恋するクロネコ🐾

秋野 林檎 

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ピリオドが打たれたページ。

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松宮家は…大きかった。

「家じゃなくて…城だね。」と言った真一のそばで、花音が眼を丸くし、そして口をポカンと開けたまま固まっていた。そんな花音の頭を「口が開いたまま…おまけにヨダレが出てるぞ。」と言ってコツンと叩く真一。

その様子が可笑しくて、俺の緊張感は解れていった。
ぐるりと見渡した応接間の調度品は、きっと俺が思っている値段より桁がひとつ、いやふたつ違うだろう。
あぁ、そうだった…初めて、松宮さんと会ったときを思い出した、オーダーメードのスーツに身を包み、カルティェの腕時計をした松宮さんを見て、自分との生活レベルの差に、この人は違う世界の人だ…こんな人だから、母さんは見下され捨てられたと思ったんだった。

俺は過去に縛られていた。それも俺の知らない過去に…。

調査書を読んできて良かったな…そう思った。
怒りと言う感情だけで、ここに来ていたら、俺の言葉は剣になって松宮さんだけじゃない、奥さんも理香を傷つけていただろうと思う。

曇りのない目で、松宮さんを見よう。そして前を向こう。
無理な背伸びはしない。自分ひとりではどうにもならないことなら、見栄を張らずに素直に助けを求めよう。

その恩恵も未成年の間だけだ。大いに利用させて貰うんだ。その後は、俺たちの後ろに続く子供らに、恩恵で受けた知恵を使い、助けてやって、カッコ良く生きるんだ…そうだよなぁ、真一。

そう思って真一を見たら、真一は何か感じたのか、俺に視線を向けて…にやりと笑った。俺も負けずに…にやりと笑ってやった。



コンコンとノックの後、松宮さんそして青い顔の奥さんが、理香に支えらえながら入って来られた。

俺は立ち上がり頭を下げ
「この度はご迷惑をおかけして申し訳有りません。」

その言葉に松宮さんが
「妻にも娘にも、そして私にも君が頭を下げる必要はない。下げるべきなのは私だ。」

「翔太…。頭なんか下げないで、翔太は悪くない。」

そう言って、理香は母親を見て
「それはママもわかってるわ。ただ…戸惑っているの。」

奥さんはほんの少し頷かれ、涙を零され
「結婚前の出来事だと、理解しているのに…心がなかなか…ごめんなさい。うまく言えないわ。でも、本当に翔太君を責める気はないの。お願い頭を上げて…。」

でも俺は頭を上げることは出来なかった。

「妻にも娘にも、そして君にも責められるべきなのは私だ。父親として何にもしなかった私にどうか償わせてくれ。」そう言って、「すまなかった。」と頭を下げられた。

「いいえ、松宮さんが俺の存在を知ったのは一年前だったのに…すみません、誤解していました。俺は2歳まで、母とふたりだったので、父親がどこかにいると子供心にもわかっていました。それが頭にあったせいで、父親があなただと知った時、母のあかぎれの手を…仕事で疲れ2歳だった俺より先にウトウトする顔を…思い出し、そんな母さんの苦労を作った人が、あなただと知って怒りをぶつけてしまい…すみません。」

松宮さんの手が俺の肩に置かれ、ハッとして顔を上げると、松宮さんが辛そうに目を細め
「松宮の両親がミネを追い詰めていたことを秋月さんから聞いた。そんなひどい目に遭っていたのに私は気づかず、それどころか祐樹とミネの仲を疑い、ふたりの前から去ったんだ。そんな私をミネも祐樹も、憎んでいたんだろうね…だから君の存在を知らせては…」

「松宮さん、それは違います!」
大きな声を上げ、俺は松宮さんの言葉を遮った。

「父さんも母さんも、あなたを憎んでいたなんて思えません。…言ったでしょう…大学に入って間もない頃の写真の話を…。松宮さんが写っている写真を両親が持っていたのは、それは父さんにとっても、母さんにとっても、松宮さんは楽しい日々と、ほんの少し苦い日々を一緒に過ごした、大切な友人だったから、あの写真を持っていたんだと思います。」

黙って俺を見る松宮さんに、理香が「…パパ?」と呼んだ。

松宮さんは目を細め
「君は…優しいね。きっと祐樹とミネからたくさんの愛を貰って育ったんだろうな。なんだかわかった気がした。祐樹やミネにとって、実の父親が誰だとか問題じゃなかったんだ。いや、そんなことさえも忘れていたんだろう。だから、私に知らせるということなんて、頭にはなかったんだと思う。ただ君が愛おしいという思いだけだったんだ。

