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8 白鴉のヨエルと黒狼のアルヴァル
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8 白鴉のヨエルと黒狼のアルヴァル
人ならざる姿でも、獣じみた叫び声を上げていても、手が届かないほど遠くからでも、それがヨエルだとわかった。
矢に射貫かれ、地面に引き落とされ、網で雁字搦めになったヨエルを見て、アルの心は怒りで破裂しそうだった。
リーヌス。あいつだけは絶対に赦さない。ヨエルにした仕打ちを何百倍にも返して苦しませたい。だが、今自分がやるべきなのは、怒りにまかせて彼らを排除することではない。
アルは、雪原を疾駆するマーナの背に乗ったまま、苦しむヨエルの魂に手を伸ばした。
「ヨエル……」
お願いだから、届いてくれ。
「ヨエル!!!」
不意に、何もない空間に放り出された感覚に陥る。
アルはよろめきながら立ち上がり、辺りを見回した。
「ここは……」
辺りは真っ暗な夜。空には満天の星と、踊る極光。
ヨエルの内面を覗き込む度に見た、あの夜だった。地上には燃えさかる村があり、悲鳴と怒号と、あまりにも残酷な音が満ちている。
今では手に取るようにわかる──ここが自分の故郷なのだと。
悪鬼のように殺戮に酔いしれる戦士の群れを掻き分けて、アルは自分の家があった場所に向かった。
そこにはひとりの男がいた。シャツ一枚に薄いズボンだけという無防備な姿で、焼け落ちた家の前に蹲っている。長い金髪が丸まった背中を覆っている。か細い声で何かを囁いている。悲痛で、真摯な声。まるで赦しを乞うように。
「ヨエル」
アルはそっと囁き、ヨエルの肩に手を置いた。
おずおずと振り向いたヨエルの目には、涙が溢れていた。彼は、アルに言うべき言葉を探して口を開いた。
なんでここに来た、とか、今すぐ出て行けと言われるのだろうかと思った。だが、ヨエルは唇を震わせながらこう言った。
「ここに辿り着いたということは、記憶を取り戻したんだな……?」
アルは頷いた。
「そうか……なら、俺を殺してくれ」
アルはヨエルの前に膝をついた。
「なんでそんなことを言うんだよ!」
肩を握って揺さぶる。ヨエルはアルの手から逃れて、首を横に振った。
「本当は、お前が成人の儀式を終えたその日に言わなければいけなかったことだ」
ヨエルの声は掠れていたが、もう震えてはいなかった。
「だが俺は、お前に憎まれるのを恐れて真実を話せなかった。お前に触れてもらう資格はない。癒やしてもらう資格もない。お前が一番よくわかっているだろう」
「ああ」
アルは言った。
「ああ、そうだよ。俺が一番よくわかってる」
ヨエルはふっと、小さな笑みを浮かべた。長い苦しみがようやく終わる時に浮かべるような、諦めと安堵が混じった笑みだ。
「ひとつだけ頼みがある。オーヴェを家に帰してやってほしい」
「わかってる」
ヨエルは目を閉じ、深いため息をついた。
「なら……やってくれ」
アルは、かつての自分の家を見た。
闇の底で、焼け焦げて、もはや原形も留めていない。けれど、そこで過ごした十年間ははっきりと思い出せる。そこに家族の愛があったことも。
自分は愛されていた。愛するとはどういうことかを、十年の人生でしっかりと教え込まれていた。
だから、これは正しいことなんだ。
アルはヨエルに視線を戻し、はっきりと言った。
「ヨエル。あんたを愛してる」
ヨエルは目を見開いた。平手打ちをくらったみたいに、呆然とした顔をしている。
「……なに?」
まさか聞き返されると思わなかったので、気恥ずかしさがこみ上げる。だが、アルはめげずに言った。
「だから! ヨエルのことを愛してるんだって!」
ヨエルは正気を疑うような目でアルを見ている。
「いいか……俺は、お前の一族の仇なんだぞ。お前は記憶を取り戻したんだろう。俺たちが何をしたか思いだしたはずだ。赦されることじゃない。命一つじゃ償えないほど大きな罪を犯した。だから、世迷い言を抜かすのはよせ!」
「何が世迷い言だよ!」
アルも負けじと言い返す。
「俺は、この十年間で、あんたのことを嫌ってほど見てきたんだ。あんたがいつも何かに苦しんできたのも知ってるし、償いをしようとしてきたのも、今ならわかる。だから、俺はあんたを赦すよ。恨んでなんか無い。憎むなんてできない」
ヨエルの浄化をするたびに、彼という人間そのものを感じてきた。アル以上にヨエルの心をわかっている奴は他に居ない。今まで、そんな風に考えるのはおこがましいだろうかと考えていた。
でも、もう違う。
俺は、ヨエルに認めてもらうのを、ただ待ってるだけの存在じゃない。
俺が、ヨエルを導くんだ。光の方向へと。未来へと。
「俺から自由になりたいって、本気で思ってるならそれでもいい。俺が呪いだと感じてるなら、どこへでも好きに行けばいい。でも、そうじゃないだろ」
最後の言葉を言う頃には、アルの息はすっかり上がっていた。
「そうじゃないだろ……ヨエル」
俺と同じ思いでいるはず。
きっとそうだ。今ならわかる。
「アルヴァル……」
ヨエルの目に、微かな光が戻ってくる。
互いに言葉もなく見つめ合っていると、その光が輝きを増していくのが見えた。青い目が美しく冴えてゆく。まるで雪解けの時を迎えた湖のように澄みきって、濡れている。
「アル……俺は──」
「や、やっぱ、ちょっと待って!」
アルは慌てて、ヨエルの口に手を当てた。
ヨエルはムッとして、険悪な眼差しを向けてくる。
「……なんだ?」
アルは慌てふためきながら言った。
「なんて言うか、ここでその言葉を言ってもらうには、ちょっと雰囲気が……出来ればその、居心地の良い暖炉があって、美味い酒があって、近くにベッドがあるようなところで聞きたいっていうか──」
ヨエルは長々と、大きなため息をついた。
「俺が言おうとしたのはそれじゃない」
「なんだ……」
アルは落胆を思い切り顔に出した。
ヨエルはすこしだけ厳しい顔を保っていたけれど、堪えきれなくなってフッと吹き出し、声を上げて笑った。
「お前って奴は……あははは!」
アルは一瞬、あっけにとられた。ヨエルがこんな風に晴れやかに笑っているのを初めて見たのだ。だが、驚きは、すぐに喜びに変わった。
「あは……えへへ」
アルもおずおずと、だが次第に大きな声で笑い出す。
とうとう、ヨエルはまっすぐに成っているのも難しくなったらしい、アルの肩に額をもたせかけて、そのまま体重を預けてきた。
彼が泣いていることに気付いたのは、背中が微かに震えていたからだ。
アルは気付かないふりをして、ヨエルをそっと抱きしめた。
それからふと、空を見上げた。
「わあ、見ろよヨエル。ほら」
促すと、ヨエルはそっと涙を拭ってから顔を上げた。
