完結【日月の歌語りⅡ】日輪と徒花

あかつき雨垂

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「あなたは昔話ってものをしない」とマタルは言う。
 どの口がそんなことを言うのだろうと、ホラスはその度に思ったものだった。マタルがホラスに話して聞かせた過去はタペストリーの端布はぎれにもならない断片だけで、そこから推測できることなどないに等しい。
 それでも、あの文身いれずみの状態が尋常でないことははっきりと分かる。早く手を打たなければ取り返しがつかなくなると言うことも。
 
 ホラスはエレノア王女が住むブレッチェリー宮殿に馬で乗り付け、護衛を押しのけながら巨大な扉をくぐった。ブライア聖法官の力は衰えていても、肩書きはまだ奪われていない。彼の名のもとに「通せ」と言えば、兵卒は従うしかない。
 ビアトリス・ホーウッドに話を聞きたいと申し出ると、最初に小間使いの下女が、次いで女官頭のレディ・クレイドが立ちはだかった。
 口に出しては言わなかったが、彼女の顔にはありありと『犬殺しの審問官』への侮蔑が表われていた。
「彼女は……あなたとは話したくないそうです。王女のお相手をするのに忙しくて──」
 宮殿の門をくぐってから、ここまで取り次がれるのに二刻かかっていた。大事なひとの命と仕事を天秤にかけざるを得ない状況の者にとって、無駄に待たされる二刻という時間は、怒りを露わにする正当な理由に足る。
 ホラスはクレイドに詰め寄り、食いしばった歯の間から絞り出した。
「さっさとビアトリス・ホーウッドを連れてきてください」革の手袋が軋むほど強く拳を握る。「さもなくば俺が出向いて、王女の前で洗いざらい話してやるぞと伝えるんです。いいですか。彼女がかは、その後で訊いてください」
 クレイドは熊と出くわしたリスのように、小走りで廊下の向こうへと消えていった。
 痛むこめかみを押さえつつ待っていると、衣擦れの音をさせて、ビアトリス・ホーウッドがやって来た。見事なドレスは、一介の付き人が着るものではない。頭には色鮮やかな鳥の羽根飾りをつけ、以前には居なかった侍女も一人連れている。王子との結婚が秒読みに入ったと言うことか。
「乱暴なことをなさらないで」ビアトリスは言った。
 ホラスは事務的な辞儀をした。「火急の用と申し上げました」
「前に会ったときとは、ずいぶん雰囲気が変わったように思えますわ」
「わたしの話をするために来たのではありません」ホラスはピシャリと言った。「妹君の話です」
 ビアトリスは、ほんの一瞬だけホラスを睨んだ。それから侍女を振り向き「この方と二人でお話をします」と言った。
 侍女は怯えた目でホラスを見上げてから、一礼をして来た道を戻っていった。
 ビアトリスは言った。
「礼拝堂へ行きましょう。あそこなら誰にも邪魔されず話が出来ます」
 ホラスは頷いた。「仰せの通りに」
 
