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暗闇の中に、金色の雫がしたたる。
金の雫が零れ、ゆっくりと、自分を満たしてゆく。意識の外側にありながら、同時に自分の内側にも存在している、その暗闇。
金色の雫が滴るたび波紋を投げかける世界を、一人歩く。そうして気づくと、視界の果てまで続く砂漠のただ中に、ホラスは立っている。
ああ、まただ。また、この夢なのか。
焦燥。そして殺戮の夢。
止めなければならない。
あれを止めなければならない。
静まりかえった砂の世界に突き立てられた火刑の柱。天にまで届くかと思うほど高く掲げられている。
その先端に、彼女がいる。密かに憧れていた。大きくなったら、結婚を申し込もうと思っていた。幼心に、本気だった。
橙色の雲の隙間から、妙に無色な日の光が差し込む。その強い光が彼女を照らすと、彼女の身体に火がついた。
絶叫。
耳をつんざく悲鳴に砂という砂が震え、滑らかな地表に波紋が現れる。九重に連なる波──その中心に、ふたりがいる。
肌を蝕む炎に身を捩りながら、彼女は言う。
「ホラス、ホラス、助けて」
彼女の身体は轟々と音を立てて燃え上がっていた。金色の炎。毒々しいほどの金。
炎が、美しい彼女の髪を食い散らかす。松明のように、頭が炎に包まれる。皮膚が裂け、血が流れ、熱に沸き立ちながら、白い柱を伝って落ちる。
俺は柱を駆け上る。彼女の身体にしがみつき、なんとかして炎を剥がそうとする。
けれど、上手くいかない。
「すまない」
許しを請うのは愚かなことだとわかっていた。それでも、それ以外に口に出来る言葉がない。
「ああ、すまない」
焦げた唇が、軋みながら開く。
「ホラス」
千々に引き裂かれた喉からこみ上げる声は憎しみに滾っている。
吾が名を喚べ
焔絶えども 熾火は眠らず
塵灰と散れど 滅びはせず
また、あの歌だ。耳を塞ぎたいのに、できない。手を放せば、真っ逆さまに落ちてしまう。
許しを請うのは愚かなことだとわかっていた。なのに、どうして謝ってしまったのだろう。そんなことでは、この罪は贖えない。
「ホラス、どうして……」
いやだ、聞きたくない。聞きたくない。
その言葉を、俺に聞かせないでくれ!
気づくと、場面ががらりと変わっていた。
わたしは重い扉を力一杯押していた。虚ろな岩屋。その奥で、彼女が燃えている。早く閉じ込めてしまわなければ。聞きたくない言葉を聞いてしまう。
天よ 総ての星星よ
天下に震う 砂礫よ
喚べよ 吾が名を
吾が名を 喚べよ
吾が名を誰ぞ 喚び給え
夢の中の自分に向かって叫ぶ。
──はやく、その扉を閉じろ!
重い音を立てて扉が閉まる。早く封じ込めてしまわなければ……だが、閂をかける直前──髪の毛一本分の隙間から、その言葉は滑り出た。
「あなたが、わたしを殺した」
違う。
「違う。俺じゃないんだ。本当に」
本当に?
本当に、俺じゃないのか?