そこには青空があった。星も、火の粉も、極光も見えない。ただただ、暢気な雲と清々しいほどあっけらかんとした晴天が、どこまでも広がっていた。
二人でしばらく、抱き合ったままその光景を見ていた。やがてヨエルが小さな声で言った。
「ああ……夜が明けた」
そして、こう囁いた。
「ありがとう、アルヴァル」
瞬きを一つする間に、アルはヨエルの精神世界を離れ、ふたたびこちら側の世界に居た。
「あ……あれ?」
一瞬混乱したのは、こちらでも、目の前に青空が広がっていたからだ。状況を飲み込めずにいると、マーナがぬっと顔を出し、アルの顔をぺろりと舐めた。どうやら、精神世界に入ると同時にマーナの背中から転げ落ちてしまったらしい。
ハッとして、慌てて身を起す。
「ヨエル……!」
身を起すと、目の前に白い翼が広がった。
背中に大きな翼を背負ったヨエルが、逃げ惑う男たちを網で捕らえているところだった。
その姿たるや……神々から賜った祝福だと言ったリーヌスの言葉に、同意せざるを得ないのが悔しい。それでも、ヨエルを輝かせているのはセンチネルの特殊能力じゃない。
ヨエルの魂そのものが美しいから。
だから、彼は美しい。たとえどんな姿をしていても。
捉えられたリーヌスたちは聞くに堪えない悲鳴を上げながら、自分だけでも逃げだそうと暴れまくった。だが、自分たちがヨエルに使おうとした頑丈な縄に縛られていては、逃げるなんてまず無理な話だろう。
アルは男たちに近寄って、きっぱりと言った。
「暴れなければ傷つかずに済む。〈塔〉の者が連行しに来るまで、そのままおとなしくしていろ」
その横で、ヨエルは自分とスニョルとを切り離し、再び元の姿に戻っていた。翼によって切り裂かれた服は元には戻らないし、受けた傷もそのままだから、ひどく痛々しい。だが、ヨエルは自分の怪我など意に介さず、気を失ったままのオーヴェに駆け寄った。
「アル、来い! お前の助けが居る」
「はい!」
駆けだしてから、アルはいま、生まれて初めてヨエルに頼られたことに気付いた。誇らしくて、胸が温かくなる。だが、ヨエルはそんなアルの胸中などお構いなしだった。
「お前ひとりで来たわけじゃ無いんだろう、アル。後の連中は?」
「半刻くらいで追いつくと思う。俺とマーナはクレバスを迂回しないで来られたから」
すると、ヨエルは小さな笑顔を浮かべて、アルの頭をくしゃっと撫でた。
「よくやった」
マーナが成熟したことと、いち早く駆けつけたこと、ヨエルの窮地を救ったこと。その手柄を、『よくやった』の一言で済ませるのがヨエルだ。
そういうところが好きなんだ。
「この子の面倒をみてやってくれ。お前に任せても大丈夫だな」
「まかせて」
アルは頷き、オーヴェをそっと抱き上げ、浄化を始めた。
幼いオーヴェの精神の盾は未熟で、心の奥底まで覗いてしまえる。
リーヌスはあの血石を餌にオーヴェの警戒を解き、言葉巧みに誘い出したあとで彼を掠った。家族を人質に取るという恐怖で彼を縛った経緯も、はっきりとわかった。リーヌスはオーヴェに幻覚茸を食べさせ、家族が助かるにはヨエルを殺すしかないと思い込ませたのだ。
『奴は幻覚を見せる煙の中で子供らに恐怖を植え付け、洗脳している。お前よりずっと若いセンチネルが、獣化するまで追い込まれながら訓練──いや、調教させられている』
ルドヴィグはそう言っていた。
アルはオーヴェと心を繋げて、もう心配することはないと確信させた。
家族は無事で、オーヴェの帰りを今か今かと待っていること、彼が家に戻ったら大喜びするに違いないこと。それから、センチネルとして目覚めかけた彼を、〈塔〉はあたたかく迎え入れ、能力の暴走に怯えず暮らせるように手助けをするだろうと伝えた。
「だから、オーヴェ……安心して目を覚ますんだ」
小さな身体がビクッと震えて、オーヴェが眠りから目覚める。
彼はアルの顔を見るなり、こう言った。
「本当に、もう大丈夫なの……?」
「ああ。もう大丈夫だよ」
オーヴェは身を起し、きょろきょろと辺りを見回した。
「僕の猫……いなくなっちゃった……」
彼の霊獣のことだろう。幻覚茸の影響下にいたせいで見えていたのに違いない。マーナのように常時傍に居る相棒となるには、オーヴェはまだ未熟なのだ。
「きっとまた会える。だから、レイクホルに帰ったら一緒に訓練してみよう」
「訓練したら、また会える?」
そこにヨエルがやって来た。
「ああ。それに、仲間もいっぱいいるぞ。お苗と同じくらいの歳の子も何人か。きっと仲良くなれる」
オーヴェは、ヨエルを襲おうとした記憶が無いようだった。他のセンチネルの存在感に少しだけ怯えたようだったけれど、すぐに警戒を解いて開けっぴろげな笑みを浮かべた。
そうこうするうちに、遅れてきた〈塔〉の団員が到着した。
アルとヨエルは彼らの手にオーヴェとリーヌス一味を託して、彼らの出発を見送った。一緒に帰途につかなかったのは、団員から、近くに傷の治療にいい温泉が湧いているという話を聞いたからだ。
そこはかつての療養地で、運が良ければ寝泊まりする小屋のひとつくらいは残っているはずだという話だった。
「そういうことなら、〈塔〉に戻るのは、少し休んでからでもいいだろう」
アルも、ヨエルの意見に大賛成だった。
「浄化の専門家であるこの俺も、それが回復の最善策であるとおもいます」
「調子に乗るなよ」
あははと笑うアルをよそに、ヨエルは早速歩き出した。
「まあ、居心地の良い暖炉も、美味い酒もベッドも無いがな」
「えっ」
アルは釣り針に引っかかった魚みたいに振り返り、ヨエルの顔を覗き込んだ。
「ヨエル、それって──いてっ」
ヨエルはアルの鼻の頭を弾いて、小さく笑った。
「いつまでたっても成熟しないやつだな、お前は」
「な、なんだよ!」
そうして二人は、どこまでも続く雪と氷の平原を歩き始めた。
暮れかけた空に浮かぶ月が、その道行きを静かに見守っていた。
温泉は、そこから半刻ほど歩いたところに湧いていた。かつては近くに集落があったという言葉の通り、すぐ近くには漁村の跡があった。今は放棄されて崩れるままになっているが、ちょうど、湧き出している温泉のすぐ近くに屋根が残っている小屋があった。
アルとヨエルはそこに自分たちの霊獣を休ませ、近くに火を熾してから温泉に足を浸した。
そのまま全身浸かるには少し熱すぎるので、雪の塊をいくつか投げ込む。火傷しそうになりながらも、ようやくちょうど良い温度になった。
服を脱ぐヨエルの方を見ないようにしながら、アルはそそくさと全裸になり、勢いよく湯に浸かった。
「……っ」
ヨエルの声に引っ張られるようにそちらを見ると、身体中に残された痛々しい傷跡が目に入った。改めて、リーヌスに対する怒りが湧いてくる。
アルの視線に気付いて、ヨエルが小さく微笑んだ。