…なら…尚更

君をもうひとりにさせたくない。松宮の家に来てくれ。祐樹もミネもそして秋月さんも、君が私のところ来れば安心のはずだ。だから、うち来て欲しい。今度こそ君を守る。」

俺は苦しそうに揺れる瞳を見つめ、頭を横に振り
「…留学を考えてます。」

「まさか…自分の存在が邪魔になると思っているからか?だから日本を出ると?」

「俺の存在は松宮家にとって邪魔でしかないのは事実だと思います。でもそんな理由で留学を考えている訳ではありません。自分の将来の為です。だから、松宮家に行くお話は…すみません、お断りします。」

「だが!…」

「俺の人生なんです…。俺が切り開いて道を作って行きたいんです。敷かれたレールの上は走りたくはありません。」

憎む気持ちで見ていた目ではわからなかったことが、今ならよくわかる…松宮さんはこの人なりに、俺を大切にしたいと思ってくれているんだ。

「松宮さん。もし…出来るのなら…後見人になって頂けませんか?
未成年の俺では、どうにもならないことがあった時、道をまちがえないように、先を照らす人になってくれませんか?人生の先輩として、両親の友人として、俺が大人になるのを見守って頂けませんか?…それではダメでしょうか?」

松宮さんはしばらく俺を黙って見ていたが、
「…あの頃の私達三人より…しっかりしているな。」

そう言って、口元に微かに笑みを浮かべると、ゆっくりと目を瞑り

「祐樹とミネのふたりに、君があの頃の私達よりしっかりしていると言ったら、
きっとふたり共ムッとした顔で、私や君を見ていたかも…。ひょっとしたら、ミネの口癖の【ありえな~い】を叫んでいたかもしれない。いつも、そうだったんだ。あのふたりはどこか子供のように純粋で、無邪気で…あの純粋さがうらやましかった。

上に行く者は感情が顔に出してはいけないと、育てられた私は、まだ10代だったのに、松宮家の家風にどっぷりつかり、鉄仮面のように感情が出せなくなっていたんだ。でも祐樹とミネの前では…年相応になれた。」

「松宮さん…」

「楽しかった…。でも二人とは、もう…会えないんだな。」

そう言って、俺を見つめ
「心残りだったろうな。君を残して行くのは…どんなに…。
だからふたりの代わりに、君が大人になって行くところを、幸せになって行くところを手伝いたいと思っていた。だが、見守ってやる事が私の務めなんだろうね。

でも…

約束して欲しい。ひとりではどうにもならない時は、必ず私の手を掴んでくれ。君は祐樹とミネの子供で、私の…子供なんだから必ずだ。」

「…はい。」

「後見人を喜んで引き受けさせてもらうよ…翔太君。」


俺は頭を下げた。松宮さんの微笑みが優しすぎて…泣きそうだったから

「ありがとうございます。」と震える声を抑え、俺は頭を下げ続けた。

そんな俺に松宮さんが声を震わせながら
「…ようやく私の青春と言う章に、ピリオドが打つことができ、次のページに行けそうだよ。ありがとう。」


俺はやっぱり頭を上げられなかった…。そんな俺の手に、花音の手が重なった。


俺も…次の章に行こう。
父さんと母さんそして松宮さんの青春というページの続きを描いて行こう。
出来れば、この右手にある花音と一緒に描いて行きたい。

思いを込めて、花音の重なる手を強く握り締めた。


****


私たち三人は、松宮家からおいとますると、誰一人声をあげることなく歩いていたが、突然お兄ちゃんが声を発した。

「翔太。俺も…後から行く。だから先に大人になるなよ。待っていろ。」


私たちの周りが動いていく。
それはまるで、岸から沖の方へ向かって一方的に流れる、速い潮の流れのようだと思った。

その流れはもう止められないのだろう。
これが、大人になっていく為の流れなのだろうか。

お兄ちゃんの言葉に、笑った翔兄のその顔が、流されないように潮の流れを見る目を養い、そして泳ぎきると言っているように見えた。

一気に前へと歩みを速めた翔兄。

寂しい…どんどん心の距離も離れていくようだ。
切ない思いで、翔兄を見た。この思いはどこに持っていったらいいのだろうか…。



この日、三人は時の流れを肌で感じ、前に進むしかないと心が感じていた。

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