そしてまた、金色の雫がしたたる……。
†
悪夢に魘される彼の姿を、暗闇に蹲って眺める。
こんな風に夜を過ごすのも、もう何度目になるだろうか。それは通り雨のように終わることもあるし、夏の夜の嵐のように激しく長く続くこともある。その全てを、マタルは見ていた。
はじめて彼の悪夢を見たのは、マタルが十六歳になり、彼の復讐を手伝うという契約を結んだ直後だった。
ようやく追い詰めた魔女狩りの実行犯の最初の一人を、二人がかりで縛り上げ、どこかの森にある、忘れ去られた狩猟小屋に閉じ込めた。ホラスは、仇と二人きりになりたいからと、マタルを小屋の外に立たせ、周囲を見張らせた。
やがて男の悲鳴が聞こえてきた。悲鳴と、怒号と、懇願。啜り泣く声と、意味を成さない呟きが。
拷問をしているのだと、すぐにわかった。彼が刑吏としての修行を受けていたのは知っていたから。
やがて、静まりかえった小屋から出てきたホラスと、二人で死体を埋めた。彼が人を殺したのは、あれが初めてだったんじゃないかとマタルは思う。彼はあの日から、それまでのホラスとは別の生き物になったのだ。
その夜、ホラスはひどく魘された。忍び込んだ部屋には、普段この家では目にしたこともないような量の酒瓶が転がっていた。それが、彼の悪夢を見た最初の夜だった。
酒で苦しみを流し去ることなどできないと知っているのに、彼はそうして救いを求める。そして裏切られ、悪夢を見る。
今日の聖堂で見たものがホラスに悪夢をもたらすとわかっていたから、マタルは自分の部屋で、眠らずに待っていた。うめき声が聞こえてきたのは朝が近くなってからだ。マーサや、彼女の息子のジョシュに見つかると止められてしまうので、そうならないよう静かに部屋を抜け出し、ホラスの部屋に忍び込んだ。
案の定、部屋の中には酒のにおいが充満していた。そんなもので自分を救うことはできないと、もうそろそろ気づいても良さそうなものなのに。
ホラスは、自分自身を苦しめるものについて語らない。だから、彼が見ているのが単なる悪夢なのか、それとも悪夢の仮面をかぶった記憶なのかどうか、マタルにはわからなかった。
「やめろ……」
顔には苦悶の表情がはっきりと浮かんでいる。きつく閉じられた瞼の下で、眼球がせわしなく動いているのがわかる。強ばる身体には筋が浮き、まるで本当に、肉体が責め苦を味わっているかのようだ。長い髪は寝台の上で乱れ、汗水漬くの肌に張り付いていた。
「やめてくれ……」
自分の弱さに触れられることを、彼はよく思わない。彼は、弱さとは己一人で向き合わなければならないものだと思っているようだった。
けれど、ホラスは今までに何度も、マタルの弱さを救ってきた。マタル自身も気づいていなかった弱みさえも。
ダイラは閉鎖的な島国だから、異国の人間はとかく目立つ。この国に来ると決めたのは自分だ。とは言え、人々の蔑みの眼差しに晒されると、心がすり減っていくのがわかる。マタルは紛れもなくナドカであり、異国人でもある。ダイラの人間にしか与えられない特権をもたぬが故に、足を掬われるなんてことはしょっちゅうだ。
そんなとき、ホラスはいつも、『お前は間違っていない』ということを態度で示してくれた。今日、聖堂でそうしてみせてくれたように。
彼が味方でいてくれることが、どれほど自分を救ってくれるか、言葉では言い表せない。
「俺は間違ってない」マタルは口の中で呟いた。「そうだ。間違ってない」
意を決し、ホラスの肩に手を置いて揺さぶった。
「ホラス」
鋭く息を吸い込む音。汗と体温が染みこんだ寝間着の下で、ホラスの身体が強ばる。混乱と警戒に不明瞭な唸り声を上げながら、ホラスはマタルの手から逃れようと身をよじった。見開かれた目はこちらを見ていた。だが闇に慣れていないせいで、正体まで見えないのだろう。
「ホラス、俺だよ」
もう一度囁く。一瞬の沈黙の後、彼は目を閉じ、深いため息をついた。立てた膝に覆い被さるようにうつむいて、乱れた髪を両手で掻き上げる。
「すまない」頭を抱えたまま、彼は言った。「起こしてしまうほどやかましかったか」
「そうじゃない」マタルは横に首を振った。「ただ……あなたのそばにいたくて」
