼び戻したんだ!」
 それ以上は、とてもじゃないけれど、耐えられなかった。
 誠治は気を失い、全てが闇の中に消えた。

 †

「それで?」
 ラシャは秘術師のバシルに声をかけた。彼は寝台の上にいる気絶した男のことを、かれこれ半刻もつつき回している。
 魔法を扱う能力を持った者のうち、最も地位が低く、最も危険視されるのが秘術師だ。法と掟に基づいた魔法を使う技術師や治療師と違って、秘術師の領分は生と死にまつわる混沌とした世界だ。
 彼らは技術師のように便利な魔道具をつくることはできないし、治療師のように人の病を癒やすこともできない。だが、死者の霊魂を肉体に呼び戻す術を行えるのは秘術師だけだ。
 それも、どうやら失敗に終わったようだが。
「どうやら、あんたの言うとおりだ。蘇生は上手くいかなかったようだな」
 とぼけた声に、ラシャの怒りが再び燃え上がりそうになる。
「そんなことはわかっている! どうすればやり直せるんだ」
 バシルは気の毒そうな表情でラシャを見た。
「最初に説明したとおりだよ、ラシャ。これは一回きりの秘術なんだ」
 ラシャはバシルを睨みつけた。
「失敗することはほとんど無い、とも言ったぞ」
 バシルは小さく肩をすくめた。
「ああ、その通り。それでも失敗したってことは……」
 そこまで言って、言葉が尻すぼみになる。ラシャは容赦なく追求した。
「失敗したと言うことは、なんだ?」
 バシルはモグリでも経験豊富な秘術師だ。脅しに動じるような男ではないが、ラシャは苛立ちをぶつけずにはおれなかった。
 バシルはラシャの顔をチラリと見て、こう言った。
「と言うことは、あんたのご主人様の魂が蘇生を拒んだってことだ。ガイウス様は生き返ることを望んでなかったらしい」
 頬を叩かれたような衝撃に、一瞬言葉を失う。だが、ラシャは言い返した。
「ガイウス様は何者かに殺されたんだぞ。復讐も望まずに、ただ死ぬことを選んだというのか?」
「さあな。ケチな秘術師に、四百歳の大魔術師の気持ちがわかると思うか?」
 バシルも、半ばむきになって反論してくる。
 ガイウス・アスカルダ・ヴネイは、このイヴニア国が誇る大魔術師で、この世に多くの魔道具を生み出した発明家だ。魔術師の血のおかげで見た目には若々しくみえるが、四百歳の大長老だ。
 彼こそ、ラシャが心から敬愛する主人。誇りを持って、何十年も彼に仕えてきてた。
 それでも……
「確かに、彼の心の中を見通すのは難しい」
 バシルは傍にやって来くると、ラシャの肩に手を置いて言った。
「あのな……辛いのはわかるが、もう手の打ちようがない。こうなったら、せめてこの状況を利用することを考えるしかないんじゃないのか」
 ラシャは、鋭い眼差しをバシルに向けた。
「どういうことだ?」
 バシルは、ベッドの上の男が眠っているのを確かめてから、低い声で言った。
「つまり、あんたのご主人様を殺した輩を見つけて、復讐するってことだよ」
「しかし、ガイウス様が生き返らなかった以上、犯人はわからない」
「そりゃそうさ。でも下手人がどこの誰にせよ、殺したと思っていた奴が生きてたらいい気分はしないはずだろ? もう一度手を出してくるのも時間の問題さ。そこを、あんたが叩けばいい」
 ラシャは少しだけ身を引いて、バシルをまじまじと見た。
「あの男を囮に使えというのか?」
「どうせ、赤の他人だろ」
 バシルは、何でもないことだという風に肩をすくめた。
 弱肉強食の世界で生きてきた者に特有の、非情な発想だ。とは言えその感覚は、ラシャにも理解できる。
「だが……身体の持ち主でない魂を生き返らせるのは、違法だ」
 秘術師が行う蘇生術は、正しく行えば法に触れることはない。だが、故人の身体に別人の魂を降ろした場合は話が別だ。直ちに状況を修正──つまり、もう一度殺してしまわなければ重大な罪に問われる。
 それでも──。
「たしかに、これは好機とも言えるのかも知れない」
 あくまで慎重なラシャをよそに、バシルは言った。
「だろ? そのためにはまず、あいつを生き延びさせないとな。あの熱じゃ、きっと今夜が峠だ」
「高熱くらい、お前がどうにかできないのか?」
 バシルは、大きなため息をついた。
「あのなあ、俺はたった今、死人を蘇らせるって離れ業をやってのけたところなんだぞ。これ以上無理したら死んじまうよ」
 それから、少し陰鬱な声でこう付け加えた。
「それに……あの熱は俺にはどうしようもない。気休めに薬を飲ませるくらいしか──」
「あの熱?」
 その時、ベッドの上の男が呻きながら寝返りを打った。熱のせいでうなされているらしい。彼は寝苦しそうに掛け布団を撥ね除け──汗ばんだ上半身が露わになる。
 途端に、濃厚な甘いにおいが漂ってきた。
 ラシャは反射的に息を止め、信じられない思いでベッドの上を見つめた。それから、壁際まで後ずさった。
「発情しているのか? 馬鹿な……!」
 これは、Ωが発する誘惑の匂いだ。だが、あり得ない。
「ガイウス様はαだったんだぞ!」
「うへえ、こいつは凄い」
 βのバシルにとっても、この匂いは強烈に感じるらしい。首に巻いたショールで顔の下半分を隠して、ラシャの傍まで後ずさった。
「これは俺の師匠の受け売りだが……こういうことも、稀にあり得るんだ。蘇生が上手くいかずに別人の魂が身体に入り込むと、元の身体の第二性も変わるらしい」
 この状況に圧倒されかけてはいても、ラシャは冷静に頭を巡らせた。
 敬愛する主人を殺した犯人に、なんとしても復讐したい。バシルの言うとおり、蘇生した主人の肉体に宿ってしまった魂を、囮として利用するのが最も効果的だ。
「では……復讐を果たすには、まず協力するようあの男を説得し、ガイウス様らしく振る舞えるよう教育し、なおかつΩだということを隠し通さなければならないのか」
 バシルは一瞬だけ考えて、あっさりと言った。
「だな」
 ラシャは頭を抱えた。
「気が遠くなりそうだ……」
「まあまあ、乗りかかった船だ。あんたが復讐を遂げるのを見届けてやるよ」
 ラシャはバシルをじろりと見下ろした。
「お前がこれに加担するのは金のためだろう」
 バシルはひょいと肩をすくめる。
「否定はしないが、あんたには味方が必要だろ。ただし、必要経費は遠慮なく追加させてもらうぜ」
 バシルの頭の中で、大魔術師の遺産を皮算用しているのが見えるようだ。だが彼こそが、この絶望的な状況で頼りにできる唯一の人間なのだ。
 それと……もし事が上手く運べば、も。
 ラシャは、ベッドの上で苦しげに唸る男を見た。主人の肉体の中に居る、全くの他人を。
 たしか、『ミューラセージ』とか名乗っていただろうか? 悪人では無さそうだが、どう考えても頼りない。
 男を観察していたバシルが、眉を顰めて言う。
「あ~、まずいな……魂の定着が上手くいってないみたいだ」
「定着が上手くいっていない、とは?」
「元の身体と、中に入った奴の魂の性質が違いすぎる。Ωとαじゃ正反対だし無理もないが、魂が肉体に馴染んでないんだ。このままじゃ、策を弄するまでもなく分離して、魂も身体も死んじまうぞ」
 ラシャはバシルに詰め寄った。
「どうすればいい」
 バシルはそつなく後退りながら、言った。
「そりゃあ……身体の方に教え込ませるしかないだろうな。お前はΩなんだってことを」
「はっきりと、言え!」
 苛立ちのあまり、喉の奥から獣じみた『グルル』という唸りが漏れてしまう。バシルは小さく飛び跳ねた。
「わかったよ! 要は、奴を抱けば良いんだ。わかるか? まぐわえってことだ!」
「なんだと……」
「肉体と魂の合一ごういつなんてのは神殿のかんなぎにしかたどり着けない領域だがな、それに一番近いのが……ほら、わかるだろ? イく時のアレさ。法悦ってやつだ」
 ──主人の肉体を抱く? 中身が別人だとしても、そんなことできるはずがない。
 だが、このまま放置しておけば、呼び寄せた魂が肉体を離れていってしまう。仇を見つけるには、あの『ミューラセージ』とかいう男に何としても生きていてもらう必要がある。
 ラシャは低く唸りながら考え込んだ。
 死んだ主人を蘇らせるなどということを、簡単にやり遂げられると思っていたわけではない。だが、それにしてもこれは……。
 なんとも込み入った展開になってしまった。
 それでも、主人を守り切れずに死なせてしまった罪滅ぼしをするためには、せめて復讐だけでも成し遂げなければ。
 そのためには、あの男が必要だ。
「法悦か」
 ラシャは、長く深いため息をついてから、言った。
「なら、わざわざまぐわう必要はない。要は果てさせればいいんだろう」
 バシルは数秒考え込んでから「まあ、そういう考え方もあるな」と頷いた。
 ラシャはベッドの上の男をじっと見つめた。
 命の恩人にして魂の救い手。父とも慕っていた尊敬すべき主は死んで、その肉体の中に他人が入り込んだ。
 悲しみを覚えるべきだ。もう二度とガイウス・アスカルダに会えず、彼に声をかけてもらえないことに絶望し、涙を流し、深く悼むべきだ。
 けれど、一度膝をつけば、もう二度と立ち上がれない気がした。
 考えるべきは復讐だ。それだけを考えていれば、悲しみに呑まれることなく、前に進み続けることができる。
 ラシャはもう一度ため息をついて、バシルに言った。
「まずはあの男に薬をやってくれ。それから……なすべきことをしよう」


