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いくら王でも休息は必要だ。本当ならば、今朝はクヴァルドとしばしの朝寝を愉しむことが出来る算段だった。ところが、不意の来訪の報せに、ヴェルギルの計画は跡形もなく引き裂かれた。
威光を見せつけるために臣下をずらりと並べた謁見の間で主君を演じる様子を、いつもどこか遠くから冷静な目で見ている自分がいる。偉ぶる王に追従するためだけに温かい寝床を後にしなければならない臣下たちの気持ちは、ヴェルギルもよくわかっているつもりだった。
だが、今朝は様子が違った。玉座の間には、触れれば怪我をするほどにぴんと張り詰めた緊張感が漲っていた。いつもは、『それが責務だから』というだけでこの場にやって来る者たちですら、目の前の異邦人を食い入るように見つめている。
「ラーニヤ・ハフサ=サーリヤ殿!」
ロドリックが呼ばうと、彼女は王座の前に敷かれた深緑の絨毯の上をやって来た。両手、両脚に幾重にも重ねづけされた糸のように細い金輪が、歩く度にシャラシャラと音を立て、緊張感に満ちた静寂を支配する。
寝込みを襲うとは感心しない、という冗談が通じる相手ではなさそうだとヴェルギルは思った。
彼女はそこに居るだけで、この場の空気を一変させていた。
黒い飾面にも、身体の輪郭を覆い隠すトーブにも、荘厳な獅子の金刺繍が施されている。薄手のシルクを幾重にも重ねた装束の合間から見えるのは、意志の強さを物語る目元と、ほっそりとした四肢の先だけだ。それでも、彼女が強い魔力を持った魔女であることはわかる。
アシュモールの魔女が、このエイルにやって来るとは。
ラーニヤという名の魔女は、ヴェルギルの前まで来ると優雅に片膝をついた。ふわりとたなびくシルクから、濃厚な薔薇の香りが漂う。
「慈悲深き海の光たる国王陛下。再びの御即位、お慶び申し上げます」
ラーニヤの声は低く落ち着いていて、リュートの最も太い弦を思わせる。アシュモールの魔女は言葉とその響きを操る。彼女は強力な魔力に相応しい、優れた技能を持っているらしい。
「温かい言葉、痛み入る」ヴェルギルは言った。
さて、名高きサーリヤ族の巫女が携えてきたのは、どんな厄介ごとか。
「助けを求めて来られたと聞いている。産声を上げたばかりの我が国は、どのようにして手を差し伸べることができるだろうか」
あまり過度な期待するなという意図が伝わったのか、飾面から覗く目元に理解の光が宿った。
「単刀直入に申します、陛下」ラーニヤはよく通る声で言った。「我々サーリヤ族の魔女は、ある男を探しております。彼は我々の部族の宝を盗み、国外へと逐電しました」
「その者がエイルにいると?」
「いいえ。わたしの占によりますれば、彼はダイラに潜伏しております」
ヴェルギルは目を眇めた。
「ならば何故、エイルに助けを求める?」
「何故なら」その視線を、ラーニヤは真っ向から受け止めた。「人間や、並のナドカでは彼を捕らえることが出来ぬからです。そして……御身は並外れたナドカであり、我らの朋でもある。他ならぬ貴方が、千年前に我らと同盟を結ばれました。シルリク・エイラ・ルウェリン陛下」
その名で呼ばれて、朽ちて砂になってしまったと思っていた記憶が蘇る。
ああ。確かにそうだ。
千年前、このエイルが人間ばかりの国であったときのこと。ヴェルギルは当時の王として、〈まつろわぬ神〉──すなわち異端としてカルタニアから追放された月神の巫女を保護した。しかし、それを理由に陽神派から侵略を受ける危険性があった。戦を防ぐため、ヴェルギルはいくつかの策を講じた。そのひとつが、月神を信仰する国や部族との同盟だ。当時アシュモールで月神を信仰していた彼女たちの部族と結んだ盟約は……確かに、破られてはいない。
「そして貴方の御子が、我々に真の月の力を授けてくださった」ラーニヤは静かに付け加えた。「その縁に、望みをかけているのです。これは我が一族だけの問題ではありません。放っておけば、ナドカと人間の別を問わぬ災いとなります」
