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7 月の狼

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7 月の狼

 今まで、忘れていた。
 父さんの名前はアーベル。母さんの名前はランヒルド。妹の名前はモーナ、弟の名前はスヴァンテ。
 父は〈戦狼団ウルフヘズナル〉の兵士だったけれど、アルが生まれる前に右脚を失ってから、鍛冶場で働いている。母は太陽みたいな人だった。機嫌が良い日は家中がご機嫌で、機嫌が悪いと……行儀良くしていた方が良いな、と思う。
 モーナはお母さん子で、料理から裁縫までなんでも楽しそうにやった。スヴァンテはきかん気で、毎日何かのいたずらをしては叱られていた。
 アルヴァルの夢は、いつか〈戦狼団ウルフヘズナル〉の兵士になることだった。大きくなったら悪者の〈戦鴉団クラセルキル〉をやっつけて、王様に認められるような立派な戦士になるのだ。
 そんな夢は……一晩で燃え落ちた。
 その夜、アルヴァルは家を抜け出していた。森の傍で見つけた小さな狼がまだそこに居るかどうか、確かめに行ったのだ。
 その子狼はどうやら親とはぐれてしまったようで、痩せ細って震えていた。何度か餌を持っていったが、パンは気に入らないらしく食べなかった。今夜は、食べずにとっておいた羊肉のシチューがある。これならきっと、食べてくれるはず。
 アルは木の皿を両手に持ち、中身が零れないように気をつけて歩きながら、森を目指した。子狼は前に会ったのと同じ場所に居た。アルは時間を忘れて子狼と遊んだ。
 最初に異変に気付いたのは、空の色がおかしいのを見たときだ。
 兵士ばかりの村だから、こういう状況が何を表わすのかは知っていた。アルは慌てて駆けだした。
 アルの家は、〈戦鴉団クラセルキル〉が火を放った家の風下にあった。怖ろしい鴉たちの目をくぐり抜け、アルが駆けつけたときには、家はまだしっかりと立っていた。
 もうもうと立ちこめる煙を避けて家に入る。家の中は静まり返っていたから、みんな無事に何処かに逃げたのだと思いたかった。
 だが、そうじゃなかった。
 家族は死んでいた。穏やかな顔で、眠るように死んでいた。
 それが煙を吸い込んだせいなのか、〈戦鴉団クラセルキル〉に味方する悪い魔女のせいなのか、当時のアルには理解できなかったし、そんなことを考える余裕はなかった。
 アルは、皆を起そうと垂れ込める煙に咳き込みながら声をかけ続けた。火の手が回って家中が炎に包まれると、なんとか身体を引きずって外に運び出そうとした。せめて、幼い弟と妹だけでもと、二人の脇を抱えて出口を目指した。
 ところが、あと一歩というところで柱がミシミシと音を立て始め……間一髪というところで、アルだけが外に転がり出た。
 炎は全てを食い尽くした。アルのみている前で、家は崩れ落ちた。十年の思い出と家族の死を悼むように、呻き声を上げながら。
 そう。そうだった。それが、あの夜にあった出来事だ。
 家族は苦しまずに済んだ。それを思い出せたのは……それだけは、よかった。

 ヨエルが出て行った夜から、丸一日、アルは昏睡状態に陥っていた。長い悪夢と、忘れていたはずの記憶に翻弄された時間だった。
 目が覚めるとルドヴィグがやってきて、ヨエルが〈塔〉を後にしたことを告げられた。「単独でオーヴェを救い出し、家族の元に届けたら、それがヨエルの最後の仕事になる」
 アルは、ベッドの上で半身を起して座ったまま、ルドヴィグの話を聞いた。
「そう、ですか……」
 ヨエルのことをどう考えたらいいのか、もう、よくわからなくなってしまった。
 今までは、ヨエルを慕うあまり、自分やヨエルの過去に何があったかなど気にしなかった。けれど、おそらくヨエルと精神を繋げた影響で、ささやかな幸福に包まれていた子供時代を思い出してしまった。ヨエルと、彼の仲間が破壊した幸福を、思い出してしまった。