「ルドヴィグは、全部知ってたって?」
「ああ……うん。でも、あいつがイングネスでやってたことは、ヨエルが出てってから報告があってわかったことだったんだ。ほんの一日違いでさ」
「でも、疑ってはいたわけか」
ヨエルは肩まで湯に浸かり、ふうと長いため息をついた。
「敵わんな、あの人には」
「うん……」
アルは、またヨエルが自分を責めているんじゃないかと、恐る恐るヨエルの顔を見た。ホッとしたことに、彼が気に病んでいる様子はなかった。
「お前から距離を置こうと焦るあまり、俺はあいつの本性を見ないようにしていたんだな」
なんと言っていいのかわからず、アルは口元まで湯に沈み込む。ヨエルはしばらく星空を見上げていた。焚き火の火灯りに照らされた彼の横顔は穏やかだった。ヨエルはため息をついて、こう切り出した。
「お前にはひどいことばかり言った」
「確かに」
アルは素直に認めた。
「でも、嘘だったってわかってるから」
ヨエルの顔に、少しだけ面白がるような表情が戻ってくる。
「本当か? どうしてわかった?」
「だって、ヨエルだよ。こう言っちゃなんだけど、俺は世界で一番ヨエルのことをわかってる男だからな。多分、ヨエルよりも」
すると、彼は「あっはっは」と声を上げて笑った。
「そうだな」と、目尻の涙を拭って、ヨエルが言う。
「お前以上に俺のことを理解してる奴はいない」
「だろ!?」
本人にそう認められて、アルは嬉しさのあまりヨエルに飛びつきそうになった。
「まあ、俺もお前のことはだいぶ深くまで理解しているつもりだ。だから──」
ヨエルは落ち着いた声で、こう続けた。
「誓約の番になるか?」
「えっ……」
こんな場所で、こんな状況で、ヨエルからそれを言い出すとは思っていなかった。けれど、混乱する頭とは裏腹に、心はすぐにそれを受け入れた。あたたかいものが胸に広がって、途方もない幸福感に包まれる。
「居心地の良い暖炉はないが、焚き火はある。美味い酒とベッドは省略するしかないが──かまわないだろ?」
二つ返事で頷いてしまいたい。けれど、アルは自分を落ち着けて尋ねた。
「でもヨエル……俺でいいの?」
「逆に聞くが、お前は俺でいいのか?」
アルは即座に答えた。
「もちろん。でもヨエルは──」
ヨエルは優しい笑みを浮かべたまま、あたたかい湯を波打たせてアルとの距離を詰めた。
首筋に手を当てて、そっと引き寄せ、キスをする。
それから、こう言った。
「お前以外には考えられない。だから、覚悟を決めろ」
幸せすぎて心臓が蕩けてしまいそうだと思いながら、アルは答えた。
「そんなの、とっくの昔に決まってるよ」
ヨエルは一糸纏わぬ姿で、焚き火の傍、凍った地面に敷いた毛皮の上に横たわっていた。その姿を見るだけで、湯に火照った身体が一層熱くなる。
炎のあたたかさと湯気のおかげで、ここはそれ程寒く感じない。晴れ渡る空は数え切れないほどの星で埋め尽くされていて、そよ風が吹く度、それらが激しくまたたいた。離れたところから聞こえる静かな波の音と、焚き火が燃える音とが合わさって、なんとも──北方人的だった。
「ヨエル」アルが尋ねた。「ほんとにいいのか?」
ヨエルはじっとりとした目でアルを睨んでから、ため息をついて言った。
「気が変わった方が良いなら──」
「そんなわけないだろ!」
アルは慌ててヨエルに覆い被さる。ヨエルはわかっていたとばかりにクスクス笑った。
「お前こそ、途中で気が変わったなんて言うなよ」
「そんなこと、あるわけない……」
艶やかな毛皮の上に寝そべる、ヨエルの身体を改めて見つめる。色白の肌に、しなやかな細身の体躯。同じ北方人のはずなのに、ヨエルにはなにか別の、もっと優美で霊妙ないきものの血が流れているのかもしれないとさえ思う。身体中の傷跡──新しいものも、古いものもある──さえ、金細工に刻まれた象嵌のように見える。
すらりとした首筋から、男性らしい曲線を下へ辿れば、両脚の付け根に茂っているものの中から、芯を持った彼自身がゆるく勃ちあがっているのが見える。
ちゃんと、欲情している。俺に。
微笑みたいような、恐れをなしたいような、複雑な気持ちだった。
「いつまでそうやってニヤニヤしているつもりだ、アルヴァル」
ヨエルは不機嫌そうに言った。
「時間が許す限り、いつまででも──と言いたいところだけど」
ヨエルの胸に手を当てる。湯で温められた肌の奥に、ドクドクと脈打つ鼓動を感じた。
手のひらをゆっくりと滑らせて、筋肉の凹凸や、薄い毛の流れに触れてゆく。臍のあたりを撫でると、ヨエルが微かに息を呑み、臍の下にあるものがぴくりと反応した。
「アル──擽るなよ」
「ご、ごめん」
クスクスと笑いながら身を捩る、その仕草だけで達してしまいそうなほど色っぽい。
もしもヨエルと一夜を共にするなら……と、長いことあれこれ空想してきたはずなのに、一緒にしたかったことのうちの、たった一つも思い出せない。
結局、アルは怪我の手当て用に持参してきた軟膏で丁寧にヨエルを解すことに集中することにした。
「アル……」
ヨエルに声をかけられて、ハッとする。彼を傷つけないようにしなければと思うあまり、センチネルでもないのに歌集中に陥りそうになっていたらしい。
ヨエルの背中は微かに紅潮していて、腰の窪みには汗の玉が浮かんでいる。
「もう、いいから。はやく……」
「わ、わかった」
アルはゴクリと音を立てて唾を飲み込んだ。
「じゃあ、いくよ……」
先走りを溢しているものに軟膏を塗りつけ、ヨエルにあてがう。油断していると、ここで終わってしまいそうだ。
歯を食いしばって、強ばりの向こう側に押し込んでゆく。
「あ……」
ヨエルの吐息混じりの声が、耳の後ろをわざめかせる。アルはそのまま、ゆっくりと、奥へ進んでいった。
「息、とめないで」
アルはヨエルの腹に手を置いて、掠れた声で言った。ヨエルは無言で頷き、静かに呼吸を再開した。
「お前……何だか慣れてないか?」
出し抜けに不機嫌そうな声で言われて、「へ?」と間抜けな声を出してしまう。
「童貞だとばかり思ってたのに、この間も──」
「頼むから、気を逸らさせないでくれない!?」
こっちはそれどころじゃないのだ。うわずった声で言うと、ヨエルはクククと笑った。
「悪い。俺の勘違いだ。お前はどう見たって童貞だよ」
「お褒めの言葉をどうも……」
力なく呟いてから、ふと気付く。今のは、素直になれないヨエルなりの励ましだったのかもしれない。
いや、深く考えるな。可愛いなどと思ったが最後、全部終わってしまう。
微かに蠢きながらアルのものを迎え入れるヨエルの体内。その熱と感触に包まれても、我を忘れずにいるのは一苦労だった。