 †

「イヴニア……? そんな国、聞いたこともない」
「おそらく、あなたが生きていたのとは全く違う世界なのでしょう」
 妙な味のする水薬を飲まされてしばらくすると、誠治の意識にかかっていた靄がすこしだけ晴れたような気がした。相変わらず熱は高いし、頭はくらくらしているけれど、会話は出来る。
 けれど、自分が生きていたのとは全く違う世界にいる、なんて話を聞かされたせいか、また意識が朦朧とし始めた。
 ラシャは誠治が寝ているベッドの足下近くに腰掛けていた。
「あなたの世界でも、よその世界から魂が迷い込むことがあるでしょう」
「まさか」
 笑い飛ばそうとするものの、よくよく考えれば可能性がないとは言い切れない。仮に誠治と同じ立場に置かれた者がいたとしても、精神病と見なされるか、オカルト雑誌で取り上げられるのが関の山だろう。
 魂だけ別の世界に転移したなんて、そう簡単に信じられることじゃない。
「ここが異世界なら、どうして日本語が通じるんだ? 君だって日本語を話してるし」
 ラシャは戸惑いの表情を浮かべた。
「ニホンゴ……?」
「俺が話してる、この言葉のこと」
 説明すると、ラシャは「ああ」と呟いた。
「あなたの身体の……元の持ち主は、大変偉大な魔術師でしたので」
 ──魔術師、ときたか。いよいよ理解が追いつかなくなってきた。
 けれど、もう一度気を失うのは御免だったので、誠治はどうにか、その事実を呑み込むことにした。
「魔術師だと、誰とでも言葉が通じるようになるのか?」
「わたしには、あなたの言葉はイヴン語──こちらの共通言語に聞こえます。魔術師の血に宿る魔法が、あなたの思考をこちらの言語に置き換えているのでしょう。ご主人様は異国の文字で書かれた本でも、一目で中身を解読されていましたから」
 この身体の『元の持ち主』の話をする時、ラシャの言葉の端々には尊敬が滲む。だが、彼は頑なにこちらを見ようとはしない。別人の魂に乗り移られた主人の姿を見るのが辛いのだろう。
 口に出してそう言わなくても、彼が喪失感に苦しんでいるのはわかった。
 こんな異常な状況だというのに……胸を打たれずにいるのは難しかった。
「君は、ガイウスという人を大事に思っていたんだな」
 ラシャは弾かれたように顔を上げて誠治を見て、それを悔やむように俯いた。きっと、失った主人の面影を直視できないのだ。
「ガイウス様は……わたしの恩人でしたので」
 彼は言葉少なに言った。本当は、もっと言葉を尽くして説明したいのに、仕方なく諦めたような表情だった。
 それから、彼は意を決したように唇を引き結ぶと、身じろぎをしてベッドの上の誠治に少しだけ近づいた。
 途端に、甘い匂いが鼻腔を擽る。本能を擽るような、何とも形容しがたい匂いだ。鼓動が早まり、息が上がる。何故だか熱まで上がってきた。
「うわ、何だこの匂い……香水……?」
「いいえ。あなたが感知しているのは、わたしが発する誘引香フェロモンの匂いです」
「フェ……何!?」
 ラシャはため息をつく代わりに少しだけ息を吸い込み、口を開いた。
誘引香フェロモンというのは──」
「フェロモンが何かくらいわかってる。でも、人間の鋤鼻じょび器官は機能しないはずだ」
「じょび……なんです?」
 今度はラシャが困惑した顔をする。
「ええと……鋤鼻じょび器官っていうのはフェロモンを受容するための器官なんだ。爬虫類、両生類、哺乳類には備わっているけど、人間のはとっくに退化して機能を失って……る……はず……」
 話す間にも、ラシャが少しずつ距離を詰めてくる。熱が上がり、頭がぼうっとする。舌もまともに回らない。
「そうですか。あなたの世界ではそうだったのでしょう」
 理解を示すような口ぶりでも、ラシャの言葉の裏には非情さが隠れていた。ベッドの足もと近くに腰掛けていたはずの彼は、誠治の方へじりじりと距離を詰めながらこう続けた。
「しかしこの世界では、あなたにはΩと呼ばれる二次性が備わっている。Ω性の者は、身体のつくりが男であろうと女であろうと、子を孕むことができるのです。Ωのフェロモンは、特にαを強く誘い寄せます」
 誠治は本能的な危機感を覚えて、ラシャの身体を押しのけた。
「ま、ま、待って。ちょっと待て!」
 男が妊娠可能? 異世界云々の話をぬきにしても、異常すぎる。
「じゃあ、この身体には腟や子宮があるのか? まさか両性具有?」
「いいえ。男のΩの場合、そのような行為は肛門で行います」
「総排泄腔みたいなものってこと!?」
 総排泄腔とは鳥類や爬虫類に備わった臓器で、尿や糞、卵や生殖器の通り道だ。
 人間の胎児にも同じ臓器が見られるが、通常は成長していく過程で分離するものだ。稀に、生後にもそれが分化しないままという難病もある。女性にしか発生しないと言われているが、この世界では、男性にも同じ事が起こるのだろうか。
 まあ、男にも子宮はある。男の胎児は、元は女性の身体から臓器を発展させてゆくものだ。だから男にも、前立腺のすぐ傍に子宮の名残があるのだが……。
「正直、異世界に転移して他人の身体に乗り移ったと言われるより、こっちの方が受け入れがたい」
「はぁ」
 ラシャは気のない返事をすると、厄介だなと思っているのを隠しもせず、大きなため息をついた。
「でしたら、実際に体験なさった方が早いでしょう」
「えっ……」
 迫力のある眼差しに見つめられて、誠治は思わず生唾を飲む。まるで、蛇に睨まれた蛙だ。甘い匂いはさらに濃くなり、身体の中心から熱がじわりと広がってゆく。
 誠治の身体の反応を見抜いたかのように、ラシャが言った。
「その熱も、一度吐き出してしまえば楽になります。わたしがお手伝いしましょう」
 ──手伝うってことは、つまり……。
 脳裏に浮かんだ光景に、身体が真っ先に反応する。今までに体感したことのない疼きが、腹の底から溢れてくるようだった。頭では理解できなくても、身体の方はとっくに受け入れて、必要を満たすための行為を要求している。
 動物の治療のために生態を研究する立場として、フェロモンを受容した個体がどういう衝動を覚えるのか、考えを巡らせたことはある。
 だが、理性を持っているはずの人間にとっても、これほどまでに抗いがたいものだとは思いも寄らなかった。
「で、でも……」
「この状態を放置する方が危険です。秘術師の話では、死に至る可能性もある、と」
「死ぬって、そんな」
 重大な話をされているのに、理解し切れている気がしなかった。ラシャから漂ってくる匂いに、まともな思考が邪魔されていた。
「見ず知らずの君に、そんなことは頼めない」
「かまいません。慣れておりますので」
 ラシャは相変わらずこちらを見ようとしない。『慣れている』という言葉が何を指しているにせよ、主人の顔をした他人を抱くことではないはずだ。
 逡巡する誠治をよそに、ラシャはさらに距離を詰めた。彼が身動きする度に、襟元や、衣服の隙間から匂いが漏れ出る。
 屈服を促すような、解放を唆すような……人としての道理など捨てて、望むままに乱れてしまえ、と囁きかけてくるような匂い。心臓がバクバクして、臍の奥が甘く疼く。
「ちょっと……待って……」
「あなたを死なせるわけにはいかない。どうか協力してください」
 ラシャの手が伸びてきて、誠治の目の上に被さった。
「目を閉じて」
 低く豊かな声が、耳元で囁く。
 迷い、一度は抵抗しようとしてみる。だが結局、言われるままに瞼を閉じた。目を覆っていた、大きくて温かい手が離れていった。
 ベッドを軋ませながら、ラシャが場所を移る。どうやら誠治の両脚の間にかがみ込んでいるらしい。両手がズボンの縁にかかった。
「下を脱がせますので、腰を上げて」
 こうなったら、彼に全てを任せるしかない。
 誠治が言われたとおりに腰を持ち上げると、するりと布が滑り、下半身が剥き出しになった。
 その時、尻に違和感を覚えた。下腹部で脈打つ疼きとも、痛いほどの勃起とも違う。
「男のΩが交わるときには、この場所を使います」
 ラシャの手がその場所に触れた瞬間、違和感の正体がわかった。何か、ぬるぬるするものが溢れている。
「嘘だろ……これじゃ、まるで──」
 なけなしの理性を保つために、自分が学んできたものと照らし合わせて、これがどれだけあり得ないことなのかを考えようとする。
 だが、ラシャの指が穴の縁を撫で……這入り込んできた瞬間に、そんな抵抗は無意味だと思い知らされた。
「うあ、あ……!」
 愛液を指に絡ませながら、ラシャの指が奥まで入り込んでくる。砂鉄が磁石に引き寄せられるように、身体中の感覚が全て、ラシャの長い指がもたらすものに向いているような気がした。
「あ、何だこれ、やばい……っ」
 何か意味のある言葉を口にしていないと、恥ずかしい喘ぎ声を垂れ流してしまいそうで怖ろしかった。
 ラシャの指が、内部を探るように動き回る。一度指が抜かれたと思ったら、今度は二本に増えてもう一度中に入り込んできた。異物感が増すと同時に、刺激も強くなる。
「うわ……っ、あ……これ、何なんだ……普通じゃない……っ」
 ぐちゅぐちゅと濡れた音が大きくなる。自分が立てている音だと思うと、恥ずかしさに首筋が灼けるような気分だ。だがそれ以上に、今までに感じたことの無い感覚が殺到してくるのが、ただただ怖ろしかった。
 ゾクゾクする。じんじんする。頭がくらくらするほど気持ちがいい。
「あ……待って、ちょっと待ってヤバい。こんなの変だ……」
 苛立ちの隠ったため息が聞こえてくる。
「少し、静かにしていただけませんか?」
「ご、ごめん……」
 誠治は仕方なく、腕を口に押しつけて声を殺した。
 身体の中を優しく、それでいて淫らな手つきでまさぐる動きに、恐怖はあっけなく溶けてゆく。
「ん、ん……」
 理性だとか分別だとか、手放してはいけないはずのものが、ラシャの放つ甘い匂いに溺れてゆく。甘い痺れが身体中を駆け抜け、愛液がさらに溢れる。
 その時、ラシャの指がある一点をそっと押した。
「ん……!?」
 途端に、目から火花が散るような快感に全身を貫かれる。前立腺を刺激されたのだ。
 これが世に聞く前立腺マッサージか……と感慨にひたる余裕は全く無かった。そこが弱点とみるや、ラシャは容赦なくその場所を攻めた。
「ふ……んン……あ!」
『慣れている』という言葉の通り、彼は強すぎず弱すぎもしない力加減で、リズミカルに力を加えてゆく。
「う、あ、あ……っ……」
 口を押さえて声を殺したくても、身体に力が入らない。全身のありとあらゆるつなぎ目が解けてしまうかと思った。そうなってしまえばいいとさえ思った。
 だが、まだ全てを手放してしまうのは怖い。
 誠治は閉じていた瞼をうっすら開けて、ラシャの姿をのぞき見た。
 その瞬間、後悔してまた目を閉じた。
 ラシャは相変わらず、頑なにこちらを見ようとはしていなかった。顔を背けた彼の遠くを見るような眼差しには、はっきりと苦悩が浮かんでいた。
 彼は鋭い牙の生えた歯で下唇を噛み、獣のように鼻に皺を寄せていた。額は汗ばみ、首筋も紅潮している。ラシャのフェロモンが誠治に作用するように、誠治のフェロモンも彼に影響を与えているのだ。
 この行為を、無駄に長引かせない方がいい。誠治とラシャのどちらにとっても。
 誠治は、甘い匂いに身を委ねて、抵抗感と恐怖に力んでいた身体を緩めた。
「そう……お上手です」
 ラシャは言い、もう一方の手で誠治のものを握った。
「あ……!?」
 内部からの刺激だけでも強烈なのに、これ以上は耐えられる気がしない。本能的に腰が引けそうになったのを、ラシャは見逃してはくれなかった。
「駄目です。逃げないで」
 丁寧な口調に、どうすればこうも有無を言わさぬ迫力を込めることができるのだろうか。誠治は言うとおりに、抵抗をやめた。
「もうすぐ、終わります」
 彼の巧みな手つきと、雄っぽさを醸し出したかのような甘い匂い。優しいのに、どこか断固とした声に、意識が雁字搦めになる。
「あ……ああ……っ」
 先走りを絡ませ、手首をしならせながら上下に動かす左手と、それに呼応するように身体の中から快感の源泉を刺激する右手。濡れた音が重なり合って追い詰めてくる。
「あ、ああっ……だめ……」
 実際に快感を覚えているのは下半身の一部だけのはずなのに、爪先から頭の先まで、蕩けるような官能にどっぷりと浸かっていた。人としての理性を失い、快感を享受するだけの生き物になった気がする。
 この身体は、ラシャのなすがままだ。
「も、むり……いきそ……」
「いいですよ、ほら」
 あやすような声とは裏腹に、手の動きは追い詰めるように早まる。
「ん、あ、ああ……ッ!」
 帯電したみたいに肌がざわめき、ぞわぞわと総毛立つ。呼吸さえおぼつかなくなるほど、気持ちがいい。
 身体の中で膨れ上がる絶頂の気配を感じる。誠治は降伏し、それを受け入れた。
 駆け巡る戦慄に、全身がぎゅっと強ばる。
「ン……っ」
 堪えきれずに溢れる声を抑えるために、誠治は前腕を噛んだ。その痛みが鈍るほど大きな快感が全身を洗う。
「は……あ、あ……っ」
 絶頂に硬く締まった筋肉がふっと緩んだと思ったら、射精をしていた。熱い精液が腹に飛び散って、どろりと滴る。ラシャの手が、最後の一滴まで搾り取るようにゆっくり、強く扱いた後で、離れていった。
「あ……は……」
 誠治は、息をするだけで蘇るオーガズムの余韻に、びくびくと震えながら目を開けた。
 ラシャはすでにこちらに背を向けていて、布で両手を拭っていた。
「ラシャ……さん」
 名前を呼ぶと、肩越しにわずかにふり返る。だが、やはりこちらを見ようとはしなかった。
 絶頂の余波が収まってゆくほどに、自分の身体から、耐えがたい熱と疼きがひいていく。誠治は、虚脱感に身を委ねて目を閉じる前に、どうしても言わなければならないことを告げた。
「ごめん……ありがとう」
 一瞬の沈黙の後で、ラシャが言った。
「礼には及びません」
 そして、誠治は再び眠りに落ちた。