『俺にとっては全部過去のこと』なんて、忘れていたから言えたことだ。
「気分はどうだ?」
 ルドヴィグが尋ねる。
「平気です。もうどこも悪くない」
 そう。めちゃくちゃになってしまった心を除けば。
「目覚めたばかりでする話じゃ無いかも知れないが、他ならぬお前だからな」
 ルドヴィグがアルの手当てをしていた治療師に頷くと、彼は何も言わずに頷いて部屋を出て、扉を閉めた。これで、部屋の中はアルとルドヴィグの二人きりだ。マーナはルドヴィグの霊獣である熊のバールグに気圧されることもなく、床の上で手足を投げ出し、気持ちよさそうに眠っていた。
「実はな、しばらく前から、〈トルン〉はリーヌスの素性に探りを入れていた。アッレは知ってるな。鼬鼠の霊獣を持ったセンチネルだ。リーヌスがあちらを留守にしている間に、彼を斥候として送り込んだ」
 不意に意識が冴える。アルはルドヴィグの顔をまじまじと見た。
「素性? 斥候を送ったって……?」
 ルドヴィグは小さく肩をすくめる。
「俺はヨエルの後見人だ。ただ持参金をもらって引き渡すなんてことをするはずがないだろう。まあ、あちらさんは俺がそこまでするはずがないと高をくくっていたようだが」
 アルの背中に緊張の汗が滲む。ルドヴィグがわざわざその話をすると言うことは、リーヌスの素性に、何か問題があったと言うことだ。
「リーヌスは、かつてベイスフィョルの王都があったイングネスに住んでいるが、今ではあそこは〈戦鴉団クラセルキル〉の拠点の一つとなっている」
 本人からそのことを聞かされたのだから、驚くにはあたらない。だが、ルドヴィグが意外そうに眉を上げた。
「なんだ、もう知っていたのか」
 アルが頷くと、ルドヴィグは「ほお、なかなかやるな」と感心したように髭の生えた顎を撫でた。
「いまイングネスは〈戦鴉団クラセルキル〉の養成所になっている。奴は商人として手広くやる傍らで、そこを切り盛りしているんだ。霊獣持ちの子らを集めて、戦士に仕立て上げるための訓練をしているんだよ。孤児院が聞いて呆れる」
 ルドヴィグの声は暗く、沈んでいた。
「奴は子供らに幻覚を見せる煙を吸わせ、言葉巧みに恐怖を植え付け、洗脳している。お前よりずっと若いセンチネルが、獣化するまで追い込まれながら訓練──いや、調教させられているんだ」
 リーヌスが話していたことを思い出す。
『あれは本当に素晴らしい。神々から賜った祝福だ』と、奴は話していた。
「獣化したセンチネルに抑制など効かない。まして未熟な子供では。ガイドの導きがなければ、死ぬまで戦い続けることしかできん」
 ルドヴィグは、自分の膝の上にある傷だらけの大きな手に視線を落としてから、重々しいため息をついた。
「かつて俺の祖先は戦熊団ベルセルキルとして名を馳せた。だが、王の権威に踊らされ、戦うことに命を燃やしすぎて数を減らした。今ではほんの数人しか残っていない」
 物語の中では、獣化したセンチネルを狂戦士ベルセルクと呼ぶことがある。彼らの始祖たる〈戦熊団ベルセルキル〉の名残だ。
 ルドヴィグが拳を握る。
「だからな、ああいう手合いには、俺は我慢ならない」
 アルは、ルドヴィグが言いたいことが痛いほどわかった。
「リーヌスの家には、センチネルに関する夥しい研究書が残されていた。アッレがいくつか持って帰ってきた」
 ベッドの上に置かれたそれは、夥しい文字が書き込まれた羊皮紙の束だった。ヨエルが獣化したときの状況を分析したもの。どうすれば効率よくセンチネルを獣化させられるか……。どれを読んでもセンチネルを──ヨエルを人間扱いしているものは一つも無い。
「ふざけるなよ……」
 思わず、アルは呟いていた。
 ヨエルは人間だ。誰よりも優しくて、格好良くて、面倒くさくて、強いくせに弱い、この世でただ一人の人間だ。
 こんな紙切れ、今すぐ火の中に投げ込んで、全て燃やしてしまいたい。
「団長。リーヌスをどうする気なんですか」