ヴェルギルは、小さく頷いて先を促した。「では、聞こう」
ラーニヤは辞儀をして、語りはじめた。
「およそ八百年前、マナールという名の巫女が、滅びた都に封じられた魔神と出会いました。魔神は彼女に『この封印を解けば、ある約束と引き換えに冥府の門をこじ開ける力を与えよう』と持ちかけました。マナールはその提案を受け入れ……そして、アシュモールの魔女の中で最も強大な、我が一族が生まれたのです」
ラーニヤは口をつぐみ、ヴェルギルの反応を待った。
「続けてくれ」
「しかし、魔神が求めるものはあまりにも……壮大であったために、成し遂げるのは不可能でした。魔神との約束を結んだまま、力は子から子へと伝えられてゆきましたが、それももう終わりに近づいています」
妖魅神仙と契約を結ぶことがどれ程の危険を伴うのか、ヴェルギルは身をもって知っている。大きな見返りを得る契約であればあるほど、予想だにしない結果が待っているのだ。
「我々が探している男は、本来受け継ぐはずではなかった魔神の力を受け継ぎ、行方をくらましました。部族の結界の外であの力を使えば、力はすぐさま彼を蝕み、やがて腐ってゆくでしょう」
神との契約を果たせぬまま先延ばしにすればするほど、力は腐る。力が腐れば、それはやがて──。
「〈呪い〉が生まれようとしているのです」ラーニヤは言った。
水を打ったように静まりかえっていた王座の間が、ざわめきに包まれる。
ヴェルギルがそっと片手を挙げると、皆は再び口をつぐんだ。
契約と引き換えに神からもたらされた力が、完全に腐り果てたときに生まれるのが〈呪い〉だ。それが解き放たれたが最後、この世の終わりまで休むことなく破壊と殺戮を繰り返すと言われている。
二年前の春、クヴァルドはヴェルギルとともに、〈呪い〉に堕ちかけた息子エダルトを滅ぼした。確かに、これはナドカと人間の別を問わぬ災いだ。
ヴェルギルは身を乗り出して尋ねた。「そのものの名は?」
黒い霞のような装束の中で、ラーニヤがわずかに震えたように見えた。彼女はほんの一瞬だけ自分の足下に視線を落とすと、再び、強い眼差しをヴェルギルに向けた。
「マタル・ナーシル・アミード=サーリヤ」ラーニヤは言った。「わたしの弟です」
ラーニヤの陳情は、そのまま王の執務室に持ち込まれた。議会を構成する臣下の中でも、特に信の篤い枢密院の者だけを集めた会議が、急遽開かれた。
「魔女たちは、砂漠の民としては光神の教義に従いながら、ナドカとしては月女神に忠誠を捧げています」
アシュモールに光神の信仰を広めたのはスィラジュという名の巫部だ。彼はカルタニアの万神宮で陽神に仕えていたが、権力によってねじ曲げられる信仰のありかたに失望し、自らそこを去った。ところが、失意のなか故郷への道を旅していた彼の前に、〈光りし神〉が現れる。かれはスィラジュに、真の信仰をアシュモールにもたらすよう告げた。それこそが光神──陽神がアシュモールで得た、もう一つの名だと言われている。
同じ神に、土地によって異なる名前が与えられるのはめずらしいことではない。やがて新しい土地での信仰が確立され、人々の心に確固たる信仰心が芽生えたとき、そこに新たな神が生まれる。ヴェルギルの認識の及ぶ限りでは、神というものはそのようにして分かれ身や、兄弟や、子孫を増やしてゆくのだ。
ラーニヤは会議の席にゆったりと腰掛け、部屋のすべてのものたちの注目を受けながら、飾面越しに全員の顔を見渡した。
「魔女たちの中でも我々サーリヤ族だけは、一族が得た力の源である魔神の力を用います。一族の内のただ一人にだけ宿る魔神との契約の印は、魔力を持った文身として身体に刻まれる。そして、その者はマジュヌーンとなり、魔術の担い手としての地位を引き継ぐのです」
「マジュヌーン?」
「魔神憑き、という意味です」ラーニヤは言った。