十年想い続けた男が、最も無防備な形で自分を受け入れている。めちゃくちゃに突き動かして、ヨエルを喘がせたい。気持ちよくしてやりたい。記憶ごと、自分の存在を深く刻み込みたい。だが、軟膏がヨエルの熱に温められて馴染むまでは、荒っぽい衝動は堪えなければ。
「全部、入った……」
ため息をつく。
「ヨエル、平気? 痛くないか?」
冬の野外で、素っ裸でいるのに、身体中が汗水漬くになっている。
「ああ……すごくいい」
とは言え、すこしだけ苦しそうな声でヨエルが言う。
「よくできたな」
その言葉を、ここで言うのはずるい。埋め込んだ屹立が、ひどく疼いた。
「ヨエル……」
ヨエルはニヤリと微笑み、アルの髪を掴んで引き寄せた。
「うわ!」
情けない声を上げて、彼の上にのしかかる。結合が深まったせいで、ヨエルは喉の奥でうめいた。それからアルの唇を舌先でなぞり、言った。
「ほら。夜が明ける前に、俺を満足させてくれよ……アルヴァル」
ヨエルの腰を掴んで、何度も引き寄せる。腿を抱き、ふくらはぎを抱え上げて、雪花石膏のような肌に、何度も何度もキスをした。軟膏の脂がゆるんで律動が滑らかになるほどに、気が遠くなるほどの快感と、ヨエルという男の全てを貪るように味わおうとする欲望とが交互に燃え上がる。
濡れた肌が擦れあうたびに滑るのが気持ちよくて、足を絡ませ、手で、腹で、身体中で愛撫した。身体を揺らすと、零れた髪の毛から汗が滴り、ヨエルの胸元に落ちた。
「ヨエル」
手に触れれば手を、脚に触れれば脚を、舐めて、甘噛みをして、それから口づける。彼の全てを味わいたかった。
十年間の熱望が、少しは伝わったのだろうか。ヨエルは、アルの動きの一つ一つに応えるように何度も締め付け、ざらついた呼吸の中に小さなあえぎを漏らした。
「ああ、アル……っ」
闇にぼんやりと浮かび上がる白い肢体。髪を乱し、眉間にかすかに皺を寄せて、彼は自分の屹立を掴んでゆるく扱いている。その部分も、胸も首筋も、すべてが薄く紅潮していた。
何度、彼のこんな姿を想像して自分を慰めただろう。だが、いま目の前で揺れているヨエル──口元を緩ませ、鼻にかかった甘い声を溢している彼には、どんな空想も敵わない。
「ヨエル、ヨエル……」
うわごとのように、何度も彼の名を呼んだ。
「ン、あ……アル……!」
貫く度、ヨエルも喘ぎ混じりの吐息でそれに答える。
「ああ、くそっ」
このまま、ずっと、永遠にこうしていたい。それなのに──
「も……いきそ……」
呟くと、ヨエルが目を開けて、アルを見た。
乱れた長い金の髪が、潤んだ青い瞳にかかっている。
「ああ……このまま……」
切なげな吐息が、言葉を細切れにする。
「このまま、最後までつながっていてくれ……俺も──」
柔らかく潤むヨエルの中に、何度も何度も自身を滑り込ませる。あとは最後まで駆け抜けるだけで良い。ヨエルと一緒に、そこに飛び込むだけで良い。
「あ……い、い……」
思わず漏れそうになった素直な言葉を呑み込んだらしいヨエルは、声を堪えるために唇を噛む。アルはヨエルの邪魔をするために、口づけで唇をこじ開けた。熱く濡れた舌を愛撫すると、ヨエルは喉の奥からうっとりと息を漏らした。
「ン……」
いま、彼は自分が無意識に腰を揺らしていることに気づいているんだろうか?
愛おしい。幸せにしたい。全てを包み込みたい。音を上げさせて、懇願させ、俺無しじゃ生きていられないようにしたい。
相反する二つの想いが交互に訪れ、胸から溢れて止まらない。
「あ、アル……」
ヨエルが両手を伸ばして、アルの頬を包んだ。欲望に翳る青い目は美しく潤んで、すべてを赤裸々に明かしている。精神の中に入り込まなくたって、いまなら、それがわかる。全部見える。
アルはヨエルの手を握り、ヨエルもそれを握り返した。
ぎゅっと力がこもり、身体中を戦慄が駆け巡る。
「あ……!」
それは、ノイズが消える瞬間の得も言われぬ快感に似ているようで、夜明けを目の当たりにしたときの敬虔な気持ちにも似ているようで……結局、そのどれとも似ていなかった。
ヨエルと一緒に迎えるこの瞬間は、唯一無二の瞬間だった。
堰を切って溢れ出してゆくものが、ヨエルの中に満ちてゆく。どくん、どくんと脈打つアル自身に呼応するような、ヨエルの強い脈動が伝わってくる。
二人は言葉もなく、互いの目を見つめ合った。
その視線が二人を繋ぎ、結んで、目には見えない、誓約の絆となる。
想いが絡み合い、縒り合わさって、互いを引き寄せる。
二人は深く口づけをした。
呼び合うように高まった互いの鼓動がゆっくりと落ち着くまで、そうしてキスをしていた。
深い満足のため息をついたのは、どちらが先だったか。
アルはそっと結合を解いて、ヨエルを抱きしめた。
「愛してるよ、ヨエル」
ヨエルの目がふっと細まる。そして、彼は言った。
「ああ」
彼は目を閉じ、深い深呼吸を一度だけした。まるでその間に、何かの天罰が下るのを待っているようだった。やがてゆっくりと目を開け、安心したように微笑んだ。
「認めるのに、随分時間がかかった。でも……俺もお前を愛してる」
──ああ。
この言葉を受け入れ、同じ思いを受け入れてもらう。これ以上の幸福があるだろうか。
この瞬間は、失った全て、諦めた全てを補ってあまりあるほど尊い。
だって、これは明日も明後日も続いていくんだから。
何故だか、涙が溢れた。
「お前、泣いてるのか?」
ヨエルは笑ったけれど、彼の目尻にも微かに光るものがあったのを、アルは見逃さなかった。ヨエルのために、言わずにおいてあげるけれど。
「悪いかよ」
アルはグイッと涙を拭いた。
「おかしな奴だな、お前は」
「いまさら気付いた?」
ヨエルはアルを見て、アルもヨエルを見た。
「いや。ずっと前から知ってたさ」
ふたりとも、汗で肌を光らせ、もみくちゃにされた髪は乱れに乱れていた。すべてを出し尽くしたみたいに身体が軽い。心はもっと軽かった。
「ああ……ヨエル。大好きだ」
アルはため息交じりに、しみじみと呟いた。
ヨエルはフフフと笑って、満足げに息をついた。
「何度聞いても飽きないな」
のぼせた身体を拭いて、崩れかけた小屋に戻る。丸くなるマーナの腹にスニョルがおさまり、一匹と一羽はすやすやと眠っていた。かれらの右目の下に、涙のような形の模様が現われたのに気付くのは翌朝のことだ。
霊獣に現われる一揃いの象徴──それは、ガイドとセンチネルが結んだ誓約の証しだった。
さて。
こうして二人は誓約の番となり、これから先も数々の困難に打ち勝つことになる。その証拠に、後の世に残るサガには、この二人の名前が何度も登場する。
伴侶となった二人がこの世を去るまで育んだ愛情を、余すところなく伝える物語は存在しない。それはサガではなく、二人の心の中にのみ存在する彼ら自身の軌跡だ。だから歴史に残るのは、二人が死ぬまで運命を共にしたこと。そして実り多き人生だったこと──それだけだ。