「無論、そのままにはしておかない」
 ルドヴィグは安心させるように頷いてみせた。
「オルスティアは以前から我らが国を狙っていた。ベイスフィョルの次はビョルランドだ、とな。次の戦は近い。王も憂慮しておられる」
 ルドヴィグの大きな手が、アルの肩に置かれた。
「俺たちは〈戦鴉団クラセルキル〉の養成所に攻め入り、子供たちを救い、そこを壊滅させる。お前はヨエルを救え」
「はい!」
 口に出してから、一瞬たりとも躊躇わなかった自分に気付いて、微かにたじろぐ。
 ルドヴィグは、そんなアルの動揺を見抜いたようだった。
「話はヨエルから聞いている」
 そう言って、重々しいため息をついた。
「彼はお前の一族の仇でもある。それでも行けるか? あいつのために命を賭けられるか?」
 アルは全てを天秤に乗せて考えてみようとした。
 一方の皿には自分が失ったもの、あり得たかも知れない未来、叶わなかった夢。もう一方の皿には、ヨエルと共に生きてきた十年間と──まだ未知のこれからがある。二人分の『これから』が。
「はい」
 アルは、はっきりと口にした。
「俺が、ヨエルを救います」
 ルドヴィグは強く頷いた。
「ああ。お前ならやり遂げられる。見てみろ」
 何を──と思ったとき、視界の端でなにか大きなものが立ち上がった。まじまじと見ると、そこは漆黒の毛皮を持つ大狼ダイアウルフがいた。普通の狼より二回りは大きな身体。月を呑み込んだような金色の眼──月食を引き起こす伝説の獣、〈月の狼マーナガルム〉を思わせる威容だ。
「マーナ……?」
 名前を呼ぶと、狼は嬉しそうに口を開け、大きな舌でアルの顔を舐めた。脇の下に鼻先を突っ込んで『もっと撫でろ』とせがむ。この甘えた仕草は、まさしくマーナだ。
「マーナ……!」
 アルの霊獣が、ついに成熟したのだ。
 ルドヴィグは立ち上がり、アルの肩を、勇気づけるようにぎゅっと握った。
「おめでとう、アルヴァル」
 自分の中から、力がわいてくるのを感じる。
 この感覚には馴染みがあった。幼い頃から、ヨエルに認めてもらいたいと思ったときに湧き上がる力に似ている。だが、もっと強い。
『ヨエルに認めてもらいたい』じゃだめだ。
 俺がヨエルを支える。
 俺が、彼を導くガイドになる。
 アルは起き上がり、少しだけおぼつかない脚にでしっかと立った。マーナはその傍らに座り、いつでも飛び出せるよう四肢に力を漲らせている。
 ルドヴィグが低く、深い声で言う。
「仕度をして出発しろ。戦狼ウルフヘズン末裔すえ、アルヴァルよ。ヨエルを救って、〈トルン〉に帰ってこい」
「はい」
 アルは厳かに頷いた。
「必ずヨエルを連れ戻します」
 
 †

 スニョルは切り立った崖の稜線の上を飛んでいる。
 昨日、ヨエルはスニョルの目を通じて、西の雪原の真ん中から立ち上る煙を見つけていた。この時期に、雪原のまっただ中で火を焚くのは普通じゃない。だれかの危機か、罠か。センチネルの本能はその両方だと告げていた。
 いずれにせよ、目指すべきはそこだ。
 氷河に削られた大地から成るビョルランドは起伏の多い地形をしていて、直線距離ではそれほど遠くないように思えても、実際に辿り着こうとすると大変な苦労を強いられる。氷柱だらけの崖を登り、雪と氷に覆われた地に入ると、今度は巨大な亀裂クレバスと、聳え立つ氷の壁に阻まれる、といった具合だ。
 〈トルン〉を後にして二日。短い睡眠を取る以外は常に歩き続けたが、思った以上に距離が稼げない。激しく呼吸をすれば気道が凍り付いてしまうため、どれだけ焦っていても、息が上がるほど激しく動くことが出来ないのだ。
 ヨエルはペミカン──牛の脂肪と肉と果実を固めた非常食を囓りながら、目指す場所に向かって一心不乱に歩を進めた。
 そして、色々なことを考えた。
 全ての命が凍り付く世界は、センチネルにとって少しだけ息がしやすい世界でもある。人の多い街での暮らしは、気を逸らす要因があまりにも多すぎるのだ。ヨエルは半ば瞑想に近い心境で、一心に足を動かしながら、ただ、考えた。