「捜査に進展があったから、わざわざ宮殿にまで、わたしを訪ねて下さったのですね」
 こちらの迷惑もかえりみず、というほのめかしを、ホラスは無視した。
「進展があるかどうかは、貴方次第です」
「わたしでお力になれれば良いのだけど」
 そう言って、ビアトリスは祭壇の前に並んだ長椅子に腰掛けた。天窓から降り注ぐ弱々しい光が祭壇の上に置かれた丸い鏡に落ち、そこに小さな太陽を顕現けんげんさせていた。
「力になって頂きます」ホラスは言い、通路を挟んだ反対側の椅子に腰を下ろした。
 ビアトリスはホラスを見返し、冷たく言った。
「まるで、これから尋問されるみたい」
「必要があれば、そうします」
 ビアトリスは唖然とした表情を浮かべた。「どういうことなの? 妹を見つけることが出来なかったから、今度はわたしを疑うつもり?」
「それです」ホラスは言った。「どうか妹を見つけて下さいと、貴方は仰った」
「どこがおかしいの」ビアトリスが腕を組むと、その動きで頭の羽根飾りが揺れた。
「貴方は、エミリアの失踪について、自分には何の咎もないとお考えですか」
「わたくしに?」ビアトリスは訝しげに目を眇めた。彼女の顔貌にかかると、そんな表情さえ美しく見えるから不思議だ。「わたくしには……わからないわ」
 娘の死を悼むメリッサのことを思い出す。あの顔が、かつて快活であったころの美しさを取り戻すことはないだろう。心の傷は癒えず、天に召されるその時まで、娘の死は『あたしのせいだ』と思い続ける。ホラスがマギーの死に責任を感じているのと同じように。
「あの子は弱い子で……身勝手なところがあったわ。父に取り入って矯正院には行きたくないと我が儘を言ったり、家を出たいなどと言ったり──お父様も、あの子には甘いから」
「家を出たいと、彼女は言ったんですね?」
「ええ。でも、そんなこと出来るわけがないでしょう? ホーウッドの娘なのよ」
「そうですか」ホラスは言った。
 ではエミリアは、魔女になることも、家を出ることも許されなかったのだ。失踪ヽヽとは初めから、現実を直視できない者たちが使う言葉だった。
「実は、見て頂きたいものがあります」
 ホラスは鞄の中からエミリアの日記を取り出し、謎めいた文章が書き殴られた、とあるページを見せた。
「それは……何なのです? 落書きかしら」
「ウィッカムは、このページを見るなり聖印を切りました」
「どういうこと?」
「これは、未完成の呪文です。こうした言葉が頭の中から溢れ出るのは、魔女になる兆しのひとつだ」ホラスは日記を閉じ、再び鞄にしまった。「これが何なのか、あなたには理解できなかった。それが普通の人間の反応です。ウィッカムは何故、ひと目見ただけで理解したんでしょう」
 ビアトリスはわずかに顔をしかめた。
「前にも……見たことがあったから?」
「おそらく、そうでしょう。この日記は、一度盗まれているんです」
「ウィッカムがそんなことを? では、あなたは彼を疑っているの?」
「ええ。王港管理官が魔女のことに詳しいのは不自然だ。変異し始めの魔女を見分けるのは、審問官でも難しいのです」
 彼女は合点がいったというように目を丸くし、息を吸い込んだ。
「あの男が妹を連れ去ったのね!」
 ホラスは興味をひかれて、身を乗り出した。「何故そう思われます?」
「彼はこの日記を見て、あの子が魔女だと確信したのよ。それで結婚するのが嫌になったから、エミリアを始末したんだわ! なんて非道ひどい」
「あなたはどうしても、エミリアに居なくなって欲しいんですね?」ホラスは、椅子の上で足を組んだ。「貴方は、ウィッカムが逃げ場を失ったエミリアを哀れみ、どこかへ逃がしたとは考えない」
 ビアトリスの優美さの仮面に、ひびが入った。「それは──」
「ウィッカムが、この結婚をみすみす棒に振るとは思えません。結婚がうまくいけば、莫大な持参金と、王家とのつながりさえ手に入れることが出来るのだから。魔女であることに目をつぶりさえすればね」
「何が言いたいの?」
「ウィッカムが絡んでいることは間違いない。だが、動機の強さに欠けます。どうでしょう、例えばもし──あなたが彼をそそのかしたのだとしたら?」
 ビアトリスの表情が凍り付いた。
「エミリアを矯正院へ送ることを、父君は躊躇った。となれば、あなたと王子との縁談を守るためには、彼女が魔女であることを隠し通すしかない。ウィッカムのような男との婚約は、父君がエミリアの結婚を焦った結果なのではありませんか。身を落ち着かせれば魔女が治るヽヽと考える者は多い」
「全部でたらめよ。自分が何を言っているか、おわかりなの?」
「ウィッカムは多くの過ちを犯している。そのうちのひとつを、上司の娘であるあなたが掴めば、言うことを聞くしかない」
「馬鹿げているわ、そんな──」
「エミリアは社交界への披露を控えていた。王族の一員として宮廷入りすることも決まっている」ホラスは言った。「ゲラード殿下のナドカ好きは有名です。もしもこのことが王子に伝わったら? 妹の方が彼の気を惹いてしまうかも知れない。寵愛が移るのは宮廷では日常茶飯事だ。あなたはそれを恐れたのでは?」
 彼女が手を振りかぶるのは見えていたが、避けなかった。鋭い平手打ちに、頬がじんと痺れる。
「無礼な!」ビアトリスは、震える声で言った。
 ホラスは、静かな目で彼女を見つめ返した。「身を隠すとしたら誰のところだと思うかと尋ねた時、あなたは『自分のところ』とは言わなかった。そのことに傷ついたそぶりさえありませんでした。血の繋がった姉には、真っ先に助けを求めそうなものなのに」
「そんなこと……!」
 ビアトリスの顎が強ばり、頬が赤らむ。浅い呼吸を鎮めるために深呼吸をして、彼女は言った。
「すべて、憶測に過ぎないわ」
「ええ、その通りです。証拠はどこにもない」
 ビアトリスはうわずった笑い声をあげた。「あきれた! それでも審問官のつもり?」
 ホラスは肩をすくめた。「ええ。人手不足なのは否めませんが」
「もしも貴方の言うことが正しいとして──もちろん、証拠はないけれど」ビアトリスは人差し指を立てた。「でも、いい? あの子だってわたしに感謝したはず。ホーウッドの娘なのよ。おかしな魔女の仲間になって家名を汚せば、その罪に死ぬまで苦しむことになる」
「エミリアは、あなたに行き先を告げたんですか?」
 ビアトリスは小さく肩をすくめた。「もちろん、留まるよう説得したわ。けれどわたしはここを出られないし、秘密の手紙をやりとりするにも限度があったの。だから、あの子が何処へ消えようと、わたしには何の責任もない」
「秘密の手紙の運び手は誰です?」
 彼女は『何のことだか』という顔をしてみせた。
「ウィッカムの身分では、宮殿に出入りできないでしょうね。だが、劇場なら多少は自由がきく。エレノア王女の芝居好きは有名だ。ストーン座へは、月に何度足を運ぶんです? ウィッカムとはどれほど頻繁に話をするんですか?」
 ビアトリスの目が、微かに泳いだ。「あなたに教えるつもりはありません」
 ホラスは深いため息をついた。
「結構です」
 そして、膝に手をついて立ち上がり、ビアトリスに手を貸した。彼女が立ち上がると、ホラスは言った。
「貴方の反応を見たかっただけなので」
 ビアトリスは小さく笑った。「負け惜しみは似合わないわよ、サムウェル審問官」
「褒め言葉と受け取りましょう」
 ホラスはそう言い、ビアトリスの髪飾りに手を伸ばした。驚いて身を引いた彼女は、ホラスの手の中にあるものを見て、とっさに悲鳴を上げた。
「いやだ! 何なの!」
「ご安心を。作り物です」ホラスは、手のひらの上でカチカチと機構を鳴らす絡繰り仕掛けの蠍を見せた。「近頃、妙な玩具が流行っているようで」
「え、ええ。そうね」ビアトリスは不安そうに髪に何度も手をやった。「ありがとう」
 ホラスは辞儀をした。「こちらこそ、お時間をとらせました」
「今度来るときには、前もってお知らせして頂きたいわ」ビアトリスは言った。「いつでも、急なお客様に対応できる時ばかりではないのよ──いろいろと準備があるから。おわかりでしょう?」
「ええ、そうですね」
 ホラスは礼拝堂を出て、彼女に向き直った。
「あなたは『みつけてほしい』と仰った」
 ビアトリスが眉をひそめる。「なんですって?」
「身を案じているなら……愛しているなら、そっとしておいてあげてほしいと望んだのではないですか」
 ビアトリスの顔から、表情が消えた。その瞬間、ホラスは彼女の素顔を見たと思った。
「あなたは何も分かってないわ」ビアトリスは言った。「まるでお父様みたい。感情に振り回されて。でも、それってとても愚かなことよ」
「覚えておきます、レディ・ホーウッド」
 ホラスは丁寧な辞儀をした。それから、立ち尽くす彼女をふり返ることなく、空疎な廊下を歩いて、出口を目指した。
 