ホラスはゆっくりと顔を上げた。朧月が投げかける光は弱くて、表情がよく見えない。
「寝物語などいかが? むかしむかし、あるところに──」マタルは冗談めかして言った。「それとももっと……疲れ果ててしまうようなことでもいい」
今度は、跨がったまま迫ってみたら? というルーシャの言葉を頭から閉め出して、マタルはホラスの腕にそっと手を置いた。
すると、ホラスは小さく笑った。
「マタル……ありがとう」
それは、この上なく優しい拒絶だった。
「そんなことを言わせて、申し訳ないと思っている」ホラスは言った。
「どうして? 俺はただ──」
「マタル」ホラスはきっぱりとした声で遮った。「俺はお前の弱みにつけ込んで、自分の復讐の片棒を担がせている男だ」
「でも、俺を守ってくれてる。言葉を教えてくれたし──仕事だって」
「俺は、お前を利用してるんだ」
穏やかな口調だった。だからといって、言葉の強さが和らぐわけではない。
「そんなのは……お互い様だ」
ホラスは首を振った。「お前は、これ以上俺のために何かを差し出さなくていい」
「でも──」
「マタル」
彼は、腕に置いたマタルの手をそっと下ろさせた。温かい手は、悪夢の名残にまだ微かに震えていた。
ホラスは言った。「やめてくれ」
そんな風に言われたら、引き下がるしかない。
「わかった」マタルは手を引っ込めた。「わかったよ、ホラス」
「全てが終わったら、必ずお前を自由の身にする。お前の望みを叶えるために、命をかけて力を尽くすと約束する。お前はそれだけのことをしてくれているんだ」
マタルは無言で頷いた。
「そしていつか……お前にもっと相応しい相手が現れる」ホラスは諭すように言った。「その時になって、後悔したくないだろう?」
マタルは目を閉じた。
ああ……俺は、その声に、その話し方に恋をしたのだ。
生まれた時から遠ざけられ、疎ましがられてきた。魔神の力を受け継いでしまった後は、唯一の理解者だった姉からも憎まれた。人を慈しむ言葉がもつ力を、教えてくれたのはホラスだ。ただ一人、俺を必要としてくれたのも。
けれど、叶わない。
人生を賭けた復讐の先に、彼がなにをも思い描いていないことは知っていた。そしてマタル自身にも、彼と共に歩む未来を望めない理由があった。
それでも……戯れのふりで誤魔化してでも、求めずには居られないのだ。
「後悔するのはどっちだか」
マタルが明るく言うと、ホラスも笑った。
「ああ、そうだな」
笑顔の仮面に入ったぎこちなさの皹に気づかれぬうちに、マタルはホラスを寝台に押し戻した。
「ほら。目を閉じて」
「何を──」
「いいから、言うとおりにしてくれよ。俺だって寝不足なんだ」
「わかった」
ホラスが目を閉じたのを確認してから、マタルも深呼吸をして目を閉じ、砕けた心の破片がもたらす痛みを意識の外に追い出した。
降れよ慈雨
灼熱の砂の如き懊悩を鎮めよ
眠れ獅子 猛虎よ眠れ
今宵ばかりは 岩窟に隠い
尖鋭き歯牙を 夢寐に沈めよ
清浄き慈雨の降るほどに
痛苦みは解けぬ 白銀の砂原
審問官の家で魔法を使うことは許されない。だからこれは、なんの力も持たない、ただの戯れ詩だ。それでも──意味がわからないはずの一連の焔語に、ホラスの呼吸はゆっくりと深くなっていった。
「ありがとう」ホラスの呂律がたどたどしい。「マタル……すまない」
「さっさと眠れってば」マタルは言った。「健やかに目覚めんことを、ホラス」
マタルはしばらく、幾分穏やかになったホラスの寝顔を見つめていた。
眠る彼に口づけをしようか、ずいぶん長い間迷っていた気がする。けれど、諦めた。
ようやく自室に引き返したとき、東向きの窓は青い黎明に染まっていた。その青を目にした瞬間、あれが始まった。
「ぐ、う……っ」
背中で蠢く文身が、マタルを責め立てるように疼く。腰から始まった痛みは、あっという間に背中にまで広がった。身体が重くなり、息が苦しい。マタルは寝台までたどり着くことが出来ず、床の上にしゃがみこんでしまった。
「あ……く……ちくしょう……」