 まず、オーヴェが生きている可能性について。救えるものなら命を賭してでも救う。それが能うか否かは、その時になってみなければわからない。
 次に考えるのは、アルのことだった。
 あんな終わり方を迎えたくはなかった。彼の面倒を見始めた頃は、いつかアルが信頼する仲間に囲まれ、一人前になって、幸せになったところを見届けたらこっそり姿を消すつもりでいた。
 それが、自分を慕うようになるとは計算違いも甚だしい。
 最悪なのは……ヨエル自身がそれを、心地良いと思ってしまったことだ。
 思ったようにはいかなかったが、それでもあれが、自分に出来た最善の別れだった。
 だから、これでよかったのだ。
 そう思う以外に、打つ手はない。
 ヨエルは足を止めた。目の前には、巨大なクレバスが横たわっている。
 一見しただけでは雪と氷しかない世界のように見える雪原だが、地面の深いところには活火山があり、その上部には煮えた湖が広がっている。そのため地表近くの氷に亀裂が生まれ、時に九百メートルにも達するクレバスとなるのだ。
 亀裂を覗き込むと、剥き出しになった亀裂面の氷が白から青、そして限りなく黒に近い藍色へと変化していく様子が見える。落ちれば命を落とすのは明白だ。
 ここを迂回するとなるとさらに半日ほどかかりそうだが、そんな時間は無い。冬が訪れ、ただでさえ日が短くなっている。太陽が見えるうちにオーヴェを見つけなければ。
「仕方が無いな……」
 ヨエルはスニョルを呼び戻し、自分の肩にとまらせた。それから目を閉じ、スニョルの中に宿る力に見えない手を伸ばす。
 スニョルの存在感が少しだけ薄れ──代わりに、自分の中に力が流れ込んでくるのかわかった。空を駆ける翼を動かすのと同じものが、ヨエルの中に満ちてゆく。強靱な筋肉と、それを動かす瞬発力が四肢に漲る。
 ヨエルは両手にピッケルを構え、クレバスの手前で後ずさってから、思い切り走った。アイゼンのついた靴で氷を蹴散らし、勢いをつける。
 一歩、二歩──三歩目で跳躍する。ゾッとするほど青い亀裂を飛び越え、目の前に近づく氷の壁に向かって、勢いよくピッケルを繰り出した。
 左右の手に持ったピッケルに手応えを感じたのも束の間、左が支えを失い、身体がガクンと傾いた。
「クソッ!」
 慌てて右足で氷壁に蹴りを入れ、アイゼンを食い込ませた。
 身体一つ分ほど滑り落ちたものの、なんとか足がかりを得ることができたようだ。同化を解いたスニョルが慌てふためき、上空で翼をばたつかせていた。
「大丈夫だ……心配するな」
 両手のピッケルと足に装着したアイゼンの三点で身体を支えながら、氷の壁をよじ登る。冷や汗が即座に凍り付いて、顔をしかめる度にパキパキと音を立てた。
 なんとかのぼり抜いて少しの間、地面に横たわる。
 息を整え、革袋の中の蜂蜜酒を飲んで身体を温めてから立ち上がると、昨日スニョルが見つけた妙な焚き火跡まで、もう少しの距離にいることがわかった。
 クレバスを越え、空気の流れが変わったらしい。全ての命が凍り付く世界──そこに、あたたかい命のにおいがした。
 人間の呼気。恐怖がにじみ出した、汗と老廃物の臭い。生きた人間が、この先に居る。ヨエルは口元をスカーフで覆い、冷たい空気をいくらか遮断しつつ歩調を速めた。
 進めば進むほど、意識が冴え渡り、研ぎ澄まされてゆく。視界が狭まると同時に、遠くのものがくっきり見えるようになる。風の音が消え、行く手で燃えている火の音が大きくなる。
 ガイドを伴わない状態で、集中領域ゾーンに入るのは綱渡りにも等しい行為だ。だが、危険を冒すだけの価値はある。
 生きていてくれ。頼む。
 その時、風向きが変わった。
 真正面から吹き付けてきた風のなかに、ヨエルはいくつもの匂いを嗅いだ。燃えた木、脂、生きている人間のにおい……そして、アルヴァルのにおいを感じた。
 ──何故だ!?