先代の命が尽きかけていることが明らかになったとき、次の魔神憑きがラーニヤであることを疑う者はいなかった。
「わたし自身、そう確信していました」
ラーニヤは臆面もなく言った。謙遜は、彼女の国の美徳ではないようだ。
「一族に生まれた男児は十五の歳に追放されますが、マタルには魔法の素質があったので、特別に修行を許されていました。とは言え、当時弟は十二歳で、未熟でした。あと三年の内に魔法を制御できなければ、舌を切り落とされることになっていました」
枢密院の何人かがうわずった笑い声を上げた。が、冗談ではないのだと理解すると、深刻な面持ちで口を閉ざした。
「ご容赦を。サーリヤ族の女は冗談が苦手です」ラーニヤは静かに言った。
「そのようだ」ヴェルギルが言った。「誰もがあなたの継承を疑わなかった。ところが、魔神は弟君を選んだのだな」
ヴェルギルの言葉に、ラーニヤは頷いた。そして、彼女は語った。
ある夜のこと。一族に見守られながら、天幕の中でラーニヤの祖母──先代の魔神憑きが息を引き取った。転移はすぐに始まった。何かがおかしいと思った次の瞬間には、マタルが地面に突っ伏し、文身と共に魔神が身に宿るときの、肌を焼き焦がすような激痛にのたうち回っていたという。
「我々には見えない誰かに向かって、『そうです、そうです』と、弟は叫んでいました」
「つまり、魔神に、ということですか?」ロドリックが恐る恐る尋ねた。
「はい」ラーニヤは頷いた。「それは、魔神相手には決して口にしてはいけない言葉でした。彼らの言いなりになるようなことは、絶対に言ってはならないのです。わたしは祖母からきつく言い渡されていたけれど、弟は……期待されていなかった。そんなことは知るよしもありませんでした」
「何が『そう』なのです」クヴァルドが身を乗り出した。
「継承の瞬間、魔神は新たな魔神憑きに尋ねます。『我が望みを遂げるのは汝か?』と」ラーニヤは小さく息をついた。「継承者はそれに『あなたの望みは、我らの血の者がいつか遂げる』と返事をしなければならなかったのです。初代のマナールがそうしたように。我々は彼女のやり方を受け継ぐことで、魔神から特別な力を得ていました。しかし、マタルは返事をしてしまった──彼自身が果たすと、約束してしまったのです」
ラーニヤの目元には、苦悩が表れていた。
「弟が一族の元を抜け出したのは、それから数ヶ月経った頃でした」
「なぜ、彼がダイラにいるとわかる?」ヴェルギルが尋ねた。
「感じます」ラーニヤが言った。「わたしは遠見をする魔女なのです。一族の結界による守りから遠く離れた地で、弟は魔神の力を濫用している。そのせいで、彼の中にある力が急速に腐り始めている──わたしには、それが感じられるのです。さもなくば、居場所を見つけることは出来なかったでしょう」
飾面の奥の瞳が伏せられた。「皮肉……こちらではそういう言葉を使うのでしたね。まさに皮肉です」
ラーニヤが立ち上がったとき、彼女の目元にあった苦悩は、強さに取って代わられていた。
「一刻も早く、マタルを魔神から解放しなければなりません。別の魔女の身のうちに魔神を閉じ込めれば、契約は元通りになります」
「一子相伝の呪い、とあなたはおっしゃった」クヴァルドが言った。「そのためには、弟を殺す必要があるのでは?」
クヴァルドの目が、ほんの一瞬ヴェルギルを見る。常ならざるものとの約束に大きな犠牲が伴うことを、二人は身を以て理解しているのだ。
ラーニヤは深く、きっぱりとうなずいた。「そのとおりです」
会議の卓を囲むものたちの間から、低いざわめきがおこった。
「一つ尋ねたい」ヴェルギルが声を上げた。「魔神の約束とは? それを果たすことは不可能なのか?」
「はい」
「本当に?」ヴェルギルは身を乗り出した。「試してみたというのか?」
「それは……何人にも遂げられないでしょう」
「是非とも知りたいのだ、サーリヤ殿」ヴェルギルは言った。