 それからどれくらい眠っていたのだろう。
 目が覚めると、あれほどしつこく居座っていた熱は綺麗さっぱりなくなっていた。
 試しに腕を持ち上げて、指を動かしてみる。感はだいぶ薄れたようだ。けれど、指先の感覚はまだ少しだけ鈍い。ビー玉を誤飲した体長五センチのアマガエルの胃から異物を摘出するような手術は、まだできそうにない。
 身を起して、ベッドから立ち上がろうとしてみる。指先以上に足の裏の感覚がおぼつかないが、ふらつきそうになる膝に力を込めて、なんとか立ち上がることができた。
 いろいろなところに掴まりながら、部屋の中を歩いて、見て回ってみる。
 書き物机は、開かれたままの本や巻物に埋め尽くされていた。
 棚の上には、金属と宝石で構成された小さな装置がいくつも並んでいる。硝子のドームに入った太陽系儀のようなものから、視力検査の時に使う眼鏡のような装置、小型のエンジンのようなものまである。
 その中のひとつ、星座早見盤と時計が合体したような道具に触れてみようと手を伸ばすと、背後から声がした。
「そこにあるものは全て、ガイウス様の発明品です」
 暗に『勝手に触るな』と言われている気がして、誠治は手を引っ込めた。
「魔術師なんじゃなかったっけ?」
 振り向きながら尋ねると、ラシャは一瞬虚をつかれたような顔をした。死んだ主人が別人の口調で話しかけてくることに、まだ慣れていないのだろう。気の毒だが、どうすることもできない。
「ええと……俺の世界で魔術師といえば、杖を振ったら魔法の力で何でもできる人のことだから。もちろん、空想の話だけど」
「そうでしたか」とラシャは言った。
 手には水の入った盥と、布を持っている。誠治のために持ってきてくれたのだろう。彼はそれを、ベッド脇のキャビネットに置いた。
 ラシャとベッドが一度に目に入ったせいで、先日、まさにその場所で、あられも無い姿を見せてしまったことを思いだす。申し訳なさと恥ずかしさで、首の後ろがかっと熱くなる。
 だが、ラシャの方は少しも気にしていないようだった。彼はテキパキと部屋を片付け、閉じられっぱなしだったカーテンを開けた。途端に眩しい光が注ぎ込んできて、部屋の中が見違えたように明るくなる。
「こちらの世界では、魔術師には二種類います。魔道具を発明するガイウス様のような技術師と、人間の病を癒やす治療師です」
「魔法で病気が治る? それはいいな」
 ラシャは怪訝そうな顔をして誠治を見た。
「俺も医者なんだ。動物専門だけど」
 すると、ラシャは心底驚いたように目を丸くして、誠治を凝視した。
「獣を癒やす医者がいるのですか? 何故です?」
「こっちの世界でも、動物をペットとして飼ったり、家畜として使役したりするんじゃないか? そういう動物が病気や怪我をしたときには医者が必要だろ?」
「ペット。それは奴隷のようなものですか」
「奴隷とは……違うよ。ペットは、家族のように大事にするものだ。少なくとも、それが理想」
 ラシャは、全てに納得がいったわけではないけれど、理屈はわかるというような顔で頷いた。こっちの世界では、動物を可愛がる文化がないのかも知れない。
「魔法がないのなら、そちらの世界ではどうやって病を治すんです」
「薬を使ったり、外科手術をしたり、かな」
 外科手術が何を意味するのか伝わっていないようだったので、誠治は説明を続けた。
「例えば……薬ではどうにもできない悪性の腫瘍があれば、痛みを感じないように麻酔をかけて、身体を切り開いて、患部を切除する」
 ラシャは自分の意見を口にしなかったけれど、かすかに浮かんだ表情から『野蛮だ』というようなことを感じているらしいのはわかった。
 微妙な空気を誤魔化したくて、誠治はガイウスの遺品──と呼んでいいのだろうか──から離れた。
 差し込んでくる光に吸い寄せられるように、カーテンを開いた窓へ向かう。窓は大きなフランス窓(こちらではどう呼ぶのか知らないが)で、バルコニーへと続いていた。窓を開けて、誠治は恐る恐る外へ出た。
 真正面から吹いてきた風の洗礼を受けて、一瞬、息が止まる。
 眩しい光に目を瞬きながら、バルコニーの淵まで歩いて、手摺りにしがみついた。
「うわ……」
 今の今まで、『異世界』にいることに納得がいっていなかったとしても、この瞬間、誠治は全てを受け入れた。
 ガイウスの邸宅は小高い丘の上に建っていた。邸宅のある場所からは、オリーブやレモンの木立が散らばるなだらかな傾斜が続いている。遠くに町の景色が広がり、その向こうにはマリンブルーの海が開けていた。
 空を見上げれば、有り明けの月が二つ、浮かんでいる。
「は……」
 月は一つしかないものだと思って三十年以上生きてきたせいで、大きさの違う月が寄り添って浮かんでいる光景に、思わず身震いしてしまう。
「本当に、ここは俺の住んでいた世界じゃないんだな……」
 ──もう一度、戻ることができるのだろうか?
 その時、大事なことを考えていなかったのを思い出した。
 いつの間にか後ろに控えていたラシャをふり返って、誠治は尋ねた。
「他人の肉体に魂が乗り移ってしまった……ってことは、元の世界の俺は……」
「すでに亡くなっているはずです。すくなくとも、肉体は」
「そ……そうなのか……」
 誠治は自分を落ち着かせるために、首に手を当てた。
「あなたは、あなたの世界で死に、魂だけがこちらに流れてきてガイウス様の肉体に入ったのでしょう」
 ラシャは、誠治が聞きたくない話を冷静に説明してくる。
「しかし、貴方が異世界からやって来たことは、秘密にしておかなければなりません」
「秘密にしなきゃいけない理由があるのか?」
 ラシャは頷いた。
「故意に召喚されたものであれ、今回のような不幸な事故であれ、本来の肉体の元主と異なる魂を呼び込むのは重罪です。ましてや、異世界人の魂ともなれば……発覚した場合、死罪は免れません」
 また、目眩がぶり返しそうになる。
「そしたら……俺はどうすれば……」
 その時、ラシャの目が妙な輝きを放ったのが見えたように思えた。だがそれは一瞬のことで、誠治は深く考えようともしなかった。
「そこで、あなたに提案があるのです」
 ラシャは言い、まっすぐに誠治の顔を見た。
「わたしの主人は、何者かによって暗殺されました。彼を救いたい一心で蘇生の術を行いましたが……身体に入ったのはあなたの魂だった」
 誠治は、淡々と語るラシャの声に、制御し切れていない悲しみが滲んでいるのを聞いた。事故とは言え、大事な主人の肉体に間借りしている申し訳なさに、身が縮む。
「しかし、まだ復讐する手立ては残っています。死んだはずのガイウス様が生きているとなれば、犯人はもう一度命を狙ってくるでしょう」
 誠治はごくりと生唾を飲んだ。
 ──俺は今、とんでもない提案をされている。
「俺を囮にして、犯人をおびき寄せるって言ってるのか……?」
 すると、ラシャの視線が鋭くなった。
「いけませんか?」
 真正面からそう尋ねられて、言葉に窮する。まるで捕食者のような目で誠治の顔を見据えたまま、ラシャは言葉を続けた。
「協力してくださる限り、あなたを保護しましょう。それ以外に、あなたがこの世界で生きていく術はありません」
「でも、そんなの……」
 ラシャがそっと手を伸ばしてきて、誠治の手を取った。
「あなたに真実を隠したまま泳がせて、事を進めることもできたのですよ。その方がずっと容易かった」
 オレンジががった琥珀色の目に見つめられて、反論を封じられてしまう。
 ラシャはさらに続けた。
「正直にお話したのは、あなたを危険からお守りする自信があるからです。あなたを守り、復讐を果たす。やり遂げる覚悟がなければ、こんな提案はしません」
 強固な意志が、彼の四肢に満ちているのを感じる。怖ろしい提案を突きつけられているにもかかわらず、誠治は、ラシャを復讐に駆り立てた感情についても考えずにはいられなかった。
「もし、断ったら?」
「そうなれば、ガイウス様のお身体をあなたに使わせておく理由もありません。あなたを殺して、その肉体から出ていっていただく」
 つまり、元の世界に戻る方法もわからないまま、今度こそ死ぬということだ。
 情け容赦ない──だが、当然の成り行きだとも思う。本当なら、今すぐにでもこの身体から出ていって欲しいと思っているはずだ。
 しばらく考え込んだあとで、誠治はぽつりと言った。
「わかった」
 まるで、途方もない額の借金をしてしまったみたいな気分だった。開業する時にも、機材やら何やらを揃えるために四桁の借金をしたけれど、あれよりひどい。
 立ち直ったはずの膝が、また微かに震えた。
「ただし、必ず俺のことを守ってほしい」
 ラシャは両手で、誠治の手を包み込んだ。
「お約束します、ミューラセージ様。この命に替えても」
 誠治はまだほんの少しおぼつかない指先に力を込めて、ラシャの手を握り返した。
「ミューラセージ……?」
 誠治は聞き慣れない名前で呼ばれて首を傾げてから、ラシャの勘違いに気付いた。
 あははと声を上げて笑うと、ラシャは目を丸くして誠治を見つめた。どうやらこれが、彼の驚いたときの癖らしい。
「俺の名前はミューラセージじゃなくて、深浦、誠治。深浦が姓で、誠治が名前だ」
「ミューラ、セージ様……ですね」
 まだ異国風の発音が抜け切れていないけれど、どういうわけか、誠治はラシャに名前を呼ばれるのがすでに気に入り始めていた。
「君は?」
 自己紹介を促したつもりだったのだが、何のことかわからないという目で見つめ返される。
「名前は『ラシャ』だけ?」
「ええ」とラシャは頷いた。
「そうです。この国では、わたしに姓はありません。奴隷ですから」
 誠治はギョッとして、それが思わず顔に出てしまった。
「君が奴隷? この国には奴隷がいるのか?」
「ええ、そうです。あなたの国は違ったのですか?」
 さも当たり前のように肯定されてしまったことに、どう反応すればいいのかわからないまま、誠治は答えた。
「俺の国だけじゃなくて、どこの国でも、人間を売り買いするのは犯罪だ」
「それは、この国でも同じです。人間の売り買いは法によって固く禁じられています」
「え? でも、君は奴隷だって……」
 誠治の頭の上に、無数の『?』が並ぶ。ラシャはあくまでも冷静に、子供に言い聞かせるような調子で説明した。
「わたしは人間ではありません。今は人間のような肉体を持っていますが、かつては野生の獣でした。この国では獣を捕まえ、魔法で人の姿を与えて奴隷にするのです。元が珍しい獣であればあるほど価値が上がります」
 開いた口が塞がらないとはこのことだ。でもそれならば、彼の鋭い牙や縦長の瞳孔にも説明がつく。今も、目映い陽の光を浴びる彼の瞳孔は細い。夜行性の獣の特徴だ。
 生存本能のひとつの形だろうか。異世界だの魔法だのという話にはとてもついていけないような気がしていても、受け入れてしまった方が頭と心に負担がないと思えるときには、突拍子もない話でも『そういうもの』と納得できてしまうらしい。
 獣医師の性と好奇心に抗えず、誠治は思い切って尋ねた。
「じゃあ君は……どういう動物だったんだ?」
 すると、ラシャは瞬きをして誠治を見つめた。
 特徴のある目に、驚くと目を見開いて動きを止める癖。無駄のない身のこなしに、悠然とした雰囲気──きっと夜行性の肉食獣、それも大型のものだろう、と誠治は思った。もし生態系が元の世界と一緒なら、ライオンか、豹か──
「竜です」
「うん?」
「ですから、竜です」
 誠治は言葉を失って、何度も瞬きをした。
「竜って、あの『竜』?」
 予想の遙か斜め上の答えに、オウム返しするしかない。ラシャは困惑したように言った。
「他にどのような竜がいるのか、わたしにはわかりかねますが──」
「いや、いいんだ。わかった。そうだよな。魔法があるなら竜ぐらいいて当然だ……」
 まがりなりにも納得したものと判断したのか、ラシャは口を開いた。
「結構です。これから、貴方にはわたしの主人である振りをしてもらわなければなりません。細かいことは追ってご説明いたしますが」
 慎重に前置きをして、ラシャは説明を続けた。
「わたしは竜獣人で、ガイウス様が所有する奴隷です」
 誠治は、また目眩がしかけてきた頭を精神力で押さえつけながら、ラシャの説明に食らいついた。
「あなたはわたしの主人、ガイウス・アスカルダ・ヴネイとして、彼の生前と同じ生活を続けて頂きます。あの方は社交好きではありませんでした。近しいご友人は少なく、ここ百年ほどは魔道具の研究からも遠のいておいででしたので、周りの目を欺くのもそれほど困難ではないでしょう」
 この世界の事情を全て飲み込めているわけではなくても、四百歳の大魔術師になりきるのが『それほど困難ではない』わけがないのはわかる。それでも、誠治は頷いた。
「そう思い詰めた顔をなさらないでください。きちんとまで、わたしが責任を持ってお世話いたします」
 それから、ラシャは誠治の顔をまじまじと見下ろした。
 ゾクッとするほど美しいのを別にしても、この迫力だけで、竜獣人であるという彼の言葉を真に受けるには充分だ。迫力のある目に見つめられて、抗う気力がなくなってしまう。
「まずは、振る舞いを矯正していくところから始めましょう。あなたは何もかもを顔に出しすぎる。声を上げて笑うのも厳禁です」
「はい……」
 誠治は力なく返事をした。
「『はい』ではなく『わかった』と。主人は奴隷に敬語を使いません」
「は──じゃなくて、わかった」
 ラシャはこくりと頷き、誠治の前に片膝をついた。
「ガイウス様にお仕えしたように、貴方にも仕えます。何なりとお申し付けを」
 それから、彼はすっと立ち上がると、「今日はもうお休みください」と言い置いて部屋を出ていった。
 ドアが閉まった音を耳にした瞬間に緊張の糸が切れて、誠治はその場にへたり込んだ。これまでに教わったいろんなことが殺到して、今度こそ目眩がし始める。
「これは……大変なことになったぞ……」
 囮として殺されることを心配する前に、ラシャを失望させて用済みだと言われる方が早い気がする。現に、彼の提案を呑まなければ『あなたを殺して、その肉体から出ていっていただく』と面と向かって言われたばかりだ。
「俺、生きのびられるのかな……」
 そんな誠治の姿を、二つの月がのほほんと見下ろしていた。
 こうして、異世界での花嫁修業ならぬ、ご主人様修行が幕を開けたのだった。

 †

 ラシャが涙を流したことが、過去に一度だけあった。
 イヴニアからやって来た野獣狩りの一団が、故郷を滅ぼしてしまったときのことだ。その頃、ラシャは生まれて三十年ほどの仔竜だった。
 獣は涙を流さないと思われているが、それでも、ラシャは泣いた。
 ラシャの故郷は、最後の竜たちが暮らす楽園だった。砂漠に点在するオアシスを転々としながら、人の目に触れないように、ひっそりと、自然の秩序を守った暮らしを続けていた。
 当時のラシャには、人間たちの来襲は青天の霹靂としか思えなかった。
 人間たちがどんな手段を用いたのか、その当時はわからなかった。だが後になって、奴らが竜を無力化する毒を使っていたことを知った。その毒が塗られた鏃がすこしでも肌をかすめれば、竜は力を失い、まともに立つことさえできなくなる。
 なすすべなく囚われたラシャの目の前で、成熟した竜は残らず殺された。
 ラシャの母親と父親は、目の前で首を切られ、荷馬車に積み込まれた。
 男たちは楽しげに笑っていた。良い手土産になる、こいつを剥製にして家に飾ろう、と。
 その日流した涙を最後に、続く二百年の間、ラシャは一度も泣くことは無かった。

「前にも申し上げたとおり、希少種の獣人は価値が高い。ですが、竜を獣人にするのは大変難しいとされています」
「じゃあ……君は最後に生き残った竜なのか」
「ええ」とラシャは頷いた。
 ガイウスの書斎で、ラシャは誠治と向かい合って座っていた。
 限りなくかいつまんで話した自分の素性に、彼は心を痛めているように見えた。
 煩わしい、と思う。同情を求めて話したわけではない。それがこの世界の常識だから、知っておくべきだと思っただけだ。いちいち傷心されていては話を先に進めづらくなる。
「昔のことです。貴方が心を煩わせるまでもありません」
 感情を排した声でそう言うと、誠治は何か言いたげに口を開いた。だが、結局は諦め、黙って頷いた。
 ──これでいい。
 この世界の大まかな決まりごとについては、数日かけて教えた。今日は、ガイウスが生前所有していたについて伝えていかなければならない。
 息をして動いているガイウスの姿が目の前にあるのに、『生前』という言葉を使わなければならないことが辛いが……慣れてゆくしかない。
「捕らえられた獣は、人の姿を与えられます。勝手に獣の姿に戻れば罰せられ、追放されます」
 治療師という生業を持っていただけあって、誠治はだいたいの物事においては飲み込みが良い。好奇心を持って知識を吸収していくのも良い傾向だ。
 だが奴隷に関する話をすると、途端に顔を曇らせる。心を煩わせる必要はないと、何度も言っているのに。
 ラシャは誠治の表情に気付かないふりをして先を続けた。
「奴隷はみな、この首飾りを身につける決まりです」
 ラシャは自分の首から下がったネックレスを誠治に見せた。平たく潰した鉛に、奴隷を意味する紋章を刻んだだけの簡素なものだ。
 誠治は眉を顰めてそれを見つめたが、自分の意見は口に出さずにおくことにしたらしい。ありがたく思いながら、ラシャは講義を続けた。
 ラシャを最初に買った主人は奴隷の訓練所を経営する男だった。ラシャはそこで、他の獣人たちと共同生活を送りながら、人間としての振るまいや、しきたり、そして何より主人への恭順を、文字通り叩き込まれた。
 獣人として身につけるべき作法を身につけると、ラシャにはすぐに買い手がついた。だが長命な竜獣人と比べて、人間の命は儚い。主人が死ねば遺産の整理が行われ、ラシャの身柄も人の手に渡った。
 そうして、何人かの主人のもとを転々としていったラシャが最後に出会ったのが、ガイウスだった。
 ガイウスはそれまでの主人とは違った。
 彼だけが、ラシャをケダモノではなく、ひとりの男として扱ってくれた。彼だけがラシャに思いやりを示し、庇護下においてくれた。ラシャに文字を教え、仕事を教え、誇りを教えてくれた。 
 ガイウスを蘇生させるため、いままでに貯めた金をすべて、秘術師に支払った。
 そして、主人の代わりにこの……異世界から来た男が蘇ったのだ。だが、後悔はしていない。どんな結果になろうとも、為すべきことを為すのみだ。
 ラシャが涙を流したのは、過去に一度きり。それは、これからも変えるつもりはなかった。
 復讐を遂げたその時には、涙を流すことを自分に赦そう。だがそれまでは、ひたすら前に進み続けるしかない。
 ラシャは小さくため息をついて、言った。
「あなたの協力には感謝していますが、ガイウス様の身体に間借りしている以上は、彼の評判を落とさないように努めていただかねばなりません」
 誠治に告げると、彼は思い出したように真面目な表情を繕った。すると、いかにもガイウスらしい、すこし近寄りがたい高貴な表情が蘇る。
 ラシャは懐古の情を振り切り、これからの二人を待ち受ける問題に意識を向けた。
「実は、饗宴への招待がいくつか来ています。いずれの日程も少し先のことですが、その時までに、あなたをなんとか形にしなくてはなりません」
 その言葉に、誠治の顔から少し血の気がひいた。正直、ラシャも同じ気持ちだった。様々な人間が集まる饗宴の席は、鮫が泳ぐ海と同じようなものだ。海千山千の貴族でさえ、不用意に妙な噂のきっかけを作り、破滅への坂を転がり落ちるきっかけを作りかねない。
 だからこそ、訓練が必要なのだ。
「わたしがお助けしますから、大丈夫です」
 誠治は真面目くさった顔で頷き「はい」と言いかけてから「わかった」と言い直した。
 ラシャは小さくため息をついた。
 三十五歳の、人間の男。
 ラシャにとっても、ガイウスにとっても、子供にも等しい年齢だ。無知で、未熟で、何かにつけ洗練されていない言動が目立つ。
 救いなのは、彼がこの世界の既成概念に染まっていないことと、ガイウスが抱いていたのに近い、奴隷制への義憤を感じているらしいことだ。おかげで、こちらの思い通りに操るのに都合が良い。
 秘術師のバシルは、ガイウスと誠治の魂の性質が違いすぎると言っていた。
 だが、目覚めてからの数日を共にしてみて、ラシャには少しだけ──ほんの少しだけ、誠治の魂がガイウスの肉体に引き寄せられてしまった理由がわかる気がした。
 二百年も間他人に仕えていたから、従順な奴隷として振る舞うのは容易い。世辞や追従など、息をするのと同じくらい容易く口から取り出せる。
 ラシャは声色を和らげて、言った。
「あなたなら、きっとやり遂げられますよ」
 だが……この言葉だけは、あながち嘘というわけでもなかった。