『霊獣のサガ』の語部は語る。白鴉のヨエルと黒狼のアルヴァルの二人こそ、語るにふさわしい人物だったのだ、と。
人ならざる姿でも、獣じみた叫び声を上げていても、手が届かないほど遠くからでも、それがヨエルだとわかった。
矢に射貫かれ、地面に引き落とされ、網で雁字搦めになったヨエルを見て、アルの心は怒りで破裂しそうだった。
リーヌス。あいつだけは絶対に赦さない。ヨエルにした仕打ちを何百倍にも返して苦しませたい。だが、今自分がやるべきなのは、怒りにまかせて彼らを排除することではない。
アルは、雪原を疾駆するマーナの背に乗ったまま、苦しむヨエルの魂に手を伸ばした。
「ヨエル……」
お願いだから、届いてくれ。
「ヨエル!!!」
不意に、何もない空間に放り出された感覚に陥る。
アルはよろめきながら立ち上がり、辺りを見回した。
「ここは……」
辺りは真っ暗な夜。空には満天の星と、踊る極光。
ヨエルの内面を覗き込む度に見た、あの夜だった。地上には燃えさかる村があり、悲鳴と怒号と、あまりにも残酷な音が満ちている。
今では手に取るようにわかる──ここが自分の故郷なのだと。
悪鬼のように殺戮に酔いしれる戦士の群れを掻き分けて、アルは自分の家があった場所に向かった。
そこにはひとりの男がいた。シャツ一枚に薄いズボンだけという無防備な姿で、焼け落ちた家の前に蹲っている。長い金髪が丸まった背中を覆っている。か細い声で何かを囁いている。悲痛で、真摯な声。まるで赦しを乞うように。
「ヨエル」
アルはそっと囁き、ヨエルの肩に手を置いた。
おずおずと振り向いたヨエルの目には、涙が溢れていた。彼は、アルに言うべき言葉を探して口を開いた。
なんでここに来た、とか、今すぐ出て行けと言われるのだろうかと思った。だが、ヨエルは唇を震わせながらこう言った。
「ここに辿り着いたということは、記憶を取り戻したんだな……?」
アルは頷いた。
「そうか……なら、俺を殺してくれ」
アルはヨエルの前に膝をついた。
「なんでそんなことを言うんだよ!」
肩を握って揺さぶる。ヨエルはアルの手から逃れて、首を横に振った。
「本当は、お前が成人の儀式を終えたその日に言わなければいけなかったことだ」
ヨエルの声は掠れていたが、もう震えてはいなかった。
「だが俺は、お前に憎まれるのを恐れて真実を話せなかった。お前に触れてもらう資格はない。癒やしてもらう資格もない。お前が一番よくわかっているだろう」
「ああ」
アルは言った。
「ああ、そうだよ。俺が一番よくわかってる」
ヨエルはふっと、小さな笑みを浮かべた。長い苦しみがようやく終わる時に浮かべるような、諦めと安堵が混じった笑みだ。
「ひとつだけ頼みがある。オーヴェを家に帰してやってほしい」
「わかってる」
ヨエルは目を閉じ、深いため息をついた。
「なら……やってくれ」
アルは、かつての自分の家を見た。
闇の底で、焼け焦げて、もはや原形も留めていない。けれど、そこで過ごした十年間ははっきりと思い出せる。そこに家族の愛があったことも。
自分は愛されていた。愛するとはどういうことかを、十年の人生でしっかりと教え込まれていた。
だから、これは正しいことなんだ。
アルはヨエルに視線を戻し、はっきりと言った。
「ヨエル。あんたを愛してる」
ヨエルは目を見開いた。平手打ちをくらったみたいに、呆然とした顔をしている。
「……なに?」
まさか聞き返されると思わなかったので、気恥ずかしさがこみ上げる。だが、アルはめげずに言った。
「だから! ヨエルのことを愛してるんだって!」
ヨエルは正気を疑うような目でアルを見ている。
「いいか……俺は、お前の一族の仇なんだぞ。お前は記憶を取り戻したんだろう。俺たちが何をしたか思いだしたはずだ。赦されることじゃない。命一つじゃ償えないほど大きな罪を犯した。だから、世迷い言を抜かすのはよせ!」
「何が世迷い言だよ!」
アルも負けじと言い返す。
「俺は、この十年間で、あんたのことを嫌ってほど見てきたんだ。あんたがいつも何かに苦しんできたのも知ってるし、償いをしようとしてきたのも、今ならわかる。だから、俺はあんたを赦すよ。恨んでなんか無い。憎むなんてできない」
ヨエルの浄化をするたびに、彼という人間そのものを感じてきた。アル以上にヨエルの心をわかっている奴は他に居ない。今まで、そんな風に考えるのはおこがましいだろうかと考えていた。
でも、もう違う。
俺は、ヨエルに認めてもらうのを、ただ待ってるだけの存在じゃない。
俺が、ヨエルを導くんだ。光の方向へと。未来へと。
「俺から自由になりたいって、本気で思ってるならそれでもいい。俺が呪いだと感じてるなら、どこへでも好きに行けばいい。でも、そうじゃないだろ」
最後の言葉を言う頃には、アルの息はすっかり上がっていた。
「そうじゃないだろ……ヨエル」
俺と同じ思いでいるはず。
きっとそうだ。今ならわかる。
「アルヴァル……」
ヨエルの目に、微かな光が戻ってくる。
互いに言葉もなく見つめ合っていると、その光が輝きを増していくのが見えた。青い目が美しく冴えてゆく。まるで雪解けの時を迎えた湖のように澄みきって、濡れている。
「アル……俺は──」
「や、やっぱ、ちょっと待って!」
アルは慌てて、ヨエルの口に手を当てた。
ヨエルはムッとして、険悪な眼差しを向けてくる。
「……なんだ?」
アルは慌てふためきながら言った。
「なんて言うか、ここでその言葉を言ってもらうには、ちょっと雰囲気が……出来ればその、居心地の良い暖炉があって、美味い酒があって、近くにベッドがあるようなところで聞きたいっていうか──」
ヨエルは長々と、大きなため息をついた。
「俺が言おうとしたのはそれじゃない」
「なんだ……」
アルは落胆を思い切り顔に出した。
ヨエルはすこしだけ厳しい顔を保っていたけれど、堪えきれなくなってフッと吹き出し、声を上げて笑った。
「お前って奴は……あははは!」
アルは一瞬、あっけにとられた。ヨエルがこんな風に晴れやかに笑っているのを初めて見たのだ。だが、驚きは、すぐに喜びに変わった。
「あは……えへへ」
アルもおずおずと、だが次第に大きな声で笑い出す。
とうとう、ヨエルはまっすぐに成っているのも難しくなったらしい、アルの肩に額をもたせかけて、そのまま体重を預けてきた。
彼が泣いていることに気付いたのは、背中が微かに震えていたからだ。
アルは気付かないふりをして、ヨエルをそっと抱きしめた。
それからふと、空を見上げた。
「わあ、見ろよヨエル。ほら」
促すと、ヨエルはそっと涙を拭ってから顔を上げた。
そこには青空があった。星も、火の粉も、極光も見えない。ただただ、暢気な雲と清々しいほどあっけらかんとした晴天が、どこまでも広がっていた。