この時間は、いつもこうだ。文身に宿る魔神が、身体の中で好き勝手に暴れる。まるで夜が終わることに憤っているみたいに。
封鐶に貫かれた耳朶がズキズキと痛む。魔力が漏れ出てしまうのではないか──この家に住む皆を傷つけるのではないかと、それが怖ろしい。マタルは両耳を押さえ込み、歯を食いしばった。
痛みは、日を追うごとにひどくなっている。それが何を意味するのか、考えるまでもなかった。
大きな姿見に映った自分の姿を見る。
おぞましい文様が、びっしりと肌を覆っていた。これがお前の末路だと思い知らせるかのように。
これが、未来を望めない理由だ。
「まだ駄目だ」マタルは囁いた。「もう少し待ってくれ、もう少しだけ」
せめて、この想いを告げるまで。
せめて、ホラスが復讐を遂げるまで。
せめて、この事件を解決するまでは、待ってくれ。
だが、いくら懇願しても疼きは止まなかった。マタルは震える手で、腰に帯びた小物入れの中を探った。隠し底の下に収まった、油紙の包みを指先で確かめる。紙の中には、小さな丸薬。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
まだだ。まだ、その時じゃない。まだ耐えられる。まだ……。
その思いをあざ笑うかのように、苛むような痛みは激痛に変わり、やがてマタルは、気を失うように眠りに落ちた。
金の雫が零れ、ゆっくりと、自分を満たしてゆく。意識の外側にありながら、同時に自分の内側にも存在している、その暗闇。
金色の雫が滴るたび波紋を投げかける世界を、一人歩く。そうして気づくと、視界の果てまで続く砂漠のただ中に、ホラスは立っている。
ああ、まただ。また、この夢なのか。
焦燥。そして殺戮の夢。
止めなければならない。
あれを止めなければならない。
静まりかえった砂の世界に突き立てられた火刑の柱。天にまで届くかと思うほど高く掲げられている。
その先端に、彼女がいる。密かに憧れていた。大きくなったら、結婚を申し込もうと思っていた。幼心に、本気だった。
橙色の雲の隙間から、妙に無色な日の光が差し込む。その強い光が彼女を照らすと、彼女の身体に火がついた。
絶叫。
耳をつんざく悲鳴に砂という砂が震え、滑らかな地表に波紋が現れる。九重に連なる波──その中心に、ふたりがいる。
肌を蝕む炎に身を捩りながら、彼女は言う。
「ホラス、ホラス、助けて」
彼女の身体は轟々と音を立てて燃え上がっていた。金色の炎。毒々しいほどの金。
炎が、美しい彼女の髪を食い散らかす。松明のように、頭が炎に包まれる。皮膚が裂け、血が流れ、熱に沸き立ちながら、白い柱を伝って落ちる。
俺は柱を駆け上る。彼女の身体にしがみつき、なんとかして炎を剥がそうとする。
けれど、上手くいかない。
「すまない」
許しを請うのは愚かなことだとわかっていた。それでも、それ以外に口に出来る言葉がない。
「ああ、すまない」
焦げた唇が、軋みながら開く。
「ホラス」
千々に引き裂かれた喉からこみ上げる声は憎しみに滾っている。
吾が名を喚べ
焔絶えども 熾火は眠らず
塵灰と散れど 滅びはせず
また、あの歌だ。耳を塞ぎたいのに、できない。手を放せば、真っ逆さまに落ちてしまう。
許しを請うのは愚かなことだとわかっていた。なのに、どうして謝ってしまったのだろう。そんなことでは、この罪は贖えない。
「ホラス、どうして……」
いやだ、聞きたくない。聞きたくない。
その言葉を、俺に聞かせないでくれ!
気づくと、場面ががらりと変わっていた。
わたしは重い扉を力一杯押していた。虚ろな岩屋。その奥で、彼女が燃えている。早く閉じ込めてしまわなければ。聞きたくない言葉を聞いてしまう。
天よ 総ての星星よ
天下に震う 砂礫よ
喚べよ 吾が名を
吾が名を 喚べよ
吾が名を誰ぞ 喚び給え
夢の中の自分に向かって叫ぶ。
──はやく、その扉を閉じろ!
重い音を立てて扉が閉まる。早く封じ込めてしまわなければ……だが、閂をかける直前──髪の毛一本分の隙間から、その言葉は滑り出た。
「あなたが、わたしを殺した」
違う。
「違う。俺じゃないんだ。本当に」
本当に?
本当に、俺じゃないのか?