 †

 修行が始まって一ヶ月が経過した頃。
 その夜、誠治は夜中に覚ました。誰かに殺される夢をみたのは、こちらにきてから初めてでは無いし、きっとこれが最後でもないだろう。
 あるいは、誠治に夢を見せているのは、ガイウスの身体に宿った記憶の欠片なのかもしれない。そんなものがあるとするなら、だが。
 ガイウスは人目につかない状況で殺された。元老院議会の傍の路地裏で何者かに刺されたのだ。
 ガイウスを最初に発見したのはラシャだった。ラシャは、ガイウスが刺された直後に路地裏に駆けつけたが、遠ざかる足音を聞いただけで、刺客の顔は見ていないそうだ。
 ラシャは、まだ息のあるガイウスを馬車に乗せ、治療師の元へ向かおうとした。その時は、まだ助かる見込みがあると思っていたのだ。
 だが、ガイウスは治療師の元に辿り着く前に息を引き取った。
 犯人も被害者も、騒ぎになる前に現場から消えた。だから、ガイウスが襲われたことを知るものはいない──犯人以外は。
 ガイウス殺害の犯人をあぶり出すための、ラシャの計画はシンプルだった。
 ガイウスが襲われたことは隠し通したまま、少しずつ社交界に顔を出し、犯人の目に触れるようにする。自分がし損じたことを知れば、口封じのためであれ、別の理由であれ、犯人は今度こそガイウスを殺しに来る。
 誠治自身も、この計画は効果的だと思う。とは言え、すでに計画が動き出していることを自覚すると、腹の底が冷え込む。
 いくつもの考え事が、頭の中をせわしなく行き来する。眠っていても頭の中が騒々しいような、片時も落ち着いてはいられないような感覚で、横になっていても消耗するばかりだった。
 諦めて寝台から身を起し、水を飲みに台所に向かう。
 ガイウスの邸宅は、眺望の良い最高の立地に建つ、二階建ての豪邸だ。部屋の数は十一もあって、それぞれがひろい。応接間が二つある理由も、執務室と書斎、私室と寝室がそれぞれ別にある理由も、ごく普通の家庭に生まれ育った誠治には想像がつかない。
 おまけに地下にはスパ顔負けの浴場があり、温泉がひかれている。ラシャの介助を断ってひとりで入ると言い張った手前、誰にも言えないが、初日は危うく溺れかけた。
 邸宅の床は全面、職人の手によるモザイク張り。壁には色鮮やかな彩色が施されている。天窓を備えた吹き抜けの玄関広間アトリウムには水盤があり、これもまた見事なモザイク画に彩られていた。
 家具や調度品も、どれも見事なつくりで、一つ残らず彫刻や細工が施されている。
 広い庭には色とりどりの花や樹木が植えられていて、眺めは最高。日当たりも良好だ。しかも庭の一角には小さな神殿まで備え付けられていた。
 違う状況なら、異国情緒溢れる豪邸での暮らしに心が躍ったかもしれないが、自分は豪華なねずみ取りに仕掛けられたチーズなのだと思うと、何かを楽しむ気分にはなれそうになかった。
 この時間──といっても時計がないので正確な時間はわからないけれど──家の者はほとんど眠っているはずだから、誠治は足音を立てないようにそっと歩いた。
 台所に忍び込み、甕の中から柄杓で水を掬って飲む。この甕もガイウスの発明品で、雨水を浄化し、冷たいまま保つためのものだそうだ。水は確かにキンと冷えていて、おかげで眠気は吹き飛んでしまった。
 風通しのいい場所で考え事でもしようか……と、庭に向かいかけたとき、誰かの声が聞こえて、誠治は足を止めた。
 柱に身を隠しながら様子を窺うと、庭の隅にある神殿に蝋燭の明かりが灯っているのが見えた。神殿と言っても、石と漆喰でできた小さな祠があるだけだ。日本の街中で見かける小さな稲荷の社に、ちょっと似ている。
 イヴニアの人びとは毎朝こうした神殿に捧げ物をして、神と祖先に祈りを捧げるのだという。感覚的にはむしろ、日本の仏壇に近いようにも思える。
 もう少しだけ近づくと、ラシャが神殿の前に跪いているのが見えた。
「賢明なるケイルススよ、主の御霊をお導きください。彼は人びとのために尽くしました。慈悲深きセルウィネよ、主の御霊を大いなる巡り合わせの中に戻し、新たな生命の糧として祝福してください。親愛なるベヘルスよ、主の御霊をお守りください。彼は獣を蔑むことをせず、父のようにわたしを慈しみました」
 聞き耳を立てるのは申し訳ないと思いつつも、誠治は耳慣れない祈りの言葉に魅了された。
 この世界の信仰については教わっている。たしか、ケイルススは人間を生み出した秩序の神。セルウィネは自然を司る女神で、人の生死を見守る。
 ベヘルスは竜の姿をした神で、この国では邪神と見なされていると聞いた。だが、きっとラシャにとってはなじみ深い神なのだろう。
 そのとき、ラシャが立ち上がってこちらを振り向いた。誠治を見ても驚いた様子もない。
「眠れないのですか?」
 誠治は頷いた。
「水を飲もうと思って下りてきたんだ……お祈りを邪魔して申し訳ない」
 すると、ラシャはわずかに憤慨したように、ため息をついた。
「呼んでくだされば、枕元までお持ちしましたのに」
「自分でやるのに慣れてるんだよ」
 誠治は言い、ラシャの隣に立って神殿に手を合わせた。仏式の作法だが、自分に最も馴染んだ方法で敬意を表わしたかった。
 顔を上げると、ラシャは困惑と感謝が半々、というような顔をしていた。
「ありがとうございます」
「ガイウスのことを、本当に愛していたんだな」
 ラシャは頷いた。
「人間の姿を与えられてから、わたしは様々な主人に仕えてきました。この国で、奴隷は道具として扱われます。彼らに仕えている間は、わたしもそういう存在でしかなかった」
 ラシャは神殿を見つめた。小さな社の門をくぐった先に、主人の魂があると信じているかのように。
「ですが……ガイウス様は、わたしに様々なものを与えてくださいました。わたしは初めて、自分が道具ではないことを理解しました。まるで、父のような方でした」
 いつも冷静なラシャは、ガイウスの話をするときには感情を露わにする。その声に、言葉に、誠治の胸が痛んだ。
「なら、なおさら……嫌だっただろうな。俺の、その……をするのは」
 決まり悪さに、頬と首筋が熱くなる。発情を鎮めてもらったときのことをはっきりと覚えているわけではないけれど、あの最中にラシャが浮かべていた何かに耐えるような表情は、頭から消えることはなかった。
「父親同然だった人の……身体を乗っ取った奴の発散に付き合わせるなんて、酷なことをさせたと思ってる」
「いえ」と、ラシャは寡黙に返事をした。
 すこし黙り込んだ後、彼は神殿に背を向けて言った。
「ガイウス様の死を、少しずつ受け入れることができていると思います。少し前までは、こうして祈ることさえできませんでした」
「そうか……」
「こちらこそ、あなたの事情も尋ねずに手荒な方法をとってしまいました」
 ラシャはちらりと、誠治の顔を見た。
「こちらに来る以前の記憶が曖昧だと仰っていましたが……あちらの世界に、どなたか大切な方がいらしたのでは?」
 そう言われて、誠治は考え込んだ。
「俺は──」
 自分にも、心を寄せた人がいたのだろうか。
 両親は早くに亡くなった。獣医師大を卒業するちょうど前の年に、自動車事故で二人とも世を去ったのだ。
 卒業後の数年は、いくつかの動物病院で修行をした。忙しくて、とてもじゃないが恋人など作る余裕はなかった。
 女性を愛する性質たちだったら、まだ可能性はあったかも知れない。だが、ゲイの自分にとっては──相手を探すのもハードルが高かった。本当なら大事にするべきセクシャリティやアイデンティティと向き合う時間さえ惜しんでいた。
 自分の医院を持ってからはなおさらだ。仕事は増え、責任は増した。全てをそれに捧げてきた。充実していた。
 だが、とても孤独だった。
「俺には、誰もいないよ」
 無意識に首に手を当てつつ、誠治は言った。
 そう、誰もいなかった。
 告知を受けた時に、話を聞いてくれる友人さえ……。
「あ……」
 その時ようやく、自分がどんな風に人生を終えたのかを思い出した。若年性の、進行が極めて早い病気だった。病名がわかってから最後まで、半年もなかったような気がする。その間に病院を畳んで、身辺整理をして、それからただ……死を待った。
 病床に伏せっていた間、見舞客はほとんどなかった。
 生きていても、死んでも、誰も自分のことなど気にしない。
 不意に、独りぼっちであると言うことが身に染みた。
 心細さと孤独と無力感が一緒になって襲ってきて、誠治の身体はなすすべなく震えた。
「ご主人様──」
 手を差し伸べようとするラシャを右手で押しとどめて、笑顔を見せようとする。
「だ、大丈夫。ただのショック症状だ……」
 けれど、ラシャはかまわずに誠治を抱きしめた。
 彼の腕に抱かれ、少し低い──でも充分に温かい体温に包まれる。
 ラシャは誠治の背中を優しく撫でながら、魔術師の血でも翻訳できない異国の言葉を囁いていた。
「シエシース、ミエ・ミューラ。シエシースル……」
 低く、身体に直接響いてくるようなその声が心地いい。宥めるような声に、少しずつ震えが収まってゆく。
「それは……どこの言葉?」
「竜の言葉です。母親が、子供をあやすときに使うまじないのようなものです」
 言葉の意味を尋ねるのは、どことなく不躾な気がした。遠慮したせいで、またしても、ラシャに甘えきってしまっていることに思い至る。
「申し訳ない……また君にこんなことをさせてしまった」
 誠治の言葉を「しーっ」と遮ってから、ラシャはこう続けた。
「謝らないでください。あなたが謝る必要などありません」
 ──そうだろうか。
 ラシャの言葉を鵜呑みにすることはできなかった。けれど、彼の体温と匂いに包まれていると、不思議と心は落ち着いた。
 しばらく抱きしめてもらっていたおかげで、震えは完全に収まった。
 誠治が身じろぎをして抱擁からそっと逃れると、ラシャは心配そうな顔で誠治を見下ろしていた。
「もう、大丈夫ですか?」
「ああ」
 本当は、もう少しだけラシャの厚意に甘えてしまいたかったけれど。
「饗宴の件ですが……ご不安でしたら招待を断ることもできます。体調が思わしくないと言えばいいのですから」
 それは、本当に魅力的な提案だった。昔から人が集まるところには良い思い出がない。けれど、いつまでも逃げ回っているわけにはいかない。
「いや。行くと返事をしてくれ」
「本当に?」
 ラシャがまだ不安げな様子なので、誠治はにっこりと笑って、親指を立てるポーズをして見せた。
「ラシャが居てくれれば、俺は大丈夫」
 何気なく発した言葉に、彼は何を見出したのだろう。
 ラシャの目がわずかに揺れて、少しだけ潤んで見えたような気がした。
 それから、ラシャはわずかに──ほんのわずかに口角を上げた。
「貴方は本当に……仕方のない人ですね」
 それは、笑みというにはあまりにも微かで、儚かった。けれど誠治にとって、ラシャが笑った顔を見るのはそれが初めてだった。
 心臓の鼓動が早まり、胸に炎が灯ったようになる。
 彼が笑った顔を、ずっと見ていたい──そう思った。
 けれど次の瞬間には、ラシャはまた真面目な表情に戻ってしまった。
「明日からは、少し厳しく参ります。開けっぴろげに笑うのも、妙な仕草も厳禁ですよ」
 誠治は手をあげて「はい、先生」と言った。
 当然、これもラシャの不興を買っただけだったけれど、心なしか……睨みをきかせる目元が緩んでいるように感じた。