二人でしばらく、抱き合ったままその光景を見ていた。やがてヨエルが小さな声で言った。
「ああ……夜が明けた」
そして、こう囁いた。
「ありがとう、アルヴァル」
瞬きを一つする間に、アルはヨエルの精神世界を離れ、ふたたびこちら側の世界に居た。
「あ……あれ?」
一瞬混乱したのは、こちらでも、目の前に青空が広がっていたからだ。状況を飲み込めずにいると、マーナがぬっと顔を出し、アルの顔をぺろりと舐めた。どうやら、精神世界に入ると同時にマーナの背中から転げ落ちてしまったらしい。
ハッとして、慌てて身を起す。
「ヨエル……!」
身を起すと、目の前に白い翼が広がった。
背中に大きな翼を背負ったヨエルが、逃げ惑う男たちを網で捕らえているところだった。
その姿たるや……神々から賜った祝福だと言ったリーヌスの言葉に、同意せざるを得ないのが悔しい。それでも、ヨエルを輝かせているのはセンチネルの特殊能力じゃない。
ヨエルの魂そのものが美しいから。
だから、彼は美しい。たとえどんな姿をしていても。
捉えられたリーヌスたちは聞くに堪えない悲鳴を上げながら、自分だけでも逃げだそうと暴れまくった。だが、自分たちがヨエルに使おうとした頑丈な縄に縛られていては、逃げるなんてまず無理な話だろう。
アルは男たちに近寄って、きっぱりと言った。
「暴れなければ傷つかずに済む。〈塔〉の者が連行しに来るまで、そのままおとなしくしていろ」
その横で、ヨエルは自分とスニョルとを切り離し、再び元の姿に戻っていた。翼によって切り裂かれた服は元には戻らないし、受けた傷もそのままだから、ひどく痛々しい。だが、ヨエルは自分の怪我など意に介さず、気を失ったままのオーヴェに駆け寄った。
「アル、来い! お前の助けが居る」
「はい!」
駆けだしてから、アルはいま、生まれて初めてヨエルに頼られたことに気付いた。誇らしくて、胸が温かくなる。だが、ヨエルはそんなアルの胸中などお構いなしだった。
「お前ひとりで来たわけじゃ無いんだろう、アル。後の連中は?」
「半刻くらいで追いつくと思う。俺とマーナはクレバスを迂回しないで来られたから」
すると、ヨエルは小さな笑顔を浮かべて、アルの頭をくしゃっと撫でた。
「よくやった」
マーナが成熟したことと、いち早く駆けつけたこと、ヨエルの窮地を救ったこと。その手柄を、『よくやった』の一言で済ませるのがヨエルだ。
そういうところが好きなんだ。
「この子の面倒をみてやってくれ。お前に任せても大丈夫だな」
「まかせて」
アルは頷き、オーヴェをそっと抱き上げ、浄化を始めた。
幼いオーヴェの精神の盾は未熟で、心の奥底まで覗いてしまえる。
リーヌスはあの血石を餌にオーヴェの警戒を解き、言葉巧みに誘い出したあとで彼を掠った。家族を人質に取るという恐怖で彼を縛った経緯も、はっきりとわかった。リーヌスはオーヴェに幻覚茸を食べさせ、家族が助かるにはヨエルを殺すしかないと思い込ませたのだ。
『奴は幻覚を見せる煙の中で子供らに恐怖を植え付け、洗脳している。お前よりずっと若いセンチネルが、獣化するまで追い込まれながら訓練──いや、調教させられている』
ルドヴィグはそう言っていた。
アルはオーヴェと心を繋げて、もう心配することはないと確信させた。
家族は無事で、オーヴェの帰りを今か今かと待っていること、彼が家に戻ったら大喜びするに違いないこと。それから、センチネルとして目覚めかけた彼を、〈塔〉はあたたかく迎え入れ、能力の暴走に怯えず暮らせるように手助けをするだろうと伝えた。
「だから、オーヴェ……安心して目を覚ますんだ」
小さな身体がビクッと震えて、オーヴェが眠りから目覚める。
彼はアルの顔を見るなり、こう言った。
「本当に、もう大丈夫なの……?」
「ああ。もう大丈夫だよ」
オーヴェは身を起し、きょろきょろと辺りを見回した。
「僕の猫……いなくなっちゃった……」
彼の霊獣のことだろう。幻覚茸の影響下にいたせいで見えていたのに違いない。マーナのように常時傍に居る相棒となるには、オーヴェはまだ未熟なのだ。
「きっとまた会える。だから、レイクホルに帰ったら一緒に訓練してみよう」
「訓練したら、また会える?」
そこにヨエルがやって来た。
「ああ。それに、仲間もいっぱいいるぞ。お苗と同じくらいの歳の子も何人か。きっと仲良くなれる」
オーヴェは、ヨエルを襲おうとした記憶が無いようだった。他のセンチネルの存在感に少しだけ怯えたようだったけれど、すぐに警戒を解いて開けっぴろげな笑みを浮かべた。
そうこうするうちに、遅れてきた〈塔〉の団員が到着した。
アルとヨエルは彼らの手にオーヴェとリーヌス一味を託して、彼らの出発を見送った。一緒に帰途につかなかったのは、団員から、近くに傷の治療にいい温泉が湧いているという話を聞いたからだ。
そこはかつての療養地で、運が良ければ寝泊まりする小屋のひとつくらいは残っているはずだという話だった。
「そういうことなら、〈塔〉に戻るのは、少し休んでからでもいいだろう」
アルも、ヨエルの意見に大賛成だった。
「浄化の専門家であるこの俺も、それが回復の最善策であるとおもいます」
「調子に乗るなよ」
あははと笑うアルをよそに、ヨエルは早速歩き出した。
「まあ、居心地の良い暖炉も、美味い酒もベッドも無いがな」
「えっ」
アルは釣り針に引っかかった魚みたいに振り返り、ヨエルの顔を覗き込んだ。
「ヨエル、それって──いてっ」
ヨエルはアルの鼻の頭を弾いて、小さく笑った。
「いつまでたっても成熟しないやつだな、お前は」
「な、なんだよ!」
そうして二人は、どこまでも続く雪と氷の平原を歩き始めた。
暮れかけた空に浮かぶ月が、その道行きを静かに見守っていた。
温泉は、そこから半刻ほど歩いたところに湧いていた。かつては近くに集落があったという言葉の通り、すぐ近くには漁村の跡があった。今は放棄されて崩れるままになっているが、ちょうど、湧き出している温泉のすぐ近くに屋根が残っている小屋があった。
アルとヨエルはそこに自分たちの霊獣を休ませ、近くに火を熾してから温泉に足を浸した。
そのまま全身浸かるには少し熱すぎるので、雪の塊をいくつか投げ込む。火傷しそうになりながらも、ようやくちょうど良い温度になった。
服を脱ぐヨエルの方を見ないようにしながら、アルはそそくさと全裸になり、勢いよく湯に浸かった。
「……っ」
ヨエルの声に引っ張られるようにそちらを見ると、身体中に残された痛々しい傷跡が目に入った。改めて、リーヌスに対する怒りが湧いてくる。
アルの視線に気付いて、ヨエルが小さく微笑んだ。
「ルドヴィグは、全部知ってたって?」
「ああ……うん。でも、あいつがイングネスでやってたことは、ヨエルが出てってから報告があってわかったことだったんだ。ほんの一日違いでさ」
「でも、疑ってはいたわけか」