 周りに人が居なくなったのを見計らって、金属の蠍を取りだし、指先で軽くつつく。すると、蠍はビアトリスの声でこう言った。
『彼はこの日記を見て、あの子が魔女だと確信したのよ。それで結婚するのが嫌になったから、エミリアを始末したんだわ!』
 ホラスは蠍を小物入れにしまった。
「俺は、あの日記がエミリアのものだなんて言ってない」
 日記を盗んだのははビアトリスとウィッカムの二人だ。近しい者だからこそ、エミリアは誰にも言うことが出来なかったのだろう。日記を見た二人が彼女に何を言ったにせよ、守護の護符を作るほどの危険を感じたのは確かだ。
 だが、エミリアは日記を捨てなかった。最後には、それが彼女を守る武器になることを知っていたのだ。結局、守り切ることは出来なかったが。
 あの二人は、日記を見たのが初めてではないことを隠蔽した。その事実こそが、二人が結託してエミリアを陥れたことの何よりの証拠だ。ホラスが何故あの日記を持っているのかを尋ねなかったのは、手に入れたいきさつをウィッカムから聞かされていたからか。
 ビアトリス。日記を見て聖印を切らなかったところまでは、ウィッカムより上手うわてだった。だが、墓穴を掘ったのには変わりはない。
 一刻も早く、ブライア卿に報告しなければ。
 ホラスは足早に厩を目指した。宮殿の前庭を横切り、屋敷の角を曲がったところで、黒い影に行く手を塞がれた。
 そこに立っていたのは、あの眼帯の男だった。
「貴様──!」
 身構える前に、頭を殴られた。そして地面に倒れ込む前に、ホラスは意識を失っていた。
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