 本能が暴れ出し、今すぐ駆け出したい衝動に駆られる。恐怖の汗と混ざり合ったアルヴァルの臭いに、一瞬、を助け出すことしか考えられなくなった。だが、ヨエルは過集中に陥る一歩手前で踏みとどまった。
 ──ここにあいつが居るはずが無い。これは罠だ。
 ヨエルは深呼吸をしながら、慎重に歩を進めた。
 雪原の真ん中でヨエルを待っていたのは、腰の高さまで組まれた篝火の輪に囲まれた一本の杭──そこに縛り付けられた少年だった。
 少年に外傷はない。ぐったりとして気を失っているが、間違いなく生きている。人相はトシュテンから聞いたとおり。しかし、においからオーヴェと判断するのは難しかった。なぜなら彼は、身体中からアルヴァルの臭いをさせていたからだ。良く見ると、アルヴァルの服を着させられている。
 誰かがアルの服を盗み出してあの少年に着せたのか?
 罠だ。罠だ、と本能が叫んでいる。それなのに、アルのにおいと合わさった恐怖の汗のにおいが、ヨエルを焦らせ、集中を乱す。ヨエルは、早く助けてやりたいと焦るあまり、罠に対する警戒を徹底しきれなかった。
「待ってろ、今いくからな!」
 粗朶の垣根を跨ぎ超し、オーヴェを助け出そうとしたその時、カチッと言う音がした。
 しまったと思ったときには、もう手遅れだった。
 垣根に火がつき、オーヴェとヨエルを取り囲む。脂が染みこませてあったのだろう、火の勢いはあっという間に大きくなった。
「クソ……!」
 しかも、燃えていたのはそれだけではなかった。センチネルが成人の儀式で使う幻覚茸のにおいが立ち上った。ヨエルは鼻を覆ったが、防ぎきれない。
 その時オーヴェが目を覚ました。
「う、うわ……何これ……嫌だ……!」
 自分の周りを取り囲む炎を見て、恐慌に陥る。
「嫌だ! 助けてよ! 助けて!」
 耳元で叫ばれる子供の悲鳴に、頭がくらくらする。アルヴァルのにおいは相変わらず濃厚で、幻覚茸の煙が指の隙間から這入り込んで、脳を麻痺させてゆく──。
 さっきまで近くに居たはずのスニョルの気配は消えていた。すでにヨエルと同化して、その力を爆発させるのを今か今かと待っている。
 だめだ。今獣化すれば我を失い、手当たり次第に攻撃してしまう。
「落ち着け、坊主──いま縄を解いてやる」
 オーヴェは過呼吸に陥りかけながらも、おとなしくなった。早くここから出してやらなければ、煙を吸い込んで手遅れになることを、彼もわかっているのだろう。
 ヨエルはオーヴェを縛っていた縄をナイフで切り、驚くほど軽い身体を抱き留めた。
 次の瞬間、オーヴェが豹変した。
「うわぁぁ!」