ヨエルは肩まで湯に浸かり、ふうと長いため息をついた。
「敵わんな、あの人には」
「うん……」
アルは、またヨエルが自分を責めているんじゃないかと、恐る恐るヨエルの顔を見た。ホッとしたことに、彼が気に病んでいる様子はなかった。
「お前から距離を置こうと焦るあまり、俺はあいつの本性を見ないようにしていたんだな」
なんと言っていいのかわからず、アルは口元まで湯に沈み込む。ヨエルはしばらく星空を見上げていた。焚き火の火灯りに照らされた彼の横顔は穏やかだった。ヨエルはため息をついて、こう切り出した。
「お前にはひどいことばかり言った」
「確かに」
アルは素直に認めた。
「でも、嘘だったってわかってるから」
ヨエルの顔に、少しだけ面白がるような表情が戻ってくる。
「本当か? どうしてわかった?」
「だって、ヨエルだよ。こう言っちゃなんだけど、俺は世界で一番ヨエルのことをわかってる男だからな。多分、ヨエルよりも」
すると、彼は「あっはっは」と声を上げて笑った。
「そうだな」と、目尻の涙を拭って、ヨエルが言う。
「お前以上に俺のことを理解してる奴はいない」
「だろ!?」
本人にそう認められて、アルは嬉しさのあまりヨエルに飛びつきそうになった。
「まあ、俺もお前のことはだいぶ深くまで理解しているつもりだ。だから──」
ヨエルは落ち着いた声で、こう続けた。
「誓約の番になるか?」
「えっ……」
こんな場所で、こんな状況で、ヨエルからそれを言い出すとは思っていなかった。けれど、混乱する頭とは裏腹に、心はすぐにそれを受け入れた。あたたかいものが胸に広がって、途方もない幸福感に包まれる。
「居心地の良い暖炉はないが、焚き火はある。美味い酒とベッドは省略するしかないが──かまわないだろ?」
二つ返事で頷いてしまいたい。けれど、アルは自分を落ち着けて尋ねた。
「でもヨエル……俺でいいの?」
「逆に聞くが、お前は俺でいいのか?」
アルは即座に答えた。
「もちろん。でもヨエルは──」
ヨエルは優しい笑みを浮かべたまま、あたたかい湯を波打たせてアルとの距離を詰めた。
首筋に手を当てて、そっと引き寄せ、キスをする。
それから、こう言った。
「お前以外には考えられない。だから、覚悟を決めろ」
幸せすぎて心臓が蕩けてしまいそうだと思いながら、アルは答えた。
「そんなの、とっくの昔に決まってるよ」
ヨエルは一糸纏わぬ姿で、焚き火の傍、凍った地面に敷いた毛皮の上に横たわっていた。その姿を見るだけで、湯に火照った身体が一層熱くなる。
炎のあたたかさと湯気のおかげで、ここはそれ程寒く感じない。晴れ渡る空は数え切れないほどの星で埋め尽くされていて、そよ風が吹く度、それらが激しくまたたいた。離れたところから聞こえる静かな波の音と、焚き火が燃える音とが合わさって、なんとも──北方人的だった。
「ヨエル」アルが尋ねた。「ほんとにいいのか?」
ヨエルはじっとりとした目でアルを睨んでから、ため息をついて言った。
「気が変わった方が良いなら──」
「そんなわけないだろ!」
アルは慌ててヨエルに覆い被さる。ヨエルはわかっていたとばかりにクスクス笑った。
「お前こそ、途中で気が変わったなんて言うなよ」
「そんなこと、あるわけない……」
艶やかな毛皮の上に寝そべる、ヨエルの身体を改めて見つめる。色白の肌に、しなやかな細身の体躯。同じ北方人のはずなのに、ヨエルにはなにか別の、もっと優美で霊妙ないきものの血が流れているのかもしれないとさえ思う。身体中の傷跡──新しいものも、古いものもある──さえ、金細工に刻まれた象嵌のように見える。
すらりとした首筋から、男性らしい曲線を下へ辿れば、両脚の付け根に茂っているものの中から、芯を持った彼自身がゆるく勃ちあがっているのが見える。
ちゃんと、欲情している。俺に。
微笑みたいような、恐れをなしたいような、複雑な気持ちだった。
「いつまでそうやってニヤニヤしているつもりだ、アルヴァル」
ヨエルは不機嫌そうに言った。
「時間が許す限り、いつまででも──と言いたいところだけど」
ヨエルの胸に手を当てる。湯で温められた肌の奥に、ドクドクと脈打つ鼓動を感じた。
手のひらをゆっくりと滑らせて、筋肉の凹凸や、薄い毛の流れに触れてゆく。臍のあたりを撫でると、ヨエルが微かに息を呑み、臍の下にあるものがぴくりと反応した。
「アル──擽るなよ」
「ご、ごめん」
クスクスと笑いながら身を捩る、その仕草だけで達してしまいそうなほど色っぽい。
もしもヨエルと一夜を共にするなら……と、長いことあれこれ空想してきたはずなのに、一緒にしたかったことのうちの、たった一つも思い出せない。
結局、アルは怪我の手当て用に持参してきた軟膏で丁寧にヨエルを解すことに集中することにした。
「アル……」
ヨエルに声をかけられて、ハッとする。彼を傷つけないようにしなければと思うあまり、センチネルでもないのに歌集中に陥りそうになっていたらしい。
ヨエルの背中は微かに紅潮していて、腰の窪みには汗の玉が浮かんでいる。
「もう、いいから。はやく……」
「わ、わかった」
アルはゴクリと音を立てて唾を飲み込んだ。
「じゃあ、いくよ……」
先走りを溢しているものに軟膏を塗りつけ、ヨエルにあてがう。油断していると、ここで終わってしまいそうだ。
歯を食いしばって、強ばりの向こう側に押し込んでゆく。
「あ……」
ヨエルの吐息混じりの声が、耳の後ろをわざめかせる。アルはそのまま、ゆっくりと、奥へ進んでいった。
「息、とめないで」
アルはヨエルの腹に手を置いて、掠れた声で言った。ヨエルは無言で頷き、静かに呼吸を再開した。
「お前……何だか慣れてないか?」
出し抜けに不機嫌そうな声で言われて、「へ?」と間抜けな声を出してしまう。
「童貞だとばかり思ってたのに、この間も──」
「頼むから、気を逸らさせないでくれない!?」
こっちはそれどころじゃないのだ。うわずった声で言うと、ヨエルはクククと笑った。
「悪い。俺の勘違いだ。お前はどう見たって童貞だよ」
「お褒めの言葉をどうも……」
力なく呟いてから、ふと気付く。今のは、素直になれないヨエルなりの励ましだったのかもしれない。
いや、深く考えるな。可愛いなどと思ったが最後、全部終わってしまう。
微かに蠢きながらアルのものを迎え入れるヨエルの体内。その熱と感触に包まれても、我を忘れずにいるのは一苦労だった。
十年想い続けた男が、最も無防備な形で自分を受け入れている。めちゃくちゃに突き動かして、ヨエルを喘がせたい。気持ちよくしてやりたい。記憶ごと、自分の存在を深く刻み込みたい。だが、軟膏がヨエルの熱に温められて馴染むまでは、荒っぽい衝動は堪えなければ。
「全部、入った……」
ため息をつく。
「ヨエル、平気? 痛くないか?」