ラーニヤの肩が強ばり、彼女が装束の内側で拳を握ったのがわかった。
「魔神が望むのは」彼女は言った。「陽神への復讐なのです」
威光を見せつけるために臣下をずらりと並べた謁見の間で主君を演じる様子を、いつもどこか遠くから冷静な目で見ている自分がいる。偉ぶる王に追従するためだけに温かい寝床を後にしなければならない臣下たちの気持ちは、ヴェルギルもよくわかっているつもりだった。
だが、今朝は様子が違った。玉座の間には、触れれば怪我をするほどにぴんと張り詰めた緊張感が漲っていた。いつもは、『それが責務だから』というだけでこの場にやって来る者たちですら、目の前の異邦人を食い入るように見つめている。
「ラーニヤ・ハフサ=サーリヤ殿!」
ロドリックが呼ばうと、彼女は王座の前に敷かれた深緑の絨毯の上をやって来た。両手、両脚に幾重にも重ねづけされた糸のように細い金輪が、歩く度にシャラシャラと音を立て、緊張感に満ちた静寂を支配する。
寝込みを襲うとは感心しない、という冗談が通じる相手ではなさそうだとヴェルギルは思った。
彼女はそこに居るだけで、この場の空気を一変させていた。
黒い飾面にも、身体の輪郭を覆い隠すトーブにも、荘厳な獅子の金刺繍が施されている。薄手のシルクを幾重にも重ねた装束の合間から見えるのは、意志の強さを物語る目元と、ほっそりとした四肢の先だけだ。それでも、彼女が強い魔力を持った魔女であることはわかる。
アシュモールの魔女が、このエイルにやって来るとは。
ラーニヤという名の魔女は、ヴェルギルの前まで来ると優雅に片膝をついた。ふわりとたなびくシルクから、濃厚な薔薇の香りが漂う。
「慈悲深き海の光たる国王陛下。再びの御即位、お慶び申し上げます」
ラーニヤの声は低く落ち着いていて、リュートの最も太い弦を思わせる。アシュモールの魔女は言葉とその響きを操る。彼女は強力な魔力に相応しい、優れた技能を持っているらしい。
「温かい言葉、痛み入る」ヴェルギルは言った。
さて、名高きサーリヤ族の巫女が携えてきたのは、どんな厄介ごとか。
「助けを求めて来られたと聞いている。産声を上げたばかりの我が国は、どのようにして手を差し伸べることができるだろうか」
あまり過度な期待するなという意図が伝わったのか、飾面から覗く目元に理解の光が宿った。
「単刀直入に申します、陛下」ラーニヤはよく通る声で言った。「我々サーリヤ族の魔女は、ある男を探しております。彼は我々の部族の宝を盗み、国外へと逐電しました」
「その者がエイルにいると?」
「いいえ。わたしの占によりますれば、彼はダイラに潜伏しております」
ヴェルギルは目を眇めた。
「ならば何故、エイルに助けを求める?」
「何故なら」その視線を、ラーニヤは真っ向から受け止めた。「人間や、並のナドカでは彼を捕らえることが出来ぬからです。そして……御身は並外れたナドカであり、我らの朋でもある。他ならぬ貴方が、千年前に我らと同盟を結ばれました。シルリク・エイラ・ルウェリン陛下」
その名で呼ばれて、朽ちて砂になってしまったと思っていた記憶が蘇る。
ああ。確かにそうだ。
千年前、このエイルが人間ばかりの国であったときのこと。ヴェルギルは当時の王として、〈まつろわぬ神〉──すなわち異端としてカルタニアから追放された月神の巫女を保護した。しかし、それを理由に陽神派から侵略を受ける危険性があった。戦を防ぐため、ヴェルギルはいくつかの策を講じた。そのひとつが、月神を信仰する国や部族との同盟だ。当時アシュモールで月神を信仰していた彼女たちの部族と結んだ盟約は……確かに、破られてはいない。
「そして貴方の御子が、我々に真の月の力を授けてくださった」ラーニヤは静かに付け加えた。「その縁に、望みをかけているのです。これは我が一族だけの問題ではありません。放っておけば、ナドカと人間の別を問わぬ災いとなります」
ヴェルギルは、小さく頷いて先を促した。「では、聞こう」