 それからの数ヶ月の間に、誠治とラシャはいくつかの饗宴に顔を出した。最初は小規模なものから出席していると、次第に、より高名な者の邸宅から招かれるようになった。
 今夜の饗宴は、今までで一番の権力者だ。こういう集まりにもすっかり慣れた……と言いたいところだけれど、やはり緊張した。
「とてもご立派です、ご主人様」
 ラシャの言葉に、こくりと頷く。
 ラシャが見立ててくれた服は、艶やかな絹のローブだった。青と金の重厚な刺繍が施されていて、ずっしりと重いのに、歩けば長い裾や袖が軽やかになびく。
 今日の饗宴を主催しているのは、ガイウスの遠縁で、皇帝アレイウスの姪にあたるデルフィーナ・マクシミラ・ヴネイだ。
「同じヴネイ氏族と言っても、デルフィーナ様とはほとんど面識がありません。以前お会いになったのは、彼女が六歳の時でした」
 馬車に揺られて屋敷へ向かいながら、ラシャが最後のおさらいをしてくれる。
「なら、どうして今更、を招待するのだろう」
 ラシャは、誠治がすでに役に入り込んでいることに、承認の頷きを返しつつ答えた。
「マクシミラ家の饗宴には商機が供されると評判です。街中から高名な貴族や商人が集まるので……おそらく、招待客の中に貴方とお近づきになりたい方がいるのでしょう」
「なるほど」
 緊張が、回し車を回すハムスターのように胃の中でガタガタと走り回っている。けれど、それを表に出さないようにするために、ラシャと特訓を重ねてきたのだし、多少なりと上達もした。
 主人の行くところには、ラシャも同行する。今夜の彼はいつもよりも瀟洒な格好をしていた。カーキ色のチュニックに、黒のズボン。腕と脛は、竜を描いた模様の革具で覆われている。控えめだが、彼の魅力を引き立てる取り合わせだ。
 動きやすさを重視した普段の格好も、控えめな刺繍が施された外出着も、どちらも良く似合う。
「屋敷に着いたら、そばにいてくれるか?」
「饗宴が始まったら、奴隷は同席できません。ですが、必ず目につくところにおります」
 胃の中のハムスターが回し車のペースを速める。
 緊張を感じ取ったらしいラシャが、安心させるように言った。
「前にも申し上げたとおり、ガイウス様は人付き合いがお嫌いでした。それに……魔術師は変わった方が多いので、多少おかしなところがあっても目立たないでしょう」
 そんなことを言われても、緊張はちっとも消えてくれない。親戚づきあいも苦手で、冠婚葬祭の席に顔を出すことさえ億劫だった。
 掌に『人』という字を三回書いて呑み込みたいが、妙な仕草は厳禁と言われているので我慢するしかない。
 そうこうするうちに、馬車が速度を落とし、止まった。
 ラシャがすぐさま馬車を降り、誠治の側のカーテンを開いて手を差し出す。練習したとおりにその手を取って馬車を降りると、目の前に豪邸が建っていた。
 日本で同じような建物を見れば、ちょっとした美術館か郷土資料館かと思うくらいの大きさがある。皇帝の宮殿とまでは行かないまでも、この家の外観も、鮮やかで派手な装飾で彩られていた。
 玄関の前にはマクシミラ家の奴隷が直立不動の姿勢で篝火を持って並んでいる。みな揃いの仕着せを着て、同じ背格好の者で揃えているらしい。
 明かりのために夜通し奴隷を外に立たせておかなくたって、篝火用のスタンドでも買えば事足りるだろうに……そう思いつつ、玄関に向かって歩き出すと、ラシャが囁いた。
「その表情はとても結構です、ご主人様」
「その表情?」
 外で話しかけられても、いちいちの顔を見てはならない、と教えられたので、誠治は前を向いたまま尋ねた。
「不満げなお顔です。貴族は大抵、そのような表情をするものですから」
 そう言われて、つい小さく笑ってしまう。おかげで、少しだけ気が楽になった。
 剥がれかけた仮面をかぶり直してから、誠治は豪邸の玄関をくぐった。

 屋敷に入ると、デルフィーナ・マクシミラ・ヴネイが出迎えた。
「大叔父様! ようこそお越しくださいました!」
 客は皆アトリウムで思い思いの飲み物を手に立ち話をしていた。天窓と水盤が備わっているのはガイウスの家のアトリウムと同じだが、広さは十倍もありそうだ。
 客の間を、半裸に近い格好の奴隷たちが忙しそうに飛び回りながら、酒や軽食を提供していた。
「ご病気と聞いて心配しておりましたのよ、ガイウス大叔父様。お加減はもうよろしいのですか?」
「ああ。だいぶ良くなった」
 それから、ラシャに教わったことを思い出してこう付け加えた。
「会うのはしばらくぶりだが、立派になったな」
「さすがは魔術師ですわ」
 デルフィーナはクスクスと笑った。
「わたくし、しばらくぶりの間に結婚し、子供を三人産んで夫を亡くしましたもの。多少は立派にもなります」
 拗ねたような口ぶりでも、笑顔は輝くばかりだ。正しい会話の選択肢を選べたらしい。
 それから、デルフィーナは誠治の肩越しにラシャの姿を認めると、目を輝かせた。
「では、そちらがご自慢のですの? なんて立派な!」
 ラシャは深々とお辞儀をした。
 周囲に目を向けると、いくつもの視線がこちらを向いていた。何人かはひそひそと囁きあい、賞賛と畏怖の眼差しを注いでいる。
 デルフィーナが誠治の腕にそっと触れて、熱っぽく言った。
「今夜はお越し頂けて、本当に嬉しいですわ。どうぞごゆるりとなさってね。では、また後ほど」
 そして、デルフィーナは屋敷にやって来た別の客に挨拶をしに言った。
 屋敷の主人から解放されたのを見計らって様々な客が挨拶をしに来たが、彼らの目当てはガイウスではなく、ラシャの方だった。
 生まれはどこか、何を食べるのか、竜になったらどんな姿をしているのか等、様々な質問が、本人ではなく誠治に向かって尋ねられる。
 高貴な者はなるべく奴隷と口をききたがらないという話は聞いていたが、これほど露骨だとは。他の饗宴では、ここまであからさまではなかった。
「そこに居るんだから本人に聞けばいいでしょう」と言うこともできず、ラシャが耳打ちする質問の答えを誠治が伝えるという、まだるっこしい質疑応答が続いた。
 しばらくすると、デルフィーナの号令で、ようやく『饗宴』が始まることになった。
 これを機に、ラシャは誠治のそばを離れて、部屋の外で待機することになった。
「声の届く場所におります」
 そう囁いたラシャに、感謝を込めて頷く。
 ──いよいよ本番だ。
 饗宴とは、大きな座椅子に寝そべって心ゆくまで美酒と美食を楽しむという、贅沢極まりないパーティーのことだ。ガイウスがこの手の招待を受けることは滅多になかったが、やむにやまれず顔を出す時には、必ず出口に一番近い席を選んだと、ラシャに教わった。
 きっと、良い言い訳を思い付き次第、すぐに帰れるようにその場所を選んでいたに違いない。そういうところは、もの凄く共感できる。
 誠治は、広々としたソファベッドのような座椅子に腰掛け、くつろいでいる振りをした。
 一旦饗宴が始まってしまうと、客たちの関心は専ら食事と音楽と、半裸の踊り子たちに向いた。時折話しかけてくる者も居たけれど、そつなく対応することができた。素っ気ない返事を二、三返すと、相手も興味を失って離れていく。
 ガイウスが人嫌いだったのは、本当に、本当にありがたい。
 そうして一時間ほど耐えた頃だろうか。そろそろ何か口実を述べて出て行こうかと考えていた時、ひとりの男が近づいてきた。
 元老院議員のサイラス・マフィスル。
 誠治は頭の中で、サイラスに関する知識をおさらいした。
 サイラス・マフィスルは平民出身で、北方の遠征時に大きな功績を挙げた元将軍だ。最後の遠征で負った傷が元で隻眼になったと言われている。
 髪は白髪になっているが、体つきは壮健そのもの。地位の高い者は、魔法の力を借りて老化を退けるというから、外見年齢は当てにならない。魔術師ほどではないにせよ、中には百年以上生きる人間もざらにいるらしい。サイラスも、ご多分に漏れず年齢不詳と言うことだった。
 精悍な顔つきに人好きのする笑顔。高い地位に就いたのも頷ける。
 サイラスは三歩向こうから握手のための手を差し出しつつ、勢いをつけて歩いてきた。誠治も席を立ち、握手に備える。彼とガイウスは何度か顔を合わせているから、自然に振る舞わなければ。
「アスカルダ殿。ご回復されたとのこと、何よりです!」
 大きな手が、がっしりと右手を握る。軍人らしい、自信に満ちた動きだ。しかも、手を握る力もものすごく強い。
「たしか、流行病──でしたかな?」
「え、ええ」
 握手が解かれると、指先がじんじんした。誠治は、ラシャと何度も練習した嘘をついた。
「治療師の見立てでは、北方熱だったようです」
「何とも怖ろしい。わたしも、その病で有能な部下を何人も亡くしました。快復なされたのは、貴方の日頃の行いが神のお眼鏡に適ったおかげでしょう」
「ありがとう、マフィスル殿」
 和やかに微笑みつつ、サイラスは言った。
「しかし、いやはや……何度見ても立派な竜だ」
 サイラスの目は、饗宴の行われる部屋の外に立つラシャを見つめていた。
「是非近くで見たい。よろしいか?」
「え、ええ……」
 どことなく気が進まなかったけれど、視線でラシャを呼び寄せた。
「参りました。ご主人様」
 従順にお辞儀をするラシャに注がれるサイラスの目つきは、何だか、過剰なほど熱を帯びているように見えた。賞賛や興味よりも、もっと粘つく感情が宿っている。サイラスの真意がどうあれ、他人の連れを見る目つきではないのは確かだ。
 焦りと苛立ちが、誠治の後頭部の毛を逆立てる。
 彼の目の届かないところにラシャを隠したい。この男を追い払えないのなら、こちらから出て行ってやる──そう思いかけたとき、サイラスが口を開いた。
「どうだろう、アスカルダ殿。今度、貴方の竜を一晩お借りしたいのだが」
「な……」
 ──何て提案だ? ラシャを一晩借せだって?
 一瞬絶句しかけた隙に、ラシャが口を開きかける。
 それを制するように、誠治は言った。
「お断りします」
 きっぱりと言い切ってしまってから、それが慣習に反することだったらしいと気付いたが、取り消すには手遅れだ。誠治は、サイラスの目の奥に怒りと、微かな疑念が過ったのを、確かに見た。
 なんとか取り繕わなければ。
「実は、まだ体調が思わしくないのです。高熱のせいか、ここのところの記憶も曖昧でしてね。ラシャはわたしの手足のようなものですから、傍にいてもらわねば支障が……ああ」
 誠治はそう言って、ふらついた振りをしてみせる。
「ご主人様!」
 ラシャがすかさず誠治の身体を支えてくれた。
「……失礼。今日はもう帰った方が良さそうだ」
 サイラスは、先ほどの怒りや疑念を、慇懃さの後ろに隠して微笑んだ。
「そうなさるのが良いでしょう。病み上がりに、無理は禁物です」
「それでは、マフィスル殿」
「ごきげんよう、アスカルダ殿」
 誠治はデルフィーナに暇乞いをし、ラシャにもたれたまま邸宅を後にした。
 これでようやく、サイラスから遠ざかることができた──そう思った。
 大きな間違いを犯したことに、この時はまだ気付いていなかった。