冬の野外で、素っ裸でいるのに、身体中が汗水漬くになっている。
「ああ……すごくいい」
とは言え、すこしだけ苦しそうな声でヨエルが言う。
「よくできたな」
その言葉を、ここで言うのはずるい。埋め込んだ屹立が、ひどく疼いた。
「ヨエル……」
ヨエルはニヤリと微笑み、アルの髪を掴んで引き寄せた。
「うわ!」
情けない声を上げて、彼の上にのしかかる。結合が深まったせいで、ヨエルは喉の奥でうめいた。それからアルの唇を舌先でなぞり、言った。
「ほら。夜が明ける前に、俺を満足させてくれよ……アルヴァル」
ヨエルの腰を掴んで、何度も引き寄せる。腿を抱き、ふくらはぎを抱え上げて、雪花石膏のような肌に、何度も何度もキスをした。軟膏の脂がゆるんで律動が滑らかになるほどに、気が遠くなるほどの快感と、ヨエルという男の全てを貪るように味わおうとする欲望とが交互に燃え上がる。
濡れた肌が擦れあうたびに滑るのが気持ちよくて、足を絡ませ、手で、腹で、身体中で愛撫した。身体を揺らすと、零れた髪の毛から汗が滴り、ヨエルの胸元に落ちた。
「ヨエル」
手に触れれば手を、脚に触れれば脚を、舐めて、甘噛みをして、それから口づける。彼の全てを味わいたかった。
十年間の熱望が、少しは伝わったのだろうか。ヨエルは、アルの動きの一つ一つに応えるように何度も締め付け、ざらついた呼吸の中に小さなあえぎを漏らした。
「ああ、アル……っ」
闇にぼんやりと浮かび上がる白い肢体。髪を乱し、眉間にかすかに皺を寄せて、彼は自分の屹立を掴んでゆるく扱いている。その部分も、胸も首筋も、すべてが薄く紅潮していた。
何度、彼のこんな姿を想像して自分を慰めただろう。だが、いま目の前で揺れているヨエル──口元を緩ませ、鼻にかかった甘い声を溢している彼には、どんな空想も敵わない。
「ヨエル、ヨエル……」
うわごとのように、何度も彼の名を呼んだ。
「ン、あ……アル……!」
貫く度、ヨエルも喘ぎ混じりの吐息でそれに答える。
「ああ、くそっ」
このまま、ずっと、永遠にこうしていたい。それなのに──
「も……いきそ……」
呟くと、ヨエルが目を開けて、アルを見た。
乱れた長い金の髪が、潤んだ青い瞳にかかっている。
「ああ……このまま……」
切なげな吐息が、言葉を細切れにする。
「このまま、最後までつながっていてくれ……俺も──」
柔らかく潤むヨエルの中に、何度も何度も自身を滑り込ませる。あとは最後まで駆け抜けるだけで良い。ヨエルと一緒に、そこに飛び込むだけで良い。
「あ……い、い……」
思わず漏れそうになった素直な言葉を呑み込んだらしいヨエルは、声を堪えるために唇を噛む。アルはヨエルの邪魔をするために、口づけで唇をこじ開けた。熱く濡れた舌を愛撫すると、ヨエルは喉の奥からうっとりと息を漏らした。
「ン……」
いま、彼は自分が無意識に腰を揺らしていることに気づいているんだろうか?
愛おしい。幸せにしたい。全てを包み込みたい。音を上げさせて、懇願させ、俺無しじゃ生きていられないようにしたい。
相反する二つの想いが交互に訪れ、胸から溢れて止まらない。
「あ、アル……」
ヨエルが両手を伸ばして、アルの頬を包んだ。欲望に翳る青い目は美しく潤んで、すべてを赤裸々に明かしている。精神の中に入り込まなくたって、いまなら、それがわかる。全部見える。
アルはヨエルの手を握り、ヨエルもそれを握り返した。
ぎゅっと力がこもり、身体中を戦慄が駆け巡る。
「あ……!」
それは、ノイズが消える瞬間の得も言われぬ快感に似ているようで、夜明けを目の当たりにしたときの敬虔な気持ちにも似ているようで……結局、そのどれとも似ていなかった。
ヨエルと一緒に迎えるこの瞬間は、唯一無二の瞬間だった。
堰を切って溢れ出してゆくものが、ヨエルの中に満ちてゆく。どくん、どくんと脈打つアル自身に呼応するような、ヨエルの強い脈動が伝わってくる。
二人は言葉もなく、互いの目を見つめ合った。
その視線が二人を繋ぎ、結んで、目には見えない、誓約の絆となる。
想いが絡み合い、縒り合わさって、互いを引き寄せる。
二人は深く口づけをした。
呼び合うように高まった互いの鼓動がゆっくりと落ち着くまで、そうしてキスをしていた。
深い満足のため息をついたのは、どちらが先だったか。
アルはそっと結合を解いて、ヨエルを抱きしめた。
「愛してるよ、ヨエル」
ヨエルの目がふっと細まる。そして、彼は言った。
「ああ」
彼は目を閉じ、深い深呼吸を一度だけした。まるでその間に、何かの天罰が下るのを待っているようだった。やがてゆっくりと目を開け、安心したように微笑んだ。
「認めるのに、随分時間がかかった。でも……俺もお前を愛してる」
──ああ。
この言葉を受け入れ、同じ思いを受け入れてもらう。これ以上の幸福があるだろうか。
この瞬間は、失った全て、諦めた全てを補ってあまりあるほど尊い。
だって、これは明日も明後日も続いていくんだから。
何故だか、涙が溢れた。
「お前、泣いてるのか?」
ヨエルは笑ったけれど、彼の目尻にも微かに光るものがあったのを、アルは見逃さなかった。ヨエルのために、言わずにおいてあげるけれど。
「悪いかよ」
アルはグイッと涙を拭いた。
「おかしな奴だな、お前は」
「いまさら気付いた?」
ヨエルはアルを見て、アルもヨエルを見た。
「いや。ずっと前から知ってたさ」
ふたりとも、汗で肌を光らせ、もみくちゃにされた髪は乱れに乱れていた。すべてを出し尽くしたみたいに身体が軽い。心はもっと軽かった。
「ああ……ヨエル。大好きだ」
アルはため息交じりに、しみじみと呟いた。
ヨエルはフフフと笑って、満足げに息をついた。
「何度聞いても飽きないな」
のぼせた身体を拭いて、崩れかけた小屋に戻る。丸くなるマーナの腹にスニョルがおさまり、一匹と一羽はすやすやと眠っていた。かれらの右目の下に、涙のような形の模様が現われたのに気付くのは翌朝のことだ。
霊獣に現われる一揃いの象徴──それは、ガイドとセンチネルが結んだ誓約の証しだった。
さて。
こうして二人は誓約の番となり、これから先も数々の困難に打ち勝つことになる。その証拠に、後の世に残るサガには、この二人の名前が何度も登場する。
伴侶となった二人がこの世を去るまで育んだ愛情を、余すところなく伝える物語は存在しない。それはサガではなく、二人の心の中にのみ存在する彼ら自身の軌跡だ。だから歴史に残るのは、二人が死ぬまで運命を共にしたこと。そして実り多き人生だったこと──それだけだ。
『霊獣のサガ』の語部は語る。白鴉のヨエルと黒狼のアルヴァルの二人こそ、語るにふさわしい人物だったのだ、と。
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