ラーニヤは辞儀をして、語りはじめた。
「およそ八百年前、マナールという名の巫女が、滅びた都に封じられた魔神と出会いました。魔神は彼女に『この封印を解けば、ある約束と引き換えに冥府の門をこじ開ける力を与えよう』と持ちかけました。マナールはその提案を受け入れ……そして、アシュモールの魔女の中で最も強大な、我が一族が生まれたのです」
ラーニヤは口をつぐみ、ヴェルギルの反応を待った。
「続けてくれ」
「しかし、魔神が求めるものはあまりにも……壮大であったために、成し遂げるのは不可能でした。魔神との約束を結んだまま、力は子から子へと伝えられてゆきましたが、それももう終わりに近づいています」
妖魅神仙と契約を結ぶことがどれ程の危険を伴うのか、ヴェルギルは身をもって知っている。大きな見返りを得る契約であればあるほど、予想だにしない結果が待っているのだ。
「我々が探している男は、本来受け継ぐはずではなかった魔神の力を受け継ぎ、行方をくらましました。部族の結界の外であの力を使えば、力はすぐさま彼を蝕み、やがて腐ってゆくでしょう」
神との契約を果たせぬまま先延ばしにすればするほど、力は腐る。力が腐れば、それはやがて──。
「〈呪い〉が生まれようとしているのです」ラーニヤは言った。
水を打ったように静まりかえっていた王座の間が、ざわめきに包まれる。
ヴェルギルがそっと片手を挙げると、皆は再び口をつぐんだ。
契約と引き換えに神からもたらされた力が、完全に腐り果てたときに生まれるのが〈呪い〉だ。それが解き放たれたが最後、この世の終わりまで休むことなく破壊と殺戮を繰り返すと言われている。
二年前の春、クヴァルドはヴェルギルとともに、〈呪い〉に堕ちかけた息子エダルトを滅ぼした。確かに、これはナドカと人間の別を問わぬ災いだ。
ヴェルギルは身を乗り出して尋ねた。「そのものの名は?」
黒い霞のような装束の中で、ラーニヤがわずかに震えたように見えた。彼女はほんの一瞬だけ自分の足下に視線を落とすと、再び、強い眼差しをヴェルギルに向けた。
「マタル・ナーシル・アミード=サーリヤ」ラーニヤは言った。「わたしの弟です」
ラーニヤの陳情は、そのまま王の執務室に持ち込まれた。議会を構成する臣下の中でも、特に信の篤い枢密院の者だけを集めた会議が、急遽開かれた。
「魔女たちは、砂漠の民としては光神の教義に従いながら、ナドカとしては月女神に忠誠を捧げています」
アシュモールに光神の信仰を広めたのはスィラジュという名の巫部だ。彼はカルタニアの万神宮で陽神に仕えていたが、権力によってねじ曲げられる信仰のありかたに失望し、自らそこを去った。ところが、失意のなか故郷への道を旅していた彼の前に、〈光りし神〉が現れる。かれはスィラジュに、真の信仰をアシュモールにもたらすよう告げた。それこそが光神──陽神がアシュモールで得た、もう一つの名だと言われている。
同じ神に、土地によって異なる名前が与えられるのはめずらしいことではない。やがて新しい土地での信仰が確立され、人々の心に確固たる信仰心が芽生えたとき、そこに新たな神が生まれる。ヴェルギルの認識の及ぶ限りでは、神というものはそのようにして分かれ身や、兄弟や、子孫を増やしてゆくのだ。
ラーニヤは会議の席にゆったりと腰掛け、部屋のすべてのものたちの注目を受けながら、飾面越しに全員の顔を見渡した。
「魔女たちの中でも我々サーリヤ族だけは、一族が得た力の源である魔神の力を用います。一族の内のただ一人にだけ宿る魔神との契約の印は、魔力を持った文身として身体に刻まれる。そして、その者はマジュヌーンとなり、魔術の担い手としての地位を引き継ぐのです」
「マジュヌーン?」
「魔神憑き、という意味です」ラーニヤは言った。
先代の命が尽きかけていることが明らかになったとき、次の魔神憑きがラーニヤであることを疑う者はいなかった。
「わたし自身、そう確信していました」