 獣じみた叫び声を上げて、オーヴェがヨエルにつかみかかる。獣じみた──とは比喩でも何でもない。彼は文字通り獣化しかけていた。
 ヨエルはオーヴェを突き飛ばした。さっきまで弱々しかった少年は、殺意に満ちた緑の目をぎらつかせ、焦げ茶色の毛皮を身に纏っていた。人間とも、獣ともつかないその姿はまさしく、センチネルが獣化した姿に他ならない。
「お前……センチネルだったのか……!」
 トシュテンの農場で彼の持ち物を探ったときに気付くべきだった。彼が石などの自然物に固執していたのは、それが残留思念を持たない安らぎの源だからだ。ガイドの血が染みこんだ血石ブラッドストーンは、日々成長を続ける彼の超感覚を沈静させるためのものだった。
 顔のまわりに生えた毛の模様を見るに、おそらく、彼の霊獣は山猫だろう。だが、センチネルとしての覚醒が不十分なのか、力が安定していないように見える。
 吐き気を催すほどの耳鳴りと頭痛に堪えながら、ヨエルはあくまで冷静に声をかけた。
「落ち着け、オーヴェ。俺たちが協力すれば、ここから出られる」
 幻覚茸の煙は、もう取り返しのつかないほど充分に吸い込んでしまっている。意識を保てるうちに手を打たなければ。
 だが、オーヴェは聞く耳を持たなかった。
「あんたを殺せば、僕は家に帰れるんだ! 僕の家族は助かるんだ!」
 誰がそんなことを。幻覚茸のせいで妙な妄想に陥っているのだろうか。
「お前の家族は無事だ。誰も危害など加えない」
「嘘だ! あの人が、みんな死ぬって言ってた! お前のせいで家ごと焼け死ぬって!」
「あの人……?」
 オーヴェをここまで連れてきた者のことだろう。だが、いったい何故、幼いセンチネルに嘘を吹き込むような真似をするのか……駄目だ。考えようにも、頭が上手く働かない。
「それは、お前を騙すための嘘だ。みんなお前を待って──」
「うるさいっ!」
 混乱し、恐怖したまま、オーヴェがヨエルに飛びかかる。
 オーヴェを倒してしまうのは容易い。だが、それでは敵の思うつぼだ。おそらく誘拐犯は、オーヴェを餌にヨエルを追い込もうとしている。
「俺はお前を傷つけない、オーヴェ! 話を聞け!」
 傷つけてはいけない。そう思うのに、ヨエルの中のスニョルが戦いの気配に昂ぶっている。ろくに集中も出来ないこの状況で、身の内の霊獣と幼い狂戦士に対処するのは至難の業だった。
 纏わり付くか細い手足を引き剥がし、むやみやたらに繰り出される爪にそこら中を引っかかれながら、いつしか思考が揺らぎ、滲んでゆく。
「死ね! 死ねったら!」
──オーヴェが叫んでいる。いや、叫んでいるのはアルか?