 †

 ラシャは、こんな誠治を見るのは初めてだった。
 馬車に揺られて邸宅への道を戻りながら、彼は立てた片膝に肘を乗せ、その手に頬を預けて馬車の外の様子をじっと見つめている。すでに街中を過ぎ、辺りには人気のない森しかない。
 その横顔は鋭く、声をかけることさえ憚られた。
 普段の暢気な様子とは雰囲気が違う。さっきまでは追い詰められた兎のように緊張の匂いを発散していたのに、今は……憤っている。詮索好きのサイラス・マフィスルの猛攻をくぐり抜けたのだから、もう少しホッとした顔を見せても良さそうなものなのに。
「なぜ断ったのです」
 すると、誠治は考え込むような表情を少しだけ緩めた。
「ごめん。何か言ったか?」
 ラシャはもう一度尋ねた。
「なぜ、わたしをあの男に貸し与えなかったのですか。奴隷を貸せと言われてその場で断るのは、とても失礼なこととされるのですよ」
 ガイウスも、ラシャを貸せという申し出をされることは少なからずあった。だが大抵は、後日手紙を送って断っていた。
 そう説明すると、誠治は思い切り嫌そうな顔をしてみせた。
「あの男が、君を見る目つきが嫌だった」
 きっぱりそう言った後で、付け加える。
「そもそも、どうして君を必要があるんだ」
 ラシャはひとつため息をついて、説明した。
「どうせ、夜伽をさせたいのでしょう。あるいは痛めつけたいと思っているのか。あの男ならそちらの方があり得そうだ。いずれにせよ、よくあることです」
「よくある!?」
 誠治は驚いて前のめりになった。ラシャは頷いた。
 これ以上説明する必要はない。余計なことをわざわざ教えて、打ちのめされたような顔をしている誠治を更に動揺させるべきではないと思う。けれどどういうわけか、ラシャは語ることをやめなかった。
「ただむち打たれるためだけに召されることもありました。饗宴の余興として奴隷同士で殺し合わせ、生き残った方を手籠めにすることもあれば、奴隷同士交わるのを眺めることもあります。かつてはわたしも、そうした見世物にされていました」
 誠治はあからさまに同情したりはしなかった。真摯な表情で、ただじっと、ラシャの話を聞いていた。
 過去にしてきたことやこの身に降りかかったことを自分自身と切り離す術は、ずっと昔に身につけていた。現実と己の間に無感覚の壁を築いて、遠くから眺める。そうすれば、さほど苦痛を感じずに済む。
 ガイウスは、わざわざ語って聞かせなくても、ラシャの身に起こったことを察していた。他の貴族との交流を可能な限り断っていたのは、今日のようなを持ちかけられるのをできるだけ避けるためでもあったと思う。
 ガイウスは人間が嫌いだった。人間の、そういうところが嫌いだったのだろう。
「そうか……」
 誠治はぽつりと呟いた。彼の顔には憤りではなく、悲しみでもなく、なにかを決意したような表情が浮かんでいた。
 今更ながら、ラシャは自分が子供じみたことをしてしまったことに気付いた。
 ──俺は、何をしているのだろう。
 自分の面倒さえろくに見られない異世界人に、不幸な身の上を語って聞かせてどうするんだ。
 すると、誠治が言った。
「そんなのは、おかしい。君の意思を無視して身体を使わせたり、傷つけ合うことを強要するなんて、俺は許せない」
 その言い草に、ラシャの胸の奥に微かな苛立ちが沸き起こる。
「許せない……ですか」
 たった数ヶ月こちらの空気を吸ったからと言って、そんな義憤に駆られる資格があると思うのか? 何も知らないくせに。
「あなたはきっと、恵まれた場所で生きてこられたのでしょう。しかし、ここにはここの掟があり、その中でしか生きていけない者もいるのです」
 口にしてしまったそばから、また子供じみた反抗をしてしまったと後悔する。
 誠治が何かにつけ弱腰なせいで、従順な奴隷でいる術を忘れかけているのだろうか。このままでは、自分にとっても、誠治にとってもためにならない。
 本当ならば、すぐに失言を謝り、家に着くまで沈黙を貫き通すべきだ。
 だが、ラシャはこう言っていた。
「貴方が……庇ってくださったことには、感謝しています」
「うん」
 誠治の表情が和らぎ、少しホッとしたように微笑んだ。それでもまだ、思い詰めたような表情がつきまとっている。
 こちらから語らずとも察し、波風立てずに奴隷たちを守ろうとしてくれたガイウスに比べると、誠治のやり方は不器用で、心臓に悪い。
 それでも……自分のために、あれほど強く憤ってくれたのは誠治が初めてだった。
 たったそれだけのことで、なぜ、こんなに救われた気持ちになるのだろう。
 その時、道の脇の茂みで何かが動いた。殺気の波を、確かに感じる。
「ご主人様──!」
 ヒュウ、といいう音がした次の瞬間、馬が鋭く嘶き、もんどり打って倒れた。ラシャは誠治を抱きしめ、間一髪のところで馬車から飛び降りた。直後、倒れた引きずられるように馬車が倒れ、御者は道の脇に投げ出される。
 時間が凍り付き、一瞬が永遠にも思える長さになる。
 その時、ラシャは空を裂いて飛んでくる、鋭いものの気配を感じた。
「危ない!!」
 ラシャは誠治の手を引いて、強く抱きしめた。
 背中に、ドド、という衝撃を感じた。暗闇から放たれた矢が、背中に突き刺さったのだ。
「ラシャ! 射たれたのか!?」
 誠治が悲鳴に近い声を上げて、ラシャの抱擁を逃れようとする。
「動かないで!」
 ラシャは唸り、誠治を抱く腕に力を込めた。
「庇わなくていい! わかってるだろ、俺は──」
 誠治が叫んでいるが、ラシャには、彼の言っている言葉の意味がわからなかった。
 ──庇わなくていいはずがない。彼は俺の主人、俺の大切な──。
「俺は、囮なんだぞ!」
「いいえ」
 ラシャはきっぱりと言った。
「あなたは……ただの囮ではない」
 そのとき、庭の茂みからひとりの男が姿を現した。手には弓を持ち、腰にも剣を帯びている。
 ついさっき会ったばかりの男が、そこに居た。
「サイラス・マフィスル……」
 誠治が言うと、サイラスは綺麗に切りそろえられた口ひげをぴくりと震わせて笑みを浮かべた。眼帯に覆われてないほうの目が、獲物を前にした獣のように光る。
「貴様のようなものに、敬称も無しに名を呼ばれる覚えはない。卑しい盗人め」
 誠治の表情に緊張が走る。
「何のことだ。わたしは──」
 サイラスは窘めるようにチッと舌を鳴らした。
「下手な芝居はよせ。中に居るのが誰であれ、貴様がガイウス・アスカルダ・ヴネイでないことはわかっている。お前は、奴の身体を盗んだこそ泥に過ぎん」
「何を……」
「芝居はよせといっているのが、わからんか?」
 サイラスの声には、有無を言わさない迫力があった。誠治は口をつぐむしかなかった。代わりに、ラシャが尋ねる。
「どうして、気付いた?」
 サイラスは奴隷に無礼な口をきかれて、ぴくりと眉を上げた。
 秘密が暴かれてしまった以上、従順さを取り繕ったところで意味は無い。
 結局、サイラスはラシャの振る舞いを咎める手間を省いた。
「わからんか、愚かな獣よ」
 そして、悪意に満ちた微笑みを浮かべた。
「いったい誰が、ガイウスの胸に短剣を突き立てたと思っているのだ?」
 真実が、雷のように天から落ちてきて、ラシャの心を燃やす。
 ラシャは立ち上がり、サイラスと向かい合った。
「貴様が……!」
 殺人を告白したにも関わらず、サイラスは少しも悪びれていなかった。
「この男が正真正銘のガイウスなら、自分を殺した男の顔を忘れるはずがない。それで気付いた──蘇生術の失敗によって、別人の魂が入りこんだのだろうと。間違ってはいないだろう?」
 ラシャも誠治も、その通りだと認める他なかった。
「元老院議員ともあろうものが、何故ガイウス様を手にかけるような真似を!」
 ラシャの質問を、サイラスは無視した。
「他人の身体で生きるのは重大な罪だぞ、下郎。その男をここで殺せば、皇帝陛下は私を褒めてくださる」
 サイラスは手にしていた弓を捨てると、剣を抜いた。
「そして──竜よ、主人を喪ったお前を、今度こそ私が手に入れる──最初から、それが狙いだった」
「な……」
 ラシャは言葉を失った。
 この男の、自分への執着が主人を殺したのか。
 この男こそが、ガイウスの仇だ。そして今度は、誠治のことをも奪おうとしている。
「そうはさせない」
 ラシャは唸った。
「俺から大事なものを奪わせはしない。もう二度と!」
 そしてラシャは、奴隷の烙印を押されてから今まで、決して許されなかったことをした。
 自分の奥底で眠っていた力に手を伸ばし、呼びかけ、目覚めさせる。
 心の中にあった虚ろ──その向こうから、召喚に応じて、力がやってくる。
 それは翼を拡げてやってきた。雷雲を具して、風を捲きながらやってきた。
けだものめ、この期に及んで抗うか!」
 サイラスは目に闘志を漲らせ、剣を構えた。
「ならば、せいぜい見事な剥製にしたててやろう!」
「ラシャ……!」
 誠治が目を見開き、自分を見つめている。
 彼の目はもはや、『奴隷のラシャ』を映してはいなかった。
 この世に生きる、最後の竜を映していた。

 †

 『竜』という言葉を耳にしてから、その姿を何度も思い描いてきた。ラシャが竜だと聞いてからなおさら、竜という生き物のことを想像せずにはいられなかった。
 けれど目の前にいる彼の姿は、想像していたよりも大きく、生々しくて、神々しい。
 そしてなによりも、美しかった。
 頭の先から肩にかけては濃紺。翼の付け根辺りから紫になり、翼膜はまさに、夜明けの空を写し取ったかのような複雑な色合いをしている。胴から尾にかけて再び色が移ろい、尾の先端は目の覚めるような深紅だ。
 顔や後頭部に列生するたてがみ状の突起には、イグアナとの繋がりを感じそうになる。だが、側頭部から伸びた角を見れば、竜という生き物が独自の進化を遂げた存在であることがわかる。見事な翼は言うに及ばず。
 実際に見るまでは、馬より少し大きいくらいだろうかと思っていたのだが、とんでもなかった。頭の先から尾の先まで、十メートルはあるだろうか。全長だけなら、シャチや象の二倍はある。
 けれど、怖ろしいとは感じなかった。
 彼が動く度に、何度でも感嘆を新たにする──竜とは、なんと美しい生き物なのか、と。
 誠治は、馬車から投げ出された御者を安全な場所に寝かせ、気を失っている他は外傷がないことを確認した。それから誠治は、ラシャが闘う様子を見守った。
「頼む。負けないでくれ……」
 祈りのように、小さな声で何度も繰り返し呟く。そんなことしかできないのがもどかしい。
 竜の姿を見るのは初めてでも、ラシャが精彩を欠いているのは見ればわかる。さっき背中にうけた矢傷が、彼の動きを鈍らせているのだ。
 ラシャに対して、サイラスは慎重に距離を置いていた。安全な間合いから攻撃を繰り出し、また間を置く。そうして時間を掛ければ掛けるほど、ラシャにとっては不利になる。
「ラシャ……がんばれ……!」
 一進一退の戦いが続いた末に……ラシャの身体が、大きく傾いだ。その隙を突いて、サイラスが前に飛び出す。
 ラシャが口を開け、息を吸い込む。咳き込むような音がして、口から火の粉が飛び出す。
 だが、それだけだった。
 ラシャの右半身から力が抜ける。彼の巨体が倒れ、無防備に横腹を晒した格好になる。
「ラシャ……! !」
 藻掻くラシャを前にして、サイラスはとどめを刺す前に足を止め、誠治に向かって言った。
「良く見ておけ、盗人! 貴様がおとなしく死んでさえいれば、こいつも死なずに済んだのだ!」
「やめろ……」
 それからサイラスは、誠治がこの瞬間を見逃さないよう、たっぷり一秒間は動きを止めた。それから剣を振り上げ、首をめがけて振り下ろそうとした。
 誠治は、何も考えずに飛び出した。
「やめてくれ! !」
 剣の切っ先が、月の光を受けて輝く。その軌跡が──喉の付け根めがけて閃いた。
 瞬間、ラシャは目にも留まらない速さで身を起こし、サイラスと向かい合った。
 誠治は足を止めた。それ以上身動きすることなど、できなかった。
「あ……」
 ラシャが、大きく口を開ける。
 鋭い牙の周辺で、熱によって空気が揺らいでいる様子が、はっきりと見えた。ラシャはそのまま動きを止めた。まるでこの瞬間を──彼が復讐を遂げるその瞬間を、永遠に留めようとするかのように。
 今まで生きてきた中で、一番長いが過ぎる。
 そして、ラシャの口から青白い業火が迸った。
 その炎は、真夜中の森を真昼のように明るく照らした。
 サイラスは悲鳴を上げる暇も無かった。
 炎が消えた後に残ったのは、焦げて縮れた、真っ黒な残骸だけだった。
 ラシャはしばらく立ちすくみ、その残骸を見つめていた。
「ラシャ……」
 誠治が名前を呼ぶと、彼は顔をこちらに向けた。
 誠治は迷わず駆け寄り、抱きしめ、大きな顔に頬ずりをした。涙が、大きく美しい鱗に落ちる。
「ラシャ……よかった……!」
 ラシャが喉の奥から、満足げな唸り声を轟かせる。その振動が、誠治の身体を心地よく震わせた。
 そして──ラシャがゆっくりと、離れてゆく。
「え……?」
 苦しげな息。低い呻き。
 恐怖が、誠治の心臓を串刺しにした。
「そんな、ラシャ、駄目だ──」
 ラシャは誠治を見つめていた。記憶に焼き付けようとするかのように、誠治から目をそらさなかった。
 身体が傾ぎ、それに引きずられるように頭が揺らぐ。
 そしてラシャは力尽き、地響きをさせつつ横たわった。
「ラシャ!!」
 誠治はすぐさまラシャに駆け寄り、呼吸を確かめた。
「息はある……!」
 誠治は横転した馬車の中から鞄を引きずり出した。こちらの世界にきてから、バシルの店や他の場所で買い集めた治療道具をお守り代わりに持ち歩いていたのだ。
 縫合糸に針。清潔な布に包帯。メスに鉗子。生理食塩水と、消毒用のアルコール。この世界で調達できるものを組み合わせて誠治が作った注射器と、バシルから買った傷薬と毒消し。
 とは言え竜の治療なんて、当然ながら初めてだ。
 こんな不衛生な場所で治療を行うなんて、考えただけでも怖ろしい。だが、望ましい場所までラシャの巨体を動かすのは不可能だし、これ以上時間を無駄にできない。
 この道の先にはガイウスの邸宅しかないから、ほぼ私道のようなもので人通りはほぼ皆無だ。つまり、通りがかった誰かに助けを求めることもできない。
 ──俺が、いまここで、やるしかない。
 月明かり以外にまともな光源もない中、誠治は破損した馬車からオイルランプをもぎ取った。そして、覚えている限りの爬虫類の解剖図を脳裏に呼び出しながら、傷口に掲げた。幸い、傷は内臓に達していないようだ。
 背中に突き刺さっていた矢を引き抜いて止血をしようとするのだが、異様なほど血が溢れて、止まらない。ラシャの巨体に対してちっぽけな矢がこれほどまでのダメージをあたえたのは、何らかの毒が塗られていたからかもしれない。
 だが、いまここで、毒の種類を特定する術はない。
 絶望している暇はない。自分にできる限りことをしなければならないのは、どんな動物を診ているときも同じだ。
 誠治はラシャの背中に跨がったまま傷口の洗浄をし、壊死した組織を切り取った。それから、祈るような思いでバシルの毒消しを手製の注射器にとり、注射をした。
 血と汗にまみれながら、誠治はどうにか縫合を終えた。
 だが、彼が目覚める様子はない。
「ラシャ……頼む……」
 ラシャの呼吸は安定している。出血もとまったし、血圧も下がっていない。あとは、目覚めるのを待つだけなのだ。
「お願いだから、帰ってきてくれ……!」
 それから、どのくらいの時間が経っただろうか。誠治はラシャの顔の傍に座り込んで、ただひたすらに待っていた。
 経過した時間はほんの一瞬だったような気もするし、一生分待ったような気もする。
 やがて東の空が白みはじめた頃、地を震わせるような呻き声が、ラシャの喉をから迸った。
「ラシャ……!」
 誠治は立ち上がり、ラシャの顔を覗き込んだ。
 彼はうっすらと目を開けたが、状況を把握している様子はない。頭の中で、朦朧とする意識を手探りで元通りにしようとしているようだった。
 それから、彼は誠治を
 大きな琥珀色の瞳が誠治を捉え、その瞬間、縦長の瞳孔が大きく開く。
 ラシャが鋭く息を吸い込んだ。
「うわ!」
 誠治はもの凄い吸引力に引き寄せられ、ラシャの鼻先にへばりつくような格好になった。
 ラシャは身を起そうとして──そして背中の痛みに気付いて呻いた。
「駄目だ! まだ安静にしないと!」
 誠治はラシャの鼻先に抱きついたまま言った。
「でも、手術は成功だ。よくがんばった。本当に、よくがんばってくれた……」
 誠治の涙混じりの声に気付いたのか、ラシャが優しげに目を細める。
 ──ああ、ラシャだ。竜の姿でも、彼は彼のままだ。
「よかった……」
 感極まった誠治は、ラシャの鼻先に口づけをした。
 次の瞬間──ラシャの身体が光に包まれた。
「う、わ!?」
 目を灼く閃光ではなく、熱を帯びた炎光でもなく……どこまでも優しい光。
 それは、ラシャの身体から溢れていた。まるで、祝福のように。
「あ……」
 彼を包んでいた光が、細かな粒子となって解け、大気中に解けてゆく。その中から現われたのは、人の姿をしたラシャだった。
 彼と、目が合う。
「ラシャ……!」
 名前を呼ぶと、ラシャの琥珀色の瞳が、喜びに輝いた。
 次の瞬間、誠治は手を引かれて、ラシャの腕の中に居た。待ち望んだ抱擁の中に。彼が生きている実感に包まれて。
「あなたが生きていて、よかった」
 ラシャは掠れた声で言った。
「あなたを喪わずに済んで、よかった……」
 そして、彼は再び気を失った。
「ラシャ……!」
 心配したが、呼吸や顔色、脈に不安な点はない。きっと気力を使い果たしてしまったのだろう。
 その後、誠治は馬車から逃げた馬を捕まえてから、御者とラシャとを背に乗せた。馬の手綱を取って歩き、邸宅に辿り着いた時には、すっかり夜が明けていた。