ラーニヤは臆面もなく言った。謙遜は、彼女の国の美徳ではないようだ。
「一族に生まれた男児は十五の歳に追放されますが、マタルには魔法の素質があったので、特別に修行を許されていました。とは言え、当時弟は十二歳で、未熟でした。あと三年の内に魔法を制御できなければ、舌を切り落とされることになっていました」
枢密院の何人かがうわずった笑い声を上げた。が、冗談ではないのだと理解すると、深刻な面持ちで口を閉ざした。
「ご容赦を。サーリヤ族の女は冗談が苦手です」ラーニヤは静かに言った。
「そのようだ」ヴェルギルが言った。「誰もがあなたの継承を疑わなかった。ところが、魔神は弟君を選んだのだな」
ヴェルギルの言葉に、ラーニヤは頷いた。そして、彼女は語った。
ある夜のこと。一族に見守られながら、天幕の中でラーニヤの祖母──先代の魔神憑きが息を引き取った。転移はすぐに始まった。何かがおかしいと思った次の瞬間には、マタルが地面に突っ伏し、文身と共に魔神が身に宿るときの、肌を焼き焦がすような激痛にのたうち回っていたという。
「我々には見えない誰かに向かって、『そうです、そうです』と、弟は叫んでいました」
「つまり、魔神に、ということですか?」ロドリックが恐る恐る尋ねた。
「はい」ラーニヤは頷いた。「それは、魔神相手には決して口にしてはいけない言葉でした。彼らの言いなりになるようなことは、絶対に言ってはならないのです。わたしは祖母からきつく言い渡されていたけれど、弟は……期待されていなかった。そんなことは知るよしもありませんでした」
「何が『そう』なのです」クヴァルドが身を乗り出した。
「継承の瞬間、魔神は新たな魔神憑きに尋ねます。『我が望みを遂げるのは汝か?』と」ラーニヤは小さく息をついた。「継承者はそれに『あなたの望みは、我らの血の者がいつか遂げる』と返事をしなければならなかったのです。初代のマナールがそうしたように。我々は彼女のやり方を受け継ぐことで、魔神から特別な力を得ていました。しかし、マタルは返事をしてしまった──彼自身が果たすと、約束してしまったのです」
ラーニヤの目元には、苦悩が表れていた。
「弟が一族の元を抜け出したのは、それから数ヶ月経った頃でした」
「なぜ、彼がダイラにいるとわかる?」ヴェルギルが尋ねた。
「感じます」ラーニヤが言った。「わたしは遠見をする魔女なのです。一族の結界による守りから遠く離れた地で、弟は魔神の力を濫用している。そのせいで、彼の中にある力が急速に腐り始めている──わたしには、それが感じられるのです。さもなくば、居場所を見つけることは出来なかったでしょう」
飾面の奥の瞳が伏せられた。「皮肉……こちらではそういう言葉を使うのでしたね。まさに皮肉です」
ラーニヤが立ち上がったとき、彼女の目元にあった苦悩は、強さに取って代わられていた。
「一刻も早く、マタルを魔神から解放しなければなりません。別の魔女の身のうちに魔神を閉じ込めれば、契約は元通りになります」
「一子相伝の呪い、とあなたはおっしゃった」クヴァルドが言った。「そのためには、弟を殺す必要があるのでは?」
クヴァルドの目が、ほんの一瞬ヴェルギルを見る。常ならざるものとの約束に大きな犠牲が伴うことを、二人は身を以て理解しているのだ。
ラーニヤは深く、きっぱりとうなずいた。「そのとおりです」
会議の卓を囲むものたちの間から、低いざわめきがおこった。
「一つ尋ねたい」ヴェルギルが声を上げた。「魔神の約束とは? それを果たすことは不可能なのか?」
「はい」
「本当に?」ヴェルギルは身を乗り出した。「試してみたというのか?」
「それは……何人にも遂げられないでしょう」
「是非とも知りたいのだ、サーリヤ殿」ヴェルギルは言った。
ラーニヤの肩が強ばり、彼女が装束の内側で拳を握ったのがわかった。
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