「お前がいなければ、父さんも母さんも、みんな無事だったのに!」
──ああ。そうだ。俺がいたせいで、数え切れないほどの死がもたらされた。
「ああ…………すまない」
 足に力が入らない。ヨエルは膝をついて、なすすべもなく少年を見上げた。
 憎しみに満ちた血走った目が、ヨエルを見ている。
 ああ。
 あの日、アルも俺のことを、そんな眼差しで見つめるべきだった。その場で俺を罰するべきだった。俺に生きる目的を与えるべきじゃなかった。俺を愛するべきじゃなかった。
 俺は……アルヴァルを愛するべきじゃなかった。
 オーヴェが両手を振り上げる。ヨエルは、首を差し出すように項垂れ──そして、遠くで引き絞られる弓の音を聞いた。
 やはり、この瞬間を狙っていたのか。
 ヨエルは目を見開いて地面を蹴った。オーヴェを抱きかかえて地面に伏せる。ドスッと言う音がした方を振り向くと、ほんの一瞬前まで少年が立っていた場所に、矢が突き刺さっていた。
 オーヴェは押し倒された衝撃で気を失っていた。ヨエルは彼を抱きかかえ、ゆっくりと振り向く。
 そこに、オーヴェを誘拐した男がいた。
 ヨエルが思いも寄らなかった人物が。
「まったく……お前はいつでもわたしの予想を裏切ってくれるな、ヨエル」
 ヨエルは歯を食いしばって、唸った。
「リーヌス……!」
 リーヌスと、彼に付き従っているらしい五人の狩人がそこにいた。誰もが弓に矢を番え、用心深くヨエルを見つめている。
「計画では、今ごろお前はとっくに獣化して、俺たちの手に落ちていたはずなんだが」
「なにを企んでる……!」
 リーヌスは肩をすくめた。
「実はな、ヨエル。〈戦鴉団クラセルキル〉は効率化を求められてるんだよ」
 煩わしげに言い、リーヌスはため息をつく。
「わたしは、ヤルマル王そのひとから軍団の刷新を求められたんだ。これがなんとも因果な任務でな。陛下も実にひとが悪い」
「刷新だと……いったい何を言っている……?」
 リーヌスは頷いた。
「センチネルの軍団ってのは、維持するのにものすごい金と手間がかかる。わかるだろう? やれ浄化ケアだの、ガイドだの、過集中崩壊ゾーンアウトだの、心配事が尽きない。だが獣化したセンチネルの戦力は雑兵の何十人分にも相当する。これを手放すくらいなら、銭食い虫のガイドを用意してでも面倒を見てやらなければならない……これが、今までの〈戦鴉団クラセルキル〉だった」
 リーヌスの言葉が、洞窟で聞く音のように空ろに響き、こだまする。幻覚の作用が出ているのだ。いやな汗が滲み、足下が揺らぐ。ヨエルは気力を振り絞ってリーヌスの声に集中した。
「ところが、だ。センチネルを獣化した状態で飼い慣らしてやれば、ガイドも、浄化も必要ない。維持費は三分の一にまで削減できるんだ!」
 頭がぼんやりし始める。それでも、リーヌスの案が馬鹿げた、空恐ろしいものであることはわかる。
「そんな突拍子もない計画を、よく団のお偉方が赦したな……?」
 〈戦鴉団クラセルキル〉は血に飢えた戦闘集団だが、それでも内部で成り上がってきた将兵たちは、こんな案を鵜呑みにするほど愚かではない。
「まあ、厳密には赦されていない。だからお前と結婚して、お前から譲られた次期団長の地位を手に入れる必要があった……伝統は伝統だからな」
 リーヌスは満面の笑みで、つい先日ヨエルが署名したばかりの結婚契約書を掲げた。視界がゆがみ、均衡が怪しくなる。
「こっちは手に入った。あとは、〈戦鴉団クラセルキル〉最強の戦士だったお前を最強の獣人兵器にしてやればいい。俺は、不幸な事故によって獣に成り果てた伴侶と共に、せいぜい軍団をもり立ててやるさ」
 ヨエルはため息をついた。息が上がっている。自分自身を閉じ込めておく檻が脆くなっている。
「随分と……俺を買いかぶってくれたな、リーヌス」
「謙遜はよせよ、ヨエル。昨日今日知り合った仲じゃない」
 リーヌスはクスクスと笑った。その笑顔がゆがみ、引き延ばされ、色とりどりの煙の中で渦を捲く。