 ラシャはそれから一週間もの間眠り続けた。二度と目覚めないのではないかという恐れを抱かせるほど、深い眠りだった。
 ラシャが眠っている間に、一連の事件の真相はあっという間に広まった。忠義を貫いたラシャの復讐譚がイヴニア市民の支持を得たおかげで、誠治とラシャは一躍時の人となった。死んだサイラスは、当然ながら、悪党のレッテルを貼られた。
 事件の沙汰は皇帝に委ねられた。とは言え皇帝は人気商売だから、民衆の英雄となった二人を無慈悲に裁けば、皇帝は市民からの支持を失ってしまう。結局、誠治に下された罰は、貴族の地位の剥奪だけだった。
 誠治は自由民の地位を与えられ、イヴニア市民となった。そればかりか、誠治は獣人と獣専門の治療師としての認可を受けた。
 巷では、遠縁のガイウス(の肉体)を処刑するのは気が引けたからだろうという噂もあるけれど、誠治の見たところ、皇帝は単に、おもしろい話に目がないだけだという気もした。
 何はともあれ、事件の顛末はこんな感じだ。
 いろいろなことが起こったけれど、今は、この世界に居場所があることが、何よりも嬉しい。
 けれど、ラシャはどうだろう。
 復讐を遂げた後でも、誠治がこの世界に──ラシャの傍に居ることを、望んでくれるのだろうか。
 そんな不安を抱きながら、誠治は、ラシャが再び目覚める日を待った。

 ある日の朝、ラシャの様子を見るために部屋に行くと、ラシャはすでに目覚めていた。
「ラシャ!」
「おはようごさいます……このような格好で申し訳ない」
「いいんだよ、そんなこと」
 ──よかった。意識ははっきりとしているようだ。
 だがその顔には、どこか困惑したような表情が浮かんでいた。
「気分は?」
「気分は……平気です」
 その時ラシャは、ハッとしたように胸元に手を当てた。いつも首にかけていた奴隷の印──鉛のネックレスがないことに気付いたのだろう。
 誠治は少し躊躇ってから、言った。
「実は……君が眠っている間に政府に掛け合って、君を奴隷の身分から解放したよ、ラシャ」
 ラシャは目を丸くして、誠治を見つめた。
「しかし……大金を要求されたはずです」
 嘘をついても意味が無いので、誠治は頷いた。奴隷の身分を管理する奴隷庁では、誠治が一括で『身代金』を払ったことでざわめきが起こったほどだ。
「ガイウスの遺産を使ってしまった」
「それは……」
「きっと彼も望んだはずだ。そう思わないか?」
 まだ釈然としない様子なので、誠治はラシャのベッドの淵に座って、顔を覗き込んだ。
「どうした。大丈夫か?」
 すると彼は、躊躇いながら言った。
「実は……夢の中で、ガイウス様と話しました」
 誠治は、ラシャの手を取った。冷たい指が、そっと、躊躇いがちに握り返してくる。
「どんな話をした?」
「復讐を遂げた、と言いました。それから……」
 ラシャは一瞬躊躇った後、誠治をまっすぐに見つめて、言った。
「あなたに恋をしてしまった、と。ガイウス様への裏切りだとわかっていても……止めることができないと、言いました」
 その言葉に、胸を貫かれる。色んな思いが胸の中で暴れて、言葉にならない。結局、誠治に言えたのはこれだけだった。
「それで……ガイウスは何だって……?」
 ラシャはわずかに俯き、記憶を噛みしめるように口をつぐんだ。それから、顔を上げて言った。
「ただ、幸せになれ、と」
 誠治の手を握る、ラシャの指に力がこもる。
「俺は……あなたと共に、生きたい」
 そう言うと、ラシャは目を閉じた。まるで、罰当たりなことをして、天から罰が与えられるのを待つみたいに。けれど、神の火いかづちがラシャを打つことはなかった。霹靂さえ聞こえない。
 当たり前だ。
 だが、ラシャはまだ迷っているようだった。
「しかし、ご主人様を守れなかった俺が、ひとりおめおめと生き延びて、幸せになることが許されるのでしょうか……」
 誠治はきっぱりと言った。
「当たり前だろ」
 ラシャは顔を上げ、心の底から困惑したように言った。
「なぜ、あなたにわかるんです。あなたはこの世界のことをほとんど知らない。ましてや、ガイウス様と会ったことも無いでしょう」
「わかるよ。だって俺も、君のことを大事に思っているから」
 誠治は、確信を持ってそう告げた。これ以上に確信を持てることなんて、世の中にそうそうあることじゃない。だから、迷う必要なんてなかった。
「君は生きている」
 それから、誠治は両手を拡げてラシャを抱きしめた。
「俺たちは、生きているんだ、ラシャ。だから……前に進むしかない」
 ラシャが愛した主人、ガイウスは死んだ。
 彼を手にかけた者への復讐を果たして、ラシャはようやく、心の底からそのことを受け入れられたようだった。
 ラシャの目から、涙が零れた。誠治はその涙をそっと拭って、言った。
「ガイウスが望んだように、俺も、君に幸せになってほしい」
 そして、涙の痕にそっとキスをした。
「もし、君が望んでくれるなら……二人で幸せになりたい」
「誠治様……」
 ラシャの身体から、フェロモンの匂いが溢れ始める。それも、とんでもなく濃厚で、甘い。
 だが、それが何だというのだろう。
 本能にけしかけられる必要などなかった。すでに心は決まっていた。自分で思うよりもずっと前に、これを求めていた。
 どちらともなく瞼を閉じ、引き寄せ合う。
 そして、二人は口づけをした。
「俺はここで、君と生きていたい」
 それから、誠治はラシャを見つめて、こう尋ねた。
「君は、どうしたい?」
 ラシャは瞬きをし、それから微笑んだ。
 まるで、夜明けの兆しのようにおずおずと、やがて、目を瞠るほど美しい笑顔が、彼の顔に輝いた。
「俺も……貴方と共に居たいです」