そしてまた、金色の雫がしたたる……。
†
悪夢に魘される彼の姿を、暗闇に蹲って眺める。
こんな風に夜を過ごすのも、もう何度目になるだろうか。それは通り雨のように終わることもあるし、夏の夜の嵐のように激しく長く続くこともある。その全てを、マタルは見ていた。
はじめて彼の悪夢を見たのは、マタルが十六歳になり、彼の復讐を手伝うという契約を結んだ直後だった。
ようやく追い詰めた魔女狩りの実行犯の最初の一人を、二人がかりで縛り上げ、どこかの森にある、忘れ去られた狩猟小屋に閉じ込めた。ホラスは、仇と二人きりになりたいからと、マタルを小屋の外に立たせ、周囲を見張らせた。
やがて男の悲鳴が聞こえてきた。悲鳴と、怒号と、懇願。啜り泣く声と、意味を成さない呟きが。
拷問をしているのだと、すぐにわかった。彼が刑吏としての修行を受けていたのは知っていたから。
やがて、静まりかえった小屋から出てきたホラスと、二人で死体を埋めた。彼が人を殺したのは、あれが初めてだったんじゃないかとマタルは思う。彼はあの日から、それまでのホラスとは別の生き物になったのだ。
その夜、ホラスはひどく魘された。忍び込んだ部屋には、普段この家では目にしたこともないような量の酒瓶が転がっていた。それが、彼の悪夢を見た最初の夜だった。
酒で苦しみを流し去ることなどできないと知っているのに、彼はそうして救いを求める。そして裏切られ、悪夢を見る。
今日の聖堂で見たものがホラスに悪夢をもたらすとわかっていたから、マタルは自分の部屋で、眠らずに待っていた。うめき声が聞こえてきたのは朝が近くなってからだ。マーサや、彼女の息子のジョシュに見つかると止められてしまうので、そうならないよう静かに部屋を抜け出し、ホラスの部屋に忍び込んだ。
案の定、部屋の中には酒のにおいが充満していた。そんなもので自分を救うことはできないと、もうそろそろ気づいても良さそうなものなのに。
ホラスは、自分自身を苦しめるものについて語らない。だから、彼が見ているのが単なる悪夢なのか、それとも悪夢の仮面をかぶった記憶なのかどうか、マタルにはわからなかった。
「やめろ……」
顔には苦悶の表情がはっきりと浮かんでいる。きつく閉じられた瞼の下で、眼球がせわしなく動いているのがわかる。強ばる身体には筋が浮き、まるで本当に、肉体が責め苦を味わっているかのようだ。長い髪は寝台の上で乱れ、汗水漬くの肌に張り付いていた。
「やめてくれ……」
自分の弱さに触れられることを、彼はよく思わない。彼は、弱さとは己一人で向き合わなければならないものだと思っているようだった。
けれど、ホラスは今までに何度も、マタルの弱さを救ってきた。マタル自身も気づいていなかった弱みさえも。
ダイラは閉鎖的な島国だから、異国の人間はとかく目立つ。この国に来ると決めたのは自分だ。とは言え、人々の蔑みの眼差しに晒されると、心がすり減っていくのがわかる。マタルは紛れもなくナドカであり、異国人でもある。ダイラの人間にしか与えられない特権をもたぬが故に、足を掬われるなんてことはしょっちゅうだ。
そんなとき、ホラスはいつも、『お前は間違っていない』ということを態度で示してくれた。今日、聖堂でそうしてみせてくれたように。
彼が味方でいてくれることが、どれほど自分を救ってくれるか、言葉では言い表せない。
「俺は間違ってない」マタルは口の中で呟いた。「そうだ。間違ってない」
意を決し、ホラスの肩に手を置いて揺さぶった。
「ホラス」
鋭く息を吸い込む音。汗と体温が染みこんだ寝間着の下で、ホラスの身体が強ばる。混乱と警戒に不明瞭な唸り声を上げながら、ホラスはマタルの手から逃れようと身をよじった。見開かれた目はこちらを見ていた。だが闇に慣れていないせいで、正体まで見えないのだろう。
「ホラス、俺だよ」
もう一度囁く。一瞬の沈黙の後、彼は目を閉じ、深いため息をついた。立てた膝に覆い被さるようにうつむいて、乱れた髪を両手で掻き上げる。
「すまない」頭を抱えたまま、彼は言った。「起こしてしまうほどやかましかったか」
「そうじゃない」マタルは横に首を振った。「ただ……あなたのそばにいたくて」
ホラスはゆっくりと顔を上げた。朧月が投げかける光は弱くて、表情がよく見えない。
「寝物語などいかが? むかしむかし、あるところに──」マタルは冗談めかして言った。「それとももっと……疲れ果ててしまうようなことでもいい」
今度は、跨がったまま迫ってみたら? というルーシャの言葉を頭から閉め出して、マタルはホラスの腕にそっと手を置いた。
すると、ホラスは小さく笑った。
「マタル……ありがとう」
それは、この上なく優しい拒絶だった。
「そんなことを言わせて、申し訳ないと思っている」ホラスは言った。
「どうして? 俺はただ──」