「お前の実力は、俺がこの目でしっかりと見てきた。後にも先にも、お前みたいに戦えるセンチネルは他に居ないよ。だからこそ、制限を取っ払ったときにどうなるのか……見てみたくて仕方ない」
 リーヌスが片手を上げると、待機していた男たちが弓を構えた。矢には返しのついた鏃と、紐がくくりつけられていた。あれにかかったら、すぐに身動きが取れなくなるだろう。
「そのガキが死ぬのを目の当たりにして、獣化してくれたらと思ってたんだ」
 リーヌスは、ヨエルの腕に抱かれたオーヴェを指さした。
「喪失はセンチネルの心を不安定にするからな。だが、肉体的な痛みも有効だ。いかに最強のセンチネルでも、幻覚に苛まれた状況で強い痛みを感じれば……暴走は免れない。そうだろう?」
 その通りだ。腹が立つほど正しい。
「できるだけ、お前には無傷でいて欲しかったんだが──しょうがない」
 リーヌスが右手を掲げた。
 このままでは、オーヴェにまで矢が当たる。
 今しかない。一瞬の可能性に賭けるしかない。
 リーヌスの手が振り下ろされ、
「射て!」
 の声が発せられると同時に、ヨエルは己の、精神の檻を壊した。
 身体に漲る力と共に、心を支配していく獣性。
 スニョルが身の内で翼を拡げると、ヨエルの背中でその翼が具現化した。白い羽毛が肌を覆い、気流の流れを手に取るように感じられる。
 圧倒的な力。これこそが力だ。
 強烈な万能感に理性を乗っ取られるまでのほんの短い間に、ヨエルは燃えさかる柵を飛び越え、オーヴェを地面に横たえた。
 あとは、男どもを引きつけてオーヴェから遠ざければいい。できるだけ遠くに逃げるのだ。
 ヨエルは地面を蹴って強く羽ばたいた。
「何してる! 早くヨエルを掴まえろ!」
 矢が空を切る、鋭い音がする。ヨエルは翼をはためかせ、上空に飛び上がった。
 雪原に影が落ちる。羽毛に縁取られた顔に、鉤爪の生えた足──自分は今、見るも怖ろしい異形に変化している。
 だからなんだというのだ?
 一つ羽ばたく度に、心は獣に近づいてゆく。動くもの全てを沈黙させたい。敵の血を浴びて、この純白の羽を赤く染めたい。あたたかい内臓を引きずり出し、目玉をほじくり、仲間の鴉どもを呼び寄せて宴をはじめるのだ。
 高揚感の中、踊るように身を捩らせ、ひとつ、ふたつ──矢を躱す。急降下して、渾身の力で男たちの頭を踏みつける。背骨が折れる音がして、ふたりの男が地面に倒れる。他の連中も、巨大な翼の風圧に堪えきれず無様に倒れた。
「こ、この野郎……っ!」
 倒れた男どもが体制を立て直し、矢をつがえる。
 そんな震えた手で射る矢が、この俺に当たるものか!
 風を切りつつ身を翻し、今度も全ての矢を躱せたと思った。だが、一本の矢が右のふくらはぎを貫いた。
 人とも獣ともつかない声が喉から迸る。
 矢は深々と突き刺さり、暴れても引き抜けない。幻覚茸のせいで、力が美味く入らないのだ。矢にくくりつけられた縄を引かれると、ヨエルはあえなく体勢を崩して、顔から地面にぶつかった。
 肉を引きちぎってでも逃げようと藻掻くヨエルのうえから、別の狩人が投げた金属製の網が被さってくる。
 こんなもの!
 内側にかぎ針がついたその網の中で暴れれば暴れるほど、肉が引き裂かれ、ひどい痛みに襲われる。それが一層、ヨエルから理性を奪った。この痛みから逃れられるならどんなことでもしてやると、叫び、足掻いて、さらに傷を負った。
──〈獣堕ち〉、する──
 それは、確信よりも強烈な感覚だった。
 心の中に残ったヨエルという人格の最後のひとかけらが、一つの単語を思い浮かべる。
 アルヴァル。
 それは、祈りだった。
 獣の性に自分自身を明け渡そうとしている男の消えゆく理性が、最後に縋った名前だった。
「ヨエル!」
 幻覚が、ヨエルの声に答えた。
 なんと身勝手で、都合の良い幻だろう。それでも、ヨエルは声に向かって手を伸ばした。
「……アルヴァル……!」
「ヨエル!!!」
 そして、心の中に飛び込んできた、アルの存在を抱きしめた。
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