 ややこしいつくりのローブをはだけて、肌に直接触れるラシャの手を感じる。彼の自室のベッドは、誠治の部屋のものに比べれば小さい。けれど、それでよかった。それが良かった。もうこれ以上、ふたりの間に距離など必要ない。
 壁際に追い詰められて、食らいつくようなキスに溺れる。貪欲な舌に口内をまさぐられ、思わず漏れる喘ぎ声まで味わわれているような気分になる。
 ラシャは誠治の身体の隅々にまで手を這わせた。彼に触れられると、気持ちがいい。愛撫されると、たまらない気持ちになる。敏感な場所を擦られると、それだけで身体は震え、重く疼く。
「あ……」
 溺れてしまうほど濃厚なラシャのフェロモンの香りに包まれていると、まるで自分が蜜漬けにされたような気がした。
 服を脱がされ、一糸纏わぬ姿になった誠治を、ラシャが見つめている。今まで一度だって、彼がそんな風に誠治を直視したことはなかった。
「貴方は……美しい」
 彼は、まるで初めてそのことに気付いたというような、驚きがこもった声で言った。
 誠治は恐る恐る尋ねた。
「俺を見ても、辛くならない?」
 ラシャは首を横に振った。
「貴方の魂は、とっくにこの身体と結びついていた。そうして身体も貴方の魂を受け入れ、変容していました」
 彼は指先で、誠治の身体の輪郭をそっとなぞった。
「なのに、俺はそれを見ようとしていなかった──見たくなかったから、目をそらしていただけなのでしょう。でも、今は違います」
 琥珀色の彼の目に、赤い欠片が散らばっている。竜の発情期に現われる婚姻色だ。
 彼はベッドに手をついて、そっと誠治に覆い被さった。
「今なら、貴方のことが見える……誠治様」
 彼は囁き、優しい口づけをした。
 誠治は小さく笑った。
「『様』はいらないよ」
 すると、ラシャは微かに首を傾げた。わずかに躊躇ってから、改めて名前を呼ぶ。
「誠治」
「そう。それがいい」
 彼の口から自分の名前を聞くのは妙な気分だった。嬉しくて、擽ったくて、なぜだか少し、誇らしい。
「何だか恐れ多い気がします」
「そんなことない。俺と君とは対等なんだから。俺はご主人様の振りをしていただけで」
 すると、ラシャは困ったような笑みを浮かべた。
「貴方は最初から、そのことに関しては決して譲りませんでしたね」
「これからも、譲るつもりはないからな」
「そうでしょうね」
 彼は笑み交じりにそう言うと服を脱ぎ去り、下着だけの姿になった。
 彼の全身を見るのは、これが初めてだった。
 薄暗い部屋では、ラシャの肉体の陰影が際立つ。思わず呼吸も忘れるほどの肉体美だ。だが、それはあくまで輪郭の話に過ぎない。
 ラシャが珍しく、恥じらうような表情を見せる。
「そんなに見つめて、楽しいものではないでしょう。お世辞にも美しいとは言えません」
 確かに、彼の身体は傷だらけで、見ているだけで痛々しい。けれど、これが彼の歩んできた人生なのだ。だからこそ、今こうして温かい肉体に寄り添い、触れられるのが嬉しかった。
「いや。綺麗だ」
 誠治は心から言った。
「どこから見ても、君は綺麗だよ。ラシャ。ひとの姿でも、竜の姿でも」
「何故か……貴方ならそう仰ると思っていました」
 そう言ってもらえたのが嬉しくて、ニヤニヤと笑ってしまう。その顔を見て、ラシャも喉の奥で低く笑いつつ、誠治にキスをした。口に、頬に、それから首筋と鎖骨に。
「あ……」
 啄むような口づけが胸元に降りてゆき、期待に硬くなった乳首に辿り着く。彼は唇でそれをつまんで、それから、温かい舌を這わせた。
「あ……っ」
 与えられた快感に身体が綻び、もっと感じるために皮膚が薄く張り詰めてゆく。
 ラシャの手が誠治の脇腹を滑り降り、両脚の付け根に触れる。すでに芯を持っている誠治のものを素通りして、彼の指は、そのさらに下を探り当てた。
 ぬるりという感触に、毎度のことながらドキッとする。
「もう、こんなに濡れている……」
 熱のこもった声で囁かれて、顔がかあっと熱くなる。ラシャの指が円を描くように縁をなぞると、その場所が充血してじんじんと痺れる。もどかしくて腰が揺れてしまうのを止められない。
「ラシャ……焦らさないで」
 誠治を見つめるラシャの目がキラリと光る。
「ご命令とあらば」
「命令なんかするわけない」
 誠治は即座に否定する。すると、ラシャは小さな笑みを浮かべた。
 ラシャが下着を脱いで、ついに全裸になる。
「わ……」
 ラシャのものは、大きかった。あれが自分の中に入るのだと思うと、腰が引けても仕方がないと思う。けれど実際は、強い期待しか感じなかった。
「少し、慣らします」
 ラシャが言い、指を誠治の中に埋めた。
「あ……」
 自分の身体が、何の抵抗もなく指を飲み込んだことにほんのわずかな羞恥を覚える。だが、ラシャが指を一本、もう一本と増やしながら誠治の中を解してゆくほどに、羞恥などというものは跡形もなく消えていった。
「あ、う……ラシャ、はやく……」
 恥ずかしげもなくねだって、ラシャに手を伸ばす。
「お願いだから、早く……指じゃなくて、ラシャが欲しい」
 ぴくりと震えたかと思うと、ラシャは動きを止めた。薄闇の中で、ラシャの目がギラリと光る。次の瞬間、ラシャのフェロモンの匂いが今まで以上に濃くなった。
 その香りを少し吸い込んだだけで、頭をガツンと殴られたようになる。と言うよりも、頭がグズグズに蕩けてしまったようになる、と言うべきか。
「あ……」
 彼の匂いを孕んだ空気を吸うだけで、全身を愛撫されたような感じがする。今すぐに繋がりたい。滅茶苦茶にされたい。孕まされたい。頭と心、身体のすべてが、それを望んでいる。
 ギシ、と音を立てて、ラシャが誠治に覆い被さる。炎を宿したような目が、貪るように自分を見つめている。彼が口を開くと、いつも以上に牙が長いのが見て取れた。
 ──このままうなじを差し出せば、彼のものになれる。
 けれど、それを唆した誠治を、ラシャは決して許さないだろうと思った。最後の一線だけは踏み越えてはならない。
 今はまだ。
 その決意が伝わったのだろうか。ラシャは目を閉じ、長いため息をついた。
 それから鼻先で誠治の頬をなぞると、耳元で囁いた。
「誠治……力を抜いて……」
 誠治は頷いた。
 濡れた孔にラシャの先端が触れると、口づけのような音がした。
 ラシャは鋭く息を吐きながら、それをゆっくりと押し進めてゆく。
 少しも痛くなかったと言えば嘘になる。だが、覚悟していたほどではなかった。痛みより強烈だったのは、他人の質量が──それも、少なからぬ重さのものが──自分の中に入ってくる感覚だった。
「あ……は……」
 進んでは退いてを繰り返しつつ、ラシャは少しずつ結合を深めていった。太いものが内側を押しひろげて奥に入ってくるほどに、『作り替えられている』という実感が強まる。
「痛くは……ありませんか」
 誠治はこくこくと頷いた。まともな言葉は喋れそうになかった。
 やがて、根元まで収まりきると、ラシャ堪えていた息をゆっくりと吐いた。
 自分がΩという性であることに、まだどこか納得できていない部分が残っていたとしても、この瞬間に消えた。ラシャと結ばれることができるなら、何だって受け入れられるような気がした。
「貴方の中は……とても熱い」
 耳朶に触れる吐息混じりの掠れ声は、それ自体が愛撫のようだ。
「動いても平気ですか?」
「う、ん」
 誠治が頷くと、ラシャはゆっくりと、収めたものを引き抜いた。自分の中を隙間なく埋めていたものが、ぬるりと抜け出ていく感覚に、肌がゾクゾクと震える。そして、それが再び戻ってくると、言葉にできないほどの歓喜を覚えた。
「あ、ラシャ、ラシャ……っ」
 止めどない快感にうっとりと目を閉じ、このまま溺れてしまいたい。けれど、それでは惜しいとも思う。誠治は目を開けて、ラシャの顔を見上げた。
 すると、義務感から自分を抱いていたときには見せなかった、喰らうような目つきがそこにあった。剥き出しの飢えと征服欲が、自分に向けられている。そう思うだけで、そうしてこんなに気持ちが昂ぶるのだろう。
 ラシャが抽挿を繰り返す度、彼の身体が波のように盛り上がり、うねる。誠治はそのリズムに揺らされながら、ラシャの腕に縋り、ぎゅっと握った。
「痛くは、無いですか」
 ラシャはまたしても、そう尋ねてくる。
「大丈夫、だってば」
 上手く回らない舌でなんとか答える。
「貴方を壊してしまわないか、不安で」
 ラシャは言い、弱り切ったような笑みを浮かべた。
「気持ちいいよ、ラシャ……気持ちよすぎて、どうにかなりそう……」
 誠治は、ラシャを安心させたくて本当のことを言った。
「ン、君が動くたび、俺の中がいっぱいになって、擦れて……ああ……腹の中を掻き回されているみたいな気がするのに、それがたまらなく……いい……」
 ラシャが動きを止めた。
 おや、と思った誠治も、同じく動きを止める。
「あれ……また大きくなった……?」
「貴方が、煽るようなことを仰るから……」
 ラシャは苦しげな声で言うと、もう一度律動を始めた。さっきよりも激しく、深くまで届く。
「あ、待っ……これ、やばい……っ」
 まるで、快感の源泉を、直接掘り起こされたような感じだった。最奥を突かれて、なすすべもなく喘ぎ声が漏れる。目の奥がチカチカと光る。濡れた音と、肉がぶつかり合う音が、小さな部屋の中に響いた。
「あう、ラシャ、すごい、これ、ヤバい……っ」
 ラシャは少しもペースを緩めないまま、誠治の耳元に囁く。
「では……止めますか?」
 ざらついた声は、残忍なほど官能的だった。
「や……やめないで。気持ちいい。もっと欲しい……!」
 ラシャがフッと息をつく。するとまた、腹の中が苦しくなる。
「あ……!?」
 間違いない。また膨らんでいる。
「ラシャ……っ、これ以上、デカくしないで──」
「でしたら、これ以上煽らないでください……!」
 ラシャは誠治に返事をする隙も与えないまま、キスで口を塞いだ。ねじ込まれた舌を受け入れ、舌を絡ませ、味わう。
 同時に、繋がりあったもう一方の部分で、限界を迎えつつある彼を感じた。右手を肩に、左手を腰に回して、逞しい身体を更に引き寄せる。
「誠治……手を放してください。このままだと──」
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「いい。中に出して……」
 誠治は彼を抱く腕に力を込めた。
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 ラシャは小さな声で竜語を呟いた。おそらく、感嘆か悪態を意味する言葉だろう。それから、覚悟を決めたように誠治に口づけると、再び力強く動き始めた。
「ああっ……すご……い……!」
 繋がった場所は、これ以上無いほど濡れていた。打ち付けられる度に飛び散る雫さえ感じるほどだ。誠治自身は一度も触れられていないにもかかわらず硬くなり、唾液のような先走りを溢れさせている。
「本当に、いいのですか」
 荒い吐息混じりに、ラシャが言う。
「いい、いいよ、ラシャ──」
 誠治はラシャを見つめたまま頷いた。
「君の全部を注いで……」
 ラシャが鋭く息をつき、強く打ち付ける。
 まるで火花が散るように、脳裏に何かが閃く。身体はピンと張り詰め、その一瞬に期待して肌がざわめく。
「あ……ラシャ……っ!」
 ラシャは誠治の身体を強く抱き寄せ、ガクン、ガクンと、骨まで揺さぶる。それがとどめとなって、誠治は達した。
「ン、あ……っ!」
 ビリビリと痺れるような、甘い戦慄が駆け巡る。身体中が心臓になったのかと思うほど重たい脈動を感じる。その脈に合わせ、あたたかいものが腹の上飛び散る。手も触れていないのに、誠治のものは射精していた。
 ラシャの抽挿は続いている。彼は、絶頂に強ばる誠治の中を優しく愛撫するように動いていた。
「あ……」
 そして、ラシャが息を詰める。
「……っ」
 大きな脈動が一つ──そして、体内にラシャの精液が放たれたのを感じた。
「あ……」
 その感覚に、陶然とする。
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 ラシャは誠治の上に覆い被さり、絶頂の余韻に下唇を噛みしめていた。やがて、彼の熱情の、最後の一滴までを注ぎ込んでしまうと、深く息をついて自身を引き抜き、誠治の隣に横たわった。
 まだ敏感な肌がまだゾクゾクと震えるのもかまわず、誠治はラシャの胸にもたれた。心地よい倦怠感が広がり、手足がゴムのように萎える。
 けれど、まだ終わりたくない。
「どうしよう、ラシャ……」
「うん……?」
 ラシャが鼻先で首筋をこする。
 優しい声と、愛情の籠もった仕草と、自分の中で辛抱強く待っているラシャのものと、温かい彼の手のひら。それを感じるだけで、身体の奥に火が灯る。これまでより目映く燃える。
 誠治はラシャに口づけ、囁いた。
「もっと欲しい……」
 すると、自分の中にあるものが膨らんだのがわかった。
「あ……っ」
「何度でも」
 ラシャは、ざらついた声で言った。
「俺は……貴方が嫌だというまで、何度だって貴方を満たせる……!」
「あ、あ……っ!」
 誠治は腰を浮かせて彼を受け入れ、温かいものが身体を満たす感覚に、うっとりと呻いた。
「誠治」
 ラシャは、熱に浮かされたような声で名前を呼んだ。
「ああ……誠治……!」
 揺さぶられるままに揺さぶられながらも、大きな肩にしがみつき、両脚を腰に巻き付けてより深くへと彼を迎え入れる。
 肌の上を震えが走り、呼吸や鼓動──すべてが快感を引き起こす。
「あ……」
 誠治はか細い声を漏らした。
「ラシャ……ラシャ、ラシャ──」
 助けを求めるように、あるいは祈りのように彼の名を呼ぶ。
「またくる──ラシャ、また……」
「ああ!」
 どちらが先に互いをたぐり寄せたのかはわからなかった。舌を繋ぎ合わせ、うめき声と喘ぎ声と呼吸とが混ざり合ったものを、舌で混ぜ合わせた。
「誠治……!」
「んん、あ、いく──ラシャ、あ……!」
 強く打ち付けられ、奥深いところに熱を感じた。彼の一分を受け取ったのだという実感が胸を貫き、そして意識を突き上げるような一瞬──身体が意味を失い、ただ感覚を受容するためのものに変わってしまったかのような一瞬が訪れた。
 それから、頭の奥で蜜が飛び散ったような、甘々とした余韻。
 ラシャもきっと、同じような感覚に囚われたまま、ゆっくりと動いては、誠治の中に放ったものをかき混ぜ、押し込み、また掻きだしていた。
「は……」
 温かいものが零れて伝い落ちるのを感じて、小さく震える。
 絶頂した瞬間からゆっくりと平温に戻ってゆくふたりの身体に、もう少しの間だけ熱をとどめておきたくて、誠治はラシャを抱き寄せた。
「ラシャ」
 そしてラシャも、誠治を抱きしめた。
 過去も未来も、ここにはない。ただ、今この瞬間だけが存在していた。ラシャと自分──そして、もう一つの命。それが、この上なく優しい恍惚の中で溶け合い、一つになる。
 空高く舞い上がったような意識が、ゆらゆらと戻ってきた。ラシャの優しい抱擁の中に。
 身体を抱きしめる温もり。髪に差し込まれた指。汗ばむ肌。力強い脈動を、一つずつ認識してゆく。
「誠治……」
 彼は囁き、労るように誠治の身体を撫でた。
「誠治、痛くありませんか?」
「ちっとも」
 誠治は頬笑み、まだ少し心配そうな表情を浮かべているラシャに口づけをした。
「幸せしか感じない……」
 すると、ラシャは頬笑みを拡げた。それから、誠治の髪に口づけると、こう囁いた。
「それは……俺もです。ミエ・ミューラ……」
 誠治はラシャの腕の中で首を傾げた。
「前にも聞かせてくれた言葉だ。どういう意味?」
 すると、ラシャは誠治を見つめて頬笑みながら、ほつれ毛をつまんで脇によけた。
「竜の言葉で、『わたしの宝』という意味です」
 彼はほんの少しだけ躊躇ってから、こう言った。
「わたしは、この世で最後の竜です。だがら、この言葉の意味を理解できるものは、貴方とわたし以外には残っていない」
 誠治は、涙がにじみそうになるのを押しとどめて尋ねた。
「君の名前は?」
 ラシャは少しきょとんとした顔で、まじまじと誠治を見た。最初に会ったときにも、驚くとそうして誠治を見つめていたのを思い出す。
「『この国では、姓はない』と言っただろ。故郷ではなんと呼ばれていたんだ?」
 ラシャは少し考え込むような顔をした。もしかしたら、自分の名前を思い出そうとしていたのかもしれない。
「ラシャヴァール……ラシャヴァール・アシュラク・ニーダと呼ばれていました」
 美しい響きに、誠治はうっとりと目を細めた。
「それは、どういう意味?」
「ニーダの血を継ぐ者、夜明けの翼のラシャヴァール……俺はニーダの一族でした。父は夜の色の、母は太陽の色の翼を持っていました。その二人の子である俺の翼は、夜明けの色だった」
 彼はそれから、囁くような声で言った。
「今まで、ほとんど忘れかけていた……」
 愛おしさがこみ上げて、誠治はラシャを抱きしめた。
「思い出せて、よかった」
「ええ。貴方に教える前に忘れてしまわなくて、よかった」
 誠治が言うと、ラシャは誠治をそっと抱きしめた。
貴方はわたしの宝ですイエ・メ・ミューラ。ありがとう……誠治」
 返事をする代わりに、誠治は、もっと強くラシャを抱きしめた。
「貴方は俺のもの」
 温かい息が唇を撫で、誠治の呼吸と混ざり合う。
「俺も、貴方のものです、誠治……あなたが自由をくれたあとも、それは変わらない。これから先も、ずっと」
 その言葉に、その声に、胸がいっぱいになる。誠治は、わずかにうるんだ声で言った。
「愛してる、ラシャ」
 ラシャはやさしく微笑んだ。その瞳には、深い愛情が輝いていた。
「俺もです、誠治……きっと、貴方が目を開けた瞬間から、魂の奥底で、あなたと結ばれることを願っていた」
 いま、身体中で愛する人を感じている。
 その事実を、胸に抱く。すると、睦み合うことで感じた陶酔よりもっと深く、囁きあった愛の言葉よりもっと温かい何かで満たされるのを感じた。

 いつか、新しい命を授かることができたなら、彼を『最後の竜』と呼ばずに済む日が来るかもしれない。
 いつか、この空を沢山の竜が飛ぶのを見られるかもしれない。
 いつか。
 それはなんて、希望に満ちた言葉だろう。
 新しい世界で目覚め、新しい一日を過ごす度に、思っても見なかった方法で世界が広がってゆく。
 そうして、目の前に伸びる道に足を踏み出すとき、隣にはいつでもラシャが居る。
 いままでも、そしてきっと……これから先も、ずっと。 
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僕はド田舎出身の定食屋の息子。貴族の学園に特待生枠で通っている。ちょっと光属性の魔法が使えるだけの平凡で善良な平民だ。 平民の肩身は狭いけれど、だんだん周りにも馴染んできた所。 真面目に勉強をしているだけなのに、何故か公爵令嬢に目をつけられてしまったようでーー?

【完結】婚約破棄された僕はギルドのドSリーダー様に溺愛されています

八神紫音
BL
 魔道士はひ弱そうだからいらない。  そういう理由で国の姫から婚約破棄されて追放された僕は、隣国のギルドの町へとたどり着く。  そこでドSなギルドリーダー様に拾われて、  ギルドのみんなに可愛いとちやほやされることに……。

隣国王子に快楽堕ちさせれた悪役令息はこの俺です

栄円ろく
BL
日本人として生を受けたが、とある事故で某乙女ゲームの悪役令息に転生した俺は、全く身に覚えのない罪で、この国の王子であるルイズ様に学園追放を言い渡された。 原作通りなら俺はこの後辺境の地で幽閉されるのだが、なぜかそこに親交留学していた隣国の王子、リアが現れて!? イケメン王子から与えられる溺愛と快楽に今日も俺は抗えない。 ※後編がエロです

発情期がはじまったらαの兄に子作りセッされた話

よしゆき
BL
αの兄と二人で生活を送っているΩの弟。密かに兄に恋心を抱く弟が兄の留守中に発情期を迎え、一人で乗り切ろうとしていたら兄が帰ってきてめちゃくちゃにされる話。

侯爵令息は婚約者の王太子を弟に奪われました。

克全
BL
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。

魔法学園の悪役令息ー替え玉を務めさせていただきます

オカメ颯記
BL
田舎の王国出身のランドルフ・コンラートは、小さいころに自分を養子に出した実家に呼び戻される。行方不明になった兄弟の身代わりとなって、魔道学園に通ってほしいというのだ。 魔法なんて全く使えない抗議したものの、丸め込まれたランドルフはデリン大公家の公子ローレンスとして学園に復学することになる。無口でおとなしいという触れ込みの兄弟は、学園では悪役令息としてわがままにふるまっていた。顔も名前も知らない知人たちに囲まれて、因縁をつけられたり、王族を殴り倒したり。同室の相棒には偽物であることをすぐに看破されてしまうし、どうやって学園生活をおくればいいのか。混乱の中で、何の情報もないまま、王子たちの勢力争いに巻き込まれていく。

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