「マタル」ホラスはきっぱりとした声で遮った。「俺はお前の弱みにつけ込んで、自分の復讐の片棒を担がせている男だ」
「でも、俺を守ってくれてる。言葉を教えてくれたし──仕事だって」
「俺は、お前を利用してるんだ」
穏やかな口調だった。だからといって、言葉の強さが和らぐわけではない。
「そんなのは……お互い様だ」
ホラスは首を振った。「お前は、これ以上俺のために何かを差し出さなくていい」
「でも──」
「マタル」
彼は、腕に置いたマタルの手をそっと下ろさせた。温かい手は、悪夢の名残にまだ微かに震えていた。
ホラスは言った。「やめてくれ」
そんな風に言われたら、引き下がるしかない。
「わかった」マタルは手を引っ込めた。「わかったよ、ホラス」
「全てが終わったら、必ずお前を自由の身にする。お前の望みを叶えるために、命をかけて力を尽くすと約束する。お前はそれだけのことをしてくれているんだ」
マタルは無言で頷いた。
「そしていつか……お前にもっと相応しい相手が現れる」ホラスは諭すように言った。「その時になって、後悔したくないだろう?」
マタルは目を閉じた。
ああ……俺は、その声に、その話し方に恋をしたのだ。
生まれた時から遠ざけられ、疎ましがられてきた。魔神の力を受け継いでしまった後は、唯一の理解者だった姉からも憎まれた。人を慈しむ言葉がもつ力を、教えてくれたのはホラスだ。ただ一人、俺を必要としてくれたのも。
けれど、叶わない。
人生を賭けた復讐の先に、彼がなにをも思い描いていないことは知っていた。そしてマタル自身にも、彼と共に歩む未来を望めない理由があった。
それでも……戯れのふりで誤魔化してでも、求めずには居られないのだ。
「後悔するのはどっちだか」
マタルが明るく言うと、ホラスも笑った。
「ああ、そうだな」
笑顔の仮面に入ったぎこちなさの皹に気づかれぬうちに、マタルはホラスを寝台に押し戻した。
「ほら。目を閉じて」
「何を──」
「いいから、言うとおりにしてくれよ。俺だって寝不足なんだ」
「わかった」
ホラスが目を閉じたのを確認してから、マタルも深呼吸をして目を閉じ、砕けた心の破片がもたらす痛みを意識の外に追い出した。
降れよ慈雨
灼熱の砂の如き懊悩を鎮めよ
眠れ獅子 猛虎よ眠れ
今宵ばかりは 岩窟に隠い
尖鋭き歯牙を 夢寐に沈めよ
清浄き慈雨の降るほどに
痛苦みは解けぬ 白銀の砂原
審問官の家で魔法を使うことは許されない。だからこれは、なんの力も持たない、ただの戯れ詩だ。それでも──意味がわからないはずの一連の焔語に、ホラスの呼吸はゆっくりと深くなっていった。
「ありがとう」ホラスの呂律がたどたどしい。「マタル……すまない」
「さっさと眠れってば」マタルは言った。「健やかに目覚めんことを、ホラス」
マタルはしばらく、幾分穏やかになったホラスの寝顔を見つめていた。
眠る彼に口づけをしようか、ずいぶん長い間迷っていた気がする。けれど、諦めた。
ようやく自室に引き返したとき、東向きの窓は青い黎明に染まっていた。その青を目にした瞬間、あれが始まった。
「ぐ、う……っ」
背中で蠢く文身が、マタルを責め立てるように疼く。腰から始まった痛みは、あっという間に背中にまで広がった。身体が重くなり、息が苦しい。マタルは寝台までたどり着くことが出来ず、床の上にしゃがみこんでしまった。
「あ……く……ちくしょう……」
この時間は、いつもこうだ。文身に宿る魔神が、身体の中で好き勝手に暴れる。まるで夜が終わることに憤っているみたいに。
封鐶に貫かれた耳朶がズキズキと痛む。魔力が漏れ出てしまうのではないか──この家に住む皆を傷つけるのではないかと、それが怖ろしい。マタルは両耳を押さえ込み、歯を食いしばった。
痛みは、日を追うごとにひどくなっている。それが何を意味するのか、考えるまでもなかった。
大きな姿見に映った自分の姿を見る。
おぞましい文様が、びっしりと肌を覆っていた。これがお前の末路だと思い知らせるかのように。
これが、未来を望めない理由だ。
「まだ駄目だ」マタルは囁いた。「もう少し待ってくれ、もう少しだけ」
せめて、この想いを告げるまで。
せめて、ホラスが復讐を遂げるまで。
せめて、この事件を解決するまでは、待ってくれ。
だが、いくら懇願しても疼きは止まなかった。マタルは震える手で、腰に帯びた小物入れの中を探った。隠し底の下に収まった、油紙の包みを指先で確かめる。紙の中には、小さな丸薬。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
まだだ。まだ、その時じゃない。まだ耐えられる。まだ……。
その思いをあざ笑うかのように、苛むような痛みは激痛に変わり、やがてマタルは、気を失うように眠りに落ちた。
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